Act.9

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「いてェ〜」
 レトは見事に腫れ上がった頬に手を当て、廊下の隅で小声で悪態をついた。人気のない校舎は気味が悪いほどに静まりかえっている。それもそのはず、最近はずっと授業は午前中で終わりか、休校になってしまうことも多く、授業が終わった後は学生たちは逃げるように家に帰って行ってしまうのだ。
「セテの野郎……、手加減もしないで思い切り殴りやがって……!」
 誰もいない廊下でレトは舌打ちし、そして渋々自分のクラスに戻って帰り支度を始める。
 さきほどの帰り際、セテとレトはとっくみあいの喧嘩をしたばかりだ。しかも、セテが何発も拳を振るった間に、レトはほんの二、三発ほどしか殴り返すことができなかったというていたらくだ。一方的に殴られたと言っても過言ではない。セテの喧嘩の強さが冗談ではないことを身をもって知ることになるとは思わなかった。
 原因は言うまでもなく、セテの心の支えを侮辱したことにあった。伝説の聖騎士、レオンハルトだ。
 この三ヶ月の間に、中央諸世界連合は信じられないような脅威に脅かされることとなった。アートハルク帝国が、中央諸世界連合を相手に戦争を始めたのだ。世に言うアートハルク戦争の幕開けだった。
 「神の黙示録」第三章を入手し、その解読に成功したアートハルク帝国皇帝ダフニスは、半年ほど前に中央諸世界連合にてその成果を大々的に発表した。失われた神々の叡知の一部、三つに分かたれたその謎の文書を、ほかの分断したふたつを用いずに解読できたことに、中央諸世界連合は大いに沸いた。しかしアートハルクはその日を境に、急速に軍事超大国へと変貌を遂げた。おそらくは「神の黙示録」に記されていた禁断の兵器の製造や、禁術の開封に成功したのだろうと新聞社各紙が報道したが、それがまさか侵略戦争の引き金になるとは誰しも夢にも思わなかった。
 三ヶ月前、中央諸世界連合 中央特務執行庁の命により、ひとりの聖騎士が指揮する一個中隊が、アートハルク帝国の動向を探るためにアートハルクの国境付近に派遣された。表向きはアートハルク皇帝「銀嶺王」ダフニスとの謁見であった。一行はダフニス皇帝との謁見を臨んだが、それは拒否されたばかりか、国境付近でアートハルク側の術者軍団と対峙することとなり、そして全滅したと伝えられた。それを皮切りに、アートハルクは中央諸世界連合に宣戦布告、同盟国であった辺境の国デリフィウス、レイアムラントを味方に巻き込んで、まず中央の中でも辺境側に位置するドーラム自治区を襲撃、占領した。
 ドーラムは度重なる紛争のために中央の直轄管理にあった地域であったが、石油や鉄鋼の原産地であり、中央諸世界連合のライフラインを握っていただけに、この占領は中央に大きな衝撃と打撃を与えた。
 中央諸世界連合憲章に大きく違反するこの侵略行為を激しく非難して、アートハルクと同盟関係にあったアジェンタス騎士団領とグレナダ公国はこの同盟を解消、その後、中央諸世界連合内でアートハルクに対抗するための多国籍軍を組織することが、全会一致で決定した。
 しかし、アートハルク帝国の軍隊は兵力による人海戦術では対抗できなかった。ダフニスの直下に強力な術者軍団が控えており、連合軍とは比べものにならないほどの少人数でありながら、立ちはだかる多国籍軍を恐るべき結界と術法で文字通りなぎ倒していたのであった。
 次のアートハルクの目的地はアジェンタス騎士団領。天然の防火壁アジェンタス山脈に囲まれているとはいえ、その向こう側にアートハルクの術者軍団が待ちかまえているのだ。アジェンタス騎士団と中央から派遣されてきた術者が国境付近を防衛してはいるが、当然人々は孤立状態、どこに逃げることもかなわない不安な毎日を過ごしている。学校がほとんど休校なのもそのためであった。
