Home > 小説『神々の黄昏』 > 第三章:死せる夢見の大地 > 第七話:困惑と安堵と焦燥と
勢い余って外に飛び出したものの、もう外はすっかり夜の帳が降りていて相当な肌寒さを振りまいていた。セテは寝間着の前を合わせ直し、気温の低さに少しだけ身を震わせた。
こんなものをかすめてくる前に、上着でも取ってくればよかったか。
セテは寝間着のポケットに手をやりレイザークの煙草を取り出すと、不慣れな手つきで一本くわえ、火をつける。
アジェンタス騎士団では、煙草は禁止されてはいないものの推奨されない嗜好品のひとつであった。飲みに出れば、先輩連中や同僚の中には好んで吸う者も多かったが、心肺機能の低下をおそれてセテはあまり吸わなかったシロモノだ。実際、跳んだり跳ねたりが日常茶飯事の騎士団の仕事では、酒と大食らい程度で衰えた肉体なら訓練で元に戻すことは容易だったが、煙草による肺胞の衰えは厄介だった。
「マズ……」
一口ふかしたあと、セテは顔をしかめた。薄暗い空気の中、紫色した煙が天に昇っていく。
アジェンタスからもアートハルクからも離れた辺境じみたしけた集落。あの結界騒ぎで馬車二台でたどり着ける宿屋といえばこんなものだろうが、食事処のある宿屋はいま自分たちがいるこことあと二軒ほどしかなく、昼間はある程度活気があったであろう市場も、いまでは誰も見つけることができない。
なんだか激しく疲れた。体力が回復していないのはもちろんのこと、先ほどまでのやりとりで脳が疲労しているのだろう。わけの分からない不安、誰が何を考えているのか、どうすればいいのか、もうそんなことを考えている余裕などない。いまは脳の疲れをとって頭を冷やすのがいい。明日になったら考えよう。どうせたいした考えなんか出てこないまま、結局流れに身を任せるしかないんだろうけれども。
宿屋の入り口脇にある小汚いベンチに腰掛けながら、セテは満足に煙を肺に入れることすらせず、ただただ煙が天に昇っていく様を見届けることしかできなかった。
ふと気配がしたので顔を上げれば、サーシェスが傍らに立っている。困惑したような憔悴しきったような哀しそうな表情で。セテが声をかける前にサーシェスはセテの隣に腰掛け、大きなため息をついた。セテはあわてて煙草を地面に押しつけ、上半身を起こした。
「ごめん、サーシェス、さっき俺……」
タオルを持ったサーシェスの手を咄嗟に振り払ってしまった。今思えば、救世主の神聖な体に不用意に触れてしまったという思いだった。だが、受け取る側にとってはどうでもいい言い訳だ。
「ううん、気にしないで。あんなこと言われたら誰だって……」
サーシェスは弱々しそうに微笑み、大きく伸びをするような仕草をした。
「ごめんね。なんだか疲れちゃって……本当に……いまどうしていいか分からない」
それからちらりとセテを見やる。
「怒ってるよね。なにがなんだか分からないのはセテのほうだもんね。私がセテを選ばなければ、セテを悩ませることもなかったのに」
「怒ってなんかないよ。ただ、本当に頭が混乱して……」
一度は好きになり、互いの行く道を誓い合った少女といま再び相まみえたというのに、セテには気の利いた言葉のひとつも思い浮かばない。ほんの数ヶ月の間のうちに、あまりにも互いの距離が離れてしまったのだろうか。
サーシェスは小さくため息をついた。
「私、変わっちゃったのかな」
「え? いや、ちっとも変わってなんか……」
「変わっちゃったんだと……思う。前はなにかを押しつけられても、絶対に屈服しないって気概があったのに。いまは自分の身に起こったことを受け入れるのがせいいっぱいで、それをはねのけることも否定することもできない。はいそうですか、としか言えないもの」
サーシェスは泣き顔を覆うような仕草で顎に手を当て、自分の膝にひじを載せた。目の覚めるような緑色が印象的だった瞳に、かつての輝きは感じられない。セテは思わず目を伏せる。
