Act.8

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 セテはまったくもって不本意ながら机に向かい、教科書や帳面とにらめっこを続けていた。嘘も方便といわれているが、それがこんなふうに仇になるとはまさか夢にも思っていなかった。おそるおそる振り返ると、後ろのソファではあの女剣士がにこにこしながら茶をすすっている。しかも、他人の部屋だというのにまるで自分の部屋にでもいるかのようなくつろうぎようで。
「あのさ、あんたいつまでいるつもり?」
 ぶっきらぼうに尋ねると、
「そんな迷惑そうな顔しなくてもいいじゃない、坊や」
「坊やじゃねえよ。俺はセテだ。今度坊やなんて言ったら承知しねえからな」
「はいはい、分かりました。キミもあたしのこと『あんた』とか言わないでくれる? あたしはジョカよ。ジョ・カ!」
 セテは大きなため息をつき、思い切り振り返る。
「分かったよ、ジョカ。悪いけどさ、そこでそうやって見てられると気が散るんだよ。ただでさえ神聖語の文法ってめんどくさいんだから」
「神聖語!? あら、あたしが教えてあげるって!」
「いいよ!」
 と断る間もなく、ジョカはセテの隣にクッションひとつ抱えながらにじり寄ってきた。セテが後ずさるのを楽しそうに見ながら。
「うわー、さすが高校生ともなるとけっこう難しいことやってるのねぇ。もう忘れちゃったわよ、こんな文法」
「だったらもういいだろ。ホントにあんたいったい何しにきたんだよ。頼むからもう、俺はあんたとは関わり合いになりたくないんだよ」
 いい加減泣き出しそうな情けない声でセテが言う。それを受けたジョカは困ったような顔をして、
「ごめん。別にからかいにきたわけじゃないのよ。まぁ時間もあったし、なんかさ、ほっとけないなって思って」
「……余計なお世話だよ」
 セテは一瞬沈むようなジョカの顔を見て悪いことを言ったなと思ったが、うわべだけは強がって見せた。
「あのお友達にもいつもそんな調子なわけ?」
 ジョカがレトのことを言っているのだと分かって、セテは一瞬怒ったような表情になった。昨日のレトとのやりとりを思い出して、それから今朝自分がレトに会うまでのことを思い出して、自分に腹を立てているのだ。
「……レトのことかよ」
「レト君っていうの? 彼、すごく君のこと心配してくれてるじゃない。そんなふうに君が強がってみせるのがたまらないんじゃないの?」
 ジョカがそういうふうに言うのは、セテにはもう十分すぎるほど分かっている。自分がどれだけレトに心配かけているか、どれだけレトがやきもきしているか。それを考えると、いても立ってもいられないくらいに。
「……そんなの……分かってるよ……。俺がどれだけあいつに心配かけてるか、なんてさ」
 セテは教科書に目を落とし、小さくため息をついた。どれだけレトに心配かけても、自分がいますぐにレオンハルトのような聖騎士になれるわけがないことなど、分かっていた。そしてふと、同じ聖騎士である彼女に聞いてみたいことが山ほど心に浮かび上がってくる。
「ジョカ、あんた聖騎士なんだろ。聞きたいことがあるんだ」
「なに?」
 興味深そうにジョカがセテを見つめた。セテはこの大柄な女剣士を見つめ返し、そしてためらいがちに口を開く。
「あのさ……。あんたレオンハルトに会ったこと、ある?」
「レオンハルト?」
「うん、その……どんな人なのかな、と思ってさ。俺、実際にレオンハルトに会ったことないし」
 嘘だった。レオンハルトにはもう五年も前に一度会ったきりだったが、あれだけでも自分を十分に憧れさせるだけの魅力を兼ね備えた人間だったことは分かっている。でも。ふだんのレオンハルトはいったいどんなことを言ったり、どんな態度で周りの同僚たちに接しているのか、とても興味があった。知りたい。あの伝説の聖騎士について、もっと。
「会ったことあるわよ。でも私も実際に間近で見たのは、ほんの二、三回くらい」
 ジョカがおもしろそうに自分の顔を覗き込んでいるのを見て、セテは我に返る。思わず身を乗り出していたのを、気取られたに違いない。自分がレオンハルトに憧れているんだと知って、きっと馬鹿な小僧だと思っているに違いないと思いながら。
