Home > 小説『神々の黄昏』 > 第三章:死せる夢見の大地 > 第十二話:巫女の最期
幼い少女の体は、後ろのふたりをかばうにはとても小さく心細いものにも見えた。だが、女賢者ヴィヴァーチェの前に立ちはだかる姿は、毅然として、そして力強い信念を感じさせるものだった。幼い子どもにこれほどの威圧感が出せるものではない。
「こ、子ども……!?」
レイザークは幼女の姿を見て口をあんぐりと開けた。銀色の髪は肩につかないくらいの長さで切りそろえられており、不格好なぶかぶかの服をひきずるようにしている。当然のことだ。
「違う……サーシェス……だ……」
いまだ力の入らないセテがレイザークに肩を貸されながらつぶやく。
「はぁ!? お前、何言ってんだ。頭でも打ったのか」
「俺に聞かないでくれ、俺だって頭が混乱してなにがなんだか……そこの……ヴィヴァーチェの仕業だ」
レイザークは幼女と対峙する賢者の姿を見やった。女賢者は満足そうに微笑みを浮かべている。
「久しぶりだな。二百年ぶりか」
幼女はにつかわしくない乱暴な物言いでヴィヴァーチェにそう言った。賢者はますます満足そうに笑った。
「思い出したのですね。何もかも」
「お前のおかげでな。だが」
幼い少女の姿をしたサーシェスはそこでいったん言葉を句切り、
「私が知っているのは、お前の姿をした人間だ。中身に用はない。正体を現すがいい」
突然、サーシェスが左手を差し出した。まばゆい閃光が発せられ、ヴィヴァーチェの体を台座まで押しやる。台座にたたきつけられたヴィヴァーチェは小さく呻き、体を起こそうとする。それを許さずに、サーシェスの術法が即座に台座を襲う。台座が無惨に砕け散ったが、間一髪、ヴィヴァーチェは身を翻し、隠し扉に手をやると踊るように飛び出していった。
「ふん、雑魚の分際でよく逃げ回る」
サーシェスは小さく舌打ちをし、それ以上ヴィヴァーチェを追うことはやめたようだった。
後ろで見ていたふたりは、その一部始終を見ながら声を出すこともできない。幼い少女は、ぶかぶかのサーシェスの服の袖と裾を乱暴に引きちぎり、自分の体にちょうどいいくらいに仕上がったところで後ろのふたりを振り返る。レイザークとセテは目を見開いたまま固まっていたが、セテがレイザークから体を引きはがし、転げるように幼女の足下ににじり寄った。
「サーシェス……か……?」
幼い少女はにっこりと笑うと、
「もちろん、私の名はサーシェスだが……〈青き若獅子〉、待たせたな。ずいぶんと精神的にいたぶられたようだが、間に合わなくてすまなかった。もう大丈夫か?」
サーシェスと名乗った幼女はセテに手を差し伸べる。小さな手のひらに残る銀色の傷跡が見えるように、手のひらを上にして。それに導かれるようにセテは自分の右手を彼女の手のひらに重ねた。互いの銀色の傷がぴったりと重なり合うかのようにして。
「救世主《メシア》……なのか……!? ほ、本当に……」
「おい、俺をハブるな! いったい何がなんだか……俺にも分かるように説明しろ! あのお嬢ちゃんはどうした。この子が救世主だって!?」
脇で見ていたレイザークがわめいた。サーシェスは困ったように肩をすくめると、
「あの女にはめられた。どうにもこの体では調子が狂う。ヴィヴァーチェに取り憑いている生き霊みたいなあの女の力で、サーシェスの体はいまの私の姿に変化した。そして私が目を覚ました。もっとも、私もサーシェスであることには変わりないのだが、サーシェスはいま眠っている。しばらく目を覚ますことはないだろう」
サーシェスとサーシェス。おまけに救世主ときた。ますますレイザークは混乱する。
「それよりも、あの女を追うぞ。あれはヴィヴァーチェの姿を借りた、ガートルードの腹心だ」
「なぜそんなことが分かる」
レイザークが怪訝そうな顔でサーシェスに尋ねる。
