第二十四話:狂戦士の告解

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 金属片を叩き合わせるような不快な音が、最初は遠くから、そしてだんだんと近づいてきて鳴り響く。耳を塞げば聞こえてこないはずなのに、それは頭の奥深くで継続的に鳴り続けて鼓膜を、そして頭を、やがては全身を支配していく。
 いつもの悪夢が始まる予感がする。生まれて初めて人を斬り殺してから、毎晩のように自分の罪を糾弾する、あの恐ろしい夢。血まみれの肉塊、あるいは血だまりに浮かぶ人の体の一部が、恨めしそうに無言でにじりよってくる、最強の悪夢が。
 セテは固く目をつぶり、わずかばかりの抵抗を試みる。
 もう見なくなったと思ったのに。まだ俺を苦しめるつもりか。
 夢だと分かっていたが、迫り来る悪夢の予感に、セテは許しを乞うようにつぶやいた。
 俺がアジェンタシミルを守れなかったから?
 俺が隊長のところに行くのが遅すぎたから?
 俺が母さんを助けられなかったから? 俺が──。
 そこでセテは目を開けた。目の前には、見慣れた悪夢の見慣れた漆黒の闇が広がっていた。上も下も分からないほど空間が見事に歪んで、セテの視界を惑わせていたが、何も見えないのがせめてもの救いだと彼は思った。
 俺が──ピアージュを死なせたから──!?
 ぐっと胃の辺りが痛み出す。忘れようとしても忘れられない、炎の中でのアトラスとの対決のさなか、自分をかばって飛び出していったピアージュの、最後のあの微笑──。
 突然視界が開けたときには、自分の体が真横になっているのが感じられて、セテはあえいだ。誰かが自分の腹の上に跨っている。視線を上げたセテはさらに息を飲み、声を最小限に殺してうめいた。半裸のピアージュが、セテの腹の上に乗って見下ろしていたのだった。
「ピアージュ……」
 セテは自分の愛したその少女の名をかすれた声で呼び、手を差し伸べた。それからその短く借り上げた赤い巻き毛に指をからめると、少女はうれしそうににっこりと微笑んだ。
「どうして助けてくれなかったの」
 少女は微笑を崩さず、そう言った。
 セテの体がびくりと跳ねた。少女のみずみずしい乳房に一筋、さらにもう一筋、赤い血の跡が流れ落ちている。見る間にあふれんばかりに流れてくるその血の上流を辿れば、肩口から斜めに、真っ赤な口を開けた傷が広がっていた。それが、あのアトラスとの戦闘の際、剣で斬りつけられた致命傷の跡であることは明白だった。
「どうして? なんで助けてくれなかったの? あたしを助けることもできないくせに、どうしてあの夜、あたしを抱いたの?」
「ピアージュ……俺は……!」
 言い訳にしかならないことはセテにも分かっていた。しかし、どうしても彼女に許しを乞いたかった。にもかかわらず、恐怖と後悔が入り乱れた感情の波に全身の筋肉が硬直し、舌がもつれる。上に跨って自分の腕を力強く握り締めるピアージュの爪が食い込んで、血のにじむ感触がしたが、セテにはそれを振り払うことすらできなかった。
「どうしてあたしを見捨てたの? どうしてあたしを死なせたの?」
 ぼたぼたと粘着質のいやな音をたて、どす黒い血糊がピアージュの裸体を伝って腹の上にこぼれ落ちてくる。それこそが、言い逃れようのない、セテの罪悪のすべてといわんばかりに。
 違う!
 俺はお前を見捨てたわけじゃない!
 死なせたくて死なせたんじゃない!
 ただ守れなかっただけだ!
 だけど、これ以上俺にどうしろと、何を償えと言うんだ!?
 せいいっぱい叫んだつもりだったが、おそらく声は出ていなかったはずだ。恐怖と絶望で腹筋がひきつり、満足に声も出ないのは分かっていた。
「そうやって、私も見捨てるの?」
 頬に添えられた白い手と、ピアージュとは違う鈴の鳴るような声に、セテの体が再び震える。銀色のしなやかな髪がカーテンのように垂れ下がり、セテの顔を両脇から挟んでいた。
 セテの唇が震えた。ピアージュに代わって自分の上に跨っているのは、まぎれもなく、ロクランにいるはずのあの銀髪の少女。
 ──サーシェス──!