「知らなきゃよかったって本当に思う。つい先日まで、私はただの『サーシェス』だったのに。救世主……だって。笑っちゃうよね。私は私でいたいのに」
サーシェスは深いため息をついた。
「ごめん。なんだか私、ずるい。自分のことばっかりでうざいよね。隠し事してたのは私のほうなのに」
「そんなこと……」
セテは夏のあの日のことを思い出す。思い切ってサーシェスに告白しようとして大失敗したとき、彼女は言った。自分に誰の影を見ているのかと。自分はサーシェスのことを、最初から救世主の代わりにしていたじゃないか。それと同じことをレイザークがしたからといって、自分に怒り狂う権利はない。古傷がうずくような痛みに、セテは顔をわずかにしかめた。
この状況に苦しんでいるのは彼女自身のはずだ。失われた記憶にどんな過去が隠されていたのかも定かでなく、数々の信じがたい事件がゆっくりと、足下から人生観そのものを融解するように彼女を巻き込んでいく。まるで運命に翻弄される三文小説の主人公ではないか。
彼女が変わったというならば、疲れ切って逆境をはねのける力が弱まっているだけのことだ。そしてそんなことはどこにでもある、当たり前の「人間」の姿ではないか。自分の心に対する負荷を軽減するために、ずるくなるのは当然のことではないか。それすらも、常に前向きだったサーシェスは自分に許さないというのだろうか。
「ずるいのは俺のほうだ。変わったのは君だけじゃない。俺のほうがきっともっと変わった」
セテはできるだけ感情を込めずにそう言った。サーシェスが隣で息を呑む。
「レトが死んだこと……手紙で話したよね?」
「うん……」
「俺が初めて人を殺したことも……特使の殺人許可証を盾に、親父の形見の剣の刃ががたがたになるまで人を切り続けたことも」
「……うん……」
セテの独り言のような物言いに、サーシェスもできるだけ相づちに感情を込めないよう努力をしているようだった。
「本当に、俺っていう人間が崩壊していくような出来事ばかりだった。初めて人に憎まれ、初めて人を憎み、初めて人を殺して、さまざまな大切なものを失った。自分の無力さにあきれ果て、どうなってもいいと思ったのに黙って死ぬこともできないで、命汚く生きながらえて、この先何があるんだって思った」
サーシェスが気遣わしげに、セテの手のひらにそっと手を重ねた。セテはその上からまた手を重ね、安心させるようにポンポンと軽く叩く。
「人間って、誰でも時が経つことで変わってしまうもんなんだと思うよ。ずるくなって当たり前じゃないかな。よくも悪くも、いつまでも前と同じでいられない。あるとき突然、人はなにかにせかされて無理矢理にでも前を向かなきゃいけないときがくる──いまがそのときだ、と納得できないだけで──。ごめん、なんかうまく言えないけど、俺が混乱してるだけだってこと、分かってもらえればそれでいいんだ」
セテは小さく肩をすくめてみせ、サーシェスがおずおずと頷いた。セテはそれを受けて頷き返す。
「さっきの話でも出たけど、この傷」
セテは自分の右手の平をサーシェスによく見えるように差し出すと、
「何度も俺の窮地を救ってくれたのは事実なんだ。まるで本当に君がそばにいてくれたみたいに。それが、守護神廟でふたりで誓い合ったあの誓いの威力なのかなってずっと思ってた。俺にとっては〈青き若獅子〉だとか契約の印だとかそんなこと関係ないんだ。だから……」
セテは咳払いをひとつついたあと、背筋を伸ばした。
「蒼天我らが上に落ち来たらぬ限り。あの誓いを、まだ君が忘れていなければいいなって思う。互いの足りない部分を補い合う仲間として、俺がまだできることがあれば」
