Act.2

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「ガートルード……」
 いつからそこに、とでも言いたかったのだろう。だがその先を飲み込んだ兄の苦悶に満ちた表情を見て、ガートルードは震える口元を手で覆い、わずかに首を振ることしかできなかった。
「……驚かすつもりはなかった。あなたを盗み聞きしていたなどと責めるつもりもない、逆に非礼を詫びたい。だけど本当のことだから、どうかそんな顔をしないでほしい」
 ダフニスはガートルードに向きなおり、許しを請うかのように手をさしのべた。ガートルードは恐縮し、少しだけ膝を曲げて皇太子の詫びの印を丁重に断った。
 差し出されたダフニスの指先は、髪や肌と同様に驚くほど白く、目はウサギのように赤い。加えて成長の遅い女性的な体つきは、典型的なアルビノ体質。中央諸世界連合の調査結果は表に出ることはなかったが、報告にあったサーディックの異様なまでの残虐性や目の前のダフニスの姿が、アートハルクの二百年に満たない歴史の中でなにが行われてきたかを知るなによりの証だ。
 サーディックの悪政はエルメネス大陸中に聞こえるほどのものだ。この神世代に前時代的な恐怖政治が存在するなど、中央諸世界連合評議会にとってはあってはならないことであったし、そして絶対に解決しなければならない問題のひとつであった。何度か中央特使が中央評議会の要請を受け、アートハルク皇帝サーディックに謁見と国政に関する視察を申し込んだものの、それはサーディック自身にことごとく拒否され続けていた。特使が動いたからには、いよいよサーディック暗殺計画が始動したのではと、聖騎士団や聖救世使教会にまで噂は届いたものだった。
 そんな中、特使に代わって聖救世使教会の命を受けたレオンハルトは、聖騎士団の代表としてアートハルクの視察に訪れることとなったのだ。無論、表向きは表敬訪問として、妹のガートルードを伴ってきた。サーディックとしてはレオンハルトの訪問はまったく不本意であったのだが──サーディックは以前から聖騎士の始祖であるレオンハルトが大の苦手だったと聞く──アートハルク内での術法開発に対する多額の奨励金を約束した聖救世使教会の申し出を断るわけにも行かず、国賓として彼らふたりを迎えることになったというわけだ。
 だが聖騎士の滞在中、突然の民衆の暴動になすすべもなく、あっけなく残虐王は死んだ。王や要人を守るのを第一としなければならない聖騎士がサーディックを救えなかったことは、通常であればレオンハルトの手痛い失敗だ。だが、あえてそれが不問に付されたのは、中央の思惑どおり長子のダフニスを皇帝につける好機が巡ってきたからだとレオンハルトもガートルードも思っていた。民衆も強くダフニスの統治を望んでいた。
 だが実際は。
 ダフニスは宮殿内でなんの力も持てないのだ。いまだ根強く残るサーディックの呪縛、すなわち、子飼いの官僚たちや廷臣がサーディックの遠縁の者を摂政に立て、統治したがっているうちは。
「レオンハルト殿、貴殿のアートハルク入りがただの表敬訪問でないことは知っているつもりだ。ましてや役立たずの皇太子の顔を拝みにきたわけでもない。聖救世使教会がわざわざあなたを寄越すからには、父を特使の暗殺計画から守るためというわけでもないでしょう。貴殿には機密保持義務があるから答える必要はないけれど」
 ダフニスは鋭い視線でレオンハルトとガートルードを見やる。時折見せるそうした表情が、噂に聞く『出来そこない』で『頭の足りない』皇太子のものでないことは明白であった。
「あなたと、あなたの国をお守りするためです」
 レオンハルトはいつものとおり、なんの感情も交えない冷徹な声で答えた。ダフニスはそれを鼻で笑うと、
「わたしの? ここはわたしの国ではない。父の国だ」
 憤慨したような口調でダフニスがそう返す。
「ですが、あなたはこの国の正当な皇位継承者です」
