第十五話:記憶の重さ

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 アスターシャ・レネ・ロクラン王女が光都オレリア・ルアーノに無事保護されたというニュースは、エルメネス大陸を瞬く間に広まった。中央評議会によってすぐさまアスターシャ王女の緊急記者会見が開かれ、大勢の記者たちが駆けつけたのだった。
 アスターシャはロクランが占領されたいきさつ、あの忌まわしい二百年祭の喧噪に紛れ、徐々にアートハルク帝国やその傀儡国家からなる多国籍軍が国内に侵入していたこと、水の巫女に扮したガートルードがいかにロクラン占領を可能にしたか、そして占領後、自分たち王族や閣僚たち、街の様子がどうだったかを克明に解説した。
 途中、ロクランをどのように自分が脱出しおおせたかは慎重に、地下の巨大な研究室の門《ゲート》をくぐってきたことは詳細には言及せず、また、祖国を見捨てたのではという手厳しい記者の質問については少々気分を害したようだったが、とにかく光都へたどり着いて援軍を要請することを最優先したと強調した。
 続いて先般の、ラファエラ率いる中央の軍がロクラン解放に向かった際に起きたできごとを、中央評議会議長であるアドニス・ベナワンが解説した。原因不明である天からの雷《いかずち》については目下、中央特務執行庁にて調査中であるが、アートハルクの新兵器かもしれないことを示唆し、これまでアートハルクに対して同情的だった記者たちに、敵も味方もなぎはらう無差別的な虐殺兵器を投入してきたアートハルクの冷徹さをことさらに強調したのだった。
 世論はさらに割れた。もともとアートハルクに同情的な者、中央への絶対的な信頼を持っている者、アートハルクには同情するが、ロクランに対しても同じように同情する者、中央が秘密裏に軍を派遣して多くの死傷者を出したことに憤る者、十人十色よろしく、それぞれの新聞がそれぞれの思想に基づき、翌日の新聞はたいへん賑やかなことになっていたものだった。
 記者会見が終わり部屋に戻ったアスターシャは、とにかく信じられないくらいに腹をたて、小姓がわりのベゼルに八つ当たりばかりしている。いよいよベゼルが泣きついてきたので、仕方なくレイザークが間に入り、彼女の機嫌を取らなければならなかった。
「あんな記者会見! なんの役に立つっていうの!? あれでロクランが解放されるわけないじゃない! とんだ見せ物になった気分よ!」
 アスターシャは相手がレイザークに代わったところで口調を改めるわけでもなく、アスターシャのために用意された高価な羽根枕をベッドの支柱にたたきつけながらそう言った。
「とはいえ、いますぐに兵を挙げるのも不可能ですよ、姫。なんせ、義姉さんがあんな状態だし、いつなんどき〈裁きの光〉が狙い打ちにしてくるか分からない状態ではね」
 レイザークは肩をすくめながらそう言うのだが、王女はまだ気が治まらないようだった。
「ではあなたがた聖騎士団が出撃なさればよろしいんじゃなくて!? ハドリアヌス様はそんなに出し惜しみをなさる方なのかしら!?」
「光都の守りがなくなったんじゃどうにもならんでしょう」
「聖騎士団は魔法剣士の集団でしょう!? あなたの義姉上は気の毒だと思いますけど、聖騎士団が出ればもっと効率よくできたのじゃなくて?」
「聖騎士といえども、同じ人間ですよ。あんなのに狙い打ちされたら一発だ。それに、ほかのアートハルクの残党どもが神出鬼没である以上、むやみに兵を動かすことはできない。いまロクランでの暴動を大きくして反撃できるよう、我々の同士がかけずり回っているんです。そこへ余計な手出しをするのも賢いやり方ではない」
 レイザークの物言いに、アスターシャは憤慨したように鼻を鳴らした。レイザークは何か言いたそうな顔をしているアスターシャを制して、
「姫、戦は我々の専門ですよ。あなたは、ご自身の国を憂いているだけで何もする必要はないし、必要なときに中央評議会の声明とともに和平なりなんなりの切り札になっていただくことはご承知のはず」
「ええ、ご承知のはずですわ。私は戦力外、ロクランのことも、サーシェスのことも、フライス様のことも、全部全部、あなたがた専門家とやらにまかせておけばよいのでしょう」
「姫」