 欲情することすらかなわなかったのに、いま彼女はおしげもなくその美しい肉体をセテの前にさらけ出していた。その名を呼ぶのもためらわれるほどに、銀髪の少女の体は光り輝いて神聖なもののように見えた。
 セテは彼女の白い乳房に、ためらわず手を差しのべた。すぐにため息のような艶っぽい声がサーシェスの唇からこぼれた。だが。
「どうして……助けてくれなかったの。私……ずっと待ってたのに」
 サーシェスのグリーンの瞳がじっとセテを見つめ、縛り付ける。叱責するような口調ではなかったが、悲しみに満ちあふれたその声が、動けないセテの耳に容赦なく突き刺さる。
「私はあなたの一部。あなたは私の一部。あなたが助けに来てくれるのを……ずっと待ってたのに……」
 サーシェスの柔らかい手がセテの頬からそっと離れる。彼女の身体は一瞬天を仰ぐかのようにのけぞり、真上を向いたその唇からゴボリと音をたてて真っ赤な血があふれ出した。
「サーシェス!?」
 サーシェスの身体はそのまま後ろに倒れていき、口元からこぼれ落ちる鮮血が弧を描いてセテの顔に降り注ぐ。うつろなグリーンの瞳が、一瞬セテの瞳を捕らえる。セテは跳ね起き、その手を掴もうと手を差しのべたが、サーシェスの身体は仰向けにのけぞったまま、セテの足下に口を開けた闇の深淵に──そこに穴が開いているなんてありえない、信じがたいことなのに──ゆっくりと落ちていく。
 彼女の柔らかい銀糸の髪がセテの指の先をかすめたが、そのまま彼女の身体は呪わしい闇に飲み込まれていった──。






「うあああああ!!!」
 怒りと自己嫌悪、自己憐憫と恐怖、それらが複雑に絡み合って、気がつけばのど元から叫び声となってはき出されていた。そこでセテは悪夢から解き放たれる。
 全身に冷や汗が流れ落ちていた。はじけそうなほどに激しく脈打つ心臓の音が、体内の血管のすべてに血液を送り続けている確かな証拠として感じられた。それに呼応して呼吸が跳ね上がっている。肩で息をしながらセテは汗で顔に張り付いていた前髪を掻き上げ、深い深いため息をついたのだったが。
「ひっ!」
 息を飲み、ベッドの脇で自分を見下ろす気配に身体をよじる。カーテンのわずかな隙間から照らされる月明かりにでさえ、十分なほどの輝きを放つ銀色の髪が目に入り、セテは我が目を疑った。
「サーシェ……」
 口をついて出てきたその名を呼びかけて、セテは口元を手で抑えた。違う。サーシェスじゃない。
「ごめん、その……なんかうなされてたみたいだからレイザークが様子見てこいって」
 幼い少年のような、少女のような高い声に我に返れば。自分を見下ろしているのが、あのこまっしゃくれたベゼルという少女であることに気付き、セテは再び長いため息をついた。背中を流れ落ちる汗は、いつの間にか冷えて壮絶な不快感をもたらしていた。
「あの……あの、さ。だいじょうぶ? どっか具合悪いの?」
 気遣わしげにそう尋ねる少女を、セテはけだるそうに睨み付けた。自分の罪を糾弾し続ける悪夢に苛まれ、うなされていたところを彼女に見られたとは……。セテの中で激しい怒りが膨れあがる。
「……出てけよ」
 低く押し殺した声でそうつぶやき、憤怒の炎を灯したかのような青い瞳でベゼルを睨み付けた。少女の身体がぴくりと震えるのが見て取れたが、セテにとってはどうでもいいことだった。
「なに言って……。オレはあんたのこと心配して……」
「心配してくれなんて誰も頼んじゃいない。勝手に人の部屋に入ってくるな」
「な、な……! あんた、人がせっかく……!」
「うるせえな! 出てけって言ってんだろ!? 犯すぞ、このクソガキ!」
 気丈な少女も、さすがにそのひと言にいたく傷ついたようだった。肩を落とし、力なくうなだれて部屋を出ていこうと背を向け、ドアのノブに手をかけた。だが、背後でセテが身体を起こす気配を感じて、不安げに振り返る。見れば、セテはベッドの脇に置かれたかばんをごそごそと漁り始め、まるでこれから出かけるかのように身支度を整えていた。
