第二十七話:光都へ連なる道

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 陽気な鼻歌を歌いながらほうきを振り上げ、ちりとりの柄をクルクル回しながら廊下を歩いているのはベゼルだった。今日はやけに天気がいい。風がないのは洗濯物を干すのに少し不十分かと思ったが、この天気ならすぐに乾くだろうと、洗ったものを庭の物干し竿にすべて干し終えたばかりだった。その後、老朽化した扉をバタンと閉めたときにパラパラと天井から降り注ぐ埃に顔をしかめながらもきわめて機嫌のよい彼女は、得意の掃除に取りかかろうとしていたところだった。
 廊下の突き当たりの奥の立て付けの悪い扉を開けると、ベゼルは思わず「うげぇ」と下品な声をあげた。
 先日から居候をすることになった金髪の青年の部屋であったが、その部屋の中の惨状に、ベゼルは大人びた大きなため息をついた。
 ベッドからずり落ちたシーツに、本来なら足のある場所に横たわる枕。いったいどういう寝方をすればこうなるのか、その寝相の悪さは想像すらできない。のみならず、色気のない鞄から無理矢理引っ張り出されたシャツやらGパンやらが床に散乱しているし、クローゼットは開けっ放しで、鞄から出したばかりと思われる中央特使の制服はしわだらけ。ハンガーにきちんとかければいいものを、肩の部分がずり落ちてしまっていて、型くずれしてもおかしくない状態でぶらさがっている。しかもハンガーの向きは、ベゼルのポリシーに反して右向きになっているのだ。
「ったく。寝相は悪いわ寝起きの機嫌の悪さは天下一品だわだらしないわ、ホント信じられないやつ! ハンガーは左向きにそろえておけっての!」
 ベゼルはほうきを肩に担ぎ上げ、悪態をつきながらセテの鞄を足で蹴り上げた。ぱさりとGパンが床に投げ出されるのと同時に、セテの下着までもが鞄から飛び出してきたので、ベゼルはあわててそれを鞄の中に押し込み、もう一度ため息をついた。
「まぁ、しゃーねーか。あいつにゃ食事の世話になってるわけだし」
 ベゼルは手に持っていたほうきとちりとりを壁に立てかけると、観念してセテの部屋の片づけを決意した。
 このだらしなさを掃除好きのベゼルに容認させるほど、セテの料理大臣としての腕は認知されているものであった。加えて、不用意に起こしにきたベゼルを凶悪な表情で迎える超絶な機嫌の悪さや、まだどことなく卑屈っぽい態度であるとか、レイザークに見せるとげのある態度も、まぁ顔がいいから許してやらないでもない。そして同じ頃、あの青年が台所で自分たちに悪態をついているであろうことも加味すれば、お互い様なのかもしれない。そう思えば、この部屋に入った瞬間の脳天をつきぬける憤りも緩和されるというものだ。
 ベゼルとしては不本意ではあったが、レイザークのほかに共同生活者ができたことが、彼女にセテの悪行を許させてしまうに違いなかった。
 ベゼルはベッドのシーツを直しながら、自分を奮い立たせるために鼻歌を歌い始めた。やはり同じ頃、廊下を隔てた台所のほうから、セテが激しく毒づき、悪態をつく声が聞こえてきたので、ベゼルは努めて聞こえぬふりをしようと思った。
 セテはというと、さきほど買い出しから帰ってきたところで、食事の後の食器類の扱いのひどさや、誰も洗い物に手をつけようとしていないこと、食べ残しのゴミとほかのゴミとの分類がなされていないこと、ついでに貯蔵庫の奥で腐った果物の残骸を見つけたことで激しく毒づいて、聞こえよがしに悪口雑言をはき出しているところだった。
「ちくしょう! あいつら絶対に俺を厨房係と間違えてやがる! 俺はあいつらの残飯を片づけるためにここにいるんじゃねえっつーの!! あークソ! めちゃくちゃハラたつ!!」
 とかなんとか、セテがゴミ箱をドカドカと足で蹴り上げながら悪態をつくのが聞こえてきたので、ベゼルはいい気味とばかりにすました顔をして手早くベッドを片づけ、クローゼットのハンガーにセテの洋服をかけていく。
 そのうちに、のんきにドアを開けて部屋に入ってくる家主の気配に気づいて、ベゼルは掃除の手を止めた。レイザークが戻ってきたに違いなかった。またしてもレイザークとセテが言い争いを、いや、一方的にセテがレイザークに罵詈雑言を投げかけるに違いにないと思ったベゼルは、あわてて廊下に飛び出した。
「おう、片づけか。感心感心」
 あくまでのんきにそんなことを言うレイザークに、セテは台所からすっ飛んできてレイザークをにらみつける。いつもなら壮絶な言い争いに発展するのだが、今回は踏みとどまったのか、セテは再びギロリとレイザークを見つめ、
「あんたって本当にお気楽だよな。毎日毎日どこに行ってるんだか知らないけど、聖騎士ってのは本当にヒマなんだな」
 アジェンタスの一件の後、長期休暇を取ったのだというレイザークにセテの嫌みが炸裂する。
