Home > 小説『神々の黄昏』 > 第二章:黄昏の戦士 > 第十八話:翼ある者
日中の気温は摂氏四十度を軽く超え、ひどいときには摂氏六十度近くまで上昇することもある地獄の大地。〈地獄の鍋〉の気が狂うほどの暑い大気が嘘のように冷める洞窟の入り口に、サーシェスは一日に何度も立つことが多くなっていた。薄暗い洞窟の中から〈地獄の鍋〉の外気はあまりにもまぶしすぎる。入り口付近では冷えた空気が、かげろうのように揺らいで外気との気温差を物語っている。ロクランの建国当時、デミル・ロクラン将軍を祭り上げた軍隊と戦って敗れ、いまなお許されない追放者たちの集落にはふさわしい温度差、明暗。
サーシェスはため息をついた。知らなければよかったと思うが、知ってしまった今はどうして、なぜと問わずにいられなくなる。自分は何も知らされずに生きてきた。もしかしたら、まだまだ中央の人間が知らないことはたくさんあるのではないだろうか。中央に弓引いた者たちが、いまでもこうして虐げられているのではないかと疑心暗鬼に陥ってしまう。それに──。
〈ハルピュイア〉と呼ばれる一族のことが気になる。この集落と戦闘状態にあると言われる、人間とは種族を異にする種族。いったい何者なのだろうか。マハによれば見かけは人間と変わらないのだというが、確か彼女は〈風の一族〉などと呼んでいた。
〈風の一族〉? サーシェスは記憶をたぐり寄せる。懐かしく、それでいて心の底で甘くうずく悲しい響き。不思議だ。記憶のない自分が、この名前にこれほどまでに動揺している。中央の文献には、なにひとつ残されていないというのに。私は何を知っているのだろう。術法の属性のひとつを司る風の名前を冠した〈風の一族〉というからには、やはり風属性の術法を操るのだろうか。そして、もしかしたらほかにも属性に関連した一族が存在するということなのだろうか。そんなことを考えながら、サーシェスは〈地獄の鍋〉の左側に広がる、広大な渓谷の跡地を眺めていた。
〈地獄の鍋〉の末端から崖を下ることおよそ数キロはあるだろう。フレイムタイラントのはき出す炎でえぐられ、いまだ汎大陸戦争のすさまじさの名残を残すその渓谷は、今日も靄がかかって白っぽく見えた。〈地獄の鍋〉は灼熱の太陽にさらされて乾燥しているのに、あの渓谷には水の匂いがする。もしかしたら大昔はこの〈地獄の鍋〉を満たしていた水が、崖を滝となって流れ落ちていたのだろうか。地形が変わったために水の流れまでが変わってしまい、いまでは崖下の渓谷の下をよどんだ水がたまっているに違いない。そんなことを考えていたときだった。
渓谷のほうから黒い影が次々と飛び出してくるのが見えた。鳥だろうか。群れをなして飛ぶその姿は渡り鳥のようにも見えたが、それにしてはずいぶんと大きいような気がする。荒野には猛禽類のような大型の凶暴な鳥がいると聞いていたが、あれではまるでモンスターのような大きさではないか。そんなふうに考えながら黒いその影を見守っていると、それらはまっすぐこちらに向かってやってくるようだった。
「て、敵襲!! 〈ハルピュイア〉だ!!」
入り口を固める見張りの若い男たちが叫び、岩場にかかった大きなドラを鳴らした。にわかに洞窟内からどよめきが起こり、それまで談笑していた女たちは即座に子どもたちを抱えて走り出す。そして男たちは、先日そうしたように武器を取りに戻り、なにごとかを叫び合いながら入り口に向かって走ってきた。
サーシェスは洞窟の喧噪の中、目を凝らし、接近してくる影を仰いだ。まっすぐこの洞窟へ向かってくるのは、背中に巨大な翼を生やし、高速で中空を飛行してくる──人間の姿。
「ハ……ハルピュイア……!? あれが……!?」
岩場の見張りに、奥へ避難しろと怒鳴られたサーシェスであったが、迫り来る敵の姿に目を奪われた彼女はその場を動くことすらできなかった。確かに彼らは翼を持つ以外は、自分たちと姿形はまったく同じだ。だがそれよりもサーシェスは、〈地獄の鍋〉で自分の危機を救ってくれたあの人影が、いまこちらへ向かってくる敵と同じ姿をしていることに気付き、驚きを隠せない。
〈ハルピュイア〉たちは見事な隊列を作りながら飛行し、その手には集落の人間たちと同じように武器が握られていた。顔立ちはよく見えないのだが、彼らは一様に黒髪で、とても長身であるようにも見えた。
「下がってろ! お嬢ちゃん!」
