Home > 小説『神々の黄昏』 > 第三章:死せる夢見の大地 > 第十話:過去と未来を知る賢者
敗走の無念さをにじませながら、満身創痍の中央諸世界連合軍が〈光都〉オレリア・ルアーノに帰還した。朗らかに出迎える者はなく、負傷者を運び出すための救命士たちや術医たちが険しい表情で奔走する中、セテとレイザークの一行も〈光都〉入りを果たした。
レイザークは迎えに出た数人の聖騎士らしい部下たちに何事かを話すと、彼らは即座に敬礼をした後、きびすを返して走り去っていった。聖騎士団を統括する聖救世使教会への報告をするためだろう。
セテは改造馬車の中、いまだうんうん唸っている二日酔いのジョーイの隣で、久しぶりに特使の制服に袖を通した。
身の引き締まる思いとともに、いくつかの気になる点が解決するかもしれないという思いが交錯する。
王女の身の安全は確保された。レイザークも追々、祭司長ハドリアヌスの元で報告と今後の動きについての議論を行うだろう。ワルトハイム将軍は骨折と火傷のために術医会館に運ばれ、そこで丁重な治療を受けることになったので一安心だ。そしてサーシェスとフライスは──。
サーシェスはどうなるだろうか。ロクランでの術法暴発事件以後、彼女の身柄は元々オレリア・ルアーノで拘束されることになっていたはずだ。本人も自分が犯した罪については償うつもりであるし、記憶が戻るのであればそれでいいと思っている。だが、フライスとレイザークのふたりが考えているように、うまくこちら側の救世主に祭り上げられ、いいように利用されることもあるかもしれない。記憶がよみがえったことで、記憶を失っていた期間のことを忘れてしまい、まったくの別人になってしまうかもしれない。
「それは……いやだ……」
セテはそうひとりごちた。横で頭を抱えていたジョーイが不思議そうな顔をしてセテを見上げたが、セテはそれを無視した。
それに、自分の今後の任務が気にかかる。戦争に──ロクラン解放のための戦線に狩り出されるのだろう。モンスター相手ではなく、人間を相手にした戦闘を行うことになるはずだ。
いや。全面戦争になる前になんとかする。それが特使であり、〈黄昏の戦士〉の一員となった自分の役割でもある。たとえ、それがなんの役に立たなかったとしても、そう動きたいと信念が告げるのだ。
セテはのど元のホックを引っかけ、姿勢を正した。
「おい、支度はできたか」
レイザークが改造馬車の扉からのぞき込んだ。
「なんだ、ずいぶん青ざめてるじゃねえか。久しぶりの復職だから無理もないが、緊張してションベンちびるなよ」
「こっちのセリフだ。ずいぶん気ままにやってきたあんたのことだ、祭司長ハドリアヌスに叱責されて泣きべそかくなよ」
セテはレイザークの軽口に応酬したが、いつもより少し手加減したつもりだった。義理の姉とはいえラファエラがあんな状態で、しかも敗退してきたとあっては、レイザークの心中はいかばかりか。
セテは剣帯を腰に巻き付け、愛刀・飛影《とびかげ》の柄をしっかりと握った。そして今度は、〈光都〉にたどり着く直前に姿を消した、ラファエラに付き添っていたエチエンヌという青年の言葉を思い出す。
──お気をつけください。いまのヴィヴァーチェ様は本来の姿ではない。おそらく何者かに心を支配されているのです──。
「準備ができたら行くぞ。お出迎えだ」
レイザークは苦々しげな表情で親指を立て、外を示した。何人かの高官が、二台の馬車に向かって歩いてくるのが見えた。
一行は中央特務執行庁の接待室に通された。アスターシャはベゼルと並んでソファに座り、ベゼルがアスターシャの震える手を握っている。サーシェスとフライスはその向かい側に腰掛け、やはり震えるサーシェスの指に、フライスがしっかりと自分の指をからめていた。セテはその様子にいたたまれなくて、腰掛けることはせず窓際で腕を組んで立っているのだが、ジョーイはというとだらしなくソファに寝ころび、いまなお頭痛と格闘していた。
