Home > 小説『神々の黄昏』 > 挿話:遙かなる憧憬 > Act.10
心霊麻酔のためにいまだ意識の戻らないセテのベッドの脇に椅子を持ってきて、レトはずっと彼の手を握ってやっていた。癒しの術法のおかげで後頭部の傷はも う完全に癒えており、あとは目が覚めるのを待つばかりであった。それまで、レトはずっとセテのすばについていてやりたかった。
時折苦しそうに顔を歪ませるほかは、セテは規則正しく呼吸をしており、問題なさそうだ。よかった。レトは顔にかかるセテの前髪を掻き上げてやりながら、ため息をついた。
「ホント……バカだよ、お前は」
セテの手を握りながらレトはつぶやいた。
「あんな状況だったのに、俺をかばうなんてさ」
あのときセテがレトを突き飛ばし、かばってくれなければ、いまここで横たわっていたのは自分だった。打ち所が悪ければ死んでいたかも知れないのだ。
「お前に絶縁状を叩きつけた俺をかばうなんて、ホント、お前どうかしてるよ」
つぶやくなり、ぽろぽろと涙があふれてきたので、レトは病室に誰もいないにもかかわらず、下を向いてこっそりと涙をぬぐった。
言葉を覚えたばかりのオウムのようにレオンハルトのことばかり話すセテが、レトにとってはとても腹立たしかった。この少年はレオンハルトのことを話すと き、いつも幸せそうな顔をしていた。さきほどの危険な状況においてまであの聖騎士の話を出すなんて。正気を疑ってしまうと本気で思った。
どうしようもなく忌々しかった。この金髪の少年が、どれだけレオンハルトに恋いこがれているかくらい分かっていた。だから、思い切りそれをぶちこわしてやりたくなったのだ。
だが、腹立ち紛れにふっと口をついて出てしまったひとことに、セテがあんなに悲しそうな顔をするなんて思ってもみなかった。セテが名を呼んでもそれを無視 して去ろうとした自分。それなのに、セテは後先も考えずに飛び出してきて……。あげくに身代わりになってケガをするなんて。
「ありがとな。お前のおかげで助かった。ごめんな。ホントに……」
ぴくりと握っていたセテの手が動いたので、レトはあわてて言葉を飲み込む。そして眠っているセテの顔を覗き込んでみた。うっすらと開く青い目がしばらく焦点を結べずにいたが、やがてレトの顔を確認できたのか、ぼんやりと自分を覗き込むレトの顔を見つめた。
「セテ……! よかった! 気がついたな!」
レトは意識の戻ったセテを思わず抱きしめる。傷口を洗ったときの石けんの香りが髪に染みついているのか、セテの柔らかい金髪からほのかにいい匂いが漂ってくる。
「どっか痛いところねえか? いま看護人を呼んでくるから」
必要以上にセテに気をかけてやるいつものレトがそこにいた。いまだぼんやりとしているセテの手を離し、立ち上がろうとしたそのとき。
「……な……よ……」
「なに?」
セテがなにかつぶやくが、よく聞こえないのでレトはその口元に耳を傾けた。
「行くなよ、レト……」
今度ははっきりと、セテがそう言うのが聞こえた。
「行くなよ。俺の前からいなくなるなよ、レト。頼むから……」
セテの瞳からみるみる涙があふれてくるのに気づいて、レトはたいそう驚かされた。セテはレトの手を固く握ったまま離さない。こんなときにそんなことを気に しているなんて。レトは自分のひとことがセテを深く傷つけたことを悔やんだ。あの勝ち気な少年が、子どもみたいに泣いてすがってくるなんて信じられなかっ た。
「俺、ホントにバカだし、言ってることわけわかんないかも知れないけど、頼むから俺をひとりにするなよ。頼む……」
「バカ野郎……!」
レトはまたセテを強く抱きしめた。自分の目からもまた涙があふれてきたのを隠すように、セテの柔らかい金髪に顔を埋める。
「なに言ってやがる! 親友で命の恩人のお前をほったらかしてどっか行くわけねーだろ!」
それからレトはまたセテの前髪を掻き上げてやり、ぼろぼろ涙をこぼすその頬をぬぐってやる。
「セテ、本当にごめん。俺も悪かった。お前が助けてくれなければいまごろどうなってたか。ホントに……ありがとう」
