Home > 小説『神々の黄昏』 > 番外編:聖騎士の暁 > Act.3
煮えたぎった獣油が石造りの壁を焼き、レンガ畳の街道までもが黒く焼け焦げてブスブスと煙をたてる。潮風が運ぶ臭気の中に、肉の焦げる嫌なにおいが混ざっているようで、前衛にいた者だけでなく、後衛の騎士たちまでもが鼻をふさいだ。事実、屋上から垂れ流された煮詰めた獣油は、反勢力の戦士たちの頭上に降り掛かり、一瞬にして彼らをスープにしてしまったのだ。
三日ほど前から前衛の聖騎士団は、絶え間なく襲いくる集約型攻撃術法に、絶対魔法障壁《シールド》で対抗するも苦戦を強いられていた。目標となる反勢力が立てこもる古い寺院は、ディタ・ウリス首都への入り口を守護するために建造されたもので、ここを突破しなければ首都制圧もままならない。旧世界《ロイギル》時代に建造された非常に堅牢な建物で、巨大な門の回りに数多くの中央未登録の術者たちが周りを固めている状態では、指一本触れることができないのだ。
小さな勢力を束ね指揮を執る最大反勢力の首謀者を追いつめたまではよかったが、どこからかき集めてきたのか大量の火薬を首都宮殿にしかけ、中央の多国籍軍がなだれ込んできたときにはいつでも宮殿を爆破することを可能にしたという声明が発表された。急を要することで作戦変更を余儀なくされた多国籍軍部隊をみっつに分割し、ひとつは別方面からの首都潜入を、ひとつは物資輸送経路の確保を、そして最後のみっつ目の部隊は強硬突破に出たのだが、首都への道を塞ぐ寺院の門の前で立ち往生することになったわけだ。
強行突破部隊の陣頭指揮を執るのはレオンハルトで、物資補給に当たっていたアジェンタス騎士団の一部も最前線に引きずり出されることになり、前衛の聖騎士団の後ろで直接攻撃に備えて待機していた。
そのときだった。前衛のレオンハルトの合図で、なにかが爆発するようなすさまじい轟音が響き渡った。寺院の屋上が爆煙をあげ、天井が一気に崩れて抜けたのが確認されたのだが、その直後、屋上にしかけてあった無数の鋼鉄製の樽が逆さになったかと思うと、おびただしい量の獣油が建物内部に吹き出したのだった。
阿鼻叫喚とはまさにこのことだと、後にこの戦役に参加した剣士が口を揃えて言ったという。煮えたぎった獣油は天井の抜けた屋上から即座に寺院の内部に流れ落ち、中に立てこもっていた反勢力の戦士たちを一瞬にして飲み込んだ。生きたまま肉を焼かれる人間たちの悲鳴は、遠く中央エルメネス大陸まで響くのではないかと思われた。
ダノルもほかの者たちと同様に、その光景を呆然と眺めることしかできずに立ち尽くしていた。冷や汗が腕を伝い、剣を掴む手のひらがじわりと濡れる。身体が震え出していることに気付いて、ダノルは自分を抱きしめるかのように両手で身体を支えた。目の前では、黒い甲冑をまとった金色の巻き毛が、蒸気と煙を運ぶ潮風になびいていた。レオンハルトが平然と焼けこげた寺院を見つめているように見えて、ダノルの身体を激しい怒りが駆け巡る。
「レオンハルト!」
振り向いたレオンハルトは、やはり平然と、いつもの冷徹な鉄面皮のままだった。この惨状を見て何も感じていないと見えて、余計にダノルの怒りが噴出する。
「誰が……! 誰がこんなこと考えやがったんだ!」
ダノルはレオンハルトのそばまで掛けていき、周りの騎士が驚いて道をあけたのをよしとして彼の胸ぐらに手をかけた。
「ダノルか。生き残った者が直接攻撃をしかけてくる。隊列を崩すな」
「ふざけんな! こんなひでえこと、よくも考えやがって!」
胸ぐらを掴んでいる手をレオンハルトは乱暴に振り払い、ダノルをにらみ付けた。
「きれいごとを言うつもりはない。忘れるな。これは戦争だ。あの寺院はやつらが立てこもることが予測されていた最後の砦だ。立ち往生していると見せかけておいてはじめから用意周到にさせてもらった」
「ふざけんな! あんたのこと尊敬してたのに! あんたが指揮を執るから、何も問題はないと思ってたのに!」
「私は味方の損害を最小限に押さえ、もっとも効率良く相手を殲滅させる戦術をとったまでだ。戦術にひどいもなにもない。戦争において勝つことは、生き残ることだということを忘れるな」
「あんたの御託はもうたくさんだ! こんな……! こんな……!」
「聞け! ダノル!」
今度はレオンハルトがダノルの胸ぐらを掴み、ぐいと引き寄せる。