ほどなくして使いの者が現れ、一行は今度は議会場に連れて行かれることになった。レイザークは別途、聖騎士として聖救世使教会に召喚されているため、直接中央との関わりがあるのは自分だけなのでシャンとすべしと、もう一度のど元のホックのかけ具合を確認して背筋を伸ばした。
議会場の上座に、新長官として就任したマクスウェルが座っていた。セテは休職中だったため、直接相まみえたことはなかったが、彼の黒いウワサについては何度か耳にしたことがあった。ラファエラが毛嫌いするタイプだと、一目でセテはそう思った。
マクスウェルはセテの後ろに並ぶ一行をながめると、
「まずはアスターシャ・レネ・ロクラン王女。ロクランの現状についてはあなたの証言のほかにも情報が入っております。長旅でたいへんお疲れでしょう。お部屋をご用意いたしましたので、まずはごゆるりとお休みを。術医をそばにおきますゆえ、まずは心労を癒し、体調のよろしいときに事情聴取をお願いしたいのですが」
「お心遣い感謝いたします。マクスウェル長官。ロクランを救うためならご協力は惜しみませんわ」
アスターシャは花の顔《かんばせ》で、貴族の娘らしく笑顔で一礼を返した。
「それとお願いがありますの」
「なにか?」
「こちらの」
アスターシャはベゼルを振り返り、
「この子はわたくしの小姓ですの。別室ではなく、同室でお願いしたいのですが」
ベゼルは心の中で「小姓って少年のことだろ」と思いつつも、軽く頭を下げて見せた。
「それはもちろんご随意に。少し大きめの部屋を用意させましょう」
マクスウェルは吐き気のするような笑顔でそう答えた。アスターシャは華麗にお辞儀をしながら、ベゼルに向かって顔をしかめながら舌を出した。ベゼルは小さくため息をついて応酬した。
「さて、お次は君の番かな。セテ・トスキ特使、休職中にもかかわらず、我が軍の撤退に協力してくれたことを感謝する。本日をもって復帰と見なし、今後の沙汰については追って通達するものとする。君も官舎でゆっくりと休むがいい」
「はっ。ありがとうございます」
セテはマクスウェルに気取られないように心の中でしかめ面をしながら敬礼で応じた。すぐに辞令が出されず、追って通達が出されるだけというのも、ラファエラに気に入られていたことが報告されているのだろう。左遷もありえるが、ここは我慢だとセテは耐えることにした。
「さて、最後にその他のお連れの方々についてだが……」
もう一度、マクスウェル長官はセテの後ろの面々をながめる。まずジョーイに目をとめると、
「そこの、ああ、そう、君。ずいぶん調子が悪そうなので、部屋を用意させよう。とにかく、民間人でありながら我が軍に協力してくれたことに感謝の意を表したい。すぐに休まれるがいい」
「どうも」
ジョーイは生返事を返し、痛む頭をさすった。
「それからそちらのお二方」
マクスウェルはフライスとサーシェスに鋭い視線を投げかけた。
「ラインハット寺院次期大僧正候補フライス殿とサーシェス殿。部屋は同室でもかまわないかね」
ふたりが手を握り合っているのを見て、下品な言い回しでマクスウェルは言う。セテはカッとなってマクスウェルを睨みつけたが、フライスがそれを静かに制した。そして、
「賢者ヴィヴァーチェ殿にお目通りを願いたい」
フライスは力強い声でそう言った。マクスウェルがふむと鼻を鳴らす。
「フライス殿、そちらのお嬢さんは」
マクスウェルはにやりと笑い、サーシェスを値踏みするように、いや、なめるようにつま先から頭のてっぺんまでを見やる。
