Home > 小説『神々の黄昏』 > 第三章:死せる夢見の大地 > 第六話:預言の続き
救世主《メシア》と聖騎士《パラディン》レオンハルトが、いつどんな出会いをし、どんな目的で行動をともにすることになったのかは、残念なことにほとんど明らかにされていない。
ふたりは相思相愛だったとも言われるが、本当にそれが愛だったのか、レオンハルトの一方的な信仰心からなる片思いだったのか──彼は特に理想の君主に使えることを夢見ていたという──、救世主本人がレオンハルトを愛していたという逸話は、残念ながら残っていない。
フレイムタイラントを封じる強大な術法の反動で命を落とした救世主は、レオンハルトの腕の中で息を引き取った。彼は戦争終結後、ロクランの守護神廟に遺体を安置するという中央の申し出をかたくなに拒否し、セテが転移させられた浮遊大陸で救世主を水晶の棺に眠らせて、まるで墓守のようにその復活を待ち続けた。その姿は妻に先立たれた老人の姿のようでもあった。
彼は救世主の復活を二百年ものあいだ信じ続けた。
そして救世主は復活をとげ、レオンハルトの元に返り、だがいま、ロクランに現れた記憶のない少女の姿でセテの目の前に立っている。
なにがどうなれば、自分につながるのか。頭の中で大陸史と自分の記憶が情報の奔流となって、割れんばかりに轟音を立てて渦巻く。
「ごめん、ちょっと」
急に血の気が引いて貧血のような感覚に囚われたセテは、よろめくように椅子に手を掛けるのだったが、すぐに胃がねじれる気配を感じて廊下に飛び出した。口元を抑え必死に吐き気をこらえながらトイレの扉を開けると、セテは便器を抱え込むように膝をついた。何も食べていない胃がせりあがってくる感覚。胃液がのどを焼き、涙がぼろぼろこぼれる。反乱を起こした胃を落ち着けるまで、セテは何度か自分で口の中に指をつっこまなければならなかった。
これまで何度も極度のストレスにさらされてきたが、こんな無様な状態になることは初めてだった。得体の知れない恐怖と不安が、人間の体をここまで脆弱にしてしまうことがあるのだとセテは悟った。目的を知らされずに任務の遂行を任されるほうがよっぽどましだ。
「だいじょうぶ?」
扉の外から声を掛けられ、セテの体はビクリと跳ねた。サーシェスだ。とりあえず流し、洗面台で何度か顔と口をすすいで出ると、心配そうな表情のサーシェスがタオルを持って立っていた。
「もうだいじょうぶ。心配させてごめん」
セテは差し出されたタオルを受け取ろうと手を出したが、その瞬間にサーシェスの指に触れてしまう。まるで激しく熱した石にでもさわったかのように、思わずセテはその手を振り払った。タオルが宙を舞い、床にふわりと落ちる。
「あっ! ご、ごめん……!」
自分でもなぜそんな仕草をしてしまったのか分からない。セテはすぐに謝ったのだが、サーシェスの表情がいっきに曇る。自分を拒絶されたのだと思っただろうし、そのことをひどく悲しんでいるのだろう。セテはいたたまれなくなってタオルを拾い、サーシェスの顔を見ないように脇をすり抜け、みんなのいる部屋に戻った。サーシェスもあとからうなだれた様子で部屋に入ってくる。
「あ〜あ。まったくどうしようもねえ潔癖症だな、うちのおぼっちゃんはよ。生理はあるわヒステリーだわ潔癖症だわ、いい加減オトナになれっての。お嬢ちゃんにつらく当たってもしかたねえだろうが」
サーシェスのうかない顔を見て察したのか、レイザークがセテをしかりつける。セテは「俺は別に」と弁解しようと口を開くのだが、
「だいじょうぶです。セテのせいじゃありませんから」
至って平静を装った風にサーシェスが言うので、レイザークはあきらめたようにため息をついた。
「まあいい、それじゃあお前が俺に隠しているらしいことはすべて話せ」
「隠してることって……」
セテは狼狽して声を震わせたが、レイザークがおどけた様子で「ま、お前が隠してることなんざだいたい想像つくけどな」と言ったので、観念することにした。
「……隠してるってわけじゃなくて……」
言う機会がなかっただけだ。むしろ、今ならどんなことでも聞いてほしいと思う。自分の体験したことが、なにかしら救世主につながっているのだとすれば。