見張りの若い男がサーシェスにそう叫び、激しくドラをうち鳴らす。奥から飛び出してきた男たちは、矢をつがえて弓を引き、〈ハルピュイア〉の一群目がけて狙いを定めた。すさまじい殺傷力を誇るであろうボウガンの矢がいっせいに放たれる。敵の前衛にいた何人かがその矢に当たって〈地獄の鍋〉の熱い地面に叩きつけられるのが見えたが、それ以外の者は器用にボウガンの矢を避けてくるりと空中で旋回する。そして彼らもまた、手に握った矢をつがえてこちらに狙いを定めるのだった。
サーシェスは身を翻して奥へ駆け込む。だが、なぜか彼らの姿をもっと近くで見てみたいと思った。敵だという彼らをもっと知りたいと。入り口から少し離れた岩場の影に駆け込み、集落の男たちの邪魔にならないよう、顔だけを出して様子をうかがうことにした。
ドカドカと低い衝突音とともに、短い悲鳴があがる。入り口で矢をつがえていた男たちの何人かが、〈ハルピュイア〉の矢に当たって倒れるところだった。サーシェスはその瞬間目を覆うのだが、すぐにその大きな瞳を見開いてこれから起きる戦闘のすべてを見届けようといわんばかりに入り口を睨み付けた。そのとき、ザワリと首筋が泡立つ感触がして、サーシェスは小さく身震いする。
(な、なにこれ……!? この感覚……どこかで……!?)
その直後だった。入り口のあたりの空気が揺れる。それはじわりと揺らぐようなものではなかった。瞬間的に空気が膨張するとでもいう感覚だろうか。そして間髪入れず、入り口周辺を激しい爆風が襲った。集落の男たちの悲鳴と怒号があがると、彼らの身体は十数メートル後ろの、サーシェスが隠れていた岩場のところまで吹き飛ばされていたのだった。
驚いたサーシェスは岩場から飛び上がり、倒れた彼らのところへ駆け寄る。彼らに外傷はないようだが、爆風で叩きつけられて呻いており、すぐには立ち上がれないようだった。
「しっかり! けがは!?」
サーシェスは呻いている男たちに肩を貸してやり、起きあがるのを手伝ってやろうとするのだが、男はその手をはねのけ、
「奥へ行け! ここはいいから逃げるんだ! 術法で入り口を突破された!」
「術法ですって!?」
それでは先ほどの感覚は、術法発動の瞬間だったのか。〈ハルピュイア〉は術法を使うのだ。だが、水の術法や火の術法が発動する気配とも違う。男たちの声を無視してサーシェスはその場を動かず、入り口を睨み付けた。爆風で舞い上がった埃の向こうに、数人の人影が見えた。突破されたということは、あの人影は〈ハルピュイア〉に他ならないのか。
「……!」
埃の向こうで神聖語にも似た言葉がつぶやかれるのが聞こえた。最後に印を完結する短い音が発せられると、再び空気が動く気配がしてサーシェスは身をこわばらせた。攻撃術法の類が発動される気配。サーシェスは即座に身体を起こして岩場に隠れようと、その身を踊らせた。だが。
再び爆風のようなすさまじい衝撃が辺りを襲う。火の術法のような炎を伴う爆発ではなく、空気そのものが激しく身をよじる振動だった。叩きつけるような空気の衝撃がサーシェスの身体をはじき飛ばす。逃げようと背を向けたサーシェスは、まともにその身体に衝撃波を食らい、洞窟の壁にしたたかに打ち付けられていた。岩場の出っ張った部分がちょうどみぞおちのあたりに当たり、ぐぅと胃がせりあがるほどの吐き気にサーシェスは激しく咳き込む。止まらない咳に流れ落ちる生理的な涙を拭いながら、サーシェスは膝をついた。
だがそのとき、何者かに腕を掴まれ、サーシェスは小さく呻いた。その直後、後ろから首周りに手をかけられ、頸動脈のあたりにヒヤリとした感触を感じる。そして足下に触れる柔らかい羽の感触。
「動くな! 全員武器を捨てろ!」
背後から自分を拘束する者が洞窟内によく響く声でそう叫んだので、サーシェスの身体がびくりと震えた。そこで洞窟内にいた者たちの動きがぴたりと止まる気配がした。
舞い上がった埃が風になぎ払われて引いていくと、背後には翼の生えた〈ハルピュイア〉たちがボウガンを構え、武器を握りしめて立ちつくす集落の人間と対峙しているのにサーシェスは気がついた。しまったとサーシェスは心の中で舌打ちをする。あろうことか、〈ハルピュイア〉に身柄を後ろから拘束され、首筋に刃渡りの広い剣を突きつけられてることになろうとは。