 レイザークが困ったようにため息をつきながらそう言ったので、アスターシャは羽根枕をベッドに放り投げた。
「……わかってるわ。私は何もできないのよ。だからイライラするの。ネフレテリがいなくなったとて、またアートハルクは新しい兵士たちを送り込んでくるでしょう。要石《かなめいし》の場所を探るために。彼らは神出鬼没とおっしゃったわよね。新しい軍隊が門《ゲート》を通ってロクランへ到着したら、どうなさるおつもり?」
「ロクランは人質のようなものです。アジェンタスの要石を解放してあれだけの損害を与えたことを世間に知らしめただけで十分、ロクランの要石は最後の最後になるでしょう。次に危なくなるとすれば、ここ光都です。世界最大の要石があるといわれていますからね」
 アスターシャは息を呑んだ。
「だから、光都の守りは最優先事項なんですよ。おわかりですか? 王女様」
 レイザークは最後、おどけたように一礼をする。アスターシャは再び憤慨したように鼻を鳴らすのだが、観念したようにベッドに腰掛けた。
「わかった。わかりました! そのへんはあなたがた専門家にお任せするわ。ただ……」
「ただ?」
「サーシェスに……会わせてもらえないのかしら」
 アスターシャ王女は、寂しげな表情を顔に浮かべ、それを見られたくないのかうつむいたままレイザークにそう言った。勝ち気な王女が唯一最初に心を許した同性の友人サーシェス。その彼女が救世主であったことや、アスターシャの知るサーシェスの姿でないこと、そして中身までもが変わってしまったことに、ひどく心を痛めているようだった。それは、アスターシャ以外の人間も例外ではなかった。
「……わかりました。聖救世使教会に掛け合ってみましょう。ただし、あまり期待しないでいただきたい」
 レイザークはそう言い残すと王女の部屋を後にした。





 サーシェスへの面会は、意外なことにすんなりと通った。レイザークがすぐに管轄である聖救世使教会に掛け合ってくれたおかげだろう。ただし、時間が限られているうえ、面会できるのはアスターシャとセテのふたりだけに制限された。
 アスターシャはいつものドレス姿であったが、セテは特使の制服を脱ぎ、私服でサーシェスに面会することにした。私服で会いに行く──。なんだかピアージュのときのことを思い出す。あのときはこれほど重い気持ちにならずにいたような気がするのに。セテはそう思った。
 聖救世使教会は翡翠の大聖堂が見ものではあるのだが、中は迷路のような構造になっており、セテたちふたりは先に歩く使者なしでは帰れないとうんざりするのだった。いくつかの回廊を抜け階段をあがり、また回廊を抜けというのを何度も繰り返すうち、ふたりは息が上がるのを我慢できなくなっていたが、先頭を歩く使者は慣れたものなのだろう、息も切らせずに客人を案内し続ける。
 到着したのは、一面が白で塗りつぶされた階であった。大聖堂の雰囲気はなく、入った瞬間にセテはぴりぴりとする気配を感じた。おそらく術法封じのなにかしらの仕掛けが、あちこちに張り巡らされているのだろう。無機質な廊下に天井、そして閉ざされた扉までが白い。鉄格子のはまった牢獄を思い描いていたが、ここはまるで病院のようだとセテは思った。
「こちらへどうぞ」
 使者が扉を開け、ふたりを中へ誘った。部屋の中も確かに真っ白であった。ベッドと簡素な机と椅子。幼い姿のままのサーシェスはその椅子に腰掛けていた。病院と違うのは、目に見えない何かの障壁が数メートル離れた椅子に腰掛けているサーシェスと、セテたちを隔てていること、そしてこちら側には監視役なのか記録係なのか、これまた簡素な小さな机と椅子に腰掛けている人間がいることだ。
「ちょっと」
 アスターシャは脇に控えている監視役の男に、腕組みをして横柄な声をかけた。監視役の男は驚いた様子で王女を見やる。
「あなた、そこにいてなにするつもり?」
「え? あ、いや、自分は会話の記録と監視を仰せつかっておりまして」
「はぁ!? 会話の記録と監視ですって!? ロクラン王女のこの私が面会をするというのに!?」
 アスターシャは声を荒げ、まだ若いであろう監視役の男にまくしたてる。
「いや、あの、その、決まりでして……」