「本当に……なんて言っていいのか、何から話せばいいか分からない……。めちゃくちゃ吐いてすっきりしたかったけれども、いまでもまだ胃がむかむかする。たぶんみんなが聞きたくて俺が話さなきゃならないことは山ほどあるんだと思う」
セテはくしゃくしゃと金髪をかきむしるような仕草をしたあと、つらい体を休ませるために手近にあった椅子に深く腰かけた。ベゼルが気を利かせて水の入ったコップを持ってきたので、セテはそれを一気に飲み干した。
「レイザーク、あんた俺があんたの家に来てすぐの頃、俺に尋ねたことあったよな。レオンハルトに会ったか、って」
「ん? ああ、そうだったかな」
気のないそぶりでレイザークが言うのをセテは自虐的に笑う。
「言ったよ。こっちはなんで知ってるんだって驚いたんだから。でも、俺は確かにあんたが言うように会ったんだ。十年前、伝説の浮遊大陸で、レオンハルトと……サーシェス、君と同じ顔をした救世主《メシア》その人に」
セテはサーシェスに向かって、申し訳なさそうにそう言った。サーシェスは少し驚いたような顔をしたのだが、まるですべて分かっていたとでも言うように小さく頷いただけだった。
「故郷で、入ったら祟りがあるって言われてた山に肝試しのつもりで登ってさ。友だち連中はみな逃げ帰ったけれども俺だけは山頂まで登って、そこで不思議な紋章を見つけた。そいつはイーシュ・ラミナが古くから使っていた門《ゲート》で、俺は瞬時に遠く離れた浮遊大陸の残骸のまっただなかに転送させられていた」
「浮遊大陸……まだそんなものが動いていたのか。地上から浮遊大陸衛星への門《ゲート》はすべて封じられていたと思ったが……」
フライスが文書館長らしい研究者めいた口調で感嘆の声を漏らした。セテにとっては少しだけいい気分であった。
「そう、一回ぽっきり、偶然だったんだと思う。レオンハルトも大戦終結後に封印したはずだって言ってた。浮遊大陸では、水晶……だったのかな。透明なガラスに似た鉱石で作られた棺に、救世主が眠っていた。眠っているように見えた。まるで今にも息を吹き返しそうで」
十年前の光景がまぶたの裏に広がるようだ。黄金色に輝く空からの淡い光を受けて輝きを放つ水晶の棺、そしてそれに劣らず生命の息吹にも似た光をにじませる救世主の姿。
「そこで俺は伝説の聖騎士に出会った。レオンハルトは、眠る彼女をずっと見守り続けているのだと言ってた。俺は目の前でレオンハルトが剣を振るうのを見たし、聖属性の最上級攻撃術法を発動するのも見た。だから俺は聖騎士を目指すことを決意したんだ。誰よりも強くなれ、という彼の言葉どおり、最強の剣士になるために」
そこでセテはまた自虐的に笑った。目の前に本物の聖騎士がいることをすっかり忘れていたとでも言うように、レイザークを見て。
「この話は本当に誰にもしたことがなかったんだ。それから十年後、ロクランの博物館でサーシェス、君を初めて見たとき、俺がどんなに驚いたか分かるかな。十年前に見た救世主が、俺の目の前に立ってるって思ったんだ。それに」
セテはフライスに向き直り、
「フライス、あんたのことも。あんたに言ったことがあったっけな。顔だけは俺の尊敬してる人にそっくりだって。あんた、髪と瞳の色と性格を除けば、レオンハルトにそっくりだったんだよ。冗談抜きで、レオンハルトと救世主が復活したのかと思ったくらいだ」
フライスの表情が微妙にひきつるのを、セテが気づくわけはなかった。もちろんそれは一瞬だったので周りにいた者も気づくわけはなかったのだが。
それからセテは、自分の右手のひらをレイザークやフライスに見えるように差し出して、
「これは俺がロクランを離れるとき、サーシェスと守護神廟の前でお互いの夢を誓い合ったときにできた傷跡なんだ。レイザーク、あんたはこれを魔女の印だなんて言いやがったけど、でもこの傷跡のおかげで俺は何度も救われたことがあった。サーシェス、君は?」
「私も……確かにこの傷跡を通じて、セテを間近に感じる不思議なことが何度もあった。傷跡が消えないのはとても不思議だと思っていたけど、これは救世主が自分たちの願いを聞き届けてくれたものだとずっと思っていたの。だけど……」
