Home > 小説『神々の黄昏』 > 第三章:死せる夢見の大地 > 第十三話:聖騎士の帰還
倒れたサーシェスの体を抱き留めたのはレイザークだった。セテはサーシェスが倒れたのにも気づかず、ただ呆然と目の前の水晶で剣に、かの聖騎士の愛したエクスカリバーにその胸を貫かれ、眠るように閉じこめられているレオンハルトの姿を見つめていた。
わけが分からない。生きているのか、死んでいるのか、セテの脳裏には十年ほど前に浮遊大陸で見た救世主《メシア》の水晶の棺が頭に浮かんだ。あのときは棺に亀裂が走り、一瞬の幻かもしれないが確かに救世主は目を見開いたのだ。
セテはふらふらと引き寄せられるように水晶の固まりに近づいた。水晶に結線されているチューブが何かの液体を運ぶいやな音に気を取られることもなく、そしてその水晶の固まりの存在におそれをなすこともせず正面に立ち、表面に手を当てた。まるで、救世主のときのように、触れれば亀裂が入り、レオンハルトが目を覚ますのを期待するかのように。
水晶に囚われたレオンハルトの姿は、自分が十年前に出会ったときと変わっていない。もちろん、ネフレテリに導かれて迷い込んだ過去の記憶が改ざんされたものでなければ、十七年前、父ダノルの事件のときとも。
眠るかのような穏やかな表情。胸をエクスカリバーに貫かれているが、血は一滴も出ていない。彼の来ている服のあちこちに血痕がついてはいるが、本人のものではないようだ。
「レオン……ハルト……?」
セテはおそるおそる呼びかけてみる。もちろん返事はない。その胸に突き刺さっているエクスカリバーに、セテは愛おしげに指を走らせた。十年前に見たエクスカリバーの装飾は、まったく衰えておらず、むしろ記憶の中よりもずっと美しかった。それが、チューブを流れる緑色の光に照らされて、施された装飾のひとつひとつが鮮明に光り輝いて見える。
レオンハルトと再び出会えた感激よりも、なぜここで、こんな形で彼の体が安置されているのか、先ほどから続く混乱がまだ自分に幻を見せているのではないかと恐怖さえ感じる。
「仮死状態、だよ、トスキ特使」
背後からの声に、セテとレイザークはそろって剣に手を掛けたまま振り返る。暗闇の中から白く浮かび上がる金糸の刺繍が見えた。ローブのフードを目深にかぶった聖救世使教会祭司長ハドリアヌスの姿があった。レイザークが小さく舌打ちをしたのが聞こえた。
「パラディン・レイザークに依頼して、君をここまで連れてくるように言ってあったが、まさかこんな形でここへたどり着くとは予想外だった」
その言葉にセテはレイザークを睨みつける。珍しくバツが悪そうなレイザークの表情がそこにあった。
「言っとくがな、セテ。俺はお前をここまで連れてくるよう言われてはいたが、その理由については知らされてなかったし、それにわざとお前を連れてきたわけでもないからな。俺の意志だ。これ以上の隠し事はなし、だ。俺を信じろ!」
小声で話すレイザークの言葉に、セテはふんとおもしろくなさそうに鼻を鳴らした。ここまでくればだましだまされ、だ。ここは茶番に付き合ってもいいだろうとセテは不敵ににやりと笑った。
「それで? 俺になんの用があって呼びつけようとしたんだ。祭司長ハドリアヌスさんよ」
セテは中央特使なので聖騎士団を束ねる祭司長に敬意を払う筋合いはない。だが、相当無礼な態度でわざとそう言ってみせた。
「五年前のアートハルクの事件」
よく響く声でハドリアヌスが言った。セテの体がわずかに反応した。
「あの事件の真相は、誰にも分からない。紫禁城《しきんじょう》を中心にアートハルクの首都のほとんどが壊滅状態に陥ったためだ。ダフニス皇帝の遺体は確認されず、ガートルードもレオンハルトも、その周りにいた人物は死亡あるいは行方不明と記録されている。だが」
もったいぶったようにハドリアヌスはそこで言葉を切る。フードから見える口元だけが、セテの反応を楽しんでいるように見えた。