「本物のヴィヴァーチェならば私の前で本来の自分の名を名乗るはずだ。それに、攻撃の瞬間に解けた防壁をぬって心を読んだ。お前たちふつうの人間にはわからんだろうが、ヴィヴァーチェの精神は何者かに支配されていて、完全に眠らされている。別人のようになったという話からもそれは確実と言っていいだろう」
「ガートルードの腹心……? ちょっと待て。あんたが本当に救世主なら、ガートルードは仲間だったんじゃないのか?」
レイザークがしつこく食い下がる。サーシェスはしばし目を伏せ、
「……ガートルードは……いまや私の敵だ」
その声は、どこか寂しそうにも聞こえた。それを断ち切るように、サーシェスは鋭いグリーンの瞳を見開いてレイザークとセテを見やる。
「行くぞ、パラディン・レイザーク、〈青き若獅子〉」
「待ってくれ!」
そう叫んだのはセテだった。セテが制したのはサーシェスではなく、レイザークのほうだった。
「なんだ、まだ調子悪いのか」
「そんなんじゃない……」
セテは大げさなくらいに首を振り、レイザークをきつい表情で見つめる。
「なんで……嘘をついたんだ……」
「なんのことだ」
「なんのことだと!?」
セテはいきなり大柄な聖騎士の胸ぐらを掴んで叫んだ。
「なんで教えてくれなかった! なんで十七年前のあの日、あのときの事件、父さんが作戦で死んだなんて嘘をついたんだ! なんでレトと同じように狂乱した父さんが犯人だったって言わなかったんだ! 答えろ! レイザーク!!」
「お前……知ったのか……! どこでそれを……!」
「俺がどんな思いでいたか……あんたにゃ分かんねえだろ……。あんたがどうして俺をそばにおいたのか、俺が分からないのと同じように。罪滅ぼしのつもりだったのか? 同情か? それとも自分のそばにおいておけば、痛い腹を探られずにすむよう、情報を遮断して真実を隠しおおせると思ったからか!?」
レイザークは押し黙ったままだった。いつもなら胸ぐらを掴まれた瞬間にセテをはじき飛ばしていたはずなのだが、それもしなかった。聖騎士の胸ぐらを掴んだまま、セテはうつむき、涙をこらえている。息継ぎの間に、いまにも嗚咽が漏れそうな様子だった。
「そんなんじゃねえ……そんなんじゃねえんだよ……!」
レイザークが苦しげな息でそうつぶやいた。
「ふん、そうか、あんたは知ってたんだな。親父が俺に何をしたか。親父の仕打ちで俺が死に瀕したことも。レオンハルトが、俺の命を救ってくれたことも。だからあんたは俺の過去の話を聞きたがったんだろ。俺が覚えていないかどうか、それを確かめるために」
「セテ」
レイザークをつるし上げる腕を制したのは、サーシェスだった。幼子の声ではあったが、以前のサーシェスのように、初めて彼を名前で呼んだのだった。セテはサーシェスの顔を見ず、うつむいたままだった。長い前髪が顔を隠していたが、頬から顎を伝って涙が幾重もの筋を描いて落ちていく。
「世の中は欺瞞だらけだ。悪意のある嘘をつく人間もいる。格好良く見せたいために嘘をつく人間もいる。だが、本当に大切に思っている人間のことを考えて、嘘をつく思いやりというものもある。パラディン・レイザークは確かに嘘をついた。だがそれは、お前のことを思いやってのことだと思う。もうそこまでにしてやれ。苦しいのは彼も同じのはずだ」
セテは力なく頷くと、レイザークの胸ぐらから手を引いた。握っていた拳は力を失い、弱々しく両脇に戻っていく。レイザークは甲冑のマントを正すと、小さくため息をついた。それは後悔なのか懺悔なのかは誰にも分からなかったが。
「セテ。前に言ったことがあったな。俺は昔、相棒を二人も失ったと。ひとりはダノル、お前の父親だ。そしてもうひとりは……レオンハルト……だ」
レイザークはそう言ってセテの両肩に手を置いた。セテの体がびくりと反応した。だが、逃げようという意志はないようだった。
