Home > 小説『神々の黄昏』 > プロローグ:空中楼閣の聖騎士 > Act.2
身休がねじれるような感覚だったが、それも一瞬のことだった。唐突にセテは乱暴に地面に放り出された。着地の際に思い切り尻餅をついたので、セテは声にならない声をあげてしばしうずくまるハメになったのだった。
まだ痛む尻をさすりながら顔を上げて見渡すと、セテは愕然とする。自分はいったい、いまどこにいるのだ、と。
足元にはさきほど見た魔法陣と同じものがある。今セテのいるここだけ舞台のような壇になっていて、ご丁寧に階段が脇に備えられている。何かの儀式で使う祭壇のようにも見えた。しかも、これら見たこともない金属で作られているというのが驚きだった。
セテは階段を降りて、もう一度周囲をぐるりと見渡してみた。建造物が立ち並んではいるが、ここはすべて廃墟だ。天まで届くかと思われる塔や城、砦の数々は、アジェンタス騎士団領やアートハルク帝国、ロクラン王国など、他のどの近隣諸国でも見たことのない建築様式だ。しかし、そこに生命の気配はまったくなく、焼け焦げてもの言わぬ建造物たちだけが、無残に砕けた屍を晒しているだけであった。
徹底的な破壊行動の痕跡。人災か天災かはわからないが、ひとつの文明が滅び去ってしまったことだけは容易に理解できる。ここは文明の墓場だ。先ほどの祭壇や洞窟内の不思議な物質、それに複雑な魔法陣など、想像もつかないような技術を持っていた文明の。それがなぜ、こんなにも無惨な終焉を迎えてしまったのだろうか。それにしてもここはどこだろう。そもそも、ここは「現在」なのか。
そんなことを思いめぐらせているセテの耳に、ふと、遠くから聞こえてくるものがあった。
ゆるやかな風に乗り、かすかに聞こえてくる男の歌声。夜を思わせるようなしっとりとした声であった。廃墟の間で二重三重にも反響し、リフレインしあう不思議な音階。聞いたことのない言葉で、聞いたことのない妙なる悲しげな旋律。詞はわからないが意味が分かる。そんな不思議な言葉があるのだろうか。もの悲しいこの歌は失われたものへの鎮魂歌なのかもしれないとセテは思った。失われた大切な思いを綴った、失われた国の言葉で歌われる、悲しい歌声だった。
しばしその曲に聴き入っていたセテは、胸が締め付けられるような思いにとらわれた。苦しくなるほどの悲しい激しい思いが、胸に直接突き刺さってきて目眩すら覚える。
ふと、セテは数百メートル先に小高い祭壇のようなものを見つけた。祭壇の上で何かが太陽の光に反射して輝いている。その光に誘われるように、セテはその祭壇に近寄ってみた。歌声はいつの間にか止んでいた。
見上げると、それは水晶でできた細長い箱であった。透明度の高い水の色をした水晶が、弱い太陽の光を受けて輝いて見えたのだ。しかし、セテは祭壇の階段を昇って思わず息を飲んだ。
それは水晶の棺であった。その中で、美しい装束をまとった美しい女性が、胸のところで祈りを棒げるように手を組んで横たわっている。濡れたようなしっとりとした艶を放つ長い白銀の髪。今にも目を覚ましそうな生き生きとした頬の色。まるで幸せな夢を見ているかのような穏やかな表情。セテは我を忘れて、その美女の顔を食い入るように見つめた。
「こんなきれいな人……見たことないよ……」
思わずセテの口からこぼれたのは、そんな言葉だった。
もちろんセテにも、これくらいの年ともなれば好きな女の子くらいはいる。しかし、自分の周りにこれほど神秘的な雰囲気をもつ女性は存在しない。セテはこの女性を見つめるうちに、自分のなかに愛情にも似た想いが込み上げてくるのを感じた。片思いくらいいくらでもしてきたけれど、なんだか初恋の相手に久々に会ったような、くすぐったいような懐かしいようなそんな気分にさせられてしまっていた。
深いため息をついて、セテは階段を降りようと棺に背を向けた。と、水晶の棺が小さな音をたてたので振り返ると、天板に小さな亀裂が走っているのが見えた。不思議に思ってもう一度顔を近づけたそのとき、棺の中の女性の瞳が突然開いた! 深いエメラルドグリーンの双眸が、水晶板の向こうから見つめるセテの顔を見据えていた。
