Home > 小説『神々の黄昏』 > 第三章:死せる夢見の大地 > 第十四話:拘束ふたたび
セテは、アジェンタス騎士団領でよく使われていたものよりももっと高級にしつらえられた担架に、レオンハルトとサーシェスがそれぞれ横たえられて運ばれていくのを呆然と見つめていた。
祭司長ハドリアヌスの指示によって中央の衛生兵や術医などが押しかけ、手際よくレオンハルトとサーシェスの容態を見ながら対処していく横で、その間も目を覚まさないサーシェスと、そして伝説の聖騎士レオンハルトの姿をただ傍らで見ていることしかできなかった。
サーシェスとレオンハルトの腕には即座に点滴が打たれた。とくにレオンハルトは五年もの間、この水晶の中に閉じこめられて仮死状態だったため、見た目は変わらずとも衰弱が激しいと予想されたのだろう。術医たちの会話は専門的でよく分からなかったが、脳に損傷が見つかる可能性もありということで、相当な手厚い処置が必要とされていることだけは理解できた。
またサーシェスについては、なぜ体が縮んで幼い少女の姿になってしまったのか、医師たちの間では興味深い会話がなされていた。ただ、術者が力を使い果たして倒れることについてはよくあることのようで、それについてはさして驚きもせず慣れた手つきでてきぱきと仕事をこなしていた。
そしてレオンハルトを貫いていた聖剣エクスカリバーは、厳重に聖救世使教会が保管することになったようだった。保管というよりはレオンハルトから引き離し、研究対象としていろいろな分析にかけられることは明らかである。
ふたりの担架が運ばれていき、その姿が見えなくなると、セテはようやく大きなため息をついた。それとともに、激しい疲労感とめまいが襲ってくる。
「だいじょうぶか」
レイザークはセテの様子をうかがいながら声をかけたが、セテは口を開くのも面倒なのか、何度か力なく頷いた。
セテとレイザークのふたりは、中央官舎の一室に案内され、そこで一夜を過ごすこととなった。一般兵のうなぎの寝床のような部屋に通され、しかも二段ベッドときた。アジェンタス騎士団領でさえも個室があてがわれていたのに、ぞんざいな扱いに少しむっとしたが、仕方ない。もともと客人ではないのだし、中央にとってはそれどころではないのだろう。
セテは二段ベッドのどちらに寝るか、もしレイザークが上だったらベッドの支柱が壊れるかもしれないとか、レイザークが下だったらさぞかしいびきがうるさいだろうと考えたが、なにしろ疲労困憊状態だったので下のベッドに腰を下ろし、長いため息を何度もつきながら前髪をかきあげたり顔を両手でこすったりして頭を整理しようと懸命になった。
サーシェスの姿が変わり、そして救世主《メシア》らしき人格──セテにはそれがまったく理解できないが──が現れた。口調は以前のサーシェスとまるっきり異なり、軍を統率する司令官のような言葉遣いに変わっている。記憶が戻ったようなことも言っていたが、それでは以前のサーシェスはどこへ、この幼い少女の姿になってしまった理由はなぜなのか。
そしてレオンハルト。五年前のアートハルク事件で、クーデターの首謀者、王殺しとも言われ、死んだと思っていた彼が、まさかこんな場所であんな形でよみがえるとは思いもしなかった。十七年前から続く絆、神々はこうやって人の人生を弄んでいるのではとも思ってしまう。
脳に損傷があった場合は記憶もなにも、廃人のまま目を覚まさないことだって考え得る。彼の口からアートハルク事件の真相が語られることはあるのだろうか。それよりも、自分が彼と再び言葉を交わすことはできるのだろうか。そんな個人的な理由に終始してしまう。
それから、強制的にどこかへ転移させられてしまったフライス。祭司長の命により、即座にフライスの捜索活動が開始されたが、彼がまたサーシェスを置いていってしまったことに少々のいらだちを感じるとともに、再び引き離された恋人たちの心境を考えると胸が痛む。
それからロクランは、それから、それから……。
セテは混乱する頭をくしゃくしゃとやりながら、長いため息ばかりつくことしかできなかった。
