Home > 小説『神々の黄昏』 > 第三章:死せる夢見の大地 > 第五話:女神の探し物
鼻腔をくすぐる柔らかい感触に、セテは少しだけこそばゆさを感じて身をよじった。糸のような気配を軽く振り払いたくて顔を動かした瞬間、やわらかいカーテンのような肌触りが顔の輪郭を優しくなでた。
狭い視界の中で次第にはっきり、薄汚れた天井が近づいてくるような感覚に囚われたセテは小さくうめき声をあげた。頭の後ろに柔らかい羽根枕の感触が、あごの下には真新しいシーツにくるまれた羽布団の衣擦れが感じられた。
ベッドの上であることに気づくのに少し時間を要したが、いまだ現実感は宙に浮いたままだ。
……夢を見ていたのか……
腕がしびれて動かない。自分の腕が本当に自分のものであることを確かめるために少しだけ動かすと、腹に激痛が走る。たっぷり痛みに顔をしかめたあと、まるでゆっくりと瞳をあければ痛みが和らぐとでもいうかのように、セテは慎重にまぶたを開いた。
目と鼻の先に、自分の体をかばうように頬を寄せて眠る、鼻梁の整った少女の顔があった。腕に走る痛みは、少女の頭がずっと自分の腕を圧迫したためのしびれだった。少女がその小さくふっくらとした桃色の唇からため息をこぼすと、彼女の顔の輪郭をかたどっていた銀糸の髪が、ゆっくりとほつれるように滑っていった。先ほどのこそばゆさの原因であった。
目と鼻の先と言っていいほどの距離に、白磁の頬がある。銀色で長くカールした睫毛やわずかに光る産毛に引き込まれ、閉じられた瞳の奥に隠れている緑色の瞳を想像しただけで、セテの喉はゴクリと鳴った。
アジェンタスとロクラン、遠く隔てた国に離れてお互いの道を行こうと約束した自分の片割れが、手の届く範囲になんて無防備で眠っているんだろう、不思議なこともあるものだとセテはぼんやりと思う。
夢……なのだろう。
いつだったか、そんな夢を見たことがあったじゃないか。そのときは半裸の彼女が自分に……。
そう思い返した瞬間、ふいにセテは呼吸を止め、唇を引き結んだ。
空いている右手をそっと毛布から引き抜き、少女の髪にそっと触れてみる。まるで高級絹糸の感触だ。もちろん、特使の安月給でそんな高価な衣類を着用することなど滅多にないのだが、どれくらい心地いいかは想像すれば分かる。
するすると指の間からこぼれていく銀髪を逃がさぬように、何度も髪を指先で弄ぶ。女性の長い髪に触れるのは、実に久方ぶりのことだと思っているうちに、指先は彼女の頬にたどり着いていた。
夢なら覚めてしまわぬうちに、その滑らかで吸い付くような肌触りをもっと堪能したいと思った。セテは少しだけ首を傾け、少女の頬に唇を寄せる──。
「……あ……っ! 起きた?」
ふいに声がしたので、セテはあわてて体を引き剥がそうと腹に力を込めた。その瞬間、
「アダダダダダ!!!!!!!!」
激痛が腹筋を支配し、セテはベッドの上で情けない悲鳴を上げながらのた打ち回るハメになった。
「ちょ、ちょっと! 急に暴れちゃダメでしょうが!」
先ほどの声の主──ベゼルは部屋のドアを開けて様子を見に来たようだったのだが、怒ったような困ったような声で部屋に駆け込んできてセテを取り押さえる。
「いッでェーー! っくそぉッ、なんだコレ!? なんで俺こんな」
「ハイハイ、あとで説明したげるからケガ人はおとなしくする!」
顔をしかめながら呻き、呪いの言葉をポンポン吐き出す口の悪い青年が暴れようとするのを叱りつけながら、ベゼルは母親ぶった生意気なしぐさで布団をかけ直してやる。その際、傍らで心配そうにセテを見守る銀髪の少女の横顔をチラリと見ながら。
「……セテ」
セテの体が少しだけこわばるのがベゼルの手のひらに伝わった。ベゼルのものとは明らかに違う少女の声に、たった今気づいたといわんばかりに。セテは痛みを和らげるために閉じていたまぶたをゆっくりと開け、声の主を確かめようと頭を巡らせた。
夢……なんかじゃない。
