Home > 小説『神々の黄昏』 > 第二章:黄昏の戦士 > 第十九話:語られぬ伝承
〈風の一族〉はこの巨大な岩の塔の内部に、驚くべき居住空間を構築していた。〈地獄の鍋〉の熱気から逃れて硬い岩盤をくりぬいて居住地区を作り上げた集落の人間もさることながら、翼を持つ彼ら〈風の一族〉は、縦に内部を掘削していったに違いない。階層状の居住空間のそれぞれの階は、集落の人々ほどの広さはないものの、上や下に連なる階段を併せれば五百人を越える人々が生活できる巨大なアパートメントを構築している。どうやって材料を運び込んだのか、居住空間の内側は鉄のような素材できちんと固められており、ナギサが言い放ったように彼らの技術や知識の水準は、はるかに「ふつうの人間」を超越しているに違いなかった。
煉瓦造りの暖かみのある家々が立ち並ぶロクランでは、一般の人々が暮らす家の外壁や内装に鉄が用いられることなどない。もちろん鉄がとてもじょうぶであることはわかっているが、鉄そのものが持つ武骨さを嫌い、煉瓦の風合いを大切にしている人のほうが一般的なのだ。〈風の一族〉はその名前とは裏腹に、風合いなどという感覚的なものよりも実用を重視しているのだろう。
サーシェスは星見の塔から長い階段を伝って降りていくところだった。そしていくつかの階を通過したのちに教えられたとおり角を曲がっていくと、鉄の扉のついた部屋にたどり着く。円の中にアルファベットのM字とV字を組み合わせた奇妙な紋章が、ドアの取っ手の上に小さく掘られているが、サーシェスはためらいがちに取っ手に手を伸ばし、ひねってみる。扉は思ったより軽く開き、サーシェスはごくりと唾を飲み込んだ。
部屋の中から香の匂いがする。高鳴っていた心臓が、その香りでゆっくりと静まっていくような気がした。少し大きめに息を吸い込み、サーシェスは中で自分を待っているであろう人物に目をやる。かの人物は椅子に腰掛け、こちらに背を向ける形で窓の外を見上げているようだった。外は紫ににじむ暗闇が帳のように降りてきて、すっかり日が暮れていることを物語っていた。
「おお、やっとまいったか。待っておった」
椅子に腰掛けていた人物はゆっくりとした口調でそう言うと、難儀そうに椅子から立ち上がり、サーシェスを振り返った。齢八十を超えるくらいの、小柄な老人がサーシェスの姿を見てにっこりを笑った。つられてサーシェスもぎこちない笑みを返して軽く会釈をする。
「あの……あなたが長老……ですか?」
「そうだが、長老と呼ばれるほどかしこくもない、ただ人より無駄に長生きしてきただけの死に損ないよ」
老人はそう言って愉快そうに笑った。そして彼はサーシェスに向かって近くに来るよう手招きをしたので、彼女はおずおずと彼の近くに足を踏み出した。ナギサに長老が呼んでいるから訪ねるように言われて来たものの、なんとなく恐ろしい気がしていたのだ。
近くに寄ると、長老は本当に小柄で、サーシェスの背より頭ひとつ分以上も小さい。彼がこれまで生きてきた長い歳月が、彼の身体にのしかかって押しつぶしてしまったかのようだった。小柄ではあるが、顔はとても生気に満ちており、刻まれたしわの深さと多さが思慮深さを醸し出している。彼ら〈風の一族〉を象徴する黒髪はいまでこそ真っ白であったが、抜け落ちることなく知識の詰まった頭を守っていた。あごから垂れ下がる白いひげが生きてきた歳月を物語っているものの、長老と呼ばれるにはまだまだ惜しまれるほどの若さを持った、どこか人の良さそうな印象を与える外見に、サーシェスは不安が消えていくのを感じていた。
だが、いま彼の背中には〈風の一族〉の若い連中が持っているような翼がない。翼がある者とない者がいるのだろうかとサーシェスはぼんやりと考えた。
自分がぶしつけにも長老の顔をじっと見つめていたことに気付いたサーシェスは、あわててもう一度長老に向かって会釈をするのだったが、長老のほうこそ自分の顔をじっと見つめているのに気付き、サーシェスは息を飲んだ。そこで長老も我に返ったようだった。
「ああ、すまぬ。そなた、名前は?」
「サーシェス、です」
「ほう……」