 アートハルクが、美しく聡明だった銀嶺王ダフニスがこのような暴挙に出た理由よりもむしろ、問題は帝国を守護していた伝説の剣士の存在にあった。伝説の聖騎士がついていながら、なぜアートハルクの侵略を止めることができなかったのか。聖騎士団に所属する最高の剣士が、なぜ侵略を容認するようなマネをしたのか。
 汎大陸戦争を救世主《メシア》とともに戦い抜き、中央諸世界連合の礎を築き上げた聖騎士《パラディン》レオンハルトが、帝国の守護剣士としてダフニスに仕えるようになったのは、いまからおよそ四年ほど前のこと。当時中央諸世界連合でもたいそうなニュースとして扱われた。どこの国の国王に要請されても、決して彼らに仕えることはなかった伝説の聖騎士が、アートハルクのような小さな国家になぜ仕えることを決心したのか。ゴシップ好きなマスコミ各紙は、銀嶺王の美しさに惑わされ、彼とただならぬ関係に陥ったのではと口さがないウワサを書き立てたものだった。しかし、平和を愛し、中央諸世界連合や世界への貢献もたいへん大きく、政治的手腕にも長けていたダフニスにレオンハルトが仕えることになるのは、当然のことであった。
 当時、そのニュースを聞いたセテは嫉妬かどうか定かではないが怒り狂い、そのときもレトと殴り合いをしたものだ。そして今回は、レオンハルトが皇帝の侵略戦争を止めることができなかったことについてレトが口汚く罵ったことにより、セテに一方的に殴られることとなったのだ。
「なんでそこまでレオンハルトに肩入れするのか、俺には全然わからねえよ!」
 殴り合いの際、レトはセテに向かってそう叫んだ。本当にレトには理解できない。異様なまでにレオンハルトに固執し、彼をまるで神のようにあがめ奉るようなセテ。聖騎士でありながらアートハルク帝国の侵略を止めることができなかったのは事実であるのに、それを否定するどころか、まるきり信用していないのだ。呆れるにもほどがある。
「……ホント、バカだよ、セテは。バカにつける薬はないってよく言ったもんだ。ちくしょう」
 レトは鞄をひっつかむと、足早に学校を出て、静まりかえった校庭を横目に見ながら自宅を目指す。アジェンタス山脈はいつもどおりにそびえ立っているが、あの向こう側にアートハルクの強力な術者軍団が待機しているかと思うと、なんとなく空恐ろしくなってくる。今日すぐに攻め込んでくるとは限らないにしても。
 そのときだった。突然アジェンタス山脈の山の輪郭が光ったかと思うと、その十数秒後に轟音が鳴り響いた。光はチカチカと明滅しながら続き、そのたびに数秒遅れで爆発音が絶え間なく後を追いかけてくる。
 まさか。レトは遙か彼方のその情景を見ながら立ちすくむ。国境付近ではアジェンタス騎士団と中央の術者たちがいる。とすると、いよいよ始まったのだろうか。レトは腫れ上がった頬を気にすることもなく、全速力で走り出した。






 とぼとぼと家路をたどりながら、セテは少しだけ腫れ上がった頬とあごに手を当て、何度も何度もため息をついた。親友の口からレオンハルトの悪口雑言が出てきたのにもショックだったが、それよりも、怒りにまかせて殴りつけてしまったことに、自己嫌悪を隠せないでいた。
 自分がどれだけレオンハルトに憧れているか知っているくせに、レトはあからさまな嫌悪の表情で、堂々と臆することなくセテの前で伝説の聖騎士を罵ってみせた。反射的に拳が出て、見事にそれはレトの下あごにヒットしていた。それから後のことはあまり覚えていないのだが、止めに入った級友に取り押さえられるまで、倒れたレトに馬乗りになって散々拳を叩きつけていたような気がする。
 カッとなると手が付けられなくなるのは自分でも分かっているつもりだった。できるだけ自分の気持ちを制御しようと努力したつもりだったが、いっぺんキレるとまるで狂戦士《ベルセルク》のように見境がなくなってしまうのだ。