目の前に立つ、銀色の髪とグリーンの瞳の美しい少女。ロクランの守護神廟で別れたきり、手紙でしか言葉を交わすこともできず、その手紙すら、アジェンタスの一件でセテの手元にはない。ロクランが占領されてからは、二度と会えないとまで思っていたのに。たまにうずく手のひらの傷のおかげで、彼女がどこかで生きていることだけは信じていたけれども。
セテの青い瞳は彼女の姿を焼きつけておくためにこれでもかと見開かれ、それが見る間に紫色に潤んでいく。
「ちょ……っ……ヤベぇ……俺……マジで……」
途切れがちな言葉の語尾は、まぎれもなく震えている。すぐにセテは布団を頭からかぶり、いったん背を向ける。鼻を一回すするような音がしたかと思うと顔をゴシゴシこすってみたり、照れ隠しに鼻で笑ってみたり、布団の中での彼はたいへんなことになっているようだった。その様子に、見ていたふたりの銀髪の少女が困ったように微笑むのだった。
「ごめん……ホントに……」セテはようやく布団から顔を出すと、
「夢じゃないんだな」
「あったりまえでしょ? 彼女、さっきからずっとアンタのこと看病してくれてたのにさ。どうして気づかないかな」
ベゼルが横から余計な口を挟んだのをセテは軽く無視した。
「久しぶり……サーシェス。元気そうでなにより」
そう言って、満面の笑顔でセテは微笑んだ。
「久しぶり、セテ。あなたも元気そうでなにより」
サーシェスもそう言うなり、クスリと笑った。
「何度か手紙書いたんだ……。君に話したいことが山ほどあって……」
「私も……あなたに話したいことが山ほど……」
サーシェスは少し悲しそうな顔で微笑んだあと、セテの手を握った。冷たい指先が、セテをさらに現実へと引き戻した。
「そうだ! 本当に聞きたいことがあったんだ。俺は……イデッ!」
セテは腹を押さえ、再び呻いた。サーシェスとベゼルが制するのを軽く押し戻しながら体を起こすと、
「一緒にいるんだろ? あいつ。どこ行きやがった。あの野郎……!」
「むう……なんとも信じがたい話だな」
煙草の煙を吐き出すと同時に、レイザークは低い声でうなった。質素な木製のテーブルとおそろいの堅いイスに横柄に腰掛け、組んだ足を組み替える際に灰皿に煙草を押しつける。一口二口吸っただけで火を消したあと、すぐさま次の煙草に火をつけるというのが先ほどからずいぶんと繰り返されていた。
「術者や騎士が実際に発生した事象について『信じがたい』と言及するのは、あまり賢明なことではないと思うが……正直私も同感だ」
レイザークの対岸に腰掛けていたフライスが、不機嫌そうな表情でそう言った。そして沈黙が流れる。
無口なふたりの男たちの会話は、先ほどからこのように多くの沈黙を挟んでいたため、横で神妙にしていたアスターシャは、おのずと合いの手も入れずに押し黙るほかなかった。言葉少なに交わされるというのに、彼らの間にはきちんと相互理解がなされているらしく、的確に少ない語彙でニュアンスまでも伝えられるからこそ多くを語らないようであった。アスターシャにとっては、もちろんさきほどまでこの場にいたベゼルにとっても、意味不明だったり意味深だったりする言葉についてしつこく食い下がる金髪の青年が、早く目覚めてくれることを祈るばかりであった。隣では、分かったような顔をして押し黙っているジョーイがいるのだが、こちらも当てになりそうにない。
セテとサーシェスの力によるものかどうか定かではないが、それによって結界が再構築され、モンスター騒ぎは一応の落着を見せた。その後、腹部に大けがをしたセテにフライスが応急処置を施し、荷台の馬車で近くの集落までやってきて宿に落ち着いてから数時間が経過していた。
少なくともサーシェスには外傷は見つからず、意識を失って倒れたものの、途中の馬車で目を覚まし、宿についてからはずっと金髪の青年のそばに座ってかいがいしく世話をしていた。これほどまでに意識のはっきりしている彼女を見るのはフライスにとって久しぶりのことであったが、これまでの旅路のほとんどを眠って過ごしていたのに、まるで憑き物でも落ちたかのような彼女の様子に、フライスとしては少々気に入らない点があるようだった。さきほどからの仏頂面がそれを如実に物語っている。
「では本人に確認してみるとしよう。おそらく自覚はないだろうがな」
