Home > 小説『神々の黄昏』 > プロローグ:空中楼閣の聖騎士 > Act.1
神々の黄昏──
天統べる数多の神、人を嘆き、その御姿を御隠せり
人、英知の光失い、時代《とき》、漆黒の夜に包まれり
人の子ら、暗闇の雲、翼広げるを知らむ
恐怖と絶望の復活
されど、何憶もの光を超へ、眼れる救世主、再び目覚めん
やがて、大いなる知恵と力を持ちて、暗闇の雲、追い払うべし──
遥かに輝く、わが母なる大地──。
人の悪行のすべてを飲み込んだまま、なお、有り余る包容カで水をたたえる青き惑星《ほし》──。
真実の扉を隠し続ける、その清き水に守られながら、この平穏な時間《とき》はこれからも永劫に流れていくのだろうか──。
その山は、何かを守るように高く高くそびえ立っていた。広大な緑の平野から突然頭を出し、そのまま悠久の時の流れの中で固まってしまったような奇妙な形の山々が、いくつも連なって白い雪をかぶった連山を形作っている。それらはアジェンタス連峰と呼ばれ、まるで外部から近づくものすべてを威嚇しながら、麓に広がるアジェンタス騎士団領を包囲しているようでもあった。一説によればこの奇妙な形をした連山は、二百年をさかのぼる大戦の際、伝説の炎の竜のはき出した灼熱の炎でえぐられ、変形したのだとも言われているが、なるほど確かに、自然のなせる技にしては芸術的な造型とはほど遠いようにも見えた。
季節はそろそろ春を迎えようとしていた。春先といえども、雪にまみれたアジェンタス連峰に囲まれるアジェンタス騎士団領の日差しはまだ弱い。南北に広がるエルメネス大陸でこのアジェンタス騎士団領は、中央諸世界連合を形成する国家群の中でも比較的北部に位置する。大陸中央の暖かい国々に比べれば確かに冬は厳しく、春先まで雪がちらつくことが多いのだが、それだけに騎士団領の人々は、長い冬が過ぎたあとに訪れる短い太陽の季節を、エルメネス大陸に住む誰よりも待ちわびているのであった。
アジェンタス騎士団領の北はずれにある長い長い林を抜けると、アジェンタス連峰に連なるこの小さな山への入り口がぽっかりと口を開けている。しかし、アジェンタス騎士団領側からその山の周囲は、すべて有刺鉄線の張り巡らされた柵で囲まれており、誰も進入できないように封鎖されていた。もちろん、騎士団領の人々はある奇妙な噂のために、封鎖されていようがいまいが、誰も好き好んでその山に近づく者はいなかったのだが。
その誰も近づくはずのない山の入り口の手前で、四人の少年たちが、この山から連なる遥か遠くのアジェンタス連峰を見上げていた。有刺鉄線を支える柱にぶら下げられている今にも崩れ落ちそうな「侵入禁止」の立て看板が、山々から吹き下ろしてくる風に揺られて、キィキィと耳障りな音をたてていた。
「なあ……セテ。ほ、本当に行くつもりか?」
ひとりの少年が、冷風のためではない冷気に体を震わせながら訊ねた。
「当たり前だろ! この目で確かめてやろうじゃないか。それともお前らおじけづいたのか?」
ひときわ明るい金色の髪と、空の色にも似た蒼い瞳。それがそのまま性格を表しているようなそのセテと呼ばれた少年が、他の少年たちの顔をぐるりと見回すと、仲間たちはとんでもないというように首を振った。セテはその様子を見て、満足そうに首を振ってもう一度ぽっかりと口を開けた洞窟の入り口と、その後ろにそびえるアジェンタス連峰を睨むように見つめた。
それは昨晩のことであった。
夕餉の支度に追われて活気づいていた人々は、アジェンタス騎士団領の東方に位置する山々の上空が、夜だというのに黄金色に輝いているのを見た。それはオーロラのようにゆっくりと、まるで翼を広げるように空を包み込んでいった。黄金の妖精が舞っているかのごとく、美しく、幻想的な風景であった。
騎士団領の人々は誰言うとなく街道へ出てきて、〈神々の黄昏〉伝承の具現だと口々に噂し合った。暗闇の雲が広げた翼。恐怖と絶望が復活する、未曾有の大混乱が再び訪れるのではないかと。