「現にガートルードは五年後のいま、地獄からよみがえったかのように新生アートハルクの皇帝として中央に反旗を翻している。そしてこちらの伝説の聖騎士は、智恵院が発見し、秘密裏に持ち帰った。もちろん、発見当時からこの姿、自らの剣で胸を貫かれ、水晶に囚われた状態だった。生体反応はほとんどない。だが、死んでいるわけでもない。智恵院が誇る旧世界《ロイギル》の魔法をもってしても、彼を目覚めさせることは今もってなお実現できていない」
「智恵院ってのはなんでもできるんだな。首都ブライトハルク爆発の直後、すぐに中央の管轄下で進入禁止になったはず」
セテが煽るようにそう言ったが、
「聖救世使教会を司る私の力をあなどってもらいたくはないな、新米の特使君。聖騎士団を配下におく我々は、聖騎士が、それも聖騎士の始祖とされた男が関わったアートハルクの事件の真相を解明したいだけだ」
バカにするような物言いに、セテはますます険悪な表情になった。この男は信用できない。いつだったかレイザークが言っていたはずだ。自分の直感も同じことを、危険な臭いを感じ取っている。セテはそう思った。
「我々はいくつかの実験を試みたがどれもうまく行かなかった。そこで、今度はもっとも効果がありそうな仮説を試してみたかった。生前、パラディン・レオンハルトと交流のあった者、彼らが鍵となるのではないかとね」
セテとレイザークはお互いの顔を見合わせ、それからセテはレイザークの腕に抱かれているサーシェスの姿に目をやる。
「だめだ。彼女は気を失っている。術法の弾切れだ。強大な力をふるう代わりに、偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》はたまにこうして長時間意識を失うことがある」
レイザークが何度かサーシェスを揺り起こしたが、彼女は死んだように眠っており、目を覚ます気配はまったくない。たしかに、学校ではそのように教えられており、だからこそ彼らはこういう状態に陥ったときのために守護用生体兵器を開発したのだ。それに加え、もし本当に彼女が救世主《メシア》なのであれば、〈青き若獅子〉がその役割を果たすのだろう。自分が〈青き若獅子〉と呼ばれ、何をすべきかはまったく分からないが。
「ああ、それから俺は遠慮しておく。レオンハルトとはもうずっと交流はなかったし、それは俺の役目ではあるまい」
レイザークが苦々しげに言った。もっともなことだろう。五年前には、レイザークはすでにレオンハルトとの任務同行を解消している。そしてその頃には、レオンハルトはもうアートハルクの守護剣士として聖騎士団の任務を遂行することはなかった。
「だから君が必要だったのだよ、セテ・トスキ特使。レオンハルトに命をつないでもらって生きながらえた君が……ね」
セテは下唇をかんだ。なぜだか屈辱感が全身を支配し、震えてくる。
「あんた……あんたもそれを知ってるのか」
「もちろん。中央の報告書は必ず目を通している。アジェンタスをはじめとする中央の列強では、改ざんされた情報が出回っていただろうがね」
「……気に入らないな、あんた」
「結構。だが私は君に興味がある。だから連れてきてもらったというわけだ。それに、君もいろいろと知りたいことがあるのではないかね?」
ハドリアヌスがにやりと笑う。セテは憤慨したようにまた鼻を鳴らしてから、
「ああ、大いにあるね。どうしてレオンハルトがそんな姿でいるのか。あんたたちのご大層な技術をもってしても、どうしてレオンハルトをここから出せずにいるかってのもな」
「まったく、物怖じしないところは父親譲りかな」
セテがいちばん聞きたくない言葉でもあった。再び屈辱感を感じる。今度は、生前聖騎士だった父とそうでない自分とが比べられているように感じたからだった。
「君のその剣は、お父上の形見だろう。剣のほとんどは〈土の一族〉かその末裔により作り出されているのだが、ああ、歴史については学校で習ったかな」
「いいから続けろよ」
本当は〈土の一族〉については何も知らない。だが、どこかで聞いたことのある言葉ではあった。