レイザークがようやく口を開きかけたときだった。なにやら向こうの部屋で言い争うような気配がしたので、レイザークとフライスはいったん話を中断した。アスターシャが様子を見ようと腰を上げた途端、乱暴に扉が開いたので、哀れな王女は椅子とともに床に転げそうになるのだった。
「おう、目が覚めたか」
レイザークは騒ぎの主が分かっていたのか、扉のほうを見ようともせずにそう言った。どうしていいか分からない様子でおたおたと右往左往しているベゼルの体が、ドアの影からぴょこぴょこと跳ねて見える。金髪の悪魔の登場によって、せっかくの重要な対話が空気ごと押しのけられてしまっていた。
扉の前に仁王立ちに立っているセテは清潔な寝巻きを着用していたが、胸から腹にかけて包帯でぐるぐる巻きにされており、その険悪な表情とあいまって非常に凶暴な患者に見えた。
「起きて早々、暴れるなよ。裂けてもしらんぞ」
セテはレイザークを無視するが、その顔は不自然に青ざめている。腹を貫いた怪我は応急手当てでふさがっているとはいえ、内臓への負荷も痛みも相当なものだというのが、歯を食いしばって立つ様子からもよく分かった。
呆然としているアスターシャとジョーイの前を横切り、セテはレイザークの前に座っているフライスを見下ろす。気配でセテが隣に立っていることは知っているのだろうが、フライスは特に顔色も変える様子もない。
「よう、久しぶりだな。ラインハット寺院次期大僧正候補様よ」
できるだけすごみのある声でセテは言った。
「たいした回復力だ。さすがは特使だな」
セテの怒りを含んだ言葉を気にとめた様子もなく、フライスはそう言った。聞き覚えのある冷徹な大僧正候補の声に懐かしさを感じることなどありえないといったセテは、いきなりフライスの胸ぐらをつかみあげる。周りが制止する間もなく、セテの強烈な拳がフライスの顎下に滑り込んでいた。
「フライス!!」
サーシェスが悲鳴混じりに叫んだので、セテの頭にはよけいに血がのぼったようだった。派手な音を立てて倒れたフライスに飛びかかると、その胸ぐらをつかみ再び拳を振り上げる。
「やめて!」
サーシェスが間に入るよりも早く、セテの腕をつかんでいたのはジョーイだった。
「放せジョーイ。てめえもぶん殴られたくないなら」
「落ち着けって。お嬢ちゃんたちがおびえてるし、傷だって表面だけは塞いであるけど応急処置なんだから」
「うるせえ。こいつだけはあと二発は殴ってやらなきゃ気が……うぎゃぁっ!?」
ジョーイがセテの脇腹に軽く拳を当てたところだった。
「ほら見ろ」
案の定セテは床を転げ回るはめになり、ジョーイは散々セテから悪口雑言を浴びせられながらフライスに手を貸してやり、立たせてやる。
「ジョーイッ! くそ……っ! てめえ、覚えてろ!」
「……ったく、このお兄さんに手当してもらったっての教えてあげなきゃ分からないのかねぇ」
ジョーイはフライスに向かって申し訳なさそうに肩をすくめた。だが、
「……いや……」フライスは切れた口の端に手をやりながら首を振る。
「殴られて罵られてしかるべきことをしでかしたんだ。私は」
「当たり前だ! クソ野郎! あんたサーシェスのこと守ってやるって言ったんだろ!? あんたがついていながら、なんで彼女をこんな目に遭わせやがった!? なんで彼女を見捨て……」
「やめて!! セテ!!」サーシェスが叫ぶ。
「……もう……やめて……本当に……私は……」
顔を覆い、いまにも泣き崩れそうなサーシェスの姿にセテは大きくため息をつき、痛む腹を抱えて立ち上がった。アスターシャがサーシェスの肩を抱き、そっと自分の隣に腰掛けさせる。
「いいからそこに座って少し頭を冷やせ。話が進まん。お前にも無関係ではない話をしていたところだ。まずはこのお嬢ちゃんとフライス殿の話を聞いてやれ」
セテの蛮行にもまったく動じなかったレイザークがいつもの調子でそう言う。こういうときのレイザークには、なにを言っても通じないのが分かっていたセテは、憤慨したように荒いため息を鼻からはき出したあと、椅子をひっつかんで横柄に腰を掛ける。いつもの調子で足を組もうとするのだが、腹に響いたのか小さく舌打ちをしてあきらめることにしたようだった。それからふだんの尊大な仕草で金髪をかきあげてから、