「私の手元の資料によれば、途中いろいろと災難に見舞われたものの、ロクランで術法を暴発させた危険な術者であることが確認されている。術法封じをせぬまま、ヴィヴァーチェ殿に会わせるわけには」
「長官!」
セテが割って入ろうとしたそのときだった。
「心配にはおよびませんわ」
鈴の鳴るような声がして、議場の扉が開いた。大昔の妖精のように透ける肌を持ち、光をまとったかのような美しい女性の姿に、セテたち一行は──いやフライスを除くセテとジョーイとベゼルだが──息を呑んだ。アスターシャが一瞬、身を固くしたことについては、一行はまったく気にも止めなかった。
「フライス殿とサーシェス殿はわたくしのお客人ですわ、マクスウェル長官。ひとまず、術者登録までの手続きを延期して、このおふたりについてはわたくしにお任せくださいませんこと?」
「ヴィヴァーチェ殿」
マクスウェルがもらしたひと言で、フライスとサーシェスの緊張は少しだけほぐれたようだった。セテは、確かレイザークが賢者ヴィヴァーチェを「婆さん」などと呼んでいた覚えがあるのだが、婆さんなどとはほど遠い、湖の精霊のような出で立ちにすっかり魅了されてしまっていた。まさかこんなに若い──おそらく見かけどおりの年齢でないことは、とがった耳が証拠のイーシュ・ラミナであることから想像に難くないが──美しい女性だとは思いもしなかった。サーシェスと同様に、イーシュ・ラミナの神がかった雰囲気が感じ取れる。
「予言ですか、あなたの」
マクスウェルは皮肉めいた、あるいは現実主義者的な言葉を投げかけるが、ヴィヴァーチェはころころと笑うと、
「予感、と呼ばれるものですのよ長官」
そう言って謎めいた微笑みを返すだけだった。それ以上の言葉はいらなかった。マクスウェルもこの美女が苦手らしい。彼はコホンと咳払いをひとつすると、
「あなたがそうまでおっしゃるのでしたら。ですが、術者を管理するのは聖救世使教会の管轄です。あなたとの会見後、必ず彼女をハドリアヌス殿に引き渡していただきたい」
「承知しておりますわ」
賢者ヴィヴァーチェはにっこりと笑った。
「ほえ〜〜すげー美人。なんか術者って美形がホントに多いよね」
ベゼルが小声でアスターシャに耳打ちした。アスターシャは無言で、美しき賢者の顔を見つめているだけだった。
「では、長官との会見はここまでですわね。さあ、どうぞこちらへ」
フライスとサーシェスは、ヴィヴァーチェに誘われるままに部屋を退出した。セテはふたりの後ろ姿を見送りながら、不確かな不安を感じ取っていた。
「では、お部屋にご案内いたしましょう。本日はこれにて」
マクスウェルは書類を閉じると、他にも用事があるのだろう、足早に議場を去っていった。
「お、俺、ちょっとあのふたりに付き添ってくる」
セテは、ヴィヴァーチェとともに議場をあとにしたフライスとサーシェスが心配になってそう言い、駆けだそうとしたのだがそのとき。
「待って!」
アスターシャがセテの腕を掴んでそれをいったん制止した。セテが振り返ると、アスターシャの顔は青ざめており、心なしか全身ががくがく震えているようだった。
「姫……?」
「あの人……」
アスターシャは震える唇でつぶやくようにそう言った。
「あの人、あたし知ってる……。いえ、正確に言えば、よく似た人を知ってる気がする……!」
「ええ〜? だいじょうぶ? お姫さん。あんな感じの術者、けっこういるんじゃないの?」
ベゼルが面倒くさそうに口を挟む。
「違うわ! 絶対間違えるもんですか!」
アスターシャが声を張り上げたので、一同顔を見合わせた。
「ネフレテリ……」
「え?」