「ちょっと、あんた、なにしてんの? どっか行こうっての?」
 肩にかばんを担ぎ上げたセテに、ベゼルが驚いて声をかけた。セテは不機嫌そうにため息をもらし、ドアの前に立っているベゼルに、顎でじゃまだという仕草をしてみせると、
「ロクランに行く。あんたらの世話になるつもりはないから」
「はぁ!? あんた、なに言ってんの? 正気!?」
 ベゼルを押しのけ、セテは廊下に飛び出す。ベゼルがなにやらわめき、レイザークを呼んでいるようだったが、そんなことにはかまう気も起きなかった。
 右手の平の傷跡がジンジンとうずく。見れば、サーシェスとの絆を表す銀色の傷跡が、あれから何ヶ月も経っているというのに赤く盛り上がり、手の平だけでなく身体全体を揺るがすほどに熱く脈打っているのだった。
 なぜかいま、どうしてもロクランに行かなければならないような気がしていた。サーシェスとかわした約束の果てに得た、彼女と自分を結びつけているこの不思議な傷跡が、なにかを自分に伝えようとしているのは明らかだった。もしやサーシェスの身に危険が迫っているのでは──。
 セテは立て付けの悪いドアのノブを力一杯回し、ドアを開けて外に飛び出そうとしたのだが。
「おい。このクソバカが。どこへ行こうってんだ」
 背後からレイザークの野太い声が響く。不機嫌そうにタバコをくわえたレイザークが、腕を組んでセテを睨み付けていた。その隣には、狼狽したベゼルがレイザークのTシャツの裾を不安そうに握って立っていた。
「ロクランに行く。ここにいてあんたの世話になるつもりもないから」
「はぁ!? お前、バカか? まだそんなこと言ってんのか? それともねぼけてんのか?」
「どうとでも言えばいいだろ。正直、俺はあんたのことが大っ嫌いだ。あんた見てるとヘドが出る。傲慢で人のことをさんざん見下して、聖騎士なんて名ばかりのクソ野郎だからな」
 セテの容赦ない罵詈雑言に、レイザークが目を見開き、
「あのな。お前の言ってることがさっぱり分からんのだが。そういう話をしてるわけじゃない」
「ああそうだよ! そういう話なんかしてねえよ! 分からなくて結構! 俺はここにいたくないから出てくんだよ! 俺の行動にいちいち干渉すんじゃねえよ!」
 もう一度ドアを開けて足を踏み出そうとするセテに、レイザークが厳しい声をかける。
「待て。少なくともいま現在、まだお前は特使で、鉄の淑女《ねえさん》の支配下で行動を制限されていることくらい、いい加減自覚しておけ。ロクランに行くだと? ふざけたマネするな。いま中央特務執行庁を始めとする中央機関が、ロクラン解放のための作戦を計画中だ。行って勝手なマネしてみろ。計画はおじゃんになって公務執行妨害で特使の地位を剥奪されるばかりか、アートハルク兵に囲まれてのたれ死にだぞ」
「ああ、結構だね! どうせ俺なんかどこに行っても役立たずだ! どこでのたれ死のうと、あんたにゃ関係ねえだろ!? いいから俺のことはほっといてくれよ! オヤジぶっていちいち俺に説教するな!」
 そう言ってセテは背を向けた。だが、それをレイザークの太い腕が捕らえ、セテを引きずり倒す。そのままセテはレイザークに引きずられて家の外に引っ張り出されると、月明かりで銀色に照らし出される地面に放り投げられた。
「おい、ベゼル」
 レイザークは後ろにいるベゼルに声をかけると、
「こいつの部屋から剣を持ってきてやれ。俺のデュランダルも持ってこい」
「は?」
 少女がうろたえて間抜けな返事をすると、
「聞き分けのない馬鹿な小僧には、お仕置きだ」
 レイザークはにやりと笑ってそう言った。ベゼルは弾かれたように廊下を走り、セテの部屋に飛び込んでレイザークの言ったとおりにセテの愛剣・飛影《とびかげ》を掴み、それからレイザークの剣も持って戻ってきた。それをレイザークに手渡すと、彼は地面で尻をついて睨んでいるセテに剣を放ってやり、自らの巨大な愛剣デュランダルを構えた。