「そんなのいいよ。その代わり、頼むから約束してくれ、レト。絶対、俺の側からいなくなるなよ。俺をひとりにするなよ」
セテがまだ動きのぎこちない腕をそっと回して、レトの背中を抱きしめた。声を殺して泣くセテを抱きしめ、レトは頷いた。
「約束する。お前が俺をかばってくれたように、今度は俺が絶対にお前を守ってやる。お前が嫌だって言っても、一生守ってやるから」
アジェンタス騎士団領の復興は、思いのほか早かった。崩れた建物は住民たちの協力により、すぐに立て直された。学校はしばらくプレハブでの授業が続いたが、一年後、セテたちが卒業する年には完全に新しい校舎ができあがっていた。
そして同じ頃、アートハルク帝国が瓦解し、戦争は終わった。ダフニスと、レオンハルトの死とともに。
「聖騎士の面汚し」「王殺し」──。当時、アートハルク戦争が終結した直後、新聞社各紙が一面で取り上げたときの見出しであった。レオンハルトの罪を弾劾したものだ。
騎士団長が政権を握るアジェンタス騎士団領は例外だが、王を守り、国を守護するために留まる剣士は「守護剣士」と呼ばれており、執政面でも深く関わりを持つ。優秀な剣士、とくに聖騎士が守護剣士として王に仕えることがほとんどである。なお、各国に必ず騎士団が存在するが、彼らは主に軍事面で活躍するのみで、政治に関与することはない。
守護剣士となった聖騎士などの剣士は、王に絶対的な忠誠を誓う。「私の剣と命、魂を、あなたとこの国に捧げることをここに誓う」。守護剣士がその任を命じられる際に行われる儀式において言う誓いの言葉だ。王や摂政、その後見人たちの前で所定の文書に署名をし、自らの剣で傷つけた指で血印を押して誓うのだ。それゆえに、守護剣士は命に代えても王と国を守り、そして中央諸世界連合の平和と利益に貢献しなければならない。
そうして宣誓した守護剣士である聖騎士レオンハルトは、確かにアートハルク皇帝ダフニスを守り、帝国を守っていた。しかし、一年も続いたアートハルク戦争の勃発において、彼は重大な罪を犯したのだ。
中央諸世界連合に反旗を翻す侵略戦争を止めもせずに容認したこと。聖騎士団の一員でありながら、中央諸世界連合憲章に大きく違反する侵略を起こしたことは、守護剣士でなくても中央諸世界連合評議会において、厳しく罰せられる重大な犯罪行為だ。例え、数々の小競り合いで、その先陣にレオンハルトが立っていたという目撃証言がまったくなかったにしろ、彼が戦争を容認してしまったという罪は消えない。
そしてもうひとつ。アートハルク戦争が終結した理由にあった。
アートハルク戦争勃発後、レオンハルトはアートハルクにおいて、銀嶺王ダフニスに対抗できる力を持つ別組織を用意していたという調査報告が、のちに「中央特使」と呼ばれることとなる、次期中央特務執行庁長官ラファエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム将軍が組織した実行部隊によってなされていた。これの意味するところはただひとつ。「皇帝に対する謀反」である。
そしてその別組織の力を借りたレオンハルトは、アートハルクで反乱を起こし、城を占拠。皇帝ダフニスを殺害し、自らも命を絶ったか、その際に返り討ちにあったと報告されている。
王を守るはずの聖騎士が謀反を起こし、主を殺した。「聖騎士の面汚し」「王殺し」と評されても反論の余地はない。守護剣士にとって主である王を殺すことは、どんな犯罪よりも重大な罪であったのだ。
ダフニスの死とアートハルク城の崩壊により、指揮系統を失ったアートハルク帝国軍は撤退を始めた。そして間髪入れずにワルトハイム将軍の指揮する騎士団によって追い打ちをかけられ、完膚無きまでにたたきのめされることとなる。国土は荒廃し、主力部隊を除いて逃げるように四散せざるを得なくなった帝国軍は、即刻武装解除させられ、こうして一年にも及んだアートハルク戦争は幕を閉じたのだった。
ダフニスの狂態、レオンハルトの死、行方の分からない「神の黙示録第三章」など、多くの謎を残したまま──。