その不安ももちろんであった。大人たちは大陸史や伝承《サガ》で、先の汎大陸戦争の前にも同じように空が黄金に輝いたことを教わっていたし、汎大陸戦争後ただちに封鎖されたこの山の入り口に関する噂を知らない者はいなかったからである。
汎大陸戦争とは、およそ二百年前に起きた大陸レベルの悲惨な大戦である。大陸の大半が海中に沈み、文明も英知も神々も、すべて失われた。現在のエルメネス大陸は、海中に沈むことなく生きながらえた数少ない陸地のひとつだった。そしてエルメネス大陸で生き残った人々は、残されたわずかな知恵と力で国を再建していかねばならなかった。それが神世代元年、いまから二百年前の新時代の始まりだった。
伝承によれば、その汎大陸戦争の勃発前にも空が黄金色に輝いたという。だからこの黄金の空は、神世代に生きる人々にとって凶兆以外の何ものでもなかった。また、汎大陸戦争直後に封鎖された山については、昔その入り口を突破して洞窟に入ろうとした者が、世にも恐ろしい目にあって命からがら騎士団領まで逃げ帰ってきたという話が残っている。やがて噂に尾ひれが付いて(セテが騎士団領の長老に聞いたところ、話の出所がまったくつかめなかったからだ)、入ると崇りがあるだとか化け物が出るだとかで、その山の入り口付近には誰も近づくことはなくなったのであった。
大人たちが不安におののいているとき、少年セテは黄金の空を黙って見上げていた。彼には大人たちが言うような邪悪な気配を、その黄金の輝きに感じることはできなかった。しかし、封鎖されたこの山には何か特別な秘密が隠されているかもしれない。少年たちはあろうことか、この山に登ってみようと計画した。言い出しっぺはもちろんセテだ。
好奇心とほんの少しのいたずら心。期待に胸膨らませながら、少年たちの小さな冒険が始まった。
「封鎖」とはよく言ったもので、山を包囲する鉄柵は錆だらけで崩れやすく、有刺鉄線などはところどころ切れて、容赦ない冷風に無残な姿を晒していた。汎大陸戦争からおよそ二百年、封鎖されてからほとんど誰も見回りにも来ていないのだろう。もっとも、誰が何のためにここを封鎖したかすら、村の長老でさえ知らないのだから当たり前ではある。しかし、鉄柵から山の入り口まではずっと人の手によって整備されたと思われる道が続いており、明らかに汎大陸戦争以前、少なくとも封鎖される前までは、ここが頻繁に使われていたことがわかる。
手をかけて軽く押してみると、錆びついた柵は派手な音をたてて崩れ、驚いた少年たちは耳をふさぎながら周囲を見回す羽目になった。
「何があると思う? やっぱり汎大陸戦争以前の旧世界の宝とか?」
少年のひとりがわくわくしながらみんなに訊ねる。
「だとしたら、すげー大発見だよな! きっと俺たちみんな、騎士団領の英雄だぜ!」
その言葉に少年たちは一気に沸いた。ところが、
「でもさ……」
気の弱そうなひとりの少年が、おそるおそる心配そうな声でぽつりと発言する。
「ほんとに化け物が出たらどうする? 伝説の神獣フレイムタイラントだったりしたら……」
「バカ言え!!」
セテがその先をさえぎった。
「フレイムタイラントは、もう二百年も昔に聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》に滅ぼされてるんだぞ! そんなわけないだろ!」
そうは言ったものの、なんとなく心細くなる少年たち。そうこうしている間に、道は洞窟の入り口の前にさしかかっていた。すでにセテ以外の少年たちは萎縮してしまっていて、先頭を歩くセテの後ろに隠れるように続いている。セテは躊躇することなく洞窟の中に足を踏み入れた。
突然の闇に、目が拒絶反応を起こしたかのようだった。何度も瞬きしながら、セテはなんとか目を慣らそうと懸命に努力し続けた。
山の中をくり抜いて作られたと思われる人工の洞窟だった。中はいっそう冷たくて、暗闇がどこまでも続いているようであった。完全な闇ではなく、ぼんやりと薄明るく感じるのは気のせいだろうか。
セテは洞窟内の壁に手をやり、その表面をさすってみた。暗闇に目が慣れてくると、その壁がわずかに緑色に発光しているのが見てとれた。完全な闇ではないのは、この壁の微光によるものであった。
