Home > 小説『神々の黄昏』 > 挿話:遙かなる憧憬 > Act.7
祭りが終わった翌日には、もう街はいつもの風景を取り戻す。浮かれ騒いでいた人々も、その翌日にはすっかりふだん通りの生活を取り戻すのだが、少し寂しい気分になっても、先々に催されることになっている行事を楽しみに待つ喜びを知っているのだろう。
そして少年たちの通う学校の教室も、いつも通りの朝を迎えるのだった。
レトはいつも少しだけみんなよりも早く登校してくる。特に朝早く来て何をやるというわけでもないのだが、数人しかいない教室が、やがてがやがやとやってくる級友たちによって、徐々に賑やかになっていく様を見届けるのが好きだった。
この高校に入った当初は、家の近いセテと一緒に学校に来たのだった。しかし、セテの寝起きの悪さにいつまでもつきあっていると遅刻してしまうので、一応セテの家には寄ってみるものの、よほどのことがない限りは親友を置き去りにして登校してくるのだ。だが今日はあえてセテの家にも寄らず、そのまままっすぐ学校に向かった。
昨日はセテを無事家に送り届けたが、彼が今日ちゃんと学校に来るかどうか、レトはとても不安だった。卑怯な貴族の若者にぼこぼこに殴られ、あげくに自尊心をずたぼろにされたセテ。自分のなかのわだかまりをすべて吐き出したかのようにも見えたが、強気で固めた鋼鉄のプライドを崩されたショックから、そんなにすぐに立ち直れるものだろうか。最後の最後、久々に泣き顔を見せ、しおらしくなったセテが家に入る前、「明日はちゃんと学校に来いよ」と伝えたのだが。弱々しく頷き、微笑んで見せたセテがなんだか哀れだった。
いつものように今朝はセテの家に寄ってやればよかったのだ。そしてもし学校に行かないとだだをこねても、ひきずってでも連れてくればよかったのだ。だが。そこでレトは大きなため息をひとつついた。
そうやってまた無理強いすることで、見栄っ張りで強情なセテが無理に明るく振る舞おうとするのではないか。そしてその結果、セテがどんどん自分を見失ってしまうのではないか。昨日まで、強い自分をわざとアピールするかのように険悪な言動をしてきたように。
そんなことを考えるだけで、レトは胃の辺りにずしんと重いものを感じるのだ。ばかばかしい。なんで他人のためにこんなに自分は心を砕いているんだろうと思うと、苦笑がこみ上げてくる。
レトにとってセテは、やっかいな親友以外の何者でもなかった。傷つきやすい上質の革製品を品定めするようなそんな感覚。正直骨が折れると思うこともレトにはある。そういえばと、レトは高校に入ってまもなく好きになった女の子のことを思いだした。気まぐれですぐ怒る、ころころとよく機嫌の変わる本当にやっかいな娘だった。その少女に似ているのだ、セテは。
ちょっとしたことですぐに怒って手が着けられなかったり、人を小馬鹿にするようなことを平気で言ってのける。だが、彼女が時折見せる優しい表情とか、よく笑う口元とか、曲がったことを断固として許さない正義感とか、たまに落ち込んで泣いている姿とか、そういった彼女の豊かな表情がとても新鮮で、心惹かれたものだった。話をすると、彼女は恐ろしく優しかった。優しすぎたのだ。だから心を武装することで、優しすぎて傷ついてしまう自分を防御することを選んだ。それを知ったときにはもう、彼女を心底好きになっていたのだ。
そう思うと、レトはまた苦笑する。つまりまさにそういうところがセテとかぶって見えるのだった。強気な発言の裏に見えるセテを、腫れ物を扱うように苦労してまでも守ってやることができるのは、セテの隠し持つその本質にこそ、自分が心惹かれているからなのだ、と。セテが異性だったら、これ以上にやっかいな恋人はいなかっただろうに。
そんなことを考えながら教室の廊下を眺めていると、前方から歩いてくる金髪の少年が目に入った。レトは目を見開いてその少年が歩いてくるのを見つめる。
セテだった。あの寝起きが悪くて遅刻常習犯のセテが、こんな早くに登校してくるなんて。
セテはレトの姿を見つけると一瞬驚いたような顔をしたが、すぐににっこりと笑い返してきた。昨日ハイファミリーの青年に散々殴られた痕跡は、パラディン・ジョカの手当で跡形もなくなっていたが、どことなくそのほほえみが痛々しく見えるのはしかたないことなのだろう。
レトは親友に声をかけようと口を開くが、そのとき、
「よぉ! 早いなセテ! 見たぞ、昨日の試合! すごかったな、お前!」
セテのクラスの連中がセテを見つけ、教室から飛び出してきた。すぐにセテはクラスの友人に囲まれてしまい、レトはセテに声をかけるチャンスを失ってしまう。
「結局、あのデカい女が反則技使ったからお前が優勝だって?」
「うん、まぁ……」
級友に尋ねられてセテはあいまいに頷く。困ったような顔で級友たちの後ろに立つレトを見つめるので、レトは頷き返してやった。