「……剣を抜け」
 レイザークは、月明かりに鈍くテラテラと光る剣の切っ先をセテの鼻先に突きつけ、低い声で言った。セテはその切っ先とレイザークの顔を交互に見やる。この熊のような図体の聖騎士が、いったい何を言っているのか理解するには、まだまだ時間がかかりそうだった。
「は? あんた、いったい何言って……」
「剣を抜けと言っている。その腐った性根をたたき直してやる」
 それでもセテが呆然としているのに業を煮やしたのか、レイザークは鼻を鳴らす。
「なんだ。剣が怖くて抜けないのか。そうだろうな、モンスター討伐で何もせずに突っ立って、あげくに無様にぶっ倒れたんだっけなぁ。怖くて抜けねえなぁ、それじゃあ」
 あざ笑うレイザークの声にかっとなったセテは飛影を掴み直し、飛び上がるように身体を起こした。だが、剣を抜くどころか構えもせずにレイザークを睨み付けるだけだった。
「ほう。聖騎士相手に素手でやり合うつもりか。なめられたもんだな。どこまでがんばれるか見てやりたいところだが、その細腰、三秒で叩き斬ってやる」
 言うなりレイザークは剣を振りかぶり、セテの頭目がけて振り下ろした。旧世界《ロイギル》時代の伝承に残る、妖精が鍛えたと言われる剣と同じ名を持つだけあって、すんでのところで身をかわしたにもかかわらず、すさまじい風圧にセテの身体がよろける。いや、剣の巨大さだけではない。レイザークの剣技が剣の性能に勝っているのは間違いなかった。
「ふざけんな! クソ野郎!」
 セテはレイザークの振り回す剣をよけながら、これが冗談ではないことに気付き始めた。身体をよぎる風圧に、聖騎士の並々ならぬ殺気がみなぎっているのがはっきりと感じられるのだった。よろけたところを狙って、レイザークの剣の切っ先が執拗に追い回す。
「畜生! 本気で俺を殺す気かよ!」
「ああ本気だとも。ふん、クズのくせにがんばるな。そろそろおとなしくぶった斬られてみたらどうだ」
「うるせえ! ふざけんのもたいがいにしろ!」
 セテは叫んでレイザークの剣の範囲から離れるべく、すばやく身体を踊らせた。だがそのとき、レイザークは間髪入れず剣に術法を乗せ、まっすぐに振り下ろしたのだった。恐るべき衝撃波がセテの身体を直撃し、その長身を木の葉のように吹き飛ばす。五メートルほど後ろの地面に叩きつけられたセテが起きあがるのを許さないとばかりに、レイザークは即座に間合いを詰め、その頭上にデュランダルを振り上げた。
 とうとうセテは掴んでいた飛影を頭上に掲げ、鞘をつけたままであったが両端をしっかりと握って受け太刀の構えを取る。だが、頭上から来ると見せかけられたレイザークの剣は、即座にセテの脇腹を狙ってくるりと返る。そのわずかな時間、セテは己の浅はかさを呪い、舌打ちした。
 直後。
 骨を断つほどの衝撃がセテの身体を捕らえていた。焼け付くような激しい熱がセテの右脇腹を襲う。それが徐々に痛みを伴い、やがては気が狂うほどの激痛となってセテの全身の痛感を激しく蹂躙し始める。
 レイザークの巨大な剣は、セテのがら空きになっていた右側を直撃し、その脇腹に見事に食い込んでいたのだった。
 セテは自分の腹に食い込んだデュランダルを見下ろし、それからレイザークの顔を恨めしげに見上げた。月明かりに照らされるレイザークの顔は、セテを蔑むように嘲笑して見えた。
 食い込んだ刃と肉の間から徐々に血があふれ出てくる。ちょうど脊髄でデュランダルの刃が止まっているのが感触として伝わってきた。セテはひゅうとのどを鳴らし、酸素を補うために口を開いたが、その瞬間大量の血がのど元を伝ってあふれ、ごぼごぼといやな音をたてた。