「悪かったな、フライス。だがまだあんたを完全に許したわけじゃない。あんたの話ってやつを聞いて、どうするか考える」
サーシェスの手前、とりあえずの謝罪を口にするのだが、セテの知っている皮肉屋な元文書館長の言葉は意外なものであった。
「君が謝ることなどない。殴り殺されても文句は言わないつもりだ。それだけの仕打ちを、私はサーシェスにも、ロクランの国民にも」
セテたち一行はフライスの口から、彼がロクランを脱出してからの足取りと、サーシェスと合流するまでの経緯を聞くこととなった。途中サーシェスが補足を入れたが、その後はフライスが出ていったあとのロクランがどうなったのか、自分の身に起こったことや感じたことなどを、サーシェスが淡々とつぶさに語った。自分たちが目指す先、光都へなぜ向かうことになったのかも。
ひととおり話し終えたあとは、セテたちは反芻するのでせいいっぱいのようだった。特に、フライスが遭遇したアートハルクの術者軍団や、サーシェスが体験した風の封印事件でのアートハルク一個師団が使う奇妙な機械など、彼らにとってはまさに伝説の具現化とでも言うべきものであったからだ。
そしてなにより、セテにとって衝撃的だったことは、サーシェスが術法を暴発させるほど強大な力を持つ術者であること。剣士になることをあきらめて術法の修行を始めたことを手紙で知っていたし、彼女の外見はまぎれもなくイーシュ・ラミナの特徴を備えているのだが、そこまですさまじい威力を持つ術法を発動することなど想像もつくわけがなかった。彼女が過去に強力な術法を自在に使いこなしていた経歴があったかもしれないという事実は、セテを無言にするのに十分な要素だ。
水の巫女よりもずっと強力な術者に、彼女はなれたではないか。聖騎士になりたいと誓った自分よりも先に。
先に夢を実現されたような、嫉妬にも似た感情が自分を少しだけむしばんでいるようで、セテは気分が悪かった。ふと見れば、神妙な面持ちのまま淡々と心中を語ったフライスとサーシェスは、お互いの手をしっかりと握りしめているではないか。余計に神経を逆なでされて、セテは心ない言葉を投げかけてやりたい気分になった。
「いろいろあったのは分かったよ。だけど、あんたがそんな短絡的な考えをする人間だとは思わなかった。俺はかなりあんたのこと評価してたんだけどな。サーシェスのことだって」
あんたがしっかりしていれば、事態はもう少しよくなったかもしれないじゃないか。それよりも、もしフライスがサーシェスのそばを離れなければ。もしサーシェスがフライスではなく、自分を選んでいたら──。
そう言いたかったが、サーシェスがグリーンの目で自分を見つめているのでセテは言葉をつぐむ。彼女に同情されているような気がしたので、その視線から逃げたかった。セテが視線をはずすと、サーシェスは申し訳なさそうにうつむいた。
フライスは小さくため息をつき、それからセテに向き直る。
「君の言うとおりだ。すべて私の責任と言ってもいい。確かに私はあのとき、完全に自分を見失っていた。火焔帝ガートルードによる精神攻撃の後遺症だったのだと思う。周りの人間が誰も信じられなくなって、孤立無援だとまで思った。それでも絶対に、ガートルードだけは自分の手で殺してやりたいと思っていた。いま思えば、本当に浅はかなことだったが……」
「自分でなんでもできると思ってんだな、あんた」セテはくしゃくしゃと髪をかきむしり、イライラを発散させようとする。
「あのさ、俺そういう『自分のせいで』とか『自分だけが罪を背負っちゃってる』みたいな態度、ホント頭くんだよな! 自分だけが悲劇の中心にいるとか思ってんだろ! そのおめでたい自意識なんざフレイムタイラントにくれてやれってんだよ! 自分でなにもかも救えるとか勘違いしてるんなら、新興宗教の教祖にでもなれってんだ!」
「ちょっと待て。それは俺の受け売りだろう。人のこと言えた義理か、お前は。エラソーに」
レイザークが横やりを入れる。