「ほら、なにやってる。とっとと武器を捨てないと、このお嬢ちゃんの首が飛ぶぞ」
〈ハルピュイア〉の男は、サーシェスの首筋に剣を突きつけながら集落の男たちを見渡し、そう言った。後ろに控えている仲間の〈ハルピュイア〉たちがボウガンの弓を力強く引き絞る音がした。男たちは手に持っていた武器を諦めたように足下に放り投げ、投降の意志を示すために両手を頭の上に掲げた。それを見た〈ハルピュイア〉の男は満足げに鼻を鳴らし、
「よしよし、いい子だ。おっとそのまま、動くなよ」
そう言ってサーシェスの背を押し、二、三歩前へ歩き出した。それにつられて集落の人間たちが後ずさる。
「長を連れてこい。重要な話がある」
男は集落の人間を見渡し、自信に満ちた声でそう言い放った。集落の人間が何人か奥のほうへ弾かれたように走っていく。ほどなくして、村長のデニスがやってきた。その姿を見た男は再び鼻を鳴らし、
「ほう、責任者自らお出ましとはな。ずいぶん貫禄が出たみたいじゃないか。お前の親父さんによく似てきた」
「前置きはいい。話とはなんだ」
男の言葉を遮るようにデニスが神経質そうな声でそう尋ねる。男は忌々しげにため息をつくと、
「分かっているはずだ。デニス。お前たちが我々から奪ったものを返していただきたい」
「ああ、分かっているとも。要石《かなめいし》のことだな」
デニスは落ち着き払った様子で、だが神経質なその目はそのままだったが、そう返す。男は驚いたような顔をしてみせると、
「要石? ふん、お前たちはそう呼んでいるのか。まあいい。今日こそはあれを返していただこう。お前たち人間には手に余るシロモノだ。我々の要求が通らなかった場合は、分かっているだろうが……」
男はそう言い、サーシェスの首筋にあてがった剣に力を込めた。小さくサーシェスが呻き、集落の人間たちが息を飲んだ。デニスも大袈裟に息を飲んで手を差し出す。
「待て。分かった。返そう。だが、いますぐにというわけにはいかん。時間をもらいたい」
集落の人間たちの間からどよめきが起こった。彼らの魔法の石が奪われることは、すなわち、この十年に築き上げてきた豊かさを失うことにほかならなかった。
「ふん、ずいぶん聞き分けがよくなったものだ。だがまぁ、これでこの十年の長きに渡った我々との戦いに終止符を打てるわけだからな。お前の名前は子々孫々まで英雄として語り継がれるだろうよ。ではその時間とやらを待とうとするか」
男は大袈裟な芝居がかった素振りで肩をすくめて見せ、そして、
「一日。一日待とう。それでどうだ」
「……分かった」
デニスの返事に、集落の人間たちは再びどよめいた。だがデニスは彼らを制し、〈ハルピュイア〉たちを睨み付ける。答えに満足したらしい〈ハルピュイア〉たちが小さくため息をついた気配がした。
「ではその間、このお嬢さんは人質としてお預かりしよう。明日この時間、引き渡しの際にお返しすることとする」
「ちょっと待ってよ! 勝手に決めないでほしいわ!」
サーシェスは男の腕の中で身体をよじり、叫んだ。男がひるんだと思われるその隙をついて腕を回し、自分の首にあてがわれている剣を押し戻そうと試みる。それから身をかがめて男の腕をすり抜け、拳を突き出したのだが。
「まったくやんちゃなお嬢さんだ! 少しはおとなしくしてもらおうか!」
男はサーシェスの肩を掴み、力を込めたそのとき、サーシェスが壮絶な悲鳴をあげた。つい先日貫通してやっと塞がりかけていた傷口が開いたに違いなかった。痛みに震えて膝を付いたところを腕を掴まれて無理矢理立ち上がらされ、再び後ろから拘束されてしまう。
「それでは諸君、明日お会いできるのを楽しみにしている。このお嬢さんを無事に帰してほしくば、妙なマネはしないことだ」
男はそう言い残すと、後ろの仲間たちに顎で合図を送り、慎重に後ずさりを始めた。集落の人間たちに向かっていまだボウガンを差し向けたまま入り口まで下がると、それからその背に生えた巨大な翼を広げ、いっせいに飛び出していった。太陽の光を受けた翼が銀色に輝き、神々しいばかりであった。すぐさま彼らの姿は見えなくなり、後に残されたのは彼らが羽ばたいたときに落としていった、柔らかな羽の塊だけだった。
「村長! なんてことを!」
交渉が終わった後すぐに、集落の人間はデニスに駆け寄り、そう口々に叫びながら詰め寄った。
「要石を奪われたらまた私たちは!」
