第二十四話:青き獅子と赤き竜 中編

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 なだらかな勾配ではあるが、はるか数十メートル先まで石造りの階段が続く。中央の建造物のように直線で切り出され磨き上げられた石段を見慣れた者の中には、ごつごつと石の質感を残したままふぞろいに切り出された石材を、武骨と感じる者もあるかもしれない。だが、その自然を切り取ったような表面を、あたたかみのある、味わい深い風情と捉える者も多いだろう。表面は不揃いであっても、ひとつひとつの石材がぴったりと組み合わされ積み上げられており、素材の風合いを活かしたまま精確に設計された巧みの技による造形であることがうかがえる。
 かつて旧世界《ロイギル》時代のある国では、寺院の階段に用いられた様式であることをアトラスは知っていた。いまでは本で見ることしかかなわないが、間近で見る石段の美しさにアトラスは思わず感嘆のため息をもらした。
 アトラスはいったん馬を下りると石段の脇にある石柱に馬をつなぎ、はるか上空に見える建物の入り口を仰いだ。石段は、上りきるまでに百段はゆうにあるだろうか。アトラスは腰の剣帯と鞘の確認し、石段を上り始めた。この上の建造物には〈土の一族〉の刀鍛冶師であり、土の核を管理する人物が住んでいるのだという。
 石段の中ほどまでくると、いよいよ建物の入り口が姿を現した。重量感のある古い木造りの門構えと、やはり木で作られた塀がどっしりと構えている。門の上には陶器の瓦が幾重にも積み重ねられており、それらの表面が初冬の淡い太陽の光を受けて鈍い光を放っていた。
 自分の身長を遙かに越える木製の扉に、アトラスはそっと手をかざす。結界や術法罠《トラップ》の気配がないことを確かめると、アトラスはその重い扉を両手で押し開けた。
 白い玉砂利の敷き詰められた、美しい庭園が眼前に広がった。細い石畳が奥へと続いており、その先にいかつい屋根瓦をかぶった木造りの屋敷が待ち構えている。平屋建てで木の扉の入り口を中心にした左右対称の造形は、見知らぬ建物であるにも関わらずなぜか安心感をもたらす。
 アトラスが歩き出すと、軍靴に踏みしめられた玉砂利が小気味よい音をたてた。だがそこで、アトラスは足を止める。
 わずかな地鳴り。戦闘服のベルトに剣の柄が触れて小さな音を立てた。
 突然、白い玉砂利が宙にはじけた。あらわになった土が波打つように盛り上がり、かさを増していく。柱のように伸び、アトラスの背丈の倍近いほどに膨れあがった土の塊から、左右垂直に泥の突起が生えてくる。二本の先端が伸びきると、その先でさらに細い突起が五本ずつ顔を出した。腕だ。そして最後に、土の柱の頭頂部に人の顔に似た凹凸が現れ、空洞の目がアトラスを捕捉した。
「〈ガーディアン〉か!」
 アトラスは剣を抜いた。持ち主の戦意に反応し、魔剣レーヴァテインが炎の霊子力を吹き上げる。
 剣を構えるアトラス目がけ、土の巨人が人の胴体ほどもある腕を振り払った。即座にアトラスは後方に飛びのいてそれをかわすが、返す腕が再びアトラスをなぎ払おうとする。アトラスは剣の腹に左手を添えて防御の姿勢を取った。盾を打つような小気味よい音が響く。アトラスの剣に仕掛けた物理障壁が発動したのだった。術法を仕込んでいなければ、化け物の豪腕によって剣はまっぷたつに折れていたはずの衝撃である。
 化け物の腕をはじき返すのに成功したものの、アトラスは反動で大きく後ろにはじき飛ばされた。玉砂利が靴底にこすられて悲鳴をあげる。化け物が少し距離を詰め、アトラスを再び殴りつけようと二本の固い腕を振り回した。アトラスは器用にそれをよけながら足場を確保するのだが、巨人の腕はどこまでも執拗に追いかけてくる。
 腕を回避するために飛び上がったアトラスであったが、着地の際にわずかに体制を崩した。そこを狙い、土の巨人が拳を突き出す。体勢を立て直す時間がないことを瞬時に悟ったアトラスが、剣で衝撃を防御しようと構えた。