「なんでできているんだろう? これ」
緑色に発光する鉱物なんて聞いたこともない。それに、手触りからするとどうやらただの鉱物ではなさそうだ。
洞窟の中は入り口に比べて意外に広い。壁からの薄明かりを頼りに奥へと目を凝らすと、視界の先には螺旋状に上の階層へと続く階段があった。セテは満足そうに笑い、仲間たちを振り返る。
「やっぱり。この階段が山の上まで通じているみたいだな」
セテはおびえる仲間たちには目もくれずに、螺旋階段へと足を進めた。そのとき、彼は何かの気配に気づいてほかの少年たちを振り返った。
「……お前ら、今、なんか言ったか?」
仲間たちは顔を見合わせて首を振った。しかし、何かの気配がこの洞窟内に満ちあふれている。仲間たちは誰も気づかないのだろうか。セテはその気配に身をこわばらせた。背筋を走る妙な冷気。殺気とも憎悪ともつかない異様な存在感。無意識に護身用に持ってきた小剣に手が掛かる。そのとき、
「ここより先は通さぬ!!」
地獄の底から響くような恐ろしい声が洞窟内にこだました。次の瞬間、目の前の階段に巨大な黒い影が立ちはだかっていた。
「ま、まさか……ハ……ハルピュイアだ!!」
上半身に美しい女性の身体を持つ伝説の怪鳥ハルピュイアを前に、少年たちは恐怖で身動きひとつできずにその場に固まっている。怪鳥は恐ろしい声でなおも続けた。
「立ち去るがいい! 愚かな人間どもよ! ここはお前たちの来るべきところではない! ここより先、一歩たりとも通すわけには行かぬ! 早々に立ち去るがよい! さもなくば」
突然、ハルピュイアは全幅五メートルもあるかと思われる巨大な翼を広げ、いきなり少年たちの頭上に覆いかぶさってきたのだった。
少年たちは悲鳴を上げて一目散に逃げ出した。ハルピュイアは侵入者が散り散りになったのを見届けると身軽に向きを変え、今度はひとりこちらを見掘えているセテ目がけて急降下してきた。セテは無謀にも、腰に下げていた護身用の小剣を抜いて構えると、突進してくるハルピュイアにかけ声とともに切りかかった。
霧を刻むような不確かな感触。あの角度からすれば、間違いなく怪鳥を両断した手ごたえがあるはずなのに。
呼吸を整えて辺りを見回すのだが、セテの周りには何もなかった。怪鳥の死体も、血痕も。ただ、暗い闇の中に螺旋階段がたたずんでいるだけである。
「……確かに……切りつけたはずなのに……何もないなんて……?」
セテは友人たちに同意を求めるように振り返ったのだが、後ろに彼らの姿はなく、洞窟の外に一目数に逃げていく悪ガキ仲間の後ろ姿が見えた。
「あっ! お前ら! ちょっと待てよ! ちょっ……おいってば!!」
彼らにはセテの声など届くわけなどなかった。なにしろ、セテがここに残っていることすら気付かないのだから。
「……エラソーなこと言ってた割には、てんで腰抜けでやんの、あいつら」
セテはあきれたようにため息をつき、小剣を二、三度振り払って鞘に納めた。仕方なさそうにもう一度階段の方に足を運ぶ。彼には引き返すなんて考えはまったくなかった。それどころか、冒険の序盤でこんな一大事件に見舞われたおかげで、俄然勇気がでてきたらしい。たとえひとりでも、何としてでもこの山にあるらしい「秘密」をこの目で確かめなければという使命感に燃えてきたのであった。
セテは頂上へと続くであろう洞窟の螺旋階段を一歩一歩昇り始めた。闇にうっすらと浮かぶ階段。足を運ぶごとに、セテの胸に期待と緊張と不安が交互に押し寄せてくる。手探りで壁を伝いながら、あるときは凍った床に足を取られ、あるときは崩れてきた氷塊に押し倒され、何度も転げ落ちながら、根気強く階段を踏みしめていった。上へ、上へ。何かが待つこの山の頂上へ。
昇っても昇っても、まだ先は遙かに続いている。もしかしたら自分は迷宮に入り込んでしまったのではないか、一生ここから出られなくなってしまったのではないか。そんな不吉な思いが頭をよぎる。そのたびに、セテは頭を振って思い切りそれを否定する。
やがて、上空の螺旋階段を照らすわずかな光を肌に感じる。出口だ!