「あいつは、ダノルは最後まで魂を失うことをおそれていた。自分の半身である息子を置いて、自分が任務で戦死することがあっても、魂だけはお前のそばにいたい。だが、その魂を引き裂いたのは紛れもなくレオンハルトだ」
セテは顔を上げた。レイザークがこんな苦しげな表情をしているのは初めてだと彼は思った。
「先日のレト・ソレンセンの事件同様、ダノルは訳の分からない薬のおかげで発狂した。術法の威力は桁外れに増大し、身軽さや素早さも信じられないくらいに強化されていた。おそらく、シュトロハイムが開発したという薬は、十七年前のその薬の処方をまねたものなのだろう」
アルベルト・シュトロハイム。アジェンタシミルの慈善病院の院長で、コルネリオの援助のもと、患者を使って超人を作る秘薬を実験していた男だ。レトは非番の日にその薬を盛られて発狂した。自分のトラウマの元凶が、こんなにも奥深いところにあったなんてセテは思いもしなかった。
「ダノルは総督府までの道すがら、無差別に人を斬り殺し、全身血まみれになって笑っていたという。即座にアジェンタス騎士団からの要請により聖騎士団の俺たちが作戦に加わった。だが、あまりの死傷者の数に作戦内容は途中で切り替えられた。パラディン・ダノルの抹殺命令だ」
もう一度セテの体がびくりと震えた。
「俺にはできなかった。最終的に対峙したあのとき、俺はあいつを斬ることを躊躇した。そのときに受けた傷がこれだ」
レイザークは自分の顔を横切る派手な傷跡を指して見せた。
「俺が戦闘不能状態に陥ったとき、間一髪のところでレオンハルトが現れた。そして……ダノルは容赦なくレオンハルトにも斬りかかった。呪いの言葉をはきながら」
セテはまぶたを固く閉じ、レトとの最後の戦闘を思い出す。おそらく父も、レトが自分に対して抱いていたどこにも行き場所のない怒りや焦りと同様の思いをレオンハルトにぶつけたのだろう。
──よせ、レオンハルト、あいつを斬るな! 斬らないでくれ──!
「俺はレオンハルトを止めようとした。だが……」
──ダノルの魂を救うのは、私の役目だ。許せ、レイザーク──
「レオンハルトのエクスカリバーが閃いたのはその直後だった」
みたび、セテの体が反応する。任務を冷徹に遂行する、それは聖騎士の役目でもあったが、自分がそうであったように、躊躇なく親友に剣を振れるのが理解できなかった。想像していたレオンハルトの姿が、なぜか空恐ろしいもののようにセテは感じた。
「俺はレオンハルトを憎んだ。絶対に許せなかった。任務とはいえ、仲間を、友人を、親友を、平然と斬り捨てたあの男が! だから俺はレオンハルトとの任務同行を解除してもらった。二度と会うつもりもなかった。やつの名前を口に出されるだけで吐き気さえ催した。お前が……」
レイザークはセテを見やると、
「レオンハルトに憧れて聖騎士を目指すというのも気に入らなかった。ダノルの魂を救ったのは確かに事実かもしれない。だが、その魂、半身であるお前との絆を引き裂いたのもまたレオンハルトだ」
セテの目から再び涙があふれる。頭が混乱する。父ダノルの思い、レイザークの思い、そして、レオンハルトが父を斬りつけたとき、最後に何を思ったのか、それを考えるだけで胸が苦しくなる。いや、レオンハルトもレイザークと同様、苦しんだに違いない。魂を救ってやると言ったのなら、それが真実なのだろう。でなければ、アジェンタスは本当に血の海になってしまっていただろうから。自分がレトを救えなかったように、レオンハルトもまた、親友である父を救うすべはそれ以外に残されていなかったのだろうから。
「ダノルの親友であり、俺の親友であったはずの伝説の聖騎士は、あの十七年前の事件で死んだも同然だ。そして俺も、いまはただ、生きているというだけの屍にすぎん」
語られなかった過去の真実。確かにそれは、必ずしも知る必要のあるものではない。何年経っても、これだけの人々を苦しめ続けるのなら。