 再び障壁のたてる小気味よい音。アトラスの体は衝撃波により数メートルほど玉砂利をひきずりながら後退していた。はじき飛ばされたもののなんとか持ちこたえられたアトラスは、即座に体勢を整えたのだが、不快感に軽く舌打ちをしてみせた。
 アトラスは構えた剣に左手をかざし小声で呪文を詠唱した。炎の霊子力がよりいっそう禍々しい色を帯びて活性化する。剣に術法を載せるのは、魔法剣士の戦い方としては定石である。
 アトラスは剣を振りかぶり、掛け声をともに振り払った。剣の炎がうなり声をあげる。剣から放たれた術法は炎の竜となってまっすぐに突き進み、土の巨人の手前で二手に分かれた。地面をえぐり、噴き上げるような火柱が巨人の両脇を襲う。わずかに表面の土塊が吹き飛び、巨人の指の何本かが崩れ落ちた。
 それを見るまでもなく、もう一度アトラスは剣をなぎ払った。今度は炎の竜は四つに分かれ、巨人を包囲するかのように火柱を噴き上げた。化け物の表皮は高温の炎に焼かれ、煽られたために崩れ、本体に比べて細くもろい指や肘下が原型をとどめるのが困難になってきたようだった。
 すかさずアトラスは土の巨人との間合いを詰め、近接戦に入る。アトラスの接近に気付いた土の化け物は腕を振り回したが、炎の術法を載せた剣に振り払われてしまう。炎が舞ったあと、いとも簡単に肩の付け根から腕が消失し、砂塵となって中空に溶けていく。
 怒りとも断末魔ともつかない叫び声をあげ、巨人が決死の体当たりを試みようと上体を反らせた。そしてアトラスは両手で剣の柄を握り直し、化け物のがら空きになった胸めがけてまっすぐに剣を突き出した。
 スポンジケーキにナイフを刺すがごとく、アトラスの炎の剣が化け物の胸の中心を突いていた。アトラスを押しつぶそうと身をかがめた化け物は、アトラスの剣に体を預けるがごとく、串刺しにされた形で動きを止めた。ぐいとアトラスが剣の柄を両手でひねる。霊子力の炎が、刺した箇所から血液のように噴き出した。そしてそれを合図に、剣で貫かれた場所を中心にして無数のひびが化け物の体を走る。全身に亀裂が行き渡り、亀裂が新たな亀裂を呼ぶ。
 先端まで亀裂が走るのを待っていたかのようにアトラスが剣を引き抜くと、ひび割れた土の巨人のからだはいっせいにはじけ、砂粒のように空中に拡散していった。
 アトラスはくるりと剣を回した。炎が美しい円を描き、切っ先が鞘に収まるころには、禍々しい気を放っていた光の気配は完全に消失していた。カチンと甲高い音をたてて剣を完全に収めたアトラスは、呼吸こそ乱れてはいなかったが、ここでようやく小さくため息を吐き出し、乱れた赤茶色の長い髪をかきあげた。
 そのとき。
「お前、強いな」
 アトラスは再び剣の柄に手を掛けた。戦闘中であったとはいえどもアトラスが人の気配を見逃すはずもなく、本当にいまのいままで、まったく気配は感じられなかった。しかも、後ろを取られるとは。アトラスはいつでも剣を抜けるよう、柄に手を掛けたままゆっくりと振り返った。
 見れば、小柄な少年が腕を組んでアトラスを見つめている。肩ぐらいの長さの黒髪を後ろでひとつに縛り、顔の脇からとがった耳が顔を出している。暗褐色の大きな瞳は好奇心に輝き、引き結んだ口角がわずかにあがっている。服装はといえば、前あわせの裾の長い紺色の布地を、青い太めの帯で腰の辺りで押さえている、あまり中央では見られないものであった。裾の下からは、小さなくるぶしと草履を履いた素足が覗いている。
 とがった耳を見れば、この少年が見かけどおりの年齢でないことは明らかである。アトラスはゆっくりと剣を引き抜こうとしたが、
「俺に用があったんだろ?」
 少年の言葉に、アトラスはあっけにとられた。まさかと思うが、目の前のこの少年が。
「まさかレーヴァテインを使いこなす人間がいるとは思わなかったけど、もしかして俺にそれ以上の剣を作らせるために来たのか? 無茶言うなよ。ジャスティンみたいに早死にはしたくない」
「それじゃ……お前が?」
「〈土の一族〉の最後の刀鍛冶師、ヨナスだ。なんだよ、そのがっくりしたような顔は。こう見えても俺、お前よりはずっと年上なんだけどな」