「……殴りすぎたかな……どうして俺っていつもこうなんだろ」
 前髪をくしゃくしゃとかきまぜながら、セテはまた大きなため息をついた。家の前に来たものの、そのまま家に入る気も起きない。
「もっとお友達も大切にして、そんで剣の練習もちゃんとして、もっといい男になれるようにちゃんと磨くんだぞ、わかった?」
 パラディン・ジョカの言葉が思い返されて、セテはぐっと胃の辺りを押さえる。またレトに面倒をかけている自分がいる。そう考えると、もう一度彼女に会って許しを請いたかった。
 ジョカはあれから帰ってこなかった。彼女が最後だと言っていたのは、本当に覚悟をしていたのだろう。聖騎士レオンハルトと一戦を交えるつもりで、命をかけてアートハルクへ向かうために。
 アートハルクとの国境付近で起きた、ジョカの指揮する騎士団と帝国の術者軍団との衝突で事態は急変し、それは全世界を巻き込むような勢いの戦争に発展しようとしている。そのときの小競り合いでは、中央から派遣された騎士団はほとんど全滅したと報道され、そして指揮を執っていたジョカも、本当にセテの前に姿を現すことはなかったのだ。

 ジョカ。あんたに聞きたいことがまだたくさんあったんだ。
 あんたは自分が聖騎士になったことを後悔などするはずがないと言っていた。
 聖騎士になるって、そんなにいいことなのか。
 そんなふうに自分が死ぬと分かっていて、どうして笑って戦場に行けるんだ。
 どうして、あんたも憧れていたレオンハルトに、刃を向けることが平気でできるんだ。
 どうして。
 どうして──!

 レオンハルト。彼がアートハルクに仕えると報道されたときも確か、レトとちょっとした言い合いになって、挙げ句に殴り合いの喧嘩に発展してしまった。あのときは、絶対にどこの国にも留まるつもりはないと公言していたレオンハルトがアートハルクのダフニス皇帝に仕えるというのが、なんだか悔しくて怒り狂ったのだった。彼が一生涯守り続けると言っていたメシアを見捨てたような感じがして、どうにも許せなかった。
 よく考えれば、レオンハルトも人間だ。いつまでも復活しない恋人を待ち続けるよりも、もっと現実的に生きる道を選んだとしても不思議はない。それにメシアが目覚めるまで、彼は何度でもあの浮遊大陸に足を運ぶことはできるのだ。
 あのときも子どもっぽい怒りでレトを困らせたが、今度もまた同じようなものだ。
 聖騎士がついていながら、中央に反旗を翻すとはなにごとだと、そう報道されていることについて信用していないわけではないし、もちろんそれは聖騎士として当然の責任問題だ。だが、認めたくない。平和を愛し、戦いを憎んでいたあの優しい瞳をした聖騎士が、なんの理由もなく侵略戦争を容認するなんて考えられない。信じたくないだけなのだ。
 セテはふとレトの家の前に足を運んでみることにした。謝ろう。レトに。
 セテはレトの自宅のドアをノックした。レトの母親が顔を出し、セテびいきの彼女は彼を見るなり大喜びした。だが。
「レト? あら、一緒じゃなかったのかい? まだ学校から帰ってきてないみたいだけど。今日は半日で授業が終わったんだろ? アートハルク軍が国境付近まで来ているってのに、なにやってるんだろう」
 まさかまだ学校にいるのだろうか。なんとなくセテは不安になり、ぐっと拳を握りしめる。いやな予感がする。たいだい、自分のその勘は当たったりするものなのだ。
 そのとき。アジェンタス山脈のあたりで爆音が鳴り響いた。セテとレトの母親は同時に音のする方角を振り返る。アジェンタス山脈の輪郭が、チカチカと激しい光をまき散らしながら明滅しているのが見えた。続けて爆音が何度も鳴り響く。
「まさか、おっぱじまったんじゃないだろうね!?」