「なんていうのかな……。すごくエキセントリックな人よね。生活感がないっていうか……。ひとことで言うと冷たそうな感じがするのよね。だってあの美貌でしょ。女のあたしでもはっと息を飲むくらいだもの。でも同僚の聖騎士にもわりと気さくに話をしていたみたいだし。まぁ自分から話しかけるって感じじゃなくて、どちらかというと話しかけられたらってところだけど」
 冷たそう、というのは、ある意味頷ける。最初に救世主の棺の前で腕を掴まれたときのものすごい殺気を感じたときは、その冷たそうという印象を通り越して、命の危険まで感じたが。
「うーーん、なんていうのかな。暗いのよねぇ。まるで世の中の悪事はすべて自分のせい、みたいに何か背負っちゃってるみたいな感じ。正義感が強いんだろうけど、逆に厭世的な感じもするし、すごい複雑な人よ。ま、なんにせよ、ちょっと浮世離れしたところが強くて近寄りがたい印象があるわね。そりゃ伝説の聖騎士サマなわけだから仕方ないけど」
「……ふーん、そうなんだ……」
 ジョカに聞いたのが間違いだったと後悔するセテ。ため息が出そうになるのをかろうじて抑え、セテはもう一度教科書に目を落とす。だが、ジョカはそれを見透かしていたのか、あるいはじらしていたのか、知ったようなため息をついて続けた。
「でもね。以前、聖救世使教会が主催の御前試合で、レオンハルトと剣を交えたことがあるの。本当に彼と剣を交えたのはあれが最初で最後だったけど。すごかったわよ。技もすごいんだけど、なにより美しさに目を奪われたわよ。人を殺すための剣を振るう男を美しいと思ったのは、後にも先にもレオンハルトだけだったわ。一度彼が剣を振るうのを見たら、絶対に虜になるわよ。ああ、伝説の剣士って本当に彼のためにある形容詞なんだと思った」
 心が締め付けられる。五年前、俺は幻の浮遊大陸でレオンハルトに会ったんだ、彼の剣技をこの目で見たんだと叫びたかった。黄金の髪を揺らして伝説の聖剣を振るうあの美しい横顔を、思い出すだけで心がかっと熱くなる。ああ、きっとジョカの言うように、彼はいつも神々しいばかりに輝いているに違いないと、セテはいまだ色あせない伝説の聖騎士の姿を思い返した。だが。
 自分はなんてバカなんだろうと思う。まるで新興宗教の教祖や、見目麗しい舞台女優を崇拝するかのごとく、まるで神のようにレオンハルトを思い、焦がれるなんて。どうしようもない。どれだけ憧れても、レオンハルトの横に並んで一緒に戦うなんてまだまだ夢の話なのだ。なんという冷酷な現実。
「レオンハルトに憧れてるクチなんでしょ? あなたも」
 ジョカに言われて、セテは我に返り顔を上げる。その顔が、一瞬にして耳まで赤くなる。
「ち、違うよ! そんなんじゃないって!」
「別にいいじゃない。レオンハルトに憧れない人なんて、この世にいるはずがないもの」
 そしてジョカは、セテの部屋の書棚に飾ってある、聖騎士に関連する書籍や資料に目を留めた。そしてうれしそうに目を細める。
「聖騎士に……。なりたいのね、君。いいじゃない、すてきな夢よ。夢を持つのはその人の自由だもの。あとはどれだけ努力してその夢に近づけるかってだけよ」
 セテはまた恥ずかしそうにうつむいて黙りこくってしまう。だが、不思議と腹は立たなかった。
「あたしが聖騎士になったのはね」
 ジョカがぽつりと言う。
「ちょうど二十三になったくらいのとき。小さい頃からなりたかったわけじゃないけどね。まぁ不謹慎だけど。こんな世の中でしょ、女でも手に職をつけたいと思っていたところでたまたま試験を受けたら受かっちゃった、なんて感じなんだけどね」
「それはジョカが優秀だったからだろ。ふつうの人は努力しなきゃ聖騎士どころか、ただの宮廷剣士にだってなれない」
「うーーん……。まぁ、そうだったのかもしれないわね。でもあんまり興味はなかったのよね。本当はもっとやりたいことがあったし」
「やりたいことって?」
「うーん、君に話しちゃってもいいのかな。歌手。歌手になりたかったのよ、あたしは」
「歌手ぅ!?」
 セテが頓狂な声をあげた。
「そ。こう見えても、歌うまいのよ。でもさ、あたし、こんなんだからなれるわけないじゃない。歌姫なんて柄でもなかったし。それに、歌も好きだったけど剣術のほうが手に職って感じだったし」
「じゃあ試合んときの『歌姫』っつーのもまんざら嘘でもないってわけ?」