「まぁ待て。私とてなんの考えなしに約束したわけではない」
デニスは集落の男たちの顔を見渡しながら、不敵に微笑んだ。そのとき、
「村長! デニス!」
人の波を縫って狼狽した様子のマハが駆け寄ってきた。マハは村長に近づくと、その胸ぐらを掴んで怒鳴りつけた。
「どういうことだい! サーシェスが人質ってどういうことだよ!」
「仕方あるまい。起きてしまったことをとやかく言ってもはじまらないだろう」
妙に落ち着き払った様子のデニスにいらだちながら、マハは彼の胸ぐらから手を放し、憤慨した様子でため息をついた。
「ではデニス、どうするつもりだ。人質を取られたからには、要石をやつらに返さなければならないが、そうなったら我々はまた十年前に逆戻りだ」
年輩の男が忌々しげにそうつぶやくと、デニスの身体が小刻みに震え始める。彼が喉を鳴らして笑っているのだと周りの者が気付くには、およそ数秒が必要とされたのだったが。
「安心しろ。私は彼らに要石を引き渡すつもりなど毛頭ない」
周りの男たちは首をひねり、村長の次の言葉を待つ。デニスは周囲を勝ち誇った様子で見渡すと、満足そうに目を細めながら言った。
「明日にはアートハルク帝国からの援軍が到着する。やつらを掃討するためにな」
「なんだって!? 人質が、サーシェスが囚われてるんだよ!? 彼女はどうするつもりだい!?」
マハが再び村長の胸ぐらを掴むが、彼はその手を乱暴に振り払い、
「彼女はここの人間ではない。かわいそうだが、ここは素性の知れない旅人に犠牲になってもらうしかないだろう。それに彼女はどうやら我々にとっては招かれざる者、中央から追われる厄介者だったようだしな」
「なんてこと……! やっぱりあんたは……!」
マハは忌々しげに舌打ちをし、デニスの顔を睨み付けた。青白く神経質そうに歪んだその顔を。
「あんたはやっぱり、あの父親の息子だよ。あたしとあの子を引き離した、あの……!」
鳥になった気分を味わってみたいと、人間なら誰しも思っただろうが、そんな感傷的なことは言っていられない状況であった。さきほどまでいた洞窟の入り口が見る間に遠ざかり、小さくなっていくと、まるで箱庭のような〈地獄の鍋〉の全貌が一気に見下ろせるまでの高さに舞い上がっていた。そして、集落のすぐ脇に広がる崖下の渓谷だけでなく、そのはるか彼方に青白く広がる海の先までが見渡せる。渓谷の地面からにょっきりと生えたような細長い岩の柱の頭が、そのすぐ下を覆い隠す濃いビロードのような靄を突き抜けて頭を出していた。靄の下から地面までどれくらいの距離があるのかをはかり知ることができないので、サーシェスは恐ろしくて目を閉じた。
翼ある者に抱えられ大空に舞い上がったサーシェスは、飛び上がるときこそ大暴れしたのだったが、中空に運ばれてからは嘘のようにおとなしくなった。先ほど暴れたときに掴まれた右肩がずいぶん痛み出し、血がにじんできたのが感触で分かったし、痛みもさることながら、大空から見下ろす渓谷の全容に身動きできない状態だった。男にしっかりと抱えられている状態とはいえ、足下になにもない状態のいま、下半身から腹部にかけて不快な恐怖感が走り続ける。いまここで手を放されたらあそこまで真っ逆さま。落ちたときの衝撃と痛みの想像よりも、その落下するまでの間の恐怖を考えただけで気が遠くなりそうだった。
「なんだ、ずいぶんおとなしくなったものだな」
男がサーシェスの耳元であざ笑うように囁いた。仕方なく男の首に両腕を回させられ、抱きつくような形になっているサーシェスにとっては屈辱的なものであったが、口を開けば小刻みに震える下あごのおかげで、情けない悲鳴しか出ないような気がしたので黙って堪えることにした。
ふと目をやれば、男の横顔は武骨さはあるものの、ずいぶんと彫りの深い、整った作りをしている。一緒に隊列を作って飛行している〈ハルピュイア〉の戦士たちはみな黒髪をしているのだが、特にこの男の漆黒の髪は太陽を受けて、艶めいた光を放つ。そういえば、この男は彼らの中でも長のような立場にあるのだろうか。先ほどの威厳ある立ち居振る舞いからして、もしかしたら彼らの中でも特に力のある戦士なのだろうとサーシェスは思ったのだが。
