第二十六話:架け橋

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 人間の脳は死に直面したその時、これまで蓄積された記憶を手繰り、そこから生き延びる方策を見つけようとするのだと、フライスの講義で教わったことがあった。許された短い時間の中、脳は想像を絶する処理速度で記憶の検索を開始する。だから、これまでの記憶が走馬灯のように浮かんで見えるのだと。
 サーシェスは自分の身体を抱きしめるように両腕を回し、急速に遠くなっていく空をぼんやりと見上げた。落下に伴う気圧の変化に意識が遠のいていく。だがそれにも関わらず、目の前の光景にかぶるように記憶の断片が掘り起こされては消えていく。
──正しき道を進むことを、救世主の御元で誓わん。蒼天我らが上に落ち来たらぬ限り、この誓いは破らるることなく、神聖なるものなり──
 懐かしいその声に、サーシェスは瞳を閉じた。アジェンタスに戻った金髪の青年が、自分の手を握ってにっこりと笑うのが見えた。

 ああ、そうだ。ラインハット寺院の森を抜けた守護神廟の、気高き救世主《メシア》の像の前でふたりで誓った言葉だ。
──あなたが必要とするとき、私はあなたの力になる。私が必要とするとき、あなたが私の力になる。約束よ──
 ごめん。セテ。私の誓いは果たされることはないんだわ。
 蒼天は私の上に落ちてきたわけではなく、私を拒絶し、そして大地にたたきつけようとしている──。
 あなたとの約束も、もうこれまで──!

 サーシェスは銀色の絆のついた手のひらを広げ、許しを請うように差し出した。フライスと過ごした前夜祭の夜、アスターシャとの地下迷宮での冒険、セテとの出会い、大僧正リムトダールの優しい笑顔、ラインハット寺院で過ごした楽しい日々。それらが逆回転で遠ざかり、心の奥にしまい込まれた記憶にまでさかのぼっていこうとしている。
 早く終わってほしい。もうあんな思いをするのだけは、二度と──。
 再びサーシェスは身体を抱きしめ、身体をきつくきつく抱きしめた。だがそのとき。

──忘れるな。サーシェス──!

 びくりとサーシェスの身体が震えた。力強いその声に、サーシェスは瞳を開いた。
──私はお前の半身。お前の影。私はお前を護ると誓ったのだ。ともに──
 脳が生き延びるすべを探すために見える幻覚だと分かっていたが、サーシェスは目の前に揺れる黄金の巻き毛に手を伸ばした。指先にからむ巻き毛の感触は柔らかかった。
 黄金の聖騎士は手をさしのべ、サーシェスが差し出した腕をしっかりと掴んだ。サーシェスはその手を両手でしっかりと握ると、かの聖騎士の名を小さくつぶやいた。
「レオンハルト……!」
──ともに行くのだ。未来に。あるべき姿を取り戻すために──!





