Home > 小説『神々の黄昏』 > 番外編:聖騎士の暁 > Act.2
中央エルメネス大陸の海岸線を超えれば、中央の庇護の届かない〈辺境〉と呼ばれる島々が点在する。二百年前、汎大陸戦争の際に地表の大きな大陸は、エルメネス大陸を残してほとんどが海に沈み、標高の高い土地だけが海面から顔をだす島のように姿をかえたり、海岸線から崩れて見るも無惨な傷跡を残すのみとなってしまったのだ。財力のある者たちは中央の大陸に移住したのだが、なんらかの理由でそこから出られない者たち、あるいは中央から追われた者たちだけが辺境に取り残された。汎大陸戦争終結後には、辺境にも中央からの働きかけでようやく国家が誕生しはじめたのだが、彼らと中央との軋轢は大きい。貧富の差、人種の壁、偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の末裔《すえ》として力を持つ能力者たちの扱いの差。無差別に破壊活動を行う反中央組織が辺境に数多く存在しているのも、当然といえる結果であった。
中央から要請を受けたアジェンタス騎士団の一部が派遣されたのは、辺境の小さな港町エリスであった。漁業だけを頼りに生活を営むだけの、貧しくなんの楽しみもない町だが、そこから北に移動することおよそ二十キロ先にある辺境の小国ディタ・ウリスへの物資輸送経路としては絶好の場所であった。
ディタ・ウリスは辺境の物好きなハイ・ファミリーが治める本当に小さな国家ではあったが、武器や住居を製造するうえでかかせない鉄鉱石などの鉱物資源がたいへん豊富で、それを中央諸世界連合の各国に輸出することで中央の庇護と資金を調達できたために潤っていた。近々、アジェンタス騎士団領やロクラン王国をはじめとする中央諸世界連合評議会の列強と経済的な同盟を結ぼうとしていたのだったが、根強い反中央勢力による無差別攻撃や自爆テロから端を発して内戦状態に陥ったのだった。
元首に泣きつかれた中央諸世界連合評議会は、ディタ・ウリスの資源を守りテロ行為に断固反対して国民の安全を守り抜くという大義名分の元、アジェンタス、レイアムラント、ロクラン、グレナダの騎士団の一部による多国籍軍を編成し、内戦鎮圧のために現地に派遣したのだった。
アジェンタス騎士団に課せられた使命は、港町エリスからディタ・ウリスまでの物資輸送経路の確保だった。ディタ・ウリス首都へ続く街道に陣取るほかの軍のために、食料などの物資を送り届け、さらには退路ともなる海路と陸路を確保することだ。エリスでの抜刀は禁じられていたが、街道からこっちエリスまでに戦闘が拡大した万が一の場合や反対勢力の奇襲に備えて、町中での帯剣は認められることとなった。
その派遣組の中にダノルはいた。四方を高い山脈に囲まれたアジェンタスの冬は厳しいので、たいていの寒さには慣れていたつもりなのだが、港から吹き込んでくる秋の海風はまたずいぶん冷たい。戦闘服と同じえんじ色のコートの前をあわせながらテントの設営や物資の確認を行い、かじかむ手に息を吹きかける。戦争の予感が、エリス全体に吹き荒れて気温を下げているに違いないとダノルは思った。
「聖騎士団が到着したぞ!」
港からの声に、ダノルは顔をあげた。見れば、聖騎士団を象徴する、三本の矢を掴む鷹の紋章つき戦旗を掲げた輸送船が接岸するところだった。
聖騎士団を派遣するという噂は当初からあったが、実際に派遣されるという報道はなかった。戦局は彼等を投入するほど悪化しているのだろうか。ダノルはそう思いながら次の仕事にかかろうとしていた手をとめ、騎士団長の号令に従って聖騎士団を迎えるために整列すべく港町へ走った。
輸送船からおりてきた聖騎士団の面々を見ながら、アジェンタス騎士団の派遣騎士たちはすばやく敬礼をする。潮風で湿った大気の中で鈍く光る、聖騎士専用の銀の甲冑が続々と港に降り立ってくるなか、ダノルも先輩たちにならって敬礼をするのだったが、最後におりてきた黄金の髪の聖騎士を見て固唾をのんだ。
「パラディン・レオンハルト殿に敬礼!」