「女の子の前だからってカッコつけちゃってさ」
ジョーイまでもがニヤニヤと横やりを入れるので、セテはふたりを思い切りにらみ、黙らせる。横で殊勝にも呆然としているフライスをよそに口論が始まりそうだったので、レイザークはセテにフライスとの会話を思い出させるために、指でフライスへの注意を戻してやらなければならなかった。
「とにかく、だ。あんたの罪ってんなら、サーシェスのそばを離れて単独でなにかしでかそうとしたことだ。それ以外は不可抗力だし、有事に完璧にふるまえる人間なんざいない。俺だってロクラン占領時になにがあったのかくらいは知ってるから、そのことであんたを責めるつもりはない。だから、サーシェスがあんたを許してるってんなら、俺は許してやってもいい」
尊大な態度でそこまでまくしたてたセテがふいにサーシェスを振り返り尋ねるので、サーシェスは驚いてフライスを見やる。
「わ、私は……許すもなにも最初から……」
「ってことだろ?」
再びセテはフライスに向き直る。
「彼女がいいって言ってるから俺は許してやる。ありがたく思えよ」
セテはさらに尊大な態度でそう言い切る。傍らでレイザークが頭を抱えていることなどお構いなしだ。
「だいたいあんた、自分を卑下しすぎなんだよ。あんた、ロクランで俺と張り合ってたころ、もっと尊大だったろ? そんなふうにしおらしくされてると気味が悪い。こっちはあんたに張り倒された復讐のつもりで殴りかかってるのにさ」
セテがぐちぐちと言う間もフライスは少し黙っていたが、さきほどまでの神妙な顔つきから一変して、挑むような目でセテを見つめていた。
「なるほど。ではひとつ聞きたい。君は自分の中にあるものを他人に無理矢理引きずり出されたとき、どうする? たとえばそれがトラウマと呼ばれるようなものだったとき、まっすぐにそれと向かい合うことができるのか?」
「当たり前だろ? ナニ言ってんだよ。俺には」
セテはあざけるようにそう言うのだが、フライスの叱責するような鋭い眼光を秘めたブルーグレイの瞳に見つめられると、射すくめられたように唇が固まって言葉が続かない。
「フライス、やめて」
サーシェスがおびえたように言ったが、その言葉はかき消えるほどに小さい。彼女はなにを心配しているのか。セテには理解できなかったのだが、ふと脳裏になにかがフラッシュバックする。暗闇の中で子どもの泣き声のようなものが聞こえて、それが黒い巻き毛の小さな少年が泣いている情景に変わったかと思うと、少年の姿は真っ赤に染まり、次に黒髪だと思っていた少年の髪が金色に変わる。それが幼い頃の自分の姿のような気がして、セテは息を飲んだ。
「俺には……トラウマ……なんて……。よせよ、あんた俺に」
「フライス!」
サーシェスの声で、セテは息苦しさから解放される。ほんの数秒のことだったはずだ。
セテは無心を装って心臓に手を当て、わずかばかり鼓動がはねるのを抑えなければならなかった。なぜ幼い自分が泣いているのか分からなかったが、その原因を、いつだったか夢で見たような気がして吐き気がする。
「気をつけることだ。これが火焔帝ガートルードのやり口だ。言葉だけで人の心を素っ裸にして、己の中の暗闇と対峙させ葛藤させる。自分の抱いていた矛盾や不満を解決させるのではなく、さらにそれを増幅させたうえで自分の闇に引き込むというわけだ。中央に恨みを持つ辺境の民なら、ようやく自分たちの不満を理解してくれる救世主が現れたとでも思うだろう。私も危なかった」
「ちくしょう、あんたわざとやりやがったな」
「殴られたお返し、と言いたいところだが、それ以上にもう少し手を抜いて応急処置をしておけばよかったと後悔しているところだ」
久しぶりにフライスが不敵に笑った。ロクランにいたときの冷徹で皮肉屋な本来の姿を取り戻したようだったのだが、セテとしては敵に塩を送ったような気分でもあり、少しうれしくもありと複雑な気分だったので、照れ隠しにそっぽを向いて鼻を鳴らしてみせるのであった。
そこでレイザークが大げさに咳払いをし、言葉を挟んだ。