「ごめん……レイザーク……俺……」
「けっ! 俺にこんな湿っぽい話させやがって。お前本当に気に入らねえガキんちょだぜ」
わざとだろう。レイザークはそっぽを向き、鼻を鳴らした。その銀色のショルダーパッドにセテは手を置くと、
「ありがとう。それから、本当にごめん。もう十分だ。あんたが苦しんできた分、俺はあんたの役に立ちたい」
「ま〜たそんなかわいげのあるフリしやがったって、もう通用しねえぞ。この件が片付いたらおしおきだ」
「おしおきだぁ!?」
「そうだ。昔っから悪い子にはおしおきがいちばんよく効く。さ〜て、何してもらおうかなぁ〜」
「そりゃおしおきじゃなくって罰ゲームだろ! 分かったよ! 聞きゃいいんだろ!? なんでも聞いてやる!」
セテは怒ったようにそう言い放つが、レイザークがわざと雰囲気を回復するために戯れ言を言っているのだろうと、ここは素直に従うことにした。
「お。言ったな。じゃあ、夜伽でもしてもらおうか、それこそじっくりたっぷりねぶるように!」
「死ね!!」
セテはレイザークの甲冑に守られたスネを蹴り上げ、レイザークはわざとだろう、おどけながらよろけて見せるのだった。
「さて、じゃあ救世主さんよ」
レイザークはようやく話がまとまったところで、腕組みをして待っているサーシェスに声をかけた。
「サーシェスでいい。貴殿に救世主などと呼ばれるのは、正直キモい」
サーシェスもなのだろう。わざと今風の言葉を使い、レイザークを見ながらにやりと笑った。横でセテが吹き出すので、レイザークはその頭を軽くこづいた。
「さあ、では行こう。ヴィヴァーチェから生き霊をひきはがすんだ。彼女が何を考えているかも分かっている」
サーシェスが先頭に立ち、先ほどヴィヴァーチェが抜け出した隠し扉に体を踊らせた。その後ろから、セテとレイザークのふたりが続き、魔女の追跡が始まった。
ヴィヴァーチェはいま、廃墟のグレイブバリーを見下ろす断崖に立っていた。汎大陸戦争で使われたというロイギルの遺産、神世代になってから国際的に決定された過去の兵器の使用に関するグランディエ条約、そこで取り決められている第三種の守護兵器の封印解呪が行われている現場の、すぐ真上であった。
守護兵器は瓦礫の谷に打ち付けられた鋼鉄の杭に囲まれ、そこからのばされた頑丈な鎖に縛り付けられおり、周りを数十人の術者に囲まれている。研究員らしき男たちが小さな板のようなものを持ち歩きながら、守護兵器の動力回復のために調整を行っているようだった。
守護兵器の解呪は本来の目的ではない。〈光都〉を守り続ける結界を打ち破り、第一種・第二種の攻撃用兵器を解放し、さらにはフレイムタイラントを封じている要石《かなめいし》の解放をすること。オレリア・ルアーノの目が守護兵器に集中している間に、ヴィヴァーチェはそれを完遂することを命じられていた。正確に言えば、ヴィヴァーチェ本人ではなく、それを乗っ取った人物が、である。
「封印解呪の様子は?」
真上からの厳しい声に、守護兵器を囲んでいた術者や研究者たちが驚いて顔を上げる。このような無粋な場所にヴィヴァーチェ本人が現れたのに対し、さらに驚いたようだった。
「は。目下急がせてはおりますが、なにしろ強固な積層型立体魔法陣で……手間取っているところです」
責任者らしき男がそう言うと、ヴィヴァーチェは、いや、その姿を借りた人物が、まだるっこしさに苦々しげな表情をする。彼女はふわりと舞うように責任者の前に降り立つと、
「さがっていなさい。私が」
そういうと、ヴィヴァーチェは印を結び、大きく両手で円を描いた後、その両手を解き放った。
「封印よ! 退け!!!」
清楚な女賢者にふさわしくない力強い詠唱が響き渡る。だが、封印を退ける術法は、不格好なタマネギのような形の守護兵器の前で四散し、はじき返したのだった。
