Act.1

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 北の大地の夜明けは緩やかで淡い。暁の時間帯には凍てついた空気を弱々しく照らすだけの光でしかないのに、北の太陽はいつももったいぶったように顔を出すのだ。
 それからしばらくすると、朝日は雪山の連なるアジェンタス連峰に優しく手を伸ばし、徐々に柔らかな光の裾野を広げていく。エルメネス大陸北部に位置するアートハルク帝国の朝は、太陽の降り注ぐ音さえも吸収する残り雪にまみれながら静かに明けていくのだった。
 アートハルク帝国皇帝が住まう城の純白の壁は、以前は観光に訪れる人々の目を楽しませていたものだった。皇帝サーディックの時代になってからのここ数十年は、この白亜の宮殿はなぜか彼の狂気を象徴する不気味な白い壁でしかなくなってしまっていたが、それでも弱々しい北の太陽を日中にできる限り集め、貯めておきたいとばかりに輝くこの壁の美しさはけなげでもあった。
 そしていま、前皇帝サーディックの突然の死が人々に希望の光をもたらしていた。次代の皇帝、若きダフニス・デラ・アートハルクの皇位継承が民衆の間で強く望まれるにつれ、狂気の壁とされた不名誉な居城は、人々に安堵をもたらすかつての姿へ復活を遂げようとしていた。
 居城には、先代が好んでつけた異国風の名前がついていた。旧世界《ロイギル》の時代に長い歴史を誇った大国の、皇帝が代々住まう宮殿にあやかったものだそうだ。名を「紫禁城《しきんじょう》」という。






 客間を出て、いまだに不慣れな感覚を引きずったまま廊下と柱の数を数える姿を不憫に思ったのか、アートハルク帝国の近衛兵が恭しく近寄り、人影に声をかける。客人が起きるにはまだまだ早い時間に驚いたのか、それとも間近で見るその顔《かんばせ》の造りに驚いたのか、近衛兵はその人物の顔を正面から見るなり顔を赤らめ、泳ぐ視線で朝の挨拶を交わす。
 細く柔らかな金の髪で縁取られた優しい顔立ち、聡明なエメラルドグリーンの瞳にふっくらとした赤い唇……その容姿の光り輝くような美しさから〈黄金の魔導師〉と呼ばれる、水の術者ガートルードであった。
 三週間ほど前から、亡くなった前皇帝の客人としてこの居城に迎えられているのだが、その清楚なたたずまいや思慮深く遠慮がちな立ち居振舞いが、若い近衛兵の間ではたいへんな人気であった。ご多分に漏れずこの近衛兵も、こんな早朝からガートルードに会えたことを天にも上る勢いで喜んでいるに違いなかった。
「ああ、本当にごめんなさい。何度歩いても城内の方向感覚がつかめなくて……」
 近衛兵に声をかけられて挨拶を交わしたあと、ガートルードはそう言って困ったように微笑んだ。
 どこかへ行こうとするにも、わざと分かりにくいように建築された城の中ならばしかたのないことだと、近衛兵は安心させるように微笑み返した。ガートルードたちが寝泊りしているのは客人の間といえども、先王の時代には人質をもてなした部屋だからだ。
「兄の行方をご存知ではありませんか?」
 どこへ行こうとしているのか近衛兵が尋ねると、ガートルードがこう答えたので、若い近衛兵は内心がっくりと肩を落とした。この美しき黄金の魔導師とともに紫禁城に滞在している彼女の兄、やはり彼女と同じ黄金の髪の持ち主であり、英雄譚に名高い聖剣の使い手、聖騎士《パラディン》レオンハルトのことだ──先王サーディックにとっては、レオンハルトは招かざる客でもあったのだが──。ガートルードはいつも兄を気遣い、兄の話ばかりする。彼女の口からレオンハルトの名が上れば、会話はそれ以上弾むことはないのだ。
「ずいぶんお早い時間にお目覚めの後、先ほどお部屋を出て行かれたのですが……どうやら展望台のほうにいらっしゃったようです。ご案内いたしましょう」
 展望台といっても、あまり城内の方向を把握するのが得意ではないガートルードひとりで行くには容易なことではない。近衛兵は少しの間だけでも美しき水の魔導師と一緒にいられることをよしとして、彼女を城の展望台まで案内することにし、客人の間の警護を後輩の兵にまかせることにした。
