Act.1

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 巨大なその赤い月は、いまにもドクドクと脈打ってどす黒い血をしたたらせるのではないかと思われるほど、不自然な色をしていた。その下にいる俺たちに、狂気にまみれた血液をふりまきながらあざ笑うように。ちっぽけな俺たちは、確かにあの赤い月にも似た血にまみれ、傷ついた戦友や残り少ない戦力を気遣って身動きできずにいる。なんて無様だとあざ笑われるのも当然だ。だが、そんな様がひどく気に入らなかった俺は小声で悪態をつくと舌打ちをし、それから身を潜めていた岩場の影から少しだけ身体を乗り出して夜空を血に染める月を見上げた。
 間近に見える巨大な赤い月。何千年、いや、何億年か? そんな遙か昔から、この星で起こるいざこざを見てきたに違いない。馬鹿な人間。何度同じことを繰り返せば気が済むんだろう。そうやってあざけるように、こうした戦場にも顔を出して俺たちをただ見つめる。
 忌々しげに見つめればたいそう美しくて、禍々しい血の色にひどく心が奪われる。大昔、この月を見ることで獣に姿を変えるという人間の陳腐な小説があったらしいが、その気持ちも分からなくもない。この月を見ていると、自分の中の狂気が引きずり出されるような恐怖と、それと同時に解放されるような奇妙な安心感が入り交じった不思議な感覚に囚われてしまう。
 もしかしたら、俺は少しずつおかしくなってきているのかもしれない。そんなふうに考えると、知らずに身体が震えた。
 そういえばこの月を見るのは何度目だろう。三度目か──。
 そうぼんやりと思い返すと、すでにあれから丸三日経とうとしていたことに気づいて、再び俺は口汚くあのクソデカい月を罵った。
 最悪の事態。俺、レト・ソレンセンが参加しているアジェンタス騎士団の遠征部隊は、この殺風景な岩場で身動きをとれなくされたばかりか、周りを今回の標的どもに取り囲まれていた。岩場の背後は切り立った崖で、まさに背水の陣といった状態だ。同時に、味方にはもう満足に戦える戦力は残されていない。最強を誇るアジェンタス騎士団はすでに満身創痍だ。この遠征は失敗に終わるのかと、俺は隣で横たわる親友のセテを見つめながら思った。
 岩場の間の、少しはましな足場にテントの切れ端を敷き、毛布にくるまれて横たわるセテは形ばかりの応急処置を受け、血まみれの包帯でグルグル巻きだ。額や肩の裂傷と右腕の骨折、それから腹部をえぐった切り傷。セテがこれだけの重傷を負うのはたぶん初めてだったと思う。とにかく、それくらい今回の任務は無謀だったんだ。
 あのクソ指揮官が任務に参加する騎士をケチりやがったせいだ。セテが前半で動けなくなったために俺たちの戦力は半減したに等しかったし、そもそも今回の指揮官は腰抜けで、装備も不十分、作戦の詰めも甘い。指揮を執るのがスナイプス統括隊長だったら、事態はこんなに深刻にならなかったはずだ。
 いい加減俺も元気がなくなってきた気がする。正直言ってハラが減った。昨日食料が尽きてから、俺は何も口にしてないし、水はけが人の分以外はとうに切れていたし。だいたい、たった二日分しか食料と水を確保していないなんて信じられるか?
 あれこれ考えても仕方ない。俺はとりあえず今は気を失っているセテの側に行き、汗と血が乾いてガビガビになったその額に手を当てる。熱はだいぶ引いたようだ。だが、たぶんまた目を覚ませば激痛に苦しみだし、そして熱も上がる。さんざん苦しんだあとに気を失う。二日前の夜からその繰り返しだ。
 早くセテを病院へ連れていかなければ、そろそろこいつの体力も限界だ。もちろん、セテの他にも大勢の味方がけがをして身動きがとれなくなっている。ここを突破しようにもその戦力は残されていないし、俺たちができるのは、ただ、味方の援軍がたどり着くのを待つだけなんだ。
 アジェンタス騎士団領とアートハルク帝国領の国境近くに広がる、通称〈鬼の河原〉と呼ばれるこの岩場付近で、レベル3程度のモンスターが徘徊していた。その掃討が今回の任務だった。





 バカな俺の頭だとうろ覚えだが、そもそも旧世界以前には、この世界にモンスターなんてものは存在しなかったらしい。少なくとも汎大陸戦争のときはモンスターは人のために戦っていたというし、汎大陸戦争後には神獣フレイム・タイラントをはじめ、雑魚モンスターにいたるまで、聖騎士の始祖レオンハルトを中心とした聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》によって、それぞれの属性に見合った封印に封じられたはずだった。
 それがここ最近たまに封印がほころぶのか、俺たちのこの世界に実質化して、住人たちをひどく脅かしている。人に仇なすモンスターをやっつけることもアジェンタス騎士団の重要な任務のひとつで、遠征といえばこのモンスター退治だったりする。