 セテをかばうように抱きしめ、レトの母親が叫ぶ。とたんに、アジェンタス全土に配置されたサイレンがけたたましく鳴り出した。第一級警戒態勢。アジェンタス騎士団とアートハルクが、とうとう国境付近で戦闘を始めたという合図に違いなかった。サイレンの音に周囲の住民たちは急いで駆けだし、それぞれの自宅にとって帰って、家族と避難の準備を始めるのが見えた。子どもが転んで泣き出したり、家族を呼ぶ声が街全体を覆う。
「おばさん! 俺、学校へ行って来る! レトがまだ学校にいるかもしれないから!」
「お待ち! セテ! 何言ってんだい! 早く避難壕にお逃げ!」
 レトの母親が止めるのも聞かず、セテはそのまま学校へ走り出す。学校への道は避難壕と反対側に位置するため、避難するために走る人々と逆行して走るのはたいへん困難だった。セテはあちこちで逃げる人々にぶつかりながら、ようやく学校の正門前にたどり着いた。しんと静まりかえる校舎の背に、爆音が何度も校舎に反射して、まるで化け物の鳴き声のように聞こえるのが恐ろしかったが、セテは勇気を振り絞って叫ぶ。
「レト! どこだ!」
 返事はない。もう帰ってしまったのだろうか。それともどこかに身を隠しているのか。
「レト!」
 再び大きな爆音がして、今度は地面を揺るがす。術法の攻撃によるものに違いなかった。報道によれば、アートハルクの術者軍団はたいへん強力な結界と、集約型術法を使うという。術者のいないアジェンタス騎士団の剣と、中央から派遣されてきたわずかな術者の力で太刀打ちなどできるはずもない。もし帝国側の先陣にレオンハルトが立って直接指揮をしていたらと思うと、心なしか膝が震えてガクガク言い出す。
「レト! いるのかよ!」
 セテは声の限りに叫ぶ。すると、
「セテ!?」
 驚いたような声がして、セテは声の主を振り返る。校舎ではなく正門の横で、レトが目を丸くして立っているのが見えた。
「なにやってんだ! お前! あぶねーだろ!」
 レトは怒ったような声でそう言った。セテはその一言にカチンときて、
「なにしにって、そんな言い方ねえだろ! お前がまだ帰ってないから心配で見に来たのに!」
「俺はとっくに家に帰ってたよ! お袋に聞いたらお前が学校に向かったって聞いたから……!」
 そして校舎の背景にそびえるアジェンタス山脈が、いっそう強く光った。その数秒後、巨大な光の矢が校舎目がけて飛んでくるのが見えた。
 レトはセテの腕を引っ張り、その頭を抱えて道路に突っ伏した。その際膝をすりむいたセテが抗議の声をあげようとしたが、数秒後にその光の矢は裏側の校舎のてっぺんに接触した。耳を裂くような爆発音と共に、ふたりの目の前で旧校舎の一角が崩れ落ちる。
「ま、まじかよ……!」
 レトは地面に伏せながらつぶやいた。セテもその場で言葉を失ったまま動けない。
「こっちにも術者がいるんじゃないのかよ! 結界が張ってあるはずだろ! それを突き抜けて術を発動するなんざ、人間業じゃねぇよ!」
 レトが叫ぶ。術者の張った結界を突き崩すには、相手方を防御している結界術法を解呪するための呪文を展開する。当然、解呪されるほうはそれを上回る複雑な呪文でさらに強固な結界を築き上げるのだが、結界を無効にするには、術者の唱える解呪の呪文の速度が、結界構築呪文の速度を大幅に上回るまでの大きな差を作らねばならない。それを一瞬で行い、しかも同時に攻撃呪文を発動するとは、アートハルクの術者軍団の強さは報道されている以上のものだ。
「逃げるぞ、レト。ここにいたら校舎の瓦礫に埋もれるだけじゃすまない」
 ふたりは起きあがり、そして後ろを振り返りながら走り出した。幾筋もの光の矢が飛来し、いくつかの建物をかすめていくのが見えた。そして到着した地点で爆音があがる。そのめちゃくちゃな術の発動から、とくに目標を絞っているわけではなさそうだ。しかし、学校のような大きな建物は当たりやすい。早く学校から離れなければ。
