第二十二話:聖遺物

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 星見の塔から見下ろす渓谷は、日が昇り始めたいまでも紫色の濃い靄に包まれていて、人の気を憂鬱にさせるのに十分だった。
 靄に包まれた渓谷の遙か先には、まだ見たことのない〈海〉が広がっている。そしてゆっくりと太陽が顔を出してこようとしているらしく、かすんで見える地平線、あるいは水平線の間に、黄色みがかった光の線が広がっていこうとしていた。
 人質として囚われているとはいっても手厚すぎるほどの待遇を受け、暖かい寝床まで用意してもらったのに、なぜかサーシェスの身体はがくがくと震え続けていた。寒いわけでも、恐怖を感じているわけでもないのに、だ。今日、約束の時刻にあの集落と〈風の一族〉との取引が成立しなかった場合は、自分は容赦なく処刑されるのだとナギサに宣告されたが、なぜか恐ろしいとは感じなかった。
 この震えは、先ほどから続いている夢のせいだろうと、サーシェスは小さくため息をついた。浅い眠りから何度も覚め、また寝入ったとしても夢を見ながらまどろんでいる状態が続き、サーシェスは諦めて体を起こしてふとんを身体に巻き付けながら、星見の塔の窓から外をじっと眺めることにしたのだった。
 レオンハルトと自分そっくりの救世主《メシア》は、何度も夢の中に現れ、意味深な会話を繰り広げていた。目が覚めても、途中で終わった夢の続きが有無を言わさず見えてくる。それが恐ろしいのかも知れないとサーシェスは思った。
 私に何を見せようと、何をさせようとしているのだろうか。私はなぜ彼らの夢を見る? なぜこんなに懐かしく、切なくなる? 私はいったい、何者?
 そんな言葉が口をついて出てきそうだったが、答えが出ることなどないのだとサーシェスには分かっていた。ただ、自分は光都オレリア・ルアーノにいるという、未来を知る預言者に会えばすべて分かるのだと言った、アートハルク帝国の巫女ネフレテリの言葉を信じていたかった。だからこの厄介な騒動の片が付いたら、一刻も早く、そしてなんとしてでも光都に向かいたいとは思ってはいるのだが。
 本当に自分の過去が取り戻せるのだろうか。取り戻したら自分はどうなるのだろうか。なぜだか、そのときが来たら、自分が自分でなくなってしまうようなそんな不安が頭をよぎる。馬鹿なことを。私が私でなくなることなど、一切あるわけがないのに。そう首を振るのだったが、だが敬愛するリムトダールを追いつめたときの感覚を思い出し、サーシェスは身震いをした。
 私は私。何があっても、もう二度と、自分を見失うことなどありはしない。あってたまるものですか。
 そう自分に言い聞かせたときだった。
 窓の外に羽音がしたので、サーシェスは身体を乗り出し、辺りを見回した。〈風の一族〉の誰かが、窓の下を悠々と羽ばたいているのが見えた。
 その背中に生えた巨大な羽は、彼らの身体を易々と持ち上げることができる。人間の身体を持ち上げるほどの力量は想像以上に大きく、古代聖典に見られるような大きさの翼ではとうてい浮遊することなど不可能であると、サーシェスは何かの本で読んだことがあった。だが、彼ら〈風の一族〉の翼はそれを可能にする。サーシェスにはよく理解できなかったが、霊子力とかいうこの世界には実在しない魔法にも似た力の作用で。
 きれいだと、心底思った。まだ薄暗い暁の、わずかな光をかき集めるように、その翼は光り輝いて見えた。ラインハット寺院の文書館で見た、古代聖典に関連する古い古い絵画の写しに描かれた、神の使いだと言われる伝説の生物「天使」が、生きて本当に目の前を羽ばたいているようだった。絵画の中では、天使たちは真っ白いゆったりしたローブを身につけ、黄金のような柔らかい髪と、頭上に光り輝く輪を頂いていた。いまサーシェスの目の前にいるのは、暁の紫色の靄にもくっきりと映える黒髪と、ぴったりと身体に張り付くような、身動きのしやすい衣服であったが。それでもなんと美しい生き物なのだろうとサーシェスは思った。ヒトとは違って、背中に輝くような翼を持った生物がいる、サーシェスはこの世界のなんと不思議なことかとぼんやり見ていたのだったが。