「なんだ、相当まいってるな。一杯つきあえ。少しは気が紛れるだろう」
レイザークは客人用に出された飲み物のトレーから酒ビンをつかむと、ふたつのグラスに酒を注ぎ、ひとつをセテに差し出した。セテは力なくそれを受け取り、ちびちびとなめるようにその舌を潤した。光都産のわりといい酒なのだろうが、味や香りを楽しんでいる余裕はまったくなかった。
「さて、これからどうなるか、だな」
レイザークもいろいろと考えを巡らせていたようで、長いため息をつきながらそう言った。「どうする」ではなく「どうなる」という受け身な態度に、レイザークもおそらく混乱を隠せないでいるのだろう。
「賢者ヴィヴァーチェに取り憑いてた、あの、なんていったか、ネフレテリか? ロクラン占領下の最高司令官だったとかいう。あれがどうなったかでロクランの情勢も変わるだろうし、敗退してきた義姉さんたちの軍のこともどこからか情報が漏れて新聞を賑わしてるみたいだしな。ロクランの様子いかんでは再び出撃もありうるだろう。アートハルクの光都乗っ取りも失敗したことだし、全面的に衝突することになるかもしれん。うまくハドリアヌスが立ち回ったおかげで守護兵器から要石への道を探られずに済んだが、実際にあれを動かすことになるかもな。あとは……身近なところでは意識の戻らないレオンハルトとあのお嬢ちゃん……それに行方不明のフライス殿か……」
レイザークはいらついているのかグラスを煽り、再び酒をどぼどぼと乱暴に注いだ。
「それからお前の処遇と、俺の立ち位置だわな……。ふむ」
レイザークは考え込むような仕草で腕組みをし、まだ酒を煽った。セテもそれにならってグラスを煽る。
「今回はあんまり取り乱したりしてないようだな」
レイザークがセテに声をかけた。セテはいまだ力なく顔を上げると、
「取り乱してっていうか……そりゃ内心では取り乱して混乱してるけど……」
「以前はずいぶん過去のことに囚われてたからな。ちょっと心配してたんだが……」
殊勝なレイザークの言葉に、セテは静かに首を振る。
「過去のことは気にしないことにしたよ。そりゃ、母さんが死んだこと、アジェンタスの仲間たちが死んでいったこと、レトやピアージュのことだって……思い出せばまだいくらでも泣けるけど……。いまこの瞬間と、それから未来のこと、そっちのほうが大事なような気がするんだ」
アジェンタス騎士団領以来、身内や多くの仲間たち、愛した少女を失った。大切な者たちを失った天涯孤独の身ではあるが、また新しい出会いも生まれた。少しは自分でも成長したのだろうかと、セテはそう思うことを自分に許した。後悔して泣くのはいつだってできる。だけど、いまこの瞬間にしかできないことのほうがきっと重要なんだ、と。
「でも……こんなふうにして待つだけの時間は……正直気が滅入るし、焦燥感ばかり感じて……いやだな」
セテはグラスを弄びながらつぶやいた。
「ああ、俺もだ。自分でなにもできないってのは歯がゆいな」
レイザークがそう言うので、セテは少しいたずらっぽく眉を上げて、
「あんたなんか今まで散々、有給使ってぶらぶらしてたくせに」
「俺は副業やってたんだよ。休職中のお前と一緒にするなっての」
「おまけに嘘ばっかりついてたしな」
「お前、まだ根に持ってるのかよ。悪かったよ。これでも一応気を遣ってたんだぞ」
会話をしていることで少しは気が紛れる。それからレイザークと他愛もない話をして時間をつぶすことにした。レイザークの当たりがずいぶん変わったとセテは思う。おそらく、レイザークもセテが真実を知るのを恐れていただろうし、それが明らかになってしまったが、彼の中での重荷──さまざまな思い──も解消されたのだろう。
「パラディン・レイザーク様、トスキ特使」
しばらく会話に没頭していた頃、ふたりの部屋のドアがノックされ、役職名で名を呼ばれた。レイザークが入ってくるよう促すと、係官らしき男が姿勢正しく敬礼をした。
「サーシェス殿の意識が戻ったようです。ご面会をご要望の様子でしたので、アスターシャ王女とヴィヴァーチェ殿、エチエンヌ殿もおられます」