「人の休みをとやかく言えるのか、お前は。お前だって無期休職食らってブラブラしてるようなもんだろうが。身の回りの世話を任されているだけありがたく思え。それとも休みが貯まって貯まってしかたない俺がうらやましくてたまらんのか。まぁそうだろうなぁ。お前ら下っ端の初年度の有給といったらアレだもんなぁ」
「あーはいはい。そうだよ、あーそうだとも」
 セテは生返事を返してまた台所に戻っていった。
 聖騎士はあらゆる点で優遇されているらしい。レイザークの話によれば、彼ら聖騎士の有給休暇は、ほぼ永久に繰り越しされるのだという。聞けばレイザークにはここ二、三年で貯まった有給休暇があるらしく、それらをすべて合わせれば、ゆうに数ヶ月単位の長期休暇ができあがるのだそうだ。セテのような中央特使であっても、初年度から昇格までの数年は半年分しか翌年に繰り越しされず、残った休暇はすべて消滅してしまうのだから、うらやましくないといえば嘘になる。
 だがその長期休暇中に、レイザークがふらふら出かけて行っては数日帰ってこないといった奇行をするたびに、セテはいったいこの熊のような聖騎士が何をやっているのか不思議でならなかった。剣を携えて出て行くことから、女のところに入り浸っているふうでもない。この大柄な色黒の聖騎士について、セテにはまだまだ知らないことが多すぎるようだった。
「レイザーク、いるか!?」
 突然ドアを開けて駆け込んできた男に、セテは台所から顔を出した。何度かこの家の主を訪ねてやってくる男だったので見知ってはいた。中央の要人らしい服装をしているわけでもないし、かといってただの町の人間というわけでもなさそうだった。その証拠に、聖騎士とまではいかないまでも、剣士が持つ特有の匂いがプンプンする。おまけに、この男の話し言葉に微妙に辺境なまりがあるのが気になる。なにか厄介なつきあいをしていなければいいがと、セテはいっしょにいるベゼルのことが心配になるときがあった。
「どうした。なんかあったのか」
 帰宅してくつろごうと、グラスに強い酒をなみなみと注いでいるレイザークが、入ってきた男の姿を見た瞬間に名残惜しげにグラスをテーブルにおく。セテは男に軽く会釈をして引っ込もうと思ったのだが、なんとなく間が悪くて男とレイザークの後ろで立ちつくすはめになってしまった。
 男はセテがいるのをチラリと見た後、レイザークに小走りで近づくとセテに聞こえないように耳打ちをする。レイザークの派手なキズのある強面がとたんに険しくなる。よほど自分に聞かれたくないのだろうと、セテはばつが悪くなって引っ込もうとしたのだったが。
「おい小僧。手、空いてるか」
 レイザークが突然セテを呼び止める。またしても小僧と呼ばれたことでセテの眉間に無意識のしわが寄るのだったが、いつものことなので訂正させる気力も萎えるというものだ。セテが憤慨したように鼻を鳴らすがそんなことにはおかまいなく、レイザークは顎をしゃくると、
「ヒマなら飛影《とびかげ》を持ってついてこい」
 とたんにセテの身体がこわばる。愛おしい父の剣の名前を聞いただけで背筋が伸びるのはいつものことだったが、今日はレイザークとその隣に立つ男のただならぬ表情に不吉なものを感じたのだ。言われるままに自分の部屋まで飛影を取って帰ると、レイザークは先に立って外に出、その際に不安そうにしているベゼルに戸締まりをよくして外に出ないように言い渡す。
「おい、なんだってんだよ、いきなり……!」
 セテが飛影をひっつかんでレイザークの後を追っていくと、レイザークと男は無言でセテに空を見るように身振りで示した。見れば遙か南方の空、おそらくはロクランの方面かと思われるのだが、抜けるような青に混じって、細かく明滅する白い光が無数に広がり、それが徐々にこちらに向かってきているようだ。竜巻や雨雲などの自然現象の類でないことは、その定期的に明滅する様から一目瞭然だった。
 レイザークの元にやってきた男は、どうやら使いの者のようであった。その証拠に、彼は外に二頭の栗毛の馬をつないでいた。一頭は自分が乗ってきたものらしく、愛おしげになでてやってからその手綱をレイザークに手渡した。レイザークはそれにまたがり、セテにももう一頭に乗るように仕草で命じた。
 とりあえず急いで剣帯を腰に巻き、そこに飛影を結びつけると、セテは勢いをつけて馬に飛び乗る。それを合図に、レイザークの馬は走り出し、続いてセテも馬を駆ってその後に続いた。後ろから男が、辺境の言葉によく似た言葉でなにか注意を喚起するようなことを叫んでいるのが聞こえた。
「おい、おっさん! いい加減説明してくれてもいいだろ? なんだってんだよ!」