騎士団長が声を張り上げ、号令に沿って一同はさらに背筋を伸ばした。黒い甲冑の聖騎士は、緊張する面持ちで出迎える一同の前で、威風堂々とした姿をさらしている。だが、まさかレオンハルトを投入してくるなんて。戦局は本当に最悪の事態を迎えたのだという不安が、出迎えた騎士団員たちの脳裏をかすめる。
レオンハルトは出迎えてくれたアジェンタスのえんじ色の面々に軽く会釈を返したのだが、その前列に並ぶダノルの姿を見て驚いたようだった。だが、すぐに騎士団長が戦局の報告に入ってしまったため、レオンハルトは作戦司令室を兼ねた要人用仮設テントに姿を消した。
解散の号令のすぐあと、若い騎士たちはレオンハルトがやってきたことで浮き足立ち、歓声をあげて大喜びだ。ただひとり、ダノルをのぞいては。
「よお、ダノル! お前なに深刻な顔しちゃってんだよ! お前の大大大大大好きな聖騎士サマがやってきたってのによ!」
同僚に肩を叩かれてダノルはけつまづきそうになる。続いてほかの同僚もダノルのところにやってきて、
「まったくだぜ! あ〜! もう俺、最前線で戦うレオンハルトが見られるなら死んでもいいやって感じ!」
あんまりみなが騒いで仕事の続きに戻らないので、騎士団長の厳しい叱咤が響き渡った。若者たちは仕方なく仕事に戻るそぶりを見せながら、小声でレオンハルトの噂話を続けた。若い彼らにとって、御前試合ではない本物の戦闘で、本物のレオンハルトが、本物の剣技を見せてくれるであろうことはこのうえない幸福なのだ。だが、
「お前ら、もっと頭使えよ」
ダノルははしゃぐ同僚たちを睨みつけた。
「レオンハルトってのは、中央の最後の切り札なんだよ。俺らみたいな一般の騎士団にまかせておけばいいものを、切り札を投入するってことは相当に戦局が悪化してるか、でなきゃもっと別の、例えば特別な作戦を敢行するためか、そのどっちかだろ。レオンハルトが出てくるだけで浮かれてなんていられるもんか」
ダノルの言葉に、浮き足立っていた仲間たちは口をつぐむ。
「だったらお前、聞いてこいよ。お前、レオンハルトと仲良しになったんだろ?」
ひとりが口を尖らせて嫌みをぶつけた。
「やだね。そんなの先輩たちに見つかったら、またボコられる」
「なんだよそれ。超チキン入ってるぜ。らしくねーな」
「とにかく! 俺は別にレオンハルトと仲良しでもなんでもない、ただの一兵卒なの! 分かったらとっとと仕事に戻れよ!」
若者たちは肩をすくめ、それぞれの持ち場に戻っていった。
歩哨《ほしょう》の交代がすんだあと、ダノルは簡素な食事をとって港に足を運んだ。物資を積み上げた脇を通り過ぎ、昼も夜も交代で騎士たちが歩哨を行う物騒な港の入り口で身分証明をすませたあと、停泊中の聖騎士団の輸送船を眺めるために防波堤の先端に腰を下ろした。
日はどっぷり暮れていたが、贅沢なほどの数の松明に照らされた港はとても明るい。聖騎士団をあらわす三本の矢を足で掴む鷹の紋章は、激しい海風にさらされて明滅する松明の光に照らされ、生き物のように浮き上がって見えた。
「そんなところでボーッとしていると風邪を引くぞ」
背後から声をかけられ、驚いたダノルはあわてて振り返る。
「げっ! レ、レオンハルト!?」
黄金の聖騎士の姿にダノルはさらに驚き、防波堤から落ちそうになるのだが、それをレオンハルトが引き上げてことなきを得た。
「な、な、な、な、なんだよ! いきなり……!」
「お前のテントまで見舞ったのだが、歩哨の交代のあとの自由時間で行方不明と聞いたのでな」
ダノルは頭を抱えた。この男、俺の悩みの種を全然理解していない、と。
「勘弁してくれよ。あんた、いつもの甲冑姿で俺の部隊のテントまで行ったのかよ。俺の身にもなってみろっての!」
「どうしてだ。知り合いを見舞って何が悪い」
「そうじゃなくて。前にあんたと仲良く話してたの、先輩たちに目撃されちゃってさ。それからボコられてたいへんだったんだよ。なんでお前みたいなバカとレオンハルトが仲良くできるんだって。それからもう俺は有名人だっつーの。悪い意味で!」
「そうか。それは悪いことをした。気をつけるとしよう」
「あーそーだね。そうしてくれ」