「さて、さっきの話は有益な情報としていただいておくとしよう。聞きたいんだが、フライス殿が対峙した火焔帝ガートルードという女は、本当にあの聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》のひとりだったガートルードと同一人物なのか」
一同がレイザークを凝視する。誰もが抱いていた疑問ではあったが、同一人物でないことのほうが認識として正しいのだということを確信しておきたかった。
「それはもっともな認識だと思う。髪と瞳の色があまりにも違うし、好戦的な性格にしてもそうだ。なにより、聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》だったとはいえ、パラディン・レオンハルトの妹だというだけで頭数に入っているような、たいした魔力を持ち合わせていない宮廷魔導師だったというのが、男尊女卑的な文献にさんざん記されているくらいだ。それに比べて、ロクランでの彼女の魔力はあまりにも強大だった。しかも、彼女がアートハルク崩壊前に得意としていた水の術法ではなく、正反対で暗黒の炎の術法を自在に操るとなると」
「やはり別人、か」
「いや」
フライスはサーシェスを見やる。サーシェスが小さくうなずき、
「アスターシャも聞いているから間違いないと思う。『私はもう昔のひ弱な水の魔導師ではない』って確かに言ってた」
「お嬢ちゃんの言ってる彼女の言葉は新聞でも報道された。だから逆に、わざわざそう宣言することで別人が彼女になりすましているのを隠すためではないかと思う人間も多数いる」
「違う。あれは間違いなく、ガートルード本人だ」
フライスが珍しく熱っぽい口調でそう言ったので、一同は再びフライスを仰ぎ見た。
「なぜそう思う?」
「ランデールとかいう、アートハルクで術者を束ねている男がいる。何度かつきまとわれたが、火焔帝について、イーシュ・ラミナの特性とはまた別の素因が彼女を変えたというようなことを臭わせていた」
「イーシュ・ラミナの特性?」
「……〈アヴァターラ〉、いわゆる多重人格のことらしい。だが、彼女は違う、と」
「……多重人格……」
フライスの言葉に、サーシェスが不安そうにつぶやいた。フライスはサーシェスの手を握りしめ、心配しないようにと彼女の手の甲を軽くたたいた。
ランデールの言葉だけで信じたわけではないことを、フライスはあえて口にしなかった。ガートルードとロクランで対峙したときのあの感覚、まがいものではないという漠然とした、しかし確かな感触をフライスは消すことができない。
「フム、ホンモノかニセモノかは、アートハルクの軍に加わっている者や辺境の人間たちにはさほど重要ではない。大事なのは、昔人類を救うためにフレイムタイラントと戦った聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》のひとりと同じ名を持つ女が、今度は自分たちを苦しめる悪の枢軸・中央諸世界連合に戦いを挑み、救いをもたらしてくれるのだということだけだろうからな。伝説でもなんでもいいように利用するだろうよ」
レイザークが独り言のようにそう言い、煙草に火をつけた。苦々しげな表情で煙を肺に入れ、盛大にはき出す。
「それにやつらは、あー、なんだ? 光学迷彩《オプティカル・カモフラージュ》だの〈ドラゴンフライ〉だの〈バリアクラッカー〉だの、旧世界《ロイギル》で失われたはずの魔法を持ち出してきてるんだからな。中央としても対抗策を検討せねばなるまい。そこではっきりさせておきたいんだが、お嬢ちゃん」
レイザークはサーシェスに向き直り、煙草の先を彼女につきつけた。
「おい、レイザーク、初対面なのに気安くお嬢ちゃんなんて呼ぶなよ、おっさん臭せえ」
セテが気に入らず間に入るのだが、
「あ、私は大丈夫。一度ロクランでお会いしたことがあるの」
驚いたセテがレイザークを振り返るのだが、レイザークは得意そうな顔をしてニヤリと笑った。
「あっそ」
おもしろくなさげにセテは足を組んでそっぽを向いた。
「ついでに言うと、ジョーイも面識があるそうだからな」