疲れも何のその、弾む息でセテは一気に階段を駆け上がった。最後の階段を昇りつめると、サビで覆われて膨れあがった鉄の扉が出口を塞いでいた。寺院などで見かける大袈裟な大扉を想像していたセテは、一般的な家庭でもよく見られるくらいの大きさの、ふつうの鉄扉であることに少しだけ気落ちしたのだったが、明らかにこれは伝説に関連する偉大な発見に違いない。そう思うことにして、セテはその扉をじっくり検分することにした。
手を触れればボコボコと変形した表面が、二百年以上アジェンタスの厳しい風雪に耐えてきたのがよく分かる。また、扉の周辺から外からの光がわずかに漏れているので、それを頼りに目を凝らしてみると、扉の表面にはサビだけではなく、なにか文様らしきものが刻まれているのがわかった。丸い円のようなものだった。もしかしたら魔法陣かもしれない。高なる心臓を抑えながら、セテは扉を力一杯押し開け、あふれてきた光の中に身を投げ出した。
何時間もいたと思われる闇からいきなり光の中に飛び込んで、セテはそのまぶしさに軽いめまいを覚えた。まぶたを閉じても眼球がギンギンと痛む。目を押さえ、こすりながらおそるおそる目を開いたセテが見たものは。
乾いた風が悲鳴をあげて通りすぎていくだけの、何の変哲もない土色をした平らな床であった。そして、左右にはまだ遙か上空にそびえるアジェンタス連峰が見えており、ここが連山の頂上ですらないことは一目瞭然だった。人々をくだらない迷信で遠ざけていた伝説の洞窟の最終地点は、ただの山の頂上に作られた広場同然だった。
「……なんだ……何もないじゃないか」
ため息とともに悔し紛れの独り言がこぼれた。そしてセテは当てつけのようにもう一度大袈裟にため息をついたあと、がっくりと肩を落とした。
見渡せば見渡すほど、セテが友人たちとよく遊ぶ、地元の丘の上にある記念公園のような広場にそっくりで腹立たしい。木や草花などの潤いを与える植物が生えていないだけで、十人くらいで走り回るには十分なほどの広さだ。
帰ったらあいつらに何て言おうか。危険を冒してまで侵入した甲斐があった、誰にも知られていない新しい秘密の遊び場を見つけたぞ、とでも?
セテはそんなことを考えながら、広場の向こうに広がるアジェンタス連峰を恨めしげに見つめた。
広場のすぐ下は切り立った崖だった。そこからおそるおそる覗き込むと、この広場の高さにクラクラくる。どれくらいの時間、洞窟の中の螺旋階段を登っていたのかは分からなかったが、セテは我ながら感心してしまう。そしてゆっくりと視線を移動させると、霞がかった大気に、アジェンタス騎士団領の町並みがうっすらと透けて見えた。
そういえば、自分の住む町の全景を見たことのある人間はいるのだろうか。もしかしたら自分が初めてかもしれない。アジェンタス騎士団領のこんなに美しい光景を、今まで知らなかったなんて。
弱い日差しを受けて町の屋根が輝いて見えた。地元のヴァランタインの学校らしきものも見えて、その向こうに見えるのは、おそらく首都アジェンタシミルにある騎士団領総督府。もっと視線を滑らせると見えてくるのは、騎士団領の向こうに広がる緑一色の広大な平野と点在する小さな集落。残念ながらアジェンタス連峰の影に隠れてしまって、すぐ隣のアートハルク帝国を見ることはできないのだが、この分なら、もしかしたらロクラン王国のあたりまで見渡せるんじゃないか。
しばらく呆然と眼下に広がる美しい風景を見渡すセテであったが、やがて彼は満足したように深いため息をついて頭をかく。
「……そろそろ……帰ろうかな」
元来た道を戻ろうときびすを返したセテの腰から、護身用の小剣がカチャリと落ちた。剣帯の紐がゆるんでいたらしい。面倒くさそうに小剣を拾おうと腰をかがめると、なにげに足元の地面に目がいった。半径一メートルくらいの円のようなものが、土塊の間から少しだけ顔を覗かせていた。不思講に思ってその場に腰を下ろし、顔を近づけて見ると、土の下には魔法陣のようなものがあって、氷にも似た透明な床板がその下に閉じ込められているのが見えた。
セテはその全容を確かめるために、強情にこびりついた土を掘ったりこそげ落としたりしてみた。姿を現したのは紛れもなく魔法陣であった。それは土の地面に透明な板をはめこんだ中に閉じこめられている。その板が氷ではないということは手触りですぐに分かったし、水晶やガラスとも違う、なにか得体の知れないものだ。また、魔法陣の周囲には複雑な呪文《スペル》が何層にも書き込まれ、中央のくぼみに透き通った青い水晶のようなものがはめ込まれていた。術者の使う魔法陣によく似ているが、セテはこんな複雑なものは見たことがなかった。それに、周辺に書き込まれている呪文は、学校などで教わる神聖語とはまったく違うようだった。
セテは持っていた小剣の柄の部分を、上からガンガンと乱暴に叩きつけてみた。しかし、かえって剣の柄が削れてしまうほどの硬さで、板本体にひびひとつ入ることはなかった。だが、諦めて立ち上がろうとしたそのときだった。
魔法陣中央に埋め込まれた青水晶がチカチカと青い光を放ち始めたのだった。それはまるでなにかの合図をしているように点滅し、セテはもう一度座りこんでその不思議な光を食い入るように見つめる。
「な、なんだ!?」
気を失うかと思うほどの一瞬の閃光。もしセテの仲間たちがこの場にいたら、彼らはきっと腰を抜かしたに違いない。セテは魔法陣の上から、一瞬にして姿を消してしまったのだから。