 アトラスは抜きかけた剣を鞘に戻し、小さくため息をついた。
「アトラスだ」
「へえ。ギリシャ神話のカミサマの名前をつけるなんて、酔狂な親だな。大地を背負う宿命なんて、俺はまっぴらだ。お前の親はお前に何を背負わせようとしてたんだろうな」
 ギリシャ神話という単語は聞き覚えがないが、古代の伝承から自分の名がつけられたことは両親から聞いて知っている。体の弱かった兄がプロメテウスという名前であったことは、たいへんな皮肉であったが。
「人から背負わされるものに価値などない。背負うものは自分で選ぶ」
 ヨナスは少し目を丸くしたが、
「ふん。ますます気に入ったよ。最近はあまり見ないけど、一時期は勘違いした馬鹿な剣士どもがやってきては剣を作れだの言ってきやがったからな。たいがいはあのガーディアンにぼこぼこにされて逃げ帰ってった。中央の剣士の質ってのは落ちてるんだな。あのガーディアンとまともに戦おうとしたのはお前が初めてだよ。けっこうな魔法剣士なんだろ?」
「術法など、最低限身を守るための盾であればいい。魔法剣士と分類されるのは心外だ」
「ご謙遜。あれだけ火の属性術法を使いこなしておいてよく言うよ。いいよ。話を聞こう。中に入れよ」
 ヨナスは先に立って歩き、屋敷の中にアトラスを顎で招き入れた。
 扉を抜けると、一本道の細い廊下が続く。建物を支える柱がその両脇を一定間隔で並んでおり、柱と柱の間には見事な彫像がいくつか鎮座している。中央ではあまり見ない様式で、ずんぐりとした鼻と大きく見開いた目や威嚇するように開かれた口元が特徴的で、なにより振り上げた腕やあらわになっている腹、胸などにたくましい筋肉が盛り上がっており、戦う戦士を彷彿させるとても躍動的なものだ。
「なんだ、そういうのに興味があるのか?」
 アトラスがそれらの彫像に目をやっているのが気配で分かったらしく、ヨナスが振り返って興味深そうな表情をした。
「見事なものだな。中央ではあまり見られない様式のようだが」
「〈ブツゾウ〉といってね。旧世界《ロイギル》の時代にやってきた種族の伝統的な宗教観に基づいた彫り物だそうだ。もっとも、ロイギルでは宗教は根付かなかったから、美術的観点から作られたものだけどね。親父や爺様が好きで集めてたんだ」
「この屋敷や石段も古来の寺院などでよく見られたもののようだが」
「博識だな。旧世界《ロイギル》より前には〈ニッポン〉という国でよく見られた建築様式だ。ロイギルの時代には〈ネオ・トーキョー〉とか言われてたかな。そこの文化様式は自然と調和をはかろうとするなかなかの機能美を持ってる。この〈キモノ〉もそうだ。夏は涼しく、冬は温かい」
 ヨナスは自分の来ている服の裾を指で引っ張ってみせた。
「ちなみに、この屋敷のほうは〈ブケヤシキ〉とかいう古代の武将が住んでた屋敷を模して建てたんだそうだが、その〈ニッポン〉の武将が持つ刀も大好きでよく作ってたな。とにかく親父は〈ニッポン〉びいきだったんだ」
「父上や祖父殿は」
「爺様は四十年くらい前に異世《ことよ》行きさ。親父は十年くらい前。寿命だよ。〈土の一族〉や偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》だって寿命くらいはある」
 ヨナスは肩をすくめ、さらりとそう言いのけた。
 奥の間には巨大な〈ブツゾウ〉が一体、客人用の低いテーブルを半眼で見下ろしている。ヨナスは奥に腰掛け、アトラスにも手前の椅子を勧めた。
「それで? どんな剣を作ってほしいんだ?」
「我が主に力添えをもらいたい」
「ふん、主持ちね。騎士道精神ってのはまだすたれてなかったんだな。そいつにどんな剣を作ってやればいいんだ?」
「主の剣ではない。我が軍の武器だ」
「我が軍?」
 ヨナスは片方の眉毛をあげ、身を乗り出すと、
「軍隊の剣なら、もっと安くて量産可能な業者が中央にごろごろしてるだろう。土の核を使って作った剣は相応の精神力がないと扱いづらい、大枚はたいて揃えるもんでもないと思うけどな」