 ぐいと反動をつけて、まるで巨木に食い込んだ斧をてこの原理で返すようにレイザークが脇腹から剣を引き抜いた。途端にどっと血があふれ、セテはがっくりと地面に膝をついた。腹圧に押されて、傷口から腸やらなんやらの内臓が飛び出てくるのを防ぐつもりだったのか、無意識に手は脇腹の傷を抑えていた。粘着質のべっとりとしたなま暖かい血糊が、抑えた脇腹から心臓が脈打つごとに吹き出してくるようだった。
 口の中に容赦なくあふれてくる血液で呼吸もままならず、セテは何度もあえぎ、だが目だけはしっかりとレイザークを睨み付けた。ぼんやりとしてきた意識に反して、感覚だけは鋭くなっていくのがはっきりとセテには理解できた。いまここにきて、やっと脳細胞が活発に働き始めたとでもいうべきか、その不思議な感覚に、セテの心臓はさらに激しく高鳴る。
 これまでに一度だけ、アジェンタス騎士団の任務の際に瀕死の重傷を負い、もしかしたら死ぬかもしれないと感じたことがあった。だが、いま感じているそのときの感覚とはまったく違うものだ。死を、これほど身近に感じたことは生まれて初めてだった。
 地面に、自分の脇腹と口からこぼれ落ちる血糊が広がっていくのが、視界の狭まってきた瞳に映る。痛みも皮膚の感覚も聴覚も、すべてが感じられなくなってきたことに、セテは生き物の本来の死を見つけたような気がした。
 血糊のたっぷりついたデュランダルをレイザークは愉快そうに振り上げ、そして白い歯を見せてニヤリと笑う。いつになく、その表情は凶悪な剣士のものに見えた。
「──役立たずに用はない。死ね」
 レイザークは容赦なく銀色に光る幅広の大剣を振り落とした。
 いやだ。死にたくない。死にたく──ない──!
 その瞬間、突き上げてくるレイザークへの怒りと生への激しい渇望に、セテは叫んでいた。レイザークの振り下ろす剣の軌跡がはっきり見えるほどに神経がとぎすまされているのがセテには分かった。そして大柄な聖騎士の剣を振り下ろす速度が、まるで時間を止めたかのようにゆっくりになったのを確認すると、セテはついに飛影の鞘を引き払い、細身のその美しい刀身を立てて構えた。超硬質の飛影の刃はレイザークの巨大な剣を見事に捕らえ、押し戻していた。
 それからセテはもう一度獣のような叫び声をあげ、レイザークの懐に飛び込む。レイザークが再び剣を振り上げるその瞬間を狙って、セテは飛影の刃を水平に構え、身体ごとレイザークの腹に突っ込んだのだった。
 確かな手応えとともに、レイザークの呻く声が聞こえた。セテはよろける身体を即座に離し、二、三歩後ずさる。飛影の細い刀身は見事にレイザークの心臓の真上に突き刺さっており、ターコイズと金糸をきつく巻いた黒い美しい柄だけが頭を出している。頭上に掲げられていたレイザークの手から、血糊で汚れた巨大な剣が転がり落ちていくのが見えた。
 レイザークの巨体ががっくりと膝をついて地面に崩れ落ちるのを見届けると、セテも膝をつき、ゲホゲホと口の中の血を吐き出した。あふれる血液のために呼吸できず、酸素の行き渡らなかったのをここへきてやっと補うかのように、懸命にあえぎ、空気を求める。
 だがそのとき。目の前のレイザークの身体から流れ落ちたどす黒い血が、乾いた地面に広がったそばからしみこんでいくのを見たセテが、驚愕に目を見開く。自分がいま何をしたのか、妙にすっきりした頭で再確認するに至ったのだ。
「レイザーク……?」
 出づらい声で熊のような聖騎士の名を呼ぶ。
「おい……レイザーク……! レイザーク!!」
 レイザークの巨体がゆらめき、霞をかき乱すように消えていったのは、セテが声の限りにそう叫んだすぐ後だった。そしてそのすぐあとに、あれほどの痛みと出血をもたらし、内臓がはみだしかけていたほどの深い傷跡が自分の右脇腹から消えていることに気付いて、セテは辺りを見回した。もちろんシャツをぐっしょりと濡らしていた血の跡も、剣が服をかすった際に破けた生地の切れ端も見あたらなかった。
