第二十三話:風の封印

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 結界に阻まれてなかなか先へ進むことができないアートハルク帝国軍のドラゴンフライを地上から見上げながら、集落の村長デニスは小さく舌打ちをした。最初の一撃で相当数の〈ハルピュイア〉たちをたたき落とすことができたことに満足はしていたのだが、思いもかけない彼らの時間稼ぎに、帝国軍が足止めを食らっていることに苛立ち始めていた。
 能なしの軍曹ごときが。〈ハルピュイア〉相手に術者のひとりもつけず──。
 デニスは前のほうで指揮を執るアートハルク帝国一個中隊の男を蔑むように見つめた。名誉欲にかられただけの、ただの凡人のくせに。デニスは密かに唾を吐き、嫌悪感を紛らわせた。
「村長! デニス!」
 集落の入り口から怒鳴りつける声に、デニスは神経質に振り返る。マハが飛び出してきたかと思うと、突然胸ぐらを掴まれ、その恰幅のいい身体によって地面に引き倒されそうになるのをやっとのことで堪える。
「外出は禁止されていたはずだ。ここは危険だから戻りなさい」
「危険? 危険なのはこっちではなく、〈ハルピュイア〉とサーシェスだろう!?」
 マハはそう叫んで手を振り上げるのだが、村長はそれを掴んでかわす。周りにいたアートハルクの兵士がそれに気付いて集まってきたので、村長は顎で彼らにマハを取り押さえるよう指示をした。
「騙して迎え撃つなんて、そんな汚いマネ、よくできたもんだね!」
 マハは両脇で兵士に腕を掴まれているのもかまわずに、吐き捨てるようにそう言った。
「これもあなたたち集落の人間を守るためだ」
「だからって、こんなわけの分からない武器だか兵器だかを持ち出してきて、交渉にやってきただけの彼らを虐殺するのが正しいってのかい? 笑わせるんじゃないよ!」
 マハは顎をしゃくって、前方のアートハルク兵たちが囲っている巨大な鉄の塊を差した。取っ手やツマミがたくさん並んだ平たいプレートが脇に備え付けられた、不格好な台形のシロモノだった。マハにはこの得体の知れない物体を、アートハルクの兵士たちがどう扱うのかは想像できなかったが、それがなにか恐ろしい惨劇を引き起こすものであろうことだけは理解できたようだった。
「では聞こう、やつらは我々に何をしてきた? 十年の長きに渡るこの戦いで、いったい何人の集落の男たちが命を落とした? 守るために戦うことを咎められるとは、たいへん不本意だ」
「あんたはサーシェスを見捨てたんだよ! 同じ、人間だろう!? 百歩譲ったって、あんたが仲間を見殺しにしたことだけは変わりゃしないんだ!」
「仲間? 仲間だって?」
 デニスは喉を鳴らして笑った。
「ロクランから光都へ護送されるはずだった、危険度五のイーシュ・ラミナの娘を、あなたは我々と同じ『人間』と呼ぶのか」
 マハの身体がぴくりと震え、その次の瞬間には固まっていた。
「知らなかっただろうな。あの娘の首にはまっていた首飾りのことも、あなたは何も知らなかった。それもそのはずだ、彼女はあなたには何も言わなかった。自分が術法犯罪を犯した人間であることなど、誰も言いたがるはずはないからな」
 衝撃の事実にたいそう驚き、それを反芻しながらうなだれるマハに、デニスの神経質そうな笑い声が降りかかる。
「危険度五もの超弩級逃亡者を抱え込んで、中央の厄介ごとに巻き込まれるのだけは勘弁願いたいものだ。できればこのまま彼らとともにきれいさっぱり消えてくれたほうがいいというのが、ほとんどの村の男たちの意見だ」
 デニスはそこで髪を掻き上げ、上空のドラゴンフライたちを見上げた。
「少々の犠牲を払ってでも守り抜く。それが指導者たる者の務めだ。マハ、あなたのような人には分かるはずもないだろうが」
 そう言ってデニスは、兵士たちに取り押さえられているマハの顔を覗き込んだ。
「……分かるわけがないだろう。なにが指導者だ。お山の大将が気取ってんじゃないよ。本当にあんたはオヤジさんに、前の村長に物言いまでそっくりになってきたね!」
 マハはそう悪態をつくと、すぐ目の前のデニスの顔に唾を吐きかける。デニスは動じることもなく無言で吐きかけられた唾を袖で拭うと、