「攻撃力を優先したい」
「へえ。戦争でもおっぱじめる気か。いまどき面倒くさいこと考えるんだな。お前、どこの軍隊に属してる?」
 ヨナスの興味深そうな表情がますます輝いた。
「アートハルク帝国軍」
「アートハルク? ダフニスは死んだだろ」
「銀嶺王の意志を継いだ火焔帝ガートルード率いる新生アートハルク帝国だ」
 ヨナスの目が大きく見開かれた。
「ガートルード? ガートルードってあのガートルードか? レオンハルトの妹の。聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》の?」
 アトラスは無言で頷く。そこでヨナスが高笑いをした。
「お前、それ早く言えよ。なんだよそれ。あのガートルードだって? あの弱っちい水の魔導師の? こりゃ傑作だ」
 ヨナスは手を叩いて笑っている。
「それで? ガートルードは何をするつもりなんだ?」
「中央諸世界連合を解体し、フレイムタイラントを復活させる」
「へえ!?」
 またしてもヨナスが身を乗り出してくる。
「おもしろいこと言うなぁ。それで武器が必要ってわけか」
「武器だけじゃない。土の核の力も我が軍のものとしたい。つまり、〈土の一族〉との同盟を望んでいる」
「ふーん」
 ヨナスはアトラスの顔を愉快そうに見つめ、しばらくにやにやしながらひとりで頷いている。そして。
「土の核はテオドラキスが制御しやがってるから、最近は強力な剣を作れなくて退屈してる。おまけに、テオドラキスの小僧が小うるさい説教ばかり言うのに飽き飽きしたところだ」
 そう言って、ヨナスは立ち上がる。
「俺はあのクソ真面目なレオンハルトもガートルードも大嫌いだったから、ガートルードの下につくってのは許せないけど、お前と組むってのなら話は別だ。俺は強いヤツが好きだ。強いヤツと世界征服ってのも悪くない。いっちょ、土の封印を解いてみるか」
「……は?」
 アトラスは眉根をよせた。ヨナスは子どもらしい笑顔を見せて手招きしている。
「土の核の封印を解きたいんだろ? ガーディアンなんか面倒くさくて配置してないし、解呪なんざ簡単だ。おもしろいことやろうぜ」



 セテ、レイザーク、テオドラキス、アスターシャの面々は、急がず遅れずといった速度で馬に揺られていた。ジョーイはベゼルとサーシェスの護衛に残り、代わりにアスターシャの護衛目的といってアラナがついてきたことにレイザークはずいぶんと面倒くさそうであった。
「ドワーフ?」
 セテが隣のテオドラキスに尋ねた。
「ええ。〈土の一族〉はよく〈ドワーフ〉と呼ばれるんです。大昔の伝承に出てくる妖精の呼称なんですがね、鍛冶や細工物などが得意とされていたそうです。彼らも土と生きる生活からそういったものが得意なので誰言うとなくそう呼ばれるようになったんですが、もうひとつ特徴的なのは、彼らのほとんどが少年のような姿をしていることが挙げられます」
「子どもみたいってことか?」
「見かけだけですけどね。もともと伝承に出てくるドワーフってのはこびとのような風貌をしているんですよ。〈土の一族〉のほとんどが小さな少年少女のような姿を好んでいたし、見かけ上はあまり年も取らないので、妖精のようなものと捉えられたのかもしれません」
「ふーん」
 セテはテオドラキスをまじまじと見つめた。
「偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》も四大元素の一族も、便利だよなぁ。自分の外見を自在に変えられるなんてさ。でも子どもの外見だと損することのほうが多い気がするんだけど」
「まぁ、大人の姿でいるほうが世の中の関わり方として有利と判断する者がほとんどですがね。子どもの外見であることで得をすることだって多いですよ」
「たとえば?」
「子どもだと思って油断する相手は多いですからね。態度も軟化する。重要なことを聞き出したり決断させるのに、子どもの姿でお願いしたりすると、これがまた効果覿面」
 テオドラキスがいたずらっぽく笑ったが、セテはその笑顔にどす黒いものがにじみ出ているのを見逃さなかった。