「お前はまだ若く、戦役の経験もない。混乱する気持ちは分かる。だが、我々の役目はなんだ。今回の目的は、中央の同盟国の資源を守り、人々の生活を脅かす反勢力を完全に殲滅することだ。そして私の役目は、自軍の損害を最小限に抑え、確実な勝利を勝ち取ること。中央から派遣されてきた騎士である以上、我々はいかなる手段を持ってしてもこれを遂行しなければならないのだ。好むと好まざるとに関わらず、これが戦争で、これが剣士になるということだ。覚えておけ!」
珍しく激昂するレオンハルトを前に、ダノルの身体がびくりと震えた。そしてかたく目を閉じ、歯を食いしばる。全身に走る痛みに耐えているかのように。
「だったら……」
ダノルの口から絞り出すような声が漏れる。
「だったら俺は剣士になんかなりたくない。こんな思いをしてまで、手柄を立てたいとは思わねえよ」
「……そう思うのは勝手だ。手柄を立てるのが剣士の本業だと思っているのなら、やめてしまえばいい。そんなたわごとをいっているうちは、一人前の剣士どころか聖騎士になぞなれるわけがあるまい」
冷たく言い放ち、くるりと背を向けるレオンハルトの背中がぼやけて見える。それが、自分の両目からあふれてきた涙で視界がにごっているのだと気付くのに、ダノルは数秒の時間を要した。
遠くでレオンハルトが、後衛の騎士たちに生き残った者たちが直接攻撃に出てくるから構えるよう、指示を飛ばしているのが聞こえたが、ダノルはもう剣を握る力が自分に残されていないのを感じていた。
耳鳴りの奥で周りの剣士たちが閧の声をあげるのが聞こえてきた。前方からやってくる反中央勢力の剣士たちが、捨て身の直接攻撃に出るべく、剣を構えて突進してくるのが見えた。第一撃がくる直前に、レオンハルトの力強い攻撃術法の呪文詠唱が響き渡る。空気が膨張して耳の中にキンと鋭い金属音が鳴った直後、かの聖騎士の得意とする聖属性の最上級攻撃術法が発動する。迫りくる反勢力の戦士たちを薙ぎ払った術法に、味方の剣士たちは大いに勇気づけられ、敵の殲滅に自分を駆り立てていく。だが、ダノルはなにもせずに呆然とそれを眺めていることしかできなかった。
「ダノル!」
そう叫んだのは、レオンハルトだったか、それとも周りにいた同僚だったか。振り向いたダノルの前には、あの花売りの少女が立っていた。その顔は青ざめ、怒りに縁取られていた。
「ここは戦闘区域だ。こんなところにいたら危険だから下がって……」
なぜ彼女がこんなところにいるのか、考える余裕などなかった。だからそう言って彼女の肩を抱いて押しやろうとしたのだったが、そのとき少女はダノルに抱きつくようにして駆け寄り、胸の空いたドレスの胸元から取り出した短剣を、まっすぐにダノルの腹に突き出したのだった。
肉と骨を貫く鈍い音に混じって、少女の涙に震える吐息が聞こえた。
「兄さんたちの……仇……! よくも……!」
少女の言葉に耳を傾けているほどの時間はなかった。深々と腹に刺さった短剣は、ダノルの呼吸を止め、えんじ色の戦闘服を見る間にどす黒い血の色で染めあげていく。周りの喧騒が、夢見心地に遠のいていくダノルの意識の中でやけにはっきりと、だがゆっくりと聞こえていた。
空気を求めてあえぐように差し出したダノルの指は、落ちていた自分の剣の柄を掴み直し、その手応えを感じた直後には目の前の少女に向けて剣を振り下ろしていた。少女ののど笛を的確に狙ったダノルの剣は、少女に声も出すことを許さず、その華奢な身体は石畳の上に音もたてずに崩れ落ちていった。
「ダノル! しっかりしろ! ダノル!」
遠のく意識の中で呼びかけるのは、レオンハルトだろうか。誰かの手が頬に添えられ、抱き寄せられた胸に熱い手のひらが当てられているのだけは分かった。ぼんやりとしか見えない視界に、黄金の見事な巻き毛だけがカーテンのように垂れ下がっているのがうっすらと見えた。
「死ぬなダノル! ダノル!」
やっぱりレオンハルトの声だ。ばかだな。いつも冷静沈着なあの鉄面皮がこんなに取り乱すなんてな。
ダノルは遠のく意識の中でくすりと笑った。
ああ、レオンハルト。ごめん。もう俺、あんたの隣で戦えないよ。
強行突破軍は首都入り口の寺院を制圧、ほぼ同時に首都潜入軍が宮殿への潜入に成功し、大量の火薬による大爆発を逃れることができたという。反勢力軍の首謀者たちが捕らえられた後、戦意を喪失していた戦士たちの投降が続き、首都内での大混乱もなく鎮圧された。
かくして、ディタ・ウリス内戦は幕を閉じた。