黒髪で思い出すのは、あのカタブツの文書館長の姿。あのとき、彼と大僧正との間に何があったのだろうか。自分に目もくれず一目散に飛び出していったフライス。そのときの表情は、最初に彼女がラインハット寺院に運び込まれてきたときと同じくらいかたくなで、そしてそのときよりも悲壮感を漂わせていただけでなく、すべてを憎悪するかのようなものだった。それでもなお、かの文書館長の顔は美しかったといえばそれまでだろうが、人間があのように苦しげで憎しみに満ちた表情をするなんて、サーシェスは見たことがなかった。
なぜ出ていってしまったのか。本当に自分を、そしてロクランに生きるすべての人を見捨ててしまったのだろうか。どうして自分に何も言ってくれなかったのだろうか。会いたい。会って話がしたい。いまこの瞬間、そばにいて自分を抱きしめてほしい。
「おいおい。そんなに情熱的に抱きつくことはないだろう、お嬢さん。悪い気はしないがな」
男の声にサーシェスは我に返った。知らず、男の首に回した両腕に力を込めていたらしい。サーシェスは憤慨したように鼻を鳴らし、そして顔を背けた。男は愉快そうに笑うと、
「さあ、もうすぐだ。下降するからちゃんとつかまっていろよ。逃げだそうなんてバカなことは考えるなよ。暴れればふためと見られない姿だ」
その言葉を合図に、〈ハルピュイア〉の戦士たちはいっせいに降下し始めた。それまで足下に広がっていた紫色にも似た靄がぐんぐん近づいてきて、それに伴う内臓が押し上げられるような感覚にサーシェスは壮絶な悲鳴をあげた。
サーシェスの悲鳴など無視して綿菓子のような靄に突っ込んだ一行は、靄が晴れたあたりで速度を落とし、ゆっくり、ゆっくりと下降し始めた。目を閉じて男の首筋にぶら下がるようにしてつかまっていたサーシェスはそこで薄目を空け、周りの風景を確認する。
まっすぐ靄の上まで伸びた岩の柱がすぐ目の前にあったが、上空から見れば細く見えたのにたいそう巨大な、柱というにはあまりにも大きな岩の壁が目の前にあった。ちょうど地面からおよそ三十メートルはあるだろうか。そこには柱にぽっかりと開いた洞窟の口が待ち受けていた。先頭にいる〈ハルピュイア〉の戦士のひとりが、その洞窟の入り口に立っている見張りと思われる仲間に声をかけ、彼らはゆっくりと羽ばたきながらその入り口に向かっていった。
あれが〈ハルピュイア〉たちの巣なのだろうか。サーシェスは思ったが、そこで「巣」などという言葉を思い浮かべたことに自分を戒める。彼らはモンスターなどではない。人間の言葉を交わし(しかも中央標準語を流暢に操るのだ)、術法や武器を扱う知的生命体なのだ。ただひとつ人間と違うのは、自分の身体を背中に生えた巨大な翼で持ち上げることができること。空を自由に飛び回れることだ。
「さぁて、お嬢さん、ついたぞ」
男は洞窟の入り口にふわりと舞い降りると、サーシェスの腕を取ってその背中を押した。二、三歩よろけたサーシェスは、右肩の傷口が痛んで小さくうめき声を上げ、そこで膝をついた。そして男に抗議をしようと顔を上げて睨み付けようとしたのだが、すぐさま周りにいた男に腕を掴まれ、後ろ手にひねり上げられてしまう。
「イタッ! 痛いってば! ちょっと!」
泣き言に近い声でサーシェスは抗議をしたのだが、男たちはかまわずサーシェスの腕を後ろ手に縛り、その身体を引き上げた。
「おいおい、そのお嬢さんは大事な人質だ。あんまり手荒なマネはするなよ」
サーシェスを抱えてきた長らしい男が、周りの仲間たちに厳しい声でそう言った。
「大事な人質ですって? 冗談じゃないわよ。すでに十分手荒なマネされてるわ!」
サーシェスは男を睨み付け、そう言った。男はサーシェスに向かって肩をすくめて見せただけだった。
「アジズ!」
よく通る女の声が響き渡った。呼ばれて〈ハルピュイア〉たちがその声の主を振り返る。見張りたちの間をすり抜け駆け寄ってきたのは、やはり黒髪の〈ハルピュイア〉の女だった。
女といってもかなりの長身で、おそらく軽く一八〇センチは超えるに違いない。身体にぴったりとしたチュニックの下に、柔らかな生地で作られた短いスカートをはいた細くて長い足が顔を出している。細いながらも全身に均整がとれた、女性なら憧れる理想的な体型といえるだろう。長い黒髪を後ろで束ね、額にサークレットをはめた女の顔は、知性の深さが伺えるものの、とても意志の強そうな、好戦的な表情をしている。見れば、アジズと呼ばれた男も、そのほかの仲間たちも、整ってはいるが全員が全員、たいへん好戦的な目をしていた。美しき戦闘集団といったところか。