「……テオドラキス、あんたすげー腹黒そう」
「その腹黒いのを隠せるのも子どもの外見ですよ」
 テオドラキスがまた無邪気に笑ったので、セテは呆れたように肩をすくめた。
「子どもの外見か……」
 セテはふとつぶやくようにそう言った。
 いまのサーシェスも子どもの姿になってしまっていて、それはサーシェスの中にあるいくつかのアヴァターラのどれかがそう望んでいることなのだという。
 アートハルク戦争前のアートハルク帝国では、銀嶺王ダフニスと守護剣士であるレオンハルト、そしてまだ金髪であったガートルードが紫禁城で暮らしており、そしてその折り、銀髪の小さな少女が一緒にいることも確認されている。レイザークの話ではそれが復活した救世主、つまりサーシェスであると中央では分析されているということだったし、サーシェスが光都で拘束されたときにも、ガートルードと一緒にいたのが彼女であり、ガートルードと術法戦になってレザレアを吹き飛ばしてしまったと本人が証言している。セテが浮遊大陸を訪れたあとに復活した救世主は、子どもの姿をとってレオンハルトの前に現れたというわけだ。
 子どもでいたい。何も知らないでいたい。サーシェスのそんな気持ちは分かる気がする。だが、かつての姿を知っている人間にとってはどうだろう。それはとても悲しいことではなかったのだろうか。
「テオドラキス、長との連絡はついたのか?」
 レイザークの声に、セテは現実に引き戻された。出る直前に、テオドラキスは〈土の一族〉の長に事前連絡をするという話だったが。
「いえ、いまだにまったく応答がありません。おかしいですね。寝ているのであればそういう気配が感じられるはずなんですが……」
「実は死んでましたとかいうオチは笑えないぜ」
 セテが茶化した。
「生命反応がなければすぐに分かります。どちらかというと……応答を拒絶しているような……」
「おいおい、喧嘩でもしたのかよ」
「少し小うるさく言い過ぎたかもという反省はありますが……なにせとんでもない偏屈ですから」
 テオドラキスが小さくため息をついた。
「先を急ぎましょう。何かいやな予感がします」
 テオドラキスはそう言って馬を駆り立てた。残りの面々もテオドラキスに合わせ、馬を早めた。
 刀鍛冶師の館に到着したテオドラキスを除く面々は、その石段の多さや造形に感嘆や愕然の表情を隠せず、ふぅふぅ言いながら無数にも見える階段を上っていく。アスターシャなどはさすがに体力的に厳しいものがあるようで、たまに立ち止まっては息を整え、ずんずん先を昇っていく男たちをうらめしげに睨みつけていた。
「お姫さん、おぶっていってあげようか」
 アラナがアスターシャに声をかけると、アスターシャは首を激しく振り、
「結構。これくらいなんともないわ」
 そう言って、また気丈にも石段を上り始めたので、アラナは笑いながらアスターシャの尻を叩いた。アスターシャが抗議の声をあげたが、アラナは早足で軽々と石段を上っていってしまったのでその声も届かなかった。アスターシャはため息をついて、ほっそりした足を石段に叩きつけた。
「こりゃ……すごい建物だな」
 石段を上りきったレイザークが大きなため息とともにつぶやいた。大きな木の扉や瓦作りの屋根などは、中央ではあまり見られない建築様式で、セテもあっけにとられたようにその門構えを見上げている。
「武家屋敷とかいうそうですよ。大昔の局地的な地域で用いられた建築様式だそうです。まぁ、中に入ればもっと驚くでしょうけどね」
 テオドラキスがそう言って木の扉を押し開けた。一瞬テオドラキスの表情が険しくなる。
「戦闘のあと……? ガーディアンが発動した気配がします」
 レイザークとセテの表情もこわばる。白い玉砂利の敷き詰められた広大な庭には、乱闘のあとなどは見受けられなかったが、能力者であるテオドラキスはそのわずかな残り香をかぎとったらしかった。
 テオドラキスに続いてセテとレイザーク、アラナが歩き始めた。だが。
「いてっ!!」