「そうだったな。あなたは私の父の時代から、姉妹そろってそうやって刃向かい、禁忌を犯した」
 言われて、マハの顔が怒りに歪む。
「あなたの姉も、あなたも、掟を破って我が子と引き離された。だがそれを恨むのはお門違いというものだ」
 鼻を鳴らし、デニスはマハに背を向ける。そしてアートハルク帝国軍が持ってきた不格好な装置に手をかけると、周りのアートハルク兵にも聞こえるように、大袈裟な素振りで言った。
「まぁ見ているがいい。あなたのそのしがらみを、今日のこの日に断ち切って差し上げよう」






 厚い靄に覆われた渓谷には、確かに水の気配があった。〈風の一族〉にしてみれば「さほど離れていない」灼熱の大地〈地獄の鍋〉とは対照的な、湿った大気が渦巻いていた。だが、深い靄はその大気を逃すことなく地表に留まらせ、濃密な湿気を発生させる。その湿気の元となる水は、渓谷の表面を静かに潤わせているのだったが、だがその色は茶色くよどみ、濃い湿気に混ざった不快な匂いを発していた。渓谷の底にたたえられた水は、明らかに腐っているのだった。
 もう二百年も昔になる汎大陸戦争の傷跡をいまだ色濃く残し、靄をわずかにすり抜けてくる弱い太陽の光に茶色くすすけて見える、かつては〈風の大地〉と呼ばれた渓谷の真の姿がそこにあった。
 局地的に広大な灼熱の地があったかと思えば、すぐそばにこのようによどんだ水をたたえる地もある。汎大陸戦争の際にエルメネス大陸を蹂躙して回った、フレイムタイラントによる異常気象とでもいうのか。それとも、彼ら〈風の一族〉が神々から賜ったと言われる、聖石による奇跡のひとつなのか。
 ひどい臭気を放つ大気にまみれ、ナギサがゆっくりと渓谷の地表に舞い降りようとしていた。すぐ足下にはドロドロとしたヘドロが渦巻くほどの汚れた水。二百年前までは緩やかに流れ、やがてはこの大地の先へと続く〈海〉へ旅をしていたはずの大河の姿はもうなく、水量も減り、岩盤で遮られたいまとなっては、その水は濃密な靄の下で腐りゆくだけだ。
 まるで自分たちのようだとナギサは思った。
 出ていこうとしても、自分の力だけではどうにもならない障害に阻まれ、伝説のひとつとして腐っていくだけ──。
 ナギサは首を振り、もう一度翼をはためかせた。
 濃い湿気のために視界が悪い中をしばらく飛行すると、大気の中に黒い巨大な影が現れる。ゆっくり、ゆっくりと近づけば、ナギサの翼が発する霊子力によってはじかれるように靄が薄れていき、影の正体が姿を現した。
 それは大河を渡る船というにはあまりにも不格好で、あまりにも巨大であった。泥水と同じ茶色く錆び、醜くふくらんだ鉄板に覆われているが、あちこちが崩れ落ち、土手っ腹には何かが衝突したような無惨な穴を晒している。ナギサ自身が形容したように、芋虫のような胴体に翼を着けた、巨大な鉄の鳥のようであった。
 ナギサはその巨体の前に降り立つと、膝下まで汚水に浸かるのも気にすることなく、鉄の鳥の腹に開いた穴の奥をじっと見つめた。穴の奥深くは地獄の入り口とやらを彷彿させるほどの真っ暗な闇が続いているようだった。ナギサは意を決したように水を蹴り、その穴へ身体を踊らせた。
 光も届かぬ鉄の鳥の内部はまぎれもなく暗闇であったが、ナギサは少しも怖くなかった。ナギサにとっては幼い頃から慣れ親しんだ隠れ家のひとつでもあった。人間との混血である彼女が、口さがない大人たちの悪態に堪えきれなくなったとき、よく密かにここに入り込んで心を落ち着けたものだった。そして彼女はここに入り浸るうちに、古い古い書物を見つけたのだ。
 それは紙を束ねただけの、書物とは呼べないほど粗末なものだったが、そこには神世代となったいまではほとんど見られることのない文字がびっしりと書いてあり、さらには図までも入っている解説書のようなものだった。大人たちがこの巨大な過去の遺物を研究目的のために漁り、ほとんどの資料は持ち去られてしまったあとだったが、偶然にも彼女はまだ誰も手を着けていなかったであろう壁の内部から、これを見つけたのだった。