「おはよう。眠れなかったの?」
 不意に翼が翻って、声の主がサーシェスの顔をまじまじと見つめた。ややとげを含んだような冷たい声。ナギサであった。
「おはよう」
 サーシェスはもごもごと朝のあいさつをすませて、毛布を身体に巻き付けて眠くて仕方ないといった素振りをわざとしてみせた。ナギサはそんなサーシェスを見て少し肩をすくめたようにみえたのだったが、それから翼を大きく動かして、サーシェスのいる星見の塔の窓辺まで近づいてきた。指をちょいちょいと動かして、サーシェスに窓を開けるように指図をしたので、サーシェスは難儀そうに重い窓枠を持ち上げて窓を大きく開放した。そこにナギサはちょこんと座り、彼女らしい少し人を小馬鹿にしたような仕草で足を組み、そのうえについた腕で顎を支えた。
「眠れるわけ、ないわよね。人質なんだもの」
 クスクスと笑うナギサをサーシェスはギロリと睨み、
「そういう陰険なイヤミを言いに来ただけなら、窓から突き落とすわよ」
「おお、こわ! 囚われのお姫様は、今朝はたいそう不機嫌でいらっしゃる」
 ナギサは大袈裟に驚くフリをして笑った。
「そういうあなたこそ、こんな朝早くから空中散歩とはたいそうなご身分よね」
 サーシェスが悪態を突き返したのだが、
「当たり前よ。武者震いがして眠れなかった、と言ってほしいわね。今日、すべてが解決するのよ。これが落ち着いて寝てられますか。あ、安心しなさい。別にあなたを本気で殺そうだなんて思っていないから。人間たちもそこまでバカじゃないと思うし、私には私の立場ってものがあるんだから、そのへんをくんでほしいわ」
「別に……」
「ま、そうでしょうね。ムカデ相手に無茶な立ち回りをしたあなたが、殺されるかも知れないって怯えているとは思えなかったけど」
 悪びれもせずにまた肩をすくめるナギサを見て、サーシェスは小さくため息をついた。勝手に解釈をして勝手に話を進めてしまうあたり、本当にアスターシャによく似ていると思いながら。
 間近で見るナギサの顔は目鼻立ちが整っていて、誰が見ても「美人」の部類に入るだろう。それに加えて、一族の長に近い役割を担うだけの知性にあふれている。ナギサだけではなく、〈風の一族〉の部族全員がたいそう見目麗しい。老いも若きも、だ。人々が見ればなんと不公平だと思うほどの美形揃いの一族がいるなんて、サーシェスにとってはまたひとつこの世界の謎が増えたわけでもあるのだが。
 だがこの好戦的な性質はいったいどうしたことだろうか。昨日聞いた長老の話では、〈風の一族〉は古くから偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》を助け、彼らが戦うときにはその傍らで補佐をしてきたというから、もともと戦術に長けた一族であることは分かったのだが、戦うのをこれほど待ちわびているナギサを見ると、なんだか不安になってくる。
「なに、なにか言いたいことでも?」
 冷たく、いや、ナギサにとってはおそらくふつうに話をしているつもりなのだろうが、彼女の言葉は聞く人を威圧するのだ。ナギサに問われてサーシェスは顔を上げる。
「あの……聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「あの靄の下の……あなたたち〈風の一族〉が聖地と呼んでいる渓谷を見たかったんだけど」
「聖地? どうして?」
「なんとなく……」
 サーシェスは言葉を濁し、遙か眼下に広がる紫色の靄を見つめた。じっと見つめていればその下が透けて見えてくるのではないかという幻想に囚われながら。