「決まりもクソも、王女が面会にきてるのよ。脱走の手はずを整えてきたわけでもないし、脱走の計画を話すわけでもない、とても個人的な話にきてるのよ私は」
「とおっしゃいましても、私は規則に従って……」
「だから、席をはずせって言ってるの! わかんない!? 王女の個人的な会話を盗み聞きするなんて、とんでもない男ね。いいわ、個人情報を漏洩するのはいかがなものだってことで、中央評議会にかけあってやるわ。あなた、名前なんていうの? ああ、名札があるわね、覚えたわ。あなたのことも報告させていただきますから」
「あ、あ、あ、わかりました。席をはずしますとも! その代わり、時間がきたらちゃんと私を呼んでくださいね!」
 アスターシャのとんでもない言いがかりに、哀れ監視役の若者は席を立ち、廊下の外に飛び出していった。アスターシャのしてやったりという顔を見て、セテが大きなため息をついた。
「アスターシャ王女……」
 力ない声で、サーシェスがアスターシャを呼ぶ。おそらく術法封じの障壁があるからなのだろう。アスターシャは障壁のぎりぎりのところまで近寄り、サーシェスに手を差し伸べた。サーシェスも同様に手を差し出し、見えない壁ごしに互いの手を重ね合わせた。
「サーシェス……ごめん……、あなたが救世主《メシア》だって言われても、よくわかんないし態度を変えるつもりもない。だからそう呼ばせて」
「ありがとう、アスターシャ王女。面会に来てくれて本当にうれしい」
「その、アスターシャ王女っての、やめて、お願いだから。アスターシャでいいから」
「アスターシャ……。ありがとう。サーシェスの……私の最初の友人。私もうれしかった。あなたの知るサーシェスも、きっと今喜んでいるはず」
 サーシェスがそう言ったので、アスターシャは顔を曇らせた。
「やっぱり……あなたは私の知るサーシェスじゃなくなっちゃったのね……。同じ名前、同じ銀色の髪、同じ瞳の色なのに、私の知るサーシェスよりずっと強く見えるもの……」
 サーシェスはその言葉にうつむいた。あわててアスターシャが言葉を探す。
「ご、ごめん! 別にいまのあなたを否定するわけじゃないの! ただ、その、慣れないっていうか……」
「みんな思っていることだと思うから……気にしなくてもいい」
「サーシェス、ごめん。本当になんて言っていいのか分からない……! どうやってあなたの力になってあげればいいか分からない! ねえ、本当にレザレアの事件はあなたが関与してるの? 本当に術法を暴発させて、あんなことに!?」
 あんなことというのはもちろん、レザレアの街そのものを術法の暴発で消失させてしまったことだ。だが、アスターシャはそこまで言及するつもりはないようだった。サーシェスは考えているのか、それとも言葉を選んでいるのかしばし目を伏せ、それから静かに答える。
「……そう……。私のせいだ。この姿をした私を、ガートルードは自分の元へ引き入れようとした。私は拒み、その結果があの事件だ」
「それは正当防衛よ! だって、セテの話では」
「違う! これは私が引き起こしたことだ。そして、もうひとりのサーシェスも、何度か術法の暴発で人を巻き添えにしている。大僧正リムトダールの件だって、アスターシャ、あなたは知っているはずだ」
 厳しい口調でぴしゃりと言われ、アスターシャはうつむいた。しばらくそうしたあと、アスターシャは顔を手で覆い、涙が出てきたのを隠そうとするのだが、それは次第に嗚咽になっていく。たまらず、アスターシャは部屋の外に駆け出した。驚いた監視役の若者が部屋を覗くのだが、アスターシャが泣いているのでなぐさめようかどうしようか迷っているようで、おまけに時間もまだあるのだろう、こちらに再び足を踏み入れるようなことはしなかった。
 セテはサーシェスと無言で向き合っていた。やはり自分もかける言葉を知らない。セテはそう思いながら、サーシェスを見つめているだけだった。
「セテ」
 最初に口を開いたのはサーシェスのほうだった。
「面会にきてくれてありがとう。私服、か。最近特使の制服ばかり見ていたから、ロクランで剣の稽古をしていたときに戻ったみたいな気がする」
 サーシェスがそう言った。ピアージュとは反対の言葉だ。あの赤毛の少女は、セテがアジェンタスや特使の制服を着ていたことしか知らなかったので、私服をたいそう珍しがっていた。