 彼女が幼い頃に聞かされてきたとおり、この鉄の鳥が汎大陸戦争以前には、確かに空中を飛んでいたに違いない動かぬ証拠でもあった。ナギサはそれを密かに持ち帰り、自分だけの宝物として部屋に隠した。持っているだけで力が満ちあふれてくるような不思議な気持ちになるのもあったが、彼女はいつかこれを自分の力で読んでみたいと思った。
 そして彼女は成功した。長い長い時間をかけて、そこに綴られる言葉の法則性を見つけたのだ。それはずいぶんと変化はしていたものの、中央標準語と似たような文法でありながら、中央標準語よりもずいぶんと長ったらしい、まだるっこしい単語で綴られていた。完全に読み解けたわけではないが、この巨大な鉄の鳥がいったいなんのために作られたのか、まだこれが現役だったときにはいったいどんな役割を担っていたのか、どうすればこれを動かすことができたのか、あらかた理解することはできた。その頃には、ナギサは〈風の一族〉の中でも高い地位である巫女のくらいについており、次代の長に代替わりしようという時期であった。
 ナギサは慣れた手つきで暗闇を探り、たどり着いた奥の台座らしき付近で何かの突起に手をやった。途端に内部に光が灯る。銀色ののっぺりした壁がほこりっぽい空気に照らされて鈍く光っていた。ナギサは足早に通路を辿り、巨大な鉄の鳥の奥、腹部へと急ぐ。
 やがてたどり着いたそこには、緑色の光を淡く放つ銀色の巨大な扉が待ちかまえていた。外の鉄板が錆びて崩れ落ちているというのに、この扉だけは錆どころか傷ひとつついていないようだった。そして表面には、偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》が好んで使っていた紋章が彫り込まれ、彫られた溝から強烈な緑色の光を放っている。
 ナギサはその正面に立つと背筋を伸ばし、顎をくいとあげた。
「*******」
 中央標準語でない言葉で、ナギサは扉に向かって声を発した。声を受けて、扉の紋章の円周を緑色の光がぐるりと回る。光が紋章の縁を一周して元きたところへ収まると、扉は音もなく、上下に割れていく。割れた扉の隙間から、さらに強烈な緑色の光が差し込んできて、ナギサの全身を緑色に染め上げた。
 扉が完全に開いたのを見計らって、ナギサはゆっくりとその部屋に足を踏み入れた。緑色の光に乗って、静電気のような小さな光がパチパチとナギサの身体の周りではじけた。光の中でナギサは、なにかに抵抗するかのように顔をしかめており、たまに身体の周りではじけている静電気にさらに顔を歪ませるのだった。だが、ひるむことなくナギサは部屋の中央を見据える。真鍮で作られた巨大な円柱が、緑色に明滅しながらナギサを見下ろしていた。円周はおよそ十五メートルほど。想像以上に高い天井をつくほどの長さの、寸胴なその柱は、おそらくはこの鉄の鳥が作られたのと同じくらいにしつらえられたであろうに、錆ひとつつかず、鈍い光をまとっていた。そして円柱の底は銀色の床にしっかりと食い込んでいるのだが、わずかな隙間からときたま白い稲光がバチバチとはぜる。
「************************」
 再びナギサは中央標準語ではない言葉で円柱に向かって語りかける。今度はさきほどよりもいくぶん長く、歌うような不思議な音階をつけて。
 継ぎ目もないと思われた円柱の真ん中から光が一筋。それはゆっくりと轟音をたてながら徐々に左右に開いていき、極限まで開くと、今度はゆっくりと床に吸い込まれていった。円柱の外壁がなくなったそこには、さきほどよりもさらに強烈な緑色の光を放つ、巨大な立体魔法陣がナギサを睨み付けていた。強力な力を持つ術者でも容易には構築できないほどに幾重にも重ねられた積層型魔法陣の登場に、さすがのナギサも息を飲んだ。ときおり、押さえきれないのか魔法陣の間から白い稲光がナギサを脅かそうと手を伸ばす。
 ナギサの顔が不敵に笑う。そして、彼女は立体魔法陣にゆっくりと近づいて勝ち誇ったように見下ろしてやる。その笑みはまるで征服者か勝利を確信した者のようだった。
「これが風の封印……か」
 それからナギサは自分の手を魔法陣の上にかざした。手をかざすと、積層型結界はまるで侵入者を警戒するかのように低く震え、まわりの壁と共鳴を起こす。