「残念ね。いつもは朝方にはあの靄が晴れて、上からよく見えるんだけど……今日は特に濃いみたい。でも見ればがっかりするはずよ」
「どうして?」
「だって」ナギサはばかげたことを聞くとでも言わんばかりに鼻を鳴らし、
「錆びた鉄の塊みたいなもんよ。聖地だなんて名ばかり」
「鉄の塊?」
「そう。汎大陸戦争のね、ずっと昔に使われていたものらしいんだけれども、不格好な鳥みたいな形をしていて……。鳥というよりは芋虫に羽が生えた、と言ったほうがいいかもしれないけれども。いまでは錆びてほとんど崩れ落ちたままあそこに横たわっているわ。だから子どものころには、聖地だから、ではなくて危ないからという理由で、あそこに近寄るのを禁じられていたくらい」
「鳥……? 鉄の鳥?」
「私の小さいころに聞いたおとぎ話かもしれないけれどね。なんでも大昔には、星へも飛んで行けたとか」
 ふとサーシェスの脳裏を、夢で見た光景がかすめる。燃え上がる高層建造物の間を飛んでいく、黒い巨大な鳥の影。あれもその仲間なのだろうか。鉄の塊が空を飛ぶなんて、にわかに信じられない話ではあったが。とすれば、あの夢は過去のものということになるのだろうか。過去と現在が交錯する不思議な夢。サーシェスは混乱が呼ぶ頭痛に頭を押さえた。
「昔の話よ。いまの私たちには、あれを飛ばすことはもちろん、直すことさえできないんだもの。忌々しい汎大陸戦争。あれさえなければ、私たちは人間なんかのことで煩わされずに、いまでも神々の寵愛をうけていたはずなのに」
 ナギサはそう言って眼下の靄を睨み付けている。だが、サーシェスには彼女の言葉そのものに心がこもっているとは思えなかった。長老の話を聞いたいまでは、そう、まるで長老たち先代の言葉を、そのまま受け売りで話しているとしか思えなかったのだ。彼らが本来好戦的な性質だとしても、なにか彼女の言動に不整合さが感じられる。そう思った瞬間、サーシェスの口から言葉がこぼれ落ちていた。
「ナギサ、どうしてあなたがそこまで人間を憎んでいるのか、私には分からない。だって、長老のような先代たちならともかく、若いあなたたちがどうしてそんなに人間に対して敵意をむきだしにしているのか、理由が見つからないもの」
 ぴくりとナギサの顔がひきつるのがよく分かった。後の祭りだと思っていても、ここまで来たからには彼女の口から、彼女の言葉で聞いてみたいと思った。
「分からないって、どういうこと?」言葉はおだやかだったが、あきらかに気分を害された様子だった。
「分からなくても当然でしょう。あなたのような耳のとがった人間は、いまじゃ中央では当たり前のように生活できている。高位の術者ともなれば、ふつうの人間より遙かにいい暮らしが望める。イーシュ・ラミナの末裔としての誇りも自覚もないままにね。そういう中で生活してきたあなたに、従属一族のことなど分かるわけがないでしょう」
「違うの、ナギサ、私が言いたいのは……」
 聖石を奪われたから武力でもって対抗する。それはただの口実ではないのか──。
 そう口に出してしまう前に言葉を飲み込めてよかったと、サーシェスは神々に無言の祈りを捧げた。ナギサの瞳は怒りに縁取られて、じっと見つめているだけで生気を奪われてしまうのではないかというほどにつり上がっていた。
「長老ね」
 ナギサは震える声でそうつぶやき、サーシェスを睨み付けた。
「おおかたあの年寄りが余計なことを吹き込んだのでしょう? なんて聞いた? ナギサは人間との間に生まれた、不義の私生児です、とでも?」
「違う、ナギサ、そうじゃない」
