第二十一話:執心

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「あんたの息子……じゃない……よな?」
 セテは目の前の少年の顔をまじまじと見てから、もう一度レイザークを振り返った。
 だが、レイザークは腕を組んだまま、意地悪そうな笑いをこらえている。セテはレイザークのそんな様子にムッと顔をしかめていたのだが、
「……おい」
 呼びかけられて少年に目をやると、少年の顔は先ほどの朗らかそうな表情とはうって変わって、険悪に歪んでいる。
「……誰が誰の息子だって?」
 少年はセテを睨み付けたまま、まだ声変わりもしていないだろうにできるだけ低い声を出そうと、声を震わせてそう言った。
「……は?」
「だから、誰が誰の息子だって聞いてるんだよ」少年は腰をかがめて不思議そうに自分を見つめる青年に向かって胸を張り、そう言った。
「あのな、勘違いするなよ。そこの筋肉ダルマとは親子でもなんでもないうえに、オレは女だ!」
 少年は、いや、少女は声を荒げてそう言うと憤慨の印に大きなため息をつき、偉そうに腕を組んでセテを睨み付けた。
 まるで後頭部を鈍器で殴られたかのような衝撃がセテの脳天を直撃する。
 女? 女だって?
 セテはまじまじと少女の顔を覗き込み、息を止めていたことにやっと気付いてそろそろと息を吐き出した。
 確かに少年にしてはずいぶんかわいらしいとは思っていたし、背はこれくらいの年頃の少年たちよりずっと高くて、その代わり華奢だ。少女と言われれば納得しないことはないが、いや、それにしてもこの尊大な態度といい、女らしさのかけらもない粗野な言葉遣いといい、いったいなんなんだ。
 セテがそんなふうにあっけにとられていると、後ろからレイザークが頭をこづき、ニヤニヤ笑いながら言った。
「いいからとっとと中に入れ。荷物を置いたら改めて紹介してやる」
 突き飛ばされるようにレイザークに背中を押され、セテはいまだ自分を睨み付けている少女の脇を、猛犬の側を通るかのように慎重にすり抜けて家の中に入っていった。
 とりあえず奥へと促されて入った居間には、お世辞にもきれいとは言えない黒ずんだ木造りの食卓と椅子が丁寧に並べられていた。セテは肩から荷物を下ろしてそのへんの床に放り投げると、用心深くレイザークと少女を見やりながら粗末な椅子に腰を下ろした。それを見届けると、レイザークがセテの正面にどっかりと腰を下ろし、銀髪の少女はレイザークとセテの横にちょこんと腰掛けた。
 まったくもって家の中は外から想像できたとおりに粗末なものだった。築三十年は越えているであろうか、壁や天井はところどころうす茶色のしみが散らばっており、床に至ってはレイザークの巨体だけで抜けてしまうのではないかというほどギシギシと不快な音をたてている。だが、広さだけはたいしたもので、おそらくレイザークと少女だけで住んでいるなら寒々しいくらいだ。雨が降ったらこの家はどうなるのだろうとセテがため息をついてみせたのだが、そこでレイザークが、
「おい」
 と声をかけた。腹が立つのであまりレイザークの顔を見ないようにしていたのだが、面と向かって座っている状態ではそれもままならないので、セテは仕方なく顔を上げた。
「台所の奥の貯蔵庫にビールがあるから、取ってこい」
 レイザークが命令口調でそう言うので、セテは反射的に声を荒げた。
「はぁ!? あんた俺のこといったいなんだと思ってるんだよ」
 と反論するのだったが。
「客人のつもりで連れてきたわけじゃねえから覚えておけ。この家じゃお前はただの居候なんだからな。それともなにか、その辺で野宿するか、それともロクランに戻って人質にでもなってくるか?」
 そう言われてセテは当てつけのように乱暴に椅子を鳴らして立ち上がる。そこまで言われたからには、レイザークが先ほど顎でしゃくってみせた台所方面へとドカドカと足を踏みならして行くしかなかった。
 台所はおよそ人が生活している匂いがまったくしなかった。おそらくはレイザークが外出が多いので食事の支度をすることもないのだろうが、それではあの少女はいったいこの家で何をしているのだろうか。そんなことを考えながら貯蔵庫の扉を開けると、セテはそこで絶句する。