 ふたりの背後で、大きな光が炸裂した。数秒遅れて爆発音がし、そしてふたりは衝撃波で地面に倒れ込む。大きな一撃。ふたりはむせながら背後を振り返ると、校舎の屋上が崩れていくのが見えた。上からゆっくりと崩れ落ちていくさまは、まるでアジェンタス山脈の氷が溶けて雪崩を起こす光景によく似ていると、ぼんやりとセテは思う。だが、レトに引っ張られてセテは我に返り、勢いよく走り出した。それから数メートル先の建物のかげに身を隠したところで校舎が轟音を立てながら崩れ落ち、土砂と噴煙をまき散らしてその一生を終えた。衝撃波と石つぶてが建物の壁にあたり、さながら雹《ひょう》が屋根を激しく打つようなすさまじい音がしばらく続く。埃だらけのなかでゲホゲホとむせながら、ふたりは崩れた校舎を建物のかげから覗き込む。見事にぺしゃんこになった学校を見て、セテが血の気のない顔で言う。
「……これで明日から学校に行かなくてすむな」
「冗談言ってる場合かよ。アートハルク軍が攻め込んできたら、それどころじゃねーだろ」
「これも……レオンハルトが指揮を執ってるのかな……?」
「またレオンハルトかよ!」
 レトが呆然としているセテの腕を掴んで怒鳴った。
「レオンハルトが指揮を執ってるとか執ってないとか関係ないだろ! これは戦争なんだぞ! アートハルクが攻め込んできたら、俺らは死んじまうかもしんないだろ! もっと現実をよく見ろよセテ!」
「だって……!」
 レトの言葉に、セテは激しく首を振った。
「レトにとってはどうでもいいことかもしれないけど、俺にとってはとても重要なんだよ! レオンハルトが戦争をするなんて、絶対信じられない! だって彼は聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》だろ!? 平和を愛してたはずだろ!? こんなことして世界を壊すんなら、なんで二百年前に世界を救ったんだよ!」
「そんなこと俺が知るかよ! レオンハルトだって人間だ! 剣で人を殺すことだってあるし、誰かを憎んだりすることもある! 剣士になるってことはそういうことなんだよ! お前だってわかってんだろ!」
「わかるかよ! レトに俺の気持ちなんかわかるわけねーんだよ!」
 そこまで言って、セテははっと息を飲む。怒ったような、悲しんでいるようなレトの表情に、セテはまた自分が余計なことを言ってしまったことを後悔するが、後の祭りだ。
「ああ、そうかよ。俺はどうせお前の気持ちなんかわかんねーよ」
 吐き捨てるように言うレトの声が震えている。胃の辺りがまたきゅっと痛くなり、セテは唾を飲み込んだ。
「もうお前の言うこと、わけわかんねーよ。お前だって俺のこと全然わかってねーくせにさ。そんなにレオンハルトのことが好きで好きでたまんないってんなら、やつんところに行けばいいだろ。そんで憧れの聖騎士サマにでも頼んで、一晩お相手してもらえばいいじゃねーか、その顔活かしてさ。銀嶺王ダフニスみたいによ!」
 レトはセテの腕を乱暴に振り払い、建物のかげから身を起こした。嫌悪もあらわに唾を吐くと、そのまま背を向けて歩き始める。セテはその背中を呆然と見ながら、胃の辺りからこみ上げてくる思いがなんなのか理解するのにせいいっぱいだった。それが悲しくて悲しくてしかたないという感情であることに気づくのに、数秒かかった。
「レト……!」
 絞り出すように親友の名を呼ぶが、返事はない。すたすたと去っていく親友の後ろ姿がにじんでくるのは、自分の目から落ちる涙のせいであることに気づいて、セテは勢いよく立ち上がってレトの背に向かって叫んだ。いやだ。レトを失いたくない。自分の居場所を、自分が自分でいられる場所を、失いたくない──!