女の年の頃はおそらく二十歳半ばを少し越えたくらいだろうか。それなのに、首にかかる豪勢な細工ものの首飾りや耳飾りはとても見事なものだ。長らしき男と同じく、彼らの中では相当な実力者のひとりなのかもしれない。
「ナギサか。戻ったぞ」
男の名はアジズというらしい。そう短く答えると、彼はそのナギサという女に微笑み、ふたりは軽く抱擁を交わした。このふたりがただの友人以上の関係にあることは、サーシェスにも容易に想像できることだった。
「交渉は成功したのね」
ナギサと呼ばれた女は抱擁を解くと、アジズと呼ばれた男に問いかけた。男は静かに頷くと、
「ああ、最初の突撃で何人かやられたが、このとおりだ」
アジズは拘束されているサーシェスを振り返り、ナギサにもったいぶった素振りで紹介する。サーシェスは息を飲んで背筋を伸ばし、ふたりを睨み付ける。そしてナギサもサーシェスをじっと見つめ、しばしふたりは無言のまま見つめ合うこととなった。
「ご苦労様。あとで長老にご報告を」
ナギサはサーシェスに見飽きたと言わんばかりに視線をはずし、アジズに振り返ってそう言った。
「ああ。そのお嬢さんは大事な人質だ。お前に預けておこう。明日の引き渡しの際にお返しすることになっている」
「分かったわ」
ナギサはもう一度サーシェスを振り返り、彼女の顔をまじまじと見つめた。サーシェスは再び彼女を睨み付けるのだが、そのときどうしてだかナギサというこの女が、興味深そうに自分を眺めて笑ったような気がした。だがそれも一瞬のことで、彼女は後ろの仲間たちを振り返って、
「その娘を星見の塔へ。あとは全員明日に備えて休むように。ケガをした者は奥の間で治療を受けなさい」
やはり彼女は一族の中でも高い地位にいる者なのだろう。そう指図すると、周りの男たちは解散し、奥のほうからはこの成果を大いに賛美するかのような歓声が響き渡ってきた。
星見の塔という幻想的な名前がつけられてはいるが、サーシェスにとっては牢獄以外の何ものでもなかった。彼ら〈ハルピュイア〉たちなら出入りは容易だろうが、翼を持たないふつうの人間にとって、渓谷の底から突き出した岩の柱の頂上にしつらえたこの部屋は逃げることのかなわない囚人の部屋だ。頂上の岩を器用にくりぬいて、四隅に大きな窓をつけたこの部屋は、おそらく彼らにとって星の運行を見定める神秘的な部屋に違いないのだが。
連れてこられたすぐあと、好奇心も手伝って窓から顔を覗かせたサーシェスは、その高さに思わず悲鳴をあげた。彼らが住む地上三十メートルほどの洞窟よりさらに上に位置し、靄が敷布のようにすぐ眼下に広がっている。この下には岩の柱をくりぬいて作られた居住区域が階層型に展開されており、それぞれの階層は階段で結ばれている形になっていた。さすがの彼らも階段をつかってサーシェスをここまで連れてきたのだが、下へ降りる階段へ通じる扉は、いまは見張りに守られ、固く閉じられている。その途中、すれ違う〈ハルピュイア〉の人間たちの、さげすみと憎悪の入り交じった視線がとても痛かったのをサーシェスは忘れられない。〈ハルピュイア〉たちは人間と同じように、家族を持ち、男も女も子どもたちも年寄りも、肩を寄せ合って生きているといった感じであった。
窓から差し込む太陽の光はずいぶん低くなっており、そろそろ日が暮れようとしている。遙か遠くに見える海の、古い書物によれば「水平線」と呼ばれる向こうに、オレンジ色に肥大した太陽がゆっくりと身を沈めようとしているところだった。集落の襲撃と拉致から三時間ほどしか経っていないはずだったが、後ろ手に縛られ、ここに監禁されているサーシェスにとってはすでに何日も過ぎたかのような錯覚を覚える。
治りかけていた右肩の傷も、さきほどのちょっとした立ち回りで開いてかなり痛い。服に染み出してはいないものの、たまに身をよじるときに固まった血の跡が剥がれ落ちるような感覚がする。せめて両腕が使えれば、傷の具合を確かめられるのだが。そんなことを考え、痛みに耐えながら目を閉じて座っていたときだった。
扉の向こうで人が動く気配がする。ほどなくして扉が開かれると、食事を載せたトレイを持った女たちと、さきほどナギサと呼ばれた女がこの星見の塔に入ってきたのだった。