 それを聞いてジョカが大笑いをする。セテはしばし笑い転げるジョカを見ながら小さくため息をついた。すると、
「ごめん。あれね、あたしの妹」
「は?」
「だからー。『ロードリングの歌姫』オルガ・ビシュヌはあたしの妹なのよ。そんなこと知ってる人もいないと思うけど」
「妹ぉ!?」
 またまたセテが頓狂な声をあげた。だが、その驚きも当然のことだ。ジョカはそれを見て、ね、驚くかも知れないけどそれはどうでもいいことでしょ? と肩をすくめて見せた。
「ま、そんなわけで聖騎士になったわけだけど、当然周りは大喜び。だって曲がりなりにも上級公務員よ。でもホントはそういうステイタスとかはどうでもよかった。オルガはあの歌声で、世界中のあちこちを駆け回って、戦をやめさせられたらいいな、なんて言ってた。だからあたしも、世の中のためになることできるかなぁって思った。まぁ現実はそんな甘くないわ。あたしひとりの力でできることなんて限られてるし、聖騎士つったって人間だもの。大昔の偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》みたいな力があったわけじゃない」
 意外だった。聖騎士である人間とこんなに込み入った話をするのも初めてだったが、聖騎士と、レオンハルトとおなじパラディンの称号を持っている人間がそんな話をするなんて。
「ジョカ……。あんた、聖騎士になったこと、後悔してるの?」
 セテはおそるおそる尋ねた。もしこの聖騎士が後悔していると言ったら、自分はどうすればいいのだろうと哀しくなった。だがジョカは大きく首を振り、そしてセテの顔をじっと見つめた。ジョカの瞳は、まるでセテの心の中のもやを払い飛ばしてくれるような強い意志が宿っているようだ。
「後悔なんてするわけないじゃない。あたしは満足よ。聖騎士として、人に必要とされるのがどんなにすばらしいことか、あなたにいま話しても分からないかも知れないけれど。あたしがあたしでいられるのは、あたしがいるべき場所は、ここだけなんだって思う。それはとても重要なことなの。大人になるとね、誰でも思うのよ。自分ははたして必要な人間なのかどうかってさ。あたしの場合はね、オルガ、妹の存在があたしのいられる場所を作ってくれている。オルガは歌で世界を救いたい。だからあたしは妹が愛する世界を救いたい。それって、すばらしいことじゃない」
 なぜだか涙があふれそうになった。自分が自分でいられる場所。レトがその場所を作ってくれているんだと初めて分かったような気がする。セテはそれを認められなかった自分が悔しく、またどうしようもなく恥ずかしくなった。このままジョカの瞳を見つめていたら、きっと泣いてしまうような気がして、強引に目をそらす。しかし、そらしたそばから目頭が熱くなってきて、ぐっと歯を食いしばった。
「ね、外、行こうか。ホントは宿題なんてどうでもよかったんでしょ?」
 ジョカは立ち上がると、セテの腕を取ってそう言った。セテは驚いて大柄な女剣士を見つめた。ジョカはいたずらっぽく笑うと、
「行こうよ。ヴァランタインの街を案内してよ」






 不思議なこともあったもんだとセテは思う。あれほど憎らしかった女剣士と、いま一緒に街を歩いているなんて想像もできなかった。しかも、いまセテはジョカをたいそう気に入り始めていた。ジョカが自分の心の壁をうち破って侵入してきたのが、迷惑どころかとてもうれしかったと思い始めているのだ。
 ジョカは聖騎士とは分からないような質素な茶色いチュニックを着ているが、それでもその大柄な体型がやはり目立ってしまい、あちこちで注目を集めている。だが、彼女はおかまいなしだった。目に付く商店を物珍しげに眺めたり、建物を指さしてはセテにたずねるのに忙しかったのだ。
 セテはヴァランタインの街をひとしきり歩き、ここはなにの建物で、どんな歴史背景があるのか、詳しく教えてやった。ジョカは建物を見ながら、ときたまセテをじっと見つめる。その瞳がなんだか寂しげで、セテはたまにいたたまれなくなってくる。彼女の表情が何を意味するのか、セテはあとになって知ることになるのだが。
 夕闇が迫ってくると、アジェンタス地方は昼間に比べてぐっと涼しくなってくる。周りを取り囲むアジェンタス山脈から吹き下ろしてくる風が、昼間太陽に当たって熱されていた空気をどんどん追い払っていくのだ。夏といえども、日が落ちれば長袖の上掛けがほしくなってくる。