 とんでもない腐臭だった。学生時代、親元を離れてすぐに下宿先で体験したことのある、ある意味懐かしい匂いでもあるのだが、つまるところ、貯蔵庫の中のものが見事に腐ってとんでもない悪臭をまき散らしているのだ。見るのもおぞましいのだが、貯蔵庫内の棚に並ぶ肉や野菜が、恨めしそうにこの暗い貯蔵庫でじわじわと傷んでいったに違いない。
 セテはぐっと息を止めていちばん下の大きなタルに両手をかけ、引きずり出すと、脇の食器棚に並んだジョッキグラスを掴んでまずは自分用に丁寧に泡が乗るようにビールを注ぎ、それからレイザーク用にはぞんざいに注いでやる。タルを貯蔵庫の中に戻して足で扉を閉めると、両手にジョッキを持って再びドカドカと足を踏みならしながら居間に戻った。
 ドカッと乱暴な音をたててレイザークの目の前にジョッキを置き、それから自分のジョッキを大事そうに抱えて椅子に腰掛けた。レイザークは自分のジョッキのビールの泡と、セテのジョッキの泡を見比べて顔をしかめたが、ひとまずは景気づけにとジョッキをあおってみせた。それを見届けてからセテは自分の泡をたっぷり持ったジョッキに口をつけ、喉を潤した。
 ここしばらく、酒の類は一切口にしていなかったので、ひと口目がこんなに苦いものだったとは思わなかったとセテは思い返す。そして、アジェンタシミル陥落後、口にしたものを思い出せないほど食に対する関心が失せていたことに気付き、セテは小さくため息をついた。好物のビールのはずなのにうまいとも思わないし、生きていてよかったとビールを飲んだ直後にいつも言っていた言葉が嘘のようにも思えてきた。
 顔をしかめてセテはジョッキから手を離した。固い木のテーブルにジョッキの底が当たって、ゴトリと重たい音をたてた。
 レイザークはセテの様子も気にならないほど景気よくビールを飲み干し、空いたジョッキを大きな音をたててテーブルの上に置いた。そこで盛大にげっぷをしてみせるのだが、隣にいた少女が顔をしかめ、椅子の下でレイザークの足を蹴ったようだった。
「失敬」
 レイザークはおどけて肩をすくめてそう言った。それから椅子に浅く腰掛け直してふんぞり返ると、隣の少女を指さし、
「改めて紹介してやる。こいつはベゼル。ま、お前さんと一緒のただの居候だ。こう見えてもレディなんでな。さっきみたいな失言を繰り返していると痛い目に遭うから気を付け……イテッ!」
 また椅子の下で少女が足を蹴ったらしく、レイザークが小声で悪態をついた。それから少女はセテのほうに身を乗り出すと、
「オレはベゼル。よろしくな。このクソ暑苦しい筋肉ダルマにはちょっとわけあって世話になってるだけで、血縁でもなんでもないからな。おっと、それに余計なこと考えるんじゃねえぞ。オレはおっさんは趣味じゃねえし。ま、居候同士、仲良くしようぜ」
 ベゼルはそう言うとセテに手を差し出した。セテはとまどいながら手を差し出して握手を返すのだったが、ぽかんとしたまま少女をじっと見つめたままだ。それを見たベゼルが軽く舌打ちをする。
「……なんだよ。口がきけないわけじゃねえよな?」
 セテはそれで我に返るが、うまく言葉が出てこない。そこでレイザークが助け船を出したつもりなのだろうか、ゲラゲラ笑いながら少女の肩を叩く。
「まあ勘弁してやれや、ベゼル。この坊やはお前みたいな小汚い口をきくお嬢さんと話すのは初めてで戸惑ってるんだろうよ」
 そう言われたベゼルは「ケッ」と小さく悪態をついて椅子に座り直し、隣のレイザークを肘で軽くこづいて、
「しょうがねえだろ。物心ついたときから男として育てられちゃったんだからさ」
 そう言ってベゼルは悪びれもせずに肩をすくめてみせた。
「……セテ、だ。セテ・トスキ」
 セテは申し訳なさそうに小さな声でそう言い、椅子に座り直した。
「ふーん。セテ、ね。珍しい名前だよな。あんた、どこの出身? アジェンタス?」
「ああ、まぁ」
「そっか。たいへんだったな。レイザークから聞いたけどよ」
 ベゼルはそう言って大人びたため息をついてみせた。「そうだな」と、セテは気のなさそうに相づちを打ってジョッキに口をつけたが、やはりその苦みに堪えられなかったのか、すぐにジョッキから口を離した。
「オレはアートハルク出身なんだけどさ」