驚いたような返事が返ってきた。それから長老はまたサーシェスの顔をじっと見つめ、
「そなたと前に一度会ったような気がするのだが……」
「私と?」
「いや、気のせいかもしれぬな。わしの思い違いだろう。いくらなんでも」
「あの……」
サーシェスは気まずそうに声をかけた。それからためらいがちに口を開く。
「私、これまでの記憶がまったくないのです。あなたにお会いしていたかもしれませんが、忘れているのかもしれません。もしよろしければお話しいただけませんか?」
そう言うと、長老の目は驚いたように大きく見開かれ、それからひとり納得したように頷く。
「ほう、記憶がない、とな。それはまた奇異なること。だがやはりわしの思い違いだったようだ。かつてそなたとそっくりの少女を見たことがあったのだが、それはもう二百年以上も前のこと。汎大陸戦争が幕を開けるころの話だからの」
「二百年前ですって?」
サーシェスは思わず声をあげた。ということは、この老人は少なくとも二百年以上生きているということになる。その驚きの意味を感じ取ったのか、長老は小さく笑い、
「なに、わしらイーシュ・ラミナに連なる者はみな長命なのでな。驚くのも無理はないが……」
そう言って長老はサーシェスに、後ろにある椅子を勧めた。再び長老が椅子に座るのを待ってから、サーシェスは申し訳なさそうに椅子に腰掛けた。
「さてさて、こたびは子どもたちが無礼な真似をしたようでたいへん申し訳なく思っておる。まったく、あやつらは血の気が多くて困る」
言い終わった後に大きなため息をついて、長老は憤慨の意を表した。だがサーシェスは、やはり長老の背に翼がないことが気になって気になってしかたなかった。
「あの……あなたがたには翼がある人とない人がいらっしゃるのですか?」
思わず口をついて出てしまった問いに、サーシェスはなんと馬鹿なことを口に出してしまったのだろうと恥じる。長老は面食らったような顔をして見せたのだが、やがて大きく笑い出すと、
「なにを言うかと思うたら。いやいや、わしらは翼を四六時中出しているというわけではないのだ。ほら、このように」
そう言って長老は少し椅子から腰を上げた。その瞬間、白く輝くような翼が広げられ、サーシェスは椅子から飛び上がらんばかりに驚いた。
「好きなときにいつでも出し入れできるものなのだよ。こんなものが背中にいつでもあっては、寝るときや座るときに難儀でしかたない。わしらのこの翼は霊子力によるものだからの、確かにその手に触れることはできるが、厳密にはこの世界には存在しない力の現れとでも言ったところだろう」
サーシェスは首をひねりながらも分かったような顔をして見せた。確かにいつも翼があったら服を着るのも脱ぐのも面倒だと、現実的な問題だけは理解できた。
「この翼がないときは、わしらはこのとがった耳だけが人間と違う、イーシュ・ラミナと同じような外見でいられるのでな。ふだんは霊子力を保護するためにこのように隠しておる。だが、若い世代や子どもたちはいつでも翼を誇示しておるもんで、まったくはしたないこときわまりない。わしらがこの翼を持つためにどれだけの目にあったか、知らぬ世代というものは幸せなものだ。まったく、こんな醜悪な姿を自慢してまわるとは、ナギサやアジズたちにも困ったものだよ。そなたもそのとがった耳のおかげで、いろいろと不便なことがあったのではないかね?」
問われて、サーシェスは再び首をひねった。ロクランやラインハット寺院では、とがった耳をしているからといって区別されることはまったくなかったし、フライスやほかの術者の中にもとがった耳をした者が大勢いて、ロクラン王宮内ではどちらかといえば優遇されていたような気もしていたからだ。
「ふむ……時代は変わったものだ。最近ではそういうことはもうほとんどないのかね。ではもはや、我らイーシュ・ラミナの従属一族のみが虐げられているという状態か。まったく嘆かわしいことよ」
長老が小さくため息をつきながらそう言った。
「すみません、私、なにも知らなくて……」
