Home > 小説『神々の黄昏』 > 番外編:遠征 > Act.2
モンスターどもは一時退却し、おかげで体勢を立て直すだけの時間がとれた。仲間も何人かひどい傷を負い、先輩連中の中には相当数の死者が出ていた。しかし、すでに術医は殺されているため、術法による手当は不可能。原始的な応急処置程度しかできない状態だった。
崖下の岩場で倒れているセテは、岩にたたきつけられたために額と右肩に裂傷を負い、右腕の肘の骨が細く折れて皮膚を突き破っていた。左利きのセテは剣を振りにくいというただそれだけの理由で、俺たちの標準装備であるショルダーパッドをはずすことが多かったので、それも災いしたに違いない。腹に受けた斧の一撃は相当深く、致命傷ともいえる有様だった。
軍医が崖下から引き上げたセテの容態を見にやってきたが、さすがの彼も顔をしかめた。俺も彼の傷口を間近に見る勇気はなかった。プロテクターのおかげで一命を取り留めたとはいえ、とにかく、腹の傷をなんとかしなくては出血多量で死んでしまう。俺がセテを抱えて担架に横たわらせると、彼は目を覚ましてうめき声を上げた。
「くそ、俺としたことが……!」
いつもの強がりもさすがに弱々しい。頭からモンスターの血をひっかぶったので、セテの蜂蜜のような金髪は乾いた血液でガビガビになっており、自らの血で汚れた顔には玉のような脂汗が浮かんでいた。
「しゃべるな。腹に力を入れると余計な血が流れる」
俺は動こうとするセテを押さえつけてそう言った。裂傷部分に軍医がガーゼを押し当て止血しようとするが、セテは歯を食いしばってうめき声をがまんする。
「傷口を焼いて止血せねばならん。だがあいにく術医がいないんでな、麻酔なしで耐えられるか?」
軍医はセテの顔を覗き込み、尋ねた。セテは脂汗にまみれた顔でいつもの勝ち気な笑みを浮かべると、
「つべこべいわずにとっととやってくれよ」
「あきれた強がりだな」
軍医はため息混じりにそう言うと、セテの戦闘服をナイフで切り裂き、腹の傷を確かめた。傷口を指がなぞるときには耐えきれないのか、セテは俺の腕を掴んで口を押し当てた。爪が食い込んで腕の皮膚をえぐったので俺も思わずうめき声をあげたが、さらにセテは俺の腕に歯をたてた。歯形がつくほどに強く噛みつかれた痛みも忘れて、俺はセテの血で固まった髪を掻き上げ、子どもをあやすように何度もセテの名前を呼んでやった。押し寄せる痛みの波が退いた後、ようやくセテは俺の腕を噛むのをやめたが、くっきりと腕についたセテの歯形が腫れて赤く盛り上がっていた。空に浮かぶ赤い月のようにも見えた。
軍医は俺にセテの両肩を、もうひとりにセテの足をおさえつけるように言った。それから、そばに転がっていた剣を篝火にかざし、その両面をまんべんなく火であぶる。真っ赤に焼けた鉄がキンキンと乾いた音をたてていた。それを何に使うか俺は即座に察した。まさかそんな原始的な治療法を間近に見ることがあるとは思わなかった。そして軍医はためらうことなく、焼けた剣の腹をセテの傷口に押し当てた。
痛みに耐えきれず、セテが絶叫する。どんなけがをしても黙って歯を食いしばっていたのに、こんなふうに悲鳴を上げるセテを見たのは初めてのことだった。さらに身をよじって暴れようとするので、俺たちは渾身の力を込めて押さえつけなければならなかった。
肉が焦げる音と血の焼ける臭いに俺は顔をしかめ、目をそらした。あまりの悲痛な叫びに、涙が出そうになったのをこらえながら。
軍医は焼けた剣を水桶に放り込み、それから簡易な手術道具に手を伸ばす。傷口を焼いたことで血はある程度止まったので、今度は大きな傷口を縫合しなければならない。これももちろん麻酔なしだ。
セテは歯を食いしばってうめき声をあげるのをがまんしているが、閉じたまぶたから涙がこぼれ落ちていた。名誉のために言っておくが、こうしたケガや治療で失禁する大の男も少なくないが、セテは絶対にそんなことはなかった。ただ、たまに耐えきれずに悲鳴をあげて身体をのけぞらせるだけだった。いい加減気を失ってもいい頃なのにいまだ暴れ続けるので、俺たちは軍医にしかられ、セテの身体をさらに強く押さえつけなければならなかった。セテの両肩と足を無理に押さえつけている俺たちにとってはそれは手当ではなく、拷問だ。