「でも、セテも自分の知るサーシェスでなくて落胆しているのだろう?」
 サーシェスは目を細めながらそう言い、セテを見上げた。
「お、俺は……そんなことは……」
「いい。分かってる。これが私たち偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の宿命だから」
 サーシェスは寂しそうに微笑んだ。
「宿命って……俺はそういう言葉はあまり好きじゃない……でも……」
「セテらしい言い方だね。確かに私も好きではない。都合の悪いことを忘れてしまって、違う人格を作り上げて生きていくこと。いろんな人に、いろんな思い出、いろんな風景、そういったものをどんどん忘れていってしまうこと。その呪縛から離れることができない。特に私は……純血種でイーシュ・ラミナの始祖だから」
 悲しそうに微笑むサーシェス。だが、セテはサーシェスの言葉で聞きたいことがあふれてきた。
「聞きたいことがあるんだ……その、宿命とやらも含めて」
「……なんでも」
 サーシェスは悲しそうな表情を消したつもりだったが、セテに言葉を促す仕草に寂しさがあふれている。
「その……〈青き若獅子〉とか……いま言ってた……始祖だとか……イーシュ・ラミナって、神々の子孫じゃ……」
「ああ……」
 サーシェスはさして驚きもせずに頷いた。
「そうだな、どこから話せばいいか……〈青き若獅子〉っていうのは言葉遊びのようなもので……。私の……そうなんて言えばいいかな、母、みたいなものだった人の名前」
 少しだけ、サーシェスは遠くを見つめるようなそぶりを見せてそう言った。
「母親……みたいな人?」
「そう。厳密に言うと、私を作った人の名前。レオーネ・シエロって人」
「作った? えっと、その……産んだってこと……かな?」
「イーシュ・ラミナは神々の子孫なんてたいそうなものではない。ただ人の腹から生まれていないというだけ。レオーネ・シエロ博士という女性生物学者が……」
「えっと、ちょっと待って。ごめん。言ってることが分からない」
「……分からない……か……。うん。そうかもね。分からない……と思う。知らなくていいことかもしれない」
 サーシェスは困ったような顔をして、それからひとり納得したように頷いた。
「〈青き若獅子〉って、その人の名前というか愛称というか二つ名というか……そんな感じ。私がもっとも必要だと感じた人のこと。その人は最初に私にいろいろなことを教えてくれた。あの人がいなかったら、たぶん私は生きてない。もういない人だけど彼女のことだけは忘れない。だから、私が選ぶ。私を支える役目の人間として」
 憧憬と懐かしさのあふれるグリーンの瞳がセテをとらえた。先ほどまで母を求める子どものような口調だったが、最後の言葉だけは力強かった。
「俺を選んだのは……どうして? どうしてレオンハルトじゃだめだったの?」
「どうしてそこでレオンハルトの名前が出てくる?」
 意外そうなサーシェスの言葉にセテは目を丸くする。
「えっと……だって聖騎士の始祖だったわけだし、エクスカリバーの持ち主でもあるし、その……相思相愛だって……」
「なるほど」
 大人びた口調で、サーシェスは頷き、わけありな表情でセテを見やった。
「レオンハルトは……私にとっては息子のようなもの……とでも言えば納得するか?」
 セテの身体がびくりと跳ねた。まさか救世主本人の口から、そんな言葉が出てくるとは夢にも思わなかったのだ。
 レオンハルトは失われた救世主の魂の復活を二百年も待っていたはずなのに。それではレオンハルトの片思いでしかなかったのだろうか。そんなのはあまりにも悲しすぎる。
「レオンハルトの魂を受け継いだセテのことだから、いろいろ考えてるのが分かる。術法は遮断されてるけど。レオンハルトに術法や剣を教えたのは私だ。だって最初は本当に何もできない若造だったから」
 いたずらっぽい口調かと思い、セテは顔を上げるが、その実サーシェスの表情はかたくなだった。
「だから強くなってほしかった。レオンハルトは確かに私の半身だった。私は、これまで生きてきた中で必ず自分の半身である〈青き若獅子〉を探してた。そしてレオンハルトも私を支える半身でありたいと望んでいたし、事実、私を支えてくれた。愛してもくれた。ただ……」