フライスの足下にはまったく及ばないけどさ、と、セテは自嘲気味に笑った。サーシェスは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔でセテをじっと見つめている。セテはすっかり「しまった!」と思ったのだが。
「もちろん……もちろんよセテ。忘れるなんてことあるものですか。誓いはまだ果たされていないんだもの。水の巫女と、聖騎士と」
「そうだよ。俺たちには俺たちの個人的な目標があるんだよ。仕事でもよくあることなんだけどさ、人には必ず役割ってもんがあって、大勢の人間がそれぞれの役割をきちんと果たすことで、流れが形作られたり変わってきたりすることがあるんだ。たとえ小さなことでも、もし自分に与えられた目標があるなら、俺はそれを完遂することを考えたい。ホントにいま、君と話してて思いついたばっかりなんだけど」
サーシェスはわずかに笑った。久しぶりに見る、心のこもった笑顔だとセテは思った。セテはその笑顔に元気づけられ、どんどん饒舌になっていく自分が心地よかった。彼女を力づけようと思ったのに、その実、勇気づけられているのは自分だと思った。
「レイザークのおっさんはどうも運命論者っぽい物言いをする癖があるんだけどさ。世界がどうのとか、救世主とか中央諸世界連合とかアートハルクとか、俺にとってはものすごい規模の話でついていけないんだよね。俺は、俺たちが動いたから世界が変わるなんてことも絶対ないと思う。あるとするなら俺たちの行動が最終的に人に伝わった結果であって、別に俺たちの直接的な影響でもなんでもない。だいたいそんな大きなこと考えるのって、疲れるだろ? 大きなことはエラい人に考えてもらえばいいんだしさ」
再びセテはおどけたように肩をすくめた。
「俺が〈青き若獅子〉だったとしてもそうじゃなかったとしても。君が救世主だろうがそうでなかろうが、そして、そうじゃなかった場合に救世主のまねごとをさせられるんだとしても。この誓いの印がある限りは、俺は君の力になる。俺はきっと、そんなことを明日君に言うつもりだったんだと思う。あんまりカッコイイ言葉じゃなくて悪いんだけどさ」
「ううん。十分よ、セテ。本当に……」
サーシェスは少しうつむいて言葉を濁した。語尾が震えているので泣き出したのかもしれない、とセテが身を固くしたのだったが。
「セテは変わったんだね。なんだかすごく、前向きになった。以前は私のほうがあなたを元気づけてあげなきゃって気がしてたのに」
サーシェスの目尻には確かにうっすらと涙がにじんでいたが、彼女の表情はセテが以前から知る明るさを取り戻していたようだった。
突然、セテがくしゃみをひとつついた。連続でもう一度。ずいぶん冷え込んでいたのに気づかなかったのか、セテは鼻をすすりながら身を震わせた。
「あ……ごめん、すっかり冷えちゃったね」
サーシェスが心配そうにセテの肩や腕をさする。セテは「大丈夫」と言いかけるのだったが、くしゃみに邪魔をされてそれどころではないようだった。
「今度はあなたの話を聞いてあげたかったんだけど、このまま風邪を引いちゃっても困るし、けが人なんだから早く休んで体力を回復しないと」
サーシェスはセテを立たせ、部屋の中に入るよう促した。そして、
「でも、時間はたっぷりあるもんね。ちょっとずつでいいんだ。セテが私に話したかったこと、明日からいろいろ話してほしいの」
そういってサーシェスは微笑んだ。
もうすっかり夜も更けており、ふたりの吐く息は白くなっていたが、扉の向こうから漏れてくる明かりが闇に覆われていた彼らの体を照らすごとに、あたりを飲み込もうとしていた冬の気配は遠のくようだった。
彼らの気配が消えたあと、窓からふたりの様子をうかがっていた人影がため息をつく。フライスであった。彼らの会話を聞いていたのかいないのか、たいそう複雑な表情であった。そして、セテとサーシェスが部屋の中に入っていったのを見届けると、彼も部屋に戻ることにしたようだった。