 セテは全速で駆けていくレイザークの後を追いながら大声で訪ねた。心なしか周囲の空気がピリピリする。訓練の際に何度かしか体験したことがなかったが、術法が発動する直前の気配によく似ているとセテは思った。それに、さきほどまでおかしいくらいに風の気配がしなかったのに、肌を刺すような気配に混じって、不吉な風の匂いがする。
「びびって小便もらさないって約束できるんなら教えてやるがな」
 レイザークが口元に嫌みな笑みを浮かべて振り返る。セテが悪態をつく間もなく、レイザークは南方の空を指さすと、
「ついさっきのことだ。風の結界がゆるみはじめて膨張しているらしいとアジェンタス騎士団の師団から連絡が入ったんだそうだ。それで外を見ればあんな状態だ。どうやら風の封印が活性化しているらしく、空間が歪んでできた隙間から続々と風属性のモンスターどもが出てこようとしているんだとさ」
「風の封印!?」
「まさか中央騎士大学で習わなかったとでも言うんじゃなかろうな」
「バカにすんなよ。それくらい知ってる。偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の定義した四大元素のひとつだろ」
「おー感心感心」
「茶化すなよ、おっさん。でも、いままでだって結界がゆるんでモンスターが飛び出てくるなんてザラだったのに」
「それが今回ばかりはケタはずれの歪みが観測されたんだそうだ。よくわからんが、今までとは比べものにならんほどの大きな歪みがあの空の向こうからやってきているんだと。その余波を受けて、アジェンタシミルを含むアジェンタスのあちこちでたいへんなことになっているんだそうだ。アジェンタス騎士団はいまじゃ復興作業もあって大わらわだってんで、なに、ちょいと慈善事業ってことでな」
「慈善事業って、あんた聖騎士だろうが」
 セテが嫌悪もあらわにそう言うが、レイザークはいっこうに気にしない様子で前方の空ばかりを見つめている。
 しばらく街道を走っているとレイザークが唐突に馬を止めたので、あわてて後ろにいたセテも馬の手綱を引き絞った。剣を携えた何人かの男がこちらに気づいてレイザークを振り返る。みな不安を隠せない緊張した面持ちだったが、大柄な聖騎士が到着したことで少しだけ安堵の表情を見せる。
「おお、きたかレイザーク」
 数人の男に混じって、術者がまとうローブに似た裾の長い衣服を身につけた初老の男がいたが、彼はレイザークの姿を見つけると大急ぎで走り寄ってきた。
「どんな様子だ」
 レイザークはいつもの強面に眉間にしわを寄せ、さらに輪をかけて凶悪な表情で訪ねる。初老の男はすぐそばの民家の脇を指さすと、
「あちこちで結界がゆるみ始めている。まるであの空の稲光に呼応するかのようだ。いま数人のやつらが必死で結界を補強しているが、あのとおり、時間の問題だ」
 見れば、男が指さした貧しげな一軒家のすぐ脇、これまた粗末な木の柵のあたりの空間が、まるで分厚いレンズかなにかを通して見ているかのように奇妙にゆらめき、歪んでいる。それはちょうど大きめの盆くらいの大きさなのだが、徐々に白い稲光を発しながら成長していくのが見て取れた。生命を得た空気が身体をよじっているかのようにも見えた。
「こんなのがアジェンタスのあちこちで発生してるのか」
 レイザークが愉快そうに鼻を鳴らして言うので、セテが抗議をしようとその顔をにらみつけたが、実のところ表情は笑ってはいなかった。
「アジェンタスどころか、おそらくエルメネス大陸のあちこちに飛び火してるんだろうよ。なんたってこの波動は前代未聞、どこかのバカが〈風の核〉にでも手を触れたんでなけりゃ、これほどビンビンくるようなことにはならんわい」
 おそらくこの初老の男は術者くずれなのだろう。並の人間に四大元素の波動を肌で感じられるほどの力はない。だが、いったいどうしてレイザークと顔見知りなのか、セテにはまったく理解ができない。辺境ならともかく、中央の機関やしかるべき寺院に属していない術者が、のんきに郊外でブラブラしていることなどあり得ないのだ。しかも、アジェンタシミル崩壊直後のいまとあってはなおさらだ。
「ふん。このザマじゃ結界も役にたたんだろう。偉大なる我らが支配者が作った悪趣味なおもちゃが、虚数空間から出てくるまで時間はかかるまい。結界が崩壊した後、実体化したやつらを殲滅する。剣士を集めて叩くからお前さんらは俺たちの背後で援護を頼む」
 レイザークはローブを着た男にそう指図すると、周りにいた剣士たちを集めて陣を組ませる。初老の男をはじめとする幾人かの術者がその後ろに陣取り、結界に集中していた気力を前衛の剣士たちに移して防御壁を形作った。
「俺は?」
 周りの男たちが手際よく隊列を作るのをキョロキョロと見ながらセテが訪ねる。
「俺の後ろでよーく見ておくんだな。ホンモノの戦い方ってやつをな」
「俺は……!」
 いつかのときのように、モンスター相手にまで剣を振るえずに硬直してしまうのではないか。セテはそれを恐れてそう言いかけたのだったが。