 たどり着いた視線の五メートルほど先には、ベゼルと一緒に横柄な態度で腕を組んで立っているレイザークの姿があった。
「レイザーク……」
 安堵なのか、それとも懺悔なのか、セテは大柄な聖騎士の名をため息混じりにつぶやいていた。レイザークはそれを受けてまたにやりと笑うと、
「いい太刀筋だったぞ。いまの気迫を忘れるな」
 それから座りこんでいるセテに近寄り、愉快そうに鼻を鳴らした。
「俺をほんの少し凶暴にして見せてやったんだが、楽しかったか?」
「幻覚なんて見せやがって……騙して楽しいかよ」
「人聞き悪いこと言うな。忘れていた実戦の勘が取り戻せた、いい機会だっただろう? あんなふうに取り乱しているヤツなんざ、聖騎士くらいになればいくらでもいい夢見せてやれる。もちろん、夢の中で殺すことだって可能だがな」
「ふざけんな……! 俺は……!」
 セテは忌々しげに地面に唾を吐き、言葉を濁した。自分が受けた傷のことよりも、レイザークを殺してしまったのではないかという恐怖が自分の身体を震わせていることに、気付かれたくなかった。
 いつかのときのように激情に身を任せ、人を平気で刃にかける自分がいる。その事実を、セテは絶対に認めたくはなかった。
 いまになって全身がガクガクと震えだし、セテは自分の身体を抱きしめるように腕を回した。
「黙って死ぬこともできねえくせに、なにがほっといれくれ、だ」
 近寄ってきた大きな足から視線を上にあげると、レイザークが腕を組んだまま見下ろしている。派手な傷のある強面の顔が、逆光に照らされ下から見上げればさらに険しく見えた。
「正直に言ったらどうだ。本当は死ぬのが怖いんだろう。死ぬ勇気も生きる気力もないくせに逃げ回りやがって、今のお前は、まさにクズ野郎だ」
 セテは顔を背け、歯を食いしばった。
 事実だった。死ぬのが怖かった。死というものが自分の存在そのものを消してしまうことであると、そしてそれがどんなに恐ろしく寂しいものかをあの瞬間にいやというほど思い知った。結局、自分はいつも口先ばかりだ。そう思うと、食いしばった歯の間から声が漏れそうになる。目と鼻の間のずっと奥がツンと痛んできて、あっという間に目頭からあふれてきた涙が落ちそうになったのだ。それをレイザークに見られるのだけは、絶対に許せなかった。
「俺はな、剣士のくせに生きることを簡単に諦めるやつがいちばん嫌いなんだ。力がないために戦えない人間に代わって剣を取り、彼らの生き様を守る、それが俺たち剣士の仕事だ。なのに、剣士自ら生きることを放棄するなんざ冗談にもならん。それじゃあお前はいったいなんのために剣士になったんだ。自分のためか、格好よく見えるからか」
「違う……俺は……」
 だがセテにはそこから先を続けることができなかった。涙があふれそうになるのももちろんだし、レイザークの言葉に反論する術はなかった。自分がなんのために剣士になったのか。聖騎士レオンハルトに憧れて? そうだ。レオンハルトの横で戦うことばかりを考えてきた。自分のため以外に、ご大層な大義名分などあったわけでもない。自分には剣士になる以外ありえないのだと、ずっと信じてきたものが目の前で崩れ去っていくようだった。
「……以前、ロクランの居酒屋でお前とやり合ったときのことは今でも覚えている。俺は翌日に中央騎士大学までわざわざ出向いて、お前のことをいろいろと調べさせてもらった。別に聖騎士に喧嘩を売ったアホウをしょっぴくためにやったわけじゃない。剣士としてのお前を知りたいと思ったからだ。あのときにも言ったと思うが、俺はこれでもお前の剣の腕に一目置いていたつもりだ。まだこういう剣士がロクランにも残っていたんだとな。お前さんの中央特務執行庁の試験のときにも、義姉に頼んで試合を拝見したクチだ。正直言って、その年齢で現役特使を追いつめた腕に魅せられたといっても過言じゃあない。だがな。再会してみればこんな腑抜けになってたなんて、俺ははっきり言って失望した。もっと骨のあるヤツだと思っていたのにな」