「ひっ!?」
情けなくもセテは悲鳴に近い叫び声をあげ、身を後方に踊らせた。その直後。
「ここで何をしている」
セテが振り返るよりも早く、何者かが背後から彼の腕をつかみ上げていた。その手から恐ろしいほどの殺気が流れ込んでくるのを、セテは感じ取っていた。振り返ると、そこには見事な黄金の巻き毛を腰まで垂らした、美しい青年が立っていた。
セテは思わず息をのんだ。身長はセテの頭ふたつ分は優に越えているであろう。彫りの深い整った顔立ちは、博物館などで見られる大昔の彫刻を思い出させた。それほどの美貌と印象的なエメラルドグリーンの瞳が、燃えるような勢いでセテを睨みつけている。その透けるようなグリーンの瞳は、セテの何もかもを見通しているようであった。
痩身に長いマントを羽織り、裾の長いローブを着込んだ僧侶のような質素な格好ではあるが、もし彼が侵入者を殺すために来たのであれば、その隙のない身のこなしようから、自分に勝ち目のないことはセテにもよく分かっていた。
「……ご、ごめんなさいっ! 俺、何も見てません!!」
セテは絞り出すような声でやっとそう叫んだ。その瞬間、セテの腕をつかんでいた彼の手から殺気が消えたかと思うと、青年は腕からそっと手を離した
「怖がらなくてもいい。脅かしてすまなかった」
青年はこの小さな侵入者に微笑みかけた。セテはこの青年の表情に驚いて、しばしポカンと口を開けて彼を見つめていた。先ほどまでの冷たく、挑むような険悪な表情とはうって変わった優しさあふれる青年の顔を見つめているうち、セテはついつい本音を白状してしまう。
「本当にごめんなさい。ただ、この人があんまりきれいなんで見とれていただけなんです。ホントにごめんなさい!」
青年がセテの様子に吹き出し、小さく笑ったので、つられてセテも頭をかきながら愛想笑いを返した。セテはもう一度おそるおそる棺の中の女性に目をやったが、しかし彼女の瞳は硬く閉じられたままだった。
幻覚だったのかな……?
セテは首を傾げて棺の中の女性を見つめた。
「私の名はレオンハルト。君は?」
青年が尋ねたので、セテはあわてて女性から視線を引きはがし、姿勢を正す。
「セテ。セテ・トスキです」
……レオンハルト……? セテはどこかで聞いた名前だなと思ったが、すぐには思い出せなかった。
「……セテか。いい名だ。セテというのはね、古い言棄で『勇気』を表わすんだよ」
そう言って、レオンハルトというこの青年のエメラルドグリーンの瞳がいっそう優しく微笑みかけた。
……勇気……か……
自分の名前の由来など、聞いたことはない。しかも、そんな誇らしい意味があったことなど。照れくさくなったセテは真っ赤になって頭をかくのだが、ふとレオンハルトと名乗った青年の顔を見やりながらセテは思った。
(古い言葉って、いったいどこの言葉だろう? もしかして、さっき歌っていたのはこの人なのかな?)
「それより、セテ。いったいどうやって、なぜここへ?」
レオンハルトの問いかけに、セテはバツが悪そうに頭をかきながらことの成りゆきを説明した。レオンハルトの表情が一瞬険しくなったのに、セテは気づく由もないのだが。
「あのー……。それで、ここは一体どこなんですか? それに、この人は……」
セテはとりあえず現状を把握したい一心で尋ねたのだったが、その瞬間にレオンハルトの顔が少し悲しそうに歪んだのに気づいた。もしかして俺、余計なこと聞いちゃったのかなと後味が悪い思いをしていると、レオンハルトはしばし目を伏せたあと、それから遙か遠くを見つめながらゆっくりと口を開いた。風が舞い、レオンハルトの柔らかい金糸の髪が宙になびいていた。
「この人はね……二百年も前からここでこうして眼り続けているんだよ。死んでいるわけではない。ただ、死よりも深い眠りについているだけなんだ。いつか復活するために……ね……」
「……死よりも深い眠り……?」