 巨大な風の化身がはじき飛ばした〈ドラゴンフライ〉とともに、少女の身体が聖地を覆う紫色の靄に吸い込まれていくのを、〈風の一族〉の面々はなすすべもなく見守るだけだった。
「なんということだ……! 遅かった……!」
 ことの始終を居住区の星見の塔から見ていた長老が、震える声でつぶやく。白き稲妻をまとった巨大な鳥は、もう一度満足そうに空に向かって咆哮した。
 そのときだった。
 紫色をした靄の一点が、強烈な白い光を放つ。それは急速に広がっていき、紫色を見る間に浸食していくと、突然ドーム状にふくれあがり、はじけた。靄はまるで水が干上がったかのようにかき消え、天まで届くような光の矢が聖地から勢いよく吹き上げる。
 そのすさまじい光が巻き起こした突風は、かなりの距離があるというのに星見の塔から顔をのぞいてた風の一族を吹き飛ばし、悲鳴を上げさせる。何事かと、もう一度塔から顔を出した彼らが見たのは、光の奔流が形作る輪の中に浮かぶ人間の姿。気を失っているいるであろう年配の婦人と、それを抱きかかえるようにして立っている銀色の髪をした少女だった。
 ふたりは光の輪の中にいたが、その光を構成しているのが、空中に立体的に浮かんでは消えていく神聖語であることは、少し術に精通した者が見れば明かであった。
「おお! なんと!」
 サーシェスの無事な姿に、長老は思わず声を上げた。だがそのすぐ後に少女の姿はかき消え、とまどいざわめく人々が辺りを見回して彼女の無事を確認しようとしたそのとき、唐突に少女は星見の塔の前に姿を現したのだった。再びあわてふためく風の一族の若者を認めると少女は、
「この者を頼むぞ」
 そう言って若者の手に気を失ったままのマハを手渡し、すぐにまた少女の身体は霞のようにかき消えたのだった。いつもの気丈でドジな少女とは異なるかたくなな表情に、長老はうめき声を上げた。
「まさか……!」
 長老は周りの一族の者に、乗り手のいなくなった〈ドラゴンフライ〉を用意させ、それに乗り込もうとする。何人かの年長の者が引き留めようとするのだが、それを振り切り、長老は操縦桿を押し上げた。これから何が起こるのか、どうしてもこの目で見ておきたかったのだ。
 サーシェスの姿をした少女は、すぐにまた巨大な鳥の前に姿を現した。瞬間転移は、術者の中でもごく一部の、非常に強力な術法を操れる者にしか実現できない、たいへん高度な術のひとつであった。瞬間移動が可能な術者の中でも、連続して転移することはたいへん難しいはずなのに、少女はそれを易々とやってのけたのだった。
 目の前に現れた少女の姿にいらついてか、風の化身は威嚇するように雄叫びをあげた。だがサーシェスはそれを鼻で笑うと、
「ふん。我らが下僕の分際で、勝手気ままに暴れおって。いい面構えだ! たたきつぶしてくれるわ!」
 サーシェスは片手を勢いよく差し出して叫んだ。広げた手のひらから術法の光がほとばしる。雷撃というにはあまりにも巨大な暗黒の稲光が、続けざまに風の化身に襲いかかった。その轟音たるや、遠く離れた星見の塔にまで響き渡り、集落付近の大地を揺るがす。
 そのすさまじい稲光は、古代、偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》がおしげもなく振るっていた禁断の術法にほかならなかった。暗黒の稲妻の直撃を受け、鳥の化け物は苦悶の叫びをあげて激しく身を震わせた。
「ははははは! どうだ! 我が暗黒の術法を食らった感想は! たかが下僕が身の程を知るがいい!」
 サーシェスの姿をした少女は、強大な術法を振るいながら高らかに笑い声をあげた。強力な術法を呪文の詠唱なしに発動したばかりか、巨大な鳥と相まみえても臆すことなく、戦いを心底楽しんでいるかのようであった。
「ぐおおおおお!!!」
 その苦悶に満ちた叫び声は、風の化身のものでもあったが人間の声でもあった。聞き覚えのある声に、周りでことを見守り、少女のすさまじい力に恐れをなして動けない〈風の一族〉の者たちがやっと我に返る。
「ナギサか!?」
 周りの者たちは誰言うとなく声を上げた。明滅する白い稲光の中で、人型をした影が頭を抱え、苦しんでいるのが見えた。
「待ってくれ! お嬢さん! ナギサが! ナギサの身体がもたぬ!」
 老人の声にサーシェスは振り返る。すぐ後ろに、〈ドラゴンフライ〉に跨った長老が姿を現した。だが、サーシェスは術を放つ手をゆるめることはしなかった。冷たく長老を振り返ると、