 少女がレイザークのジョッキを奪ってビールに少し口を付けてそう言ったが、そのひと言でセテの表情が一気にこわばる。
「ああ、ごめん。別にそんなつもりじゃなかったんだけど」セテの表情を見て少し悪いと思ったのか、ベゼルは声のトーンを落とした。
「アートハルク出身つったって、オレがいたのは本当にアートハルク帝国が例のクーデター騒ぎでぶっ潰れる直前だったからな。そのあとはおじさんおばさん連中と逃げ回ってたから、今回のことはオレもよく知らない」
 少女の言葉に、セテは無言で頷き返してやる。レイザークが横から口を挟もうと身体を乗り出し、
「ああ、そうだ、言っておくが坊主、ベゼルはな」
「坊主じゃない。今度坊主なんて呼んだらぶっ飛ばしてやる」
 セテがそうやって悪態を返したので、レイザークはまたゲラゲラと笑う。
「ま、細かいことは気にするな。で、ベゼルはな、五年くらい前までは男として育てられたんだとさ。だから多少の言葉遣いは大目に見てやってくれ。アートハルク帝国じゃ、六、七年くらい前に女児狩りがあってな」
「女児狩り?」
「ま、知らんのは当たり前だろうが。帝国全土に銀嶺王ダフニスのおふれが回って、銀髪の女の子をいっせいに狩り出すとんでもない騒ぎがあったんだと」
 銀嶺王ダフニス。先の皇帝、残虐王と名の知られるサーディックの急逝で皇位を継承することになった、若き美しい青年皇帝であることは歴史の教科書でも知られるところだ。白髪と見まごうばかりの銀の髪から銀嶺王と呼ばれる聡明な皇帝であったが、後にエルメネス大陸全土を震撼させたアートハルク戦争を引き起こした張本人であることは、いまでは子どもでも知ることだ。そしてセテにとっては、黄金の聖騎士レオンハルトを従えたことで、非常なる羨望の対象にもなりえた皇帝だ。
 そのダフニスが自国で銀髪の女児を掴まえるためだけの愚策を弄すとは、いったい何が目的だったのだろうか。
「オレも詳しくは知らないんだけど。おじさんやおばさんが言ってた」ベゼルが物憂げにレイザークのジョッキをくるくる回してそう言った。
「救世主《メシア》をね、捜していたらしいんだ。ダフニスの野郎はさ。だからオレみたいな、当時七、八歳くらいの銀色の髪をした女の子はみんなとっつかまっちゃった。母さんも父さんも、それから逃れるためにオレを男として育てたんだけどさ」
「ちょっと待った……! 救世主……だって!?」
 ガタンと椅子が大きな音をたてて揺れた。セテはテーブルに両手をついて身を乗り出していた。
 思い出されるのは十年前、浮遊大陸の瓦礫の中で光り輝く水晶の棺に横たわった、あの美しい銀髪の女神の姿──。
 救世主と呼ばれたあの女性を、ダフニスが捜していた? そんな馬鹿な。だって救世主はあの棺の中で死よりも深い眠りについてまま、レオンハルトが見守っていたではないか。それとも、あのあと救世主は復活して、アートハルク帝国に──?
「どうした、坊主」
 レイザークに呼ばれて我に返ったセテは、ひとまず止めていた息を大きく吐き出し、椅子に座り直した。自分でも顔色が変わっていることはわかっていた。だが、気取られてはいけない。特にこの得体の知れない聖騎士に、自分が救世主に会ったことがあるなどということだけは。
「救世主を捜してたって……? だって救世主は二百年前の汎大陸戦争で」
 震える顎を支えるように口に手を添え、セテはやっとそう言うことができた。ベゼルとレイザークは分かったような意味深な目配せをして肩をすくめた。
「これは聖騎士からの情報ではなく、個人的なものだと思って聞いてほしいんだがな。当時アートハルク帝国皇帝ダフニスには、聖騎士レオンハルトが仕えていたのはお前も知っているな。レオンハルトが復活した救世主を側に置いていたらしいということが、中央特使から中央に報告されている。未確認情報だがな」
 セテは金縛りにでも遭ったように体を動かすことができなかった。何かを言おうと口を開いたつもりだったが、魚が酸素を求めて口をパクパクさせるのに似ているに違いないと自分でも思っていた。
 救世主が復活した──!? 汎大陸戦争が終わってから二百年間、目を覚まさなかった伝説の女神が、レオンハルトが生涯をかけて守り抜こうとしていたあの気高い彼女が──!?