「何事か……!」
ヴィヴァーチェは呻く。結界はますます硬度を増したように見えたのだった。
「お前さんの思惑どおりには物事は進まないってこった」
頭上から声をかけられ、今度はヴィヴァーチェが驚いて真上を見上げる形となった。追いかけてきた聖騎士レイザークにセテ、そして子どもの姿をしたサーシェスがそこに立っていた。周りを見れば、術者たちが唱えているのは解呪の術法ではなく、さらに結界を強化するための呪文であった。
「たばかりおったか……! 祭司長ハドリアヌス!」
ヴィヴァーチェは身を翻し、頭上の三人に向けて攻撃術法を放つ。だがしかし、それはいとも簡単に、サーシェスの腕ひとふりで霧散したのだった。
「ヴィヴァーチェは攻撃術法を使えない。もともと彼女は、ものごとに働きかけるような力を持っていたわけではない。とうとう馬脚を現したな、ニセモノめ」
サーシェスがにやりと笑う。今度はサーシェスの攻撃の番だった。サーシェスは小さく指をちょいと曲げ、それをつまはじくような仕草をした。とたんに、ヴィヴァーチェの足下を爆煙が立ち上る。ヴィヴァーチェの体は無傷であったが、彼女の体は大きく傾ぎ、瓦礫の山に倒れ込むこととなった。
サーシェスとレイザーク、セテの三人は断崖から飛び降り、レイザークとセテは剣を抜いて構えた。サーシェスは不敵に腕組みをしたままだ。
「さて、どこのどなたさんか、吐いてもらおうか。もっとも、お前が何者かはおおよそ分かったのだが」
サーシェスはいたずら小僧のような口調でそう言った。ヴィヴァーチェはそのほっそりとした長い指で土塊を掴む。白魚のような手が汚れるのも気にしないようだった。
「お遊びが過ぎたようだな。賢者ヴィヴァーチェ。いや、ネフレテリ」
低く、冷たいその声に一同は振り返る。術者たちがいっせいに傅き、研究者たちも頭を下げる。白い裾の長いローブに金糸の刺繍のはいった法衣が揺れる。ローブを目深にかぶった聖救世使教会祭司長ハドリアヌスがヴィヴァーチェを見下ろしていた。
「中央特務執行庁からの要請だ。聖騎士団がいまこの周辺を包囲している。どこへも逃げられぬ」
「ハドリアヌス……! わたくしたちの目的は同じのはず……! なぜいまになって裏切る!?」
ヴィヴァーチェはすがるようにハドリアヌスを見つめた。
「裏切る? もともと私は誰とも組んだ覚えはない。そなたの独りよがりな妄想はここまでにしていただこう。パラディン・レイザーク」
ハドリアヌスはレイザークの名を呼ぶと、レイザークがヴィヴァーチェの腕を拘束しようとその手を伸ばした。それをヴィヴァーチェは術法ではじき返す。
「あちっ!!!」
レイザークは炎に阻まれ、思わずヴィヴァーチェの腕を放した。その隙にヴィヴァーチェは転移の術法を展開し、すぐに姿を消した。
「なにやってんだよオッサン! もう少しで捕まえられるところだったのに!」
後ろでセテが毒づく。
「うるさい! お前もフレイムタイラントの火でケツでもあぶられてろ!」
レイザークがセテに応酬する。そのふたりのやりとりの合間、ハドリアヌスとサーシェスはしばし無言で見つめ合っていた。
「……ヴィヴァーチェの行き先は分かるのか」
サーシェスがハドリアヌスに尋ねる。肩をすくめ、ハドリアヌスはニヤリと笑った。
「聖騎士団が周囲を結界で包囲している。グレイブバリーはおろか、〈光都〉から逃げおおせることはできない。彼女の行き先は分かっている」
「それを聞いて安心した。案内してもらいたい」
サーシェスがそう言ったのだが、ハドリアヌスは後ろにいるセテに目をとめると、
「元気そうではないか。彼女の精神攻撃に耐えるとは、たいしたものだな。いまごろ完全に壊れてしまっていたかと思ったが」
「なんの話だ」
セテがいぶかしげに尋ねる。
「こちらの話だ。おそらく彼女はいま、聖救世使教会にいるはずだ。ついてきなさい」