「どう違う? 私は人間との間に望まれずに生まれた。人間の世界にいられず、父が死んでこちらに引き取られても、先代の中にはこう言う者だっていた。『できそこないの恥知らず』ってね。私には父も母もいない。顔も知らない。母親はまだ生きているかもしれなけれども、憎みこそすれ、会いたいと思ったことなど一度もないわ。お人好しのサーシェス。私がここまでの地位にたどり着くまでになにがあったか、あなたには想像もつかないでしょうけれどもね!」
 ナギサの翼が激しく震えていた。それと同時に、重く激しい感情がサーシェスの胸を締め付ける。霊子力といったか、その翼はナギサの中に渦巻く生の感情を直接伝えてきて、あらがいがたい呪いの声となってサーシェスの心をかき乱している。ぐっと引き込まれそうになるのをサーシェスは胸を押さえることで堪え、負けじとナギサの顔を見つめ返した。
「力が──ほしかったのよ、私は」
 ふいに負の感情がかき消えたかと思うと、さきほどとは比べものにならないほど穏やかな声でナギサがそう言った。ナギサは足を組み直して背筋を伸ばし、遙か水平線からゆっくりと顔を出す太陽に目を細めた。
「よく覚えていないけれども、おそらく父だった人だと思う。記憶の中にある父はとても偉大で、すばらしかった。父の腕に抱かれながら言われた言葉がある。『力は悪ではない。使う者の心しだいだ』と。私はそれを実践してみたい。私の持っている力はいったいなんのためにあるのか、その力を最大限に使うときは、いつくるのか、それを知りたい」
 ばさりと翼を広げ、ナギサは中空に身を投げ出した。くるりとまるで曲芸師のように華麗に舞うと、サーシェスを振り返り、
「それが私の戦う理由よ。私は力がほしかった。だからいまの地位を勝ち取ったんだもの」
 ナギサがまるで少女のように笑った。
「でも、アジズのことは愛しているんでしょう?」
 サーシェスがそう言うと、ナギサは驚いたように目を見開いた。
「アジズ?」
「そう、彼、彼は〈風の一族〉の長なんでしょう? でも、彼のことは愛しているんでしょう?」
 そう問うと、ナギサはふいに吹き出した。
「『愛している』ですって。ふふ、そうね。そういう陳腐な台詞もあるかもしれないわね。まったく、あなたの瞳を見ていると、とんでもないことを口走りそうだわ」
 ナギサは黒髪をかきあげ、再び笑った。
「あなたが想像しているように、確かに私には実力を持つ連れ合いが必要だった。それはアジズだったけれども……。ご心配なく。私は彼を『愛している』わ。でも、アジズだって元々は私と同じでしょうから、お互い様」
 ナギサはそう言うと、翼を大きくはためかせた。
「見ていらっしゃい。私は今日、私たちの持つ力を最大限に利用してみせる。私たち若い世代の方向性が間違ってはいなかったと、あなたにも証人になってほしい。今日、なにもかもが変わるのよ!」
 翼を広げ、ナギサは眼下の靄に向かって急降下していく。窓枠の内側にナギサの羽が舞い降りたが、サーシェスがそれを掴んだ瞬間、まるで霧のようにかき消えてしまった。彼らの翼は、この世には本当に存在しないのだ。
 綿菓子の中に突っ込んでいくように、濃い靄の中にナギサの身体が沈んでいくころには、朝日はすっかり顔を出して紫色をしていた靄を橙色に染め上げようとしていた。
 残されたサーシェスは、子どものように喜々と叫んだナギサを止められなかったことに苛立ち、窓枠を軽く拳で叩いた。胸に広がる不安が、彼女の身体を震えさせる。
 ナギサの翼が伝えてきた感情の中に紛れて見えた、幼い少女の影。ナギサ自身だったに違いない。彼女は泣きながら、彼女の父と母を呼び続けていたのだ。いまでも、彼女はああは言っても顔も知らぬ父と母を捜し求めているはずだ。その鬱積した感情が、彼女の好戦的な性格を形成したに違いない。
 彼女が聡明なのは、自分の本心を隠すことで身に付いた言動がそうさせているだけだ。臆病で感情豊かな少女がそのまま大人になってしまって、いまでも自分の存在意義を探し求めているのだ。そしてそれを戦いの中に見いだしたいだけなのだ。だからこそ──。