 辛抱強く言うレオンハルトを炎のような瞳で睨みつけると、ダフニスは唐突に背を向けた。これ以上話しても埒があかないといった仕草のようにも見えた。
「わたしが父から与えられたものは何もない。統治者としての知識を授かることもなかった。わたしはこの国の皇帝になどなるつもりはない。皇帝など、なりたいものがなればいい」
「殿下!」
 そう叫んだのはガートルードだったか、それともレオンハルトだったか。
 全身の皮膚が粟立つ感覚とともに空気が膨張する、術法の発動する気配。レオンハルトがダフニスとガートルードのふたりをかばうために駆け寄るよりも早く、突然三人に襲いかかった攻撃術法は、展望台の手すりに身を預けていたダフニスの身体をかすめ、レンガ造りの城壁を激しくえぐった。続けて第二波が押し寄せる。土塊のようにはじける展望台の柵に押しやられ、倒れこんだガートルードが顔を上げたときには、ダフニスの身体は彼の白銀の髪とともに大きく弧を描き、決壊した展望台から転げ落ちようとしていた。
「殿下!」
 もう一度、ガートルードは悲鳴のような声でダフニスを呼んだ。しかしその直後、黄金の聖騎士の金髪が大きく揺れ、乗り出した身体に伝わる衝撃の強さを語る。レオンハルトの力強い腕が、崩れた展望台の縁で見事にダフニスの身体を支えていたのであった。
 ガートルードは即座に周りを見渡し、攻撃術法の気配がなくなったことを感じ取ると、爆発音に気付いて駆け上がってくる近衛兵たちの足跡を聞きながら兄に駆け寄る。崩れ落ちた壁ぎりぎりのところで自分の身体を支えるレオンハルトは、歯を食いしばりながらダフニスの腰に回した腕にさらに力をこめる。発育が遅く、細身の身体とはいえ、ほぼ全身が中空に投げ出された形のダフニスを片手で支えるには相当な筋力が必要だ。ふたりの身体がずり落ちるのは時間の問題だった。
「離せレオンハルト! 貴殿まで落ちる!」
 ダフニスは身をよじり、そう叫んだ。レオンハルトはうっすらと額に汗を滲ませてはいるが、いたって冷静な表情のまま、
「しゃべらないで。しゃべると余計な筋肉が動いて……力が抜けますから」
「それこそ本望だ。このまま死なせてくれることほどうれしいことはない」
 にやりと、不敵にダフニスは笑った。その凶悪に歪んだ笑みを浮かべる表情は、例え憎んでいたとしても、残虐王の血を紛れもなく引いている人間であることを証明するかのようだった。
「殿下、手を」
「離せ、わたしにかまうな」
「殿下!」
 レオンハルトの叱責するような声に、ダフニスは唇をかみ締め、静かに首を振った。閉じたまぶたの端に涙が滲んでいるのが見えた。
「なぜ……今になってやってきた。なぜ今になってわたしの前に現れた。なぜわたしの罪を見透かすようなその目で、わたしをまっすぐに見つめる」
 そうして、皇太子の色素のない顔に異様なまでに輝きを放つ、真紅の瞳がゆっくりと開かれる。睨むような視線でレオンハルトを見やるダフニスの目は、涙に潤んで余計に赤く、さらに奥深く根強い憎悪をたぎらせているようだった。
「もっと早く貴殿がここへ来ていれば、わたしは父を……!」
 レオンハルトの腕を振り解こうと、ダフニスは激しく身をよじった。ずるりとレオンハルトの腕がすべってダフニスの身体が大きく揺れ、レオンハルトの身体も崩れた壁から滑り落ちそうになる。そこでレオンハルトは渾身の力をこめてダフニスを抱き寄せると、彼の頭をかばうように自分の胸に押し付け、身体を丸める。再びガートルードの悲鳴が響き渡る中、ふたりの身体は大きく揺れ──。
 あわやというところで、駆けつけた近衛兵たちがふたりの身体を引き上げていた。その傍らにガートルードが座り込み、癒しの術法の呪文を静かに詠唱し始める。ダフニスは足に少し瓦礫の破片を受けて擦り傷をこしらえている以外は特に外傷はないのだが、優しい詠唱の声で少しでも気が紛れると思い、ガートルードは子どもをあやすように小さな声で詠唱を続けた。
