第十一話:本当の真実

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 セテは両手を広げ磔のような形で結界に縛り付けられたまま叫ぶ。足下には、幼女の姿をしたままのサーシェスが意識を失って倒れていた。
「チクショウ! 術を解放しろ! 俺をどうするつもりだ!」
「過去と未来を知りたいとおっしゃったのに、逃げようとなどなさるからですよ」
 ヴィヴァーチェはにこりと笑う。
「フライスと……サーシェスを戻せ! 戻せば俺は逃げやしねえ!」
「それは私にもできかねますわ。彼らは自分自身で望んで未来を紡ごうとしているのですから」
「意味不明なこと言ってんじゃねえ!! いいから俺を解放しろ!」
「あなたこそ、本当の真実を知りたいはずです」
「本当の真実……だと……? 馬から落ちて落馬したみたいな言い回しが気に入らねえんだよ」
「十七年前の事件……」
 ぴくりとセテの体が反応する。
「アジェンタスで起きたというあの事件の真相、父親の死、自身の身に起きたこと。隠された真実を見たくはありませんか?」
 セテは息を呑んだ。あの事件は自分の中ではすでに終わったものだ。アジェンタスで起きた連続殺人事件──人間を術者に変え、凶暴化する薬の影響で狂人となったレトのように──殺人鬼が暴れ回り、聖騎士である父とレオンハルト、そしてレイザークが派遣された事件だ。父はその作戦中に死んだ。それでおしまいのはずだ。
 だが、セテは心なしか体が震えてくるのを抑えることができなかった。
 本当の真実──まだ自分の知らない事象があるのか──。
 ふいに、セテはアジェンタスの地下で命果てた老婆の言葉を思い出す。
 ──お前の父親は生きているぞ──!
「そう。知りたくないとは言わせませんよ。〈青き若獅子〉、都合の良い記憶に上書きされた過去など、なんの意味も持たないのですから」
 ヴィヴァーチェはゆっくりとセテに近寄ると、その額に指を突きつけた。セテの体がこわばる。女賢者のエメラルドグリーンの瞳がまっすぐセテの青い瞳を捕らえ、離さない。セテののど元から、息を呑むひゅうという音だけが聞こえた。
「十七年前のあの日のことを、〈青き若獅子〉、あなたはその目でしかと見届けるのです」
 ヴィヴァーチェの言葉とともに閃光が走り、セテはそのまがまがしい光に包まれる瞬間、レイザークが呼んでいるような気がした。





 ガートルードに誘われ、フライスは無言でその後に続く。アートハルクは現在中央の監視下におかれ、何者も許可なしに王都に立ち入ることはできないはずだった。慎重に辺りを見渡せば、いつもなら警邏《けいら》に当たっている中央の兵士たちの姿が見えない。
 夢なのか。幻なのか。
 以前相まみえたランデールとかいうひょうひょうとした男が言っていた。火焔帝はいつでも待つと。本当にガートルードは、自分がここにくるまで待っていたとは思えない。おそらく精神世界の入り口に引き込まれているのだろうとフライスは冷静に考えを巡らせた。
 精神世界であれば、ガートルードの思いのまま。術法が通じないのは当たり前だ。
 ガートルードは廃墟と化した王宮の目の前までたどり着くと、フライスを振り返りもせずにその光景を静かにながめた。かつては栄華を誇っていたはずのアートハルク帝国の王宮の、悲惨なまでに崩れ落ちた姿がそこにあった。
「ここはかつて、〈銀嶺王〉ダフニスと、兄レオンハルト、私が暮らしていた居城。その名を、紫禁城《しきんじょう》という」
 フライスは古い書物で読んだことがあった。失われた世界で長く栄華を極めた大陸の、皇帝が代々長く住まわっていた居城にあやかって、アートハルクの城はそう名付けられたのだと。
「ここでなにがあったかを知る者はもういない。私と、サーシェスだけだ。もっとも、サーシェスにとっては記憶を封印してまで忘れたかった過去のひとつらしいが」
 ガートルードはそう言って、フライスを振り返った。やはり、サーシェスはガートルードだけでなく、レオンハルトともつながりがあったのだという証言に、フライスは拳を握る。自分の知らない彼女の過去を、この女が知っていることがたいそう不愉快であった。
「フライス……といったな」
 ガートルードはフライスに向き直り、フライスの顔をじっと見つめた。それは愛おしそうでもあり、懐かしさを含んだような不思議な表情だった。フライスが身を固くしているのに対し、ガートルードはわずかに微笑んだ。
「辺境の言葉で、〈神々の目〉を意味するのではなかったかな?」
「そのとおりだ。火焔帝というのはずいぶんと博識なことで」
 フライスはできるだけ動揺を見せないように、余裕の表情で肩をすくめた。自分の本当の名前の意味を、祖父以外から言われたのは初めてだった。母はこの名前とともに、自分の能力を忌み嫌っていたのだから。
「〈神々の目〉を持つラインハット寺院の修行僧よ。お前がこの世に生を受けた本当の理由を知りたくはないか」
「なにをいまさら。人の過去を暴いてまでこれ以上、私に精神攻撃を与えるつもりなら無駄だ」
 ガートルードは強気なフライスの言葉にくすくすと笑った。
「精神攻撃……ね。ある意味そうかもしれん。だが、〈神々の目〉は真実を欲しているはずだ。手を」
 ガートルードはそう言うと、フライスに手をさしのべた。フライスはとまどい、ガートルードのエメラルドグリーンに輝く左目と、彼女の差し出した手を交互に見やった。そうして、意を決したようにその手を取る。