「あの本に書いてあったリリース・ワードの組み合わせは完璧だった。あとは伝説の聖騎士が施したと言われるこの積層型結界が、どれほどの抵抗力で解呪を拒むか……。イーシュ・ラミナにできて、私にできないはずはない」
 ナギサは眉をひそめ、かざした手のひらに力を込めた。共鳴がいっそう激しくなり、立体魔法陣からにじみ出る緑色の光は、さらに強烈さを増した。
「さあ、風の封印よ! 退け! 私にその真の力を見せてみろ!」






「〈風の封印〉ですって!?」
 サーシェスが耳元であまりにも頓狂な声をあげたので、風の一族の長老は顔をしかめた。
「あ、ご、ごめんなさい!」
「いやいや」
 困ったような顔で長老は首を振る。
「風の封印とは、『それ』が封印されてから名付けられた、封印そのものの名じゃ。封印されてやっと我らが〈風の一族〉の手で扱いやすくなったというわけで」
「そうじゃなくて、私が聞きたいのは……!」
 話すと長くなりがちな長老の言葉に少し苛立ちながらサーシェスは言った。
「四大元素のひとつを封じたってこと? つまり、風の力そのものを封じた封印があそこにあるのですね?」
「さよう。我らが聖地と呼ぶあの靄の下に隠された場所には、『降臨と楽園の日々』以前に我らが祖先が星からこの地へたどり着いたときに利用した〈連絡艇〉の残骸が眠っておる。少ないながらもまだ動力は残っておるので、封印そのものを保護できるし、なにより人の目から遠ざけるのにはもってこいの場所だということで、我らが〈風の封印〉をそこに運び込んだのじゃよ。ああ、すまぬが、〈連絡艇〉の詳細については割愛させておくれ。わしにもあまり詳しいことは分からんのでな」
 きょとんとするサーシェスに、長老は申し訳なさそうにそう詫びた。
「汎大陸戦争の際に暴走したのは〈暗黒の火の封印〉じゃが、そもそも四大元素の力に暗黒の属性というものは存在しない。被害を及ぼす負の力に反転したときに暗黒と属性づけられるだけのこと。偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》が四大元素の力を解明し、気象を含むほとんどの自然現象を制御できるようになって五百年。封印とは人に害をなす負の力を押さえ込んでわずかな力だけを人の役に立つよう、元素のベクトルを変える役割を持ったもの、もともとはフレイムタイラントの属する火も、風も水も土も、正しい心を持つ者が使えば、正しい力として働く力なのじゃよ。汎大陸戦争の際にいったんは解放されたすべての封印は、救世主《メシア》の遺志を継いだレオンハルトによって再び厳重に封印されたのだが、ナギサはまんまとその封印の解き方を探り当てたに違いない。いま〈風の封印〉を解放することによって何が起きるか、それは想像に難くないであろう?」
 ようやくサーシェスと長老たちは居住区まで引き返してくることができたので、長老の合図により結界が縮小され、居住区の周りに何重もの結界が張り巡らされた。
「……気休め程度じゃな。いつまで保つかも分からぬ。この結界とて、アートハルクの連中にしてみれば、破るのも造作のないことかもしれぬしの」
 人ごとのようにそうつぶやく長老を見て、サーシェスはぐっと拳を握りしめた。自分も何かの力になりたい。だが、自分は攻撃術法はなにひとつ教わっていないし、初歩的な物理防御の類しか満足に操ることもできないのだ。
「長老、私もお手伝いを。術を使える人々を集めて集約型結界を構築し直せば、もっと強い結界が作れるはず。私も多少の補助ができます。長老はこうした戦闘の経験がおありでしょうから、ご指示願えれば」
「なんと。術法の心得があるとは。どこで術法を習われたのかね」
「ロクランのラインハット寺院で」
「ほほう。それならたいそう心強い。ではリムトダール殿についておったのであろう。あの御仁はお元気かね」
 ぴくりとサーシェスの身体が震える。長老は、大僧正リムトダールとも面識があるのだ。
 私が追いつめ、死に追いやった──あの、心優しき大僧正様を──。
「大僧正様は……亡くなりました」
 サーシェスは長老に背を向けたまま、震える声でそう言った。長老が背中で小さく息を飲むのが聞こえた。
「……なんと……!」