そしてさらに、彼の様子を別の窓からうかがっていた影がふたつ。
話の途中に、消化不良のまま無理矢理追い払われたアスターシャとベゼルであった。彼らは先ほどしかたなく部屋に戻ったものの、どうにも寝付けずに、部屋を飛び出したセテや後から追いかけてきたらしいサーシェスを見つけ、さらに彼らを見つめるフライスの姿を見つけて窓に張り付いていたのだった。
「あ。カッコイイほうの黒髪のお兄さん。安心したのかな。部屋に戻っていったみたい。あー気持ちは分かるな〜。気が気じゃないもんな〜。自分の彼女が別の男と外で暗闇の中、しっぽり会話してるなんてさ〜。手なんか握っちゃってさ〜。ヘンな雰囲気になったらどうしようって思ってただろうなぁ〜」
ベゼルは横目でアスターシャを見ながら、わざと聞こえよがしにそう言った。アスターシャのほうはセテとサーシェス、それからフライスの姿が見えなくなったというのに、まだ出窓に肘をつき、頬杖のまま動く気配はない。
「お姫サンもそう思うでしょ!? セテってばちょっとかわいい子がいると鼻の下のばしちゃってさ! ちょっと! 聞いてる? なんで黙ってるのさ」
ベゼルはさも自分が王女の代弁をして差し上げているのだといわんばかりに悪態をつくのだが、アスターシャの返事がないので調子が出ない。
「別に。ちょっとフクザツな心境なだけよ」
「あ。わっかる〜! うんうん。そりゃそうだよね〜セテが鼻の下のばしてるからさぁ〜」
「別にトスキ特使の鼻の下はどーでもいいのよ。あたしの気持ちの問題なの」
アスターシャがジロリとベゼルを睨みつける。それから王女はベッドに腰掛け直すと、
「なんかさ……。痛いのよね〜、あたしのガラスのようなコ・コ・ロ・が」
始まった、とベゼルは内心肩をすくめる。アスターシャの演技めいた台詞のわざとらしさに辟易していたのだ。
「ガラスねぇ。まぁオレにとってもどうでもいいことなんだけど」
「いいから黙って聞きなさいよ!」
アスターシャは厳しい口調でベゼルに詰め寄り、彼女の目の前に指を突きつけた。うへぇと顔をしかめながらベゼルもベッドに座り直す。
「フライス様をね、好きだったんだ、あたし。ちょっと前まで。もちろん振られたけど」
ベゼルは絶句する。それで今度はセテが好きだというのだから、惚れっぽいにもほどがある。
「サーシェスのことをフライス様が自分の命よりも大切に思ってるのは知ってたけどさ。まぁそれはそれで吹っ切れたけど、今度はトスキ特使よね。サーシェスと恋人同士じゃないってのはよく知ってるけど、なんか、あのふたりの間に割り込めない雰囲気っていうか、あるじゃない? やるせないわ」
「そりゃ……そうだけど……でも、あのサーシェスって子とは親友だったんでしょ?」
びっくりするくらい美人サンだけどさ、とベゼルは思うのだが、それはあえて口にすべきことではないと彼女なりに気を利かせたつもりだった。
「親友よ。だからフクザツなんじゃない。話したいことも山ほどあるけど、でも、彼女が救世主かもしれないとか、そんなこと言われて気安く話しかけられるんだったら、よっぽど幸せな頭の持ち主だと思うわ」
「そうかなぁ……逆にオレなんかからしたら、超有名人と一緒にいられるってだけで舞い上がっちゃうけどな。運命のいたずらっていうか、小説みたいでカッチョイイじゃんよ。しつこいくらいに話しかけちゃうけどな。それに、いろいろ話してセテとの間を取り持ってもらえるよう、協力してもらうことだってできるんじゃないの?」
「あんたって本当に子どもね」
アスターシャは大人びた口調でそう言いながら肩をすくめ、布団に潜り込んだ。
「……自分が好きになった人たちが親友ばかりを見てるのなんて、そうそう耐えられるもんじゃないでしょうに……」
「え? なにか言った?」
同じくベッドに潜り込もうとしているベゼルが問いただす。アスターシャは布団の中で眉をひそめ、ため息をついた。