 そこでいったんサーシェスが言葉を区切り、自虐的に、いや、自嘲するように微笑んだ。
「レオンハルトは……欲張り過ぎだった。常に誰かの半身でありたがった。妹であるガートルードの半身、仲間たちの半身、そして……セテ。あなたに自分の魂を分け与えたように、自分を捨ててまで誰かに必要とされていたい。そういうところが……彼らしいところでもあるけれども、私には辛かった」
 サーシェスは遠い思い出とともに、いま集中治療を受けているレオンハルトのことを思いやっているのだろう。そして、愛しているのだ、彼を。救世主としてではなく、サーシェスというひとりの女性として。それがどんな形であれ、レオンハルトとサーシェスは互いに愛し合っていたのだろう。胸が熱くなるのは、レオンハルトに分け与えられた魂のせいではないのだとセテは思った。
「どうしてセテを選んだか。それは理想的な半身だったから。レオンハルトは私の半身であり、あなたはレオンハルトの半身、そして、サーシェスの、ロクランにいた頃の私の半身。レオンハルトがあなたに命の半分を受け渡すことは最初から知っていた。あなたが浮遊大陸にくることも知っていた。だからあなたを選んだ。これじゃ理由にならない?」
 サーシェスはグリーンの瞳でセテの顔を覗き込むように見つめた。幼いながらもセテはその整った顔立ちにロクランにいた頃のサーシェスを思い浮かべ、思わず息を呑む。イーシュ・ラミナとは、救世主とは、本当になんと美しいのだろうと改めて思った。だが、気になることはまだ残されている。セテは顎を引き締めた。
「知ってた……って……どういうことなんだ……? ヴィヴァーチェ、あ、いや、ネフレテリに取り憑かれてたグウェンフィヴァハも同じようなことを言っていた。過去と未来がどうのって……。それは、預言なのか?」
「それは」
 サーシェスが口を開いたそのとき、監視役の若者が扉を開けて入ってきた。無粋に「時間です、お引き取りを」と言うのでセテは仕方なく引き下がろうとするが、最後にこれだけは聞きたいとサーシェスに向き直った。
「サーシェス、これから君はどうなるんだ? 俺はどうすればいい?」
 サーシェスは驚いたような顔をしたが、すぐに微笑み返した。
「何も。何もしなくていい。おそらく私は記憶調整されるだろう。そのときには、もうセテの顔も思い出せなくなる。私ももう、過去をいちいち思い悩むことがなくなる。大昔、人は罪を犯すと懲役刑を科せられたらしいが、ふふ、罪人にとっては記憶を消されてまっとうな人生を歩むほうがずっといいだろう。だからといって罪が帳消しになるわけでも、被害者の憎しみが減るわけでもないがな……」
「それって……望んで記憶調整を受けるってことか? みんな忘れて別の人生を歩みたいってことなのか?」
 セテは少し厳しい口調でサーシェスに問いかける。監視役の若者に腕を引っ張られたが、それを乱暴に振り払った。
「全部忘れちまうつもりなのか!? 君を大切に思ってる人のことも!? そんな……そんなの勝手だ! 俺は絶対に忘れない! 君がどんなになっても、俺は……!」
「もう時間です。お早く退出いただけない場合は、警備兵を呼びます」
 ついに監視役がセテを引っ張るようにして扉の外へ追いやる。サーシェスはその背中に何かをつぶやき、白い扉がふたりを再び隔てるために無言で閉まっていった。
「ちくしょう!!!」
 セテは壁に拳をたたきつけ、頭をすりつける。泣きやんだアスターシャがセテを気遣わしげに見ながらその肩に触れようとするのだが、セテの肩が小刻みに震えているのに気づいて手を止めた。

 ──ありがとう。本当はセテのこと、忘れたくない──

 サーシェスが去り際に言った言葉が鋭く胸をえぐる。ピアージュの記憶調整の前には感じたことのない痛みだった。ここへきて改めて自分が非力であることを思い知らされるとは。
 なにもできなかった。そしていまも、なにもできはしない。怒りと痛みとが全身を引き裂くような感覚となって自分をさいなむ。理想的な半身だって? 〈青き若獅子〉だって? なにもできなければ意味のないことじゃないか! いっそのこと、なにもできない自分を罵倒してくれたほうがまだましだ! 手のひらの銀色の傷跡がうずくが、それももうすぐ、なんの意味も持たなくなる。そんなのは、絶対にいやだ!