うめき声もそろそろかすれて、泣き声のように弱々しくなってきた頃、セテの身体からふいに力が抜けた。セテは気を失ったようだった。力が抜けたのをこれ幸いと、軍医は黙々と縫合作業を続け、手当を完了させる。そのあと傷口に何枚か大きめのガーゼを押し当て、包帯でぐるぐる巻きにすると、今度は折れた右腕の治療に移った。
セテの憔悴しきった顔に、月光が降り注ぐ。せめて気を失っている間の慰みになるようにと、俺はセテの頬にそっと手をやり、涙と汗と血を拭ってやった。
野蛮な手術が終わったあと、痛みをずっとこらえて歯を食いしばっていたために、セテの顔はぱんぱんに腫れ上がってしまった。いい男が台無しだと思いながら、俺は彼の顔を水桶にひたした手ぬぐいで冷やしてやった。
いまは気を失っているのでいいが、おそらく目を覚ませばまた激痛との戦いだ。それに折れた右腕の影響で熱が出るに違いない。
案の定セテはすぐに熱を出し、目を覚ませばうめき声を上げて苦しみはじめた。汗を拭う俺の腕を掴んでうめき声を我慢しはじめたが、セテの爪が食い込んで俺は顔をしかめた。
それは俺たちが岩場で籠城せざるを得ない状態になった三日目の夜まで続き、次第にセテのうめき声も弱々しくなった。
熱に浮かされながらもだえ苦しみ、そして気を失う。俺は彼が目を覚ましているときにはできるだけそばにいてやろうと決心した。
赤い月は今夜も飽きることなく、この戦場に顔を出している。じわりと締め付けるような痛みに気づいて、俺はさきほどセテの爪が食い込んだ腕をまくり上げて月光に晒す。爪の痕は皮膚を少しひっかいた程度でたいしたことはないようだった。だが、そのすぐ近くには、二日前の夜、傷口を焼いた際にセテが噛みついた痕が、まだくっきりと残っていた。
俺は腕についたその歯形の痕を指でなぞった。愛おしそうに歯形のひとつひとつをゆっくりと指の腹でなぞったそのあと、俺はそこに唇を押し当てていた。
俺は月の光のおかげで、少しおかしくなってきていたのかもしれない。
治療の際のセテの表情が、頭から離れなかった。痛みに耐えながら歯を食いしばり、あるいは悲鳴をあげて涙を流すセテが、とてつもなく愛おしく、美しいと思った。
勝ち気なセテがあんな表情をするときが、けがをしている時以外にあるとしたら、それはいったいどんなときだろうか。
もし俺がセテを──。
「……敵の様子は……?」
セテが元気のない声で尋ねてきた。
俺はさっきまでうとうとしていたようで、その声で目が覚めた。すぐにセテの顔を覗き込み、様子をうかがう。セテは少し前から目を覚ましていたらしい。顔の腫れは引いたが、額に浮かんだ玉のような汗が、彼が密かに激痛や熱と戦っていることを物語っていた。
「相変わらず俺たちを包囲したままだ」
俺は周りを見もせず、セテの顔に浮かんだ汗を拭いてやりながらそう言った。
「……俺……ここで死ぬのかな……」
セテは自虐的にそうつぶやいた。めずらしくセテが弱気になっている。手術は成功した。だが、体力が著しく低下しており、この状態が長く続けばそれも冗談ではなくなるかも知れない。
「ふざけんな。なに言ってんだよ。ぶっとばすぞ」
俺はあえて乱暴に答えてやった。ヘンに優しい言葉をかければいらんことを考えるに決まっているから。セテはいたずらっぽく笑った。
「……でも俺……レトのそばで死ねるならそれでいいや」
そう言って、セテは子どものように笑った。
信じられない、とはまさにこのことだと本当に思った。熱に浮かされながら言う台詞だったにしても、あのセテが、俺様でプライドが高くて負けん気が強くて自信たっぷりで、人に自分の弱みを絶対に見せないあのセテが、俺の隣でそんな言葉を吐くなんて、絶対、絶対、絶対にありえないはずなのに。しかも、それは愛の告白かってなくらいにこっぱずかしい台詞をよくも。
だから。
こいつが俺に甘えているような気がして、俺はホントにうれしかったんだ。願わくば、いつもそんな感じでいてほしいところなんだけれども。
「……のどが渇いた……」
ひとり舞い上がっている俺をよそに、セテが一言そう言った。食料は二日目の夜に尽き、水もとうに尽きていたが、俺はセテの分だけはほんの少しだけ残しておいた。俺は隠していた水袋を取り出して、セテの口に近づける。しかし、セテの首が傾いで、押し当てた水袋の口から水がこぼれ落ちた。
「おい! おい! 起きろよ!」