サーシェスは不安そうにレイザークを見やる。
「これが……証《あかし》なの? 救世主である私が、セテを……その……〈青き若獅子〉に選んだという……?」
「そう、そこだ」
レイザークは待ってましたとばかりに膝頭をぴしゃりと叩いた。まるで居酒屋のオヤジ連中のような仕草だったので、横にいたベゼルが噴き出した。
「〈青き若獅子〉が果たして何を意味するのか、実は明らかにはされていない」
「はぁ!? ここまで引っ張っておいてそれはねえだろが!!」
「まあ待て。話はこれからだ」
いきりたつセテを、おどけた仕草でレイザークがなだめる。
「お前のこれまでの足跡を整理しておく必要があったんだ。お前は十年前にレオンハルトと救世主を見た、それから十年後、お嬢ちゃんに出会い、その傷を受けたわけだ。レオンハルトに会ったのは確かに十年前だな。その前でも後でもないんだな?」
「忘れるわけないだろ? 間違いなく十年前だよ。その前に会ったことなんてないし、その後って言ったってアートハルクにいたんじゃ会うこともないだろ。いや、俺のオヤジとあんたと三人でアジェンタスに任務やらでやってきてたってんなら、うんと子どものときに会ったことがあったんだと思うけどな。でも覚えてないし」
「そうか」
レイザークは小さなため息をついたようだった。
「あんた、俺が浮遊大陸に行ったこと、レオンハルト本人に聞いたんじゃなかったのかよ。それらしいこと言ってたの忘れたのかよ」
「お前はいつか必ず、だまされて幸福の壺みたいなものを買わされるハメになるんだろうよ。言っておくが十年前には、もう俺はレオンハルトと組んで任務を遂行することなんて絶対にしなかった。あんときはカマを掛けたんだよ」
「カマぁ!?」
「言葉が足りなかったな。〈青き若獅子〉だのレオンハルトや救世主と会った少年の話ってのは、ある人物によるものだ。眠れる救世主と出会った少年こそが〈青き若獅子〉になる、と、いわば預言のようなものが古くから残されているんだとよ。俺が浮遊大陸での一件を知ってるのは〈黄昏の戦士〉の仲間たちからその話を聞きかじったからで、まったくあてずっぽうでカマかけたわけじゃない。単なるレオンハルト大好きな青少年だとばかり思ったからついぽろっと聞いたわけなんだが、本当に本人だとは思わなかった」
「ある人物って誰だよ」
「待て待て、まずは話を聞け」
セテはおもしろくなさそうに鼻を鳴らし、無言の抗議をしてみせた。
「〈青き若獅子〉の条件がその銀の傷跡だと仮定しよう。レオンハルトの両手のいずれにも、お前の右手についてるような銀色の傷跡はなかった。レオンハルトは救世主が探し求めていた人物ではなかったのかもしれん。あるいは救世主が斃れたときに傷跡そのものが消滅したのかもしれんがな。あくまで仮説だが、〈青き若獅子〉というのはもちろん比喩で、なんかしらの契約関係を表すものではないかと推測されている」
一同はごくりと唾を飲み、レイザークの続きを待つ。一呼吸置いてレイザークは続ける。
「講義やらで聞いたことがあるかとは思うが、イーシュ・ラミナってのは強大な術法をなんなく発動できたように言われているけれども、実はたいへんな負担を肉体に強いる。一部の高位にある術者を除き、転移やらレベルの高い攻撃術法などを連続で発動できないのはそういう理由からだ。救世主といえどもそれは例外ではない。だからこそ、彼女は汎大陸戦争でフレイムタイラントを封じる際に命を落としたわけだし、イーシュ・ラミナは自分たちを守らせるためにさまざまな生体兵器を開発していたという。その一部が後に汎大陸戦争で人類に牙をむくようになったわけだが、そのほかに、自分の体を預けられる代理人のような人間を選んで行動を共にしたといわれている」
──互いの足りない部分を補いあい、双方を映し出す鏡のようなもの──