「ときにダノル。食事はすんだのか」
「もうとっくに食ったよ。クソまずい簡易食だったけどな」
「では口直しだ。つきあえ」
ダノルは大きなため息をつき、黄金の聖騎士を恨めしげに見つめた。
「あのさ、あんた俺がさっき言ったことぜんっぜん理解してねえだろ。あんたと一緒にいるだけでめちゃくちゃ目立っちゃうの! そんなとこ先輩連中に見つかったら、また俺ボコられちゃうっての!」
レオンハルトはしばし腕を組み、首を傾げた。それからいたずらっぽく笑い、
「ではお前の部隊の上司に直接掛け合うとしよう。私の知人にいらぬちょっかいを出す不遜な輩がいるのだと」
「よせって! よけいなことするなって! ああ、もう、分かったよ! つきあえばいいんだろ、つきあえば!」
「すまんな」
さして悪いと思っていないレオンハルトに内心舌打ちをしながら、ダノルは小さくかけ声をかけて立ち上がった。
「食事って、あんた外で食事する気かよ。禁じられてるんじゃないのか」
「我々聖騎士団は自由時間まで行動を拘束されることはないのでな。お前の上司にも外出許可はとってあるから安心しろ。『伝説の聖騎士』といっしょに情報収集ということなら、誰も文句は言わん」
「そういうの、職権濫用って言うんじゃなかったっけ」
「中央標準語じゃ『癒着』とも言うらしいがな」
ダノルは顔をしかめて伝説の聖騎士を見つめた。どこまでが冗談なのか、レオンハルトの表情だけでは伺い知れない。
「新鮮な魚が恋しくなった。エリスのはずれにうまい魚料理屋があると聞いた。酒は禁じられているが、少しばかりならおごってやるぞ。軍の食事はまずくて有名だから、それだけで気が滅入る」
「あんたって意外なほどブルジョワなのな」
「舌が肥えていると言ってもらおう」
ダノルは肩をすくめた。だが、はじめてレオンハルトに会ったとき、なんと冷徹な人間だろうと思ったのに、話してみれば意外に気さくであったことにうれしく思っていた。もっとも、数カ月前の失言で胸ぐらを掴まれたときは、命の危険すら感じたが。話しかけてそれに答えてもらえるまでが厄介なだけなのだ。自分の前でレオンハルトが軽口をたたくのが、実はものすごく楽しい。先輩たちのやっかみがなければ、と先が思いやられるのだったが。
なぜレオンハルトがこんなに自分にちょっかいを出してくるのかまでは分からなかったが、今の彼には優越感が先に立って彼の考えていることを推測しようと思うことすらできなかった。
甲冑を脱いだレオンハルトを見たのは、ダノルにとってこれが初めてだった。聖騎士団はみな一様に銀の甲冑を身に付けているが──もちろんみな思い思いに改造を施してはいるが──、レオンハルトだけは特別に許されているのか、陣頭指揮をとるときや式典の際には、いつも漆黒の甲冑を身に付けていた。さすがに甲冑姿で食事をしようという非常識なことは思わなかったらしく、中央の下っ端の騎士が身につける迷彩色の戦闘服をひっぱり出してきたようだが、それが妙に似合わないのでダノルはクスクス笑い、レオンハルトの不興を買ったのだった。
食事を終えたふたりは港の脇の駐留地に戻るべく足を早めた。町中には彼ら以外に軍服姿は見当たらない。戦争の余波を受けて人々の表情は不安そうだったが、それでもいつもの生活を続ける力強い国民の姿がそこにあった。
「こういうの見てると、ホントに戦争やってるのかなって気になるよ」
「そうだな」
「なあ、レオンハルト、あんたこれまでもいろいろな戦役に参加してると思うけど、戦争やってる国ってのはたいがいこんな感じなのか。あ、つまりその、俺、戦役に参加するのって初めてだから」
気まずそうにダノルが問いかけると、レオンハルトは小さく頷き、
「汎大陸戦争の初期のころも、まだこんなふうに平和を装っていられる国はたくさんあった。たいがいそうだ。最初から国全体が焦土になるような悲惨な戦争なんて、ほとんどない。戦争なんてものは、国民の与り知らぬところで一部の人間が勝手にはじめてしまうものだからな」
「そう……だよな」
「ダノル。お前はこの多国籍軍には自分から志願したのか」