 テオドラキスが悲鳴をあげ、頭を抑えながら腰をかがめた。セテとレイザークが剣に手を掛けた。テオドラキスは頭をさすりながら手を前方に差し出す。その手のひらは、ガラスの壁があるかのごとく空中でぴったりと押しとどめられている。
「障壁……?」
 テオドラキスが力強く腕を押すのだが、行く手を阻む空中の見えない障壁はびくともしないようだった。続いてレイザークが手を差し出すが、やはり障壁に押しとどめられてしまう。後ろにいたアラナは剣を抜き、掛け声とともに障壁に向かって振り下ろすのだが、硬質の刃がなにかと衝突する音が響くだけで、体当たりをしようにも前に進めない。
「あんのクソガキ〜〜ッ!!」
 テオドラキスが青筋をたてながら小声で、静かな怒りを含んだ声で悪態をついた。その後ろでセテが彼の豹変ぶりにわずかに驚いているのに気付いて、テオドラキスはあわてて咳をした。
「ちょっと。なにそんなところで遊んでるのよ」
 遅れてきたアスターシャの声だった。アスターシャは息を弾ませたまま、ようやくたどり着いたと言わんばかりの出で立ちで腰に手を当て、先に行ってしまった仲間たちをうらめしげに睨んでいる。そのまま偉そうに歩いてきたので、テオドラキスが障壁について注意喚起しようと口を開いたのだったが。
 アスターシャの体は障壁をなんなくすり抜けた。いや、障壁のことを知らない当人にとっては、至ってふつうに歩いただけだったのだが。
「なによその顔は」
 アスターシャが、あっけにとられている面々を振り返って怪訝そうに顔をしかめた。
 テオドラキスは隣にいたセテの背中を押す。思いの外、強い力で押されたので、セテは抗議の声をあげる間もなくあわてて頭と顔を防御するために手で覆ったのだったが、セテの体は大きく前に傾き、転げるようにしてアスターシャの足下にたどり着いたのだった。
 テオドラキスは心底呆れたといわんばかりに小さくため息をついた。
「どうやら……術法の臭いがする人間を排除しようということみたいですね」
 セテとアスターシャは互いに顔を見合わせた。確かに面子の中で術法が使えないのはセテとアスターシャのみである。
「障壁を解呪してからすぐに追いかけます。セテ、アスターシャ王女、すみませんが先に行ってていただけませんか」
 そう言ってテオドラキスは中空に円を描き、見えない障壁を解除するための鍵を探り始めた。術者を排除するための術法は、テオドラキスにとっても厄介なものらしい。
「さ。行くわよセテ」
 途端にアスターシャが元気になり、セテのほうを向いて顎をしゃくる。そして先に立ってずんずんと歩いて行ってしまうので、
「ちょっ! どんな術法罠《トラップ》があるか分からないのにそんな無防備に! おいって!!」
 と、セテはアスターシャの背に叫ぶのだったが、
「ま、お姫サンをちゃんと守ってやれよ」
 レイザークが呑気ににやにやしながらそう言ったので、セテは小声で悪態をつき、アスターシャを追いかけた。
 木の扉を抜けると、暗い廊下が続く。両脇の柱に備え付けられた灯火がおだやかに揺れながらふたりの行く手を照らしている。柱と柱の間にある木像が、灯火のわずかな光に揺らめいてより一層立体的に見えた。
「すごいな……戦士の像かな」
 たくましい筋肉に覆われた腕で剣を振り上げた像が、薄暗い廊下を歩くふたりを険しい表情で見下ろしている。その緻密な造りや構図は、彫り物職人の魂が込められたように躍動感あふれるもので、セテにとっては職人の剣士に対する尊敬の念のようなものが感じられて心を揺さぶられるものである。
「本当に、男の人ってこういった像が好きなのね。特に剣士って部類の人種は。私はこんな筋肉隆々の男なんてぞっとしないわ。男性の肉体的権威を象徴してるみたいでとっても不愉快」
 アスターシャのような若い女性がこういった感想を持つのはもっともなことだとセテは思ったので、小さく肩をすくめて見せるだけでなにも言わないことにした。
 到着した奥の間には、背丈の低いテーブルと椅子がふたつ。その奥の壁に巨大な像がテーブルを見下ろす形で鎮座している。