「なあに。復帰第一線ってやつだ。安心しろ。役に立たなかったらそのまま見殺しにしてやる」
 そうこうしている間に、歪んだ空気が大きくたわみ、白い稲光を放ちながらうねる。砂時計がはじけるのにも似て瞬発的に空気の飛沫を飛び散らせると、かつて偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》が発見したという虚数空間へ続く暗黒の入り口が大きく口を開けた。
 生身の人間どころか、いかなる生物も存在し得ない、空気も上も下もないその空間。そこに汎大陸戦争以前から大戦中に暴れ回ったモンスターは追いやられ、絶滅するはずだった。だが、恐ろしげな姿をしたモンスターどもは生きながらえてきたのだ。
 伝承によれば、イーシュ・ラミナは旧世界《ロイギル》の時代に古くから伝わる伝説の怪物に似せて、さまざまなモンスターを開発したのだという。多くは戦闘用である。重要な施設の門番として、あるいは強大な術を放ったあとに前後不覚に陥る自分の身を守る護衛として。
 だがイーシュ・ラミナの科学力は、彼らに信じがたい戦闘能力を与えたばかりか、神々にも背く生命力を与えてしまったというわけだ。彼らの技術力を受け継いだ人間がさらなる戦闘能力を彼らに与え、世に言う汎大陸戦争が勃発するころには、モンスターはすでに制御不能に陥り、やがて、解かれた暗黒の炎の結界からよみがえった最悪にして最強の炎の化身によって、世界が灰燼と化す一歩手前までいったのは周知の事実である。炎の化身フレイムタイラントを屠った後、いまだ暴れ回るさまざまなモンスターを虚数空間に追いやったのも聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》の偉業のひとつでもあったが、それが二百年後の今日、結界の威力そのものが薄れてきているのだという。たまにほころんだ結界から実体化してくるモンスターの退治をするのは騎士団の立派な仕事のひとつでもあったが、それも最近頻繁に起こるのはどうしたことだろうか。
 突然の雄叫びとともに、ぽっかりと口を開けた虚数空間の入り口からすさまじい勢いの風が吹き出す。あわてて足を踏みしめた一行が見たのは、巨大なカラスほどの大きさのモンスターの群れが、我先にと結界の裂け目からこちらにはい出てこようとしているところであった。
「くるぞ! 構えろ!」
 レイザークの怒鳴り声に混じって、前衛の剣士たちがガシャガシャと音を立てて剣を構え直す音が聞こえる。セテも倣って剣を握りしめるのだったが、高鳴る心臓の音とともにひどくせわしなく聞こえてくる耳障りな金属音に顔をしかめた。
 いつもの予兆だ。この耳鳴りがひどくなったときには、また見境もなく剣を振るって狂戦士《ベルセルク》と化してしまうかもしれない。そう思っただけで呼吸が荒くなり、それなのに息苦しくて肩が震え出す。
「おい」
 突然振り向いたレイザークに胸ぐらを捕まれ、セテは我に返った。
「てめえの両足が地に、両腕がそこに、身体がここにあるってことに意識を集中しろ。敵の姿ばかりに気を取られるな」
 それだけ言うとレイザークはくるりと背を向け、おなじみの巨大な剣を振りかざしながら呪文の詠唱に入る。
 レイザークがどんな術法を得意とするのかは分からないが、かの大柄な聖騎士は器用に術を剣に乗せ、大きく振りかぶった。第一撃が、結界の隙間から頭を出して抜けようとしていたモンスターたちを撃破する。カラスの姿をした風属性のモンスターどもはキィキィと甲高い悲鳴を上げて消滅していく。間髪入れずにレイザークは高速言語による圧縮呪文を展開、続けざまに第二波を繰り出した。
 手際よく呪文を詠唱し、自分の有利なように戦闘の展開を運んでいくレイザークの姿に、セテはしばし言葉を忘れて見入ってしまう。レオンハルトほどに華麗ではないが、だが同じパラディンの称号を持つ聖騎士であるレイザークは、確かにすばらしい戦闘能力の持ち主だ。
 その動きを見ているうちに、先ほどから身体を苛んでいた震えは止まり、手のひらの汗もひいていた。加えてさきほどの一言。レイザークのあの言葉のおかげで耳鳴りに気を取られることなく、意識を保っていられるような気がする。もしかしたら、自分の気が落ち着くのを待つために、こうして後ろにかばって戦っているのかもしれない。熊のような聖騎士の思いやりだとは絶対に思いたくなかったが、気がはるかに楽になったのは確かだった。
 いまなら戦える。もう悪夢になど縛られるものか。
 セテは飛影を握る左腕に力を込め、鬨の声をあげてモンスターの一群めがけて剣を振り上げた。






 いつになく晴れ渡り、澄んだ空だと誰もが思った。風が歯切れのよい音を立てながらよどんだ空気を運び去っていくのを、〈風の一族〉と集落の人々の肌がしっかりと感じ取っていた。だが。