「イーシュ・ラミナは彼らに依頼し、まれにとんでもない魔剣を作り出すことがあった。汎大陸戦争後はもうほとんど残されてはいないが、たとえばパラディン・レイザークの持つデュランダルなど、大昔の伝説の剣の名がついているものがその名残だ。そして」
ハドリアヌスは、水晶の上からレオンハルトを串刺しにしているエクスカリバーの柄の部分を軽く指でつまはじいた。
「もっとも殺傷力が大きいのがこのエクスカリバーだ。〈土の一族〉の技術の粋を集めて作られ、大昔の英雄が持っていたと言われる名前を抱くゆえに伝説の剣と称されるが、その正体は生体兵器だ」
「生体兵器?」
「特にエクスカリバーはレオンハルトと相性が良かったらしいな。何人もの剣士がこの剣を振るうことを夢見たが、それはかなわなかった。なぜならこの剣の形をした生体兵器は、それを持つ者の生体エネルギーの波動と呼応し合う。そして持ち主の生体エネルギーを借りて攻撃力となすため、イーシュ・ラミナの血が薄い者、あるいはふつうの人間では体がもたない。剣を振るうたびに生気を吸い取られるためだ。レオンハルトがこの剣を自分のものとしたのは奇跡に近い」
「そうなのか、レイザーク」
小声でセテがレイザークにささやく。レイザークは肩をすくめるそぶりを見せて、
「いや、それは知らなかった。っていうか、俺のは術法が載せやすくなってるだけだ。んな危ねえ吸血鬼みたいな剣、誰が使うかよ」
セテはレイザークの言葉に肩をすくめる。
「で? その生体兵器がどうしたって?」
「宿主と寄生虫の関係を思い出してもらえばいい。寄生虫……と言うのは伝説の剣に対して失礼な物言いかな。宿主と寄生虫は互いの命がつながっている。宿主が死ねば自分が死ぬことがわかっているので、寄生虫は宿主を殺すようなことはしない。つまりエクスカリバーは、宿主の命の危険を感じてレオンハルトを仮死状態にしたのではと考えられる」
「それがこの状態ってことか」
セテはエクスカリバーと水晶の固まりを、腕組みしたまま尊大な態度で見つめる。もちろん、これは祭司長の物言いに対しての抗議であった。
「あくまで仮説だ。我々も何度もこれを引き抜き、水晶を破壊しようとした。だが、どんな硬度の高いもので傷をつけようにもできなかった。それはつまり、エクスカリバーがまだ宿主の力で生きているということだ。そして、エクスカリバーが力を失っていない以上、レオンハルトは再び目を覚ます可能性がある」
セテの体がびくりと反応した。
──レオンハルトが生きている。この五年間、いや、十年間、自分が彼に対しどれだけの思いをはせていたか──。
わずかに高鳴る心臓がこの暗い空間に響き渡りそうで、セテは自分の胸に拳を当てた。だがこの心臓がまともに動いているのは、十七年前、レオンハルトが自分に命を分け与えてくれたからだ。
「どうだね。君も試してみては。超古代の伝説に語られるアーサー王のように、このエクスカリバーを引き抜いてみる気はないかね?」
くすくすと笑う祭司長の言葉に、セテは拳を握りしめた。この男が何を考えているのかが分からない。ローブに顔の半分を隠されているため、祭司長の口元でわずかな反応を見るしかない。
レオンハルトが目を覚まして喜ぶのは中央だろう。アートハルクの真相が本人の口から語られることで、すべてが明らかになる。ガートルード率いるアートハルク帝国との戦争も回避できるかもしれない。
いや、違う。これは建前だ。レオンハルトが目を覚ましたら……俺は……。
もう一度、セテは拳を握り、まぶたを閉じた。自分の気持ちに嘘はつきたくない。
「やってやるよ。だが勘違いするな。これは俺がレオンハルトに目を覚ましてほしいからだ。決して、あんたらや中央のためなんかじゃない」
セテはハドリアヌスを睨みつけながらそう言った。ハドリアヌスはうれしそうに口元をゆがめた。
「中央に属していながら、ずいぶんと個人的な意見を吐く。まぁ、こちらも君の個人的な領域に踏み込んだわけだからよしとしよう」
セテはハドリアヌスの言葉を無視して水晶の壁に手をついた。そして、眠り続けるレオンハルトの端正な顔立ちや、いまにも揺れ動きそうな黄金の巻き毛を見つめる。