「私が……死なせたんです。私が大僧正様を殺したようなものです」
 再び、声もなく長老が息を飲む気配がした。
「私があの集落までやってきたのは、そのことでロクランを追われ、光都オレリア・ルアーノへ護送される途中の事故が原因です。私の暴走した力は何人もの人を巻き添えにし、止めに入った大僧正様をも死に追いやりました。もしここで私が死ぬようなことがあれば、それは当然の報いとして受けましょう。ですが」
 サーシェスは自分の胸に手を当てて許しを請うような仕草で長老を振り返った。
「私は制御できない自分のこの力を、自分の意志で制御できるようになりたい。人を傷つける力ではなく、人を守る力を使う者として、持てるものすべてを役立てたいんです」
 隠すつもりもなかったし、あえて言う必要もないと思っていたが、サーシェスはここで長老にすべてを話しておきたかった。自分の罪が赦されることなどないと分かっていた。だが、話すことで、心につかえていた何もかもが洗い流されるような気持ちになったのは事実であった。その証拠に、このごたごたの中でも一度も見せなかった涙が、両の目からとめどなくあふれてきていたのだった。
「よく話してくれたね」
 長老の小さな手が、サーシェスの震える手にそっと添えられた。
「そなたの手を触ればすべて分かる。そなたがいかにリムトダール殿に愛されてきたか。リムトダール殿はすべて承知のうえでそなたを悪意ある力から守り抜いたのじゃよ。そうであろう? もうよい。もう泣かずとも、何も話さずともよいのじゃよ。そなたの気持ちはよく分かっておる」
 長老の手を強く握り返し、サーシェスはしばし泣いた。この小柄な長老に、ロクラン大僧正リムトダールの影を見つけたのか、自分の罪が彼自身によって赦されたのではないかと思ったのか、突き上げてくる懐かしさと愛おしさにその身体をゆだねながら。
 それからサーシェスは自ら居住区の入り口の前線に立ち、一族の術法を使える者たちに混じって集約型結界の構築に参加した。サーシェス自身、技術的には術法を複数の人間で共同で構築し、集約化することが可能であることは知っていたが、自らが参加することは初めてであったので緊張してはいた。だが、戦役の経験を持つであろう長老たちの的確な指示で、巨大な結界の構築に成功し、いまは居住区全体を覆う見事な緑色の積層型結界に守られているのであった。
 結界が縮小され、居住区のすぐそばまでアートハルク帝国兵士たちの操る〈ドラゴンフライ〉が飛来してきてはいたが、分厚い結界に阻まれてやはり先ほどと同じように手も足も出ず、歯がみしている様子が手に取るように分かる。このまま保てば敵は諦めて引き返すだろうか。だが、決定的な攻撃手段のない〈風の一族〉には、こうしてずっと防御し続けることしかできず、いつかはこの結界も疲弊するときがやってくる。そのときが最後であることは誰にも分かっていた。
「長老、あれは……!?」
 なにか異変を感じたのか、目利きのひとりが不安げに声をあげた。みながいっせいに目利きの者が指を差す方角を睨んだ。
 見れば、二台のドラゴンフライにつり下げられた、不格好な黒い鉄の塊のような装置が徐々にこちらに向かってくる。
「まさか……やはりそうきたか!」
 まるで若者のように長老は唾を吐き、それから一同を振り返って大きく手を振った。
「危険じゃ! 下がれ! 〈バリアクラッカー〉じゃ!」
 ちょうど真正面にきた黒い鉄の塊は、大きく身震いをしたかと思うと、長老がそう叫ぶのとほぼ同時に大きく口を開けた。まさしく犬が大あくびをしたような形に前面がぱっくりと割れ、そこから巨大なねじの先のようなものが舌のように伸びてくる。花火がパンとはじけるのにも似たような音がするのと同時に、そのねじはこちらに向かって飛来し、結界に突き刺さった。結界に押し戻されるかと思ったそれは、分厚い結界の層を突き抜けようとグルグルと回転を始めたのだ。やがて二発、三発と同様に巨大なねじが結界にたたき込まれ、それらが回転を始めたころには結界は徐々に光を失ってくる。四発目が打ち込まれたときには、まるで風船が針に刺されてはじけ飛ぶがごとく、結界は消し飛んでいたのだった。