なぜか申し訳ない気持ちになって、サーシェスはそう頭を下げるのだったが、長老は気にするなという意味を込めてにっこり笑った。記憶がないのであればしかたあるまい、と言われ、それが余計にサーシェスを申し訳なくさせるのだったが。
「あの……よろしければ〈風の一族〉についてお話しいただけませんか。私はその……本当に何も知らなくて、今回の件に関しても実はまったく……」
サーシェスがそう切り出すと、長老はまた驚いたように目を見開き、
「なんと! それでは何も知らない娘を人質にしたというわけか。まったくアジズの強硬なやりかたにはついていけんわい」
憤慨したように長老はそう言い、肩をすくめた。
「それでは『神々の黄昏』の時代よりずっと以前にまでさかのぼるとしよう。神々がこの地に降り立ったとき、彼らが愛すべき彼らの子、イーシュ・ラミナに地上を支配させたことは知っておるかね?」
「はい。伝承《サガ》に伝えられている『降臨と楽園の日々』ですね」
「そのとおり。ざっと……そう、五百年近く昔のことになるだろうか。そのころから、イーシュ・ラミナは神々の叡知を使って大いなる福音をもたらし、地上に楽園を築き上げた。彼らはいまでいう四大元素の力を解析しており、そのほかにもさまざまな力の源を自由に制御することができたのだよ。ところが神々はイーシュ・ラミナに地上を支配させるだけでは飽きたらず、四大元素の力を司る四つの種族をイーシュ・ラミナの血から作り出した。それが〈火の一族〉、〈風の一族〉、〈土の一族〉、〈水の一族〉と呼ばれる、我らイーシュ・ラミナの従属一族なのだ」
サーシェスは目を見開いて驚きの意を表した。それではやはり、〈風の一族〉のほかにも属性の名を冠した種族がいたというわけか。そう思いながら長老の話の続きを待つ。
「わしらはイーシュ・ラミナに仕えながら風の力を司ってきた。大空を駆る翼を与えられ、空がよどめば空気を払い、作物の種を運ぶ風で人間たちに豊作をもたらす。イーシュ・ラミナの連中が風の属性の力を振るうときには彼らを大いに助け、彼らが術で力を使い果たしたときには彼らの身を守る。楽園に福音をもたらすため、そしてイーシュ・ラミナを補佐するために、わしらのこの力は神々に与えられたのだよ」
フライスの講義では降臨と楽園に関する話の次に、すぐに『神々の黄昏』の前触れである戦争の話に入ってしまっていたので、サーシェスにとっては初めて聞く伝承であった。自然と長老の話を聞くうちに身体が乗り出てしまっていたことに気付き、サーシェスは椅子に腰掛け直した。
「ところが、楽園など長続きがしないというのは、伝説に聞く古代聖典にも記されているとおりだ。あの忌々しい『神々の黄昏』めが」
そこで長老はまるで若者のように唾を吐き、悪態をついたのでサーシェスは驚いた。
「イーシュ・ラミナはいつのまにか自分たちが神々と同じ地位にあるものだと勘違いをしはじめたのだろう。自分たちで『偉大なる一族』などと名乗るなど、なんとおこがましいことだ。彼らが神のように振る舞うにつれて、人間たちのイーシュ・ラミナに対する不満はどんどん募るいっぽうとなった。それだけでなく、イーシュ・ラミナ同士でもしだいにいがみあうようになり、そして……」
「『楽園の終焉』ですね。地上のほとんどが崩壊するほどの大戦争を起こし、怒った神々が神獣フレイムタイラントを遣わして終結させたという」
「そのとおり。なるほど、そなたは大陸史をずいぶんと勉強しているようだの」
長老が感心して頷くので、サーシェスは困ったように微笑んで見せた。実際のところ、書物で読んできたこと以上には知ることはできなかったのだ。
「それを機会に神々はこの地上を見守ることを諦め、姿を消してしまった。世にいう『神々の黄昏』の時代の幕開けだ。残された者たちは荒廃した地上を再建していくために力を合わせなければならなくなった。イーシュ・ラミナの持っている知識を元にな。それが汎大陸戦争からさかのぼることおよそ二百年。『神々の黄昏』期に入ってからはひどいものだったようだ。とにかく傲慢だったイーシュ・ラミナは人間と交わることでしか種を保存できなくなっていたし、それによって彼らの力は薄れていった。焼けた大地で楽園を復活させるような真似は二度とできなかったというし、逆に人間のほうが力を得ていったため、地上での支配関係は見事に逆転する。イーシュ・ラミナやそれに連なる我々が虐げられはじめたのも、およそこのころからだと言われておる」