レオンハルト。伝説の聖騎士。聖騎士の始祖。汎大陸戦争で聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》のひとりとしてフレイムタイラントと闘い、終結後に神世代の礎を作り上げた英雄。
でも俺にとってはそんなことはどうでもいい。あなたに憧れ、あなたを目指して聖騎士になる夢を持ったんだ。聖騎士にはまだなれないけれど、あなたを忘れたことなど一度もなかった。だって、俺は十七年前にあなたの魂の半分を受け継いでからずっと、あなたに縛られ、あなたを追ってやまなかったんだから。
セテは意を決してエクスカリバーの柄に手を掛ける。装飾が施されてはいるが、握りやすいように加工された柄はセテの両の手のひらにぴったりと合った。そこでセテは渾身の力を込めて柄を引っ張る。誰もが息を呑んだ瞬間だった。
「くそっ! 抜けろ! 抜けろ!!」
セテは歯を食いしばりながら叫び、何度も何度もエクスカリバーを引き抜こうとする。だが、伝説の生体兵器が動くどころか、水晶に数ミリものひびを入れることはできなかった。
「……仮説は仮説だったか……」
落胆したように見せて、だが口元に笑みを浮かべたままのハドリアヌスがそう言った。まさかと思って目を見張っていたレイザークも、長いため息をついた。
「くそっ!!!」
セテは悪態をつき、額の汗をぬぐった。ハドリアヌスが背を向けて歩いていくのが横目で分かった。自分がどれだけ思い上がっていたかを思い知らされた瞬間であった。そのとき。
──だめ! エクスカリバーはいま、何者をも拒んでいる。力でねじ伏せようとしても決して抜けはしない──!
セテの頭に直接声が響き渡る。サーシェスの声だ。驚いて振り返るが、幼女の姿をしたサーシェスは、いまだにレイザークの腕の中で気失ったままだ。
どうすればいい。力でなく、何が必要なんだ。
心の中でセテは叫ぶ。悔しさに涙があふれそうだった。
──私が導く。もう一度、手を添えて。エクスカリバーに自分の心をさらけ出して──!
エクスカリバーに心があるとでもいうのだろうか。セテは半信半疑にもう一度、柄にそっと手を掛け、そしてまぶたを閉じた。ふわりという不確かな感触がして、誰かが自分の手のうえに手を添えているような気配。サーシェスの気配だった。
その瞬間、サーシェスの心と自分とが結合し、走馬燈のようにさまざまな光景が瞬時に現れ、消えていく。膨大な情報量に、セテは気を失いそうだったが、サーシェスの手の気配がしっかりとセテの手をエクスカリバーの柄に握らせてくれているようだった。
そして、もう二度と見たくないと思った十七年前の光景が広がる。ああ、そうだ。あのとき俺は感じていたじゃないか。第三者視点ではなく、自分の目で確かに見たじゃないか。
──痛みと苦しさで暗黒に飲まれていく意識。それからしばらくして頬に感じた冷たい手の感触。うっすらと目を開けると、金色の柔らかな髪がカーテンのように覆い被さっていた。もう片方の頬には、誰かの頬が当たっている気配。冷たい頬だったが、耳元で安心したようにため息をつくのが聞こえた。
そう、あのときレオンハルトは、息を吹き返し、床に倒れたままの俺を気遣わしそうに見下ろしていた。それからレオンハルトは禁呪による魂の分割で気を失いそうになりながらも、俺をしっかりと抱きしめてくれたじゃないか──。
「レオンハルト……俺は……」
涙があふれてどうしようもなかった。こんな形で再会して、こんなに近くにいるのに、水晶が隔てる距離のなんと遠く感じることか。
「俺は……もう一度……話がしたいんだ。だから……頼むから目を覚ましてくれよ……!」
声は震え、最後のほうはもう絞り出すようにしか言葉が出なかった。そしてそのとき、エクスカリバーの柄を掴む両手から、なにかの気配が進入してくる感触がした。脳を直接いじくり回されているような感じだったが、不思議と気分の悪いものではなかった。むしろ懐かしささえ感じる気配だった。
──いまよ! さあ、引き抜いて──!