セテはジョーイも振り返り、おもしろくなさげに鼻を鳴らした。それからレイザークは再びサーシェスに向き直り、
「さてお嬢ちゃん、これまでの話を復習すると、お前さんはロクランでガートルードに仲間に引き入れられそうになったが、なぜ彼女が自分を知っているのか、なぜ引き込まれるのか知らないと言っていたな」
「え? ええ……」
「お嬢ちゃんが術法を暴発させた、というのが無関係とは思えんのだがな」
レイザークの強面でにらまれ、サーシェスはしばしひるんだ。
「おいレイザーク、よせって」
セテが割って入ったのだったが、レイザークはいきなりセテの腕を掴み、ひねりあげてテーブルの上に押しつける。当然セテはうめいてテーブルに倒れかかるのだったが、レイザークはセテの悲鳴などおかまいなしにさらにひねりあげて、セテの右手のひらを真上に向けさせた。セテの手にくっきりと浮かぶ銀色の傷跡があらわになった。
「お嬢ちゃん、左手にこいつと同じ傷跡があるな?」
問われたサーシェスは、おずおずと右手を差し出し、レイザークにしっかりと見えるよう自分の手のひらを広げてみせた。セテと同じ銀色の傷跡がくっきりと浮かび上がっている。もう何ヶ月も前の傷だというのに。
「なるほどな」
ひとり納得したようなレイザークに、セテは痛い痛い放せと抗議をするのだが、熊のような聖騎士はいっこうに取り合うつもりもないようだった。セテの腕を押さえつけたまま、強面でサーシェスの顔を睨みつける。
「こいつは中央騎士大学時代も、アジェンタス騎士団に出向してからも、一度も術法を扱えた試しがないんだ。だがあるときからいきなり、こいつの無意識に術法が発動するという事態が過去二度も発生した」
「二度……? 二度って、さっきも?」
セテはうめくようにそう言い、レイザークを仰ぎ見た。レイザークはサーシェスを見据えたままセテを見ようとはしなかった。
「聞いたこともない高速言語だった。古代の禁呪ってやつなのかもしれんな。こいつの意識が切れると同時に、お嬢ちゃんが現れたというわけだ。まるでこの傷を目印に、術法に引き寄せられたみたいにな」
「いいから放せって!」
ようやくセテはレイザークを振りほどくことに成功し、体を起こす。サーシェスは、自分の左手のひらを見つめたまま青ざめている。唇がわずかに震えているのが見えた。
「術法を制御できずに暴発させるような危険な術者は、レベルに応じて身柄を中央に拘束される。本当かどうかは知らんが脳をいじることだってあると聞く。お嬢ちゃんも知っているだろう。ロクランで術法を暴発させたために光都送りになるはずだったんだからな」
「よせって、そんな言い方」
「ひどい言い方だと思うか? だがセテ、お前も同じ境遇だと言っているんだ」
問われてセテは息を飲んだ。意味が分からない。俺がなんだって? 口だけがそう言いたげにパクパクしてしまう。
「風属性の結界騒ぎのときもそうだったが、さっきのもまったく記憶がないんだろう。無意識下で使う術法ほど危険なものはない。まだ暴発せずともこれから暴発しないという保証はないし、今後もずっと無意識に術法を使うことが続くようであれば、お前も光都で拘束される日がくる。未登録の術者を放置するほど、俺は反体制派ではないんでな。なにしろ滅多にない事例だ。光都の連中はおもしろがってお前の脳味噌をいじくり回すだろうよ」
一連の流れが急に自分に向いて押し寄せてきたような、そんな恐怖を感じて足がすくむ。セテは唇をかみしめてサーシェスを見やるのだが、サーシェスの青ざめた頬は、やけに透き通って見えた。
「だからはっきりさせておきたいんだ。セテの術法騒ぎは、お嬢ちゃんが原因じゃないのか、とな。その手のひらの傷を通して、お嬢ちゃんの力がこいつに委譲されているんじゃないのか」
セテはそこで思い出した。セテが最初に無意識の術法を使ったすぐあとのこと、自分の手のひらの傷跡を見たレイザークは言った。「お前が魔女の下僕だという証拠でないことを祈っておこう」と。
つまり、レイザークは疑っているのだ。サーシェスが魔女であると。自分の下僕に契約のしるしとして銀色の傷をつけたのだと。