「ああ。手っ取り早く手柄をたてたかったから。経験積んで、早く昇格して、聖騎士になる条件を手に入れたい」
ダノルの言葉はあまり気持ちがこもっているものではなく、棒読みに近いものだった。だが、
「それを戦争当事国の人間が聞いたらどう思うだろうな」
レオンハルトは小さくため息をつき、ポツリとそう言った。それきり黙ってしまったので、ダノルはまた自分が失言をしたことに気付いてレオンハルトの顔を横目でうかがった。伝説の聖騎士は、町行く人々の姿を追いながらも、そのさらに先で起こっている惨劇に心を痛めているようにも見えた。
「なあ。あんたが来たってことは、戦局はそんなに悪いのか」
おそるおそる尋ねると、レオンハルトは眉をひそめてにらみ付けてきた。だが、それにめげている場合ではない。
「中央諸世界連合と聖救世使教会は、最後まで聖騎士団、特にあんたの投入に反対してたはずだ。それなのに、こんなに早くあんたを出撃させるなんて」
「忘れるな。聖騎士には最高国家機密をはじめとするさまざまな機密事項の守秘義務がある。例え相手が誰であれ、おいそれとそれを私が話すと思っているのか」
答えたレオンハルトは、陣頭指揮を執る剣士の厳しい表情をしていた。だが、すなわちそれが答えだ。戦局は悪化しており、レオンハルトに陣頭指揮を執らせた聖騎士団でなければ太刀打ちできないほどの戦況であるということだ。たかが辺境の小競り合いごときで伝説の剣士を出撃させる。いったい何が起きているのか。
「あの、剣士様?」
鈴の鳴るような耳心地のいい声に、ふたりは足を止めた。見れば、色とりどりの花をぎっしりと詰め込んだ花カゴをひじから下げた少女が、ふたりの前に一輪の花を差し出していた。
「戦のご加護を。よろしかったら一輪、お買いになってくださいな」
少女はニッコリと笑いかけ、ダノルに花を差し出した。ダノルはそれを受け取って、
「いいよ。いくら?」
「お代は後で。どちらに駐留してらっしゃるの?」
「ああ、港の脇。イプシロン隊のダノルって言えば分かると思う」
「よせ、ダノル」
レオンハルトはダノルの耳元でささやき、ダノルを後ろに引っ込めて少女の前に立つ。
「失礼。ずいぶんかわった花だが、その花はなんと?」
レオンハルトの問いかけに、少女は困惑したように首を傾げた。
「さあ、私はあまり存じ上げません。ただ売るように言われているだけですもの」
「そうそう、花の名前なんて関係ないって! いいよ、そのカゴの中身全部買ってあげるから。いまは持ち合わせがないから、後でホントに駐留地まで来てよ」
レオンハルトを押しのけてダノルが口を挟む。少女はうれしそうに笑った。
「ありがとうございます。イプシロン隊のダノルさん、ですね。ではまた後ほど」
少女は丁寧に頭を下げ、また別の男に花を差し出して営業を始めた。ダノルは子どものようにニコニコしながら少女の後ろ姿が見えなくなるまで手を振るのだったが。その横でレオンハルトが大きなため息をついてダノルの肘を引っ張る。
「お前は本当に何も知らないだろうから、教えておいてやる。彼女が売ってるのは花なんかじゃない」
「はぁ? どういうことだよ」
「花の名前も知らない。なのに花を売っている。しかもお代は後払いだ。これがどういうことか分かるか」
「さあ。ギルドの持ち回りで売って回ってるだけだろ。自分が育てた花じゃなきゃ、知らないのもしかたない」
レオンハルトは大きな大きなため息をつくと、
「彼女はただの花売りなんかじゃない。彼女が売っているのは、彼女自身の『花』、つまり、身体を売っているというわけだ。辺境で『花売り』といえば、売春婦を指すことがほとんどだ。よく覚えておけ」
「まさか……!」
見れば、先ほどの少女は小金を持っていそうな恰幅のいい男に花を差し出しているところで、男はこれまでに見たこともないほど鼻の下をのばしている。
「なんで、あんなかわいいお嬢さん風の子が」
「資源もロクにないとなれば働き口もない、生活をしていくために売って稼ぐものはほかにない。彼女たちはそれで生計を立てているんだ。親や兄弟を食べさせていくためにな。貧しい辺境の下流階級の女性たちには、そうやって生きていくしかほかに道がないんだ。そこへ持ってきてこの内乱騒ぎだ。金をたんまり持っている軍隊が中央からやってくるとなれば、こんなにいい稼ぎ場はない」