セテは、ロクラン王国の王立中央騎士大学に奨学生として進学することが決まっていた。母ひとり子ひとりの生活では、ふつうはロクランへの上京ばかりか、大学進学でさえ無理であるはずなのに、どうしても剣士になりたかったセテは努力して奨学金を勝ち取ることで、その道を切り開いてみせたのだった。
だが、正直言えば本当はどうでもよかった。心の支えであったレオンハルトが死んだ。自分にとって唯一絶対の存在であった憧れの聖騎士がこの世にいないということは、セテにたいへんな衝撃をもたらしたのだった。
新聞記事はいまだにアートハルク戦争の多くの謎について、憶測だけを書き立てては騒いでいる。レオンハルトへの厳しい批判が相次いで掲載されたときには、セテはよくやけを起こして町中で喧嘩騒ぎを起こして帰ってきた。そうかと思えば、レトの部屋に入り浸って、未成年のくせに浴びるほどの酒を飲んで酔っぱらい、くどくどとレオンハルトのことを語っては泣いたりと、たいそうな落ち込みぶりを発揮したものだった。
アジェンタスの建国祭を控えた安息日の今日、セテはまたおもしろおかしくアートハルク戦争を特集した雑誌を買ってきて、ため息をつきながら流し読みをしていた。銀嶺王ダフニスは本当は女だったとか、残虐だった父王サーディックの慰み者にされて逆上しただの、そんなときに聖騎士レオンハルトと出会って世界を滅ぼす決心をしただの、読んでいても呆れるほどの内容だ。もう出版社に抗議の投書をする気にもなれないようなばかばかしい雑誌だった。そんなとき。
「セテ? いるの? いたら返事をなさい」
廊下から母親の呼ぶ声がしたので、セテは渋々返事をし、部屋を出る。戸口が開いており、母親は驚いたようなうれしそうな表情でセテがくるのをいまかいまかと待ちかまえている。
「お客さんよ。誰だと思う?」
母親はうれしそうにセテに手を差しのべ、その腕を引いて戸口まで走らせる。セテはめんどくさそうに前髪を掻き上げながら戸口に目をやると、そこに立つ大きな人影に思わず目を見張った。
「……元気そうね。少年」
あのよく通る声にセテは全身が硬直し、そして自然と目に涙があふれてきた。
勢いよく刈りあげた金髪は、いまでは耳の辺りまで伸びていて、正直言えば誰だか分からなかったかも知れない。だが、えんじのチュニックにパンツをはいた大柄な姿は、紛れもなくあの破天荒な聖騎士ジョカであった。
「ジョカ……! 生きて……」
ジョカはセテの顔を見つめながらうれしそうに微笑んだ。その次の瞬間に、セテは大柄な女剣士に抱きついていた。あまりのことに驚く母親を気にすることもなく、セテはジョカに抱きついたまま、声を殺して泣いた。だがそのとき、セテは彼女の背中に回した腕がある違和感を伝えたのに気がつく。
彼女のチュニックの右袖は、ゆらゆらと風に揺られるままになびいている。そこでやっとその違和感がなんだったのか気づいた。ジョカには右腕がないのだ。
驚いてセテはジョカの顔を見上げるが、彼女はセテに目でそれを口にするのを抑制した。
「外で……話そうよ。キミにはいろいろ話したいことがあるんだ」
髪の伸びたジョカは、なんだか別人のようだった。一年前、見事に刈りあげたその金髪は彼女をたいへん男勝りに見せていた。実際に中身もそうなのだが、髪が伸びただけで少し女らしくなったような印象も受ける。そして、あるべき位置にない彼女の右腕は、セテをいっそう不安にさせる。
「よく生きてたなって思うでしょ」
ジョカはいたずらっぽく笑った。セテがおそるおそる頷いてみせると、
「自分でもそう思う。ホント、よく生きて帰って来られたなってさ。ほとんど全滅だって新聞でも大きく報道されたから知ってると思うけど……」
ひとりの聖騎士の指揮する一個中隊がアートハルクの術者軍団と国境付近で一戦交えたのは、ジョカがいなくなってすぐに報道された。そのときになってはじめて、セテはジョカがアートハルクとの戦いのためにアジェンタスにやってきたことを知ったのだ。そして、ほぼ全滅と伝えられたときには、本当に夜も眠れなかった。