ふたりはあわててグラスをおき、セテは特使の制服の上着をはおり、レイザークは甲冑を脱いではいたが一応それなりの格好で係官の後ろをついていくことにした。
病室につき、その扉を係官が丁寧に開けてセテとレイザークのふたりを中へ誘った。係官はすぐに退出していったが、サーシェスのベッドの周りに、すでにアスターシャとヴィヴァーチェ、その従者であるエチエンヌがおり、ようやく二日酔いの抜けたらしいジョーイと、アスターシャの小姓ということになっているベゼルは、入室を遠慮させられたのか室外のソファに腰掛けていた。
「レイザーク様」
アスターシャが心配そうな表情に少しだけほっとしたような雰囲気を浮かべてそう言った。ヴィヴァーチェはこれまでの雰囲気とはうって変わった、まさに光の妖精のような雰囲気をまとい、横では安心した表情のエチエンヌが付き添っている。ネフレテリの憑依から解放され、真の女賢者もようやく目を覚ましたところなのだろう。エチエンヌの視線は常にヴィヴァーチェに注がれており、彼がいかに彼女を大切に思っているか、まったく見え見えである。
「セテ、パラディン・レイザーク……」
ベッドの上の幼いサーシェスが、ふたりの姿を認めて口を開いた。相変わらず十七、八歳のサーシェスの姿ではないが、声に覇気があることから、体力は回復しているのだろう。
「サーシェス……」
セテはベッドに駆け寄り、その顔に血の気が戻っているのを確認してほっとため息をつく。
「心配かけてすまなかった。みなに事情を話さねばならんな」
とくにアスターシャたちはどうしてサーシェスがこんなことになったのか知るよしもなかったので、サーシェスの中にいるサーシェスは説明することを決意したようだった。だが、どこから話せばよいのかも考えあぐねている状況でもあるようだ。
「サーシェス……本当に……わたくしが至らなかったせいで……」
ヴィヴァーチェは祈るように跪き、サーシェスの小さな手を握った。サーシェスは静かに首をふると、
「気に病む必要はない。それはあなたの責任でもなんでもない。グウェンフィヴァハ」
サーシェスが呼んだ名前に、一同は首を傾げる。グウェンフィヴァハ、どこかで聞いたことのある名だった。
「まさか……!」
最初にうめいたのはレイザークだった。サーシェスは何も言わなかったが、ヴィヴァーチェが意を決したように口を開いた。
「私の本当の名前です。私は、かつて聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》と呼ばれた者のひとり、グウェンフィヴァハです」
一同から口々に、うそ!? まじで!? そんな!?といった言葉が発せられる。もちろん、長年従者として付き従ってきたエチエンヌも知らないようだった。
「どこから話してよいものか……。わたくしはもともと、精神感応と予知能力を持ってはいましたが、直接物質に働きかけるような力は持ち合わせてはおりませんでした。もちろん争い事や政《まつりごと》は興味ないどころか嫌いですし、表に出るようなことも好きではありません。こちらの……サーシェスに見いだされる前は、占い師として生計をたてておりました」
賢者とまで呼ばれ、二百年も昔に世界を救った聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》のひとりとして名を連ねた女性の、なんとも質素な「ふつうの人」っぽい発言に、一同は毒気を抜かれたようであった。伝説が伝説を呼び、人ひとりを誇大に飾り立ててしまういい例なのかもしれない。
「だから、サーシェスに必要とされたのはなぜか、ずっと悩んでいたものです。ただ、彼女の熱い意志や力強い信念に、強く動かされた」
「謙遜はいい。あなたがいなければ、我々はフレイムタイラントに打ち勝つことはできなかった。彼女が我々の力を増幅し、結束させてくれたおかげで、私はあの化け物を封印することができた。彼女の能力は、術法の威力を増幅させることと、複数の異なる術者が展開した術法を結合させるところに特殊性がある」