 アジェンタス騎士団領の公立に指定されているヴァンデンバーグ公園は、ヴァランタインの街から少し歩いた郊外に位置する。緩やかな坂を上っていくと高台に開けた広場があった。そこは若い男女ふたり組が多いことでも有名で、セテたちは用がない限りはここに近寄ることもなかったのだが、ここからの眺めは絶品で、とくにアジェンタス山脈に夕日が沈んでいくのがとても美しい。それをどうしてもジョカに見せたい気がした。なにも今日彼女を連れてくる必要もなかったのだろうが、なぜか今日見せなければいけないような気がしたのだった。
「うわーーすごいきれい! 絶景じゃない!」
 ジョカは高台につくと、まるで少女のようにはしゃぎ、大声をあげた。周りで見ていた若い男女が彼女をちらりと見たが、その大柄な姿に驚いたのか、セテとジョカを交互に見つめ、なにやらうわさ話を始めた。
「だろ? ここの夕日は雑誌でも取り上げられるほどきれいなんだ」
 自分のものではないが、誉められたのがうれしくて、セテは自慢げにそう答えた。そして、ふたりは広場の手すりにもたれて、沈んでいく夕日を眺めた。ゆっくりとだが、確実にアジェンタス山脈に隠れようとしている夕日が、やがては山々の輪郭を照らし、そして空を紫色に焦がしながら沈んでいくまで、ふたりは無言で見つめた。そして夕闇が訪れる。
「やるじゃない、セテ。カノジョもちゃんと連れてきてあげたんでしょうね」
「そんなのいないよ。鬱陶しい」
 セテは肩をすくめた。悲しいが、セテは生まれてこのかた、女の子と付き合ったことはない。
「もったいない。そんだけいい顔してるのに」
「顔の話はやめろよ」
 セテは怒ったようにジョカを睨み付けた。
「どうして? かっこいいって言われて怒るなんてヘンなの。お母さんにホントよく似てるのね。冗談抜きできれいな顔してると思うけど」
「やめろって。母さんに似ててうれしいことなんてない」
 セテがうつむいて言うので、ジョカは心配そうにその顔を覗き込んだ。
「なんで? お母さんのこと、嫌いなの?」
「そんなんじゃないよ。母さんのことは愛してる。ただ……母さんに似てるって言われるだけで、なんだか吐き気がしてくる……」
 セテは口元を抑えて絞り出すようにそう言った。母親に似ていると自分が自覚するたびに、なんだかいつも胸がむかついてしかたない。なぜだかはわからないのだ。
「ごめん、なんかトラウマでもあったのね」
「トラウマ?」
「小さい頃、そういうのでなんかツライことでもあったのよ。ごめん。もう言わない」
 ジョカが神妙な顔をして言うので、セテは口元を抑えながら首を振った。
 それからジョカは、短く刈りあげた髪を手ですき、小さくため息をついた。夕日が沈んでからはあっという間に空が暗くなっていた。沈黙が流れるが、暗いのでジョカの顔が見えないために、セテはなんとなく居心地が悪くなった。
「あのね……」
 ジョカがまたため息混じりにそう言った。
「あたしさ、明日か明後日にはヴァランタインを出るんだよね」
「仕事?」
「まぁそんなもん。ちょっとした野暮用でね。だから今日、キミに会ってここへ連れてきてもらってすごく感謝してる。こんなきれいな夕日が見られたなんて、とてもうれしい。ありがとう」
 ジョカが振り向いて、セテの顔をじっと見つめた。薄暗がりではっきりとは見えないが、ジョカが微笑んでいるのが分かった。その顔が、その表情が、なぜだか胸を締め付ける。
「よせよ。なんだかもう帰ってこないみたいな言い方するなよ」
 セテはおどけたように言うが、返事は帰ってこなかった。きゅっと胃の辺りが痛くなる。
「帰って、くるんだろ? ジョカ」
 ジョカが本当に帰ってこないのではないかという気になって、セテは無意識にその腕を掴んでいた。ジョカが驚いたのが腕を通して伝わってきた。
「……当たり前よ。また、君に会いたいもん」
 ジョカは小さく笑った。それから、
「それまで、自分を大切にするのよ。もっと自分に正直に生きてさ、レト君だっけ? もっとお友達も大切にして、そんで剣の練習もちゃんとして、もっといい男になれるようにちゃんと磨くんだぞ、わかった?」
「わかってるよ。ジョカ」