 突如、周囲の瓦礫の山は消え、瞬間転移にも似た感覚がフライスを襲う。だが、実際には周囲の光景が変わっただけだった。
 真っ白い壁、白い照明に輝くばかりの光景であった。なにかの研究室だろうか。研究員らしき白衣をきた人間たちが、忙しそうにそれぞれの業務をこなしたり、あるいはあちこちを走り回ったりしている。背後の巨大な壁に、なにやら塩基配列に似た模様が回転する様とそれを解析しているのかなにかの文字列がひっきりなしに明滅していた。
「これは……なんだ……?」
「三十年ほど前」
 ガートルードはフライスの手を軽く握りながら淡々とした表情で口を開く。
「中央諸世界連合で秘密裏に、ある〈プロジェクト〉が発足した。これはその当時の様子を表した過去の映像だ」
「あるプロジェクト……?」
「そう。元々は、中央諸世界連合があるものを復活させようと発足したものだったが……。それらの入手は困難を極めていたため、偶然に入手できたものから手始めに研究は開始された」
「あるもの……とは」
「聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》の復活そのものだ。中央は力がほしかった。失われた大陸で、もう一度伝説の具現化を推し進めようとしたのだ」
「馬鹿な……」
「そう。だから入手困難だったというわけだ。汎大陸戦争以後、救世主《メシア》を筆頭に、ほとんどの聖賢五大守護神たちは姿を消した。だから彼らは、ちょうど聖騎士として活躍していた、私の兄レオンハルトに目をつけたのだ」
 フライスの手に力が入り、その表情はますます険しくなる。忌まわしい、聞きたくもない名前のひとつだった。
「現役の聖騎士だったレオンハルトの血液を採取して遺伝子だけを抜き去り、そこからもうひとり、レオンハルトと同様の力を持つ人間を生み出そうという背徳のプロジェクトだった」
「そんなことが……」
「できるとも。中央の智恵院には、それだけの力がある。旧世界《ロイギル》の言葉では、〈クローン〉と呼ばれる技術だ。すなわち、彼らはレオンハルトの複製人間がほしかった、そしてそれを中央の守り刀としようとした」
 フライスの背筋に冷や汗が流れる。ガートルードの手はそれでもフライスを離そうとしなかった。
「厳密に言えば、複製ではない。複製に近いところまで操作した遺伝子から人工精子を造りだし、母体の持つ卵子と結合させ、自然分娩でふつうの人間と同様に育てること。その被験者に選ばれた女の名は、ファビオラ・オーギュスト。当時の研究員でもあり、研究主任でもあったオーギュスト博士の妻だ」
 フライスは息を呑んだ。正面の入り口から、フライスと同様の黒い巻き毛の美しい女が入ってくる。まだうら若きその女に、自分にもっとも近くもっとも憎悪をたたきつけた女の面影を思い出し、フライスは吐き気をこらえるためか自身の口に手を当て、呼吸を止めた。
「母……さん……!」
「実験は困難を極めた。人工的に操作された精子と、天然の卵子が受精するのまではよかった。成長するまでの過程で子宮の中の赤ん坊は五体満足であることが確認されないか、死亡してしまう。被験者は何度も人工流産を経験し、母体の疲弊も著しく、やがて精神的にもずいぶんと摩耗していったという」
 研究室に入ってきた女が研究主任らしき人間に声をかけ、足を踏み出そうとするのだが、やがて彼女は下腹部に鋭い痛みを感じたのかうずくまり、顔をゆがませる。研究員たちが駆け寄ってきて彼女を抱え起こそうとするが、すでに彼女の足下にはおびただしい出血の痕が見られた。
「それから二年。それでも研究は続けられた。最終的に被験者は予定どおり男子を授かった。母体の影響が強かったためか、レオンハルトとは正反対の、黒髪とブルーグレイの瞳を持って。先天的に異常は見られず、ただ後天的に視力が衰えることは予測されていた。そのためその子は、研究員たちに〈神々の目〉を意味する名前をつけてもらい、母親となったファビオラのもとで育てられることとなった。人目につかない辺境の村で。それが」
「……私……というわけか……!」
 フライスは唇をかみしめ、固く瞳を閉じた。
 母親の記憶は、血にまみれたものしか存在していない。父が出て行ったのは自分の目が見えなくなった直後だった。毎日泣いて暮らす母。父にとっては、実験体として使われた母と自分の子に対する良心の呵責でもあったのだろう。それからだ。母親の暴力が始まったのは。
「……私は……レオンハルトの代わりとして生まれさせられたというわけか……!」
「そう。本来ならばある年齢に達したところで、中央に引き取られることになっていた。だが。プロジェクトはオーギュスト博士の失踪とともに打ち切られた。そして、不運な事件の後にその子はロクランのリムトダール大僧正に引き取られ、皮肉にも術法の世界では比類なき力を手に入れた」
 ガートルードは鋭いまなざしでフライスを見やる。
「これがお前の本当の過去だ。ラインハット寺院次期大僧正候補、フライス」
 フライスは糸の切れた人形のように崩れ落ち、膝をついた。頬を伝う涙がローブの膝にこぼれ落ちる。
 やはり自分はレオンハルトの身代わりでしかなかったというわけだ。生まれながらにして。自分がレオンハルトにそっくりだったのは偶然でもなんでもない、最初から仕組まれたことなのだから当たり前だ。
 まがいものとしての運命、誰にも必要とされないのは分かり切っていたことではないか。失われたかけがえのない者の代わり。聖賢五大守護神のひとりであった、伝説の聖騎士の代わり。若かりし頃から厚い信頼関係を築いていたリムトダール大僧正の戦友の代わり。ガートルードの兄の代わり。そして──。