サーシェスがそう割って入ったが、そのせいで自分が命を落としたことなど、なんとも思っていないようだった。
「汎大陸戦争が終結してから、聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》は誰言うともなく自然消滅しました。私は名前を変え、隠遁者として占いや預言を預かる者としてグレイブバリーに居を構えておりましたが……」
あとの者がどうなったのかは、直接連絡を取ることもなかったし、知らなかったという。
隠遁生活の中でエチエンヌや他の術者たちに囲まれ、時に政治家たちに請われて予知をする、というのが彼女のこれまでの生活だった。そして、そこでネフレテリの精神攻撃にさらされ、精神を乗っ取られるという事態に陥ったというわけだ。
グレイブバリーのようなところで隠居生活をしているのなら当然だが、そこでひとつの疑問が浮かび上がる。聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》というのはもしかしたら……。
「聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》なんて呼び方は、汎大陸戦争が終わってから、伝説っぽく盛り上げたかった当時の人々のわがままに過ぎない。我々の結束はそれほど固かったものでもないし、個人的なことに踏み込むようなマネはお互いにしなかった。偶然私が見いだした能力者をかき集めたようなものだ。むしろ、反目し合っていた者もいる」
サーシェスのさらりとした言い方に、いちばん落胆したのはセテだった。思い描いていた夢や理想的な部分が、音をたてて崩れていく。
「じ、じゃあ、レオンハルトは!?」
セテは咄嗟に口をついて出た言葉を素直に投げかけた。
「レオンハルト……ね。ふふ」
サーシェスは意味ありげな表情でセテを見つめた。それ以上は言う気はないようだった。
「いまアートハルク帝国を仕切っているガートルードは、本物のガートルードなのか」
レイザークがぶしつけに質問を投げかける。一瞬、サーシェスの眉がひそめられたが、
「本物だ。髪の色と、いま隠されている右の紅い瞳は記録と大違いだが、彼女は私たちの同志だった『あの』ガートルードだ。水の魔法しか使えなかった宮廷魔導師だったが……な」
意味深に微笑んだあと、サーシェスは表情を固くしてレイザークとセテを見つめる。
「いまは、敵だ」
イーシュ・ラミナが元来好戦的であるというのはどこかで聞いた話ではあるが、サーシェスのグリーンの瞳に宿った光は想像をはるかに超えていて、セテは背筋が寒くなるのを覚えた。
「その敵であるガートルードがネフレテリを送り込んで、ヴィヴァーチェ、いや、グウェンフィヴァハ殿の精神を乗っ取らせ、このような事態を引き起こしたというわけか」
レイザークがそう言うと、サーシェスは「ご名答」とニヤリと笑った。
「わたくしは自分がネフレテリに乗っ取られている間もすべてを見聞きしておりました。ですが、あれほどの強力な能力に縛られては手も足も出ない。みなさんにお詫びしたいし、お力になれることがあれば何でもいたします」
まるで飲食店の女給のような言い草だ。一同が困り果ててお互いの顔を見合わす。エチエンヌなどは、あんぐりと口を開けて呆然とするしかないようだ。
「では、ネフレテリに取り憑かれている間に見せられた過去というのは、あれは?」
冷静を務めようとレイザークが質問する。セテの代理を買って出たつもりなのだろう。
「あれは……本当のことです」
レイザークは気遣わしげにセテを見やるが、セテは気にするなという仕草を返した。
「サーシェスは!? サーシェスはどうしてこんな姿になっちゃったの!?」
アスターシャがグウェンフィヴァハに詰め寄る。空気を読めない王女の前に、一同はたじたじとなった。グウェンフィヴァハは困ったような顔をしてサーシェスを見やる。