 風を象徴する化け物がえぐった地面の生々しい傷跡はそのままに、ふたつの部族はいま互いを前に困惑を隠しきれずにいた。この会見を可能にしたのは、ナギサの叔母にあたるマハであった。しかし、十数年にわたる確執が産んだ偏見と憎悪がそうたやすく消え去るものではないことは、マハもナギサも、そしてふたつの部族の長老たちも十分理解していた。しかも、〈風の封印〉の化け物を解き放ったナギサの浅はかな行動はもちろん、〈風の一族〉を根絶やしにしようとアートハルク帝国に援軍を要請した集落側の行為は許されるものではない。双方の死者は併せて数十名にも上る。特に、〈ドラゴンフライ〉に乗ったアートハルク帝国の騎兵に命を奪われた〈風の一族〉の若者の数は、集落の人間の数を遙かに上回っていた。
 形式ばかりの誓約書と握手が交わされ、気のない拍手で会見は終わった。傷ついた人々は、まだ立ち直れない疲れた身体を引きずって、崩れかけた岩盤の脇に口を開けるおのおのの住まいへと戻っていく。その姿がいたたまれなくて、サーシェスはぎゅっと唇を引き結び、胸に手を当てた。
「どうしたね」
〈風の一族〉の長老ジェイドがサーシェスの肩をポンと叩いた。不安そうに集落の住民たちが帰っていくのを見つめていたマハもまた、長老の声に我に返る。
「これで争いはなくなった……はずですよね」
 我ながら間抜けな台詞だとは思ったが、サーシェスは己の胸のうちの不安をすべてさらけ出すための言葉をこれしか思いつかなかった。
「ふむ。表向きは、な。〈風の核〉が再び封印されたおかげで被害は確かに少なくすんだがの。あれがフレイムタイラント級の威力を持っておったら、汎大陸戦争の二の舞ではすまなかったであろう。〈聖石〉は我ら〈風の一族〉が管理することになったが、その気象装置としての機能は彼らと共有することになったしのう。だが汎大陸戦争が終結して二百年続いた確執がすぐに消えるわけではあるまい。ふつうの人間からしたら、風の力を操れる、背格好の違う種族などやはり恐ろしげな隣人以外のなにものでもないであろうからの」
 長老は集落に戻っていく人々の後ろ姿を見ながらつぶやくようにそう言い、ため息をついた。
「芝居や小説のように、紛争が解決されたからといって、めでたしめでたしで終わることなどないということじゃよ。これからの対応のほうがよほど骨が折れる」
「確かに、今回の件でここの集落を出て行って他の土地に移る決意をした者も何人かおりますが……」
 マハが長老の言葉を受けてため息をつきながらそう言った。彼女は今回の件でナギサが自分の姪であることを集落の人々に認めさせ、協議の末に集落の長の補佐役として働きかける役目を担うことになったのだそうだ。
「長老組の中にはいまだ根強い中央への反感が続いていますし、中央に正式に認められていない以上は、どこに行っても難民扱い。私たちはこの土地で生きていくしかほかに方法がありませんもの」
 マハは寂しそうにそう言い、笑った。だがすぐに長老の骨張った手を取ると、
「でもだいじょうぶ。まだ私たちにはやり直せる時間はありますわ。私とナギサが架け橋になって、いつか胸を張って中央に掛け合えるようにまとめていきますとも」
 母は強い。サーシェスはマハの力強い宣誓に心を動かされる。
 マハと〈風の一族〉との関わりは、姉の犯した『過ち』から始まる。マハの姉は、〈風の一族〉の次代の長に目されていた若者と恋に落ち、そしてナギサを産んだ。当然、親子三人で同居することなどかなわなかったために、ナギサは母と引き離され〈風の一族〉の居住区で暮らすことを余儀なくされた。まもなく父が亡くなったのち、娘と引き離され悲嘆にくれていた母親も病に倒れ、夫を追うように息を引き取ったのだという。
 マハは姉が毎日泣き暮らしているのにどうしようもなく腹を立てていた。我が子がかわいいなら、なぜ死を覚悟するほどの根性を見せて〈風の一族〉へ掛け合いにいかないのかと、なぜ後ろ向きに自分の過ちばかりを責めているのかと思った。だが十年前、デニスが村長に就任してから、彼女は姉と同じ思いをかみしめることとなった。
 姉が死んでまもなく、ひとりの男が集落にたどり着いたのだそうだ。そのときは知るよしもなかったのだが、男は中央の第一級犯罪者で、追跡を逃れるために〈地獄の鍋〉に身を投じたという。男の看病をしているうちにマハは彼と恋に落ち、やがて息子を一人もうけることとなる。
 親子三人水入らずで暮らしていたのだが、デニスが村長になってから集落の雰囲気は大きく変わった。デニスはマハの夫の過去をすべて調べ上げており(おそらくはこのころからアートハルク帝国などと情報のつながりがあったのではないかと推測される)、このほかにも集落に逃げ込んできた怪しげな過去を持つ者すべてを糾弾し始めたのだ。〈風の一族〉の聖地に入り込んで〈聖石〉を盗み出したことで全面戦争になることを覚悟していた彼が、集落の人間の結束を固めるために行ったことではあったが、それにより多くの者が集落から追放された。当然、マハの夫も息子を連れてどこかよその土地へ去っていってしまったのだ。
