Home > 小説『神々の黄昏』 > 挿話:遙かなる憧憬 > Act.5
すたすたと先を歩く親友の後ろ姿を見ながら、レトはまた小さくため息をついた。日はどっぷり暮れており、街灯にそろそろ明かりが灯りはじめていた。その明かりにセテの金髪が照らし出されて一瞬輝き、そしてまたゆっくりと暗闇の中に消える。そんな様子が、まるでセテの機嫌がくるくる変わるのに似ているなぁと思いながら、レトは足早に歩くセテのあとを追いかけている。
セテはさっきからひとことも口を利いてくれない。さきほど目が覚めた後、レトが正直にことのなりゆきを説明したが、その直後にセテはものすごい勢いで壁を蹴り、思いつくままの悪口雑言でさんざん毒づいた。予想どおりの行動であった。そして、今度はレトが代理で賞金を受け取ってしまったことに腹を立てているのだ。
セテがベッドから起きあがって着替える際、レトは彼のみぞおちに大きな青あざができているのを見ていた。女剣士の術法の直撃を受けた際できたものだろうが、術医の透視では内臓に問題はなかったとはいえ、まだけっこうな痛みを残しているはずだ。送っていくからと肩を貸そうとしたレトをものすごい顔で睨み付け、腕を振り払ったセテのやせ我慢もたいしたものだ。
自尊心を激しく傷つけられ、負けた自分の未熟さに腹を立てているセテが、レトにはなんだか滑稽に思えてきた。なんでもうちょっと割り切ることができないんだろう。試験の点数が悪かったり、親には内緒の賭けごとで負けたときのように、負けたら負けたで「えへへ、負けちった」くらい軽く流してそれで終わりにすればいいのに。どうしてそこまで剣の試合に意固地になるのか、レトにはちっとも理解できない。
「なぁセテ」
レトは頑固な親友の背中に声をかけた。だが、返事はない。分かり切っていた反応に、心の中で肩をすくめる。
「あのさ、腹、痛かったら肩貸すぞ。だいじょうぶか」
「……痛くない」
つっけんどんな返事が返ってきた。だが、さっきから後ろ姿を見ていると、セテがたまに自分のみぞおちに手をやっているので痛くないわけはなかった。レトはあきれたようにため息をついて、足を早め、セテの隣に並ぶ。
「やせ我慢もいい加減にしろって!」
レトはセテの腕を取り、無理矢理自分の肩に回す。セテが驚いてその手をふりほどこうと暴れるが、そのはずみでみぞおちが痛んでかがみこみ、結局レトに全体重をかけるような形になってしまう。
「ほら見ろ。言わんこっちゃない」
うめき声もあげずに顔をしかめたまま堪えるセテの顔を覗き込むが、セテはレトの顔を険悪な表情で睨み付けた。街灯にさらされなくても冷たく光を放つような青い瞳が印象的だった。
「……さわんなよ。ひとりで歩けるって!」
「俺が肩貸すってのがそんなに気にくわないのかよ」
少し怒ったようにレトが言うと、セテはちょっと驚いたようだった。一瞬だけ、険悪だったセテの顔が泣きそうになるのが見えたが、すぐにもとの険しい表情に戻る。
「……気にくわない……!」
そう言ってセテがまたレトの腕を振り払おうとするが、それが本気でないことはレトにもよく分かっていた。素直になれないだけなのだ。
「あのさ、セテ」
レトはうつむいたままのセテに声をかける。何を言われるのかたぶん分かっているのだろう。セテは当然返事をしなかった。
「お前最近ヘンだぞ。なにそんなにとんがってんだよ。そんなに周りの人間に嫌われたいのかよ」
「……別に好かれようとも思ってないよ」
不服そうな声。
「いや、お前わざとそういうふうに自分を強く見せようとしてねーか? お前の強さはもうみんな十分知ってるって。その年齢であそこまで健闘したんだ、誰だって驚いてるよ。それなのに」
「俺はぜんっぜん健闘したなんて思ってねーよ!!」
セテは突然声を荒げ、レトを睨み付けた。
「あんなふうに無様に負けて、それでお情けで優勝? ハン! そんなののどこが健闘だってんだよ!」
「だから言ってるだろ!? お前の年齢でそこまで戦えるヤツなんていないってのがどれだけすげーことか!」