俺は一瞬、セテが本当に死んでしまったのかと思ってその顔をはたいたが、規則正しく上下する胸板を見てほっと胸をなで下ろした。セテはまた気を失ったらしい。熱も上がってきていた。こんな状態が続けばのどが渇くのも当然だ。
俺はうつむき加減のセテの顔を覗き込んで様子をうかがう。
月明かりに照らされる血塗れのセテの顔は結構きれいで、俺としたことがちょっとドキドキした。そういえばこいつ、ホントひげ薄いよな。三日も籠城してたらフツー無精ひげとか生えてくるのに。俺なんかすでにちくちく生えてきててウザったい。
しばらく俺は考えた。よくわからないけど、どうしてだかそういう結論に達した。おそらく、夜空に浮かぶあの赤い月が、俺の心をむしばんでいたに違いない。俺の頭からは、プッツリと「理性」という言葉が消えてなくなっていた。
俺は水を口に含み、セテの顎を掴んだ。そのままセテの唇に自分の唇を押し当て、舌で歯茎をこじ開けて水を押し込む。セテが少し眉をひそめて小さく抗議の声をあげた。口元からこぼれたちょっと生ぬるい水がセテの顎を伝い、胸元に落ちる。それから顎を掴んで上を向かせ、さらに舌で水を押し込んでやる。喉仏がかすかに動いたのを見届けると、俺はもう一度水を口に含んでセテの口内に水を送り込んでやった。
不思議な気分だった。女の子とならいくらでもキスしたけど、まさか野郎とすることになるとは思わなかったし。これがひげ面のブタ野郎だったら絶対してやんないところだ。
傷だらけってのもけっこうそそるもんがあった。ふだん隙のないこいつから無防備な色気みたいなもんが、ケガをしている今漂ってくる感じで。
──いまどんなことをしても、けがをしているこいつは逃げられない。いまだけなら、こいつに何をしても許される──。
ああ、赤い月が俺をどんどん狂わせる。俺はもう完全におかしくなっていたに違いない。俺の頭の中で痛みに耐えながら悲痛な叫びをあげ、切ない声を上げていたセテが、ほほえみながら俺を誘っているように見えた。
──なあセテ、これからも俺の前で、またあんな表情を見せてくれるのかよ──?
そんなことを考えているうちにいつしか夢中になって、俺はセテがむせて吐き出すまで口移しで飲ませるのを続けていた。
突然周囲でどよめきが起こったので、俺は我に返って顔を上げた。周りにいた仲間たちの反応から察するに、岩場を包囲していたモンスターたちがとうとう総力を決して俺たちを皆殺しにする決断を下したらしい。俺は覚悟を決めて腰の剣に手をかけた。
が、即座に俺はモンスターの後ろに翻る戦旗を見て顔をほころばせた。えんじの地に金糸で刺繍された双頭の鷲の紋章。あの誇り高い戦旗が、空を覆うほどにふくれあがった赤い月の光に照らされ、叫び声をあげていた。彼らは間に合ったのだ。
「援軍だ!! スナイプス統括隊長の援軍がきたぞ!!」
仲間たちがそう叫び狂喜している中で、セテはうっすらと目を開け、焦点の合わない青い瞳で俺を見つめ返した。その瞬間に、俺はセテを抱きしめていた。知らずに涙があふれてきた。
「聞こえたか、セテ、援軍だぞ。スナイプス統括隊長が間に合ったんだ!」
セテは小さく頷き、けがをしていない左手で弱々しく俺の肩に手を回した。俺はその手をさらに引き寄せて背中に回させ、セテの傷だらけの身体をしっかりと強く強く抱きしめた。セテの身体に俺の体温が伝わっていくのが分かる。涙も身体も、生きているって感じがして、すごくあったかかった。
総督府の騎士団病院の入り口で、俺はさっきから足をブラブラさせながら花壇に腰掛けたり、そうかと思ったら立ち上がってウロウロしたり、ずいぶん落ち着きのないアブナイ人を演じていた。
今日はセテが退院する日だ。もちろんそれであいつを迎えに来てはいるのだが、正直言えばセテに会うのがちょっとだけ怖かった。これまでのように病室まで行って「よう、元気そうだな、迎えにきてやったぜ」なんて言えればいいんだけど、なんとなく後ろめたいというか。
意識のない間のこと、あいつが覚えているわけもないんだけど、なんとなく──な。どさくさに紛れてあいつに口移しで水飲ませちゃったっていうか、いや、あれは立派なディープキスだ。しかも男同士の。