「それは私が説明する。サーシェスは……これは私の名前でもあるが、あなたたちが知っているサーシェスは、救世主《メシア》と呼ばれた私の中に存在する〈アヴァターラ〉のひとつでもある。そして、いましゃべっている私は本来のサーシェスで、あなたたちが知っているサーシェスはいま、眠っている。私が顕在化した今は、彼女が出てくることはない。いや正確に言うと、私の力でも交代することができない」
一同はまた訳の分からない説明に首を傾げる。
「……やっぱり救世主だったのか、彼女は」
レイザークは驚いたような、自身の憶測が正しかったのを誇りに思うような、複雑な表情でそうつぶやいた。
「ある意味では」
再びサーシェスが意味深な笑みを浮かべた。
〈アヴァターラ〉、偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》はその身にいくつかの人格を持っていて、それで生きながらえているのだという。つまり、早い話が多重人格、ともすれば統合失調症とでも診断されてしまいかねない状況というわけか。
「その姿……も?」
セテがおそるおそる尋ねる。サーシェスは軽く頷くと、
「偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》は、自分がその姿でありたいと望めばいくらでも姿形を変えられる。イーシュ・ラミナの多くが年若いのは、長寿であるからだけでなく、自身の能力がいちばん発揮できると自分が思う姿でいたいからだ」
「じゃあ……君のその姿は……」
「……君を含めたみんなの知るサーシェスが、この姿をいちばん望んでいるのだろう。私は……二十五、六歳の姿がいちばんしっくりくるのだが、いまはどうにもならん」
「……私の知っていたサーシェスは……もう目覚めないの……?」
アスターシャの声が震える。みなが思っていたことでもあった。
サーシェスは幼い姿をしたまま、困ったように大人っぽいため息をついた。それからゆっくりと上半身を起こし、寝間着姿のままベッドを降りようとする。グウェンフィヴァハがそれを押し戻そうとするのだが、
「ゆっくりと眠っているヒマはないはずだ。ガートルードが次にどんな手を打ってくるか、我々の身の振り方も考えねば」
サーシェスは力強い声でグウェンフィヴァハを制し、そしてセテとレイザークのふたりとアスターシャ王女を精悍な目つきで順番に見つめた。
──自分がその姿でありたいと望めばいくらでも姿形を変えられる──
セテはサーシェスの言葉に、なにか重要なことを思い出したような気がしたのだが、それがなんなのか思い出せずにいた。そして、立ち上がって歩いていくサーシェスの姿を見かけた看護士や患者たちの一部が、密かに息を呑み、あるいは悲鳴を上げたことも、一行の誰ひとりとして気づく者はいなかった。
術が破られ、最高司令官ネフレテリが倒れた。
この事実は、ロクランを占領していたアートハルク兵たちの間にすさまじい衝撃をもたらした。もともと辺境の各国から寄せ集められた多国籍軍だ、指揮系統が滅茶苦茶になることで総崩れになるのは時間の問題だったのかもしれない。
ロクラン国民による同時多発的暴動、それに加え、敵も味方も巻き込んだ原因不明のすさまじい雷撃による被害も甚大である。一部の暴動を鎮圧したと思えば、またどこかで暴動が起きる。いたちごっこのような状態が続いていた。ロクラン国軍の司令官であったメリフィスが群衆に交じり、軍の部下たちと協力しながら事態を引き起こしているためだった。
作戦会議のために再び身代わりをたて、アートハルクの術者の目をくらましてきたミハイル・チェレンコフ財務長官は、いつぞやの店舗に足を運び、そこで協力者たちが集まるのを待っていた。メリフィス司令官が拘束された話は聞かない。定期的に催される今回の集会も通常通り行われるはずだ。
ほどなくしてメリフィスとその部下たちが何人か、時間差で忍び込んできた。チェレンコフとメリフィスは互いの無事と、作戦が功を奏したことに、握手を交わしてその喜びを分かち合った。