 救世主《メシア》の片翼だった男の代わり──。
「彼女は……サーシェスもそうなのか……彼女は本当に救世主なのか……」
 うつむいたままフライスが尋ねる。答えは分かり切ったことではあった。
「サーシェスは……私と兄がずっと探し続けてきた珠玉の宝だ」
 その一言で、サーシェスがどれほど彼らに必要とされてきたのか、そしてそれが何を意味するかは完全に理解できた。
「サーシェスのことが知りたければ、まずは二百年前の汎大陸戦争にまでさかのぼらねばならない。私も兄も、それ以前のことはあまりよく知らない。お望みならば、アートハルクで何が起こったかもいますべて話そう」
 フライスが顔を上げた。フライスを見下ろすガートルードは、炎のように美しかった。水の魔導師として知られていた頃の清楚な美しさではなく、戦いを決意した戦女神のような神々しさをまとっていた。
「ただし」
 ガートルードは厳しい声で言い放ち、フライスを見つめた。心なしかフライスの体がぴくりと震える。
「過去を知ることは未来をも知ることになる。後戻りはできない。それでもかまわないというなら」
 ガートルードはフライスにもう一度手をさしのべる。
「我々のすべてを話そう。旧世界《ロイギル》から神世代の今日まで、そして、我々があるべき姿を取り戻すために」
 いまだ押し黙ったままのフライスに、ガートルードはフライスの顔の真ん前まで手を差し出した。
「まがいものにはまがいもののよさがある。お前なら理解できるはず。お前の力が必要だ。フライス」
 ガートルードは力強くそう言った。有無を言わさぬ言葉だった。フライスはしばし唇をかみ、考える。やがて目を見開き、盲いたブルーグレイの瞳でガートルードの顔を強く見返した。眼前に差し出された彼女の手に自分の手のひらを重ねると、フライスは立ち上がる。
 いつの間にか、アートハルクの残骸をなでる風が、ふたりの黒髪をくすぐっていた。





 見渡す限りの連峰が、山頂にわずかに残す雪を乗せて遙か遠くで月の光を受け、淡く光っている。山頂から吹き下ろす風は常に冷たく、短い夏が訪れるまでは常に気温は低い。その刺すような冷たさに、セテは身を震わせた。
 子どものころによく遊んだ広場、いたずらを仕掛けて逆に河に突き落とされてずぶ濡れになった橋、友人たちの家。学校帰りに先生に内緒で買い食いをした駄菓子屋や雑貨屋。つい最近実家帰りをしたときには、すでになくなってしまっていた店構え。記憶の中で見慣れた風景がセテの瞳に映し出されていた。子どもの頃はとても大きく見えたのに、この街のなんと小さく見えることか。
 セテは自分の体を見下ろし、中央特使の軍服を着ていることを確かめた。確かめることで、いまの自分が故郷のアジェンタス騎士団領ヴァランタインの街にいることを自覚したかった。
「ヴァランタイン……」
 夕闇が迫ってはいたが、先日の封印解呪で焼け野原になり、アートハルク軍に蹂躙されたはずの故郷の姿がそこにあった。
「そうだ、母さん!!」
 セテは見覚えのある道を転げるように走り、実家へと急いだ。しかし、実家の前にいる人影にいったん足を止め、その様子をうかがう。大柄な男がひとり、痩身で髪の長い男、それからもうひとり、自分と同じ金の髪をした男の三人が戸口に立っているのが見えた。
「か、母さん……!」
 男たちの後ろで、セテは叫んだつもりだったのだが、声に力が入らない。
 戸口が開き、やはり金髪の美しい女性が顔を出した。記憶の中で鮮明に思い出す、意志の強そうな青い瞳。セテの母親、ナルミであった。
 扉が開いたことで、家の中の明かりが玄関に立つ三人の男たちの顔を照らした。ひとりは強面ではあったが顔に派手な傷もないレイザーク、おそらく二十歳そこそこだろう。面影は残っているが、いまのようなぐうたらさや険悪さはみじんも見受けられなかった。もうひとり、肩にかかるくらいの金髪の男が、なにやら足下から転がってきたものに合わせて腰を落とす。
「お父さん! お帰り!」
 戸口から転げるように出てきたのは、男と同じ金色の髪、母親と同じ青い瞳の、まだ幼い少年。
「おお〜我が子よ〜! 元気してたか! 帰ってきたぞ〜! ど〜れ、お父さんにだっこされたいか? ん?」
 金髪の男は少年を軽々と抱き上げ、そのとき家の明かりに照らされた表情がはっきりと見えた。美青年には届かないが、人好きのする顔。自分と同じように目にかかるほど前髪が垂れ下がっているので、抱き上げられた少年はおもしろそうにそれを引っ張っている。
「……父……さん……?」
 父ダノルの姿であった。そして、いま彼が抱えているのは、幼い頃の自分。
「……父さん……父さん……」
 自然とセテの目に涙があふれていた。わずかな記憶でしか覚えていない父の顔。レイザークの話によればよく女性にもてたらしいが、その優しげな表情から周りの人に好かれやすいのももっともだ。
「父さん……俺は……ここにいるよ……俺、二十二になったんだ……ねえ、父さん……」
 セテの涙声は父には届かない。ダノルは後ろのセテなどには気づかず、うれしそうに我が子を、セテの幼き姿を抱き上げ笑っている。
 聖騎士だった父、もし戦死などしなければ、いまの自分を見てなんていうだろうか。中央特使として働く自分を、誇りに思ってくれるだろうか。涙があふれて止まらなかった。
「いて、いてて、こら、引っ張るな!」