「ジャマだ。下がっておれ。巻き添えを食いたくないのならな」
 少女はさらに腕に力を込め、もう片方の手で大きく円を描く。円の奇跡を描いて、緑色の神聖文字がさらに輝きを増し、放出した術法に乗せられていく。
「待ってくれ! 頼む! 風の化身と同化したナギサがひきずられておる! 化け物が滅べば、ナギサもただではすまぬ!」
「下がっておれと言った! ジャマをするならお前も木っ端みじんにしてくれるぞ!」
 サーシェスの姿をした少女は乱暴にそう叫ぶと、片腕を差し出し軽くなぎ払う。威嚇のつもりなのであろうが、長老の乗った〈ドラゴンフライ〉の脇を、すさまじい勢いで術法が突き抜けていった。だが長老はそれを操縦桿を器用に操ってかわし、あきらめずに少女の説得を続けようと上空を旋回する。
「頼む! ナギサを救ってやってくれ!」
「うるさい!! 邪魔だてするな! これがすんだら次はおいぼれ、貴様を血祭りにあげてやるからそこでおとなしくしておれ!!」
 サーシェスは両手で大きな円を描くと、渾身の力を込めて両手を差し出した。再び大気が重低音で揺れる。衝撃波が輪のように広がり、長老の乗った〈ドラゴンフライ〉は大きく揺れた。
 衝撃波の波紋とともに、差し出した両手から巨大な魔法陣が描かれ、それは幾層にも重なって緑色の強烈な光を放つ積層型立体魔法陣を形作っていく。巨大な鳥は激しい重力に捕らわれたかのようにひしゃげた身をよじり、大地を振るわせて苦悶の叫びをあげた。同時に、光の渦の中でナギサが悲鳴を上げる。巨大な鳥の全身を包んでいた白い稲光が徐々に色を失い、その巨体が今度は白から透明に明滅し始めていた。少女の放つ術法に捕らえられなすすべもない風の化身の最後かと思われた。だが。
 少女の唇は両手を差し出しながら小刻みに震えていた。それが、長く複雑な文法を持つ、そしていまではほとんどの術者が知る術のない古代の神聖語であることに長老は気づいて、〈ドラゴンフライ〉の操縦桿を握る手をゆるめた。
「早く! ここから離れて!」
 少女は呆然と様子を見ていた長老に、絞り出すような声をかける。驚いた長老が息をのむと少女は鬼気迫る表情で振り返り、
「早く! 私がまだ正気を保っていられる間に! 戻って集落と居住区の防御壁を再構築して!!」
 さきほどまでの悪鬼のような表情をした少女とはうってかわって、いつもの表情を取り戻したかのような少女の姿に、長老は小さくため息をつくと、同意を示すためにうなずいて操縦桿を握りなおした。
 サーシェスは再び長い長い神聖語を詠唱し、両手を胸の前に持ってきていくつもの複雑な印を結んだ。印を結び解き放っていくごとに、今度は神聖語とは異なる長い文字列が空中に浮かび上がり、浮かび上がっては消えていく。遠目に見ればそれは、数学で使われるような複雑な数式のようにも見えた。
 それからサーシェスは瞳を閉じ、小さく深呼吸をするような仕草を見せると唐突に、術法で縛られて動けない風の化身の体内に向かって身を投げ出した。稲光で構成される防御壁を難なく通過すると、その細い身体は輝く海の中を潜水するかのように踊り、中心に向かって落ちていく。そのさらに中心、四大元素のひとつを構成する〈風の核〉と、そこにうずくまるナギサに向かって。





 風の化身と同化したことで、ナギサの精神は〈風の核〉の一部となっていた。だが、それゆえに先ほどのすさまじい攻撃術法の余波は、生身のナギサの身体を著しく傷つけていた。霊子力で形作られる彼ら〈風の一族〉が誇る美しい翼は、激しい嵐に叩きつけられた小鳥の羽のように無惨に抜け落ち、術法による熱傷で皮膚のあちこちに無惨なヤケドのような傷跡を被っていた。
 身体の感覚はほとんどないに等しかったが、意識だけははっきりとしていて、自分の死期が近いことだけは理解できていた。
 私は死ぬのね──。
 ナギサは上空から自分に近寄ってくる光をぼんやりと見ながらそう思った。
 私は間違っていたのだろうか。運命に抗おうとしたそのことこそが、過ちだったのだろうか。私たちは伝承のひとつとして、朽ち果てていけばよかったのだろうか。
 ナギサはそう思った直後、自虐的に鼻を鳴らして笑った。自分が最後のときを前に、懺悔をしているようなことを考えたのがおかしくてたまらなかった。いや、懺悔をしたくなる気分になったのだ。自分に向かって落ちてくる、光で包まれた人影を見ているうちに。
──天使──!?