 突然空いた穴から空気がどっと居住区に流れ込んでくる。最前列で結界を形作っていた者たちは居住区の中ほどまで押し流され、悲鳴をあげた。サーシェスも例外ではなく、列の後ろにいた長老の身体に引っかかってやっと押し流されるのを踏みとどまることができた。
「なに? なにが起きたの!?」
 長老に起こされながらサーシェスが問う。
「まさかあんな古いものを実戦に引っ張り出してくるとは……! 術者の結界をこともなげに破壊できる恐るべき旧世界の魔法のひとつじゃよ。次に来るのはおそらく〈サイ・エリミネータ〉、結界を形作る術者をことごとく排除する虐殺兵器の一撃と思われる。もはやこれまでじゃ……!」
 長老はサーシェスをかばうように抱きしめ、歯を食いしばった。そのとき。
 餌を見つけた猛禽類が鬨の声をあげるのに似た、鋭い叫び声が中空を揺るがした。続いて激しい振動。居住区のみならず、居住区の目前まで迫っていたドラゴンフライの群れまでをも激しく揺るがし、乗っていた何人もの兵士たちが渓谷の下の靄に吸い込まれていくのが見えた。
 振動に立っていることもままならず、床を這うように風の一族の者たちが入り口まで辿っていき、下を覗き込む。紫色の靄の色が激しく明滅しながら紫から白へと変化していくのが見え、やがて靄を完全に覆ってしまうと、それは一気に引き伸ばしたゴムのように膨張し、はじけた。同時に再び激しい突風が吹き込んできたので、顔を覗かせていた何人かがまた居住区の奥まではじき飛ばされたのだった。
 はじけた白い光の中から、翼にも似た巨大な光の柱が姿を現した。それは深呼吸をするかのようにゆっくりと体を震わせ、まだ周りにかすかに残る靄を吹き払う。もう一度、猛禽類の叫ぶような声が轟くと、光の中からさらに力強く光り輝く巨大な鳥が姿を現したのだった。
「鳥……!?」
 光に包まれた、というよりは、それそのものが光でできているような巨大なその鳥を前に、長老に支えられたサーシェスが驚きの声をあげた。
「ナギサが封印を解いたようじゃの。間一髪、助かったと言いたいところじゃが」
「封印!? あれが、風の力の正体ってことですか?」
「いや、わしもこの目で見るのは初めてじゃ。風の力そのものに姿などない。じゃが、我らが主はそれぞれの元素に悪趣味な姿をあてがったようじゃの」
 光の鳥は三度咆吼すると、目の前に浮遊しているドラゴンフライが気に入らなかったのか、鋭いくちばしで彼らをたたき落とした。それから巨大な翼を広げると、仇敵たちのいる集落に向かって羽ばたいた。その羽ばたきと同時に、局地的な嵐が来たかと思わせるようなすさまじい風圧が居住区全体を揺るがした。
「集落のほうへ飛んでいきます!」
「ぬう、やつらを殲滅するつもりか! じゃが……」
「なんです?」
 サーシェスが尋ねると、長老は、
「娘さん、そなたも知っておろう。汎大陸戦争の際、解き放たれたフレイムタイラントがなにをしでかしたか。フレイムタイラントを制御できると思った愚かな独裁者どもの大いなる誤算じゃ。敵を殲滅せしめたまではよかったが、その後、フレイムタイラントは敵も味方も区別なく、見境なくエルメネス大陸を燃やし尽くしたのじゃよ」
「それじゃ……!」
「そのとおり。このままでは汎大陸戦争の二の舞じゃよ。それに……」
「それに……なんです?」
「ナギサの精神がどこまで堪えきれるかじゃ。おそらくは全身全霊を込めてあやつを操っているに違いないが、暴走が始まったら、ナギサのほうが危ない」
 その言葉を聞いてサーシェスがはじかれたように顔を上げる。その視界の先に、仲間に支えられて立っているアジズの姿があった。
「長老……!」
 アジズは痛みを堪えながらであろう震える声でふたりに呼びかけた。
「頼む、ナギサを救ってやってくれ! あいつの腹の中には……子どもが……俺の子がいるんだ!」
 その言葉を聞くのが早いか、サーシェスは長老の制止を振り切って居住区から身を躍らせていた。周りにいた何人かが驚きの声をあげ、サーシェスの身体が眼下に消える。だが、すぐさま彼女は乗り手のいないドラゴンフライにまたがって、居住区の入り口に姿を現したのだった。
「娘さん! 馬鹿なマネをするんじゃない! まさかあの風の化け物と!?」