なるほど、長老がイーシュ・ラミナや自分たちを否定するような発言をするのは、彼らの主人が力を失ってから自分たちの受難がはじまったからだと信じているからだ。サーシェスはそう思い、先を促すように長老に頷いてみせた。
「だが間違えてはいけない。本当の『神々の黄昏』はそのあと、汎大陸戦争が終わってからなのだ」
「どういうことですか?」
「汎大陸戦争の前にな、人間たちは密かに神々をこの地上に再び蘇らせようとしておったのだよ。彼らも愚かであったが、イーシュ・ラミナはもっと愚かだ。〈火の一族〉に寝返られ、逆上してあの炎の化け物を復活させようなど」
「〈火の一族〉に寝返られたですって?」
サーシェスが頓狂な声をあげたので長老は驚いたようだったが、コホンとひとつ小さな咳をついて長老は話を続けた。
「そう、おそらくサガにも記されておらぬはずだが、〈火の一族〉は人間と通じ、イーシュ・ラミナを欺いて自分たちだけが神々の寵愛を得ようと画策しておったのだよ。その裏切りに怒ったイーシュ・ラミナは一部の人間たちと組んで再び戦う決意をした。〈火の一族〉が皆殺しにされたのを皮切りに、再び世界を二分する戦いがはじまったのだよ。火を制御する一族がいなくなったのでな、世に言われているように狂った独裁者の手によってフレイムタイラントは簡単に復活して、あの悲惨な汎大陸戦争が幕を開けるに至ったわけだ」
「知りませんでした……そんなことが」
「そう、知られては都合の悪い者たちがいくらでもおったからな、あの戦争では。汎大陸戦争は長い目で見ればふたつの勢力の争いではあったが、それに関係した者たちの思惑が泥沼のようによどみながらからんできて、話をするのもおぞましいほどだ。当然神々をこの地上に蘇らせることなどできずに、世界は大混乱に陥った。それなのに、愚かなことに『神世代』などとばかげた年号を掲げ、失われた地《ロイギル》となったこの世界で、戻りもしない神々や精霊などと目に見えぬものの力を信じて祈りを捧げるなど、まったく嘆かわしいことだ」
忌々しげに長老はそう言い放ち、しばし唇を固く引き結んだ。それから思い出したようにサーシェスの顔を見つめると、
「おっと、こんな話はそなたにはあまり関係のない話であったな。すっかり話し込んでしまったわい」
長老が困ったような顔をしながら笑うので、サーシェスも笑い返してやった。
「そうそう、わしらの話であったな。汎大陸戦争が終わってから、新しい国々ができて新しい時代が始まったわけだが、やはり我らイーシュ・ラミナの従属一族は安住の地を求めることはかなわなかった。そもそも聖騎士の始祖、レオンハルトが」
そこでサーシェスの身体がびくりと震えた。レオンハルト。幾度となく夢に現れては断片的な印象を植え付けていく、黄金の聖騎士。集落の人々をいまだに許さない原因を作ったのが彼ではないかと思うだけで、胸が苦しくなる。
「汎大陸戦争の終結後、術法の使用を禁じるよう、初代国王デミル・ロクラン将軍と中央評議会にかけあったのに端を発するのだが」
やはりそうなのだろうか。レオンハルトは戦いが終わった後、いったい何をしようとしていたのだろうか。
「術法の使用禁止に関しては却下されたのだったが、属性を司る我らは人間たちの目に触れないところまで退去するよう命じられた。この地にたどり着くまで、我々はあちこちをさまよい、その間、汎大陸戦争のことを覚えている人間たちによって散々虐げられてきた。それこそ、人間扱いされなかったこともある。だが、わしらは姿形が少し違うだけのまぎれもない『人間』なのだよ。そして忘れてはならないのは、人を虐げたりするのも『人間』にしかできない。『人間』である限り、自分たちが優位に立とうという愚かしい行為をやめることはできぬ」
サーシェスは長老の目をじっと見つめた。彼が言いたかったのは、誰が悪いとかいう短絡的なことではないのではなかろうか。自分たちが虐げられてきたことを受け入れ、憤ってはいるものの、集落の人間と自分たちのどちらも、双方の主張を押し通そうとしているだけだと、彼はそう言いたいのではないか。サーシェスはそう思った。