 そんなことを思ってナギサはまた笑い、瞳を閉じた。あの銀髪の少女が〈地獄の鍋〉で気を失う間際、自分に向かって言ったひとことを思い出したからだった。
 遙か大昔の古代聖典の中で、神の使いとされた伝説の生き物の名前だ。その姿は光に包まれ、たいそう神々しいものだったという。神もいないというのに天使などいるわけがないというのに。
「だからこそ、彼らを生み出したいと私たちは願った」
 死の前の幻聴かとナギサは瞳を開いた。幻聴などではなく、まばゆいほどの光をまとって自分に手をさしのべている、「人間」の生身の声であると確信したナギサは、驚いて身体をよじった。それでも、人影は辛抱強くナギサに手をさしのべている。無意識にその手を取ったナギサは、その声の主の姿に息をのんだ。銀色の光に包まれて立つのはサーシェスであった。
「サーシェス……!?」
 手をしっかりと握り返す力強い感触に安心して、ナギサはため息にも似た声を絞り出していた。
「我らの時代にも、神々に対する崇拝は幻想にすぎなかった。だからこそ、〈永遠の楽園〉を作り出すために、我らは神の下僕たる美しき天使の姿を必要とした。第一世代が生まれたそのとき、我らは彼らに賞賛を込めて名を贈った。〈大天使〉、アークエンジェルと。それが、お前たち〈風の一族〉の始祖だ」
「アークエンジェル……」
 なんと響きのいい、美しい言葉だろうとナギサは思った。
「立つがいい、ナギサ。私と同調して〈風の封印〉を施すのだ。この世界をあるべき姿に戻すために、まだまだお前たちと〈風の核〉は必要なのだ」
 冷静だが力強く、慈悲あふれるその声に、ナギサはよろめきながらも立ち上がり、サーシェスの手を握りしめた。その少女が、先刻までおびえていた少女とは別の者でないかという疑念は、とうの昔にかき消えていた。
「では、第一の封印を構成する数式を送る。私に同調して、その数式を分解するのだ」
 サーシェスは瞳を閉じると、小声で呪文のようなものを詠唱し始めた。同時に、握った手を通してあふれんばかりの複雑な数式が頭に流れ込んでくるので、ナギサは小さくうめいた。
「待って! これを、これをどうすればいいの!?」
「心配はいらない。私に波長を合わせるのだ。あとは私が導く」
 ほのかにサーシェスの身体が緑色の光を帯びてくる。その柔らかい光に包まれると、ナギサは全身に力がみなぎってくるような気がした。その証拠に、さきほどまでボロボロに傷ついた霊子力の羽が、緑色の光に癒されて大きく広がっていくのだった。
 やがて緑色の光は長い数式を形作って宙に舞う。ナギサはその数式を受け入れながら心を落ち着けた。自分の中の霊子力が、サーシェスのつぶやく長い詠唱とひとつになりながら大きくふくれあがっていくのを感じた。
 そして。
 風の化身として巨大な鳥を形作っていた光の障壁が、まるでガラスが砕け散るかのようにはじけとんだ。その次の瞬間、急激に膨張した空気が、周囲を巻き込んで勢いよく上空に巻きあがる。地表の土砂といわず、大気中の塵といわず、周囲のなにもかもを巻き上げて空に向かってまっすぐに伸びる竜巻。その竜巻が晴れるころ、風の化身は跡形もなく消え去っていた。
〈風の一族〉と集落の人間はしばらくその光景を呆然と眺めていたが、稲光を寄せる雷雲が晴れて蒼天が顔を出すころには、彼らは周りの仲間と抱き合って歓声を上げた。風の驚異は去ったのだ。
 その歓声の中、長老は星見の塔の階段から転げ落ちるように駆け下り、居住区の入り口を目指して走った。周りの者が無茶をするなと止めるのもかまわず、若者のように息を切らして。わっと歓声が上がったのを聞きつけて、長老はさらに走った。人混みをかき分けて進めば、ナギサに肩を貸し、出迎えた〈風の一族〉の面々を威風堂々と見つめる少女の姿があった。