「なにができるか、考えているヒマはないわ! 私があいつを引きつけておく! だからあなたたちは結界の強化と、やつを封じ込める結界の構築に全力を注いでほしいの!」
「馬鹿な! 勝算も何もないのに、死ぬ気か!」
 アジズも叫ぶ。だが、サーシェスは器用にドラゴンフライを駆ると、そのまま光の鳥に向かって飛んでいった。
 不思議な感覚がサーシェスの身体を支配していた。血がはやるこの感じは、以前に味わったことのある懐かしい、そしてとても心地のいいものだった。
 私は知っている。以前にも、こうして戦ったことがある──。
 あの盗賊集団と対決したときと似たような感覚が身体を支配する。負ける気がしない、私は絶対に負けはしない。なぜだかそう思えるのだった。
 光の鳥は、その身体の周りに恐るべき風のバリケードを構築しているようだった。その証拠に、迫り来るアートハルク兵士のドラゴンフライの攻撃を本体に受けることもなく、近くに寄っただけではじき飛ばしているのだ。
「風の力の本体……! どうにかしてあれを封じ込めなければ……! でもどうやって!?」
 全力でドラゴンフライを駆り、両頬を切るほどの風に晒されながら、サーシェスは考えを巡らせる。自分には初歩的な防御術法しかない。どうする? どうする──?
 光の鳥の上空を追い越し、後ろを振り返ると、鳥はサーシェスにはなんら注意を払っていないようだった。化け物が目指すのはただ一点、ナギサの支配下にあるいま、狙っているのは集落の前に陣取っているアートハルク軍と集落の人間たちに違いない。
 何度か鳥の前を蛇行しながら飛行し、サーシェスは集落を目指す。突然の風の化け物の登場に、集落の前のアートハルク兵たちがあわてふためいているのが、米粒大の大きさながらも見て取れた。
 サーシェスはさらにドラゴンフライの操縦桿を握る手に力を込め、機体を起こして速度を上げる。まずは集落の前の彼らに現状を伝え、避難させなければ。
 上空から味方が乗るものではないドラゴンフライが近づいてきたことで、アートハルク兵がボウガンを構えた。二、三の矢が放たれたが、サーシェスの乗るドラゴンフライは器用にそれを避け、上空を旋回する。
「一時休戦よ! いまはそれどころじゃないでしょう!?」
 サーシェスは上空から兵士たちに怒鳴りつける。あわてふためいていた彼らも、サーシェスが何を言っているのかようやく理解できたのか、ボウガンを引いてその声に耳を傾け始めた。
「風の化け物がやってくる! 早く集落に避難しなさい!」
 集落の入り口を指さしてやると、兵士たちの何人かは持ち場を離れて我先にと集落の入り口を目指して走っていった。
「サーシェス!? 生きていたんだね!?」
 呼ばれて振り返ると、アートハルクの兵士に取り押さえられているマハが顔を輝かせてこちらを見ている。
「マハおばさん! 私は無事よ! だから早く集落に戻ってあいつの一撃に備えてちょうだい! あいつの目的は、ここの集落もろとも吹き飛ばすことだわ!」
「なんてこと……! あんな化け物が世の中にいるなんて……!」
 マハは悲鳴にも近い声をあげた。だが。
「術法犯罪者の言葉に耳を傾ける必要などない!」
 再び振り返れば、集落の村長デニスが勝ち誇ったように立っているのが目に入った。サーシェスは内心舌打ちをし、ドラゴンフライの機体をいったん上に持ち上げて上空で旋回する。
「そんなこと言ってる場合!? あんたにはあれが見えないの!?」
 サーシェスが上空から忌々しげにデニスに叫ぶ。だがデニスはそれを鼻で笑うような仕草で払うと、
「臆することなどなにもない! 我らが頼もしきアートハルク帝国の力で、あんな化け物など灰にして……」
 そう言いかけたときだった。アートハルク兵士らの哀れな悲鳴が轟いたかと思うと、デニスはその場で動けなくなる。頼みのアートハルク兵たちはひとり残らず集落のほうへ逃げていったあと。のみならず、目前に大きく口を開けて威嚇する、風の力を司る化け物が舞い降りていたのだった。
 サーシェスは腹をくくり、ダメで元々のつもりでマハに向かって急降下する。あわや彼女と接触するかといったところでマハの腰にしっかりと腕を回し、ドラゴンフライに引き寄せると、ぐいと操縦桿を上に向けて急上昇を試みた。その次の瞬間、すぐ後ろの空気が膨れあがり、爆発する気配がする。