 最大限に力を利用する。彼女はそう言った。それがサーシェスには、まがまがしささえ感じさせるのだった。
 彼女はいったいなにをしでかそうと、今日のこの日に、なにを変えようというのか。それを聞き出せないまま、彼女とのやりとりは終わった。おそらく今日の引き渡しの時刻まで、彼女と話すことはできないだろう。それがサーシェスの心を大きくかき乱していた。
 どうかこの不安が自分の思い違いであるように。サーシェスは自分の左手のひらに刻まれた銀色の傷跡を見ながら、そっと祈った。






 約束の刻はとうに過ぎていた。人間たちとの取引、聖石と人質の身柄の交換は正午であったにもかかわらず、〈風の一族〉は正午を控えた時刻まで出発しようという気配を見せなかった。居住区全体が浮かれ気分に包まれていて、もちろん志気は存分に高まっていた。
 昼食をすませたあたりでようやくサーシェスにお呼びがかかり、広間へ引き出されることになったのだが、やっと装備を揃えた一族の若者たちがずらりと整列を始めるころのようだった。列の先頭には、一族の若長であるアジズと、その隣に勝ち誇ったように満足げな顔をしているナギサがいた。もちろんふたりとも戦闘用の装備を身につけていた。
 周りの〈風の一族〉の若者たちは聖石を取り戻せることに浮かれているようだったが、サーシェスにはナギサだけが違うことを考えているに違いないことを感じていた。今朝のやりとりからサーシェスがナギサともう一度話すことはかなわなかったため、その不安はさらに膨れあがる。
「さあて、お嬢ちゃん」
 アジズがサーシェスに向かって陽気に声をかける。もともと陽気な性格なのだろうが、ここにいたっては目に余るほどの陽気さとでもいえるだろう。
「悪いが現地につくまでは縛らせてもらうぞ。来たときみたいに暴れられたらかなわんし、一応、人質らしくしていてほしいんでな」
 言われてサーシェスはおとなしく彼らに従い、縄をちょうだいする。両手を戒められているので、最初にここに連れられてきたときと同様に、アジズの首に両手を回して抱きつく形になってしまうのだが、それも甘んじて受けることにした。
 アジズの威勢のいいかけ声で若者たちは歓声をあげ、彼を先頭にいっせいに中空に羽ばたいた。突然身体が宙に舞って、サーシェスが悲鳴をあげた。アジズがわざと空中で彼女を抱えたまま一回転したのだった。サーシェスがアジズを睨み付けると、彼は悪びれた様子もなく片目をつぶってみせた。
 ふいにサーシェスは後ろを振り向いた。居住区のいちばん上の階層の窓から、小さな人影がじっとこちらを見つめているのが見えた。長老だった。顔の表情はもう見えなかったが、どこか不安げに窓にはりついてこちらを見守っているような感じが、とても印象的だった。
〈風の一族〉の居住区から人間たちが住む〈地獄の鍋〉の集落まで、空からの距離ならあっと言う間だ。信じられないような段差のある地形を、徒歩で上るのは不可能に近いが、彼らの翼はそれを可能にするばかりか、大空を羽ばたく魅力を教えてくれる。人質という立場でなければ、ぜひとも毎日でも空の散策を楽しみたいところだとサーシェスは思った。
 やがて箱庭のような凹んだ大地が面前に広がったかと思うと、唐突に赤茶けた地形が彼らの視界を覆う。灼熱の太陽が照りつける、死の大地だ。集落の入り口付近に、アリのような大きさの人間たちの列があるのを見届けたアジズが、サーシェスの横で満足そうに鼻を鳴らした。
「少々遅刻してしまったが、ちゃーんと約束は守ってくれていたようだな」
 アジズが先頭になって降下を始めると、周りの一族の者たちもそれに倣って高度を徐々に下げていく。ナギサも前列まで出てきていて、アジズの横に並んで飛行しながら、人間たちの様子に満足しているようだった。だがそのときだった。
「ちょっと待て。なんだあれは?」