 頭がクラクラする。レオンハルトと復活した救世主が並んで立っている、そんな光景を想像してうれしいはずなのに、なぜか心がいらだつ。
 フルフルと言葉もなく、しかし、かたくなな表情で首を振るセテに、レイザークは軽く鼻を鳴らすと、
「だから未確認情報だと言ってるだろうが。アートハルク帝国に仕える直前まで、レオンハルトは救世主が復活するまではどこの国王にも仕える気はないと公言していた。彼が中央の目の届かないところで救世主の身体を守り続けていることも、いわば公然の秘密だった。ロクランの守護神廟に預けることを拒んで、どこに彼女の遺体を隠していたのか……あの男は最後まで救世主が眠っていた場所を吐かなかったらしいがな。だがアートハルク戦争の勃発直前まで、ダフニスの居城では銀髪の幼い少女がレオンハルトといつも一緒にいるところが目撃されていた。銀嶺王がアートハルク帝国全土をひっくり返してまで銀髪の幼女を狩り出したのは、レオンハルトと一緒にいたというその幼女を捜すためとしか考えられん。全土に渡って捜索するほどの重要人物だったとすれば、なおさらだ。救世主かどうかは別にして、な」
 レイザークの言葉を聞き流しながらセテは唇を噛み、考えを巡らせた。その少女はレオンハルトやダフニスと一緒にアートハルク城で暮らしていたのに、何らかの理由があって城を逃げ出したということか。だが、救世主は二十歳半ばくらいの大人じゃないか。いくら銀髪だからって、そんな幼い少女に目くじらたてることも……。
 そこで思い出されたのはピアージュの言葉だった。今年の春に起きたロクランの国境近くの街レザレアの消失事件。あの街が大爆発を起こしてなくなるその直前まで、ピアージュはレザレアにいたと言っていた。彼女の目の前では、黒髪の長身の女と、銀髪の幼い少女が言い争っていたという。そして、その少女と黒髪の女の術法が衝突して──。あとは中央のニュースで報じられているとおりなのだが。
 銀髪の幼女。アートハルクでもレザレアでも、鍵を握っているのは銀の髪の幼い少女。偶然の一致にしては気味が悪い──。
 ふと、レイザークの驚いたような目が自分をじっと見据えているのに気付いて、しまったとセテは思った。十年前にレオンハルトに出会ったことも、浮遊大陸のことも、そしてそこで見た救世主のことも、誰にも悟られてはいけない。特にこの男にだけは知られてはいけない、セテはそう思った。
 そう、この大柄な聖騎士だって、自分の父のことで隠し事をしている。いまさら自分が少し隠し事をしたからといって、良心が咎めることなどなにもない。
「ま、そんなこんなでさ。そんな騒ぎのせいでオレがこんなふうに育っちまったってことで。なぁ、聞いてるの?」
 ベゼルが腕をつついたので、セテはあわてて背筋を伸ばした。向かいでレイザークが知ったように鼻を鳴らしたのが気になったが、いまは平静を保つことだけを考えることにした。
「そういうわけだ。分かったら坊主、ベゼルと仲直りしてやれや」
 からかうようにレイザークがそう言ったので、ベゼルは憤慨の印に鼻息をふんと勢いよく吹き出し「仲直りってなんだよ、オレたちは喧嘩してたわけじゃねえんだからな」と、またレイザークの足を椅子の下で蹴ってやる。
「で、だ。小僧、お前の今後だがな」
 レイザークが空になったジョッキの底をコンコンとテーブルにぶつけた。
「小僧とか坊主とか、ホントにあんた俺のこと小馬鹿にしてないか」
「ああ、すまんな。聖騎士ってのはどうにも人の名前を覚えるのが苦手でな」
 悪態をつき返したセテににやりと意地悪く笑い返すと、レイザークは床に放り出した自分の荷物から、しわくちゃの封筒を取り出してテーブルの上に放り投げる。セテがきょとんとしていると、レイザークは顎でそれを開けるような仕草をしてみせた。セテが封筒を開けると、中には中央諸世界連合の紋章が入った細長い紙と、銀行の照合鍵が入っていたのでセテは目を見開く。
「お前さんの口座の照合鍵を中央に手配してもらった。再発行手数料はお前の手当から天引きだそうだがな。それから正真正銘、中央諸世界連合お墨付きの小切手だ。次の賞与分だけ前借りしておいてやったぞ」
「あんた、勝手になにやってんだよ!」