「ミハイル、君のおかげでアートハルクの連中の目をラインハットに釘付けにすることができた。本当に感謝する」
「いや、アーノルド、私はただ単に書類上の手続きと根回しをしただけだ。先鋒に立って行動をなしたのは、君の功績だよ。なにより、君や君たちの部下が無事だったことが本当によかった」
ふたりは口々にそう言いながら互いの手を握り合った。
「それにしても、あのすさまじい雷撃のようなものはなんだったのか……」
ミハイルはメリフィスに尋ねる。メリフィスは眉をひそめながら、
「残念ながら原因は分からない。こちらのものでないことだけは確かだが……アートハルクの新兵器かもしれんな。こちらの損害も大きいが、アートハルク兵も同様に大打撃を受けている。特使の伝令によれば、ラファエラが行軍途中に巻き込まれたらしいが……。半数くらいはなんとか逃げ切れたもののラファエラ自身もけがを負ったそうだ。油断ならないことは確かだ」
「鉄の淑女が。命に別状は?」
「火傷と落馬した際の骨折らしいので、さほど大事に至らないとは聞いている」
「そうか……」
チェレンコフはひと安心ついたようにため息をはいた。
「私のほうでは、部下たちとともに暴動の扇動をし続けているいるところだ。なぜかアートハルク側の指揮命令系統がうまく動いていないように感じられる。暴動ではなく、いよいよ軍を統率してゲリラ作戦で押していけるかもしれない」
メリフィスがそう報告するのだが、チェレンコフはなぜかそれどころではないようだった。なにか重要なことを忘れているような気がする。もやもやとした気持ちだけが胸のあたりでつかえているようだった。
「ミハイル、ラインハットの守護神廟については報告を受けた。なんでもパラディン・レオンハルトの術法罠《トラップ》が功を奏して、アートハルク側の術者や兵士たちは散々だったそうだな。君たちがなんともなかったのは奇跡に近い」
メリフィスは本当に気遣わしげにミハイル・チェレンコフを見やる。そのとき、ミハイルは額に走る激痛に顔をゆがませ、頭をそのぷくぷくした手で覆った。
「どうし……!?」
メリフィスが聞く間もなく、ミハイルの巨体は大きく揺れたので、メリフィスの部下がチェレンコフ財務長官の体を支えた。「だいじょうぶだ」と言いつつも、ミハイルの顔色は真っ青で、手入れもされず放置されたテーブルの脇に手をついて体を支えなければ立ってもいられないようだ。何か言わなければならないことがあったはずだ。
「失礼」
メリフィスの部下のひとりがミハイルの前に進み出て、その顔の前に手を差し出した。術者のひとりなのだろう。彼は指をそこでパチンと鳴らす。そこでやっとミハイルが我に返ったように顔を上げ、徐々にそのふっくらとした顔に色が戻ってきた。
「……そう……だ……守護神廟……!」
ミハイルは巨体を起こすと、メリフィスに詰め寄る。
「アーノルド、君に聞きたいことがある。なぜ君は守護神廟を解放するなどということを思いついたのかね。我々も守護神廟の中がどうなっているのか知る術はなかった。何が起きるか予想もつかなかったはずだ、それに……」
チェレンコフ財務長官はそれから再び額やこめかみに手を当て、顔をしかめる。
「催眠暗示、ですね。初歩的なものですが、一般の人間にしてみればその負荷は相当なものです」
先ほどの術者らしいメリフィスの部下が、メリフィスとチェレンコフにそう言った。
催眠暗示と聞いて、ようやくチェレンコフが納得したように首を何度も縦に振った。
「そう! そうだ! 守護神廟の中には……なにかこう、正方形の立方体があって、君に言付かってきたという若い修行僧らしき者がそれを持っていったのだが……」
「いや、ちょっと待ってくれたまえ、ミハイル」
メリフィス司令官はまくしたてるチェレンコフを制して口を挟んだ。
「守護神廟に張り付かせたのは確かに私の指示ではあるが……立方体を回収しろという話はまったく知らないぞ。それに、もともと守護神廟にアートハルクの兵士たちの目を向けさせるというのは私の起案によるものではない」