「俺は誰よりも強くなりたいんだよ! もっと早く! いますぐにでも! 俺たちくらいの年齢で、もう宮廷お抱えの剣士になってるヤツだっている! 聖騎士だって受験資格をすべて満たしていれば誰だってなれる! でも俺は……!」
そこでセテは自虐的なため息をひとつつく。
「……俺はまだその資格だって満たしていない。どうでもいいから早く聖騎士になりたいだけだよ」
セテがそういうふうに答えるのは、レトにはよくわかっていた。彼は焦っているのだ。自分が憧れている聖騎士への道が、まだまだ遠いことに。自分のいまある立場にいらだち、結果、人をさげすむことで自分の焦りを緩和させて自己の至らなさをなぐさめているだけなのだ。必要以上に自分に厳しいセテの内側では、もうそのいらだちを抑えきれなくなっているに違いない。だからそれが攻撃的で威圧的な鎧としてあふれてきて、彼自身を武装させる。まだ自分は若いからと悟るほど世間を知っているわけでもないし、時間はまだたっぷりあると割り切るほど器用でもないのだ。
レトは怒ったような顔をしてそっぽを向くセテの姿にため息をつき、この無鉄砲な金髪の少年の腕を掴み、自分の背に再びまわさせる。今度は、セテはおとなしくレトの助力に甘んじてくれた。
「違うよ、セテ、俺が言いたいのは……」
言いかけたそのとき。路地から飛び出してきた黒い影に、レトは突然後頭部をなぐられ、うめき声をあげた。そしてセテも同様に殴り飛ばされる気配。足下がふらつき、かがみこんだふたりは、すぐに路地の中に引きずり込まれていた。
なにをしやがる! と悪態とつこうと口を開くが、殴られた後頭部がずきずきと痛んでうまく言葉が出てこない。かがみ込んでいる後ろから両腕を戒められ、肩の関節がはずれるかと思うくらいきつくひねりあげられたので、レトは小さく悲鳴をあげた。地面から視線を徐々にあげると、数人の人間の靴が勢揃いしているのが見えた。その上には、立派な身なりをした三人の剣士の姿。昼間、セテがさんざん挑発した挙げ句に惨敗させたハイ・ファミリー出身の剣士であることに気づくのに、ものの数秒もかからなかった。
同じように後ろ手に両腕を戒められているセテの様子が目に入る。脇腹が痛むのか、相当に腕をひねりあげられているのが痛いのか、セテは歯を食いしばっていた。セテと自分を戒めているのがふたり、そしてあと三人が無様に拘束された自分たちを見下ろしているのを確認し、レトは悪態をつく。あの女剣士が「用心しろ」と言ったのを、こんな形で思い出すとは。
「おい、逆恨みだぜ。こいつは正々堂々と戦ったし、あんたはそれに負けたんだからいまさらなんだっつーんだよ」
レトは目の前に立つハイ・ファミリーの青年に、比較的穏やかにそう言い聞かせるよう心がけたつもりだったが、語尾が震えてしまうのに内心舌打ちする。こういう手合いが納得するものなら、はじめからこういうことにはならないわけだし、なんだかあまりいい予感はしない。さっきまでふたりが歩いていた道は、ヴァランタインでも人気が少ない。貧民街も近く、夜になったらほとんど人は近寄らないやっかいな場所なのだ。
「負けたことが問題なのではない。ハイ・ファミリーを侮辱したことが問題なのだ」
青年は怒りに震える声でレトに言った。見ればおそらく二十三、四歳くらいだろうか。アジェンタスでもあまり見られない、透き通るような金髪の、見るからにハイ・ファミリー然とした育ちのよさそうな顔立ち。だが、その表情はいま不気味なほどに青ざめている。
青年は仲間に捕らえられているセテの顔を覗き込み、うれしそうに苦悶に歪むその表情を堪能する。
「……貴様は私になんと言ったかな。『ハイ・ファミリーの淫売の息子』だったかな。『能なしのボンクラぼっちゃん』だったかな」
「……『種なしのインポ野郎』ってのも忘れてるぜ……」
セテがそう言うと、青年は狂ったように笑いだし、ひとしきり笑った後に動けないセテの腹を固いブーツで蹴り上げた。セテがうめき声を上げたが、そのあと青年は拳で何発かセテの顔を殴りつけた。