「ネフレテリにそっくりなのよ、あのヴィヴァーチェって女。立ち居振る舞いとか仕草とか姿形とか、そんなんじゃない。雰囲気が、ロクランを占領している最高司令官、ネフレテリって少女にそっくりなの! トスキ特使、お願い、あのふたりから絶対に目を離さないで!」
アスターシャの被害妄想などではないとセテも確信していた。つい最近までヴィヴァーチェの側近を務めていたエチエンヌが、同様のことを言っていたのだ。そして、自分の感じた奇妙な不安。本能が告げている。
セテはアスターシャに頷くと、議場の扉を乱暴に押し開けて駆けだしていった。
「賢者ヴィヴァーチェ!」
セテはフライスとサーシェスを伴って歩くヴィヴァーチェの後ろ姿に声をかけた。
驚いたのはフライスとサーシェスだった。血相を変えて走ってくるセテの形相にただならぬものを感じ、ふたりは顔を見合わせることしかできなかった。当のヴィヴァーチェといえば落ち着き払った表情で、ゆっくりとセテのほうを振り返った。ぎくりとしたのはセテのほうだった。
「トスキ特使、でしたわね。わたくしはあなたも待っていたのですよ、〈光都〉に来るのをね」
そう言われたセテは身を固くした。どこまで、なにを知っているのか、賢者のエメラルドグリーンの瞳の奥底に隠されているなにかが、自分の中の不安をかきたてる。
「過去をお望みなのでしょう。過去と未来は同義なのですよ。それをこれからあなた方にお見せしましょう」
にっこりと笑うヴィヴァーチェに、不穏な表情は見受けられない。フライスもサーシェスも、心底ヴィヴァーチェを頼りにしているようだった。だが、セテは違う。なにか恐ろしいことが起こるような、いやな予感を全身で感じ取っていた。
レイザークは、聖救世使教会内部に設置されたふかふかのソファに座り、腕組みをしたまま仏頂面で対面に座る人物を眺めていた。白いローブの裾に金糸の刺繍の入った、祭司長を意味する装束を着た人物は、先ほどから紅茶の香りを楽しむばかりで何も言わない。ローブのフードは目深にかぶせられ、顔の半分が見えない。聖騎士団を束ねる聖救世使教会の長、祭司長ハドリアヌスがその相手であった。
「何か言ったらどうだ。約束どおり、セテのやつをここまで連れてきてやったんだ」
レイザークはいらだたしげにハドリアヌスに言葉をつきつける。ローブから見える口元だけが、ニヤリと薄笑いを浮かべた。
「ご苦労。君がいなければ、彼はここまでたどり着くこともなかったろう」
「そりゃそうだ。あいつは中央特使だ。俺たちみたいにあんたにかしづく義理はない」
「いや、そうでなくても、いずれ彼はここに来ていたのかも」
「あんたの問答に付き合っているヒマはない。それに、これはあんたの特命でやったことじゃない。成り行きもあるがやつの剣に惚れてやつを引き入れた俺の意志でもある」
「親心……もしくは、弟のようなもの……そんな感情が芽生えたからとでも? それとも十七年前の事件の罪滅ぼしのつもりか」
ハドリアヌスの言葉に、レイザークはいったん口をつぐむ。ハドリアヌスは不気味に笑い声をたてた。
「そろそろ、あの坊やが真実を知るのもいいのではないかとも思うがね」
「貴様……!」
レイザークはいらだちを隠せないまま呻いた。
「レオンハルトに執心していたかと思っていたら、今度はセテか。あいつに何を求めてる。何をやらせようとしてる」
「何も」
ハドリアヌスは紅茶を一口含み、カップとソーサーをテーブルに戻した。
「あいつに……すべてを話すつもりか……! そんなことをしてあいつを壊すつもりか。それこそダノルの二の舞だぞ。あいつは、この俺が証明するほどの狂戦士《ベルセルク》だ、中央に反旗を翻したとしたら、真っ先にやられるのはあんただろうよ」
「それも悪くはない」
ハドリアヌスがくぐもった笑い声をたてた。