「その契約自体が、純粋なイーシュ・ラミナと純粋な人間との間で交わされるものなのか、救世主との間に限られたものなのかはわからん。ほかの聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》や生粋のイーシュ・ラミナを全部調査しなければわからんことだ。が、いずれにせよ、お嬢ちゃんが自分の身を預けられる人間を見つけ、その傷跡を契約代わりにしてお前を選んだってのが有力な推測だ。現にその傷跡を持つ右手で、術法を使えなかったお前がやすやすと術法を発動している」
セテとサーシェスは互いの手のひらの傷跡を見、そして互いの顔を見つめた。ほんの数ヶ月前、守護神廟で誓い合ったあの日に感じたあの不思議な安堵感、それが実に数年ぶりのことに思える奇妙な時間感覚を、いまになって改めて共有するかのような仕草であった。
サーシェスが剣の道をあきらめ、術者になることを誓い、セテが剣士として術者を補えるほどに成長することを誓ったその日に結びつけられた、なんとも運命的な絆そのものではないか。
「意味深な間で納得しちゃうのはちょっと待ってよ。セテの話は分かったけど、いまの話だけじゃ、どうしてお嬢ちゃんが救世主だって言えるのかちっともわかりゃしないじゃん。お嬢ちゃんのほうはどうなのさ」
空気が読めないことでは最たる者であるジョーイが口を挟んだので、セテとサーシェスは我に返った。レイザークが訳知り顔でニヤリと笑うので、これも計算ずくのようだった。
「私は……」
サーシェスはおびえたようにレイザークを見つめた。レイザークは何も言わず、手をひらひらさせて彼女に先を促した。
「私の意志でセテに傷をつけたつもりもないし、本当に〈青き若獅子〉なんて知らない。でも、私が救世主なのだとみんなが言うのであれば、そう信じるしかないんでしょ?」
あきらめたような口調でサーシェスはそう言った。かつて、ロクランでレイザークに初めて会ったときの彼女が、レイザークに自分の人生についてとやかく言われたときに猛反発したような口調はどこにもなかった。
「何度か夢で見たことある。私が意識をなくしている間に、自分じゃない誰かが自分の体を支配しようとしたこともある。夢の中での私は小さな女の子だったり、私よりずっと年上の女性だったり、場面はさまざまだけれども、レオンハルトやガートルードが親しげに私と一緒にいたのを、何度も何度も見た。夢そのものが救世主の失われた記憶なんだとすれば、私には否定することはできない。私は記憶を取り戻したいし、そうするために光都に行くべきだと思う」
黒き悪夢の呪縛《のろい》そのものだ。夢に縛られているのは、人ひとりの人生や未来だけなのか。
「言っておくがな、それが本題だ。フライス殿が言ったとおり、我々は仮定として『サーシェスという少女が救世主の復活した姿だ』としただけだ」
「そんなの詭弁じゃないかよ」
セテがレイザークをにらみつける。
「そうだ、詭弁だ。我々にはもともとやるべきことがあったが、それが少しばかり増えたうえに、立派な大義名分も増えたということだ。ひとつは、ロクランへ派兵を考えている光都の馬鹿な連中を止めるため、ロクラン王女であるアスターシャ姫をかつぎあげて中央の識者や世論を味方につけること、これが最重要任務だった。それから、浮遊大陸衛星に研究チームを派遣して、重要文化財として保護すること、まぁこれは冗談だがな。だがセテの証言で中央智恵院が大いにわくことは間違いない。戦争どころじゃなくなるかもな」
さしておもしろくなさそうにレイザークが言うのだが、あながち冗談ではないかもしれない。浮遊大陸衛星がまだ機能しているかもしれないというのは中央でも未確認情報のひとつではあったが、戦争終結後に実際にそこに行けたのは、レオンハルトとセテだけ。焦土と化し瓦礫の山となり果てたものの、そこには大戦前の旧世界《ロイギル》の魔法──科学の残り火があるのだ。
「幸い、フライス殿と我々の利害は一致している。行き先はみな光都だ。我々は新しい大義名分を掲げ、お嬢ちゃんを光都へ連れて行く。復活した救世主に祭り上げてな」
「な、なに言って……!」