 少女は傷ついたナギサを、出迎えにやってきたアジズに預けた。ナギサはアジズの無事な姿を見ると少女のように泣き出し、その身を婚約者に預けた。アジズは何も言わずにナギサを抱きしめてやった。その横で、少女は照れくさそうに、満足そうにひとりほほえんだ。
「おお……」
 長老はうめくように声を震わせた。少女は長老の姿に気づき、聡明な光を宿す力強い視線をよこした。長老が許しを請うかのようによろよろと近寄ってくるのを見て小さくほほえむと、
「久しぶりだな。長老」
 そう言って、その老体をいたわるように手をさしのべた。長老はその手を取り、主君に仕える下僕のように膝をついた。
「やはり、やはりあなた様でしたか。わたくしめはあなた様にこうして再びお会いできることをどんなに望んだか」
「立つがいい。私に礼を尽くすことなど必要ない」
 サーシェスの姿をした少女は威厳を持って答えるが、長老は首を振り、姿勢を崩すことはしなかった。
「〈風の核〉はあるべき姿に封印した。もう心配はいらぬ」
「はっ」
「それから──私の〈アヴァターラ〉のいくつかが混乱に乗じて暴走したことを詫びたい。我らが不始末、許せ」
「もったいなきお言葉」
「もうよい。顔をあげよ、長老ジェイド。我らがお前たちを支配していたのはもう何百年も昔のことだ」
 小さく鼻を鳴らし、少女は肩をすくめた。
 それから彼女はアジズとナギサを振り返ると、
「ナギサ」
「は、はいっ」
 呼ばれたナギサは、少女のように上ずった声で返事をした。
「風の力、その目で見たとおりだ。力は確かに使役されるもの。だが、大きすぎる力はいまだ小さきお前たちには過ぎたものであるということをゆめゆめ忘れるな」
 ナギサは頷き、隣にいるアジズにさらに身体をぴったりと密着させた。
「そして〈風の一族〉よ」
 サーシェスは周りにいる一族の者に声をかけると、
「〈風の封印〉、お前たちに託す。あるべき姿を取り戻すまで、その力を人間たちとうまく共有することを考えよ」
 力強い声に、〈風の一族〉たちは即座に膝を折り、胸に手を当てて少女に敬意を表した。まるでかつての主君に服従の意を表するごとく。
「すべては御心のままに。お忘れなく。我ら〈風の一族〉の力は、あなた様とともに」
 長老がそう言うのをサーシェスは静かに首を振って制する。そして、アジズに支えられて立つナギサを見つめると、
「いや、それは違う。お前が教えてくれたのだ、ジェイドよ。『どこへ吹こうと気ままに流れに身を任せる風のように』、そう生きるのだと」
 少女はそう言うと意味深に笑い、そして次の瞬間には糸の切れた人形のように床に崩れ落ちていった。ざわめきが走る中、中年の婦人の声が人々を押しのけた。
「サーシェス!!!」
 マハであった。マハは倒れたサーシェスの身体を抱えてその頬を手のひらでピチピチと叩いた。意識のないサーシェスに、マハは半狂乱になって頬を叩き続ける。
「サーシェス! サーシェスしっかり!!」
「……痛い……!」
 少女が小さくうめいたので、マハはその顔をのぞき込んで様子をうかがう。わずかに動いたまぶたが開いたので、マハだけでなく、周囲の者たちがみないっせいに安堵のため息を漏らした。
「いった〜い! そんなに本気でたたくことないでしょ!」
 サーシェスは腫れかけた頬を押さえ、マハに抗議をした。
「よかった、無事だね! ホントにもう……!」
 マハは我が子のこととばかりに涙を流し、サーシェスの身体を抱きしめた。
「なんだかよくわかんないけど……私はだいじょうぶ。それより、あいつはどうしたの? あの風の化け物は!? それから集落の人たちは?」
「終わったよ。風の化け物には封印が施された。心配はいらぬ」
 サーシェスの豹変ぶりを知ってのことか、落ち着いた声で長老がそう言うと、サーシェスは長い長いため息をついた。