 レイザークが少し声のトーンを落として言うと、セテはうつむいたまま首を縦に振る。
「ああ、そうだよ。俺はあんたの言うとおり、最高の腑抜け野郎だよ」
 涙がこぼれそうになるのを懸命に堪えているために、セテの声はわずかに震えていた。レイザークは小さくため息をついた。
「あのときのお前は、自分が最高だと思っていたな。だが今は違う。今は自分が最低の人間だと思ってる。違うか」
「俺は……」
 セテは鼻をすすり、涙声でそう言ったが、レイザークがそれを遮る。
「ならばどうしたら最高の人間になれるか、考えてみろ。崇高な人間になれと言っているわけじゃない。なにが自分を最高の人間たらしめるのか、そのすべての要素を思い浮かべて実行してみろ。それができないというならしかたがないがな」
「できないんじゃない! 俺はただ、怖いだけなんだ!」
 セテは顔を上げて叫ぶと、レイザークのシャツの裾を掴んだ。
「あんただって自分を怖いと思ったことないのか!? 戦いの予感を感じて武者震いする自分の身体が、まるで他人のものみたいだって感じたことは!? 剣を抜いて人に斬りかかるとき、ほのかにわき上がる快感を感じたことは!? 戦いの最中に頭の中が真っ白になって、周りの音も、景色もなにもかもが消えて、耳鳴りと目の前にいる敵の姿だけしか感じられなくなったことは!? 肉を切り裂いて骨を断つ感触が自分の剣ごしに感じられて、吹き出てくる血しぶきにさらに快楽を覚えることは!? 俺はあるんだ! 剣を抜くときにいつもそうだ! 絶対に負ける気がしないのにものすごく恐ろしくて、自分の身体なのに制御もできない! もっともっと血を、相手が自分の剣の餌食になるとこを見たいって思うんだ! それなのに……!」
 そこまで一気にまくしたてるとセテは、レイザークのシャツを掴んだまま彼にすがりつくようにして声を殺す。
「俺の剣は、自分が大切に思っていた人間だって救えやしなかった……! 毎晩毎晩うなされるんだ……! 俺の見捨てた人間たちが夢に出てきて、毎晩俺を責め立てる……! もう……いやなんだ……! もうこんな思いをするのは……!」
 そう言ってセテは声を殺したまま泣いた。ピアージュにも自分を苛む悪夢について話したが、ここまで正直に自分の思いをはき出したのは初めてだった。後から後から涙が出てきて、悪いとは思ったがレイザークのシャツの裾が濡れてしまうことすら止めることができなかった。
「それこそ欺瞞ってヤツだ。結局は自分がかわいいだけだろう。そんなにイヤなら剣士をやめればいい。世の中にはもっと穏便に生きていける職業が山ほどある」
「いやだ! 俺から剣を取ったら、俺が俺でいられなくなっちまう! 俺はもう、剣士以外に生きることができないんだ! 笑ってくれてもいい! 絶対に、剣士になるって誓ったんだ! だからもう俺には、剣の道しか残されてないんだよ!!」
 そう叫ぶと、セテはレイザークのシャツから手を離し、子どもがうずくまるように小さく背中を丸めて地面にひれ伏した。
「──狂戦士《ベルセルク》……だな。生まれながらの」
 うずくまるセテを見下ろし、レイザークがぽつりと言った。
「自分が万能ですべての人間を救えるとか思っているなら、新興宗教の教祖にでもなれ。剣士だって万能なわけじゃねえ。俺にだって守れなかった人間はいる。そのおかげで、相棒をふたりも失った」
 レイザークの言う「守れなかった人間」とは、十七年前、アジェンタスにやってきた任務で戦死した、ダノルという聖騎士のことだろうか。ふたり失ったというレイザークの言葉は分からなかったが、なんとなくセテにはそれがレイザークの心にずっとひっかかる、「守れなかった」最初の事件なのではないかと思った。セテは少し顔を上げ、その続きを待ったのだが、レイザークはもう後ろにいるベゼルを気遣ってなにやら視線だけで会話をしているようだった。それからレイザークはもう一度セテを見下ろすと、