「なんでもない。明日も早いから、あんたもさっさと寝なさいよ」
そう言うなり、アスターシャは頭まで布団をかぶり、ベゼルに背を向けた。
明かりもなく、ただチューブを走る水音だけが不気味にはぜる中に、巨大な水晶の結晶はたたずんでいる。周囲の壁に埋め込まれた無粋な四角い箱がたまに緑色の光を明滅させるのだが、そのわずかな光を受けて、水晶の中に閉じこめられた男の髪が緑色に輝く。胸にエクスカリバーの一撃を受けた姿のまま水晶に囚われた、レオンハルトの姿であった。
垂直に突き刺さる剣の柄を中心に取り囲むかのように、彼の体を包み込むまでに肥大化した水晶は執拗に彼を閉じこめている。血染めのシャツを羽織ってはいても、深々と心臓に刺さった剣と傷口には血糊の痕すらなく、彼は静かにまぶたを閉じ、その顔には苦痛の色さえ浮かべていない。完全な仮死状態のまま、時の止まった水晶の中で眠り続ける。黄金の巻き毛は水の中をたゆとうようで、いまにも目を覚ましそうな生気が端正な表情からうかがい知れる。かつて水晶の棺で眠っていた救世主と、立場を交換したかのようではないか。
聖救世使教会祭司長ハドリアヌスは、水晶の柱の前でじっとその様子を見つめている。辛抱強く水晶の中の男が目覚めるのを待っているのか、それともこれまで何度もそうしてきたように恨み言を言うためか、もう何時間もそこにいたかのようであった。
金糸で綴られた教会を表す鳳凰の刺繍も、周りからときたま発せられる緑色の光に反応してわずかに鈍い輝きを放つ。常に顔を隠すため口元までおろされていたフードはいまは誰もいないためにかぶっておらず、うなじのあたりに押しやられていた。見事なまでにまっすぐで曇りのない輝きを持った銀髪が押しやったフードからはみ出し、ローブを伝って腰までたらされている。四十代半ばに手が届くか届かないかくらいの精悍な顔つきに、鋭い光をたたえた緑色の瞳は、もの言わぬ伝説の聖騎士をじっと睨んでいる。ハドリアヌスを知る者がこの場にいないのが悔やまれるほど、彼の顔は偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》がみなそうであったように彫りが深く端正で、見る者を必ず萎縮させる。
「間もなく、ここ光都へ〈青き若獅子〉がやってくる。お前の力を奪った元凶であり、軌道修正用演算処理を発生させた例外要素のひとつだ」
ハドリアヌスは呪いの言葉をはき出すかのようにゆっくりと、低い声でそう言った。
「どんな気分だ。自ら呪縛を回避しようとしたその結果が、また新たな業を生み出した。お前が魂を分け与えた者は、やがて真実を知り、お前を憎むようになるだろう。そして世界は再び、同じ道をたどるだけだ」
ハドリアヌスは水晶から突き出たエクスカリバーの見事な装飾を指でなぞり、のどを鳴らして愉快そうに笑った。愛おしげに装飾をなでるうち、その笑い声は苦鳴に変わっていた。
「私を拒み続けるならそれでいい。目覚めたとて、私に従わなければならないのは分かっているはずだ。レオンハルト。ダフニスが死んだとて、お前の役目はまだ終わってはいない。それを忘れるな」
そうしてハドリアヌスは法衣の裾をわずかに払い、その手で軽く空をなでる。かすかに指をうごめかすと、中空に巨大な〈スクリーン〉が姿を現した。とはいえ、支えるものはなにもない、旧世界《ロイギル》の遺産のひとつである緑色に輝く四角い枠が空気中になにかを投影しているのみだ。
〈スクリーン〉の中では、質素ながらも質の良さそうなスーツに身を包んだラファエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム将軍が、数人の特使らしき剣士に前後を挟まれながら中央諸世界連合評議会の階段を上っていくのが映し出されていた。