チェレンコフはその言葉に、驚いたカエルのようにして目を見開いた。いやな予感が背筋を走る。
「では……その、何者がそれを?」
「いや、実は恥ずかしながら私も直接聞いたわけではない。ラインハット寺院からの使いとかいう者が、秘密裏に書簡を持って尋ねてきたそうだ。いまなら守護神廟の結界解呪がもっとも効果的であると。確かにラインハット寺院の紋章が入ったものであったから、私もてっきり……。いや、緊急事態だからといって確認をおろそかにしたのは私の責任だ。しかし、その立方体を回収していった修行僧というのも、本当にラインハットの者だったのか、君は覚えているかね」
ふたりは互いの顔を見つめ合ったまま、しばし無言でいた。同じことを考えているに違いないと、互いの目がそう語っている。
「至急、ラインハット寺院を当たってくれ。その修行僧とやらと、持っていかれた立方体のようなものの行方を」
メリフィスは厳しい表情で部下に命じ、即座に数人の部下たちが走り去っていった。
自分たちは踊らされたのか。その目的はいったいなんなのか、メリフィスとチェレンコフはいい知れぬ不安と焦りに体が震えてくるのを感じていた。
サーシェスは臆することなく、中央特務執行庁現長官マクスウェルへの面会を要求した。多忙であるはずの彼のことだ、面会の日時は調整のうえ追って沙汰されると思ったのだが、意外なことに面会はすぐに行われることとなった。
居ても立ってもいられなかったセテ、レイザーク、アスターシャが、サーシェスに付き添って面会の立会人として再び議場に通される。マクスウェルは王女の手前、たいそう機嫌が良さそうではあったが、セテに言わせてみれば王族にこびへつらうような笑みがどうしようもなく気分を悪くするものであった。
「報告は受け取った。これまでのヴィヴァーチェ殿に、火焔帝ガートルードの手の者が取り憑いていたというのは私もまったく気づかなかったものだ。誠意を持ってお詫びしたい」
殊勝にもマクスウェルが頭を下げたので、一同は気持ち悪さを感じながらもそれに答え、特にアスターシャは恐縮して頭を上げることを何度も頼み、やっとのことでマクスウェルがそのいやらしい顔を上げたのだった。
「サーシェス殿、君のその姿についても現在、智恵院で原因を探っているところだ。もうしばらくすれば聖救世使教会祭司長より正式に報告があがってくるはずなので、申し訳ないが時間をいただけまいか」
「それはもちろん」
マクスウェルの前でも臆することなく、幼女の姿をしたサーシェスが答えた。当のサーシェスがそれを望まない限り、この姿のままであるということはセテたち一行がすでに知っていることではあったが。
「アスターシャ王女」
マクスウェルに呼ばれ、アスターシャは一歩前に進み出た。
「火焔帝の腹心であったというネフレテリが倒れたことで、ロクランはいまアートハルク側の指揮系統に大きな損害を被っているはずだ。そこで、あなたにお力をお借りしたい」
「なんなりと」
アスターシャは貴族の娘らしくドレスの裾を少しだけつまんで礼をした。ここにベゼルがいないのが心細かったが、それは致し方ない。
「あなたが無事で、ここオレリア・ルアーノに保護されていることを大々的に発表し、ロクラン側の志気を高めるとともにアートハルク側の混乱をさらに確実なものとしたい。あなた本人からの声明も発表させていただきたい。異存はおありですか?」
「いえ。父も閣僚たちも、たいへん疲弊し、私のことでも心を痛めているはずですわ。そうしていただき、一刻も早くロクランの解放につながるのであれば」
「結構。偵察隊の話によれば、アートハルクはネフレテリが倒れたことでずいぶんと指揮命令系統がやられてしまっている。もう一度兵をあげて総攻撃をかければ、あるいは」
「それは双方に大きな損害をもたらす。あまり感心できない」
マクスウェルの言葉を否定したのは、サーシェスだった。瞬間、マクスウェルの表情がいらついたのが見えた。
「〈裁きの光〉と呼ばれた超古代の兵器が再び発動されれば、ロクランも中央も大打撃を被る。誰がどのようにそれを動かしているのかわからないが、いまは表だってロクランに再度、軍を派遣するのは危険だ。光都の守りも半減する」