女たちが食事のトレイをサーシェスの傍らにおいたのを確認すると、ナギサは彼女たちにさがるように指示をし、女たちが出ていったあとは再び扉が閉じられ、この星見の塔にはサーシェスとナギサのふたりっきりとなった。
「悪かったわ。もっと早く来てあげようと思ったのだけど、作戦会議が長引いてしまってね」
初めて見たときよりも少し和らいだ表情のナギサがそう言った。彼女はサーシェスの傍らにひざをつくと、両腕を後ろで戒めている縄をほどいてやった。サーシェスは驚いた表情でナギサを見つめるのだが、彼女は意味深な笑みを浮かべたままだ。これ幸いにとサーシェスは自由になった両腕を回して関節を動かそうとしたのだが、開いた傷口が障って小さく呻いた。
「けがをしているんでしょう。見せてご覧なさい」
ナギサは服の上からサーシェスの右肩に手を触れた。
「矢傷……か。若い娘さんらしからぬ傷ね」
鼻で笑うような仕草をしてみせたので、サーシェスは彼女を睨み付けた。だが、ひるみもせずにナギサはサーシェスの首をじっと見つめて、
「それ、術法封じの首飾りでしょう? そんなものはめられてたんじゃ、癒しの技も使えないでしょうに。はずしてあげるわ」
「こ、こんなものはずしたって私は……!」
自分で制御できるほどに癒しの術法を使えるわけではないのだと抗議しようとしたのだが、その先は黙っていることにした。ナギサはサーシェスの首飾りに手を触れて、小声でなにやら呪文のようなものを詠唱しはじめた。詠唱が終わるとピキリと金属がかけるような音がして、これまでどうやってもはずせなかった首飾りがものの見事に足下に転がっていった。
「こんなものつけられてるなんて、よっぽどの術者なんでしょ、あなた。でも、この部屋はあなたの術法を完全に封じているから逃げだそうたってできないけど」
「おあいにく様! 私は自分の力じゃ術法なんて使えないもの。逃げたくても逃げらんないわよ」
辱められたことに腹を立て、できるだけ険悪に聞こえるようにそう言うサーシェスだったが、
「そうでしょうね」
あっさりとナギサに言われ、ますますサーシェスの顔が憤怒で赤くなった。
ナギサは再び服の上からサーシェスの右肩に手をやり、軽く目を閉じた。それから彼女は再び小さな声で呪文を詠唱し始める。
「慈悲深き癒しの神よ。血となり肉となり骨となりて、心優しき者の力となり給え」
これまでも飽きるほど聞いてきた癒しの技の呪文だった。暖かい緑色の光がナギサの掌から右肩に伝わって、服の下の傷口にまとわりついてくる感触がする。それがやがてだんだんと熱を帯びてくると、急に痛みがなくなった。傷口が完全に塞がった証拠だった。
「さ、これでだいじょうぶなはずよ」
ナギサは軽いため息をついて立ち上がった。サーシェスはもごもごと口ごもりながら彼女に礼を言う。どういたしましてと言うかわりに、ナギサは小さく肩をすくめて見せた。
「そうそう、おなかがすいているでしょう。食事を用意させたから食べるといいわ。遠慮なくどうぞ」
そう言われてサーシェスはかたわらに置かれたトレイを横目で見やる。女たちが入ってきたときから、おいしそうなシチューの匂いが気になってしかたなかったのだ。サーシェスはおずおずと手を伸ばし、パンとシチューの入った皿を膝の上に乗せた。確認するようにナギサの顔をうかがい見てから、ようやくそれを口に運ぶのだった。
「あなた、名前は?」
尋ねられ、サーシェスは喉につかえそうになりながらパンを飲み下す。
「サーシェス」
「ふうん。サーシェス、か。私は……」
「ナギサ、でしょ。さっき下にいたとき聞こえたわ」
「そう」
ナギサは感心したように頷き、再びパンを口に運ぶサーシェスを興味深そうに見つめた。それから出し抜けに、
「せっかく助けてあげたのに、また厄介ごとに巻き込まれるなんて、あなたも相当運が悪いのね、サーシェス?」
そう言われて、サーシェスはパンを喉につまらせた。どうにか食道に無理矢理通して飲み込んでからナギサを見やると、彼女はにっこり笑ってサーシェスの顔を眺めていた。そこで唐突に思い出される、灼熱の大気。
「……もしかして……あなただったの!?」
思い当たるのは〈地獄の鍋〉での巨大昆虫との対決。あのとき太陽を背にして舞い降りてきた天使の姿は──。
「思い出してくれて光栄だわ。あのまま化け物に食わせるのは忍びなかったし」
そう言ってナギサは笑った。サーシェスはシチューの皿を膝の上からどけると、