「レオンハルトを……憎んでおいでなのですか?」
サーシェスは静かにそう尋ねた。自分たちの力だけでどうにもならないいまの現状を作った、あの伝説の聖騎士を恨んでいるのではないか、それを確かめたくて言ったつもりだった。ところが長老は静かに首を横に振り、
「勘違いしているようだが、そうではない。レオンハルトが術法を禁じようとした理由はわかるかね?」
「いいえ」
「かつてのイーシュ・ラミナのように、術法を使う者が術法を使えない人間を支配するようなことがあってはならないと考えたからだよ。それは残念ながら中央によって却下されてしまったが、彼は今度は神々の時代の属性の力を制御する我々を遠ざけることで、少なくともイーシュ・ラミナの遺産が悪用されることがないように計らったつもりだった。その証拠に」
長老は足下の床や部屋の壁を指さし、
「我らがここに落ち着く際、この岩の塔に居住空間を建設する大々的な工事が、中央の資金によって行われたのだからの。それは我々の身に降りかかる迫害を防ぐためのものでもあったが、ほとんどの者には、我々イーシュ・ラミナに連なる者たちへの罰だと理解されてしまったのだよ。レオンハルトの真意が伝わらなかったのは中央のせいだ。少なくともレオンハルトは……理想のために生きるような男だったからな、あやつを恨む人間など聞いたことがない」
それを聞いたサーシェスは少しうれしくなって声の調子をあげた。
「レオンハルトをご存じなのですか?」
「それほど長い付き合いではなかったのだが、わしはあの男を尊敬しておる。もちろん、その頃にはレオンハルトはまだ臆病な子どもだったがな」
長老は小さく笑った。サーシェスはその先を聞き逃すまいと身を乗り出した。
「そう、あれは汎大陸戦争が勃発した直後くらいだったか。まだレオンハルトは二十歳をようやく過ぎたか過ぎていないかくらいのほんの若造でな。わしもそのときはまだ三十をようやく越えたくらいの若造であったが、〈風の一族〉の長のところへやってきて風の術法について指南してくれと言ったそうだ」
「そ、そうなんですか?」
英雄譚に名高い伝説の剣士の若いときの話など、サーシェスにはとうてい信じられないものであった。
「長の命でわしが術法を指南することになっての。なに、レオンハルトは落ちぶれたさる貴族の出身だということで、なんとも世間知らずのボンボン風でな。最初はどうなることかと思ったのだが、長の目に狂いはなかった。彼はわしの教えることのすべてを恐るべき速さで吸収していった。話をすれば多少世間知らずのところはあったものの、現状を冷静に把握して分析し、将来の展望をきちんと見据えて社会のありかたを議論することのできた、ハイファミリーにしては珍しく頭の回転の速い男だった」
「彼はどうして風の術法を習いに来たのですか? 話に聞くレオンハルトは、できないことはなにもない、万能の戦士だと言われていますが……」
「そう、そこだ」
長老はもったいつけて頷き、身を乗り出した。
「ほどなくして汎大陸戦争が大陸全土を覆い始めるころ、長のところにひとりの少女がやってきた。誰だと思うかね?」
サーシェスは首を傾げて分からないという意志を見せた。
「その少女こそ、後に救世主《メシア》と呼ばれる娘だ。彼女はのちのち聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》と呼ばれる術者軍団を束ねて、汎大陸戦争を終結させるつもりだったのだよ。そして、レオンハルトにその資質を見いだしていて、彼が使い物になるように〈風の一族〉で修行を積ませたというわけだ。それにこれは後で聞いたことだが、レオンハルトに剣を教えたのは救世主自身だともいう」
それを聞いたサーシェスは、目をぱちくりさせて長老を見つめた。長老は誇らしげに微笑むと、
「そう、あのときの少女のなんと美しかったことか。絹糸のような長い銀髪に聡明な光をたたえた深いグリーンの瞳、気丈で冷たく、そして強い。彼女の銀の髪が光にさらされる様は、まるで古代聖典の天使のようだった」