「彼女を復帰させるつもりか。なんとも稚拙な時間稼ぎだったな、ヴィヴァーチェ殿」ハドリアヌスが不敵に笑う。
「さてガートルードよ、レオンハルトやダフニスがそうしたように、運命に抗うつもりなら覚えておくがいい。世界を変える代償は大きいぞ」
〈スクリーン〉のラファエラは、彼が笑ったのに気づいたかのような絶妙な間で顔を上げ、彼女を見つめる姿なき敵に向かってその険しい視線を投げかけていた。その視線を避けるようにかハドリアヌスはローブのフードを目深にかぶり直し、その口元に笑みを浮かべた。
ラファエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム将軍は、実に一ヶ月ぶりの軟禁状態を解かれ、中央諸世界連合評議会への入場を許可された。許可といっても一方的に召喚されただけのことではあったが、自分の処遇を沙汰されることとあってラファエラは毅然とした態度で臨むつもりでいた。盟友である評議会議長のアドニス・ベナワンがうまく立ち回ってくれたとはいえ、あまりにも素早い軟禁解除に心がはやる。
子どもだましのでっちあげの罪状によって自分を引き離すことでできたのは、自分の後釜にタカ派のマクスウェルを就任させ、聖騎士を含む多国籍軍をロクランへ派兵することを決定させただけだったと思いたい。まだ戦争は始まってはいない。アートハルクのロクラン占領を戦争のうちに数えないのであれば、だが。敵は、長官の任を解かれた自分を、今度はどうするつもりなのだろうか。
将軍は自分の前後を挟んで歩く特使の姿に辟易しながら、評議会の階段を踏みしめる。鈍重な評議会の扉が開かれ、ラファエラは特使たちに促されて議場へと足を踏み入れた。議会の面々の視線がいっせいに自分に注がれるのを感じながら、ラファエラはいっそう背筋を伸ばし、かつて名をはせた軍人らしく見事な敬礼をした。
空気は扉に勝るとも劣らず鈍重であった。円卓の上座にはベナワン議長が座しており、隣にはラファエラの失脚を誰よりも願っていたであろう、現中央特務執行庁長官のマクスウェルが自慢げに腰掛けていた。その周りには評議会を構成する重鎮たちが周りに雁首を揃えている。そして、その中に似つかわしくない花の顔《かんばせ》がひとつ。ラファエラを捏造疑獄に陥れた張本人、賢者ヴィヴァーチェが座っていた。
「ワルトハイム将軍。どうぞ気楽に、おかけなさい」
ベナワンの落ち着いた声がラファエラを促す。ラファエラは軽く会釈をしてから用意された椅子に腰掛けた。円卓の正面にひとりで座らされる様は、まるで弾劾裁判のようだと彼女は思った。
「およそ一ヶ月の間、評議会で調査と議論を続けました。結論から申し上げましょう。将軍、あなたの無実は確かに証明されました。本日をもって謹慎期間を終了とし、あなたの復職を承認します。また、あなたにかけられていた嫌疑はすべて事実無根であったことを中央諸世界連合評議会が証明し、冤罪であったことを陳謝するとともに、あなたの名誉回復に全力を注ぐものとします」
「ありがとうございます」
ベナワンの言葉に、ラファエラは感情のこもっていない声で礼を述べ、頭を下げた。当然のことが証明されたまでで、まだ誰が自分を陥れたかは明らかにされていないのだ。おそらく、またしても子どもじみた工作によってうやむやにされるであろう。もうこの世にいないであろう副官のマクナマラ准将にすべての責任をかぶせる形で。議長であるベナワンでは立ち回りに限界がある。問題はこのあとだ。
「行方不明のマクナマラ准将の行方については引き続き調査をしています。追って報告書をお読みください。次にあなたの今後についてですが……」
ベナワンは言いよどみ、横に座っているマクスウェル長官をちらりと見やった。マクスウェルは尊大な態度で腕を組むと、