 ほとんどが頭の悪いモンスターだから、半日もあればカタがつく。術法を使えるちょっとかしこいヤツでも一日くらい。だから今度のモンスター退治も一日で終わるはずだった。
「以上が作戦の概要だが、なにか質問は?」
 二日前の朝。申し送りが済んで遠征に参加する騎士たちがずらりと並び、作戦概要を聞き入るなか。史上最悪のダメ指揮官ペトルーシが俺たちの顔を見ながらそう言った。
 どう考えても目標を軽視しすぎではなかろうか。正体不明のモンスター相手に、術医以外の術者もつけず、騎士の数だって少なすぎる。食料と水の量だってなにかあったときに即補充できるような場所ではないし、余裕を持っておくのが当たり前だろう。このバカ、何考えてんだ。なんてことを俺も、俺だけじゃなくて周りの先輩たちもちょっと考えていた。スナイプス統括隊長はこのとき別の作戦で出払っていて、だからといってよりによってこいつが指揮官というのも、ガラハド提督にしてはあんまりの判断じゃないかと思った。
 このペトルーシってやつはスナイプスとたいへん仲が悪い。自分はスナイプスとは違って知能的に作戦を進めるのが得意だとかなんとか豪語して、スナイプスのやり方にいつも口を挟んでいた。知能的なんていうのは大間違いで、単に実戦経験が少ない頭でっかち。ウワサじゃ中央特務執行庁に勤務するはずだったらしい。が、どこをどう間違ったのか地方の騎士団に転属というわけだから、たかが知れている。おっと、そういえばセテも中央特務執行庁からの出向だったな。ま、いっか。
 ペトルーシはこれまでの作戦で、装備もなにもかもケチってよく負傷者を出していた(もちろん、予算縮小は最近のアジェンタス騎士団でも重要な施策のひとつでもあるが)。おまけにどういうわけか、スナイプスに気に入られているセテが大嫌いらしい。
 間髪入れず、俺の隣で作戦概要を神妙な顔つきで聞いていたセテが突然挙手をして発言した。
「……食料も水も二日分しか持っていかないというのはどうかと思いますが」
 さすがセテ、俺たちが言い出しにくいことを、上官に対してだろうがなんだろうがズケズケと言う。戦で最も大切なものは食料と水、当たり前のことだ。だが待てと俺は言いたい。ペトルーシに嫌われてるんだから、ここでお前がそんなふうに発言するとまずいだろっての。ペトルーシがわざわざこの作戦にセテを引き入れた理由はただひとつ。セテの失敗をスナイプス失脚の材料のひとつにするつもりなのだ。
 ロコツにペトルーシがいやーな顔をしたが、この指揮官、次になんて言ったと思う? キミがいればモンスター退治なんて二時間で終わるだろう、だってさ。嫌みたっぷりにね。あの野郎、セテのことを疎ましく思ってやがるくせにどこかであいつの能力を当てにしてやがる。まったく気にくわない。
 結局俺たちはたった二日分の食料と水を携えて、〈鬼の河原〉まで遠征するハメになった。装備を調えている最中のセテときたら、ものすごい顔つきで壁を蹴り、悪態をつきまくっていたが、そのうち何か思いついたような顔をして、鼻歌混じりに装備を調えだした。こいつがこういうときは、なにかよからぬことをたくらんでいるときなんだけど。
 そのモンスターが徘徊するのは夜だったため、俺たち遠征軍は昼過ぎには〈鬼の河原〉に到着し、そして早々に陣取った。ごつごつした岩場にテントを張るのはとても骨が折れたが、どうにかこうにか作業を終え、とりあえず食事の支度に取りかかる。
 頭にきていたから、俺とセテは仲間たちと共謀し、ペトルーシ指揮官のテントはめちゃめちゃ足場の悪いところに作ってやった。ざまみろってんだ。もちろんそのあとペトルーシのヒステリーによって、もう一度やつのテントを設営することにはなったのだが。
 セテは実はこういう小さないやがらせが得意だったりする。ついでに指揮官の寝袋に途中でつかまえてきたネズミを二、三匹入れてやるセテを見て、こいつだけは敵に回したくないと思った。







 突然の敵襲だった。歩哨に立っていた新入りがふたりやられたのを合図に、モンスターたちが俺たちの陣にいっせいに攻撃をしかけてきた。俺たちは即座に戦闘態勢に入り、それぞれ剣を抜いて応戦する。
 信じられないことだが、モンスターは人によく似た姿をしていた。アジェンタスみたいな寒い地域にはいないから俺も実物を見たことはないが、「猿」って動物くらいの大きさで二本足で立っていた。顔も身体ものっぺりとしていて暗闇で光を放つ、薄気味悪い化け物だ。やつらが手にしている武器を見て、俺たちは最初ひどく狼狽した。やつらは道具を使うのだ。つまり、「知能」があるってことだ。
 セテは自慢の愛刀・飛影を抜き、俺の脇をすり抜けていった。目にも留まらぬ早さで剣をなぎ払うと、彼を取り囲もうとしていたモンスターの一群が悲鳴をあげてのけぞり、足下にひれ伏す。
 何度となくセテが戦うのを見てきたけれど、同性ながらあいつはホントにかっこいいと思う。まさに剣を振るうために生まれてきたって感じだ。篝火に照らされた金の髪が光って見えて、まさに「戦神」みたいな神々しさを放っていた。