「もう遅い。どこかに行くにしろ、乗り合い馬車はとっくに終わってるし、前借りしてきた給料だって外食続きでほとんど残ってないだろう。いいから今日は部屋に戻って頭を冷やせ」
 そう言われて、セテは急に自分の言動が恥ずかしくなったのか身体を起こし、涙でぐしゃぐしゃになった顔を見られないようにゴシゴシと力強くこすると、逃げるように部屋の中へ駆け込んでいった。その後ろ姿には元気がなかったが、青年がもうかんしゃくを起こして飛び出したりしないであろうことは、レイザークにもベゼルにもよく分かっていた。
「ベゼル」
 レイザークに呼ばれて、ベゼルが飛び上がらんばかりに身体をびくつかせた。レイザークは落ちていたセテの鞄を拾って彼女に渡すと、
「あいつの部屋に持っていってやれ。それから、さっきの立ち回りで右手首を痛めてるはずだから、ちょっと湿布でも貼ってやってくれ」
 ベゼルはもごもごとあいまいに返事をして鞄を受け取る。さっきのように部屋に入って暴言を吐かれることを恐れているのだった。
「まったく。狂戦士《ベルセルク》とは厄介な……」
 レイザークはため息混じりに、だがいささか楽しんでいるようにそう言った。
「なに? さっきも言ってたけど……どういうこと? あいつ、だめなの?」
「いや。だめどころか」レイザークはおどけたように肩をすくめた。
「剣士としては最高級ってやつだ。ベルセルクってのはな。戦場ではもっとも恐ろしい相手だ。自分が負けることなど絶対に考えない、戦うことを本能として狂ったように敵をなぎ倒していく勇猛果敢な剣士のことだ。実際、狂ってるんだろうけどな。血の臭いや剣がぶつかり合う音なんかに魅せられて。戦いの高揚感に支配されたベルセルクに出会ったが最後、絶対に勝てない。さらに悪いことには、やつらは敵も味方も見境なくなっちまってな、自分の前に立ちはだかる人間を問答無用で斬り殺しちまうことだってある。それくらい恐ろしいキチガイじみた剣士を指す言葉だ」
「うへ。あいつがそうだっての? それってサイアクじゃないかよ」
「ふつうはな。ベルセルクってのが否定的な意味で使われているのは、血の臭いに反応して剣を振るうただの狂人だからだ。だが、戦いに対する快感や高揚感を支配することができれば、つまりは自分で自分を制することができれば、並みの剣士なんぞ目じゃない、それこそ最強の剣士となりえる」
「ふーん」
 レイザークの言葉に、ベゼルは分かったような分からないようなあいまいな相づちを打ってみせた。
「すまんな。お前に剣の話をしても、ってのは分かってたんだが。だがまあ、俺の独り言だと思って聞いてくれ」
 レイザークは軽くベゼルの頭を撫でて笑った。
「あいつの太刀筋、見ただろ。幻覚とは言え、俺の懐に飛び込んで心臓をしとめやがった。しかもその前は、俺の剣がかすりもしなかった。現役の聖騎士を脅かすほどのベルセルクで、しかも生まれながらに剣士の資質を持ったとんでもない逸材ってところだな」
「だからあいつを自分の手元に置こうと思ったの? でもあいつ、もう全然だめじゃん。たぶんもう、剣を振るえないんじゃないのかなぁ」
「さあな。あいつがダメになるかどうかってのはまだ分からんな。こんだけの大芝居が吉と出るか凶と出るか、明日になってみないと……な」
「大芝居……ね。レイザーク、あんたってホント、タチ悪いよ」
 銀髪の少女にそう言われるが、レイザークはいつものようににやりと笑い、ベゼルの小さな肩を抱いて部屋の中に入るように促した。
「あいつのオヤジってやつも、ものすごい剣士だった。血は争えないって昔の人はいいこと言ったもんだと思うよ」

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