「私から話そう。ワルトハイム将軍、あなたが身柄を拘束されてすぐに私は中央特務執行庁の臨時長官の任に就いた。そして本日正午をもって正式に長官に任命された。あなたの冤罪については気の毒に思うが、安全保障上の問題と世論を考慮したうえでの結果であることを理解していただきたい。しかしあなたはアートハルク戦争からの功労者でもある。私のもとで、今後も中央特務執行庁を支えていただきたいのですが」
「異存はありません」
事実上の左遷だ。マクスウェルの下克上は見事に成就した。配下にしてしまうことで自分を無力化できたのだから、さぞや気分のいい話だろう。
「さっそくですが、あなたには重要な任務を与えたい」
マクスウェルは数十ページにもおよぶ書類と書簡を入れる筒を取り出し、そばに控えていた官僚に手渡した。官僚は恭しく捧げ持つようにラファエラにそれを差し出す。無表情のままラファエラは筒を明け、取り出した通達書に目を走らせる。見る間に表情が青ざめ、それから分厚い報告書の表紙を睨みつけた。もったいつけたような書体で、ロクランへの多国籍軍派遣の作戦名が記されている。
「ロクランへの派兵が議会で承認されたことはご存じだと思うが、あなたには多国籍軍の指揮を執っていただきたい。日時はそこに記されているとおりだが、追って詳細は通達するものとする」
ラファエラの表情は怒りに紅潮するどころか、見事なまでに血の気が引き、青ざめている。つまり彼女を最前線に送り込み、葬り去ることと同義ではないか。
「発表もせず、秘密裏に挙兵するということですか……! これではまるで……!」
「記者への発表を控えたのも、情報漏洩防止のためだとご理解いただきたい。どこにアートハルクの目があるか分からぬ現状では、作戦開始直後までこちらの作戦を知られたくはない。中央特務執行庁としては軍の安全を最優先させたいのだ」
「世論は黙っておりますまい、マクスウェル長官。平和団体の抗議活動でエルメネス大陸はさぞやわくことでしょう。それに、これだけの兵を挙げたあと、光都やその他の地域の安全保障はどうなさるおつもりで。敵はロクランにいるアートハルク兵のみならず、大陸全土に散らばって身を潜めている、辺境の民を束ねた多国籍軍です。重要拠点での彼らの破壊活動も視野に入れるべきです」
無能。あまりにも浅慮すぎる。ラファエラは知らずに拳を握りしめていた。
「それについてはご心配なく」
突然、鈴の鳴るような声が間に入る。ヴィヴァーチェであった。ラファエラは鋭い視線を彼女に投げかけたが、賢者は気にもとめない様子で口元にうっすらと笑みさえ浮かべた。
「兵力の分配についてはすべて調整済みです。すでに司祭長ハドリアヌス様以下、聖救世使教会、智恵院の全面的なご支持をいただいており、光都の守護には旧世界《ロイギル》の遺産の一部をご提供いただけるとのこと」
「グランディエ条約をお忘れですか。第一種、第二種の攻撃用兵器を実践へ投入することは禁止されているのはご存じのはず」
智恵院が引っ張り出してくる遺産など、一般人が恩恵にあずかることなど絶対にないどころか、その存在すら知られていない大量破壊兵器そのものではないか。
「それもご心配なく。そのグランディエ条約に記されている第三種の守護兵器のみです。本日より光都から送電される電力が一部制限されるとともに、グレイブバリー周辺で整備が行われている守護兵器への電力供給が始まります。二百年ぶりに粒子結界が復活することでしょう」
全面戦争を引き起こす気概は十分にあるということだ。それにしても気になるのは、ヴィヴァーチェが隠遁生活を送っていたグレイブバリーの遺産の数々に、彼女自身が中央に手を触れさせることを許可することだ。まるでマクスウェルの副官にでもなったつもりの采配ぶりに加え、グレイブバリーの整備とは。
いや、まさか──。