ダノルは小声で悪態をつき、街灯の柱を足で蹴りあげた。
「悪いけど、レオンハルト、金貸してくれ! 後で絶対返すから!」
レオンハルトが止める間もなく、ダノルはレオンハルトの財布から数枚のセルテス紙幣を取り出して少女と男の元に走っていった。なにやら男と口論になっているようだが、それをダノルは剣をちらつかせながら追っ払うと、少女に紙幣を強引に手渡し、花カゴの花全部を引っこ抜くように奪い取った。
だが、驚いた少女は顔を真っ赤にしてなにやら叫び、ダノルを置いて向こうの路地に走り込んでいってしまった。
彩り豊かな花を両手いっぱいに抱えたまま、ダノルは呆然と立ち尽くす。そこへレオンハルトがやってきたので、ダノルはばつが悪そうにその顔を見上げた。
「彼女に何を言ったんだ」
レオンハルトがなかばあきれたように尋ねると、
「あんなデブに身体売っていいことなんかないだろって。俺がそんな花全部買い取ってやるから、明日から絶対そんなマネするなよって言ってやった」
「で?」
「逃げられた」
「当然だろう」
「最低!って言われた。あなたみたいな中央でのうのうと暮らしてる人に、あたしたちの気持ちが分かってたまるもんですか、ってさ」
「そうだろうな」
ダノルは腕いっぱいの花を見つめ、殊勝にも肩を落として大きなため息をついた。
「俺が言ったこと、間違いだったのかな」
「間違いではない。お前の言っていることはもっともだ。だが」
レオンハルトはダノルの抱えている花を一輪引っこ抜くと、
「当たり前のことを言われて腹が立つのは、それが当たり前だと分かっているときだ。自分が何をしているかくらい、彼女がいちばん分かっているはず。だが、彼女はそうすることでしか生活を支えることができなかった。だからお前が言ったことは、彼女の生き方だけでなく、人生そのものを否定したのと同じことだ」
ダノルは自虐的に笑い、それからレオンハルトに許しを請うような視線をやる。
「俺って、世間知らずでサイテーなヤツだな」
彼女は傷付いただろうか。俺みたいなやつにあんなことを言われて、死ぬほど頭に来ただろうな。そんなことを思うだけで、ダノルは胃の当たりがぐっと痛んでくるのを感じた。
レオンハルトはそれ以上何も言わずに、軍服に不釣り合いな花を抱える青年の肩を叩いて歩きはじめたのだったが。
神々の気まぐれはほんの小さなきっかけで、いたずらに運命の輪を回すものなのだろうか。
花売りの少女は、ダノルが帰ってくるのを待っていたかのように、駐留地の検問の前に立っていた。そして、レオンハルトといっしょに腕の中の花束に難儀しながら帰ってきたダノルを見つけると、うれしそうに微笑み、駆け寄ってきたのだった。
「うれしかったの。本当に、そんなふうに言ってくれる人がいるなんて思わなかったから、私、とってもびっくりして恥ずかしくなって」
少女はそう言ってダノルの前で泣き出した。そんな彼女をなだめるように抱きしめるダノルをそのままにして、レオンハルトは要人用テントに早々に引き上げた。
恋の始まりはどんな形でもやってくるものだと、レオンハルトは知っていた。死ぬほど憎んでいた相手を、いつのまにか心から愛してしまう、そんな恋もあるのだと。
わずかばかりに痛む古傷に触れないようにしながら、レオンハルトはダノルからくすねてきた花を、簡易ベッドの脇の小ピンにさしてやった。戦のにおいばかりがするテントには恐ろしく不釣り合いだったが、見つめているだけで心が和むというものだ。
それからダノルとはあまり駐留地内で話す機会に恵まれなかったが、少女はダノルに本気で恋をしたらしく、毎朝ダノルを訪ねてくるようになったらしい。またダノルも彼女を憎からず思っているようで、自由時間が終わると駐留地を抜け出しているようだった。
レオンハルトにとってはこの花の名前がなんというのかだけが気掛かりであったのだが。
戦局が大幅に変化したのは、その一週間後のことであった。