 夫と息子を捜しに行くこともままならず、いま生きているのかさえ分からない彼女はたいへん悲しんだが、だが姉のように毎日を悲嘆に暮れて過ごすことだけはしたくなかったのだという。
 彼女は恐ろしく前向きに物事を考える性質《たち》なのだと、マハはサーシェスに笑ってそう言った。そして、血のつながりのあるナギサが生きていて、すぐに会える距離にいるのだということに、神々に感謝を捧げたいくらいだと。
「さて、サーシェス、あんたはこれからどうするつもりだい?」
 物思いにふけっているところでマハに声をかけられ、サーシェスは我に返った。
「あんたは集落を救った英雄なんだから、もし行くあてがないのならいつまででもここにいてもかまわないんだよ」
 言われて、サーシェスは後ろにいるナギサと長老を困惑したように振り返った。
〈ドラゴンフライ〉に乗って飛び出していったあと、風の化身にたたき落とされたあとの記憶は定かではない。あとで長老が話してくれたことから、自分の意識のないところでまた大暴れしたのだということを知って驚愕したのだったが──。
「その……。私は光都へ行きたいんです。探している人にも会いたい」
「人捜し?」
「ええ」
 そう。ロクランから光都オレリア・ルアーノに行くことは決まっていた。途中厄介なことに巻き込まれてここに一時足止めとなったが、それは自分の意志でもあった。光都に行って未来を知る預言者とやらに会い、自分が何者なのかを知りたい。自分が自分でなくなってしまう前に、早く──。そんな気持ちが彼女を駆り立てる。それに──。
 フライスも同じことを考えているかもしれない。光都に行くまでに、フライスに会えるかもしれない。漠然とだが心のどこかで直感がそう叫んでいる。
 ああ、それにセテ、アスターシャ、彼らの安否が気になる。光都へ行かなければ。光都へ行って私は──。
「ふむ。お嬢さん、そなたの探し人はすぐに見つかるであろうよ」
 長老の言葉にサーシェスは驚いて振り返る。
「予言、ですか? あなたも未来が見える?」
「いやいや、予知などできるのは、失われた神々と、オレリア・ルアーノの美しき女賢者だけじゃよ。ただ、風が騒いでおる。なんとなくそんな気がしただけじゃよ」
 ぬか喜びにサーシェスは小さく肩を落とした。
「なに、そんなにしょげるでもない。昔からよく言うであろう。信じていれば報われる、とな」
 長老の言葉に、端で聞いていたマハが大きく頷く。彼女も信じているのだ。夫と息子が、この世界のどこかで生きていることを。サーシェスは顔を上げ、努めてにっこりと笑い返した。
「だがお嬢さん。ゆめゆめ忘れるでないぞ」
 長老はサーシェスの手を取り、その瞳をじっと見つめる。
「そなたの身体はもはやそなたひとりのものではないということを。そして、そなたの運命がそなたひとりのものではないということを」
「どういう意味です?」
 訪ねたが、長老はうんうんと頷くだけで答えてはくれなかった。すると、今度はナギサが前に出てきて、サーシェスの両手を取る。
「忘れないで、サーシェス」
「な、なによナギサ。いきなり改まって」
「どこに行っても私たち〈風の一族〉はあなたに全力を尽くす。中央でもアートハルクでもない、私たちの『救世主』はあなた以外にはありえないのだということを」
 その熱っぽい言葉にサーシェスは我が耳を疑うほどだった。
「あなたに、救世主《メシア》と黄昏の神々の加護のあらんことを」
 サーシェスの両手を握る手に力がこもる。ナギサの力強い瞳が、優しくほほえんだ。






 唐突に意識が現実に引き戻される感覚。小さくうめきながら目を開けると、しみの残る薄汚い天井がぼんやりと見えた。
 セテはもう一度うめいて身体を起こす。自分の部屋のベッドに寝ていたのがようやく分かったのだが、その前後の記憶が定かではない。目を覚ます直前にサーシェスの夢を見たような気がして、セテはふと自分の右手のひらにある銀色の傷跡に目をやる。
 銀色の傷跡は少し熱を持っているようで赤く浮かび上がっていた。もう何カ月も経つというのに、ときたまサーシェスとの絆はこうして刺すような痛みと懐かしさをもたらす。なぜだか分からないが、ロクランにいるあの少女が、無事で生きているのだという実感があった。
 セテはベッドの上に座り直し、少し寝癖の残る髪をかき上げて記憶を反芻する。確かレイザークに連れ出されて、風の封印とやらがゆるんだおかげで飛び出してきたモンスターの退治に向かったはずだ。巨大なカラスのような姿をしたモンスターに、レイザークの鮮やかな術法が何度か炸裂するのをこの目で確かに見た記憶がある。そのあと自分も剣を振り上げて突進したはずなのだが──。