「ロクランでの決着は、あなたの采配にかかっている。期待しておりますぞ、将軍。それでは、質疑応答については明朝、中央特務執行庁にて作戦会議を開くのでその場にて承ることとしよう。それまでその資料を読んでおいていただきたい。よろしいですかな、ワルトハイム将軍」
勝ち誇ったようなマクスウェル長官の言葉に、ラファエラは無言で唇をかみしめた。
「それでは、以上をもって閉会といたします」
ベナワンの声とともに、議場にいた面々が立ち上がり、ラファエラの脇をすり抜けていく。彼女はそれを無言のまま横目で見送るのだが、ふわりと風が舞うような気配がしたので顔を上げると、ヴィヴァーチェがすぐ傍らに立っていた。
「歴戦の勇士ともなると心配性なのは理解できますが、いまはご自身の任務の完遂に集中していただかなければ。長官もおっしゃったように、あなたの双肩にロクランの運命がかかっているのですよ」
ラファエラは嫌悪の表情で女賢者を見つめた。ヴィヴァーチェは困ったように小さくため息をつくと、
「ええ、あらぬ嫌疑であなたを引きずり落とした私の罪については承知しています。それについては別の機会を設けてお詫びを」
「お気遣いなく、情報戦ではよくある話です。それに、任務についても同様にお気遣いは無用。私は軍人です。命令とあらばそれを遂行するのが私の務め」
「それを聞いて安心しましたわ。民も、前衛をあなたが指揮し、守護兵器が守ってくれると知れば安心でしょう」
「そうだといいのですが」
依然として無表情のまま、ラファエラはヴィヴァーチェの顔の表情の変化をつぶさに観察していた。見た目にはなんら変わることがないのに、光都へ戻ってきたばかりのときに感じた邪気は薄れるどころか、ますます強まっているようだった。
「ときにヴィヴァーチェ殿」
「なにか?」
「エチエンヌ殿はいずこへ?」
「ご存じなかったのですか? ワルトハイム将軍」
ヴィヴァーチェは愁いを含んだ瞳を伏せ、ため息をついた。邪悪な香りを乗せて。
「彼はわたくしの暗殺容疑で身柄を拘束されました。長年信じてきた者に裏切られるのは、本当に悲しいことです」
「そうですか。常にあなたの影のように付き添っていた青年でしたからね。心中お察し申し上げます」
そう言って、ラファエラは形ばかりの言葉を投げかけた。それを合図にヴィヴァーチェは軽く会釈をすると、長いローブの裾を少しだけつまんでしとやかに議場を後にした。
ラファエラはその後ろ姿を見送ることなく、議長席にいまだ座ったままのベナワンを見つめている。ベナワンはラファエラの言いたいことが分かったとでも言うように、無言で頷いてみせた。
「アドニス・ベナワン、レイザークはまだですか」
「もう少し時間がかかりそうです」
「ではほかの同志でもかまいません。彼女に監視を」
「ご心配なく、すでに手配済みです」
事務方とはいえ、ベナワンの働きには頭が下がる。
「それから気になることがあるので、調べていただけませんか」
「なんなりと」
「古い文献で、光都の〈要石〉の位置を正確に記したものをご存じありませんか?」
「光都の……。はて……」
アドニス・ベナワン議長は顎に手を当てて考える。
「誰になんの得があってか、私には分かりません。杞憂であってくれればいいのですが」ラファエラは額に手を当て、偏頭痛を和らげようとしているようだった。
「グレイブバリーでの守護兵器の整備が気になります。グレイブバリーから要石への通路を探り当てられ、内部から解放されればひとたまりもありません。私はまもなく前線へ赴く身、レイザークにそう伝えてください」
「分かりました。最優先事項で調べさせましょう」
ベナワンは頷いた。
時間がない。一刻も早く、この流れの中心にいる者の動きを止めなければ。ラファエラは握っていた拳をゆるりと開き、それを胸に押し当てて、昂ぶった気持ちを落ち着けるために深呼吸をした。
「レイザーク、早く光都へ。時間はもうないのです」