「聖騎士レオンハルトと一戦を交えるなんてことにならなくてよかったなって思ったけど。実際に彼はこれまでのどの局地的な戦闘でも先陣で指揮していたわけではないらしいけどね。忌々しい術者軍団と戦闘になってね。ホントに地獄だったわ。あんな恐ろしい集約型術法なんて見たことない」
「ジョカ……?」
「部下が目の前で次々にやられていってね。あたし、あんまり絶対魔法障壁とか得意じゃなかったから、術法に覚えのある強力な術者も何人か連れて行ったんだけど、全然気休めにもならなかった。あっという間に結界を解呪されて、あとはもう、剣なんて役にも立たなかった」
「ジョカ」
「ほとんど全滅ってのは報道のとおりよ。生き残ったのはわずか六人。百人近い部下を引き連れていったのに、よ?」
「ジョカ! 聞けよ!」
まるで他人事のように話をし続けるジョカに、セテはそれを遮って彼女を向き直らせる。
「そんなことはどうだっていいよ! 俺はジョカが生きて戻ってきただけですごくうれしいんだ! もう終わったことだろ!?」
「違うの。最後まで聞いてよ」
セテに掴まれた左腕を優しくふりほどき、ジョカはそう言った。セテはぐっと唾を飲み込む。胃の辺りがきゅっと痛くなって、無理に微笑んでいるような感じのジョカがとてもいやだった。
「あたしはそのとき、術法で右腕を吹き飛ばされたの。利き腕を落とされた剣士に、何ができると思う? 気休め程度の魔法障壁を築きながら、命からがら生き残った部下を引き連れて撤退。ザイルって、キミも見たことあるでしょ。同行してくれていた彼も、あの戦闘で死んだわ。聖騎士がいてもなんの役にも立たなかった」
ジョカは左腕で髪を掻き上げた。耳まで伸びた髪を掻き上げる仕草がとても女らしくて、心なしか妖艶な印象も受ける。
「中央に帰ってなんて言われたと思う? 聖騎士がついていながらなんたるザマだってさ。ふふっ。聖騎士、聖騎士だって……さ」
自虐的に笑うジョカ。そしてため息をひとつつき、
「もしあたしとレオンハルトの立場が逆だったとして、もしあの戦闘で一個中隊を指揮していたのがレオンハルトだったとして、彼なら部下を死なせずに凱旋できたのかな。たったひとりでも敵をなぎ払って、誰ひとり死なせずに中央に帰還できたのかな」
「ジョカ、もういいよ。そうやって自分を責めてるのかよ。聞きたくないよ。十分ジョカは立派に戦ったよ」
この聖騎士がそんなふうに自分をおとしめるようなことを言うのが、セテにはたまらなかった。もう彼女の口から、そんな言葉を聞きたくなかった。
「いままでどうしてたんだよ。なんで一年も音沙汰無しだったんだよ。俺本当に……」
本当に死んでしまったかと思っていた──そうは言えなかった。確かに彼女は生きて帰ってきたが、五体満足で帰ってきたわけではないのだ。
「表向きは療養目的。でも半年の謹慎処分を受けて、その後半年はずっと妹のところに身を寄せていたの。本当はもっと早くキミに会いに来たかったんだけど……」
それからジョカは自分の左腕でいまはもうそこにない右腕の付け根をさすりながら、
「あのね。あたし、聖騎士の称号を返上したんだ。もうお役御免。こんなんじゃ、剣も振れないでしょ?」
セテはそのときのジョカの表情に、脇腹がひきつるような痛みを覚えた。剣を振りたくても振ることができない。だから剣士をやめるんだとさらって言ってのける割に、彼女はその事実をまだ受け入れることはできていないはずだ。
「腕がなくってもさ……。感じるんだよね。あ、なんかいまとても右腕がかゆいかもって。夜中に目が覚めて、ふと左腕で右腕をかこうとして、やっと気づくんだ。ああ、もう腕がないんだったってね。傷なんてとっくに塞がっているのに、そのときにすごく、腕が痛むんだよね……」
ジョカの声が震えているのに気づいて顔を上げると、彼女の目から涙がこぼれ落ちているのが見えた。セテはとっさに彼女を抱きしめると、ジョカはそれに甘んじるように左腕をセテの背中に回し、そして声を殺して泣き始めた。
「……あたしのよりどころだったのに、たったひとつのよりどころだったのにさ……」