サーシェスの顔はますます青白くなっていく。自分が糾弾されているのだということにやっと気づいたようだった。
止めないと。レイザークはサーシェスを傷つけるつもりだ。気持ちだけがはやるのだがセテの体は動かず、立ち尽くしていると、レイザークのゴツゴツした大きな手がセテを指差していた。
「お嬢ちゃんがこいつを〈青き若獅子〉に選んだってことじゃないのか?」
「……ごめんなさい。私、本当に……本当に知らないし、分からない」
「レイザーク、ちょっと待てって。俺を無視するなよ。で、なんだって? その、青き……?」
一度ならず聞いたことがあったはずだ。〈青き若獅子〉と。その記憶がいまになって鮮明に思い出された。
一度目はアジェンタスの炎の中で対峙した真紅の竜騎兵《クリムゾン・ドラグーン》アトラス・ド・グレナダに。二度目は、レイザークと暮らすようになったころすぐ、レイザーク本人に。そして三度目は。
自分が意識を失う直前、手を差し伸べた救世主《メシア》──いや、サーシェスが言ったではないか。
驚きよりも、漠然とした不安が胃を押し上げる。
「……青き若獅子ってなんなんだ。ちゃんと……説明してくれ」
舌がもつれて語尾が震えた。
レイザークはサーシェスとセテふたりの顔を交互に、睨むように見やると、
「かつて聖騎士レオンハルトは、汎大陸戦争で斃れた救世主《メシア》のなきがらをどこかでずっと守り続けていた。必ず復活するという彼女の言葉を信じて。その後、レオンハルトは中央の出動要請を断りがちとなり、長期休暇を使って放浪の旅に出ることが多くなったようだ。そしてその後、ダフニスに仕え、守護剣士としてアートハルクにとどまることを決意したという。不思議なことに、レオンハルトやガートルード、ダフニスと、銀髪の幼い少女が一緒にいるところが何度も中央の草によって報告されている。これの意味するところが分かるか?」
「まさか」
「そのまさかだ」レイザークはニヤリと笑う。
「レオンハルトの行動原理は、汎大陸戦争のときから常に救世主に根ざしていた。中央の読みではこうだ。救世主は復活を果たしていた。だがなんらかの要因で彼女は姿を消しており、レオンハルトは任務の傍ら、彼女を捜し歩いていた。ところが、レオンハルトはアートハルクで救世主に代わって自分をつなぎとめる何かを見つけ、とどまることを決意した。いや、もしかしたらその銀髪の幼い少女というのが、復活した救世主なのかもしれん、とな」
セテは、自分が幼い頃に見た救世主の姿を、目の前にいるサーシェスの姿を見ながら思い出す。自分が見た救世主の姿は、いまのサーシェスよりも少し年上だった。銀髪の幼い少女の姿がアートハルクで確認されたのが五年前、もしかしたらその少し前なのかもしれない。救世主は自分の姿かたちを年齢にあわせて自在に変えられるのだろうか。
年齢にあわせて自在に──。
セテが息を飲んで何かを言おうとしたとき、フライスがあえて威圧的な態度でそれを制した。この場に居合わせる誰もがフライスからの確かな言葉を欲していた。
「私から話そう。私とレイザーク殿はこう仮定している。レオンハルトやガートルードが執拗なまでにこだわっていたのは、救世主の復活だ。ガートルードはアートハルクで再会し、三度《みたび》なんかしらの理由で居所の知れなかった救世主をロクランで発見、いまもさまざまな手を使って自分のもとに連れ戻そうと思っている。つまり、復活した救世主というのは、サーシェス、君だ」
セテの思考はその時点で機能を停止したと言ってもいい。体は硬直し、口の中は粘液がすっかり乾いてしまっている。手足の温度が急激に下がって貧血のような感覚をもたらしているのに、手のひらにはじっとりとした嫌な汗が吹き出している。サーシェスもそれは同じであった。
「さらに、救世主はずっとあるものを探していて、ようやく探り当てたのだと言っていた。もちろん、サーシェス本人の口から」
フライスはいったんそこで言葉を区切り、セテに向き直った。全員の視線がフライスと同じく、針のようにセテに集中する。
「それが〈青き若獅子〉。君のことだ。セテ」