 ダノルは笑いながらではあったが息子があまりに髪を引っ張るので、彼はいったん少年のセテを放し、Gパンのポケットから細いリボンを取り出して面倒くさそうに後ろで縛り上げた。それからもう一度、愛する息子を抱き上げる。
「うひゃあ〜。大きくなったなぁセテ。ずいぶん重くなった。いくつになったんだっけ?」
「五つよ。ひどいお父さんねぇ、セテ。自分の息子の年も覚えてられないなんて」
 まだ二十代後半の母ナルミがころころと笑った。
「そうか、お前、もう五歳になったのかぁ。子どもってのはちょっと見ないうちにホントにデカくなるもんだなぁ」
「父親がいなくても子どもってのは育つもんなんだよ、ダノル。あんたもちょっとは反省して、今度こそ有給取って家族と一緒に過ごしてやれよ」
 隣にいたレイザークがダノルの脇をこづいていた。レイザークはダノルの部下だったはずだが、友人でもあったのだ。
「なんだ、先輩に意見する気か、レイザーク。ずいぶん出世したもんだな」
「家族の前だからって先輩面すんなよ、ダノル」
 レイザークは腹を抱えて笑った。こんなふうに屈託のない笑顔を見せるレイザークを見るのは、セテは初めてだった。ダノルはばつが悪そうに咳払いをひとつして後輩を黙らせようとしたが、それはどうやらあまり功を奏さなかったようだった。
「そうだ、今夜はうちに来てナルミの手料理でも食っていってやってくれよ。レオンハルト、お前もいいだろ?」
 父が振り返る。その言葉に、二十二歳のセテも顔を上げた。
 家の中の明かりに照らされ、ますます黄金色に輝く長い巻き毛。エメラルドグリーンの瞳をした彫りの深い顔立ち。それがゆっくりと、照れくさそうに微笑む。
「レオンハルト……」
 いつかどこかで見た光景ではあったが、本当に自分の家にレオンハルトが尋ねてくることがあったなんて。
 レオンハルトは、十年前に見たときとまったく変わっていなかった。偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》は年を取らないのだと改めて思う。まるで時間の中に置き去りにされたのではないかというほど、セテの記憶のままの聖騎士の姿がそこにあった。
 ──ずるいよ父さん。俺の知らないレイザークとレオンハルトと、こうやって三人で仲良くやってたなんてさ。俺は何も知らない。あんたたち三人が、どれだけの絆で結ばれているかすら──。
「さあ、どうぞ中に入って。食事の支度ももうできているのよ」
 母ナルミのうれしそうな声に、三人は遠慮なくセテの実家に足を踏み入れ、扉が閉ざされた。セテの目の前に、再び夕闇が訪れた。呆然と扉の前に立つセテの耳に、子どものはしゃぐ声や母と父、それからレイザークなどが楽しく談笑する声が聞こえてくる。
 自分ひとりが置き去りにされたのだと、セテは実家の懐かしい扉をなでながら再びあふれてきた涙をぬぐった。
 やがて虫の声が聞こえ始める。本格的に夜の帳《とばり》が降りてきていた。セテは実家の庭のベンチに腰掛けながらぼんやりと、遠くにかすかに見えるアジェンタス連峰を眺めていた。
 これからどうする。ヴィヴァーチェにはめられて過去に飛ばされたことだけは理解できたつもりだ。だが、過去に干渉できないのは、自分の声や存在が家の中にいる者たちの五感になんの影響も与えていないことからも分かる。どうやって帰ればいいのかは分からない。ヴィヴァーチェはいつまで自分を過去に縛り付けておくつもりなのだろうか。こんなふうに自分の過去の幸せさを見せつけて、焦燥感をあおるつもりならもう十分だし、嫉妬心もとうにやんでいた。時間の感覚もすでにない。彼女は自分に何をさせるつもりなのか。
 そんなことを思っていた矢先のことだった。
 不意に勝手口が開き、誰かが庭に出てきた。金髪の長い巻き毛。レオンハルトだ。
「レオンハルト!」
 聞こえないと分かってはいたものの、セテはそう叫び、レオンハルトに近寄ろうとした。だがその足を止めたのは、レオンハルトを追いかけてきたらしい人物の気配だった。部屋の明かりの逆光ではあったが、ほっそりした体の線から女性であることが分かった。
「……母さん……?」
 母ナルミはレオンハルトの背に向かって、静かに足を運ぶ。その気配を感じ取ったのか、レオンハルトは即座に振り返った。敵と対峙するときの険しい表情であったが、後ろにいるのがセテの母であることに気づいて、安心したかのようにため息をつく。
「ナルミ」
 レオンハルトの低く落ち着いた声が母の名を呼ぶ。セテの体がなぜだかひきつった。
「ダノルとレイザークは?」
「相変わらずよ。もうベロベロに酔っぱらっちゃって。セテはさっき寝かせたところよ」
「そうか」
 レオンハルトは優しげに微笑んだ。
「……レオンハルト、お話があるの」
「その話なら、とっくに終わったはずだ」
「違うの。聞いて」
 突然、ナルミがレオンハルトに抱きすがった。驚いたのはセテだった。
「レオンハルト、あなたさえよければ、またこうして家に寄ってほしいの。セテもなついてるし、なによりダノルが」
「いや、もう私は」
 レオンハルトはナルミの肩をやさしく放し、距離をおくために二、三歩後ずさった。
「私はもうここにはこない。そのほうがいいだろう、君にとっても、セテにとっても」
「違うわ。私は、あなたと一緒にいるだけでもいい。愛しているのよ、あなたと、もちろんダノルも。どちらも選べない」
 セテは脳天を直撃するような母の言葉に卒倒しそうだった。不倫──レオンハルトと母が不倫の関係にあった? そんな!