セテは柄を掴む腕に力を込めた。後ろでレイザークがうめき声をあげるのが聞こえた。
まるでゼリー状のなにかに刺さっていたかのように、エクスカリバーの美しい刀身がするりと動いたのだ。ハドリアヌスが驚いて振り返る気配がしたが、セテはさらに力を込め、切っ先が水晶を通り過ぎるまで、その美しい伝説の剣を握ったまま一気に引き抜いたのだった。
「まさか……!」
レイザークもハドリアヌスも、同時に声をあげた。セテの手には見事な装飾が光り輝く伝説の聖剣エクスカリバーがしっかりと握られていた。
続いて、水晶にひびの入る音がセテの耳に飛び込んでくる。セテは水晶のかけらが細かく砕けて降ってくるのをよけようと身を翻したのだったが、そのとき、目もくらむような閃光が祭司長の間全体を覆う。セテはそのまぶしさに一瞬目をそらしたが、すぐにそれは暗闇の気配に変わっていった。
おそるおそる目を開けると、目の前にはエクスカリバーが床に突き刺さっている。まるで古代の伝説の絵本で見た、金床《かなとこ》に刺さったひと振りの剣のようだ。不思議なことにそこだけが光り輝いて見える。その美しさにしばし目を奪われていたセテだったが、気がつくとあたりは暗黒に包まれており、レイザークもサーシェスも、ハドリアヌスの姿もない。
「な、なんだ、いったい……なにが……」
足下に床があるのだけは把握できたが、上と左右、奥行きの感覚がまったく分からない。ただ暗闇だけが支配する空間に、セテはエクスカリバーと対峙していた。
「レイザーク? サーシェス!?」
返事はない。やがて、床に突き刺さったエクスカリバーを前にして明滅する光の固まりに気づいたセテは、瞬間的に身を固くした。光の固まりが徐々に薄れていくと、それは跪く人の姿に変わっていく。エクスカリバーに傅いているようにも見えた。うつむき加減の顔は見えなかったが、光を発しているのがその人物の黄金の巻き毛であることに気づき、セテは息を呑んだ。
「レオン……ハルト……?」
人影はゆっくりと立ち上がり、その美麗な姿をセテにさらけ出した。伝説の聖騎士レオンハルトが、いまセテの目の前に立っていた。彫りの深い顔立ち、金色の長い髪、長身で剣士らしい筋肉で覆われた肉体、そして、一度見たら忘れられないエメラルドグリーンの瞳。
「レオ……!」
セテはかの人物に駆け寄ろうとした。だが、すぐに感じた冷たい気配に足を止めた。
レオンハルトは床に刺さったエクスカリバーを軽々と引き抜く。研ぎ澄まされた刀身が光の軌跡を残して弧を描くと、ゆっくりと剣を構えた。その切っ先は、もちろん眼前にいるセテに向けられている。
「な、なにを……」
セテの体がこわばる。信じられないほどの闘気と憎悪が自分に向けられている。それだけは十分に理解できた。エメラルドグリーンの瞳は、敵を見据えるような鋭い光をたたえている。戦闘態勢に入っているのは明らかだった。
突然、レオンハルトが間合いを詰め、剣がうなり声をあげる。セテはすんでのところでそれをかわし、身軽さを利用してレオンハルトとの距離を取った。
「俺を覚えていないのかよレオンハルト! 俺は……うわっ!」
続けて剣が繰り出され、セテの言葉は寸断される。セテは腰の飛影《とびかげ》を鞘をつけたまま掴み、レオンハルトの一撃を防いだ。びりびりと剣による圧力が両腕に伝わり、セテは痛みに顔をしかめた。鞘の一部にひびの入る音がする。即座にレオンハルトが打ちかかってくるので、セテは器用に身を翻しながらエクスカリバーの刃から逃れた。