 展望台を上る階段の踊り場には外を眺める窓が備え付けてあるので、ガートルードは足を止め、そこから少し顔をのぞかせて風景を堪能する。まだ雪の残るアートハルクの大地は、朝の弱い日差しを受けて静かに輝きを増していく。血なまぐさい歴史の数々を知っていても、この北の大地の澄んだ大気と荘厳な雪化粧はたいそうな見ものである。王は土地と国民を恐怖で支配していたが、自然そのものを支配し、我が物にすることはできなかったのだとガートルードは思った。
 ふと、上のほうから聞こえる声に、ふたりは足を止めた。つぶやくように、静かに優しく歌う声がふたりに降り注ぐ。優しい音階に不思議な言葉でつづられた、心に深く刺さる曲調が印象的だ。近衛兵は少し驚いたような顔をしてガートルードを振り返った。歌など知らない、聴いたことがないとでも言いたげな近衛の表情にガートルードは優しく微笑むと、
「この階段を上っていけば展望台に着くのですか?」
「え? あ、ええ、そ、そうですが……あの……」
 慌てて近衛兵は場違いな敬礼で返すのだが、その様子にガートルードは吹き出したいのをこらえながら再び笑った。
「兄……ですわ」
 そう告げると、ガートルードは近衛兵にここまで案内してもらったことを恭しく礼で返し、静かに階段を上っていく。横目で見やれば、近衛兵はまだ驚いたような顔をしてその場で固まっていた。無理もない。「伝説の」聖騎士が歌を唄うなど、彼にとっては信じがたいことのひとつなのだろう。
 ガートルードもこの曲の由来についてはあまり詳しくない。ただ、レオンハルトは汎大陸戦争の前にこの歌を覚え、好んで口ずさんでいた。この歌を口にするのは何か心配事や心の迷いがあるときが多いようだったが、こんな朝早く、ひとりで展望台にのぼり、何に思いをはせていたのか。
 展望台への階段を上りきると、風景を見るでもなく壁際に寄りかかって、愛刀エクスカリバーの鞘に施された装飾を物憂げに指で辿るレオンハルトの姿があった。ぼんやりと鞘や柄をいじりながらこの歌を口ずさむ、子どものように隙だらけの聖騎士の姿を見たら、先ほどの近衛兵は卒倒するに違いないとガートルードは思った。しかも、歌の腕前としてはなかなかのものであるからだ。
 この歌の歌詞は、神世代のいまどころか、旧世界《ロイギル》の時代でもすでにあまり使われることのない言葉ではあったが、いまこの時代に使われる言葉が変化する前の大もとになった言語のひとつであるともいわれている。いま中央標準語として一般に広く使われている言葉に比べて文節が多く、まだるっこしいが、ガートルードはこの言葉をたいへん気に入っていた。
 そうした言葉で綴られるこの歌は、「大いなる主の恵み」について歌ったものだという。神々(あるいは神)を崇めることを止めたこの世界で、「主=神」と自分との関係を綴った歌を唄うなどなんと皮肉なものだろうと、以前レオンハルトは苦笑したことがあった。だがガートルードもレオンハルトも、神とはむやみに崇め奉ったり人に強要したりするものではなく、誰にも侵されることのない自分自身の中にだけいて、自分にだけ力を与えてくれる存在だということを知っていた。だから、この歌が好きなのだ。
 この歌が終わったときには、壁に身を潜めていたガートルードは拍手をして兄を驚かそうと思っていた。そうして長い長い歌が終わった直後。
 彼女より一瞬早く、何者かが拍手を送っている。ガートルードは反射的に壁際に身を隠した。自分以外に兄を見つめている者がいるとは思わなかったが、それゆえになぜだか覗き見をしていたようなばつの悪い感情に負けてしまったのだった。
「見事なものですね」
 ガートルードよりも前にレオンハルトに近づいていた人影が、拍手をしながらそう言った。拍手をする腕の脇で長い銀髪が揺れたのを、ガートルードは一瞬ぎょっとした表情で見つめる。よく見れば、白髪に見まごうその髪の色は「彼女」に似ても似つかないのに。
 同じく驚愕のまなざしで振り返るレオンハルト。一瞬だけ、本当に驚きのあまり取り乱したような表情が印象的であった。おそらくレオンハルトも、二百年前から目を覚まさない彼自身の女神を思い出したに違いなかった。
「お人が悪い。いつからそちらにいらっしゃったのですか。ダフニス殿下」