「サーシェス? サーシェスなのね?」
 続いて、アジズに支えられていたナギサも飛び出してきて、サーシェスの手を握る。サーシェスはきょとんとした顔でナギサとマハを見つめる。何が起こったのかさっぱりわからないという風情であった。
「なによ、ナギサまで」
「ナギサ? ナギサって、あんたが?」
 マハは頓狂な声を上げて〈風の一族〉の巫女を見つめた。ナギサは親密そうに笑う中年の婦人にたじろいだのだが、そんなことにはかまわず、マハはナギサの顔をじっと見つめたかと思うと、突然ナギサの身体を抱きしめたのだった。
「そうかい、そうかい、あんた生きてたんだね。こんなに大きくなって……!」
「あ、あの、ちょっと?」
 困惑するナギサの肩を抱くようにマハが身体を離し、鼻をすすった。
「そうだよねぇ。あんたはなにも覚えちゃいないだろうね」
 そう言ってもう一度マハはナギサを抱きしめた。
「あんたの母親は、あたしの姉さんだった人なんだよ。恋しちゃいけない人に恋いこがれて、我が子と引き離されるなんて、そんなところまで似るなんてあたしたち姉妹も皮肉なもんだよねぇ」
「マハおばさん、それって……!」
 サーシェスが目を輝かせてそう言った。マハはナギサの黒髪に顔を埋めたまま何度も何度も頷き、そしてナギサも知らぬ間にマハの背中に手を回し、いつのまにか婦人を強く強く抱きしめていた。
「神さまの気まぐれってのはこういうことを言うんだろうねぇ。あたしとあんたが、敵対していた部族の架け橋になるなんてさ。もうちょっと早くあんたに遭えてたら……!」
 言われて、ナギサはマハの手を自分の下腹部にそっと導いた。続いてサーシェスの手もそっと触れさせる。そのわずかなふくらみに、マハは目を見張った。ふたりの手には、これから生まれ出でようとする新しい命の鼓動が伝わったような気がした。
 いつの間にか居住区の中では、割れるような拍手が巻き起こっていた。





 はじけ飛んだ風の結界を、〈地獄の鍋〉の縁から眺める数人の人影があった。そのうちのひとりは、術者が着るような裾の長いローブにも似た黒と赤の戦闘服をまとっていた。遙か上空に巻きあがっていく竜巻を見上げ、それがやがて金粉が舞うように光り輝き、消えていくのを、長い戦闘服をまとった男は腕を組んだまま見つめ、やがて大きなため息をついた。
「やれやれ。あのお嬢さんが地面に叩きつけられそうになったときは冷や冷やしたがね。あんなところをあの黒髪の文書館長が見たら、八つ裂きにでもされかねない」
 男は思い出し笑いをするようにのどを鳴らしながらそうひとりごちた。
「〈風の核〉は救世主の封印によって、再び沈黙したようです。波動は通常どおりの数値を示していますから、もうだいじょうぶでしょう。我が軍を吹き飛ばした〈風の化身〉の戦闘データも取得しましたが……。まさか一個中隊を平気でなぎはらうほどの破壊力とは思いもよりませんでした」
 部下に言われ、男はうなずく。だが、
「なあに。どうせあの役立たずの軍曹は我が軍には必要のない存在だからな。火焔帝は多少の犠牲を払ってでもすべてのデータを取得せよと命令を下したのだから、やつらも本望だろうよ」
 恐縮する部下の肩をポンポンと気楽にたたき、男はそう言った。それから男は再び大きなため息をつくと、
「とはいえ。あのお嬢さんがたいへんなのはまだまだこれから。〈風の核〉に触れたあと、制御の効かない自分の力とやらにどう向き合えるか」
 男は部下たちに周囲の機器を片づけるように命令を下し、靄の晴れた〈風の一族〉の居住区を見つめた。
「ガートルード様のいうように、救世主というのは本当に多重人格だったらしいからな」

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