 バラバラと無粋な音を立てて近衛兵が周囲を探索する喧騒の中、ダフニスとレオンハルトは互いを抱きしめ、無言で座り込んでいる。若き皇太子は抱きかかえられるように、その顔をレオンハルトの胸にうずめたままで。そしてレオンハルトはダフニスの白銀の頭を両腕でかばうように抱きしめたまま。ダフニスの細い肩にはレオンハルトの見事な黄金の巻き毛が幾筋もからみついていたが、それは小刻みに震えていた。ダフニスは声を殺して泣いているようだった。
「お怪我はございませんか、殿下」
 泣いて許しを乞う子どもに言い聞かせるようなレオンハルトの声。だが、ダフニスは激しく首を振って拒絶の意志を表明する。
「なぜ死なせてくれなかった……。わたしを疎ましく思う人間がわたしの命を狙っているのは前から知っていた。だからここなら静かに逝けると思ったのに……なぜ今日この場にいて、余計な真似をしてくれたんだ」
「要人の安全をお守りするのも私たち聖騎士の任務のひとつです」
「任務……か、ふん。ではこういううわさ話はどうだ」
 不粋な聖騎士の言葉に、ダフニスは鼻をすすりながら笑った。
「物心ついたときから実父の慰み者にされ続け、人間以下の扱いを受けてきた実の息子が、あるときその地獄から逃れる方法を思いついた。それしか彼に選択肢はなかった。人間としての感情を久しぶりに覚えたのは、その方法を思いついたそのときだった」
 ダフニスは顔を上げ、レオンハルトの顔を睨むように見つめる。その口元には再び凶悪な笑みが浮かんでいた。
「彼が考えたのは、父の暴虐を以前から正そうとしていた人々の力を借りること。彼らに接触して、城内の逃走経路を確保してやる。警備が手薄な場所ももちろん彼らに教示して。そうして父を暴徒に襲わせ、近衛兵がやってくるのを足止めする手はずで、首尾よく、見殺しにするんだ」
 それからダフニスはレオンハルトの黄金の髪のひと房を乱暴に掴み、彼の顔を引き寄せる。狂気を宿すような真紅の瞳に縛られたレオンハルトは、身動きひとつできないようだった。しだいにダフニスの呼吸は声の抑揚とともに荒くなり、うなるような苦悶の叫びとなっていく。
「貴殿は知っていたはずだ。貴殿がこの宮殿に最初に訪れた日の夜、なぜわたしが闇夜に紛れて庭を彷徨っていたか。なぜ暴徒が首尾よく城から逃げおおせたか。わたしは……!」
 だがその先は続けられることはなかった。レオンハルトの大きな手が、皇太子の唇を覆っていたのだった。
「それ以上言ってはなりません『陛下』。お忘れなく。私は聖騎士です。その先を告げたならば、私は見過ごすことができなくなるでしょう」
 囁くように、だが強い意志を込めた口調でそう言うと、レオンハルトはダフニスの手を引いて立たせた。そして視線でダフニスに約束させると、静かに皇太子の口を塞いでいた手を離し、無礼を詫びるようにその足元に跪いた。
「〈残虐王〉の非道な時代は終わりを告げました。この国のすべての人間は、例外なく、その悪夢から解き放たれる権利を持っています。この国を変えられるのは、聖騎士でも聖救世使教会でも中央諸世界連合でもなく、ほかでもない、正統な後継者たるあなたです」
 それからレオンハルトは、その強い意志を秘めたエメラルドグリーンの瞳でまっすぐ皇太子を見上げ、静かだが断固たる決意を宿した声で言った。
「私は次代を担うあなたと、この国を守るために派遣されました。それは中央の意志でもありましたが、私自身の意志でもあるのです。お忘れなく。あなたが本当に父君から何も与えられていなかったとしても、誰もあなたからこの国を奪うことはできない」
 ダフニスは呆けたように黄金の聖騎士を見下ろしたままだった。その色素のない顔にすでに上り切った弱い朝日が照らされ、柔らかな白銀の髪は七色に光り輝く。アートハルクの長い夜は、もうまもなく明けようとしていた。

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