「ナルミ、君はまだ若い。憧れと愛情を同じ感情だと勘違いしているだけだ」
「そんなことないわ!」
 ナルミはそう言って顔を両手で覆った。涙があふれてきたからだろう。レオンハルトは困ったようなため息をついた。だが。
「セテは……セテはあなたの子よ」
 ナルミのひと言でセテはさらに衝撃を受け、へなへなと庭に座り込んだ。突然、家の中から何かを倒す音が聞こえ、それから乱暴に扉が開く音がし、誰かが外に飛び出していくのが見えた。セテの動体視力には、それが父ダノルの姿であることが分かった。聞いていたのか、いまの会話を。
「嘘……ごめんなさい。あなたは一度だって私を抱いてくれたことはなかったですものね……」
 そう言って、ナルミは涙をぬぐって自虐的に笑って見せた。ほっとしたのはセテのほうだ。
「ダノルが出て行った。聞こえたはずだ。誤解を解かねば。レイザークにまた怒鳴られる」
「そうね。良い薬だわとも思ったけど……あなたから話してちょうだい。明日になったら、また私とダノルは大げんかをして息子を困らせてしまうわ」
 そんなとんでもない嘘をつくほど、母はレオンハルトを愛していたのだろうか。自分で誤解を解くほうがよほど効果的なのに。それとも、この頃すでに両親は冷え切っていたのだろうか。セテは思う。無理もない。何日も、ときには何ヶ月も任務で帰ってこられない聖騎士団の一員とあっては、それも致し方ないのかも知れない。
「ナルミ」
 レオンハルトはダノルの走っていった方角を見つめながら母に声をかける。
「頼むから……ダノルを……苦しめないでやってくれ。あいつは弱い。父親になってもまだ、少年のような心を持つ純真なところがある。もう二度と、こんなことを言わないと約束してくれ」
 レオンハルトの目は真剣だった。仲間であるダノルを、きっと自分の弟のように愛しているのだろう。チリリとセテの胸が痛む。
「……わかったわ……」
 ナルミはか細い声でつぶやき、勝手口に戻っていった。即座にレオンハルトが走り出したので、現実のセテもその後を追った。
 相当な飲酒量で全速力で走ったならばそう長くは保たない。血行がよくなるたびに全身にアルコールが回ってふらふらになるのは、セテは通常訓練で何度も経験したことだ。レオンハルトもそう承知しているはずなのだろうが、父ダノルの姿を見つけられないでいる。
 セテはそんなレオンハルトに、聞こえないのは分かっていたが、あっちはどうだこっちだどうだと声をかけるのだが、もちろんレオンハルトがその通りに動くことはなかった。
「くそ!」
 セテは悪態をつき、レオンハルトの後ろを走るのをやめ、自力で父の姿を探すことに決めた。こういうとき、レオンハルトはふつうの人間がどこに行くのか検討もつかないのだろう。自分だったらどうするか。やけを起こして誰かにケンカを売ってぼこぼこにやられるか、どこか一人で飲める居酒屋でくだを巻くか。それとも大虎になってどこかの路地でひとり、大騒ぎをするか。
 ひょうひょうとした性格だと聞いていた。そういう人間がひどく落ち込んだときにどうするか。やっぱり路地裏あたりだろう。ひとりで大声で泣き叫んで怒鳴り散らしたりしているかもしれない。
 セテはヴァランタインの路地を駆けながら、父が馬鹿な選択をしていなければと祈った。
 さすがに息が切れてくる。過去とはいえ、体の感覚は通常どおりだ。セテは額の汗をぬぐい、汗ではりついた前髪をうざったげにかきあげながら建物と建物の間で一休みをすることにした。
 ──セテはあなたの子よ──。
 あの言葉がもし本当だったら自分がレオンハルトに惹かれていたのも分かる。だが、母の見栄から出たとんでもない嘘だった。でもなぜこんなにレオンハルトに親しみを感じるのだろう。十年前に初めて会ったからでなく、何度も子どものころにこうして彼が自宅にやってきたからなのか。
「ちくしょう。父さん、どこ行きやがったんだよ。ホントに手間のかかるオヤジだぜ」
 不意に口をついて出た言葉が、ふとセテの本能をくすぐった。なんとなく分かる。父の居場所が。それとも、過去に干渉しているヴィヴァーチェが導いているのだろうか。
 セテは少し先にブロックにある路地を目指して足を速めた。いままで全速力で走っていたので膝から下が笑うようだったが、目的地に向かって足が、脳が、そこへ行けと命令をしているようだった。
 その路地にたどり着くと、即座にセテは身震いをした。この感覚には覚えがあった。その感覚を頼りに、セテは闇の中の路地をまっすぐ歩き始める。その奥に、見覚えのある赤茶けた古いテントが張ってあるのが見えた。ランプのわずかな光に照らされて、そのテントはますます不気味な様相を呈している。いやな予感が心臓を刺激するが、足は止まることなく、そのテントへと近づいていく。テントには古い書体で「占い」と書かれており、そこにたたずむ一人の男の姿が見えた。
「父さん!」
 セテはその人物の背に駆け寄り振り向かせようと肩を掴んだ。掴んだつもりの手は体をすり抜け、セテはテントの前にしつらえられた占い用の卓に顎をぶつけるはめになった。
「いてぇ〜ちくしょう!」
 起き上がったときに、セテはその占い師の顔を間近ではっきりと見た。見間違えるはずもない。アジェンタスの事件でコルネリオのそばに控えていた、あの醜い老婆だった。水晶球が不気味に光を放ち、ダノルの若々しい顔を照らしあげていた。そして、しわくちゃで歯のない老婆のその顔すらも。しわのひとつひとつがランプの明かりで克明に浮かび上がっていた。
「なにかお困りのご様子。占ってしんぜよう。なに、お代はいらぬ」
 老婆は聞き覚えのあるしわがれた声でダノルに声をかける。