「はぁ? お前な、ここで感謝されてもいいくらいのことだが? 居候させてやるとは言ったが、ただでここに住まわせるほど俺はお人好しじゃねえぞ。それともその顔活かしてウリでもやってくるか? なんなら俺の相手で帳消しにしてやるぞ」
「てめえ……ぶっ殺されたいか!」
 セテがますます険悪な表情で睨み付けるので、レイザークは隣のベゼルを振り返って肩をすくめた。ベゼルはというと、大柄な聖騎士の下劣な台詞に思い切り顔をしかめてみせるのだったが。
「ふん、冗談も通じないのか、つまらんヤツ」
 レイザークは吐き捨てるようにそう言うと、上腕二頭筋を見せつけるかのように盛り上げて腕を組んだ。
「まあ金はいい。だがな、働かざる者食うべからずっていう旧世界《ロイギル》時代の古〜い言葉を知ってるか? お前を今日から我が家の料理大臣に任命してやる。俺は料理はまったく分からんし、このベゼルに至ってはさっぱり家事ができん。とりあえずお前は休職中は俺たちのために三度のメシを作れ。それで居候させてやる。分かったな」
 セテは大見得を切っていばるレイザークをポカンと見つめ、ことの状況を把握すべく頭の中で反芻する。そしてしばしの沈黙。
「……あんた……!」
 セテは低い声を震わせて絞り出すようにそう言うと、いきなり立ち上がった。
「あんたいったいどこまで俺を小馬鹿にすりゃ気が済むんだよ! 俺はあんたの召使いでもなんでもないんだぞ! ふざけんのもたいがいにしろ!!」
 ガタンと椅子が乱暴な音をたてて倒れたので、ベゼルが驚いて目をつぶった。セテはテーブルの上の小切手と銀行の照合鍵をGパンのポケットにねじこむと、そのままドアのノブに手をかけて立て付けの悪い扉をこじ開けた。
「おい、どこへ行く気だ」
 セテの背にレイザークが悠長に声をかけると、金髪の青年は憤怒の表情で振り返り、ギロリと睨み付けてきた。
「メシ。あんたらは勝手に貯蔵庫の余りモンでも食ってればいいだろ? 俺は俺の好きにさせてもらう。あんたの世話になんかならないからな!」
 そう言ってセテは当てつけのように乱暴に扉を閉め、家を飛び出していく。扉が閉まった瞬間に家全体がきしんだので、ベゼルは天井から落ちてくる木くずを肩や髪から払わなければならなかった。レイザークは座ったまま、パタパタと駆けていく青年の足音を追いかけるように、
「お前の部屋はいちばん奥だからな、荷物は運んでおいてやるからありがたく思えよ」
 と声をかけるのだったが、青年の耳に届こうが届くまいがあまり関係ないようだった。
「ふん、ペーペーの下っ端公務員の給料で、外食なぞ続くわけねえ。そのうち泣きついてくるだろうよ」
 レイザークは吐き捨てるようにそう言った。隣にいたベゼルが大きな大きなため息をひとつ、大人びた素振りでつき、レイザークが空になったジョッキにビールを注ごうと立ち上がるのを横目で睨む。
「レイザークさぁ……」
「ん?」
「あいつ、めっちゃめちゃ感じ悪いよ。顔はイケてるのにさぁ。なんであんなヤツ連れてきたのさ。おまけにあんた、めっちゃ嫌われてるみたいじゃない?」
「あー? ああ、そうだな。嫌われたかもな」
 ゲラゲラと愉快そうに笑いながらレイザークは台所へ行き、ビールを注いでいる。戻ってきて再びどっかりと椅子に腰を下ろすと、うまそうに二杯目のビールに口をつけた。
「まぁ、いまじゃあれだが、前はもっと明るくてよく笑う色男だったんだぞ。お前の好みだろ? ベゼル」
「バカ言ってんじゃないよ、クソオヤジ」
 ベゼルは呆れたように肩をすくめ、天井を仰いだ。それからふと思い出したようにレイザークを振り返り、
「なに? 前はって、あんたあいつのこと昔から知ってたの?」
 一瞬レイザークの動きが止まったようにベゼルには見えたのだが、レイザークはそのままうまそうに喉を鳴らしながらビールを流し込む。
「いや、そんな昔じゃあないけどな」
「ふうん」
 勝手なことばかり言って、と言わんばかりに、またベゼルは肩をすくめ、倒れた椅子を直すためにおばさんのようなかけ声をかけてて立ち上がった。






 冬が近づいてきていた。
 遙かアジェンタス連峰から吹き下ろしてくる冷たい風が、空気に混じった不純物を取り除いて行ったのか、見事な丸い月がまるで夜空に開けた穴から顔を覗かせるように燦々と輝いている。アジェンタス騎士団領のはずれにあるこの小汚い街にも、満月からにじみ出る銀色の光が降り注ぎ、優しく家々の屋根を浮き上がらせる。