「ジョカ……ジョカ、泣かないで。俺は本当にジョカが生きていただけで、十分なんだ」
セテは彼女をなだめながら、彼女の背に回した腕に力を込めた。ジョカはようやく落ち着いてきたのか、鼻をすすり、そしてゆっくりと顔を上げる。
「ごめん……本当に心配かけちゃったのに。ホントにごめん」
鼻をすすり、ジョカはすぐに笑顔を作って見せた。セテは無言で首を横に振ってみせる。
「あたしね。妹のところに戻ることにしたの。オルガ・ビシュヌの付き人としてやっていこうかなって思うんだ。それから、驚かないでほしいんだけど……」
そこでジョカはいたずらっぽく笑いかけると、
「あたしね、結婚することにしたんだ」
「結婚!?」
セテはまた素っ頓狂な声をあげた。正直言って、冗談かなにかと思った。
「うん。こんなあたしでもね、結婚したいなんて言ってくれる人がいるなんて信じられないでしょ。あたしも信じられなかったもん。オルガのマネージメントをやっている事務所のね、副社長さん。ははは。すごいでしょ。背はあたしのほうが高いんだけどさ。元聖騎士だろうが一個中隊を全滅させた汚点があろうが、そんなの関係ないって言ってくれたんだ。信じられないよね」
ああ、だから彼女がとても女らしく見えるんだと、セテは納得できたのだった。例え剣が振れなくなっても、彼女にはまた新しい人生が約束されているのだ。そう思うと、セテはとてもうれしかった。ジョカなら、きっと幸せにこれからを過ごしていく術を自分で見つけられるかも知れないと思った。
自分は、それに比べて自分はどうだろうか。まだそれでも剣士になりたいと思っているのだろうか。レオンハルトのような聖騎士になることに、本当に憧れているのだろうか。そんなことを考えていると、
「キミは……来年ロクランへ行くそうね。中央騎士大学が決まったそうじゃない。おめでとう」
ジョカに言われてセテは我に返った。そして、照れくさそうに礼を返す。
「まだ……レオンハルトに、聖騎士に憧れている? こんな話を聞いてもまだ、剣士になりたい?」
問いつめられ、セテは言葉を失う。分からなかった。剣士になるということは、人を殺すこと、死と隣り合わせに生きること。それを覚悟しろとジョカは言っているのだ。
セテがとまどっていると、ジョカはにっこりと微笑み、
「世間ではいろいろ言われているけど、レオンハルトはとても立派な剣士だと思うわ。彼が理由もなく戦争を起こすことなんてあり得ないし、あたしはレオンハルトを信じてるし、たぶんこれからも尊敬してる。キミはどうなの?」
「俺だって……!」
いきなり大声を出したことにセテは自分でも恥ずかしくなり、それから小さく咳払いをして、
「俺だってレオンハルトを信じてる。彼が裏切り者だろうが、面汚しだろうが、そんなのどうだっていい。俺は、レオンハルトみたいに、なりたい」
慎重に言葉を選ぶように、セテはそう言った。そう言えたことに、セテは胸中で神々に感謝する。
「よく言えました」
ジョカは子どもをなだめるようにセテの頭を優しくなで、微笑んだ。
「夢を持つってのはね、そういうことよ。初心を貫くためには、なにかをずっと信じていなきゃだめだもの。それがなくなったら、夢はあっという間にどっかへ行っちゃうものよ。まだキミには分からないかもしれないけどね」
それからジョカはセテを引き寄せ、優しく口づけた。一年前のような濃厚な大人のキスではなく、今度は触れるように、優しく。
「ごめん。一年前の続きってわけにいかないもんね」
セテを抱きしめたまま、ジョカは笑った。セテはジョカの抱擁を甘んじて受けながら、なぜ涙が出てくるのかその理由を一生懸命考える。寂しいのか、悲しいのか、うれしいのか、自分でもよくわからなかった。
「今度、オルガ・ビシュヌの公演があるとき、そのときはぜひ遊びに来てね。またどこかで会おうよ。だからセテ、泣かないで」
セテは何度も何度も頷きながら、ジョカの胸で散々泣いた。泣きやむまでジョカは、自分の弟か子どもをあやすように、いつまでもその柔らかい金髪をなでながら黙って抱きしめてくれていた。