 レオンハルトは少しきまりが悪そうにそう言うと、弄んでいたエクスカリバーを剣帯に結び直し、姿勢を正した。先王サーディックの長子、ダフニス・デラ・アートハルクは少しおどけたように肩をすくめ、レオンハルトに滑るように近づいていく。
「もう何年も、我が国で歌を聴くことはありませんでしたからね。このすばらしい歌い手はいったいどこの誰だろうと思って。しかもこんな早朝から」
 ダフニス皇子は白銀の髪を少しかきあげ、いたずらっぽく笑った。ウサギのような真紅の瞳が、本当にうれしそうに細められる。今年で十九になるアートハルクの皇太子だというのに、いまだその顔は幼く、髪の長い後ろ姿などはまるで少女のようだ。
「失礼……。もしや」
「わたしは朝は早い。別に貴殿の歌で目を覚ましたわけではないからお気に病む必要はない。それどころか、朝からこんなにすばらしい歌を聴けるなんて、とても光栄です」
 皇太子にそう言われて、殊勝にもレオンハルトは照れたような顔をした。あまり表情を崩すことのないレオンハルトが、人目には分かりづらくても照れくさそうにしているというのは滅多にないことだった。
「珍しい、不思議な歌ですね。これは誰の、なんという歌ですか?」
「古い古い……旧世界《ロイギル》の時代よりずっと以前から伝わる曲のひとつです。前時代の古い宗教に根ざした曲で、特に被差別人種の間でとてもよく歌われていたとか。作曲者は不明ですが、詩については、自分の愚かさを悔い改めた男が神に救いを求めて書いたものだとされているようです」
「神に救いを……」ダフニスの瞳が、興味深そうに見開かれた。
「中央標準語に似ているけれども……ちょっと違うようですね。不思議な言葉だ。これは偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の言葉?」
「いえ、それよりもずっとずっと古い、前時代の言葉です。おそらくもう誰もこの言葉を理解できる人間はいないでしょうけれどもね」
「汎大陸戦争のおかげで」
 レオンハルトはわずかに頷いた。汎大陸戦争で、旧世界《ロイギル》に伝わるほとんどの叡智が失われたことは、いまでは子どもでも知るところだ。
「興味がおありですか?」
「この歌に? それとも貴殿に?」
 意味ありげにそう言うダフニスを前に、レオンハルトは少し困ったような顔をする。こういうやりとりに慣れていないのは一目瞭然だ。
「冗談ですよ。言語学ももちろんですが、音楽の歴史にも興味がある」
 レオンハルトは半ばあきれたような仕草でため息を小さくつくと、ダフニスのたちの悪い冗談を無視することにしたようだった。
「かつて合衆国と呼ばれた国を中心に、各国の歌い手がこの曲を愛したといいます。自分の愚かさを気付かせ、罪深い行いから救ってくれたのは神だ。だから自分は、神の大いなる恵みに答えるべく、歌い続けよう。自分の身体が朽ち果てようとも、太陽が輝きを失おうとも、永遠に神の恵みを唄いつづけよう……。これはそういう歌です」
「なるほど……前時代の宗教観を研究するには最適の材料ですね」
 ダフニスは満足したように頷き、レオンハルトの横に並んで展望台からの風景をしばし眺める。白銀の髪がアートハルクの冷たい風に舞い、絹糸で織られたなめらかなカーテンのように広がるのを、ダフニスはうざったげにかきあげ、押さえつけようとする。そんな様子を、隣のレオンハルトは無言で、だが少し戸惑いが伺える表情でじっと見つめる。銀と金の髪が同時に風になびき、絡み合う様は、二百年前の汎大陸戦争の時代、伝説の聖騎士の始祖と救世主がふたり並んで大地を見下ろす、そんな光景を彷彿とさせた。
「レオンハルト殿。貴殿の神とは? 貴殿は神は存在するとお思いか? なぜ人は神を信じるのか?」
 先ほどまでのひょうひょうとした感じはなく、少し険しさを含んだ口調で、突然ダフニスがレオンハルトの顔を睨みつける。それを受けて、黄金の聖騎士は少し身構えたようだった。
「なぜ私にそんなことを? 神の存在しない時代に神を信じている男が滑稽だと思っていらっしゃるなら、批判の対象をお間違えです。私も信じてはおりませんから」
「少し違う。貴殿にその歌を教えたその人物こそが、貴殿の神なのでは? 貴殿が誰からそれを教わったのか、それがいちばん知りたい。差し支えなければ、だけど」