「……君は軍師の経験があるのかね?」
少々いらだつような様子でマクスウェルはサーシェスに向かってそう言い放った。サーシェスはとくに首を振る様子もなかった。
「軍事は我々の仕事だ。素人があまり口を挟むものではないとご忠告しておこう。我々には旧世界《ロイギル》の守護兵器がある。もっとも、トスキ特使やパラディン・レイザークも君と同じことを考えているからこそ、ここへ同席しているのかもしれないがな」
セテとレイザークはそろって肩をすくめた。
「ときに……」
マクスウェルは報告書のような薄い書類をめくりながら、子どもの姿をしたサーシェスをしげしげとながめる。サーシェスは動じないようだが、後ろにいるセテはいらつき、見えないところでつま先をパタパタし始めていた。それをレイザークがこれまた見えないようにセテの脇をこづいてやめさせようとする。
「サーシェス殿。以前にも申し上げたとおりだが、ロクランでの術法暴発事件で、君は危険な術者としてここオレリア・ルアーノに護送される予定だった。ヴィヴァーチェ殿の件で活躍していただいた点については感謝をしているので、君をその件で訴追するつもりはない」
セテは聞こえないようにため息をつく。それはアスターシャも同じようだった。
犯罪を犯した危険な術者が光都で拘束され、記憶調整などの儀式にかけられてしまうことは知られたことだったが、マクスウェルにもそれなりの温情というものがあったのかと、ふたりは同時に顔を見合わせたのだった。だが。
「しかしながら、また別の報告があがってきている。聞きたいかね」
マクスウェルの嫌みな性格がよく出る言い回しであったが、サーシェスは動じることなくマクスウェルを見つめている。彼女の反応を楽しもうとしたのだろうが、特になんの反応もない少女に業を煮やして、マクスウェルは書類に目を落とした。
「今年の春に、ロクラン国境にほど近いある街がまるごとひとつ、消し飛んでしまったという事件が起こった。レザレアという工業の発展した街だ。俗にレザレア消失事件と呼ばれ、いまだその原因がわからない中央の未解決事件のひとつとして数えられている。覚えているかね」
一瞬、そしてわずかだがサーシェスの小さな体が反応した。
「先日その最終報告があがってきており、強力な力を持つ術者同士の術の暴発であることが明確になった。そして」
セテはそこで息を呑んだ。いつのことだったか。誰にその話を聞いたのか。その話の一部始終を誰かから聞いたことがあったはずだ。
──ひとりは黒髪の背の高い女。髪の毛も長くてね、すごい美人だった。それからもうひとり。七歳くらいの小さな女の子──。
ピアージュだ。ピアージュはそこにたまたま妹を捜しにきており、その一部始終を見たと言っていた。
──そうだ、サーシェス。その小さな女の子、サーシェスって呼ばれてた!──
「爆心地付近の生存者はなし。だが、爆心地から離れたところで奇跡的に生還した目撃者の話から、君とよく似た背格好の子どもと、長い黒髪の女が互いに術法を暴発させたのを見たとのことが報告されている。さらに、先ほども病院にいたレザレア消失事件での看護に当たった者や被害者から、同様の目撃証言がつい先ほど、こちらに通報されている」
マクスウェルがにやりと笑った。
「不本意ではあるが、その身柄を拘束させていただこう」
「よせ!! 彼女は……!」
セテが飛び出してサーシェスをかばおうとした。そのときマクスウェルの指がパチンと鳴らされ、議場の扉がいくつも開いたかと思うと、何人もの対術法戦の装備を身につけた兵士たちが駆け寄ってきた。アスターシャが悲鳴を上げる。
「やめろ! 彼女は関係ない!!!」
セテは懸命に叫ぶが、駆け寄ってきた兵士に羽交い締めにされ、サーシェスを守ることはかなわなかった。あっという間にサーシェスは捕らえられ、議場には泣き叫ぶアスターシャとセテの声とともに、兵士たちの怒号のような声が入り乱れて響き渡っていた。