ジョカと別れた後、涙の後を見られないように戸口の前でごしごしと顔をこするセテは、ふと背後に誰かの気配を感じて振り返った。親友のレトが腕を組んで立っているのが見えて、セテは驚いて後ずさる。
「なーにしんみりしちゃってんだよ」
からかうように言うレトに対して、セテは怒ったような顔で反撃しようとするが、泣き腫らした顔ではまったく迫力が出ないことに観念して、小さくため息をついて抗議するにとどめた。
「み、見てたのかよ……」
セテは怒ったように言うのだが、その顔が耳まで赤くなっていることにレトは吹き出しそうになる。
「キスまでしちゃってるとことか?」
レトが意地悪そうにそう言った。しっかり見られていた。不覚だ。泣いているのを見られたばかりか、そんなところまで見られていたとは。その瞬間に、ほのかに赤くなっていたセテの顔が真っ赤に染まる。
「エッチなことしてたわけじゃねーからな! その、いろいろ人生について語ったり、剣士になるための心得をだな」
「わかったわかった。別に何も言ってねーだろ?」
興味深そうにセテを見つめるレト。セテは反論するのを諦めて、大きなため息をついてみせた。
「レト」
「ん?」
「俺さ……」
「なに?」
「やっぱり聖騎士になる夢、諦めらんないよ」
「……ああ」
「やっぱり、レオンハルトみたいになりたい」
「……ああ」
「レオンハルトを越えるような、立派な聖騎士になりたい」
「……ああ」
「だから……それまで俺のこと、見ててほしいんだ」
「……ああ」
「俺のこと、ずっと守るって言ってくれたよな」
すがるようなセテの表情に、レトは苦笑した。捨てられた子犬みたいな顔をして、本当にどこまで馬鹿正直なのかと思ってしまう。
「わかってるよ。お前みたいなバカをほっとけるわけねーだろ? 俺が見ててやんなきゃ、お前勝手に暴走してどっか行っちまったりするもんなぁ?」
言われて、セテは一瞬怒ったように口をとがらせた。それからおかしくてしかたないといった感じで笑い出すと、親友にいきなり抱きついた。
「俺を見捨てたりしたら、絶対恨んでやるからな。俺が聖騎士になった暁には、お前のことあごでこき使ってやるからそう思えよ」
「ばーか。それはこっちの台詞だ」
レトは金髪の少年を抱きしめながら笑い返した。ふたりは三ヶ月後に同じくロクランの王立騎士大学に進学することが決まっている。セテはこの人のいい親友とまたロクランで一緒に過ごせると思うと、とてもうれしかった。一生、レトと親友でいられるだけでもいいと思った。
「約束する。お前が俺をかばってくれたように、今度は俺が絶対にお前を守ってやる。お前が嫌だって言っても、一生守ってやるから」
レトがその約束を違えることはなかったと、セテは今になって思うのだ。最後の最後で息を引き取るときも、きっとレトはこのときの約束を覚えていたに違いない。絶対にお前を守ってやるといった親友は、最後にセテを自分の悪意から守り抜いた。そしていまセテを命に代えて守ってくれる親友は、もう側にいない。
その数ヶ月後にセテがロクランに上京した後、一回だけアジェンタスでオルガ・ビシュヌの公演があった。残念ながら遠く離れたロクランでその公演を見に行くこともかなわなかったが、オルガ・ビシュヌはその公演を最後に病に倒れ、そして息を引き取ったという。永遠の歌姫としていまだに根強いファンがいるのだが、その数ヶ月後に、姉であり付き人であったジョカ・ビシュヌが、各地で妹の追悼公演を行った。
姉のジョカ・ビシュヌの過去を知る者はほとんどいなかったが、妹の天使の歌声とは対照的な、魂を揺るがすようなどっしりとした声量を持つ彼女を、地方紙はかなりの評価で報道した。一度、どこかの事務所が彼女を本格的に歌姫に仕立て上げようと契約の話を持ち込んだらしいが、子育てと主婦業に専念するからといって断られたという。たった数回の公演で確かなファンを獲得した幻の歌姫ジョカ・ビシュヌのウワサは、それきり聞こえてこなかった。
【挿話:遙かなる憧憬 完】