「誰もいないわね」
「でも人の気配がある。さっきまで誰かここにいたんだ」
「まさか本当に死んでるなんて」
「いや、争った形跡もないし……」
 セテは部屋を見回した。左右に引き戸の扉があり、それらの表面は紙でできているらしかった。不用心な建築様式もあったものだと思いながら、セテはその引き戸を遠慮がちにひいてみる。
「こんにちはー。あのー」
 間の抜けた挨拶に、アスターシャが少し呆れたようにため息をついたが、セテは気にしない。
 開けた先は寝室のような部屋だったが、返事はなく誰もいない。もう一方の引き戸も開けてみるのだが、そちらは台所のような部屋であり、もちろん人の気配すらない。
 外出しているとしても、わざわざ術者を阻むような物理障壁を構築していくのは大げさにも思えるし、テオドラキスが感じたという戦闘の形跡というのが気になる。
 ふと、セテは木像の脇に小さな扉が隠れるように存在することに気付いた。子どもの背丈くらいの高さで、勝手口というには小さすぎる。左右の引き戸に対してこの小さな扉には生活臭、人が頻繁に利用する痕跡がまったく見あたらない。
「あやしいわね」
 アスターシャが愉快そうに鼻を鳴らした。こうした状況を楽しんでいるのは一目瞭然である。セテは出しゃばりたそうなアスターシャを後ろに追いやり、先に立って扉を開けた。
 扉の向こうでは、ゆるやかに下に向かう階段が続いている。途中で左に折れているのでその先まで見通すことはできないが、セテは迷わず階段を下り始めた。アスターシャが早く早くと後ろからせかすが、セテは危ないからと彼女を何度も後ろに追いやらなければならなかった。勝ち気なアスターシャにしてみればおもしろくないのだろうとセテは思っていたのだが、その実、アスターシャは男性に、特に好意を持っている人間に先導してもらうことに対して、わずかな満足感を抱いているのであった。その証拠に、この非常時に彼女の顔はたいそうにこにこしている。もちろん、セテがそんなことに気付くわけはない。
 ふと、セテはかすかに感じる感覚に首をひねった。
「この感じ……」
「なによ。お化けとか馬鹿なこと言わないでよ」
「なんだろう。術法の気配……?」
「分かるの?」
 セテは少し考え込むようにして口をつぐむ。まだレイザークの家に厄介になっていた頃の話だ。風属性のモンスターが猛威を振るっているとかで、レイザークに狩り出されたことがあった。得体の知れない術者連中が先に来ていて──いまにして思えば、〈黄昏の戦士〉の構成員だったのだろう──彼らの魔法障壁を盾に、結界を突き破って出てくるモンスターたちと格闘したことがあった。レイザークによればその直後に、セテは気を失っているにも関わらず術法を発動させたという。そのときの感覚によく似ている。体の内側から、無限に力があふれてくるような気がするのだ。
 その時期と、サーシェスから聞いた〈風の核〉の暴走した事件の日時が一致していることは後で気付いたことであった。
 今回はさらにその気配が強く感じられる。〈風の核〉と同様に、巨大な力を秘めた〈土の核〉が近くにあり、その力があふれているからだろうか。
 階段を下りて行くにつれ、かすかに人の声のようなものが聞こえ始めた。子どものような甲高い少年の声と大人の男の声、ふたりの人物の話し声だ。足音を忍ばせながらセテとアスターシャは階段を下りて行くが、だんだんと声がはっきりしだす。言い争いというほどではないが、なにやら子どもがだだをこねているのを大人が諭しているようにも聞こえる。セテとアスターシャはいっそう息を潜め、首だけ伸ばしてそのやりとりを聞き取ろうとしたのだが。
 赤茶色の後ろ髪を見た瞬間、セテは息を呑み、身をかがめた。アスターシャにももちろん見覚えのある男の後ろ姿であった。
「なんで……なんであいつがこんなとこにいるんだ……!」
 セテは無意識に口元を手で押さえる。心なしか歯の奥が震えだした気がした。押さえた指の先も急激に血の気が引き、腕の付け根から震えがくる。セテは認めたくはなかったが、紛れもなく、それは恐怖心であった。命のやりとりをする現場で、生まれて初めて完璧に負かされた相手。それが、アトラス・ド・グレナダであった。