「私がやらなくとも、ヴィヴァーチェがそう導いてくれるのではないかね」
ハドリアヌスが中空を片手でなぎ払うと、何もない空間に突如として〈スクリーン〉が現れた。そこには、フライスとサーシェスの後ろから、腑に落ちない表情で歩くセテの姿があった。もちろん先導しているのはヴィヴァーチェだ。
「くそ! あんた、どうやってあの隠遁者に入れ知恵しやがった。あの賢者はいままでこうしたいざこざを避けていたはずだ」
「入れ知恵とは……心外だな。私と彼女とは、まったく正反対のことを望んでいる。壊すのは彼女の役割だ。私は、あの青年が手元にいればそれでいい。レオンハルトの残した唯一の遺産だからな」
「けたくそ悪い。あんたの悪趣味には付き合ってられん。とにかく、俺は約束を果たした。それで終わりだ。二度と俺に表舞台に立つようなマネをさせるな。ただ、あの賢者が婆さんでないことが分かっただけでもよしとしてやる」
レイザークはそう言い捨てると、わざと乱暴に甲冑を鳴らして立ち上がり、部屋をあとにしようとした。その後ろから、ハドリアヌスが思い出したように声をかける。
「君に頼まれていたグレイブバリーの地図だがね、明日には渡せる手はずになっている。ヴィヴァーチェの入れ知恵で、マクスウェルが過去の兵器の封印を解呪しようと画策しているからね。君たちのことだ。すでにラファエラからその情報は受け取っていると思うが」
レイザークはハドリアヌスを振り返り、睨みつけた。
「そう怖い顔をされても……ね。封印解呪を装って、私の配下にある術者たちを派遣して積層型立体魔法陣の再構築を進めている。簡単には解けまい。あの女が〈光都〉のフレイムタイラントの要石をねらっているのはあきらかだ。これで相殺と言うことでよいだろう? 貸し借りはなしだ」
レイザークは不愉快そうに鼻を鳴らし、乱暴に扉を閉めた。廊下にガシャガシャと甲冑の音が響き渡る。それが聞こえなくなったころ、ハドリアヌスは再びくぐもった笑い声をあげた。
「壊す……ね。そんなことは簡単だ。だが、あの勘の良い青年のことだ。彼自身が感じているはずだ。ここ〈光都〉から離れてはいけないのだと。ここにこそ真実が隠されているのだと……ね」
そうひとりごちで、ハドリアヌスはもう一度紅茶の香りを堪能し、その濃厚な味わいを舌の上で楽しむことにしたようだった。
セテとサーシェス、フライスの三人は、ヴィヴァーチェに先導されて中央官庁が建ち並ぶ区画を抜け、小さな神殿のような場所にたどり着いた。
〈光都〉オレリア・ルアーノは、中央官庁や翡翠の大聖堂として知られる聖救世使教会などの建造物の後ろに、グレイブバリーと呼ばれる瓦礫の山が存在している。汎大陸戦争当時にここに存在した街の残骸なのだそうだ。建造物の鋼鉄の支柱がぐにゃりと飴のようにひしゃげていたり、相当の高さを誇っていたであろう建物は、高層部分をなぎ払われ、あるいはそのために土台から崩壊したまま、二百年も前の姿をさらしていた。まさに墓場だ。
こうした瓦礫の山と最新設備の建造物が同居する、不思議な空間が〈光都〉の特徴でもあった。
「驚きましたか? 〈光都〉を訪れる人々はみな、前面の近代建造物とその後ろに広がるグレイブバリーとが同居する様に、違和感を覚えたり、あるいは感嘆するのですよ」
女賢者ヴィヴァーチェの美しい声が響く。栗色の長い髪は賢者らしくまとめられていたが、その後れ毛や少しだけたらした髪の房はとても柔らかそうなのが分かる。
「なぜ、このような形で廃墟を残しておくのですか」
フライスが文書館長らしき口調で尋ねる。
「過去を忘れないように、そして、未来に警鐘を与えるために」
ヴィヴァーチェは意味ありげな微笑みをたたえ、フライスにそう答えた。もっともな答えではある。二百年前の大戦の悲惨さを、未来に伝えていくのは重要なことだ。