「俺には悩み事なんか……」
 ダノルは酔いも覚めた表情で、冷たく老婆に言い放った。
「ほう。そこまで顔に書いてあるのだがのう」
 老婆は愉快そうに水晶球をなで回す。
「では、なにかお望みかね? 占いといってもいろいろあるが、願い事を叶えることも時と場合によってはあるじゃろうて」
「俺は……」
 ダノルは拳を握り、低い声でそうつぶやいた。
「俺は、力がほしい。誰よりも強い力が。伝説の聖騎士をも凌駕する、絶対的な力だ」
 ダノルの声は力強かった。
「率直だのう、お若いの。少年ならいざ知らず、いい大人がそういう願い事をするのも珍しいものじゃ。だが」
 老婆は歯のない唇で愉快そうに笑ったが、
「力は必要じゃ。友情、愛情、好きとか嫌いとか、そんな感情はいつでももろく崩れ去るものだ。だが、力は絶対的な支配をもたらす。あながち叶えられぬものでもない」
「よせ、父さん、そいつの言葉に耳を貸しちゃだめだ!」
「これを」
 老婆はしわがれ、やせさらばえた手でローブの下からひと包みの薬包らしきものを取り出し、ダノルの目の前に差し出した。ダノルは無言でそれを受け取る。
「それを飲むのじゃ。さすればお主の望みは叶えられようぞ」
 ダノルは半信半疑でその薬包をあける。粉末の、得体の知れない薬のようなものがひとかたまりになって収められている。
「気休めだ。おおかた精神安定剤かそんなものだろう?」
 ダノルは小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「ま、それでもないに越したことはないか。俺は今日、とてもじゃないが落ち着いてなんざいられねえ」
 老婆は水差しをダノルに差し出した。ダノルはそれも無言で受け取ると、薬を一気に口の中に放り込み、水差しの注ぎ口に乱暴な仕草で口をつけ、粉末を流し込んだ。
「父さん!!」
 セテの声など届くはずはなかった。多少むせながら、ダノルはごくごくと水を飲み干す。
「ふん、酔い覚ましにもちょうどいいみたいだし」
 ダノルはもう一度水を煽り、口直しをした。
「では、この水晶球に向かって強く願うことだ。力が欲しい、と」
 突然、ダノルの体が硬直した。水晶球に見入るように視線は固定され、明滅する光に目を奪われているようだった。
「父さん! 見るな! その水晶球を見ちゃだめだ!」
 ダノルは水晶球に向かって、小声でつぶやき始めた。
「俺は強くなる。誰よりも。あいつよりも。世界中の誰よりも」
「もっと強く願わねば、望みは叶えられぬぞ」
「俺は……俺は力を手に入れる! 絶対的な、誰にも支配されない力をだ!」
 その瞬間、水晶球ははじけるような閃光を放ち、セテもダノルも目を伏せた。


 セテが閃光から目をそらし、おそるおそる目を開けると、いつの間にか実家の部屋の中に転移されていた。レイザークはもう帰ったのか、母ナルミが食器洗いを終え、一息つきながらテーブルに座っていたところだった。
「くそ……父さんは……!? まだ帰ってないのか。レオンハルトも……」
 セテは悪態をつき、見えないだろうことは分かっていても、母の前に座った。ナルミは頬をついてため息を何度もついていた。後悔しているのだろう。いくらなんでも、あんな見え透いた嘘であったとしても、それを聞いてしまった夫を相当に傷つけてしまったことに。
「母さん……」
 手を重ねても、その感触は過去の幻影には伝わらない。それでもセテは、母の手に自分の手を重ね、見守ってやることしかできなかった。
 結婚して子どもができると、恋人たちは夫婦になってましてや子どもの父親と母親になってしまうのだ。そこに愛情なんか存在しないよと、以前アジェンタス騎士団の先輩たちが酔って愚痴っていたのを聞いていたが、愛情なくして家族としてやっていくことなどないとセテは思っていた。父が死んでなお、自分は母親を常に愛し、常に気にかけていたつもりだった。だから、母ナルミはやはり愛しているのだ。父ダノルを。
 そのとき。乱暴にドアが開く音がした。
「ダノル、あなた、帰ってきたの!?」
 ナルミは弾かれたように立ち上がり、セテをすり抜けて玄関へと足早に歩いていった。陶器のような割れる音がした。玄関に飾ってあった、母の手作りの花瓶や置物の類だ。それを乱暴にたたき落とす音がする。
 母ナルミと同様に、セテも弾かれるように立ち上がり、玄関へと向かった。見れば、玄関には月明かりに照らされる父の姿があった。ずいぶんと走ってきたのか息は荒く、逆光でも肩で大きく息をしているのが見えた。
「ダノル……話があるの。さっきのレオンハルトとの……」
「言うな!」
 父が叫ぶ。同時にセテの体にびりびりと電気が走るような痛みが走った。これが父の心の痛みなのだろうか。
「聞きたくない。誰の話も信じない。俺は力を手に入れた。そう、俺の意志をジャマする者はいない」
 ダノルはぶつぶつとそう言いながら部屋に入り、そうしてまた居間の陶器を素手でたたきつぶす。破片で手に傷がつき、血が滴るのも気にとめた様子はなかった。ナルミが恐怖に立ちすくんだのももっともなことだった。
「セテはどこだ」
 ダノルは別人のような口調でナルミに血走った目を向けた。
「酔ってるのね、あなた。ごめんなさい、さっきの話は」
「うるさい! 俺に近寄るな!」
 ダノルはナルミの頬を力一杯殴りつけ、ナルミは悲鳴をあげながら床に倒れた。だが即座に体を起こし、これ以上息子の寝室に彼を近寄らせまいと手を広げて阻止する行動に出た。
「よせ! 母さん! 父さんはまともじゃない! 逃げるんだ!」
 セテは叫び、母親を引き寄せようとするのだが、やはりその手はナルミの体をすり抜け、セテにとってはなすすべもなくなる。