 セテの反応速度はハンパじゃない。騎士団随一のやつの素早さの前には、どんな剣士もひれ伏すだろう。いま敵を斬って捨てたかと思うと、返した刃で反対側にいたモンスターを斬りつけ、すかさず足場を確保する。誰に教わったわけでもないのに、どんな逆境においても身体が自然と自分を有利なほうに導いていくんだろう。戦い方というやつを生まれながらに知っているに違いない。俺もそれどころじゃないけど、ついついヤツの動きには見とれてしまうことがある。
 ふと悲鳴が聞こえて、俺はその声に引き寄せられるように振り返る。なんてこった! 俺たちに同行していた術医がモンスターに殺された瞬間だった。
 術医は非戦闘員だから武器を持っているわけではない。それに、術医がいなければけが人を術法で応急処置できなくなる。やつら、単に俺たちを皆殺しにしようとしているのか、それとも計算尽くでやっているのか。
「レト!!」
 セテの声で俺は我に返り、頭上に迫るモンスターの斧を防ぐ。斧だって? こいつらばかだ。俺はモンスターののっぺりした薄気味悪い顔を見ながらつばを吐いた。
 斧は辺境のバルバロイ《野蛮人》が好んで使っている武器でもあったが、剣と違って防御ができないので、俺たち剣士は斧の使い勝手をかなりバカにしていた。攻撃力は確かに高くても、防御のできない武器を本物の戦闘で使うことなんてあり得ないからだ。
 俺はすかさずモンスターの股間に蹴りを入れ(股間なんてものが存在すればだが)、うずくまったそいつに思い切り剣をお見舞いしてやった。血しぶきが跳ね返り、俺の戦闘服は血塗れになった。
「レト! ペトルーシが!」
 ひととおり周りのやつらを殲滅したセテが俺の隣にやってきて叫んだ。見ると、ペトルーシ指揮官はモンスター相手に苦戦しているようだった。
「あんなヤツほっとけよ! トスキ!」
 近くにいた先輩がそう言った。戦場で味方に見殺しにされるってのはホント怖い。こういうときに人徳というやつが重要になってくるとは。昔セテが先輩連中と喧嘩をしたとき、スナイプスが「味方の信用を勝ち取れなければ味方に殺される」と言っていたのを聞いたが、それが本当に現実のものになるとは思わなかった。
 ところがセテは憤慨したような顔をして、
「そういうわけにはいかないだろ! レト、食料と水だけは確保しといてくれ!」
 そう言うと、セテは悪戦苦闘のペトルーシを援護しに走り出した。俺と先輩はやれやれと肩をすくめると、ふたりで食料のテントを守ることにした。
 セテはモンスターの脇に滑り込むように近づき、二、三度剣を振るった。モンスターの腕が吹き飛び、ひるんだ隙にセテはペトルーシをかばうように前に立ちはだかる。その時のペトルーシの表情と言ったらなかった。あれだけ目の敵にしていた部下に救われたんだ、あいつも少しは性根を入れ替えるだろうと思った。
 が、突然セテは見えない力ではじき飛ばされ、後ろの作戦会議用テントに派手に突っ込んだ。柱が折れ、天幕がセテの頭上に覆い被さる。やつらは武器だけでなく、どうやら術法も使うらしい。分が悪いとはまさにこのことだ。
 セテは天幕の中でもがきながらやっとのことで起きあがるが、その間にペトルーシはモンスターの斧のエジキになっていた。まっぷたつに裂かれた身体から噴水のように血が噴き出し、足下に転がったペトルーシの上半身は、死にきれなかったのかいまだびくびくと痙攣していた。
「野郎、上等じゃねぇか!!」
 セテは叫び、モンスターめがけて剣を振り下ろした。モンスターの上半身がごとりといやな音をたてて岩場に転がり落ちる。吹き出した血にまみれながら、セテは吼えるように叫び声をあげて別の一群に剣を振りおろした。
 再びセテは術法ではじき飛ばされ、テントのポールに叩きつけられる。悪態をつき、落とした剣を拾おうとした次の瞬間、モンスターの振りかぶった斧の切っ先は、セテの腹に見事に命中していた。
「セテ!!」
 俺は先輩が止めるのも聞かずに、まっすぐにセテ目がけて走り出した。セテは、胸から腰の辺りまでをガードするプロテクターを突き抜け自分の腹に突き刺さった斧を確かめるように見つめ、それから呆けたような顔で敵を見つめ返す。不覚中の不覚といった表情だった。震える手で足下に転がった飛影の柄に手を伸ばすが、大量に血を吐き、むせてそれもままならなかった。
 俺は狂戦士《ベルセルク》のように叫び声をあげて突進した。気が動転していたのでどうやってそこまでたどり着いたのか知らないが、モンスターのいやな血を頭から浴びたところを見ると、めちゃめちゃに剣を振り回していたに違いない。
 しかしすぐさま俺の目の前でモンスターの放つ術法が発動し、セテはテントごと吹き飛ばされて岩場のすぐ下の崖に姿を消した。

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