「さあ、こちらへ」
ヴィヴァーチェは神殿の正面まで来ると、貴族のような仕草で三人に階段を上り、入り口に入るよう促した。
小さくはあったが、内部は神殿らしい荘厳な雰囲気に包まれていた。奥の間までたどり着くまでの廊下には、両側に点々とロウソクの明かりが灯されており、それがときおり揺らめくことでわずかな空気の揺れ、三人の客人の気配を運ぶ。最奥には、ヴィヴァーチェが座るであろう台座と、緑色に輝きを放つ水晶球、そして天井は一面黒に塗りつぶされてはいるが、世界中の星を集めたかのようなプラネタリウムになっているようだった。星見の間といっても過言ではない。
ヴィヴァーチェは三人を台座の前まで連れてくると、優雅な仕草で台座に座り、水晶球を膝の上に載せた。ヴィヴァーチェの手が触れると、水晶球は強い光を放って明滅し始めた。
「さて。あなた方が知りたいのは、過去? それとも未来?」
ヴィヴァーチェが尋ねる。フライスはぐっと拳を握りしめた。
「過去よりも現在、そして未来へと続いていくほうが重要だと私は思っている。だが」
そこでフライスはいったん言葉を句切る。サーシェスの手をしっかりと握りしめて。
「彼女の……サーシェスの過去を。そして、〈アヴァターラ〉の分裂を防ぐ方法を知りたい」
サーシェスの体がぴくりと震えた。やはり恐ろしいのだろう。暴かれる自分の過去。知りたいと願っていたものの、もしかしたら知らないほうがよかったと思うこともあるかもしれない。
「よろしいでしょう」
ヴィヴァーチェは瞳を閉じたまま水晶球をなで回した。セテの体も緊張にこわばる。
「〈アヴァターラ〉の分裂を防ぐ方法は……ありません」
「な……っ!?」
「偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の純血種は、元来そのようにして生き延びてきたのですから。そして彼女の場合は」
ヴィヴァーチェはサーシェスを見やると、
「サーシェス。私を覚えておいでですか?」
「え……!?」
「そう、覚えていないのは当然のことです。なぜなら彼女は、彼女自身で忘れたい過去を〈アヴァターラ〉に封印しているのですから」
フライスはサーシェスの体を引き寄せ、その震える肩を抱きしめた。
「彼女が過去を思い出したくないように、フライス殿、あなたにもおありのはず。忘れたくとも忘れられない過去の記憶が」
フライスは唇をかみ、後ろに立っているセテを振り返った。セテのいる前で知られたくない、絶対に暴かれてはいけない過去を思い返しているに違いなかった。
「……なんのつもりだ、賢者ヴィヴァーチェ、私は……!」
怒気を含んだ押し殺した声で、フライスは呻いた。
「フライス殿。こちらへ。あなたの過去は未来へと続いている。あなた自身が望むことでもありましょう」
ヴィヴァーチェは膝の上の水晶球を差し出し、フライスに見るように促しているようだった。フライスはヴィヴァーチェの失礼な物言いにずいぶんと憤っていたようで、聞こえるか聞こえないかくらいに舌打ちをしてみせた。だが、誘われている以上、拒む理由はない。
フライスは台座に近寄り、その水晶球に手を伸ばした。水晶球ははじめ明滅をしていたが、フライスが手を触れると、それは一転して黒い闇の色に変化した。
「何が見えますか。フライス殿」
「……何も……」
「それはあなたが見たくないと思っているからでしょう。精神を集中し、この水晶球を自分だと思って自身を見つめ直すのです」
突如、水晶球が強い光を放ったので、セテとサーシェスは一瞬目を覆った。そのとき、かすかではあったが少年が泣いているような声が聞こえてきた。
──やめてお母さん、僕を殺さないで──!