「すげーよなぁ、やっぱお前はすごいよ、ホント、俺惚れちゃうなぁ」
ひとりがそんなことを言うので、セテは笑いながら、
「よせって。お前みたいなヤローに惚れられてもうれしくもなんともないって」
少年たちの間で笑いが起こる。
それからセテの級友たちは試合のときの様子や、そのときどう思ったかなどとセテに根ほり葉ほりな取材を始め、すぐにセテはいつもと同じように話をしだす。俺が木刀を突きだしてやったらビビったみたいで、こりゃ勝てると思ってさ、そいつそんとき超へっぴり腰かましてんの。こーんな感じで。なんだかそれ見てたらさぁ、かわいそうになったからそのままわざと引いてやったんだけど、そしたらそいつ調子に乗り始めたんだよね。俺アッタマきたから挑発してやったんだけど、まんまとこっちの誘いに乗ってきやがったもんだから──。
セテはいつもこんなふうに話す。ときにはずいぶん自信過剰な発言もあるのだが、おもしろおかしく話すものだからまったく気にならない。自分の失敗をネタにして笑いを巻き起こすこともある。案の定、しばらくすると廊下で固まって話していた彼らはゲラゲラ笑いだし、周りにいた少女たちの冷たい視線を浴びるのだが、そんなことはおかまいなしだった。
セテの魅力はここにあるんだとレトは思った。何をしているわけでもないのに、周りに自然と友人たちが集まってくる。彼は十分に恵まれているのだ。
彼らは楽しく談笑しながら教室に入ろうとセテを促す。セテは先に友人たちを教室に行かせて、廊下で自分を見つめているレトを振り返った。レトは腕を組んで立っていた。その表情はとても満足そうだった。
「おはよう」
レトが言うと、セテは口ごもりながらあいさつを返してきた。
「よかった。元気そうじゃないか」
「うん……」
レトの問いにそう返事をして弱々しく微笑むセテは、照れくさそうにうつむいた。
「あの……さ……レト?」
うつむいたまま、セテは切り出す。セテのいつものクセで、謝ったり礼を言おうとするときはいつも、こうやって照れを隠すのだ。
「ありがと……な」
そう言うなり、セテは教室の中に逃げるように入っていった。その様子がおかしくて、レトは吹き出しそうになる。昔から、喧嘩をしたあとはこんな調子だった。恥ずかしそうに言うのが素直でかわいいものだと、レトはいつも思っていた。たぶん、セテはだいじょうぶだろう。そんなことを考えていると、
「なーんかかわいらしくなっちゃって」
レトの後ろからオラリーがのっそりと姿を現した。オラリーがレトと同じように腕組みをしてセテの後ろ姿を見送っていた。そして組んだ腕の肘でレトの脇腹をつつく。
「セテと喧嘩でもしたの?」
「なんで?」
「いや? なんとなーく」
「別に喧嘩なんかしてねえよ」
「ふーん?」
オラリーは口元に薄笑いを浮かべてレトを品定めする。レトは気味が悪そうにオラリーを見つめ返した。
「なんだよ」
「いや、あいつ、なんか痛々しいからさ。お前ら見てるとホント飽きないよ。そうやってお前がなんだかそわそわしてるのって、たいがいセテになんかあったってときじゃん。わかりやすいんだよね」
「ああ、そりゃどーも」
レトは不機嫌そうに生返事を返すが、オラリーはそれを肯定と受け取ったのか、
「つきあい始めたカップルがさ、よくこんな感じじゃん。やっちゃった翌朝とかさ、まだるっこしいっつーかなんつーか」
「はぁ? お前なに言ってんだよ」
レトは悠長に腕を組んでいるオラリーを睨み付けるが、オラリーのほうはまったく意に介していない様子だ。
「ああ、ごめん、そーゆーのともちょっと違うかな。わがままなお姫様に振り回される騎士サマって感じかな」
「……勝手に言ってろ」
レトはおおげさにため息をついて教室に戻っていった。その後ろを、したり顔のオラリーがついていく。
「なんにせよ、セテ、元気そうでなによりじゃねえかよ。なにがあったかしらないけどさ。でも隣のやつらにかっさらわれちゃって残念だな、レト」
オラリーが後ろから声をかけると、レトがまたため息をついてその顔を睨み付ける。
「あーあ、そんな怖い顔すんなって。お前も俺も、あいつのこと心配で心配でしかたなくなっちゃってるんだよ。わかってんだろ? レト。あいつがああやってしおらしく、痛々しい感じでいるとたまんなくなるってこと」
そう言ったオラリーの顔をレトはしばし見つめ、それからしばらくすると大笑いを始めた。そばにいた少女たちが驚いてレトを振り返る。
「ああ、そうだな。そんなところだ。みんなあいつにイカレちまってるんだろうな」
レトが笑いながらそう言い終わるとすぐに、始業の鐘が廊下に鳴り響いた。騒がしかった教室の中は学生たちがめいめいの席に戻り始め、静まり返っていく。やがていつもの一日が始まろうとしていた。
