第十七話:終わらない悪夢

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 耳鳴りの音。闇に吸い込まれていくときに感じる、いつもの耳障りな音だ。
 闇と同化するにふさわしい、自分の漆黒の髪が腹立たしく感じる。本当にこのまま闇に身体が溶けてしまうのではないかという不安に駆られる。自分がそこにいるのだという確かな証拠がほしくて、フライスは自分の掌を見つめた。
 赤い。
 フライスは息を飲む。だが、それも見慣れたものであったことにため息をつく。
 血まみれの自分の手。生きるために実の母親まで手にかけた、悪魔の申し子。生きる資格などないのだと責め立てられたほうがどんなにマシだったか。指の間からしたたり落ちる血糊をぼんやりと眺めながら、フライスは自嘲気味に笑った。
 魔性の気配がする。自分を取り囲む闇の中から、異形の者が息を潜めて自分を見ているのが分かる。そしてゆっくりと、その身体を起こして自分に手を差しのべるのだ。
 ローブの裾を軽く引っ張られたので目をやれば、足下のどろりとした黒い水たまりから小さな黒い手が伸びてきて、青いラインハット寺院のローブを掴んでいる。そしてもうひとつ、さらにもうひとつ、小さな手が次々と姿を現し、何かを懇願するようにローブの裾を掴んで引っ張るのだ。
 よせ。私に何をさせたいのだ。
 フライスは足下にまとわりつく小さな黒い手を見つめながら、心の中で問いかける。だが、返ってくるのは無言の嘲笑。小さな異形の手は、フライスの裾をいたずらに引っ張りながらいつもこう言うのだ。
──お前の闇は心地よい。お前のその闇に囚われた心が、私たちの唯一の安息。
 放せ。私は──
──自分から闇に沈んでいるというのに冷たいこと。私たちを吸い寄せているのはお前自身。ほんの少し手を伸ばせば届く光に怯えて、いつまで自分の過ちをひきずっているつもり?
 黙れ。私は光を恐れてなどいない。私は──
──そう、お前は気付かない。お前自身が光を遠ざけ、闇を引き寄せていることに。
 私が──闇を引き寄せている──!?
 フライスは足下の手を睨み付ける。分かっていた。もうここ何年も見なくなったはずの、いつもの悪夢のはずだ。あと少しもすれば、朝の光にかき消えていくただの悪夢。
──無駄なことを。この悪夢に終わりなどない。お前は自分の意志で光を遠ざけた。もう二度と、その光はお前の元へは戻らないのだから。
 漆黒の水たまりに波紋が広がる。幾重もの波紋がどろりと質量のある水面にゆっくりと広がっていくと、それは唐突に鏡面となって淡い光を映し出す。ぼんやりと足下の水鏡に映し出されるのは、銀色の光。風に揺られて舞う、銀糸の──!
「サーシェス!?」
 突然映し出された恋人の姿に、フライスは思わず声をあげる。暗闇の水鏡に映るサーシェスは、銀色の光の中で優しく笑う。いつものように、緑色の大きな瞳をうれしそうに細めながら。だが、いまのフライスにはまぶしすぎるほどだった。
──覚えておくがいい。お前の光は二度とお前を照らさない。
「うるさい! 黙れ!」
 フライスは足下にまとわりつく手を振り払い、水面に浮かんだサーシェスの姿に手を差しのべた。だが、踏み出した足が作り出す新たな波紋が、水鏡そのものを包み込んでしまう。銀色の光はあっという間に闇に飲まれ、見えなくなっていった。
──ほら。お前が望めば望むほど、その光はどんどん離れていく。お前はまた取り返しのつかない過ちを犯したことに気がつくべきよ。
 狂ったように笑う女の声が辺りに響き渡る。フライスは消えていった銀色の光を漁るかのように水たまりに膝を付き、暗い水中を睨み付けながら自嘲気味に鼻を鳴らした。
 そうか、この声は……。
 そして顔を上げ、髪を掻き上げる。水の中で何度こすっても落ちない血糊は、まだ掌にべったり付いたままだった。
「……まだあなたは私を赦さないつもりか。母さん」
 フライスが暗闇に向かって静かに問うと、女の声はまた愉快そうに笑いだした。正気の人間の声ではなかった。
 そしてまた闇が蠢く気配。どろりとした重い水が身をよじる。異形の気配はさらに増して、やがて無数の小さな黒い手は人の形にも似た姿をとるべくじわじわと凝縮していく。
 私の罪はまだ赦されないのか。私は永遠に闇に飲まれたまま──
 フライスは蠢く闇を凝視したまま、小さく笑った。盛り上がり、人の形をした闇がフライスに手を伸ばす。抵抗することをやめたフライスに、闇は容赦なく襲いかかろうとしていた。だがそのときだった。
 まばゆい閃光が辺りを真昼のように照らした。そしてその光に晒された異形の影は悲鳴をあげることすら許されずに、一瞬にして焼き払われ、消滅していく。少し遅れて風圧が辺りの空気を激しく揺るがした。フライスは盲いた目を見開き、闇を切り裂いたその光の中心を見据えた。