 そこからの記憶がほとんどない。ということは。
 セテは自分の両肩を抱くように手を回して身体を震わせた。また、やってしまったのだろうか。剣を持つときに必ず見舞われる耳鳴りに踊らされて、めちゃくちゃに剣を振るっていたのか、それとも、なにもできずに硬直してぶっ倒れてしまったのか。
 ノックなしに突然開いたドアに、セテは飛び上がらんばかりに驚く。のっそりとドアの向こうから顔を出したのは、熊のような図体のレイザークであった。
「なんだ。起きてたのか」
 少し様子を見に来たつもりだったのだろう、ドアをほんの少しだけ開けて首だけ部屋に突っ込んでいたのだったが、セテが起きているのでレイザークはドアを後ろ手で閉めながら部屋に入ってきた。
「調子はどうだ」
「おっさん、俺……」
「その『おっさん』ってのやめろ。今度言ったらそのケツをフレイムタイラントに食わせてやる」
 レイザークの軽口にも取り合わず、セテはレイザークを不安そうに見つめる。それからまた前髪を掻き上げると、
「俺、またやっちゃったのかな。ぶっ倒れたの、あんたが運んでくれたんだろ?」
「お前、覚えとらんのか」
 レイザークは信じられないといった様子でうめくと、セテの正面に椅子を持ってきてドッカリと腰を下ろした。
「お前、術法がてんでだめだなんて嘘だろ。あれだけ派手にやらかしといて」
「は? 何言って……」
「それはこっちの台詞だ。モンスターどもが結界を突き破って出てきてから、俺たちは剣を振り回してたんだがな。どんどん増えてくるやつらに手こずっていたところだ。それでお前もようやく剣を振り上げて戦闘に参加したんだが、ここまでは覚えてるな。その後、空の向こう側でこれまでとは比べモンにならんくらいの閃光と地響きが起こって、ますますモンスターの実体化が激しくなりやがった。ところがだ」
 レイザークがいったん言葉を句切ったので、セテは生唾を飲み込み、その先を待った。
「お前、突然膝をついたかと思ったら、うめき声を上げてうずくまりやがったんだ。俺はまたいつものアレかと思ってやれやれと思ったんだがな。その直後」
 セテが両手を地面についたところから淡い光がにじみ出してきたのだという。その光はやがてセテの周りを取り囲むかのように丸い輪を形作り、地面には術者が使うような魔法陣にも似た円が浮かび上がった。そしてセテははじかれたように身体を起こし、剣を構えたまま右手を差し出したのだそうだ。
「聞いたこともない詠唱だったがな。早口でまくしたてるように呪文を詠唱したあと、ああ、おそらく高速言語の類だろうがな、そいつがいきなり俺たちの目の前で炸裂しやがった。その衝撃といったら、周りで見ていた俺たちまで巻き添えにするかってなくらいだ。結界めがけて白い稲光が、こう、グワーッと向かっていってな」
 レイザークは両手を使って大げさな身振りでそのすさまじさを語る。
「直撃したかと思ったらとたんに結界は消滅して、それとほぼ同時に禍々しい気をビンビンに放ってた空の波動がやんだ。見ればお前はぶっ倒れてるし、わけが分からんのはこっちのほうだ」
 呪文を詠唱した? まさかそんなことがあるはずがない。自分はレベル1の癒しの術法でさえ習得できていない。術法が身に付いていないからこそ、聖騎士の試験を受けるための資格が与えられなかったというのに。
「嘘だ。だって、俺は……。神聖語の文法は得意だけど、術法なんて一度も……」
 セテは無意識に自分の右手のひらを見つめ、つぶやいた。レイザークの話では、確かに自分はこの右手を差し出して術法を発動したというのだ。信じがたいことこのうえない。
 だがそのとき、その右手をレイザークが乱暴にひっつかみ、手のひらを上に向けさせる。銀色の傷跡は、いまでも赤く熱を持ってジンジンとうずくような痛みをもたらしていた。
「ふん」
 十字の傷跡は聖騎士の気に召さなかったのか、レイザークはセテの右手の傷跡をしばらく見つめた後、鼻を鳴らした。
「魔女は悪魔と契約した際に、身体のどこかに痣をつけられるって大昔からよく言われていたがな。お前が魔女の下僕だという証拠でないことを祈っておこう」
「何言ってんだよ! 彼女は魔女なんかじゃ……!」
 言いかけて、あわててセテは口をつぐむ。それをレイザークが見逃すわけはなかった。
「『彼女』って誰のことだ。ん?」
 詰問するような口調であったが、セテは断固対抗すべく堅く唇を引き結び、目だけでレイザークに抗議の意志を表した。なぜかサーシェスと自分を結びつけている不思議な傷跡について、絶対に言及してはいけないのだと思った。
「ふん、マジになるなよ。冗談だ」
 レイザークは肩をすくめて意地悪そうに笑い、立ち上がった。
「それより体調が悪くないならちょっと来い。たいへんなお客さんが来てる」