 そんな中を足取りもおぼつかず歩いてくる人影がひとつ。こんな時間のことだ、相当に酔っているのか、たまに近くの建物の壁に寄りかかって身体を支え直している。
 セテだった。酔ってはいたが、足下がふらつくのはそれだけではなかった。セテはようやくレイザークの家の前までたどり着くと、庭先にある水道の蛇口をひねり、手の甲をかざす。月明かりでかすかに見える関節には、血糊がこびりついていた。
「くっそ……痛てェ……!」
 しばし歯を食いしばりながら血の汚れをおそるおそるさするようにこそげ落とし、それから両手の平ですくった水を、腫れ上がった顔に叩きつけた。殴られて熱を持った頬に、冷たい真水は指すような痛みをもたらす。小さく呻いて蛇口を閉めたそのとき。
「酔って喧嘩騒ぎか。いいご身分だな、特使の分際で」
 開いた戸口から差す部屋の薄暗い明かりに、血まみれのセテの顔が照らされる。はじかれたようにセテは顔を上げた。逆光に照らされて戸口に立つ恰幅のいい影を見つけて、セテは小さく悪態をついた。
「……クソレイザーク……!」
「あ? なんだって? 聞こえなかったな」
 レイザークは戸口に立ったままセテを冷ややかに見つめる。もちろん、セテからは逆光でレイザークの表情など見えるはずはなかったのだが、レイザークが自分を見下したような顔で見ていることなど、彼には十分に分かっていた。
「帯剣してなかったからおとがめなしとでも思っているのかもしれんがな、俺たち剣士が一般人と悶着起こすのがどういうことか、分かってないようだな」
「うるせえな。あんたにゃ関係ないだろ」
 セテは立ち上がってレイザークを睨み付ける。それから足を引きずりながら歩き出すと、戸口を塞いでいるレイザークの前に来て、道を空けるよう顎でしゃくった。それでもレイザークがどかないので、セテは見事に腫れ上がった顔で聖騎士を睨み付けた。それをレイザークは鼻で笑う。
「ふん。いつまで腐ってるつもりだ」
「うるせえよ。俺は別に腐ってなんか」
「ま、どっちだって俺には関係ないけどな。ただ、自分だけが不幸だと思ってる女々しいヤツは俺は大嫌いなんでな」
「女々しい……だと?」
 セテの身体がこわばる。
「ああ、女々しいよ、お前は。お前みたいなヤツを見てるとイライラしてくる。俺はそういうヤツをからかうのが趣味でな」
 レイザークが言い終わらないうちに、セテはその胸ぐらに手をかけていた。先ほどの立ち回りで裂けた拳が激しく痛んだが、そんなことはどうでもいいことだった。だがレイザークはセテの腕を乱暴に振り払うと、
「だから甘ちゃんだってんだよ、小僧。血の気は多いし、そのくせウダウダ自分の世界で引きこもったりしてな。ちったあベゼルを見習えってんだ。あいつはな、アートハルクのあの騒ぎで国外逃亡しようとしたとき、親父もお袋もなくしてんだ。ついでに言っとくが、俺にも血のつながりのない鋼鉄の淑女しか肉親がいねえ。だから剣士のくせに人が死んだくらいでウジウジウジウジしてるヤツを見てると、どうにもかわいがってあげたくなっちゃうんだよ」
「あんたに……! あんたに俺の何が分かるってんだよ。そうやって説教垂れて、オヤジの代わりにでもなったつもりかよ」
 セテはそう毒づいて唾を吐くと、レイザークの押しのけて家の中に入ろうとする。だが、すり抜けていくその腕をレイザークが掴み、ぐいと自分のほうに引き寄せた。レイザークが手を挙げたのを見て殴られるとでも思ったのか、セテは目を閉じ覚悟を決めたのだったが、意外にもレイザークの口からこぼれたのは癒しの呪文だった。掲げた大きな手の平から淡い緑色の光がにじみだし、セテの身体を包み込む。暖かい光に包まれる至福の瞬間を味わう頃には、セテの顔の腫れや手の甲の傷は見る間に姿を消していた。
「ふん、感謝してほしいもんだな。ツケとくぞ」
 レイザークの悪態を無視してセテが腕を振り払おうとしたのだったが。
「お前、レオンハルトに会ったことがあるんだろう?」
 びくりとセテの身体が震えた。
「そうだな。レオンハルトだけじゃない、救世主にも」
 レイザークのいつになく真剣な表情に、セテの身体は金縛りのように動けなかった。この男は何を言っている? 何を知っている?