白いローブの金糸の刺繍が揺れた。
「ガートルード様。ガートルード様!」
ヴィヴァーチェは心語でなんどもガートルードを呼ぶが返事がない。聖騎士団の結界によって、外部への心語が遮断されているのだろう。
ヴィヴァーチェ、いや、ネフレテリはいま焦っていた。すべてが裏目に出たことに。あの金髪の青年も、大柄な聖騎士も、すべて精神攻撃で廃人にすることが可能だったはずだ。なにが誤算だったのか、どこで手段を間違えたのか、サーシェスが目を覚ましたことがすべての誤算であったこと、それだけが頭をかけめぐる。だが勝算はまだある。
聖救世使教会に転移したネフレテリは、ヴィヴァーチェの姿のまま祭司長の間までようやくたどり着くと、〈スクリーン〉の脇に設置されていたスイッチに手を伸ばし、〈キーボード〉を呼び出して中空に浮かび上がるそれを両手で操作しはじめた。〈メニュー〉を探り、目当てのものを見つけてにやりとほくそ笑んだ。
それは地図だった。グレイブバリーから〈光都〉を巡る地下に建造された発電所からさまざまな小道が伸び、ある一転へと続いている。それぞれが積層型立体魔法陣によってふさがれているが、聖救世使教会祭司長だけが知りうる、ある〈コマンド〉を打ち込むことで、それを容易に撤廃することが可能であることは知っていた。
「世界最大級の要石《かなめいし》、ここを撃破することで中央は……」
「それはどうかな」
あざ笑うような声に振り向けば、白いローブをまとったハドリアヌスが立っていた。遅れて、サーシェスに連れられたレイザークとセテが転移してくる。
「それはダミーだよ。かわいい巫女姫様」
レイザークがひらひらとなにかの書類をちらつかせながらそう言った。その手に握られているのは、オレリア・ルアーノの地下の地図だった。
「ハドリアヌス……! 貴様……」
「かわいい顔してそんな汚い口を聞くもんじゃねえぜ、巫女姫ネフレテリ」
今度はセテがそう言った。ヴィヴァーチェはセテの顔を睨みつけ、スイッチを消した。〈スクリーン〉の明かりが消え、祭司長の間は再び闇に覆われる。
「ヴィヴァーチェを解放し、ロクランを解放しろ。そうすれば命だけは助けてやる。敬愛すべきガートルードの元へ帰って報告すればいい。私が目を覚ました、とな」
サーシェスは腕組みをしたまま、冷淡な表情でヴィヴァーチェに言い放った。ヴィヴァーチェの花の顔《かんばせ》は悔しさにゆがんでいる。
「誰が……貴様ら中央の犬めらに命乞いをするか!!」
ヴィヴァーチェは突然両腕を差し出し、術法を展開した。炎が竜のようになってサーシェスらに容赦なく襲いかかる。
「無駄だ。貴様の力では私に毛ほどの傷もつけられはしない」
サーシェスは腕をなぎ払い、絶対魔法障壁を作り出す。炎の竜ははじけとび、その力の反動を利用したサーシェスの術法がヴィヴァーチェに襲いかかった。
ヴィヴァーチェの服の裾が焦げる。彼女の物理障壁が間一髪自らの術法を防いだのだったが、それもせいいぱいのことだろう。ヴィヴァーチェの額には、追い詰められた者の焦りが、冷や汗となって流れ落ちていた。
「たかが辺境の巫女が、私の術法をどこまで防ぎきれるか見ものだが……。女子どもをいたぶるような趣味は持ち合わせないのでな。早めに終わらせてやろう」
サーシェスの言い方は、まるでこちら側が悪役のようだとセテは思った。これが救世主の真の姿、いや、本性なのだろうか、と。
「巫女姫ネフレテリ。お前の真実の名をもってその者の心を支配した鎖をいま解き放つ」
サーシェスは右手を差し出し、ヴィヴァーチェに突きつけた。びくりとヴィヴァーチェの体が震える。彼女の体は金縛りにでもあったかのように動けない。
「悪しき魂よ! 汚れなき奔流によって自らのあるべき場所へ帰るがいい!!!」