幻ではあったが、以前レイザークとやり合ったときとはわけが違う。桁違いの攻撃力を誇る聖剣エクスカリバーと、最強とまで謡われた聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》のひとり、レオンハルトだ。まともに戦って勝てるわけがない。
いったん引くか。だがいったいどこへ。空間認識さえまともにできないこの場所で、安全な場所などあるはずもない。とにかく距離だ。敵に背を向けるのは剣士としてあまりよいとされることではないが、逃げるが勝ちという戦法もある。セテは素早さを利用して背を向けた。
その背後で術法が炸裂する気配。無数の光弾がセテを追いかけ、その足下や肩、脇腹などをかすり、そして背中に大きな衝撃が走る。胃の裏側あたりを直撃され、セテはうめき声を上げて倒れ込んだ。地面にこすられ、特使の軍服が裂け、顔の皮膚がひきつる感覚がする。擦り傷がしみるからと声を上げる間もなく、その場にレオンハルトが転移してきて剣を振り上げた。
とっさにセテは飛影を抜き、その剣に応酬する。硬い金属音とともに、互いの剣がはじき返された。セテは頬の擦り傷から血がにじんでくるのにもかまわず即座に体勢を立て直し、エクスカリバーの猛攻を避けなければならなかった。
聖騎士が魔法剣士でもあり、剣術のみならず術法にも油断してはならないことは、以前レイザークと居酒屋で対峙したときに身をもって体験している。聖騎士に猶予を与えれば、術法を展開する準備ができる。いつ術法が発動されるか分からないまま、セテはとにかく剣を打ち込んで隙を作らないようにするしかなかった。なぜなら強力な呪文を詠唱するには時間がかかる。十年前、浮遊大陸で見たような聖属性最大級術法が展開されたら、生身のセテは即死どころか跡形もなく蒸発してしまうだろう。
「俺のこと本当に覚えてないのかよ! なあ! レオンハルト!」
セテは息を切らせながら叫ぶが、レオンハルトの口から言葉が発せられるどころかその表情にはまったく変化がない。そのとき、エクスカリバーはセテの体に垂直に構えられたが、セテに逃れるすべはなかった。
「うあっ!!!」
右肩にエクスカリバーの刃が食い込み、圧力でそのままセテは床に仰向けに倒れた。さらにぐいと剣を押しつけられ、セテは悲鳴をあげた。床に縫いつけられるような体勢になるとは、まさにこのことだ。セテは、剣はなぎ払うためだけのものでないことをすっかり失念していた自分に舌打ちをする。どくどくと血流が右肩に集まり、波打つような感覚と、次いで鋭く冷たい痛みが脳を直接刺激して、歯を食いしばったセテの口から苦鳴が漏れた。
剣が乱暴に引き抜かれ、今度はセテの利き腕である左肩にエクスカリバーの鋭利な切っ先が食い込んだ。再びセテの悲鳴。掴んでいた飛影が、左腕から力なく離れていくのを感じたときには、レオンハルトはセテの心臓の真上に、エクスカリバーの切っ先の狙いを定めていた。
「レオンハルト……」
つぶやくように、ささやくようにセテがその名を呼ぶ。もちろん、レオンハルトがそれに反応することはもはやないのだろう。
幼い頃の記憶とまったく同じだ。自分を憎悪の瞳で見下ろしながら心臓めがけて飛影を突き立てた父ダノル。自分の命を救うために自分を見下ろす金色のカーテンのようなレオンハルトの黄金の髪。ふたりの姿が交互に揺らめいて、セテは叫び声をあげた。