 何を根拠に、そう言おうとしたのだが、それはレイザークの次の言葉で遮られてしまった。
「伝説の空中要塞で、会った。救世主と、レオンハルトに。そうだな?」
 低く押し殺した声でそう言い、もともとの強面に輪をかけた険しい表情のレイザークににじり寄られ、セテは後ずさりをする。レイザークの腕の戒めがゆるんだので、セテはそれを引き抜いたのだが、足が動かない。目だけでレイザークを見据えているのがやっとだった。
「なんで知ってる?ってな顔してるな。ビンゴか」
 喉を鳴らしてレイザークが不敵に笑う。セテはかすかに首を振り、否定したつもりだったが、だがおそらく、みじんも動けなかったはずだと後から思い出したのだった。
「それで? ヤツはお前に何て言った? 『青き若獅子』とでも?」
「青き……若獅子……? なんだよ、それ」
 心なしか膝から下がガクガクと震えだしていた。どこかで同じようなことを言われた気がする。だが、いまのセテにはそれをいつ、誰が言ったのかまでは思い出すことができなかった。
「ふん、そうか、お前じゃなかったのかもな」
 レイザークはそこでようやくセテから身体を離し、おどけたような、人を小馬鹿にしたようないつもの表情に戻ったので、セテは内心ホッと胸をなで下ろしたのだった。
「あんた……いったい何が言いたいんだよ。何で俺が……浮遊大陸に行ったこと知ってるんだよ」
「いまのは忘れてくれ。ああ、そうだ、聞いて喜べ。だがお前みたいな少年に会ったことがあるとレオンハルトが言っていたのは事実だ」
「レオンハルトが? まさか」
 途端に青年の顔が明るくなるのを見て、レイザークの口の端が微妙に歪んだのだが、セテはそれに気付く由もなかった。
「ああ、そうだな……もう十年くらい前になるのか。俺が直接聞いたわけじゃないんだがな、アジェンタスで威勢のいい坊やに会ったって、ご満悦だったみたいだがな」
 レイザークはそう言うと、セテにもう行けという仕草を手で返した。しかも、もうセテのほうを見もしないで開いた戸口の外に見える月を眺めている。
 セテはレイザークが言いかけたことを止めたのが気に入らなかったので思い切り顔をしかめてみせたのだったが、これ以上レイザークと話をしてもらちがあかないと自分を納得させて、奥の部屋に引っ込む決意をしたのだった。
 レイザークはセテが部屋に入ったのを音で確かめると、ちらりとセテの部屋を振り返り、それからまた戸口の外の月を仰いだ。
「嘘も方便……とか、カマをかけるなんて言葉、あの坊やには分からないんだろうがな」
 そしてひとり、アジェンタスの月を見上げながら含み笑いをする。
「そうか、やっぱりそうだったのか。こりゃ本当に複合技で厄介だわ」
 冬の始まりを告げる風にさらされて冷えた身体を大きく伸ばすと、レイザークは大きなため息をついた。
「オヤジの代わり……ねぇ。俺もとうとうヤキが回ったのかねえ。なあ、相棒?」

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