五時限目が終わった後、セテはレトと一緒にいつものように帰宅の途についた。なんだか妙に気を使ってくれるレトが少しだけ心苦しかったが、努めて平静を装う。
「じゃあな、セテ。また明日な」
ふたりの家を分ける分かれ道で、レトがそう言って手を振った。セテもつられて手を振り返し、ふたりは別れる。が、セテはふと立ち止まって今朝までの自分を思い返してみた。
あの茶色い巻き毛の少年は、自分をうざったく思うことはないのだろうか。振り返ってみると、いつも自分のほうが面倒をかけてばかりだ。喧嘩をしても一方的に自分が怒るだけだし、そしてほぼ八割がたはレトのほうが先に折れる。昨日の夜みたいにバカみたいに取り乱して泣いた自分を、子どもっぽいヤツだとか笑っていなかっただろうか。ホントは自分のことなんか大嫌いで、悪口のネタにするために一緒にいるだけじゃないだろうか。
そんなことを考えていると、正直今日は学校になんか行きたくなかった。でも──。
勇気を振り絞って登校したときの、自分を迎えてくれたレトの笑顔がすべてを吹き飛ばしてくれた。うれしかった。そして、自分はなんて馬鹿なことを考えていたのだろうと恥ずかしくなった。レトがいつものように声をかけてくれたときには、涙が出そうになったのだ。なにもしないでもわかってくれていたレトの気遣いや、その存在すべてが、なによりの支えになってくれていたこと。どうしてそんなことに気づかなかったのだろう。
あと何年かして大人になっても、レトとだけは離れたくないと思った。たぶん彼以上の親友は、もう見つからないような気がするから。
セテは自宅のドアノブに手をかけ、いつものように勢いよく開けた。ドアの立て付けが悪くて、力一杯引かないと開きづらいのだ。「ただいま」と声をかけると、母親がにこやかに返事をした。いつもの風景だった。だが今日は。
「あら、お帰り〜!」
聞き慣れない元気な女の声がして、セテはそのまま玄関で動けなくなる。居間からにこにこと楽しげに手を振るその姿は。
「お帰りなさい、セテ。あなたにお客さんよ。ごあいさつなさい」
母ナルミがにこにこしながらセテの腕を引っ張る。こんなに上機嫌の母親を見るのは久しぶりだった。さぞかし客人と楽しく会話を弾ませたことだろう。居間にいる客人の前に連れてこられたセテは、いまだ声を失い、固まったまま動けない。
「いいわねえ、青少年はもうこの時間から自由だもんね」
パラディン・ジョカだった。茶色いチュニックといったいたって質素な格好ではあるが、傍らに立てかけられた剣が、彼女が優秀な剣士であることを証明している。
「……あんた、なんで俺の家がわかったんだよ」
驚きというよりは、ほとんど恐怖でと言っても過言ではないくらい、セテの声が震えた。
「ふふん、聖騎士の情報網をあなどっちゃいけないわよ、キミ」
ジョカは自慢げに指を突き立て、セテの顔の前で振ってみせる。セテは大袈裟にため息をついて肩をすくめた。いったいこの聖騎士はなんの用があって人の家にまで押し掛けてきたんだ、と。はっきり言って、セテはもうこの女剣士とは関わり合いになりたくなかった。ただでさえ剣の試合で負けたのに、その後は手助けまでしてもらい、散々彼女に格好悪いところを見せてしまったのだ。男のプライドというヤツが許せない。
「なんの用だよ、あんた今度は俺になにしようってわけ?」
泣き言にも近い台詞を聞いて、ジョカはケラケラと笑った。
「なによぉ、そんな情けない顔しないでよぉ。別に取って食おうってわけじゃないんだからさぁ。ちょっと時間があったからね、遊びにきたの」
セテは額に手を当て、またひとつ大きなため息をついた。
「もうこのジョカさんったらホント楽しい方よねぇ。母さん久々に大笑いしちゃった。ほら、セテ、あなたそんなところに突っ立ってないで、こっち来て座りなさいな」
うれしそうに話す母親に手招きされるが、セテはまだ動けない。
「勘弁してよ、母さんまで。俺、今日は宿題あるんだよ」
セテが嘘をついて逃げようとするが、それを聞いたジョカはうれしげに身を乗り出す。
「宿題!? 懐かしい響きだわぁ〜。あ、そうそう。お母様から聞いたわよ。キミ、すっごく成績優秀じゃない。通信簿見せていただいちゃったわ」
「母さん! なに人の通信簿見せびらかしてるんだよ!」
セテはジョカの手元から自分の成績表をぶんどり、母親を睨み付ける。母親はさして悪いことをしたとも思っていないようなので、始末に負えない。
「あ、じゃあキミの宿題、手伝ってあげるよ」
「いいよ、別に!」
セテが迷惑そうに言うが、それを聞いた母親のひとことで、セテはどこにも逃げられなくなってしまった。
「あら、ジョカさん、悪いわ。でもせっかくだから見ていただこうかしら。この子、術法がてんでダメなもんだから。あ、そうそう、セテ、あなたの部屋に行っていただきなさいよ。あとで母さん、お茶とお菓子持って行くから」