 ジョカは微笑み、それからセテをぐっと引き寄せた。突然抱きすくめられたセテは大いに驚いたが、その次の瞬間、唇に当たる柔らかい感触にもっと驚いた。想像していた以上に柔らかいジョカの唇は、セテの唇を塞いで逃さなかった。
「……ん……っ」
 侵入してくる舌に驚いて、セテが小さく抗議の声をあげた。濃厚な大人の口づけにめまいがする。逃げようとするセテをしっかりつかまえたまま、ジョカの手が腰から下にゆっくりと這う。そしてじらすようにその手がうごめき、到達した場所で。
「あ……っ!」
 驚きと恐怖で、セテは思わず声をあげ、ずるずるとへたり込んだ。腕を掴まれたままの状態で息を切らし、ジョカを恨めしそうに見上げる。一瞬の間をおいて、ジョカが大笑いをした。
「ごめん! あんまりかわいかったもんだから。どう? 大人のキスの味は。こんなんでへたり込んじゃうんじゃ、いい男になれないぞ」
「ジョカ!」
 セテが抗議をするが、ジョカはまだ笑っているばかりだ。本気で犯されそうな危機感を感じたのに、こんなにけらけらと笑われたのでは立つ瀬もない。セテはぱたぱたと尻についた砂をはらいながら身体を起こし、ジョカをうらめしそうに睨み付けた。だが、たぶんいまの自分は怒っても迫力がないほどに赤くなっているだろうと思ってはいた。
「最後、かもしれないからさ。いただいちゃおうかなーなんて」
 セテはそんなことをけろりと言ってのけるジョカをはたこうと腕を振り上げるが、彼女はそれをかわし、またケラケラ笑った。
「未成年への強制的な性行為は、アジェンタスでは五年以上十年以下の懲役か、五千セルテスの罰金なんだぞ」
「まあまあ。お互い合意の上だったら文句ないでしょ」






 これから寄るところがあると言ってセテとここで別れたジョカは、去っていくセテの後ろ姿を見つめながら小さくため息をついた。
──帰ってくるんだろ──?
 あの少年が言ったひとことが、なぜか心に深く突き刺さる。
「帰ってこれれば……ね」
 ジョカはもう見えなくなったセテの後ろ姿に向かってぽつりとつぶやいた。それから、背後の闇に向かって、
「いつからデバガメみたいなマネをするようになったのよ、ザイル。覗きなんていい趣味してるわね」
 闇の中から、黒い制服が姿を現し、そして困ったように肩をすくめてみせる。
「覗かれて困るようなことをなさるからですよ、ジョカ殿。未成年への性行為は重罪ですからね、そこのところきちんとご理解ください」
「分かってるわよ、うるさいわね」
 ザイルは忌々しげに言うジョカを軽く受け流し、それから書類を彼女に手渡す。
「バーンズ長官からやっと許可が出ました。明日の朝、中央時間の六時には行軍です。今日はもうお帰りになってお休みください」
「明日……」
 ジョカはつぶやくようにそう言った。予感は的中した。本当に明日なのだ。
「銀嶺王への謁見がかなわなければ、アートハルクの国境付近で陣を構え、待ちます。あちらにはレオンハルト殿がおられますからすぐに衝突ということにはならないとは思いますが、念には念を入れて戦闘準備だけはぬかりなきよう」
「レオンハルト……ね。どう出てくるかしら。聖騎士といえども彼はアートハルクの守護剣士だし、ダフニスを守るためなら中央諸世界連合に反旗を翻すことも辞さないような気もする」
 レオンハルト。あの少年が恋いこがれている伝説の聖騎士。もしかしたら自分は、レオンハルトと一戦を交えることになるかも知れないのだ。アジェンタスに来た目的は、アートハルクまでの物資輸送経路の確保。不穏な動きを見せているアートハルクの偵察のため、レオンハルトと一戦を交える覚悟で来たなどとセテに言ったら、あの少年はどんな顔をしたのだろうか。
 最強と謳われるパラディン・レオンハルト。あの美しい聖騎士と、こんな形で再開することになるとは。
「もし戦うことになったら……勝てるかしら。レオンハルトに……」
 ジョカの問いに、ザイルは答えなかった。

 その翌日から、ジョカがセテの前に姿を現すことはなかった。この日のできごとが本当に最後だったのだとセテが知ったのは、ずっと後のことだった。
 それから、世に言うアートハルク戦争が勃発したのが、この日からおよそ三ヶ月後のことであった。

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