「お前は本気で信じているのか。イーシュ・ラミナの能力が未知数とはいえ、人間の年齢がころころ成長したり遡ったり。ふつうに考えれば、お嬢ちゃんがたとえば娘とか孫とか、救世主になんらかの縁がある人間だと考えられなくもないだろう? 自分が体験したことのほかに、人から聞いたことを脳内であたかも自分が経験したことのように再構築することだってあるし、それを夢で見ることだってなんら不思議ではない」
それは分かっている。だがセテの中のなにかがそれを納得できない。いや、期待しているのかもしれない。だからこそ、確固たる真実がほしいし、それがないまま人の人生を押しつけるのは何にも増して許せなかった。
「ガートルードが自らを聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》と名乗っているのと同様、我々にとっても、そして世論にとっても、お嬢ちゃんが本物の救世主かどうかなんて関係ない。必要なのは、救世主かもしれない、救世主とよく似た容姿を持つ美しい少女の姿だけだ。辺境がガートルードを自分たちの救世主とあがめているのであれば、中央も自分たちの救世主が必要なはずだ。それだけで世界が変わる。そして、その人物にはそう振る舞う責任もある」
「ふざけんなよクソオヤジ! サーシェスになにをさせようってんだ!」
セテが立ち上がる。だが、それを押しとどめたのは殊勝にもフライスだった。
「落ち着け、あくまでも戦略上の話だ。私とサーシェスには光都へ行かなければならない理由がほかにある。未来を知るという預言者ヴィヴァーチェに会いに行き、サーシェスの力の暴走の原因と記憶喪失の因果関係を明らかにしたいと思っている。聞けば、聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》とも古い縁があるという。何かしらの力になってくれることは間違いないし、サーシェスが救世主かどうかもそれで分かる。それに因果関係が分かれば、君の術法暴発も防げる。我々との利害関係は行き先だけではないはずだ」
取り乱す感じではないものの、フライスの言葉の端にはわずかな焦りが見えた。
「ああ、言い忘れてたな。さっきの『ある人物』ってのが、その預言者ヴィヴァーチェさまさまってわけだ。まぁ実際に俺は会ったことがないのでどんな婆さんか楽しみにしてるくらいなんだが、未来を知るとはいいこと言ったもんだな。彼女に言わせれば、未来は過去と同義なんだそうだがな。俺にはさっぱりわからんが、お前もいろいろ光都で本人に聞いてみりゃいい」
レイザークが横から茶々を入れるのだが、セテの耳には届いていない。
「フライス、あんたは……本当にそれでいいのか。サーシェスは同意したのか……?」
「光都に行くのはサーシェスの意志でもある」
その言葉を聞くのが早いか、セテは乱暴に立ち上がり、椅子が転げるのもかまわずに部屋を飛び出していく。その後ろを、サーシェスがはじかれたように追いかけて行った。
「まったく、人の話は最後まで聞けっての。とはいえ、ほとんど説明は終わったからいいけどな」
ひとりブツブツ言いながらレイザークは煙草に火をつけた。それから、神妙にしていたアスターシャとベゼル、ジョーイにももう遅いので休むように言い、たっぷりと煙を堪能する。ただひとり、フライスだけが部屋に残る形となり、まるで体よく人払いをしたようでもあった。
「ほとんど説明は終わった、なんて言っておきながら、肝心なことが言えなかったのでは?」
フライスはレイザークをにらむように見つめ、そう言った。
「ほう、たとえば?」
「ヴィヴァーチェの預言には前振りもあるし続きもある。貴殿の顔にそう書いてある。わざわざ、さも言い忘れたことを思い出したかのように断片的に話す癖もお見通しだ」
「心を読んでみればいい」
「あいにく、許可もなしにズカズカと人の心に入り込むようなマネはしないことにしているんでね」
「ふん、だが薄々は感じ取っておられることだろうよ、フライス殿?」
レイザークはあてつけのように大きく大きく煙を吐き出した。それからジロリとフライスを睨みつけ、