長老は目を細め、そのときの様子を心の中で思い浮かべるようだった。それからサーシェスの顔をまっすぐに見つめると、
「笑われるかもしれぬが、そのときの少女は、本当にそなたにそっくりだったのだよ。わしはまた、あの伝説の女神が復活してここへやってきたのではないかと思ったほどだ。しかも、同じサーシェスと、力と叡知を意味する力強い名前を持っているなど、なんという偶然」
「そんなに……似ているのですか、救世主と私は?」
サーシェスはおそるおそる尋ねた。なぜだか心が騒ぎ、不安になる。確か大僧正リムトダールも以前そんなことを言っていた。彼は救世主を見たことはなかったようだが、それでも、この老人と同じくらいに救世主と呼ばれた娘に思いを馳せていた。すべての人に敬われ、愛された伝説の女神。私は単に彼女に似ているだけだというのに。そんなことを考えてしまう。
「おそらく彼女が生きていたら、いまでもそなたと同じ姿をしておったことだろうな。わしらと違い、イーシュ・ラミナは長命でありながらも年相応の姿を嫌い、常に自分を若く見せようとしていた。自分の力が最高に発揮できる肉体年齢を保持することができたのだと聞く。特に救世主に至っては十七、八歳の姿を好んで用いていたというから、なおさらそなたがそっくりに見えたのだろうな」
「そう……ですか……」
心臓の音が聞こえることを恐れて、サーシェスはひそかに自分の胸に手を当てた。めまいがする。だが目を閉じてしまえば、そのまま何かに囚われてしまうのではないかという不安にかられる。救世主という言葉を聞いただけでこんなに動揺する自分がいることに、サーシェスはいらだちを感じていた。だがそれと同時に、いいようのない懐かしさも感じていた。
そう、間違いなく私は彼女を、救世主と呼ばれた娘をよく知っているのだ。
扉をノックする音で唐突に物思いから冷めたサーシェスは顔を上げ、ドアと長老の顔を交互に見つめた。長老は小さく肩をすくめて見せると、ノックをする者に入ってくるよう伝えた。部屋に入ってきたのはナギサだった。
「まだお話しでしたか、長老。その娘は人質だということをお忘れですか」
冷たい声でナギサがそう言う。ナギサは長老とサーシェスがこんなに長い時間をかけて話し込んでいるのが気に入らないようだった。眉間に少ししわを寄せた厳しい顔でサーシェスをちらりと見やる。長老はため息をつき、
「なに、話をするくらいなんでもなかろう。この娘は逃げも隠れもせぬ。年寄りの楽しみを奪って楽しいか、ナギサ」
ぴしゃりと言われたナギサは憤慨したような顔をしてみせ、そのまま無言で部屋を出ていった。出ていくときに、当てつけのように扉を乱暴に閉めて。
「まったく。あの娘の気性の激しさだけはなんとかならんもんか。我らの血を半分しか引いていないというに、気位の高さは一人前以上だわい」
長老が困ったように肩をすくめてそう言った。サーシェスはだがその言葉を聞き逃さなかった。
「半分って……ナギサは混血ということですか?」
サーシェスの言葉に、長老は言い過ぎたといった顔をしたのだったが、
「わしとしたことが余計なことを言ってしまったようだの。まぁよい。だがあの娘の前では決して口にしてはならぬぞ」
そう念を押され、サーシェスは力強く頷いた。
「ナギサはの、人間との混血児なのだよ。人間の母と〈風の一族〉の若者との間に生まれた子だ。あれの父親は次代の我らの長にと目されていた男で、早くから人間との和解を望んでいた。ところが我らとの交わりを快く思わなかった人間連中に引き離されての。そのうちに父親は病気でなくなり、まだ赤ん坊だったナギサは人間たちの集落にもいられなくなってこちらに引き取られる形となったというわけだ」
「そうだったんですか。でもそれなら、彼女が今度は人間との和解を望む架け橋になればいいのでは?」
「ところがな。ナギサは顔も覚えていないというのに母親を憎んでおってな。人間の血が混じっているとはいっても、あれの気位の高さは我々以上でまったく手が着けられぬ。確かに彼女は一族の巫女の地位にいられるほどに力の強い娘ではあるのだが……」