 そのときだった。三度目の大きな衝撃が地面を伝った。光の矢が後ろをかすめた気配。爆発音に振り向くと、それまで自分たちが隠れていた建物に術法が激突した瞬間であった。
「レト!!」
 セテは全速力でレトに追いつき、その背中を押し倒した。驚いたレトが振り返った瞬間、自分をかばうように一緒に倒れるセテの頭に瓦礫の破片がぶつかるのが見えた。
 ふたりは同時に地面に倒れ、舞い上がる土砂に身をさらすことになった。地面に伏していたおかげで衝撃波をまともに受けることはなかったが、覆い被さるように倒れているセテの後頭部から血が流れ落ちているのに気づいて、レトはあわてて身を起こした。
「このバカ……! 俺をかばったのかよ!」
 セテを抱え起こすが意識がない。息をしてはいるが、頭を強く打ったために意識を失っているのだろう。だが、このまま死んでしまうことだってあり得る。
「セテ! セテ! くそっ!」
 レトは上着の袖を引きちぎり、傷口を覆うようにセテの頭に巻き付けた。確か保健の授業では、出血した箇所にいちばん近い血管を押さえるか、傷口を数分押さえておけば血は止まると習った。しかしセテの後頭部を探るうちに、その金髪がみるみる赤く染まっていく。
「くそっ! どこをどう押さえればいいんだよ!」
 なかば泣き声にも近い口調でレトは叫び、舌打ちをする。爆発音は鳴りやむことがない。このままふたりともここで死ぬのだろうか。
 そんなとき、突然爆発音が止んだ。セテの頭を抱えながらアジェンタス山脈を見上げると、アジェンタス全土が緑色の光に覆われているのが見えた。新たな結界だろうか。そしてしばらくすると、崩れた校舎の向こう側に見える首都アジェンタシミルの方角から、地上から吹き出るような緑色の光が見えた。それは最北の地でよく見られるオーロラを逆さにしたような感じでゆっくりと広がっていき、やがてアジェンタス山脈の方角へと伸びていく。そのグリーンの光が消える頃には、アジェンタスに再び静寂が訪れていた。
 霊子力砲の威力だった。
 グレイン提督が引退し、次のガラハド提督に代替わりして四年の職務を果たし終える最後の年に明らかになった、偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の伝えた禁断の魔法。それがアジェンタス騎士団領をアートハルクの術者から救ったのだということを知る者は、それから五年が経ったあともほとんどいない。






 アジェンタス全土に配置されている放送塔により、アジェンタスの人々は脅威が去ったことを知った。放送塔でアジェンタス騎士団領が救われたことを伝えたのは、最高権力者であるグレイン提督本人であった。彼は戦況を事細かに報告した後、アジェンタス騎士団と中央の術者がアートハルク帝国の術者軍団をうち破ったことを伝えた。避難壕に退避していた人々は半信半疑ながらおそるおそる出てきたが、実際に術法の攻撃が止んでいることに、誰言うとなくアジェンタス騎士団領とグレイン提督を褒め称え、いっせいに拍手を始めたのだった。
 この翌年にグレイン提督は引退した。当時はガラハド、コルネリオのふたりの騎士団長候補がいたが、二年前にコルネリオが謎の失踪を遂げていたために、ガラハドが次期騎士団長となることがほぼ決定していた。
 人間の精神力と、地下で眠るフレイムタイラントを封じた要石を利用した霊子力炉が、アジェンタス全域をカバーするほどの強力な結界を築き、迫り来るアートハルク帝国の術者の攻撃術法を防御したばかりか、霊子力砲で帝国軍を殲滅したことは、ときのグレイン提督と、次期騎士団長となるガラハド提督ほか、総督府に関係するほんの一握りの人間にしか知らされることはなかった。そしてコルネリオのアジェンタス騎士団領への復讐が成就するその一歩手前まで、霊子力炉の存在とそこにまつられる偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の血を濃く受け継ぐ人間のことは、決して明るみに出ることはなかったのだ。
 アートハルクの術者軍団を退けたことでアジェンタス騎士団の人々は活気づき、すぐに復興作業が始まっていた。アートハルク戦争がアートハルクの崩壊とともに終結するまで、アジェンタス全土は不思議な緑色の結界で守られており、アートハルク帝国がアジェンタスに侵攻してくることはそれ以降二度となかった。人々はその忌まわしい旧世界の遺産の存在も、それに自分たちの生活が守られていることも知らずに今日に至ることとなったのだ。

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