「トスキ特使」
 監視官とは違う誰かが声をかけるが、セテは振り向かなかった。悔し涙であふれた顔を見られたくないわけではない。今はもう誰の言葉も聞きたくなかった。
「トスキ特使。聖救世使教会祭司長、ハドリアヌス様がお呼びです」
 セテは鼻をすすり涙の痕を袖口でこすってから振り向いた。先ほどここへアスターシャとセテを案内した使者がそこに立っていた。
「ご案内します。どうぞこちらへ」
 アスターシャには別の使者がついており、セテを不安そうに振り返りながら去っていく。セテは目の前にいる使者を疑わしげな表情で見つめる。聖騎士団でもないのに、祭司長が自分にどんな用があるというのだろうか。
 セテは不安に思いながらも、客人を誘う使者を見つめる。どうでもいい。いっそのこと自分も記憶調整にかけてもらいたいくらいだ。セテはそう思いながらも背筋を伸ばし、毅然とした態度で歩き始めた。





「遅かったな。話はできたのか、ちゃんと」
 部屋へ戻ると、出し抜けにレイザークがセテに声をかけた。レイザークは相変わらず私服のままで、客人用の酒を追加でもしたのか、新しいボトルに手を掛けている。二段ベッドの一階を、だらしなくのばした巨体で占領していた。さすがに寝たばこは気が引けたのか、床に置いた灰皿に押しつけている。
「うん……まぁ……」
 セテは気のない返事を返した。ベッドが占領されているので、仕方なしに向かいの椅子に腰掛ける。すかさずレイザークが氷の入ったグラスをセテに手渡し、そこにドボドボと酒を注いだ。
「あのさ、記憶調整ってどんなもの?」
 セテは少し酒を煽ってからレイザークに尋ねた。
「ふむ……俺も詳しくは知らんがな。脳の一部をいじってどうにかするロボトミーとかいうのとは違うらしいが、記憶を上書きするということだけは確かなようだな。生粋のイーシュ・ラミナ、とくに救世主に効くかどうかは分からん。なんだ、記憶調整の儀が決まったなんて話はまだ聞いてないが、そうなのか?」
 珍しく心配そうなレイザークがいる。レイザークも、かつてロクランのラインハット寺院でのサーシェスを見知っている。穏やかでいられるわけもないのだろう。
「……本人が……それを望んでるみたいなんだ」
「なるほどな」
「彼女が救世主《メシア》だって言えば、おとがめナシになるんじゃないのかな。救世主が復活した。これ以上の中央にとってのいいニュースはないはずだし、レイザーク、あんただって元々彼女がなんであろうと、光都に連れてきて救世主に祭り上げるみたいなこと言ってたじゃないか」
「それはレザレアの件がなければ、の話だ。俺はあの現場を直接見ているし、報告書の内容まで知っている。死傷者の数からいって、救世主だから不問に付すなんてわけにもいかんだろう。術法犯罪は重罪だ。それに、言ったって信じやしないだろうよ、特にあのマクスウェルなんぞはな。あるいは、ロボトミー手術で脳をいじくり回した挙げ句、自分の傀儡に仕立てて都合よく利用するなんてのもありうるだろうし」
 レイザークの聖騎士然とした言葉に、セテは「そうか」と小さくうなだれた。
 ピアージュの話が本当ならば、サーシェスはガートルードに追われ、術法戦になった。そのとき、互いの相反する術法が広がり、レザレアを吹き飛ばしたというわけだ。それならば正当防衛だし、ガートルードの話も含めたそのいきさつを、サーシェスがきちんと話しさえすれば情状酌量にもなるだろうに、なぜか彼女はかたくなに自分のせいにしている。あの火焔帝をかばっているようにしか見えない。それはやはり、ガートルードが仲間だったからなのか。そもそも、なぜガートルードとサーシェスがアートハルクからつい最近まで行動をともにしていたのかすら分からないのだから仕方ないことではあるが。
「忘れたい過去って、そんなにあるもんなのかな……」
 セテがぽつりとつぶやく。レイザークは鼻で笑うような仕草をすると、
「そりゃお前、誰だってひとつやふたつ、あるだろうよ」