セテは棺の中の女性とレオンハルトに交互に目をやりながらつぶやいた。
「じゃあ、空が黄金に輝くと悪いことが起きるっていうのは、この人のせいじゃないんですね? よかった!」
「黄金の空?」
「ええ、昨日の夕方、アジェンタスではたいへんな騒ぎだったんですよ。それでここへやってきたってわけなんですけど。でも俺、さっきこの人の目が開いたの見たんだけどなぁ……気のせいだったのかなぁ」
「何!?」
レオンハルトは棺に駆け寄り、天板の小さな裂け目に手をやった。そしてそれを呆然と見つめているセテの肩をつかんで自分の方に向き直らせると、厳しい表情で彼の肩を揺さぶった。
「セテ、君はいったい何をしたんだ? どうして亀裂が……!?」
「そ、そんなこと言われたって……」
しかし、その先はある気配が遮った。セテだけでなく、レオンハルトも同様に身をこわばらせた。この邪悪な気配、人間の持っているものではない。
「伏せろ!!」
レオンハルトに押し倒されたセテの頭上を、ものすごい勢いで何かがかすめていった。セテはレオンハルトに抱え起こされて立ち上がり、その行き先を目で追う。それははじめもやもやした霧のような状態だったが、渦を巻きながら集合していくと、やがて人にも似た様相を呈してきた。そいつが恐ろしい叫び声をあげると、巨大な骸骨の化け物の正体が現われたのだった。
「な、なんだ!? あれは!?」
セテはそいつが悪意の塊だということをすぐに悟った。そして、嫌悪感と恐怖で体中の力が抜けていくのを感じていた。
「覚えておくことだ。ここは遙か昔、想像を絶するほどの破壊と殺戮のあった戦場跡。やつらは犠牲となった人間たちの成れの果てだ」
「じゃ、ここはもしかして伝説の……!!」
そう言いかけてセテは目眩を覚え、ふらりとレオンハルトの腕に倒れ込んだ。レオンハルトはセテを抱き起こすと、自分の後ろにかくまうように彼を追いやった。
「大丈夫か、セテ。生身の人間なら奴を見ただけでも正気を失う。おそらく、やつらは若い君の生気に引き寄せられて来たんだろう」
レオンハルトがそう説明するのだが、セテは首を振って正気を取り戻すことに必死で、聞き流す程度にしか反応できない。吐き気とめまいが交互に押し寄せてくる、熱病に冒されたときの感覚にも似ていた。
どろどろに朽ちかけた肉片の向こうで、赤く怪しい光を放つ目玉がふたりを睨んでいた。化け物の肩や胸、腹など、ありとあらゆるところから、かつては生きていたであろう人間の顔が、恐ろしい声をあげながらいくつもいくつも浮き上がってくるのが見えた。セテはその姿に小さくため息のような悲鳴をあげた。
「恨みや憎しみを抱いて死んでいった者たちは浄化することもできず、この世にとどまる。それらが凝り固まって思念体となったのがこの亡霊《ゴースト》や死霊《レイス》だ。やつらには人間性のかけらも残されていない。あるのは生への憎しみと執着だけ。やつらにつかまったが最後、魂は喰い尽くされ、肉体はやつらの一部となって永遠に苦しむことになる」
レオンハルトが言い終わらないうちに、死霊《レイス》たちはふたりに襲いかかってきた。セテは反射的に腰の小剣を抜いて応戦したが、霧を切り裂くようでまったく手ごたえがない。それどころか、切りつけたところから新たな死霊がどんどん分裂していくのだ。多勢に無勢。いつのまにかふたりは四方を化け物に囲まれていた。
「よせ!! 普通の剣では役に立たん!!」
セテを後方にかばいながら、レオンハルトは腰から一条の光を放った。まばゆい光がセテの目の前をかすめる。煌めくその光に触れた死霊は、一瞬にして蒸発していった。
それはまばゆい光を放つ一本の剣であった。柄と鍔の部分に見事な装飾の施された長剣。レオンハルトがひと振りするごとに、死霊は断末魔の叫びを残して消えていく。セテはレオンハルトの見事な太刀裁きと、白く輝きを放つ美しい剣にすっかり魅せられてしまっていた。
あの剣……どこかで見たことがある……!? どこで……そうだ! たしか博物館で……!!