 アジズがうめくようにそう言ったので、サーシェスと、隣にいたナギサが身を固くした。確かに人間たちが並んで立っているのが見えるのだが、規則正しく、まるで戦列のように並んでいたのが気にはなっていた。やがて徐々に近づいていくと、彼らがみな一様に黒い服を着ているのが見えた。五列ほどの隊列を作って並ぶその後ろには、黒地に赤い炎をかたどった大きな旗が掲げられている。そしてさらには、前列に並んでいるものが手に持っていたのは、殺傷力の強いボウガンであった。
「引け! 引き返せ!」
 アジズが叫ぶのと同時に、金属のバネが弾かれる音がして、強弓から放たれた頑丈な鉄の矢がこちら目がけて飛来してくる。速度を落としていたアジズたちよりも先に集落に近づいていた一群がそれをまともに受け、悲鳴を長引かせながら地面に落下していくのが見えた。
「ちくしょう! あいつら、何の真似だ!?」
 アジズは身を翻し、後ろにいる者たちにさらに退却するように指示を出す。だが、遅れて到着した者たちが間に合わず、ボウガンの餌食となって落下していくのだった。
 アジズはここへきてようやく掲げられていた黒と赤の旗の意味を悟った。いまいましげに舌打ちをすると、
「アートハルク帝国か! なんだってあいつらがでしゃばってくる!?」
 アジズに抱きつきながらことを見守っていたサーシェスは、何日か前のできごとがようやく結ばれて、ことを理解することができた。集落の村長は、確かにアートハルク帝国の軍曹らしき人物と親しげに会話をしていた。彼はあろうことか、今回の件でアートハルクに協力を要請したのだ。だがいったい、なんのために?
「引け! いったん居住区まで引き返せ! ここで全滅するわけにはいかない! 引き返して反撃開始だ!」
 アジズとナギサは協力して声を張り上げ、仲間たちに退却命令を出す。乱れていた隊列もようやく元に戻り、〈風の一族〉の若者たちはいっせいに身を翻して元来た道を戻り始めたのだった。だが、
「アジズ! 後ろを見てくれ! あれはなんだ!?」
 ここまで退却すればボウガンも届かないと思われたところだったのだが、尋常でない仲間の声に、アジズやナギサだけでなく、みながいっせいに振り返った。
 アートハルクの戦旗が翻る〈地獄の鍋〉の崖っぷちから、鳥のような羽のついた細長いなにかに乗った兵士たちが飛び上がってくるのが見えた。幅にすれば五十センチほどの板の両側にトンボのような羽がついており、おそらくは方向を操るための縦十字に組まれた簡素なハンドルがついた奇妙な乗り物で、アートハルクの兵士たちはその板に立って小脇にボウガンを抱え、ハンドルを器用に操作しながらこちらに向かってくるのだ。しかもその乗り物の速度は、〈風の一族〉の飛行速度を大幅に上回る。追いつかれるのは時間の問題であった。
 奇妙な乗り物に乗ったアートハルク兵士たちは、再びこちら目がけてボウガンの狙いを定める。太い鉄の矢がかすめて飛んでくるのを、アジズたちは器用に避けて飛び、必死の退却を試みる。こうしている間にも、追いつかれてボウガンの矢に貫かれて落ちていく仲間たちはどんどん増えるいっぽうだった。
「くそ! いったいなんなんだ、あれは!?」
「アジズ! よそ見しないで!」
 それはナギサが叫んだ声だったか。その瞬間、アジズの身体が大きく揺れたので、サーシェスは悲鳴をあげて彼の身体にしがみついた。もう一度、アジズの横でナギサが悲鳴をあげる。その衝撃から、アジズの身体にボウガンが突き刺さったのは明白であった。
「アジズ! アジズーーーッ!!!」
 ナギサがこれほどまでに取り乱して叫ぶのは初めて見たと、サーシェスは喧噪の中で呆然と思った。
 サーシェスの視界が大きく揺れる。うめき声をわずかにあげたアジズとサーシェスの身体は真っ逆さまになり、やがてサーシェスの悲鳴を残して青白い靄の中に沈もうとしていた。そのとき。
「聖なる御方の御名において我は命ずる! 白き稲妻よ! 我らが盾となりたまえ!!」