「うあっ!!」
再び閃光がきらめく。フライスが呻き、がっくりと膝をついた。
「フライス!」
セテとサーシェスは同時にその名を呼び、駆け寄ろうとしたが、台座の周囲に結界が張り巡らせており、二人の行く手を阻んだ。
「おい、待てよ! あんた、いったいなんのつもりだ!」
セテは腰の飛影《とびかげ》に手を掛け、叫んだ。
フライスは膝をついた姿勢のままだった。全身の力が抜けていくのを感じながらも、なんとか抵抗して立ち上がろうと必死にあがいているようだったが、意に反して体が動かない。
「わたくしは、この方にあるべき姿をお教えしようとしているだけです。そう、『すべてが終わり、すべてが始まった場所』、あなたの過去は、そこへ行くために紡がれてきたのです」
フライスの目が見開かれた。聞き覚えのある言葉だった。そして、それはフライスにとって予言ではなく、呪いの言葉にも等しかった。
「貴様……まさか……」
フライスは全身の力をこめてヴィヴァーチェの顔を睨みつけた。ヴィヴァーチェは意味ありげに微笑んだ。
「さあ、ゆくがいいでしょう。あなたのあるべき場所へ」
ヴィヴァーチェがそう言い終わるか終わらないうちに、フライスの姿が揺らめいた。見れば、フライスの周囲に転移の魔法陣が描かれていた。魔法陣は強烈な光を放つと、フライスの全身を包み込む。
「フライス!」
サーシェスは何度も拳で見えない結界をたたきつける。そうこうしているうちに、フライスの姿は霞のように消え去っていた。
「ちくしょう! あんたフライスに何をしやがった!!」
セテは飛影を抜いて斬りかかろうとする。もちろん、刃はヴィヴァーチェに届くことはなく、結界にはじき返されてしまう。
「サーシェス! 逃げるんだ! 早く!」
サーシェスはフライスの消えた台座を呆然と見つめていたが、セテに促され、腕を引っ張られながらも背を向けた。ヴィヴァーチェは意味ありげな微笑みを浮かべたまま、ふたりを見つめている。
走り出したふたりを、今度は後方の結界が阻んだ。セテは結界にたたきつけられ、サーシェスの腕を放してしまう。派手に転び、すぐさま体勢を起こしてサーシェスの手を取ろうとしたが、すでにサーシェスはヴィヴァーチェの緑色の結界に包まれていた。
「サーシェス! くそっ! サーシェス!」
「セテ! セテ!」
サーシェスの体がゆっくりと中空に舞う。
「サーシェス。救世主の名を持つ少女よ。そなたの過去、そなたの未来、それを知りたくば己でかけた暗示を解いて本来の姿を取り戻せばよい」
「なに言ってるの!? ネフレテリみたいな意味不明なこと言わないでよ!」
そこでサーシェスは気づく。この女賢者が、いったい何者なのかを。
「きゃああああ……っ!!!」
サーシェスが突然悲鳴を上げた。中空でヴィヴァーチェの結界に囚われたまま、頭を抱え、子どものようにうずくまっている。苦しいのか、それとも痛みを伴うものか。
「畜生! サーシェスに何をしやが……!」
セテが叫んだ瞬間、宙に浮かんでいたサーシェスの体が白く光を放つ。それは彼女自身を覆いつくすと、サーシェスの体が溶けていく。
いや、溶けていくというのは正確ではない。縮んでいるのだ。十八くらいの少女の体から、徐々に、ゆっくりと。
「サーシェ……!」
セテは剣を構えたままだったが、その信じられない光景になすすべもなかった。
やがてサーシェスの体は、小さな子どものような姿に変わっていた。年齢をさかのぼる、そんな術法があるなんて。セテは目の前の光景を悪夢の続きかと思い、体を震わせた。
ふいにヴィヴァーチェの戒めが解け、子どもの姿をしたサーシェスの体は支えを失い、自由落下を始める。セテは飛影を投げ捨て、サーシェスの落下地点とおぼしき場所まで滑り込む。間一髪、サーシェスの体は滑り込みに成功したセテの腕にしっかりと抱き留められていた。
サーシェスは気を失っている。いや、彼女の姿はいま、セテが知る少女の姿ではない。面影は残っているものの、銀色に輝く長い髪はおかっぱに切りそろえられ、着ていた服はぶかぶか、まさに七、八歳の幼い子どもの姿だ。
「サーシェス! サーシェス!」