「俺は自分の過去を知って衝撃を受けた。知らなきゃよかったことだったのかもしれない。俺が知る必要がないからって、あんたや他のみんなが苦しんだんだから。みんなが苦しんだ分、自分が知らなきゃよかったなんて虫のいいこと言いたくないし、自分のトラウマっていうか原体験みたいなもん? そういうの含めて認識できて、いまの俺がいる。そりゃ、レトやピアージュ、母さん、父さん、スナイプス隊長やガラハド提督、死んで行った人たちのこと思い出すと……人がいなくなるってこんなに悲しいことなんだって毎回思うけど……。だけどそれ以上に、彼らが生きて俺と一緒にいたときのことのほうが強く思い出されて、どんなになっても忘れたくないよ。絶対、忘れたくない……」
「なんだ。ずいぶん感傷的だな。過去より未来のほうがって頭を切り換えたんじゃなかったのか?」
「そりゃ、いまのほうがずっと大事だし、これからのことはもっと大事だと思う。思うけど……」
 セテはグラスを煽り、カラになったところでレイザークに注ぐようグラスを突き出す。レイザークはセテの次の言葉を待ちながら酒をなみなみと注いでやる。
「やっぱり、過去も大事だと思う。その人を知るのに、その人の過去を知っておきたい。そう思うのって、ふつうじゃないのかな?」
「さあな。俺はそれについては反論したいところだな。その人間の過去がどうあれ、気にくわないヤツとは付き合わないし、気のあったヤツとは付き合う。それで十分だ。そいつの過去を知っておきたいなんてなぁ、彼氏を束縛したい女じゃあるまいし、ちょっとおせっかいすぎるどころか、下手な好奇心は身の破滅ってやつだと俺は思うぞ」
「あんたらしいな」
 セテはクスリと笑った。「まあな」とレイザークも鼻で笑う。彼氏を束縛したい女という表現はどうかと思ったが、セテは自分が他の人間に対して、それに近い感情を抱きやすいのだと、特に近しい人間に対しては強くそう思う傾向があるのだと納得する。この場合は、やはりサーシェスのことなのだろうということも。
 セテは両腕を伸ばし、頭の上で組んで天井を見つめた。粗末な電球が、グレイブバリーの地下発電所から送電される電気によって緩やかな明滅をしている。まるで時を刻む古い時計のようにも見えた。
「不思議だよな。時間なんて目に見えないのにさ。どうして人間の頭には思い出ばっかり残るんだろうな。少し違うかもだけど、なんとなく、グウェンフィヴァハの言っていた『過去と未来は同義である』っての、なんとなく分かるような気がする。過去があっていまがあって未来があって。ずっと繋がってるわけだろ? ちょっと前のアジェンタスであんたの家で厄介になってたときなんか、俺とあんたはどうしようもなく険悪だったのに、いまじゃこうして酒を酌み交わしてるわけだし。思い出ばっかりで、頭が吹っ飛んじゃうんじゃないかなんて思うときもあるよ」
「お前の場合は脳みそが足りないだけだろ」
 レイザークの軽口に、セテは軽く蹴り上げるマネをして応酬した。そこでレイザークは何かを思い出したように、
「なあセテ、知ってるか。人間の脳ってのはな、常時三十パーセントくらいしか使ってないんだとよ」
「ふーん、そうなんだ。じゃああんたに言わせりゃ、俺はその半分も使ってないってことだろ。もういいよ、どうせそれが言いたかっただけだろ」
「まあ聞けっての」
 口をへの時にまげて言うセテに、レイザークは笑いながら言うのだが。
「イーシュ・ラミナってのはとんでもない術法を振るうことができたし、数字を読み解く能力にも長けていたという。俺たちとは根本的に脳の使う部分が違うのかもな。おまけに平均で二百年近くは生きるわけだから、その思い出ってのはどこに貯まるんだろうとか、そういうのには興味はあるかもな」
「へえ、あんたがそんな学術的なことに興味持つなんて意外だな」
「そういうわけじゃねえよ。だから彼ら、いや、サーシェスの嬢ちゃんな、俺たちに比べてどれくらいの思い出を、記憶を抱えてるんだろうと思ってな。二百年以上生きてみろ。思い出ばっかり増えて、端から消して行かないと生きていけないのかもしれないだろ。俺たちが考えている以上に、ひとつひとつの思い出が重すぎて捨ててしまいたくなる、だから人格をいくつも作って対処してるんじゃなかろうかってな」
 レイザークの意外な含蓄ある言葉に、セテは思わず呼吸を止めた。