それは生きることへの渇望とでもいうべきか。セテは負傷した両肩の痛みも忘れ、両手で飛影を握りしめていた。エクスカリバーが心臓を貫かんとしたその瞬間にセテは体を右へ反転させた。切っ先が左腕を切り裂いたが、ちょうどがら空きに見えたレオンハルトの脇腹めがけ、セテは飛影を力一杯なぎ払った。下から上に向かいなぎ払われた飛影の切っ先は、レオンハルトの脇腹から胸にかけての皮膚を切り裂く。傷は浅いだろうが血が流れ出たことで、レオンハルトの体は少しだけ動きを止める。わずかではあるがその隙を、セテは絶対に見逃さなかった。
レオンハルトがゆっくりと頭上に剣を構えるのがはっきりと見えた。いや、ゆっくりというのは正確ではない。セテの動体視力が見たのだ。レオンハルトは床に転がったままのセテの脳天に剣を振り下ろすつもりなのだろう。そしてセテは。低い姿勢のままからまっすぐに、レオンハルトの右側めがけて飛影を突き出した。
硬質な剣の刃が何かに突き刺さる音。そして、柔らかい肉を突き抜けるいやな感触──。
セテはエクスカリバーの刃が、自分の左頬に接触したまま地面に突き刺さっているのを確認した。刃に触れた頬から血があふれ、エクスカリバーの美しい刀剣を汚していく。そして前傾姿勢になっていたレオンハルトの右肩には、飛影が深々と刺さっていた。互いに剣を引き抜くことができない状況ではあったが、床に切っ先をとられたレオンハルトのほうが、動きを完全に封じられたようなものだった。
「レオン……ハルト……?」
左右の頬から流れ落ちる血のねっとりした感触を肌で感じながら、セテはおそるおそる呼びかけてみた。乱れた金色の髪のおかげで、レオンハルトの表情は見えない。だが、レオンハルトはセテの剣を右肩に受けた形で石のように固まったまま動く気配はない。
無限にも思えるほどの間があったそのときだった。
「……強く……なったな……セテ……」
聞き覚えのある優しく低い声がつぶやかれるのを、セテが聞き逃すはずもなかった。
レオンハルトの顔が上げられ、そして、目の前のセテを見つめて微笑んだ。その微笑みは十年前に浮遊大陸で見た、優しさと寂しさを併せ持つ、かの聖騎士のものに間違いはなかった。
「レオンハルト!」
セテは飛影を引き抜き、倒れそうになるレオンハルトの体を抱き留めた。互いの服が血液で染まっていくのを気にも止めず、セテはレオンハルトにしがみつく子どものように、その長身の体をかき抱いた。金色の柔らかい巻き毛がセテの顔をくすぐる。エクスカリバーを手放したレオンハルトの両腕が、我が子を抱きしめるようにセテの背中に回され、強く、とても強くその体を自分に引き寄せた。
「レオンハルト……レオンハルト……!」
どうしようもないくらいにセテの両目から涙があふれてきた。血縁の次に深い、魂の根源を分け与えてくれた人。これまでずっと思いをはせてきた伝説の聖騎士。十七年前から、命を分かち合うことによってつながれていた鎖、いまの自分を作り上げたもうひとりの父親のような人。
「許してくれ……」
レオンハルトはさらにセテを強く抱きしめ、その耳元でささやくように言った。セテは涙でぐしゃぐしゃの顔を見られたくないと思い、伝説の聖騎士の胸に顔をうずめたまま首を振った。
「私の一存で、お前を苦しめてしまった。そしてこれからもきっと……」
「違うよ。あなたが俺を救ってくれたから、今の俺がここにいるんだ。俺は十七年前から……」
十七年前から、俺はずっとあなたのものだったんだよ──。