そんなことを考えていたセテは、背後に迫る死霊の気配にまったく気付かなかった。次の瞬間、死霊の鋭い爪がセテの肩をえぐっていた。
「セテ!!」
レオンハルトは背後の死霊めがけて剣を振ると、セテに駆け寄り抱え起こした。深くはないが、肩からはどくどくと赤い血が噴き出している。負傷した少年をかばいながらの応戦は、レオンハルトにとってはたいへんな労力に違いなかった。そんなふたりを見て、死霊はにたにたと満足そうに笑いながら揺れている。時間の問題とはまさにこのことだった。
「くそっ!! これじゃきりがない!!」
レオンハルトは剣をくるりと返して切っ先を下に向けると、思い切り地面に突き刺した。剣は深々と地面に刺さり、振動でたわんで空気を震わせた。
「聖剣よ、我が呪文の成就に力を賃し与え給え」
レオンハルトの口から出てきたのは、呪文の詠唱にも似た言葉だった。セテが驚いて見ていると、剣から不思議な光がにじみだし、それは輪のように広がってレオンハルトとセテを包み込んだ。気がつくと、その輪は複雑な文様を描く魔法陣になっていた。レオンハルトは呼吸を整えながら手のひらを胸の前に持ってくると、器用に術者の印を結び始めた。印を結ぶごとに、魔法陣には幾層もの呪文が覆い被さり、さらに複雑な魔法陣を描いていく。
「闇よりいでし者ども、我、光を持ちて永劫の安息を与えん。聖なる御方の御名において我は祈る。聖なる審判の下りぬことを!!」
レオンハルトが印を結んでいた手を解放し、両手で空を凪払うと、あたりが一瞬真っ白に輝いた。次の瞬間には、耳を裂くほどの轟音とともに、無数の白い雷《いかずち》が死霊の本体を直撃していた。すさまじい突風がふたりの周囲といわず視界すべてをなぎはらっていく。雷の直撃を受けた死霊たちはあとかたもなく消え去り、その呪いの声と断末魔の叫びが、乾いた風にか細く溶けていった。
セテはただただ呆然とレオンハルトの後ろ姿を見つめることしかできなかった。どこの町にも、守護剣士といわれる剣の使い手や術者が必ずいるし、物騒な時代なので彼らの実力もなにかとお目にかかることがあるのだが、今見たできごとは、彼らの実力からすると及びもしないような壮絶な技の連続だった。
化け物の掃討を終えたレオンハルトは小さくため息をついて剣を鞘に納めると、後ろでうずくまるセテの肩の傷に目をやった。
「そんなに深くはないな」
レオンハルトはセテの傷に手をかざすと、つぶやくように呪文を詠唱し始めた。
「慈悲深き癒しの神よ。血となり肉となり骨となりて、心正しき者の力となり給え」
すると、傷口の周りを小さな緑色の光の輪が覆う。緑色の光が輝きを増すに従って見る見るうちに傷口がふさがり、やがて跡形もなくなっていった。
「これでよし……と」
レオンハルトはセテの腕をつかんで立たせてやった。セテはいまだに口を開けたまま、呆然とレオンハルトの顔を見つめることしかできなかった。
……あの太刀裁きといい、聖なる属性呪文といい、おまけに癒しの技まで使えるなんて……。この人は魔法剣士なんだ。そのなかでも最高位とされる聖騎士《パラディン》!! だとすれば……この人があの……!!
それを本人に確かめたくて口を開こうとしたときだった。
「見てごらん、セテ」
レオンハルトはセテに周りの廃墟を見るよう促した。素晴らしい文明が息づいていたであろうここには、もうその面影は何ひとつない。すでにこの文明は死んでいるのだ。そしてセテはすべてを悟った。
「ここは……伝説の浮遊大陸ですね?」
セテの言棄に、レオンハルトは静かにうなずいた。
「何百年も前に栄華を誇っていた偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の空中楼閣。〈浮遊大陸衛星〉と呼ばれていた人工の要塞都市だ。だが。この衛星は二百年前の汎大陸戦争で全滅した。浮遊大陸衛星ばかりか、母星の主だった大陸をも巻き込んで、神獣フレイムタイラントは人類を破減の危機に追いやった。戦争は終結し、フレイムタイラントも封印されたが、同時に我々人類は多くのものを失った。そしてたぶん、これからも……。あのとき世界を救った聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》も救世主《メシア》も、もういない」
「いえ、それは違うと思います。聖騎士レオンハルト殿」
うつむくレオンハルトの横顔に、セテは自身を持ってそう言った。驚いたレオンハルトが顔を上げ、セテの顔をまじまじと見つめるのだが、セテはかまわずに先を続けた。