サーシェスの力強い詠唱とともに、ヴィヴァーチェと、そしてそれにかぶさるように幼い少女の悲鳴が響き渡った。すさまじい空気の奔流が鋭い刃のように周囲を切り裂き、ヴィヴァーチェのローブを切り裂き、そしてその細い体を〈スクリーン〉にたたきつけた。セテもレイザークも、耳をつんざくような悲鳴と術法のたてる轟音に耳をおおい、膝をついた。ともすれば自分の魂が引き裂かれるような強烈な衝撃波が彼らを襲った。
だがそのとき、セテはかいま見たのだ。長い髪を団子状に結った幼い少女が、ガートルードに手を差し伸べられ、感動のためなのか解放された喜びからなのか、涙を流しながらその手を取り、薄汚い牢からふらふらと立ち上がっていくのが。
そしてもう一度、今度は幼い少女の悲鳴だけが響き渡る。〈スクリーン〉にたたきつけられ、縫い止められるような姿のヴィヴァーチェの体から、不意に力が抜けたように見えた。同時に、術法が巻き起こした旋風が止む。ヴィヴァーチェの体が床に倒れる頃には、サーシェスの放った術法は完了したようだった。
「……向こうの本体も無事ではすむまい……」
セテが見た幻影をサーシェスも見たのだろうか。ゆっくりと術法を放ったサーシェスがまぶたをとじてそう言ったが、そのまぶたの端には涙のつぶが光って見えた。
救世主と呼ばれた少女。その小さな体に恐ろしいほどの数限りない術法を身につけた少女。セテは、これが自分の知っていたサーシェスではないと知ってはいても、どうしても、彼女に自分の知るロクランの心優しい少女の姿を重ねて見ずにはいられなかった。
「ぎゃあああああああああああ……!!!!!」
つんざくような悲鳴が聞こえてきたので、アートハルクの近衛兵たちは驚き、剣を携えてロクランの最高司令官ネフレテリの寝所に駆けていく。見れば、ベッドにうつぶせになり、天蓋の生地を掴むように苦しみ、けいれんを起こしている巫女姫ネフレテリの姿があった。
「ネフレテリ様!!」
近衛兵たちがネフレテリに駆け寄り、その小さな体を抱え起こすのだったが、その呼吸は乱れており、心拍数も滅茶苦茶になっていた。
「ネフレテリ様! お気をしっかり!」
息も荒いネフレテリは、うっすらを目を開けると、周りの近衛たちの姿など目に入らないといった様子で中空をみやった。
「ハドリアヌス……サーシェス……! このままでは……」
ネフレテリは中空に手を差し伸べ、震える手で魔法陣を描いた。緑色の神聖語が光の奔流となって宙を舞う。
「ガートルード様……私に最後の力を……!」
暗黒の空間をガートルードの後ろについて歩いていたフライスは、ガートルードが一瞬足を止めたのでそれに伴って自分の足を止めた。
「ネフレテリ……!」
ガートルードがつぶやくようにそう言った声は震えていた。
「ロクランの最高司令官ネフレテリか。どうした、ご自慢の子飼いがやられた気配でもしたのか」
フライスはわざと憎々しげにそう言い放つ。ガートルードは答えなかった。ただ、後ろ姿ではあったが、静かに涙を流しているのが分かった
「……泣いているのか……?」
ガートルードは答えない。それがなによりの答えだった。
「彼女が……ネフレテリが死ぬことはすでに分かっていた。最後まで私に忠誠を誓った私の腹心のひとりだ。過去も未来も、私は全部知っている」
ヴィヴァーチェのような物言いに、なぜかフライスは腹が立った。人の死を悼む気持ちは、人間ならば一緒だ。だが、どうしても言いたかった。
「未来だの過去だの、お前たちの言っていることは薄ら寒くて吐き気がする! 人の未来を、人の記憶を、好きなようにいじって喜んで……いったい何を考えている!? 自分たちだけが万能だと思っているのか!? それともこの世界の神にでもなったつもりか!」
「そう。この世界を作った神がいる。私たちはそれを粉砕したいのだ」
ガートルードが振り向いた。真紅の瞳が、刺すような視線でフライスをみやった。
「神になるために、万能であるために、この世界は形を歪められた。私たちはそれをあるべき姿に戻したいだけだ」