 吹き上げられる砂埃を抜け、ドラゴンフライが上空を疾走していく。サーシェスと、その後ろにマハを乗せて。間一髪、ものすごい速度で急上昇したのが功を奏して光の鳥の第一撃を逃れたサーシェスとマハは、上空からえぐられた大地を言葉もなく見下ろす。炎のようなわかりやすい視覚効果なしにえぐれた土は、風の力による、空気そのものの爆発だろうと思われた。
「なんなんだい、あの化け物は」
 サーシェスの後ろで、彼女の腰にしがみつくように震えるマハが尋ねた。
「風の力の源、ってことだけは分かってる。でも私にもあれがなんなのかはよく分からないの。ちょっと訳ありで、追いつめられたナギサってお友だちが悪さしたって感じなんだけど……状況はサイアクってところね」
「ナギサ……? ナギサって……?」
「知ってるの? マハおばさん?」
「いや……その、人違い、かもしれないし……」
 言いよどむマハをさして気にした様子もなく、サーシェスはドラゴンフライを操って風の化け物の上空を旋回した。
「さて、と。このあとどうすれば……」
 このまま何もしないで旋回しているわけにもいかない。かと言って、どうすればこれを封じ込められるのかも分からない。サーシェスは上空で風の化け物の様子をうかがうことにした。
 風の化け物は第一撃が不満だったのか、大空に向かって鬨の声をあげた。それから再びその巨大な翼を広げると、〈地獄の鍋〉の斜面を震わせる。鋭いくちばしのついた口をまるで深呼吸をするかのように大きく開け、周りに点在する集落を威嚇するように叫ぶと、自分の思いついたことがとても喜ばしいものだと言わんばかりに満足そうに翼を大きく揺らし始めたのだった。
「まさか……周りも攻撃する気なの?」
 純粋な破壊意志。確か以前大僧正やフライスからフレイムタイラントに関する講義を受けたとき、そう聞いたことがある。この風の鳥も同様に、敵を殲滅せしめてもなお、周りを破壊せずにいられない性質に違いない。汎大陸戦争二の舞になると言った、長老の言葉が思い出される。
「どうすればいいの。誰か教えて! 大僧正様……! フライス!」
 祈るようにそうつぶやいたそのときだった。
 ──封印を──!
 ズキンと激しく頭が痛み、サーシェスが呻くのと同時に頭の中に鋭い声が響き渡った。
「なに? 誰?」
 どこかで聞いたことのある、懐かしい男の声だった。マハには聞こえないのか、きょとんとした顔でサーシェスを見つめている。
 ──思い出せ、サーシェス。これより風の封印を構築する数式を送る──
「数式? なに? なんのこと?」
 再び激しい頭痛が襲う。同時に、頭の中に誰かが侵入してくるような不快な感覚に襲われ、サーシェスは膝を付いた。ついで頭の中にとてつもない光景が広がるのを、まるで自分の身体を外から眺めているような奇妙な感覚に揺られ見つめることとなる。
 見たことのない数値と記号で構成された、長い長い書式。さきほどの声が数式と呼んだのはこの文字の羅列に違いない。だが、ものすごい速さでそれは頭の中を駆けめぐり、駆けめぐったかと思えば消えていくのだ。
「なに!? 数式ってなんのこと!? これはなに!? 私にどうしろっていうの!?」
 叫んでも数式の奔流は止むことはなかった。だが、サーシェスにはこれをどう扱うのか、どうすればなにが起こるのか、想像することすらできないのだ。
「お願い! 私の中から出ていって! 私を自由にして!!」
 そう叫んだのだったが。
「サーシェス! しっかり! あいつがくる!」
 マハの声に我に返る。いつのまにかドラゴンフライの高度はずいぶん下がっており、目の前には光の鳥の恐ろしげにとがったくちばしがあった。
 急いで操縦桿を上に持ち上げ、急上昇を試みるのも後の祭り、大きな口からほとばしる白い稲光を伴った突風に晒され、サーシェスとマハの乗ったドラゴンフライは真っ逆さまに〈地獄の鍋〉の大地に向かって落下を始めていた。

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