「あの、私、その、お礼も言えずに……! 本当にあのときは……!」
「別にいいわよ。たまたま通りがかっただけだし」
「でも……! それに私のこと、あの集落まで運んでくれたんでしょう?」
「たいしたことじゃないわ。まぁここまで運んできてもよかったけど、見たとおり、ここの連中はあなたたち人間を毛嫌いしているからね」
確かにそれはそうだろう。敵対している人間を連れてくるなんて、彼女の地位からしても一大事だろう。しかし、敵の陣地とは言ってもけが人を預けるだけの人間性を彼らが持ち合わせていることに、サーシェスはほっと胸をなで下ろしたい気分だった。
「ありがとう。本当に、何てお礼を言っていいか……」
「でも、せっかく助けたのに今度は人質だなんて、こっちの立つ瀬がないわ」皮肉っぽく笑いながらナギサはそう言い、肩をすくめた。
「それに、忘れてもらっちゃ困るわ。いまのあなたは私たちの人質よ」
そこでナギサの顔が最初に見たときと同じように厳しくなるのがわかって、サーシェスは眉を寄せた。〈ハルピュイア〉と呼ばれる彼らと人間たちの確執についてはマハから聞いてはいたものの、彼らの言い分を聞いてみたいと思った。
「あの……あなたたち、〈ハルピュイア〉はどうして……」
「〈ハルピュイア〉ですって? まったく、あいつらはどこまで私たちを化け物扱いすれば気が済むのかしら」
ナギサは憤慨したように鼻を鳴らし、腕を組んだ。彼女の背に生えた翼も、同じように憤怒の意志を表してばさりと揺れた。サーシェスは少々申し訳ない気分になって目を逸らす。
「私たちは〈風の一族〉、偉大なるイーシュ・ラミナに連なり、四百年もの歴史を持つ優秀な一族なの。あんな小汚い下等生物と一緒にされるなんて冗談じゃないわ。しかも、明らかに私たちに劣る人種にここまで蔑まれるなんて!」
この高飛車なナギサの発言に、サーシェスはどことなく金髪の姫君を思い浮かべるのだった。アスターシャが二十五、六歳になったときには、こんなふうになるのではなかろうかとぼんやり思い浮かべるのだったが。
「あなたも、イーシュ・ラミナの血を引く者なら分かるでしょう? 辺境だけでなく、都市から大きくはずれた地域では、あの偉大なる一族に連なる者たちはことごとく排斥されるか、蔑まれるか。私たちはそれでも、時代の流れだと悟って十年前までは堪え忍んできた。だけど、十年前にあいつらが〈聖石〉を聖地から奪ったのを期に、私たちは立ち上がったのよ。あるべき姿を取り戻すためにね」
〈聖石〉という言葉に、サーシェスは我に返った。確かマハから聞いた話では、彼らが〈風の一族〉から奪ったのは要石《かなめいし》だという話だったが。
「あの……ちょっと待って。〈聖石〉って……? 要石ではないの? それに、イーシュ・ラミナに連なる一族って……」
サーシェスが口を挟んだことに気をそがれたのか、ナギサは大きな大きなため息をついた。それから興奮したために乱れ落ちてきた前髪を掻き上げ直すと、
「要石? あいつらはそう呼んでいるの? とんだマヌケだわ。フレイムタイラントを封じるご大層な封印を、私たちが後生大事に持っているとでも思ったのかしら。まぁやつらの想像力じゃその程度でしょうけどね。それよりあなた、なんにも知らないようだけど、イーシュ・ラミナは知ってるわよね」
確認するようにナギサが尋ねたので、サーシェスは小さく頷いて見せた。
「それじゃ、汎大陸戦争でイーシュ・ラミナと人間の均衡が崩れたことは?」
ナギサは辛抱強くサーシェスに尋ねる。サーシェスはまったく知らないといった様子で首を横に振るのだが、それを見てナギサは再び大きなため息をついた。
「まあいいわ。あなたにこんな話をしても仕方ない」
ナギサは肩をすくめてそう言った。ものを知らないということをこれだけ恥じたのは、サーシェスにとって初めてのことだった。
「長老があなたに会いたがってらしたわ。夕食が終わったら長老を訪ねるといいでしょう。あなたは私たちの人質だけど、この中をふつうに歩ける程度の自由は与えます。そのかわり」
そこでナギサはいったん言葉を句切り、サーシェスを厳しい視線で見下ろした。その瞳に射るような鋭さがあることに気がついて、サーシェスは一瞬凍りつくような恐怖を覚えた。
「明日の約束の際、人間たちが要求に応じなかった場合は容赦なく、彼らの前であなたを処刑します」