「……ヴィヴァーチェによれば、眠れる救世主とレオンハルトに出会った少年こそが〈青き若獅子〉だというものだそうだが、レオンハルトに会ったという少年ならごまんといるだろうし、あいつ以外に浮遊大陸に行った少年が何十人もいたとは思えんが、同じ条件を満たしていた少年が他にもいないということにはならん。預言とて人づてに聞けば、後の解釈はどうとでもなる。救世主やレオンハルトと〈青き若獅子〉の因果関係が分からんのでは、奥歯に物が挟まるような言い方になるのは仕方なかろう」
「下手に希望を持たせても、ということか」
「希望だと? むしろ絶望だ」
レイザークは煙草をたたきつけるように灰皿に投げ捨てた。
「……たとえばの話だ。死から蘇って生を捧げ、信じる者のために命を落とす、もしそんなことを言われたとしても希望を持てるわけが」
「つまりそれが預言の続きというわけか」
問われたレイザークは無言のまま煙草に火をつけた。
「たとえばの話と言ったはずだ。占い同様、言われてその気になる単純バカをひとり知ってるんでな」
苦々しげにそう答えると、フライスは笑った。
「なるほどな。預言とはいい加減なものではあるが、ある意味、人に使命を与える善きものでもあるというわけだ。救世主かもしれない少女と、その命を預かることになる人間かもしれない青年……自分がそうだと言われれば、自然にそう振舞うようになる。あるいは人の進むべき道とやらを、預言という形をもって示しているのかもしれない」
「これまた詩的なお言葉で」
「私はこれでもラインハット寺院では文書館長だったのでね」
フライスは久しぶりにおどけたように肩をすくめてみせた。
「ところで、彼がレオンハルトに出会った時期に、ずいぶんこだわっておられたみたいだが?」
問われたレイザークは顔をしかめてみせた。
「あんたもずいぶん細かいところに気がつくんだな」そう言いながらレイザークは煙草の灰をめんどうくさそうに灰皿に落とす。
「確かめたかっただけだ。〈青き若獅子〉がいったいどういう条件の下で選定されるのかをな。本当に救世主本人が選んだのか、それとも別の、たとえばレオンハルトのような男から継承されたとかいうのがあるやもしれん」
「本当はセテが十年前以前に、レオンハルトに会ったことがあると?」
「……たとえばの話だ。俺の親友だった聖騎士があのバカタレのオヤジなんでな、休暇で何度もアジェンタスに立ち寄って、まだ寝小便たれてるくらいのときにレオンハルトも俺も面識がある」
「たとえばの話、ね。貴殿は嘘をつくのが本当に下手だ。正直、大人になってからのセテに再会したのはたいへんな不都合だ、そんな顔をしているが?」
フライスが不敵に、見透かしているとでも言いたげな顔をしたので、レイザークの顔はますます渋くなる。
「さっきから聞いていれば、ずいぶんと言いづらいことをズケズケと言うもんだな、ラインハット寺院の次期大僧正候補殿は」
「隠し事をしているのは貴殿のほうだ。サーシェスの救世主説はもちろんだが、むしろセテのほうに問題があってそれを明らかにしたくないだけのように見える。光都に行ってヴィヴァーチェに会ったあの青年のことを心配しているとしか思えん」
「そう見えるか? フライス殿だって思うところは俺以上にあるはずだろう。自分の愛した娘が救世主かもしれない、なんて、よくもそんな大それた仮説をぶてるものだ」
「私とて信じたくはない。だが、彼女が記憶を失っていることや強大な術法をやすやすと展開すること、レオンハルトやガートルードと一緒にいるときの様子を鮮明な夢として見ていることから、そう仮説立てる以外にどう結論づけられるのか、あるなら聞きたい。もちろん、時系列と年齢がまったくあわないという事実も忘れてはいない。だが……」
フライスは言葉を濁す。ガートルードの腹心に近い術者、ランデールが言った言葉が特に気にかかる。強大な術を使いこなす長寿のイーシュ・ラミナが、複数の人格を表す〈アヴァターラ〉をどんどん形成していくことを──。
「私が光都に彼女を連れて行くのは、〈アヴァターラ〉の分裂を防ぐなんかしらの方法があるかもしれないと思ったからだ。サーシェスの状態からして〈アヴァターラ〉によって彼女の心が崩壊することもあるかもしれない。私はいまの彼女を失いたくないだけだ。彼女が本当に救世主本人だとしても、力強くさまざまな困難に立ち向かっていったかつての救世主と同じように振る舞う必要もあるまい」