「母さんをいじめるな!」
 突如、寝室から飛び出してきた幼いセテがそう叫ぶ。ダノルは自分の息子の姿を認めると、にやりと邪悪な表情で笑みを浮かべた。
「生意気な口を利く。さすが売女の腹から生まれただけはある」
「やめて! ダノル!」
 ナルミがダノルの足にしがみつき、行く手を阻む。ダノルは妻を蹴り上げ、ゆっくりと自分の息子に向かって歩み始めた。
「そう、なにもかも幻想だったってことに早く気づくべきだったんだ。ナルミ、お前がレオンハルトに惹かれていたことはずいぶん前から知っていた。だから俺は……!」
 ダノルは苦悶の表情を浮かべながらも、愉快そうに、だが痛みを伴うような表情で自虐的な笑い声をたてた。その頬から涙がこぼれたことに気づいたのは、一部始終を見ている現代のセテだけだった。
「親子して俺を小馬鹿にしていたんだろう!? 俺の息子と偽って、お前はいつまでもあの男に未練がましく思いを寄せてたんだろう!?」
「違う! 違うわ!」
「俺がその妄執を断ち切ってやる! お前の愛したあの男の忘れ形見をな!」
 そう言ってダノルは幼い自分の息子の胸ぐらを掴み、セテの寝室に向かってその小さな体を放り投げた。
 幼いセテが悲鳴をあげる。首根っこはまだダノルに捕まれたままだった。二十二歳のセテは、金縛りのように固まり、なすすべもなくその様子を眺めることしかできなかった。
「髪の色は金、目の色は青。まんまと騙された。その、ナルミにそっくりな表情で俺をあざ笑っているんだ」
 息子の胸ぐらを掴み、ダノルは呪いの言葉を吐いた。幼いセテは訳も分からず、突如として豹変した父の姿に震えるばかりで、声をあげることすらできなかった。
「よせ……やめてくれ……」
 現実のセテが、その傍らで顔を覆う。見たくない。聞きたくない。なにも信じたくない。
「お前の顔はナルミそっくりだ。俺ではなく、ナルミの。そしてその表情、あいつにそっくりじゃないか。もっと早く気づくべきだったんだ」
 ダノルは狂気のごとく笑いながら幼い息子の両腕をその頭上で拘束し、のど元に手をさしのべて力を込めた。五歳の少年は苦悶の表情を浮かべ、声を出すこともできない。扉の外では、何度も拳をたたきつけて夫を止めようとするナルミの悲痛な叫びが響いていた。
 突然のことに、幼いセテは悲鳴をあげた。下半身を貫く痛み、それが脳天まで突き刺さり、たとえようのない苦痛と化した。
「いた……っ……! 痛い……お父さん、やめてっ……!」
 幼い少年が泣き叫ぶ。あろうことか、父親は我が息子の体に自分の体の一部を打ち付けていた。
「そう、その表情だ。俺があいつに唯一してやれること、その分身に痛みを分け与えること。どうだ、レオンハルト、苦しいだろう、苦しければ泣きわめけばいい。ナルミと同じその顔で、未来永劫苦しめばいい!」
「お父さん……お父さん……やめて……!」
「やめてくれ、父さん、それ以上俺を……」
 セテは部屋の中にうずくまり、耳を塞いだ。幼い自分の悲鳴を聞くのを拒んだのか、父の狂気にはらまされた妄言に耳を塞いだのか。
 ダノルは幼い体から自身を引きはがすと、腰の剣に手を掛けた。細身で美しい刀身を保つ飛影《とびかげ》が姿を現した。暖炉の光に煽られ、刃がぎらりと不気味な光を放つ。
「俺はすべての絆を断ち切る。俺は……自由だ!」
 ダノルはそう言うと、飛影をまっすぐ息子の体の上にかざした。そのままダノルは、刀身を垂直に落とす。幼い息子の心臓めがけて、飛影の美しい刃はまっすぐに、迷うことなく突き刺さった。
 短い悲鳴。どくどくとあふれてくる血液。幼い体が痛みと苦痛にけいれんを起こす。息子の体に突き刺さったままの飛影をダノルが持ち上げると、少年セテの小さな体が宙に浮いた。そのまま、ダノルは良心の呵責も見せない表情で、まっすぐに暖炉に息子の体をかざす。そして。
「ぎゃあああああああああああ!!!」
 少年の悲鳴が長く響き渡る。ナルミが扉をこじ開け、部屋への進入を果たしたときには、我が子の体はまるで串焼きをあぶるかのように飛影に貫かれたまま、暖炉につっこまれていた。セテ少年の顔は暖炉の炎であぶられ、いまなお悲痛な悲鳴をあげる。
「セテ!!」
 ナルミは決死の思いで我が子の体を暖炉から引き上げる。おびただしく顔を焼かれ、下半身と胸部から大量の出血をしたその体は、すでに呼吸すら困難としていた。
「ダノル!! なんてことを!!」
 ナルミが泣き叫ぶ。ダノルはそれにも反応せず、我が子と妻を憎しみの表情で見下ろすだけだった。
「俺は自由だ。何者も、俺を支配することはできない」
 そう言い放つと、ダノルは剣士のセオリーでもある剣の血を払うこともせず、飛び出していった。
「セテ! セテ!」
 ナルミが半狂乱になって叫ぶ。少年の呼吸はもうかすかで、死が迫っていることが予測された。ナルミは看護士の資格を持っていたが、懸命な止血措置も役に立たないようだった。それでもナルミは、家中のありったけの布を持ち出し、セテの胸部の傷に押し当てて、焼けただれたその顔に冷水をひたした布をあてがう。
「ナルミ!」
 レオンハルトの声がした。続いてレイザークのどたどたと走る足音。ナルミの体はびくりとはねた。寝室にたどり着いたふたりの聖騎士は、ナルミと幼い少年の姿を見て瞬間身をこわばらせた。
「レイザーク、レオンハルト……!」
 ナルミが泣きながら二人の聖騎士の名を呼ぶび顔を上げた。ふたりは幼い少年の元にかけよる。いちばん年若いレイザークが、セテの様子を見てうめき声を上げた。幼い下半身に無理矢理うがたれた痕からの出血、刀剣による胸部の鋭くえぐられた傷跡、そしてその出血量、さらには、暖炉の火にあぶられ、原型をとどめない頭部──。愛らしかった五歳の少年の面影はなく、肉のこげるいやな臭いが部屋中に漂っていた。