セテが呼ぶが、サーシェスの姿をした幼女は答えない。意識があるのかないのか、苦しげな表情で眉をひそめ、額には脂汗がにじんでいた。
「畜生……あんた、いったい何が目的でこんなことしやがるんだ」
セテはサーシェスを抱いたまま、ヴィヴァーチェを睨みつけた。ヴィヴァーチェは表情を崩すことなく、ゆっくりと台座から立ち上がった。
「なるほど。彼女自身が本当に望んでいたのは、その姿だということですね」
「答えになってない! 戻せよ! 早く! フライスも、サーシェスも!」
「儀式はまだ終わっていませんよ、セテ・トスキ、いえ、〈青き若獅子〉」
呼ばれて、セテは身を固くする。なぜこの女がその名を知っているのか、いい知れない恐怖が体を支配して動けない。
「あなたの失われた過去、それを未来に役立てるときが来たのです」
ヴィヴァーチェは邪悪な微笑みを浮かべ、セテを見下ろした。突きつけられた指先に、セテの体はもう完全に動けなくなっていた。
フライスが目を覚ましたのは、木枯らしによる寒さからくるものではなかった。どこか遠くでサーシェスが自分を呼んでいるような、そんな気がしたからだった。
「う……っ!」
頭が痛む。しばしの間、頭痛に歯を食いしばっていたが、直前まで自分がなにをしてたのかを思い出すのにそう時間はかからなかった。
「サーシェス!?」
フライスは立ち上がり、周りを見回した。そこにはサーシェスとセテはおろか、ヴィヴァーチェの姿も見えない。
自分のローブに泥がついていたのでパタパタと払うのだが、わずかに焦げ臭いようなにおいを感じる。ただの土にしては、黒すぎるのだ。
それからフライスはできるだけ落ち着いて辺りを見回す。崩壊した建造物が建ち並び、その少し後ろに王宮のようなものが見えるのだが、それもまた無惨に倒壊した姿をさらしている。
地面はといえば、まるで焦土だ。黒い泥土が広がり、ところどころに瓦礫の山が埋もれている。
「グレイブバリーか……?」
いや、〈光都〉でないことは確かだ。ヴィヴァーチェの強制転移でどこへ飛ばされたのかは検討がつかなかったが、オレリア・ルアーノでないことだけは確信を持っていえる。
「どこなんだ……ここは……」
「『すべてが終わり、すべてが始まった場所』……だ」
背後から聞こえた透き通るような女の声に、フライスははじかれるように振り返った。そして、驚愕のあまりに目を見開く。盲いた目ではなんの意味もないと分かっていても。
黒い装束を身にまとい、長い黒髪が風に舞う。彫りの深い顔立ちの半分は黒髪に覆われており、もう半分からエメラルドグリーンの瞳がじっとフライスを見つめていた。
「私はいつでもここで待つと、伝えたはずだ」
火焔帝ガートルードその人であった。
フライスは驚嘆していることを隠すため、前髪をかきあげて余裕のあるそぶりを見せたつもりだった。それからひとつため息をつくと、
「ずいぶん手の込んだマネをするものだな。あの女は貴様の配下だったのか。まんまと騙された」
フライスはすばやく印を結び、攻撃呪文の詠唱に入ろうとする。それを制したのはガートルードだ。
「私はお前と戦うつもりはない。もっとも、お前の力ではいまの私に勝てるわけもないが」
「それはどうかな」
フライスは高速呪文を展開し、攻撃術法を繰り出した。フライスの得意とする水属性最上級呪文だった。氷の刃が吹雪とまみれ、ガートルードを容赦なく切り裂こうとする。
「無駄だ」
ガートルードは軽く指を鳴らした。即座に彼女の周りに炎の障壁が構築され、その暗黒の炎がフライスの氷の刃をはじき飛ばし、蒸発させる。
「戦うつもりはないと言ったはず。お前に、あるべき未来を、本当の真実をさずけにきただけだ。この、焦土と化したアートハルクで」
「アートハルク……!」
──すべてが終わり、すべてが始まった場所──
それは誰のためになにが終わり、始まったのか。フライスはガートルードを睨みつけたままだったが。
「知りたくはないのか。なんのために自分が生まれ、なんのために生きているのか」
ガートルードは少し小馬鹿にしたような口調でそう言った。その言葉には術法でもかけられているのか、なぜかフライスの心に鋭く突き刺さり、拒むことは許されないことをフライスに実感させた。