 手足に力が入らない。握りしめたはずの拳は、指の関節から力が抜けていくために開いてしまい、意識的に力を入れようとすればするほど震えが激しくなる。セテはさらに力を込めようとまぶたを固く閉じ歯を食いしばったのだったが、暗闇に支配された視界に、アジェンタス陥落のあの日、炎の中で見た光景が渦巻く。アトラスの振り上げた剣がうなりをあげて襲ってくるような感覚に見舞われたのだった。そしてその刃の先には、肩口から胸にかけて炎の剣の一撃を受けたピアージュがいる。
「く……そ……!」
 セテはわずかに呻いた。こんなところで過去を追体験し、恐怖に蹂躙されるとは。救えなかったアジェンタスやピアージュ、母親、アジェンタス騎士団の同僚たちへの、赦しを請う気持ちが膨れあがって吐き気がする。
 と、そのとき。
「こら」
 アスターシャの冷たい指先が、セテの両頬をつまんでいた。痛みに目を開けば、同じ目線で腰をかがめたアスターシャの顔がすぐそばにあり、怒ったような表情でセテを見つめている。驚いてセテはアスターシャを見つめるが、彼女は無言のままで、目の焦点が合ったのを合図にもう一度セテの両頬を指で強くつまみ、左右に引っ張った。
「イタッ!」
「しっかりなさい。あんなヤツ、怖くも何ともないんだから。化け物ならいざ知らず、同じ人間、しかもヤツはいまひとり。こっちはふたりよ」
 そう言ってアスターシャはすっくと立ち上がり、階段を駆け下りた。セテが制止する時間などなかった。
「ちょっと! あんた! 何やってんだか知らないけど、観念なさい!」
 アスターシャが大声でアトラスの背中に叫んだ。その甲高い声に、アトラスが剣の柄に手を掛けながら振り返る。セテの恐怖心は彼女の行動ですっかり吹き飛んでいた。むしろ恐怖に震えるどころの騒ぎではなかった。セテはあわてて飛び出し、アスターシャの腕を引いて彼女の前に立ちはだかる。
「青き若獅子? それにアスターシャ王女。なるほど」
 アトラスが獲物を見つけた猛獣のように笑う。
「なに企んでるか知らないけど、あんたたちの悪事もこれまでよ。いま聖騎士団と中央特務執行庁がこの屋敷を包囲してるんだから」
 アスターシャが気丈に言い放つ。聖騎士レイザークと特使のセテがいることに間違いはないのだが。
 アトラスはアスターシャの言葉を無視し、彼女の前に立つセテを見やった。セテの体がわずかに跳ねる。
「相変わらず、戦場に女連れか」
 アトラスが鼻で笑ってそう言った。途端にセテの顔が怒りに紅潮する。だがそのとき。
「************!!」
 歌うような音階の言葉が響き渡る。まだ大人にはほど遠い、少年の甲高い声だった。アトラスがわずかに狼狽したように振り返ったので、セテとアスターシャも彼の背後に目をやる。巨大な魔法陣を中空に描き、緑色の強烈な光を放つ数式の数々を渦巻かせる少年の姿があった。
「ヨナス! まさか本当にリリース・ワードを……!?」
 アトラスが少年の背に叫ぶ。黒髪の小柄な少年は、少女のようなくったくのない笑みを浮かべてアトラスを振り返った。
「だから見せてやるって言っただろ。〈土の核〉の力をさ。びびって小便漏らすなよ!」
 少年が愉快そうに笑った。そして次の瞬間、緑色に明滅していた魔法陣がいっそう激しく光を放ち始め、やがて目もくらむような白い光が炸裂する。セテとアスターシャはその閃光から目を守るために腕で顔を覆った。そして間髪入れず、魔法陣の描かれた中空はふたつに割け、その裂けた空間のすき間から白く輝く無数の数式が空気の濁流となって勢いよく流れ出す。
 セテは咄嗟にアスターシャを抱き寄せ、その頭を抱きかかえるように身をかがめたのだったが、ふたりの体はほとばしる光と衝撃波にも似た空気の振動に、あっという間に押しやられてしまっていた。

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