「世界はそうは思っていないかもしれんぞ。救い主を求める大馬鹿者の考えは、旧世界《ロイギル》から変わってはいない」
「かまわん。私だけがそう思っていればいいだけの話だ。私だけではない。親友だったアスターシャ王女やセテも、いまのサーシェスに惹かれて愛していたのだろうから」
「……レオンハルトはどうだったんだろうな……。もし復活した救世主が何も覚えていない幼い少女だったら、それに失意を感じたことはなかったんだろうかね。何が何でも、かつての姿を取り戻してほしいと思ったんじゃないのか……それと同じだ。自分が望むことと他人が望むことは、必ずしも一致しない」
「本人に聞いたことはなかったのか。貴殿はかの聖騎士と任務で一緒だったのだろう?」
「昔な。だがプライベートな話までする男じゃないし、聞きたくもない。だいいち、そんなことを聞いてなにになる」
「もちろんだ」
フライスは改めて自虐的に笑った。自分がまさにいま、聞いてなにになる、と思っていることを聞こうとしていることに。
「最後にひとつ聞いておきたいことがある。……私はレオンハルトに似ているのだろうか」
レイザークは驚いたように口をぱくぱくさせた。その拍子にくわえていた煙草が落ちそうになるので、レイザークはあわててそれを指で支え持つ。
「サーシェスは何度か、私とレオンハルトを混同して見ていたようだ。セテも初めて見た私をレオンハルトだと思ったらしいし、それは亡き大僧正様も同様だったのだと私は思う。私が親友に似ていた、それだけで引き取ったというわけではないことはもちろん分かっているがな。それになにより、ロクランに攻め入ったガートルードも、私を見て兄と呼んだ」
事実を述べているだけなのに胸が焼け付くような痛みだ。サーシェスが隠し持っていた冊子に写る、黒い甲冑を着たレオンハルトの写真、同じく、大僧正の机に飾られたレオンハルトと若き日の大僧正の姿がなによりの証拠だ。まさに自分にうり二つではなかったか。誰にも必要とされていないのではないか、みな他人の影を自分に見ていただけではないか、そんな寂しすぎることを、うすうす分かっていたことを自分の口から言うのは、これほどに痛みを伴うものなのかとフライスは思った。
「まぁ、正直俺もラインハット寺院で初めてあんたを見たときにはそう思ったさ。それも含めて、あのじいさんがいつまでもレオンハルトの肩を持ってばかりなのが気に入らなかったのは本当だ」
レイザークはおどけたように肩をすくめた。
「だが、似ているといえば似ているだろうし、似ていないといえば似てない。そういうことだ。失った誰かの影にすがりたくなる気持ちはわからんでもないが、お嬢ちゃんはあんたがレオンハルトに似ているからあんたを愛したわけでもあるまい」
「そう思いたいがな。『偶像を必要としている人間にとってそれが本物である必要はない』のが貴殿の考えではなかったのか?」
「ものは言い様だ。あんたなら逆に、レオンハルトに似ているその外見を利用して、レオンハルトのまねごとでもしてみればいい」
「私には荷が重すぎる」
「そうだろうな。あんな男の身代わりなんざ、こっちから願い下げだ」
レイザークは煙草を灰皿に押しつけ、立ち上がった。話を打ち切る合図なのだろう。
「貴殿は……レオンハルトをあまり快く思っていないようだな」
「当たり前だ。誰があんな裏切り者を」
「同業者の言葉とは思えんな。王殺しの聖騎士は死をもって償うのが妥当だと?」
「王殺しなんぞ俺にはどうでもいい。レオンハルトの話を、俺の前ならともかく、あの金髪のバカタレに話したらあんたでも容赦しない」
レイザークは忌々しげにため息をついて、敵意にあふれた視線をフライスに投げかける。それはフライスに対するものではなく、同僚であるいまは亡きレオンハルトに向けられたものであることは一目瞭然であった。
「俺がレオンハルトを許せないのは、セテの親父であるダノルを殺した張本人がヤツだからだ」
そう言い捨てると、レイザークは後ろ手で乱暴に扉を閉めた。