 そんなにまでして消したい記憶。それがなんなのか、セテは好奇心からではなく純粋に知りたいと思った。過去も含めたサーシェスを、全部知っておきたい。すべてを知ることで、たとえ後戻りができなくなったとしても。





 フライスは暗黒空間の中で両膝をつき、震える両手でかろうじて上半身が崩れ落ちるのを防いでいた。その呼吸は激しく荒い。額には冷や汗が浮かび、背筋にもいやな汗の伝う気配に身を震わせている。ほつれた黒髪の巻き毛の先端が地面を擦り、そのうえに、顎から流れ落ちた汗が一粒、また一粒降り注ぐ。
 吐き気がする。無意識に口に手をやった瞬間、フライスは激しく咳き込み、動悸の激しかった心臓をさらに圧迫する。全身の血流が激しく脈打つのに反し、皮膚が粟立ち始めていた。
「ショック症状だ、少しすれば落ち着くだろう。私もはじめはそうだった」
 火焔帝ガートルードが、フライスを見下ろす形で立っていた。哀れみとも蔑みとも異なる複雑な表情で、うずくまる黒髪の青年を見つめている。ガートルード自身の黒髪は、暗黒の空間の中でひときわ艶やかであった。
「これを……最初から最後まで、お前は見たのか。見ていられたのか、ひとりで」
 フライスは震える唇でそう言ったが、まだ顔を上げてガートルードを見やることはできないようだった。
「ひとりではない。我々アートハルク側の一部の人間のみだ。見ていられたかと問われれば、それは確かに難しかった。だが、見る必要があった。ちなみにこれはまだ、欠損した情報を完全に補えていないシロモノだ。だから同期《シンクロ》する際に身体に相当な負荷がかかる」
 ガートルードは何の感情も持たないといった様相で言った。
 完全ではないだと? それでは、完全版はいったい、三つ合わさったときにはどんなものになるというのだ!? フライスは声にならない自分のいまの状態を呪いながら心の中でそう叫んだ。ガートルードに丸聞こえなのは分かっていた。
「だから言ったはずだ。文書館長フライス殿。後戻りはできないと。それを承知で、お前は知ろうとした。知らなくてもいいと少しでも思ったなら、拒絶することもできたはずだ。好奇心のほうが勝ったなら、いま見たことを受け入れよ」
 言われてフライスは唇をかむ。拒絶ができなかったわけでもない。知りたいと思ったからだ。〈神々の目〉が、知ることを望んだのだ。そうして知ったことの、なんと重いことか。それを火焔帝ガートルードは、ほんのつい最近まで、自分ひとりで背負ってきたのか。
「『暗闇の雲が世界を飲み込む前に、死せる夢見の大地に輝きを』……か」
 フライスは自嘲気味に笑い、つぶやくように、だが吐き捨てるようにそう言った。唾棄すべき恐るべき真実。時間は、もうない。そして、後戻りももうできはしまい。記憶を消してしまわぬ限りは。
 フライスは渾身の力を両足に込めて立ち上がり、目の前に悠然と立つ美しき女帝を睨むように見つめた。やがて、フライスは意を決したかのように口を開く。
「無人殺戮戦艦《オート・ジェノサイダー》の到達予想時刻は?」
「我々の研究者の間では、一年かからないと言われている。母星との間に、新たな特異点が見つかったらしい。その特異点を通過することで、航行距離が大幅に短縮できるとのことだ。その前に、各種の星間弾道弾が数回、特異点ジャンプを繰り返している。そちらはまだ救世主の惑星防壁と浮遊大陸衛星の迎撃でなんとかなるだろう。問題は」
 ガートルードはいったん言葉を切り、フライスを品定めするように見つめた。
「暗闇の雲を阻止するための熱源とその出力の大きさというわけか」
 フライスが答える。ガートルードは「ご名答」と少し軽口めいた口調で言った。だがフライスはまだ納得ができない。
「しかし……惑星全体を防御できるものなど、この世界にはもう残されていないはずだ。その〈暁の白き女神〉とやらにまで到達できるのならいくらかは可能だろうが……連絡艇もない現在では」
「いや。この世界にたったひとつだけ、それを可能にするものがある」
 フライスの言葉を力強く否定して、ガートルードがにやりと笑う。
「それが、我々が二百年前に封印した、神獣フレイムタイラントだ」

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