「その剣のレプリカを博物館で見たことがあります。聖剣エクスカリバー。それを持つことのできるただひとりの聖騎士《パラディン》。あなたが聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》のひとり、レオンハルトなのでしょう?」
そう言われ、知っていたのかといわんばかりにレオンハルトは苦笑してみせた。
「空が黄金に輝くのは、救世主《メシア》の強力な精神力による防護フィールドが復活した証、メシア復活の兆しなのだ。しかし、同時に戦乱の世の訪れを意味する。なぜなら、メシアは戦乱を鎮めるために復活するからだ。神々の黄昏期の今、世界を救える力を持つのはメシアだけなのに……彼女はまだ目覚めない。二百年前のあの日から……」
レオンハルトは寂しそうに棺の中の彼女に目を移した。まるで、愛する片割れを失った恋人のような眼差しで。
セテも棺を見つめながら、レオンハルトの心を想う。おそらくレオンハルトは心から彼女のことを愛しているのだろう。そして、これからもずっと、いつ目覚めるかわからない彼女を守り続けて……。
ようやく、彼が先ほど歌っていた詞の内容が理解できたような気がした。言葉はわからなくても、その思いは聞く者の心を締め付ける。
……あなたに逢いたい
あなたの声が聞きたい
あなたの笑顔を
もう思い出せなくなってしまったのはなぜだろう
こんなにも側にいるのに……
あなたはそれを責めるだろうか
きっと明日目覚める……きっとその次の日は……
そう想い続けて、もう何年ここにいるのだろうか
夢でもいいから笑ってほしい……
そばにいて声を聞かせてほしい……
セテの心は熱くなり、自分でも気づかぬうちに、彼の青い双眸から小さな涙の粒がこぼれ落ちていた。
「……優しい少年だな、君は」
レオンハルトはセテの頭を優しく撫でてやった。セテは泣き顔を見られないよう下を向きながら涙を拭った。鼻をすすり、無理に笑顔を作ってみせる。
「そして、とても勇敢だ。君が転移させられてきたのは、母星と浮遊大陸をつなぐイーシュ・ラミナの門《ゲート》だ。世界中にいくつも存在するが、大戦後、私たちはそれらすべてに結界を張り、誰も近づけないようにしてきた。あの結界の守護者をものともせずここまで乗り込んできたのは、この二百年間で君が初めてだぞ」
結界の守護者。すると、これまであの入り口について化け物が出ると噂されていたのも、あながち嘘ではなかったらしい。道理であの怪鳥にはみじんも悪意が感じられず、切りつけても手ごたえがなかったわけだ。
気がつくと、レオンハルトはセテの瞳をじっと見つめていた。またあのエメラルドグリーンの瞳に心の中を走査されているようで恐ろしくもあったが、セテはその真剣な眼差しにためらいがちに見つめ返す。レオンハルトの瞳が少し潤んでいるのは気のせいだろうかと思いながら。
「そうだな。君はいい目をしている。君なら立派な剣士になれるよ」
セテの顔が瞬時に赤くなった。信じられなかった。伝説の、しかも誰もが憧れる聖騎士にそんなことを言われるなんて。
「さて、そろそろ帰りなさい。下まで転移してあげよう。家の人が心配しているんじゃないか?」
その言葉でセテは一気に現実に引き戻される。太陽はとっくに沈み、ビロウドのような闇があたりを支配しようとしていた。なんてったって内緒の冒険。先に帰ったやつらが親に言いつけて、大騒ぎになっているに違いなかった。
「そしてここには二度と近づかないことだ。ここは人類にとって既に存在しないことになっている幻の空中楼閣。今話したこと、見たことも忘れたほうがいい。所詮はカビの生えた伝説でしかないのだから」
「いやです! 絶対に忘れない! 現にあなたはここにいるし、あの死霊たちも難なく呪文でやっつけ……!」
だがそこから先のセテの言葉を、レオンハルトは人差し指を当てて遮った。エメラルドグリーンの双眸が、セテの青い瞳の中で寂しそうに揺れた。
「祈りで人の心の執着を断ち切ることができるのなら……この世に争いごとなど存在しなくなるはずだ。……そうだろう?」
レオンハルトの言棄にいいようのない重みを感じて、セテは黙りこくることしかできなかった。二百年前の伝説の剣士。だが、この人は戦うことを望んでいたわけではないのかもしれない。もしかしたら、戦うことすら憎んでいるのか……。そう思うと、セテは胃の辺りに重苦しいものを感じていたたまれなくなる。
「強くなれ、セテ。他の誰よりも……」