そこから先はまた涙があふれてきて言葉にならなかった。レオンハルトは幼子をあやすようにセテの頭をなでた。
「我々は行くのだ。未来に。あるべき姿を取り戻すために。お前は私の眷属として、そして私はお前の半身として」
その言葉は、以前夢の中でレオンハルトが語りかけたものだった。あまりの光のまぶしさに聞こえなかったが、意味深で無意味なその言葉は、セテの心を大きく揺るがせた。
これからまたなにかが始まる。セテはレオンハルトの声を聞きながら、意識が遠のいていくのを感じていた。
「おい。おい! しっかりしろ! なにぼやっとしてるんだ!」
レイザークの怒鳴る声がして、セテは急に我に返った。気がつけばレイザークがセテの肩を揺すっていて、セテは床に投げ出されたようにぺたりと尻をついたまま、両腕には引き抜いたエクスカリバーを持っていた。
「あ……れ……?」
セテは周りを見回す。目の前には水晶の固まりのなかで眠るレオンハルト。レイザークは片腕に気を失ったままのサーシェスを抱きかかえている。そして、ローブを目深にかぶったハドリアヌスの姿もあった。
「い、いまの、見てなかった?」
「いまのって、お前がそいつを引き抜いたとこか。見てたが、それがどうした」
「いや、だって、いま俺……」
そこでセテは口をつぐんだ。レオンハルトはいまだ水晶の中に閉じこめられたままだったからだ。
「俺……どれくらいこうしてた? 三十分くらい?」
「はぁ? なに言ってんだ。ほんの十秒くらいだろ。頭でも打ったか。エクスカリバーを引き抜いた反動で尻餅ついて、そのままお前、固まったように動かないし、呆けたままだし」
レイザークが呆れたようにそう言った。では、いまのは幻だったのか。あれほどの痛みと苦しみと、もっと強い感情を味わったというのに。落胆がセテの高揚した気分を打ち壊した。あんな生々しい幻覚をほんの数十秒で見るなんて、どうかしていた。自己顕示欲もここまでくればたいしたもんだと、セテは自分の頭をかきむしった。
「おい、下がれセテ!」
レイザークに肩を引かれ、セテは何事かと顔を上げた。ぴしり、ぴしりと、目の前の水晶に細かい亀裂が入っていく音がする。
「崩れるぞ。下がれ!」
セテは弾かれたように起き上がり、そしてレイザークが引っ張るその腕を振り払って水晶の固まりを凝視する。亀裂はやがて水晶全体に響き渡り、そしてついに、細かく氷のように砕けた破片がいっせいに四散していく。セテは破片が降り注ぐ中、ケガをするのも顧みずに駆けだしていた。やがて、もっとも奥深いところまで亀裂が到達したところで、セテは両腕を差し出した。水晶の中のレオンハルトの髪が揺れる。光の加減ではなく、物理的な力によって。
最後にはじけるような音がした瞬間、セテの両腕は倒れかけたレオンハルトの体をしっかりと抱き留めていた。
懐かしい感触だった。耳を、頬を、黄金の柔らかい巻き毛がくすぐる。セテのハチミツのような髪の色に混じって、金の絹糸がからまるように。
「レオンハルト!!!」
セテはレオンハルトの体を抱きしめながらその名を呼んだ。意識はないようだが、確実に、その体には体温が感じられた。生きているのだ。そのぬくもりに、セテの両腕に力がこもる。温かく感じるのは自分の涙なのか、それともレオンハルトの皮膚の感触なのか、セテにとってはどうでもよかった。
伝説の聖騎士と呼ばれたレオンハルトは、死よりも深い淵から帰還したのだから。