 しわがれてはいても力強い呪文の詠唱が轟いた。目前に迫っていたアートハルク兵士の乗り物とナギサたちの間に、白い稲光が炸裂する。その光はドーム状に膨れあがると、迫り来るボウガンの矢をはじき飛ばし、さらには乗り物ごとアートハルク兵士たちをなぎ払っていた。
「間一髪! 間に合うたか!」
 長老と、そのほかに何人かの老人たちが駆けつけ、共同で結界を紡いでいるところであった。そして地面に叩きつけられるかと思われたアジズとサーシェスの身体は、靄のほんの手前でふたりの若者によって支えられていた。
「ナギサ! はよう戻るのじゃ! いまのお前たちでは太刀打ちできん!!」
 長老は呆然とするナギサに叫んだ。ぴくりとナギサの身体が震える。だが、彼女はそこから動く気配はなかった。
「安心せい! アジズは無事じゃ!」
 長老が指さすほうにナギサの瞳が動いた。見れば、アジズはボウガンで肩をやられただけのようだった。命に別状はないとはいえ、ボウガンの殺傷力は大きい。出血の具合から見ても、とても戦える状態でないのは明かであった。
 そこでナギサはようやく我に返ったのか、長老を振り返ると、
「太刀打ちできない、ですって? 冗談じゃないわ! なんのために私たちは」
「そんなことはどうでもいいからはよう居住区に戻れ! この結界もそう長くは保たん!」
「それこそ望むところよ! 私たちの本当の力を見せてやる!」
 ナギサはそう叫ぶと、居住区に引き返さずそのまま眼下の靄に向かって急降下していった。ものすごい勢いで隣をかすめていったので、アジズに掴まってふたりの若者に支えられていたサーシェスの身体が大きく揺れ、またしてもサーシェスは悲鳴をあげた。
「お嬢さん、だいじょうぶかね」
 アジズに近寄ってきた長老は手を差しのべ、手の自由の利かないサーシェスを抱きしめてやる。サーシェスは大袈裟なくらいに長老に抱きすがって、泣き声にも近い声を出しながら大きなため息をついた。
 肩をやられたアジズは意識がない。長老はふたりの若者にアジズを居住区に連れ帰るように指図をすると、もうひとり後ろで控えていた若者にサーシェスの腕の戒めをはずすよう指示をした。
「長老、あれはいったいなんです?」
 サーシェスは結界を越えて来られずいらついている兵士たちの乗り物を指さし、震える声で尋ねた。
「〈ドラゴンフライ〉と呼ばれる、汎大陸戦争時によく使われた空中用移動器具じゃよ。あんな古いモノがまだ残っていたとは……アートハルクの連中めが、いったい何を考えておる」
 サーシェスを抱きながら長老は忌々しげに舌打ちをした。
「私、あの集落にいたとき、村長がアートハルクの軍人と話をしていたのを偶然聞いてしまったんです。たぶん連中は、あなたたちの聖石を要石と勘違いしていて、要石と引き替えにあなたたち〈風の一族〉の殲滅を請け負ったんじゃないかと」
 サーシェスは震える声でそう言った。それを受けて再び長老が舌打ちをする。
「風が騒いでおったのでなにやら胸騒ぎがしたんじゃが、やってきて正解じゃった。とにかく、いったん退却じゃ。結界を固めて、防御せねばなるまい」
「でも、ナギサが……! ナギサはなにかをたくらんでいるはず!」
「やはりな。わしもずっとそれを考えておった。おそらくナギサは聖地へ向かったのじゃろう」
「聖地へ? いったいなんのために?」
 サーシェスが問うと、長老は顔をしかめてため息をついた。
「聖地にはな。遙か昔の封じられた叡知が眠っておる。ナギサめ、おそらくは最初からあれを解放する腹づもりだったに違いない」
「封じられた叡知ですって……?」
 長老は翼に力を込め、サーシェスを抱えて舞い上がった。
「さよう。我らが力の源、風の封印じゃ」

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