「むごいことを……!」
 レオンハルトはひと言呻いた。
「私のせいよ……! 私があんな馬鹿な嘘をつかなければ……!」
「黙ってろ! セテをこちらへ!」
 厳しい口調でレオンハルトがナルミをたしなめ、セテの体を引き受ける。レイザークはその間、幼子の惨状を見たくないというのもあっただろうが、家の中にダノルがいないかどうかを捜索しているようだった。
「ダノルはいない。街に飛び出していったのか。やけ酒にしてはやり過ぎだ」
「やけ酒なんかじゃない、あの人、狂ってる! 自分は力を手に入れたとかなんとかわめいてた! 殺して! 彼を! 早く!」
「ナルミ! 落ち着くんだ!」
 レオンハルトがナルミを怒鳴りつけたので、ナルミの体がもう一度びくりとはねた。
 レオンハルトはセテの腕の脈と、心音のふたつを同時に確かめる。呼吸はすでに止まっていた。絶望的な状況であった。
「パラディン・レオンハルト! パラディン・レイザーク!」
 戸口のそばで、兵が声を掛けるのが聞こえてきた。
「応援をお願いします! 錯乱中のパラディン・ダノルが目下、ヴァランタインから総督府に向かい、無差別殺人を!!」
 レオンハルトとレイザークは顔を見合わせる。レオンハルトの目配せで、レイザークは入り口まで走っていき、迎えの兵について街に繰り出していった。背中にはいまなお愛用しているデュランダルを携えて。
 レオンハルトはセテの体を見つめたまま、しばし思いを巡らせているようだった。横でナルミが泣き崩れている。死んだ人間を生き返らせる術法などない。彼女はそれを十分理解しているのだ。
 レオンハルトは少年の体に覆い被さるようにしてその小さな体を抱いた。そして小声でなにかの呪文のようなものを詠唱し始める。そうしてナルミを振り返ると、
「ナルミ、知ってのとおり、死人を生き返らせるなどという都合の良い呪文は存在しない」
 レオンハルトの冷静な言葉にナルミは再び泣き崩れる。それを制したレオンハルトは、
「だが、聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》のみが知り得る禁断の術法が存在する。私の魂の半分を、この子に移植する。彼は息を吹き返すが……」
「レオンハルト、お願い! もし私の命でつなぐことができるのならそれでもいい!」
「君にはなんの影響もない。ただ……」
 ──この子は一生涯、私の眷属として私を追ってやまなくなるだろう──
 傍らで見ていた二十二歳のセテは、レオンハルトの心の声がしっかりと聞こえていた。伝説の聖騎士の魂の半分。レオンハルトの眷属として生きること。それを彼は危惧しているのだ。
「なんでもいい! この子を救って!!!」
 ナルミの悲痛な叫びはレオンハルトに確かな決意をもたらした。レオンハルトの呪文により、レオンハルトと抱きかかえられたセテ少年の体は緑色の光に包まれた。柔らかな緑の光に触れるにつれ、やけこげた顔は次第に元の形を取り戻し、体に刻まれた無惨な傷も徐々に癒えてきたようだった。
 不意に、セテ少年の目が開く。頬に当てられた誰かの優しい肌のぬくもり。金色の柔らかい髪の気配を感じて。
「お母……さん……」
 幼子の口から発せられたのは母を呼ぶ声だった。レオンハルトは少年が息を吹き返したのを確認すると体を離し、セテの体をもう一度抱きしめた。それから少年を抱きかかえていた腕がゆるみ、レオンハルトの体は大きく傾いだ。母ナルミが息子と、レオンハルトを呼ぶ悲痛な叫びが辺り一面に響いていた。





「セテ! しっかりしろ! セテ!」
 レイザークが体を揺り起こしながら名を呼ぶのが聞こえた。
 セテは自分の両頬に熱いものが流れているのを確かめると、自分を抱きかかえるレイザークの力強い腕の気配を感じた。現在に戻ってきたのだろうか。
 見れば、目の前にはプラネタリウムのような予言の間、冷ややかに自分を見下ろす賢者ヴィヴァーチェの姿があった。
「なんだ、いったいなにがあった」
 ぶっきらぼうだが、レイザークが心配そうにセテを揺する。
 ──ああ、分かってるよレイザーク。俺が親友の息子だから、あんな目にあったから気に掛けているだけだろう? 俺は一度死んだ。レオンハルトが俺に命を分け与えてくれた。だけど、俺がどんな思いでレオンハルトを追いかけていたかなんて、あんたには分からないんだ──。
 そう毒づこうと思ったが、レイザークに抱きしめられてそれもままならなかった。なぜだか涙があふれてきた。
「くそう、俺の舎弟になにしやがった、あのクソアマ」
 レイザークはセテの耳元で悪態をつく。
「パラディン・レイザーク。役者はそろったようですね。あなたも、隠している真実を探しに?」
 ヴィヴァーチェは無表情のまま、セテを抱えるレイザークを見下ろした。
「ふざけんな。あんたの世話になぞなる義理はこちらにはない。返してもらうぞ、こいつを」
「それはできない相談ですわ。未来を紡ぐ巫女として、すべての人間の過去と未来を明らかにするのがわたくしの務め」
 ビバーチェが邪悪な笑みを浮かべる。そのとき。
「そうはいかない」
 幼い声ではあったが、力強い声がヴィヴァーチェを制した。
「これ以上、私の〈青き若獅子〉を壊されては困る」
 さきほどまでセテの足下で気を失っていた、幼い少女の姿をしたサーシェスが、セテとレイザークをかばうようにヴィヴァーチェの前に立ちはだかっていた。

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