 色黒の熊のような聖騎士は巨体を揺らしながら部屋を出、顎でセテについてくるように指図をした。渋々セテも立ち上がる。来客なんて、たまに得体の知れない男たちが出入りしているくらいだから、そう珍しいことでもあるまいに、と思いながら。
 廊下を挟んだ向かいに、誰も使っていない部屋がある。一応来客用ということにはなっているが、元がボロ家のこの家では、そうたいそうなもてなしもできそうにないはずだった。レイザークは静かにその部屋のドアを開け、セテに振り返って静かに、と口の前に指を当てた。
 部屋のすぐ脇に、ベゼルが椅子を持ってきて座っていた。レイザークとセテが入ってきたのを心配そうな顔つきで振り返り、目で「だいじょうぶ」のような表情を作った。そしてセテは、窓際に寄せられている粗末なベッドに金の髪をした少女が静かに眠っているのを見つけて息を飲んだ。
 年は十七、八くらいだろうか。もしかしたらもう少し若いのかも知れない。人形のように小さな愛らしい顔ではあったが、顔には生気がない。意識がないだけではなく、かなり体力的に消耗しているのが見て取れた。顔を縁取るゆるやかなウェーブのかかった長い金髪も、整えればさぞや輝きを放つであろうに、疲労のためか本来の艶を失って久しいようであった。
「さっきのモンスター騒ぎのちょっと前にな。あのヘンを通った馬車が突風にあおられて横転したんだそうだ。モンスターが跳梁し始めていたころだったから、哀れな馬と御者が首を食いちぎられちまってな。このお嬢さんは運良く馬車の中にいたんで生き延びたんだろうが、とにかくショックで意識がもどらん」
「ケガはないみたいだけど……。なんだかすごく疲労がたまってたみたい。手足もすっごく細くなっちゃってて、まるでどこかから命からがら逃げてきたみたい」
 ベゼルが気の毒そうにそう補足した。セテは足音をたてないように静かにベッドに近づき、少女の顔をまじまじと見つめる。
「この娘……アジェンタスの子なのか。なんだってモンスター騒ぎで避難勧告が出ているときに馬車なんかで」
「避難勧告なんぞ行き渡らない、よそから来たってのが正解だろうな。しかも、ふつうの娘さんが一人で旅をするなんぞ正気の沙汰じゃあるまい。よほど急いでいたか、追われていたか」
 追われていた? こんな若い娘が誰に追いかけられるというのだろう。セテは少女の顔を見つめながら考えを巡らせた。生気はないにしても、育ちのよさそうなかわいらしい顔をしているこの少女が、なにかよからぬことに巻き込まれているのではないかと考えるだけで胃の辺りが重くなってくる。
「ところでお前、まだ何も分からんのか」
 いい加減に愛想が尽きたとでも言わんばかりに、レイザークがセテの脇腹をこづく。
「は?」
「その顔じゃまったく、という感じだな。中央特務執行庁特別使節行動模範条項の第十九条三項を暗唱してみろ」
 突然レイザークにそう言われ、セテは顔をしかめながらも頭を巡らせた。中央特使になる際に必ず頭にたたき込まれる、特使の行動のすべてを記したものだ。
「『第三項、要人への緊急対応と守秘義務について』……? えっ!?」
「まだ分からんのか。マヌケなヤツだな。要人の顔と名前はすべてたたき込まれるんじゃなかったのか、特使ってやつは。てめえの大学のあった国のお姫さんの顔くらい、見てすぐ分かるようにしとけ」
「それじゃ、この娘……!」
 まぬけな返事しか返せないセテに業を煮やして、レイザークは大きな大きなため息をついた。
「ロクラン王国アンドレ・ルパート・ロクラン国王のご息女、アスターシャ・レネ・ロクラン姫だ」
 セテはレイザークと少女の顔を交互に見つめながら口をパクパクさせる。特使一年生のセテにとっては、要人の護衛などまだまだ未経験であるから仕方ないことではあったが。
「町の術医にまかせようと思ったんだが、なにせロクランがいまあんな状態だからな。守秘義務もあるし、とりあえず俺んちに連れてきたんだが……」
 そうだ。なぜアートハルクに占領されているはずのロクランから、王女ひとりが逃げ出せたのか。しかも、近隣諸国や光都に助けを求めるのではなく、それらの同盟国とは反対方向のアジェンタスの、しかもこんな郊外にいたのか。セテはいまだ目を覚まさない王女の顔を見つめながらさまざまな憶測を巡らす。
 と、そのとき。王女は小さくうめきながら身体を動かした。意識が戻るのかと思って、ベゼルもセテもベッドに近寄り、ことの成り行きを息を潜めて見守る。
「光都……光都に行かなきゃ……」
 王女の口がわずかに動き、だがまだ意識はないようでうわごとのようにそうつぶやくだけだった。セテは辛抱強くその先を待つのだったが、次に王女が発したうわごとにセテは我が耳を疑う。
「光都に……サーシェスが……ネフレテリに……!」

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