「卑しい身分の生まれでハイ・ファミリーを侮辱するとは見上げたものだ。貴様らみたいな淫売の私生児がそうやって私たちにたてつくのが気に入らない」
「そうやって特権階級ぶってエラそーにしてるお前らの頭の程度に同情するぜ。お前らみたいなのを見るだけでヘドが出る」
殴られてもなお悪態をつき続けるセテの様子に、ハイ・ファミリーの青年が舌打ちをする。
「強がりもそこまでにするんだな。ひとことでいい。侮辱を取り下げて詫びを入れるならいまのうちだぞ」
「死んでも詫びるかよ。奇襲攻撃みたいなこんな汚い手ェ使いやがって。クソ食って死ね!」
セテの悪口雑言には相変わらず閉口すると思いながら、レトは血を吐いてもまだ青年をにらみつける姿勢を崩さない親友を見つめる。だが、青年がもうひとりの剣士に顎で指図をすると、そいつは腰に下げた剣帯から剣を抜き、セテの首筋に当てた。とたんにセテもレトも息を飲み込んだ。
「威勢がいいのは感心するが、往生際が悪いのは感心しないな。どうだ、貴様らみたいな庶民の変死体がいくらでも流れ着くアジェンタシミルのどぶ川に浮かびたいか。さぁ、潔く罪を認めて、跪いて私に命乞いをするがいい」
首筋を這う刃の感触に、セテが小さく身をよじるのが見えた。悪い予感はたいがい的中するものだ。レトは呑気にそんなことを思っていたが、セテがまた炎のような目で相手の剣士を睨み付けるので、レトはとうとう叫ぶ。
「セテ! いいから謝っちまえよ!」
「うるせえ! なんで俺が謝らなきゃいけねーんだよ!」
「まじで殺されるかもしれねーんだぞ! そんなこと言ってる場合か!」
レトは身をよじり、自分の両腕を拘束している剣士の足を攻撃すべく、後ろ向きに足を蹴り出した。見事的中し、両腕を戒めていた剣士がうめき声をあげたが、すぐに三人目の剣士がやってきてレトの顔をさんざん殴りつけた。
「よせ! レトは関係ないだろが!」
それを見てセテも暴れ出す。剣を突きだしていた剣士の股間を蹴り上げ、敵が剣を取り落としてうずくまった瞬間に大きく身をよじった。だが、ハイ・ファミリーの青年がそれを見抜いていたのか、すかさずセテの腹に拳を叩きつけた。女剣士とやりあったときのあざの痛みと相まって、セテは激しくうめき、床に膝をついた。青年はうずくまったセテに、ブーツで何度も何度も蹴りをお見舞いた。セテが激しく血を吐いて動けなくなるのを確認するまでその暴力は続き、そしてレトも再び、拘束者の手に舞い戻るハメになった。
腹を押さえながらうつぶせに倒れているセテを足でひっくり返し、青年はセテの顔を覗き込む。そして、何か思いついたかのようににやりと笑い、蹴られてうずくまっていた仲間たちを立たせた。
「ふん、なかなかいい顔してるじゃないか」
血塗れのセテの顔をうれしそうに堪能すると、青年はひとりをセテの両腕、もうひとりに両足を拘束させる。殴られて朦朧とするセテが小さく身をよじったが、大人の力で押さえ込まれた彼に逃れる術はなかった。
「いいこと思いついたよ。そいつを素っ裸にひんむいて貧民窟に放り込んでやれ。金持ちのオヤジ連中が喜びそうな顔してるしな。二度と出て来られないよう、こいつのアキレス腱を切っとくのも忘れるなよ」
足を拘束していた剣士が小さく頷き、懐から小刀を取り出すのが見えた。
「ふざけんな! セテを離せ! この下司野郎!!」
レトは声の限りに叫ぶが、腕を拘束している剣士がレトの口を無理矢理手で塞ぐ。
「安心しろ。お前もあとで送ってやる。明日の朝には友達同士、なかよく娼館でお目覚めだ」
手際よくセテのTシャツを小刀で切り裂く音に、レトは固く目をつぶり力の限り抵抗を試みた。だが、屈強な剣士の力の前には無駄な努力であると悟るのに数秒も必要なかった。あざだらけのセテの肌があらわになり、そして男はセテの足首に刃を当てる。そのとき。
「あらー。イタイケな少年を輪姦しちゃうんだったら、あたしもぜひ混ぜてくれな〜い?」
間延びした女の声に、一同は声の主を振り返る。黒光りする甲冑が月夜に照らされているが、その長身はとても女のものだとは思えなかった。