そこで長老はいったん言葉を句切り、大袈裟なため息をついてみせた。サーシェスもつられてため息をこぼす。
「人間を完全に見下しておる。あれの親の世代から一族であることにいらぬ誇りを抱いているようになってはいたのだが、とにかく和解どころか徹底的に戦うことを望んでいる。あれの婚約者のアジズ、あの男はつい最近代替わりしてわしらの長となったのだが」
ああ、婚約者、道理で。似たもの同士だと思ったものだとサーシェスは納得する。
「あれも父親の影響でかなりの強硬派なものだから、いまの〈風の一族〉の若い世代は手が着けられないほどなのだよ。アジズも相当力の強い、優秀な長ではあるのだがの」
なるほど。確かにアジズと呼ばれたあの男は、集落を襲ってきた中でもずいぶんと堂々としていたし、一族の戦士たちのなかでもその戦闘能力を買われ、ずいぶん尊敬されているような感じではあった。
「そういえばナギサが言っておらなんだか。あやつらは汎大陸戦争で人間とイーシュ・ラミナの力関係の均衡が崩れたのだと信じておるから、それを覆すために禁じられた術法まで平気で使い出しての。まったく、〈聖石〉を取り返すために術法を使ったり、武器を使って攻撃を仕掛けたり、目を覆うほどのバカどもだわい。確かに聖地から〈聖石〉を奪ったのは人間なのだからしかたのないことではあるが」
サーシェスは肝心なことを思い出した。〈聖石〉と呼ばれる、今回の騒動の原因。集落の人間たちの話では、それのおかげでさほど手入れをしなくても食物がぐんぐん育つという奇跡の石のようにも思えるのだが。
「そうです! その〈聖石〉って……。いったいなんなんですか? 集落の人たちは要石《かなめいし》とか言って勘違いをしているようでしたけど、あなたたちにはとても重要なものなんでしょう? 彼らにとっても生活を潤わせるとても大切なものだと聞きました」
「ふむ、こちらに来なさい」
長老は難儀そうに椅子から立ち上がると、サーシェスを窓辺へと手招きした。外はもうすっかり暗くなっており、岩でできたこの塔の窓からこぼれる明かりが、眼下の靄をわずかに照らしていた。
「こう暗くなってしまってはもう見えぬか」
長老は少し残念そうな声でそう言った。だが見えない靄の下を指さし、
「明日、日が昇るくらいのときにちょうど靄が晴れる。そのときに眺めてみるといいが、あの下にはな、遙か昔、神々の時代に賜った宝を奉納した聖地があるのだよ」
「宝……やっぱり奇跡の石なんですか?」
サーシェスの問いかけに長老は愉快そうに声を出して笑った。
「なるほど、そなたはとてもロマンチックな娘さんだの」
誉められたのか呆れられたのか分からなかったので、サーシェスは少し顔をしかめてみせた。
「〈聖石〉などと名前をつけてはおるが、そんな奇跡を起こせるようなものでもなければ、石の形をしているわけでもない。我らが司っていたのが風の属性の霊子力だというのは話したと思うが、そう、まさに〈聖石〉とは神々に賜った気象装置そのものなのだよ」
「気象装置ですって?」
サーシェスは本日何度目になるか分からない頓狂な声をあげた。
「さよう。彼らが奪ったのはそのほんの一部ではあるが、それのおかげで気温や湿度を調整できるから、穴蔵生活をしていた彼ら人間たちにとってはなにものにも代え難い宝だろうな。わしらにはもう用のない、使い道のないもの。だがそれを奪われたといって、アジズの父親の世代はたいへん怒り狂っての、おかげで彼らとの意味のない戦闘状態がここ十年も続いているというわけだ」
それを聞いたサーシェスは目を大きく見開き、唇を震わせた。なんということだ。そんな無意味なことに自分が巻き込まれてしまったなんて。
「冗談じゃないです! 私、明日集落の人たちが引き渡しに応じなかった場合、彼らの目の前で処刑されちゃうんですよ!」
サーシェスは勢いよく窓を拳で叩いた。長老が驚いたらしく、背中からぴょこりと翼が顔を覗かせた。
「まぁまぁ、彼ら人間たちもそれほど非道ではあるまいて。今回は災難だったとは思うが、明日になればそなたは解放されるわけだし、それまで子どもたちのことを含めて、もうしばらく辛抱してくれはしまいか」