 ダフニスが駄々をこねる子どものような口調でそう言うと、鉄面皮のレオンハルトの表情が少しだけ和らいだ。ダフニスの真意を探ろうとする反面、その子どもっぽい仕草に警戒を解き始めているのかもしれなかった。
「もう昔のことです」
「救世主《メシア》……だね。貴殿にその歌を教えたのは」
「お好きに」
「彼女も貴殿も神を信じてはいなかった。だけど、自分の中にだけある譲れない部分を、唯一自分だけの神だと信じていたかった。だから何か迷いがあるときにその歌を歌っていた。そうでしょう? そして貴殿は自分の中の侵されざる領域を、救世主と共有していた。強い、強い結びつきで」
 ダフニスは首を傾げ、レオンハルトの瞳を覗き込むような仕草でそう言った。赤い瞳に縛り付けられたように、レオンハルトのエメラルドグリーンの瞳は彼から目を離せない。
「……心を読んでいらっしゃる?」
 レオンハルトが尋ねると、ダフニスは少し肩をすくめて、
「安心して。なんとなくそう思ったんであてずっぽうで言っただけだから。わたしにはそういう力はまったくない。『出来そこないの皇太子』だからね」
「殿下」
 自虐的なダフニスを叱責するように、レオンハルトが低い声で呼ぶ。だが返事はない。ダフニスは、風に吹かれて冷えてきた身体を温めるように自分の身体に腕を回して、少しだけ眉をひそめた。そのほんのひそめただけ眉には、後悔するような、自分を蔑むような、複雑な苦悶の表情がありありと表れていた。
〈残虐王〉という不名誉で禍々しい二つ名を轟かせた先王サーディックが、暴徒の反乱による不可解な死を遂げたのは、つい二週間前のことだった。サーディックの長子であり唯一の皇位継承者であったダフニスは、突然の皇帝の死にやむなく国事を預かることになったが、父王の喪が明けぬ今日、いまだアートハルク帝国皇帝ダフニス・デラ・アートハルクとして北の大地を統べることを認められることはなかった。
 前皇帝の突然の死に隠された反乱の黒幕が誰なのか、首謀者が処刑されたあとも明かされぬ現状では、サーディックの下で散々甘い汁を吸ってきた子飼いの官僚連中が、「出来そこないの皇太子」である長子ダフニスを新皇帝を認め、後押しをすることなどあるわけがないのだ。残虐王が亡くなり、国民は皆、安堵のため息と歓喜の声を漏らしているにも関わらず。
「わたしは神など信じない。人と人との強い結びつきがあることも信じない。信じられない。信じられるのは自分だ。自分の中にある『それ』が神だとも思いたくない」
 ダフニスは苦悶の残る表情でレオンハルトを見据えた。
「わたしがいまだに皇位を継承できないのは、なにも『出来そこない』だからというだけじゃない。父がわたしに対して行ってきた仕打ちを考えれば当然のことだ。高官どもがそんなわたしを皇帝にしたがるわけがない」
 レオンハルトは頷きも相槌を打つこともせず、黙ってダフニスを見つめるだけだ。そんな様子を見てダフニスは余計にいらだったのか、自虐的に鼻を鳴らして声を荒げる。
「宮殿内では公然の秘密だよ。貴殿だって聞いたことがあるだろう? 白子でかたわのダフニスは毎晩、偉大なる残虐王の……」
「殿下!」
 レオンハルトは強い口調でしかりつけるように皇太子を諫め、その腕を掴んでその先を遮った。伝説とまで呼ばれた聖騎士の、激昂する姿を見たのは初めてだったのか、ダフニスは目を見開いて唇を噛みしめている。しばしにらみ合うような不穏な空気が流れた後、ダフニスは捕まれた腕を乱暴にふりほどき、それから白銀の、いや、正確には色素のない白く柔らかな髪を掻き上げて鼻を鳴らした。
「どうしても聞いてほしかっただけだ、レオンハルト。貴殿と……貴殿を迎えにきた水の魔導師殿に……ね」
 レオンハルトの鋭い視線が、ダフニスが顎で指し示した展望台入り口の壁付近を走る。思いも寄らぬ突然のダフニスの言葉に顔を青ざめ震えることしかできない妹が、ダフニスの言うとおりに確かにそこにいたことで、レオンハルトの表情から見る間に血の気が引いていくのが分かって、ガートルードは声を上げることもできずにいた。

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