レオンハルトはセテの頬に手をやり、軽く触れた。その手の冷たさにセテは一瞬身を固くしたが、目の前のレオンハルトのエメラルドグリーンの瞳が、無言で優しく自分を包み込んでいるような気がした。
「父なる御方と聖霊のお導きのあらんことを……」
レオンハルトは囁くようにそうつぶやいた。そして再び身体がねじれるような感覚。
気がつくと、セテは自宅の前にいた。家の前では母親と街の人々が彼の帰りを待っていたようで大騒ぎになっていた。母親はセテを見るなり駆け寄ってきて、泣きじゃくりながら彼の身体をきつく抱きしめる。
「お願いよ。もう二度とこんな馬鹿な真似はしないでちょうだい!」
「ごめんよ、母さん」
幼い頃から父は行方不明で、母とふたりきりで生活してきた。セテにとっても母親にとっても、お互いかけがえのない家族であった。しかしとうのセテは、こんな調子じゃ死霊どもに襲われたなんて言ったら気が狂っちゃうだろうな、などと不謹慎なことを考えているところだった。
「決めたよ、母さん。俺、絶対聖騎士《パラディン》になる!」
母の耳元で、セテは元気にそう告げた。母親は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに破顔し、もう一度セテをぎゅっと抱きしめるのだった。
アジェンタスの遙か上空の空中楼閣。廃墟といえどもこの浮遊大陸は、永遠にこの星の周回軌道を移動し続けることを運命づけられている。罪の証を載せたまま、無惨な自分の姿をさらすことで罪を贖うかのように。
そしてレオンハルトは棺の傍らに立ち、静かに眠る恋人を見下ろしていた。亀裂が入っていること以外、眠り続けている救世主に変化はない。
「なぜ目覚めない……」レオンハルトはかすかに震える手で棺をなでながらつぶやく。
「この黄金の空は防護フィールドが複活したことを表すのではないのか。やはり……だめなのか……二百年経った今でも……もう……」
レオンハルトの脳裏には、かつての救世主の姿が思い出されていた。二百年以上も前に起きた汎大陸戦争の最中、彼女はレオンハルトにこう言ったのだ。
「レオン。もし私が倒れたら……あとのことはすべてお前に任せてもいいだろうか……?」
悲しそうに微笑む彼女の、レオンハルトと同じ深いエメラルドグリーンの瞳。銀糸の髪が、爆風になびいて赤く染まっていた二百年も前の記憶。
突然、レオンハルトは激しくせき込んでしゃがみ込んだ。喀血が水晶の棺の上に散った。レオンハルトは口元を拭い、苦しげな深呼吸で息を整える。
「私の命も……もう長くはもたぬな。私の次に、お前を護れる者を見つけなければ……私にはもう……」
そう言って、レオンハルトは棺の上の亀裂に手を触れた。
「それともこの亀裂は、お前があの少年を選んだということなのか? だからこそ、禁忌を破ってまでここへ来ることが可能だったのか……? すでに私ではなく、あの……!」
嫉妬にも似たやるせない思いを込め、レオンハルトは水晶の棺に拳をたたきつけた。レオンハルトの問いかけに、乾いた風が彼女に代わって答えているようだった。黄金の巻き毛が舞い上がり、端正な横顔にぱさりとかかる。レオンハルトは面倒くさそうに前髪をかき上げ、ため息まじりに苦笑してみせた。
やがて、彼は風の向こうに再び邪悪な気配を感じ取っていた。レオンハルトは再び険しい表情で腰のエクスカリバーに手をかける。
「……そう……私たちは……何度も何度も同じことを繰り返しているだけにすぎない……」
すべてを凍りつかせる恐ろしい叫びをあげながら、黒い死霊どもが渦を巻いてレオンハルトの頭上を飛び回っていた。鞘鳴りの音がした。レオンハルトは再び戦士の容《かんばせ》で煌々と輝きを放つエクスカリバーを構えていた。
「祈りや呪文で憎しみを消せるわけがない……祈りで人の心の執着を断ち切ることができるのなら……!」
そう言ってレオンハルトが死霊に切りかかろうとしたそのとき、突然水晶の棺がきしみ、大きく裂けた。次の瞬間、棺の中に横たわる救世主の身体が光に包まれ、光の玉が大きく膨れ上がり、はじける!!
まばゆいばかりの光は周囲の死霊どもを巻き込みながら、音をたてて身をよじる小高い祭壇を吹き飛ぱしていた。瞬間的に防御壁《シールド》を張ったレオンハルトの周りで、瓦礫がすさまじい音をたててぶつかり合い、消滅していった。
──やがて──。
光が闇に飲み込まれ、浮遊大陸にいつもの静寂が戻ってきた。辺りにはもう、死霊の気配は感じられなかった。しかし、レオンハルトは愕然とする。金色の空に水晶の粒がきらきら輝きを放ちながら舞うだけの風景、救世主の姿はどこにも見あたらなかった。
【プロローグ:空中楼閣の聖騎士 完】