長老にそう言われて、いいえと言えるわけなどなかった。サーシェスは渋々返事をし、そして声を荒げてしまったことを詫びた。
「さて、ずいぶん長いことわしの昔話に付き合わせてしまったようだ。悪かったの。いきなりさらわれてきて疲れているだろうに。そろそろ星見の塔に戻って休んでおいたほうがいいであろう」
長老は申し訳なさそうにサーシェスを見つめ、そう言った。そんなふうに自分を気遣う長老に、返って申し訳ないような気になりながらサーシェスは首を横に振った。
「そうだ。最後にひとつ聞かせてくれぬか」
失礼しようと窓辺から離れたサーシェスに、長老はそう声をかけた。
「わしら〈風の一族〉は、汎大陸戦争の折りにどうしたと思うかね?」
その問いかけにサーシェスはしばし考えた。長老の話では、神々を蘇らせようとしていた人間たちと、そうはさせまいとしていたイーシュ・ラミナと手を組んだ人間たちが争ったという。特に〈火の一族〉はイーシュ・ラミナを欺いたというのだから、同じ従属一族だった〈風の一族〉は彼らに荷担してイーシュ・ラミナを敵に回したのだろうか。それともイーシュ・ラミナとともに裏切り者を全滅させたのだろうか。
「……分かりません……」
サーシェスは自信なさげにそう言った。長老は満足そうに微笑むと、
「わしらは何もしなかったのだよ。そう、我らは風を司る一族。どこへ吹こうと気ままに流れに身を任せる風のようにな」
そう言って長老は小さくため息をついた。
「ふたつの勢力が争っているなかで、傍観する者、そしてレオンハルトや救世主たちのようにその争いを食い止めようと戦火に身を投じる者、たくさんの生き方があったのだよ。戦争など、一部の者が勝手に始めてしまうだけで、みながみな戦いたがっているわけではないのだ」
サーシェスはそれを聞き届けると小さく微笑み、長老の部屋を後にした。
赤々と照らされる銀の髪。そのしなやかで絹のような髪を容赦なく赤く染め上げていく光は、間違いなく戦火だ。二百年以上前に大陸全土に広がった、あの悲惨な汎大陸戦争に違いないとサーシェスは確信していた。
ときおり辺りを揺るがす爆発音にも動じることはなく、ふたつの影がえぐられた建物の影で立ちつくしていた。ひとりは黒光りする甲冑を身につけた聖騎士レオンハルト、そしてもうひとり、自分と同じ顔をして同じ名を持つ銀の髪の女神、かつて救世主《メシア》と呼ばれた少女。
「……これが正義か……?」
激しい怒りに震え、彼女は誰に言うとなく激しい口調で叫ぶ。
分かっていた。あれは私じゃない。同じ名を持ち、同じ顔をした過去の人間なんだ。そう、これはいつか見た夢。彼女が殺された母親の傍らで泣く子どもを抱え、やり場のない怒りを聖騎士にぶつけるその夢の続きを、私はいま浅い眠りの中で見ている。
「だとすればなんのための正義だ!? それならば私は」
救世主《メシア》はそこで言葉を句切り、目の前に立つレオンハルトを睨み付けた。
「……サーシェス」
レオンハルトの落ち着いた声が、自分の名を呼ぶ。彼が呼んでいるのは私じゃない。自分と同じ名を持つ、彼が愛した救世主を呼んでいるのだと分かっていても、なぜか心が高鳴る。無性に、あの金の髪をした聖騎士が愛おしい。
「それならば私はいまから××××となろう。すべてを知る者として、私たちがあるべき姿を取り戻すために」
救世主は力強くそう言った。なんという雰囲気をまとう人だろう。鋼をも溶かしてしまうほどの激しい炎を連想させる気を、全身から立ち上らせているのが分かる。それでいて、深い悲しみをその身に宿らせ、こうも儚げな印象までをも与えるとは。
「お前ひとりを××××にさせるわけにはいかない」
レオンハルトは静かに、だが強い意志を込めてそう言った。救世主は炎のような瞳をしたままだったが、だがレオンハルトの言葉に少なからず驚いているようだった。
「忘れるなサーシェス。私はお前の半身。お前の影。私はお前を護ると誓ったのだ。ともに──」
そこでサーシェスの意識は深い眠りに囚われていった。
ああ、レオンハルト。私はあなたが──。