そう言って、ガートルードは再び歩き始めた。
「来い。この世界の真実を、フライス、お前に見せてやる」
言われてフライスは、まだまだ長い道のりであろう暗黒の空間に向かって歩き始めた。
「ヴィヴァーチェ様!!」
倒れているヴィヴァーチェの体を一同が見下ろしている中、ひとりの青年が転移してきて叫んだ。エチエンヌであった。
エチエンヌはヴィヴァーチェに駆け寄り、その体を抱き上げた。ローブのあちこちが裂けてはいるが、外傷はなく、気を失っているだけのようだった。
何度か揺り起こすと、ヴィヴァーチェの瞳がうっすらと開いた。これまでの邪悪な雰囲気はみじんも感じられなかった。憑依していた巫女ネフレテリの精神の分離に成功したのだろう。そして、眼前のエチエンヌの姿を認めると、その頬に手を当てた。
「エチエンヌ……あなたにはつらい思いを……」
「しゃべらないで! いま、救護班をよこしますから! 私に掴まって!」
エチエンヌはヴィヴァーチェの体を抱き上げ、一同に軽く礼をするとそのまま転移して行った。
「ほほう、相思相愛とはいいねぇ」
レイザークが下品な笑いをしながら言ったので、セテは「いい加減にしろよ、それどころじゃねえだろ」とその脇をこづいた。
そのときだった。
祭司長の間のどこかで、亀裂の走る音がする。それは最初はわずかなきしみにしか聞こえなかったのだが、やがてそれは大きくなり、びきびきと床の亀裂が広がっているのが分かった。
「な、なんだこりゃ!?」
「ネフレテリの最後の術法だろう。死なばもろともとでもいうところか」
サーシェスが落ち着きはらってそう言うのだが、レイザークとセテは大あわてだ。やけにハドリアヌスが落ち着き払っていることに一同が気づくはずもなかった。
そうこうしているうちに、奥の間の床に巨大な亀裂が走った。それは幾重にも分かれていき、三人の足下を伝っていく。やがて床が崩れはじめ、三人はその崩落に巻き込まれる!
予想していたのか、サーシェスは物理障壁と同時に浮遊の術法を展開しており、それに守られた三人は崩れた床の破片に体を傷つけられることもなく、ゆっくりと漆黒の闇に吸い込まれていく。
やがてたどり着いたところで、とたんに術法がとけたため、セテは床に顔面から落ち、そのうえにレイザークの巨体が降ってきてセテを押しつぶす。
「いてぇーーーっ! ちくしょう! このクソオヤジ! とっととどけっつーの!」
セテは泣き声に近い情けない声を出してレイザークを押しのけた。だが、冷静な態度でしっかりと立つサーシェスの姿に気づいて、セテは弾かれたように立ち上がり、制服のほこりをパタパタと叩いた。
「救世……あ、いや、サーシェス、どうし……」
サーシェスの姿は一点を見つめていた。セテもそれにならってサーシェスの視線の先を追う。そこでセテは息を呑んだ。
緑色に不気味に光る水底のような重苦しい空気が胸を締め付ける。無数のチューブが張り巡らされ、ガラスなのか氷なのか、それともセテが最初に救世主の棺を見たときと同様、水晶でできたものなのか、岩のように張り出したそれが、緑色の光を受けてゆっくりと明滅するように見えた。その中心には一本の見事な装飾を施された剣が突き刺さっている。
セテが驚いたのはその剣に見覚えがあったからという理由だけではなかった。
水晶のような物体の中で眠るようにたたずむ、黄金の巻き毛が光の加減で動いたように見えたからだった。そしてその黄金の巻き毛を持つ人物こそ、セテがこれまでの生涯で忘れえもしない伝説の人物であった。
「レオンハルト……!」
セテが呻くように声を発した。水晶の中に閉じこめられた伝説の聖騎士の胸には、彼が愛用していた聖剣エクスカリバーが深々と突き刺さっていた。傍らで、サーシェスの姿をした幼女が気を失ったのは、まさにセテが言葉を発したそのときだった。