俺としたことが不覚だ。あのときは本当にどうかしてると思った。頭上に輝いていた赤い月の魔力がなせる技だと思いたいけど。あれが俺の本心だとは思いたくない。あいつのことそんなふうに見てたなんて、恥ずかしいのを通り越して自己嫌悪にまで到達している。
だから、迎えに来てやったのはいいけどこうして情けなくも入り口でウロウロしているというか。あーもう、俺ってこんなにウジウジ悩むヤツだったっけか。頭をくしゃくしゃとやりながら、俺は大きなため息をつき、花壇に腰掛け直した。
「あれ? レト?」
歯切れのよい声が聞こえて、俺は顔を上げる。寝間着やら手ぬぐいやらの入った鞄を担いで、セテが入り口から歩いてきて俺に気づいたらしい。肩の傷やら骨折やらは、いまでは心霊治療で完治していた。致命傷だった腹の傷も、おそらく少しだけ肉の盛り上がりが確認できるだけで、なんてことないものになっているはずだ。
「よう」
俺はさっきまでの葛藤を見せないよう、いつものように片手をあげてやつに挨拶をした。
「迎えにきてくれたのかよ」
セテはうれしそうにほほえんだ。月とは対照的な、太陽のような金髪と笑顔があいつの人生そのものを象徴しているような気がする。セテは、本当に太陽に照らされた明るい日中が似合う。
「まあ、な。どうせ今日は非番だし」
俺は照れ隠しに鼻をすすった。主人を見つけた子犬みたいにうれしそうにセテが駆け寄ってくる。
「もういいのか」
「おかげさまで。このとおり」
セテは折れた右腕やらえぐれた肩やらがもう完治していることを示すように動かしてみせた。確かに、たった二週間で完治させられるなんて、術医ってのは本当にたいしたもんだと思う。おまけに顔色もすこぶるいい感じだ。
「まったくな、お前が入院するなんて、ホント、冗談キツイぜ」
「だよな。あんなケガすんのだって、生まれて初めてだったもんな。死人を悪く言うのは好きじゃないけど、ペトルーシじゃなくてスナイプス隊長が指揮してくれてたなら、この俺があんなケガなんかするわけねえっての。不覚中の不覚ってカンジ」
始まった。のど元過ぎればなんとやら、元気になったらすぐこれだ。ま、それもこいつのいいとこのひとつなんだけどな。
「そういえばさ、お前、〈鬼の河原〉で俺に水飲ませてくれたろ?」
セテがふいにそんなことを尋ねるので、俺の心臓は凍り付いた。俺は返事もできずにただ頷くしかできなかった。まさかこいつ、あんとき起きてた? 俺がこいつにベロチューかましたの、ばっちりバレてる!?
「なんかさ、そんとき不思議な夢見てたんだよなぁ」
げげ、まさかと思うけど、俺がベロチューしてる夢ですかぁ!?
「よく分からないけど、お前が血まみれで倒れててさ」
なんだ。俺はとりあえずほっと胸をなで下ろす。ヤローとベロチューなんて知れたら、たとえ相手が親友の俺でも怒り狂って殺されるかもしれない。
「俺はそんなお前を雨の中、抱きかかえててさ。泣いてんの。お前、俺に言うんだ。最後だから聞いてくれって。もう何を言われたのか覚えてないけど、俺、夢だって分かってるのにとても悲しくて涙が出そうになった」
そのときのセテの表情といったら、遠くを見つめていて、すごく寂しそうだった。遠のいてるのはお前のほうじゃないかって思うくらいに。
「なにバカなこと言ってんだよ。俺がお前を残して死ぬわけねーだろ?」
俺はセテの頭をはたいてそう切り返してやった。そうでなければ押しつぶされそうだった。よく分からない不安が心の中に広がって、それが現実の世界になってしまうような気がした。
「そう、だよな。夢の話……だよな」
セテは弱々しくほほえんで俺をじっと見つめた。すがるような目。五年前にあいつが死にかけたとき、病院で見たのと同じような、捨てられることを悟った子犬みたいな目で。
俺はすかさずセテの頭をまたはたいて、笑ってやった。正夢が現実にならないようにする、おまじないみたいなもんだ。セテは安心したようにほほえみ、俺の頭をはたき返してきた。
赤い月の替わりに、見上げた空に浮かぶのは、黄金色に輝く太陽。セテの髪と同じ色。
俺は密かに胸に手を当て、名も知れぬ神々と太陽に祈りを捧げた。
その悪夢とやらが現実にならないように。
どうかセテに災いをもたらすすべてのものから、セテをお守りください。
なんて。
──もしかしたらイチバンの厄災は、俺かもしれないけどな。
【番外編:遠征〜Red Moon Calls Insanity〜 完】