 金色に輝く光の渦が、暗くよどんだ魔性の気配を跳ね返しているのが見えた。そしてその中心に悠然と立つ人影がひとつ。
 まさか。フライスは黄金の光の中心にいるその影に向かってつぶやいた。
 黒い甲冑を身にまとい、右手に燦然と輝く一本の剣を握りしめたその人影。周りの闇と同じ色をしているはずのその甲冑は、闇の中にあっても輝いて見えた。そして贅沢な金細工にも引けをとらないであろう、見事なプラチナ・ブロンドの髪。サーシェスと大僧正リムトダールが持っていた古い小冊子の中で睨むようにこちらを見据えていた、自分と同じ顔をした男。大僧正が心から信頼していた伝説の剣士がそこにいた。
「聖騎士レオンハルト……か……」
 フライスはゆっくりと立ち上がり、レオンハルトの姿をした人影を睨み付けた。
「……私をあざ笑いにきたのか」
 フライスは静かに、だが怒りを含んだ声で問いかけた。
「光と闇。同じ顔をしているのに私とお前はこれほどまでに違う。私は闇を引き寄せ、お前は光を持って闇をなぎ払う。死してなお、お前を必要とし、愛する人間がいるのに、私は誰からも必要とされてはいない。これほど見事な対比はあまりにも滑稽ではないか? こうして私の悪夢にまで出しゃばってきて、私を苦しめるつもりか、伝説の聖騎士よ」
 レオンハルトはフライスの問いかけに答えなかった。まるで相手の言葉など聞こえなかったといった様子で、ただ、フライスをじっと見つめ、光の中で悠然と立っているだけだった。
「答えろ! 私に何を伝えたい!? 私に何をさせようというのだ!?」
 フライスはレオンハルトに向かってぴたりと指を突きつけ、そう叫んだ。そこで初めて、レオンハルトの深いエメラルドグリーンの瞳が動いた。サーシェスのグリーンよりいくらか薄いその瞳は、偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の純粋な末裔を意味する。美しく見る者を魅了するが、人を刺すような鋭い光がたたえられていた。
「お前の闇を……」
 レオンハルトの唇がかすかに動いた。
「なに……?」
 あまりにも感情のないその声にフライスは驚き、尋ねたのだったが、しかし。
「闇を切り裂き、暗闇の雲、追い払うべし」
 レオンハルトはそう続けると、右手に持っていた剣を握り直し、構えた。見事な装飾を施され、光り輝くその剣こそが、死の直前までかの聖騎士が所有していたエクスカリバーであることに気付き、フライスは息を飲む。レオンハルトはエクスカリバーを両手で構え、大きく振りかぶった。かの聖騎士が得意としていた聖属性を持つ攻撃術法が、その剣に乗せられているのは一目瞭然であった。
 フライスは即座に絶対魔法防御の高速呪文を詠唱する。おそらく発動されるのは最大級の攻撃術法に違いない。最強とまで言われた聖騎士の攻撃を無事に跳ね返すことができるか、フライスにも自信はなかったのだが。
 稲光にも似た閃光がエクスカリバーの閃きとともに解き放たれる。それは周りの闇を引き裂きながら突進してきて、フライスが差し出した両手のほんの数十センチ手前で悲鳴をあげてはじき返された。防御に成功したとはいえ、フライスの両手にはすさまじい圧力が伝わってきた。
 間髪入れず、レオンハルトは今度は術法を乗せずに剣を振り上げる。フライスは確実に相手の隙をついて攻撃術法を発動するべく、差し出した両腕に渾身の力を込めた。
「闇の眷属よ! コキュートスの凍てつく闇の鎖をもって光をうち払え!!」
 自らの口をついて出た呪文の詠唱に、フライスは驚きを隠せなかった。自分が得意とする水属性の最上級攻撃術法ではなかった。こんな呪文は知らない。これはいったいなんの属性を持つ術法なのか。
 差し出した両手から闇の色よりも暗くよどんだ黒い光がにじみ出す。それは一瞬にして膨張すると、自分目がけて剣を振り下ろそうと迫るレオンハルトを包み込んでいた。
 恐るべき攻撃力であった。暗黒の光は伝説の聖騎士の身体を包み込んだかと思うと、彼の黒い甲冑をも食い破り、身体を食いつぶしていく。まるで土塊をぼろぼろを崩していくかのような勢いだった。やがて闇に囚われたレオンハルトの身体は、辺りの闇に溶けて見えなくなっていった。
 再び辺りを多う静寂と闇。一片の光も見えないその中で、フライスは再び足下の水たまりにがっくりと膝を付いた。いまの攻撃術法の反動で手足が震え、指先の感覚が麻痺している。内臓にも相当な負担をかけていたのか、心臓がどくどくと脈打ち、息が切れる。
 こんな恐ろしい力が自分にあったなんて、信じられなかった。一瞬にして人を食い尽くす攻撃術法。まさか。
 フライスは額ににじんだ汗をぬぐい、大きく息を吸い込んだ。
 まさかこれは、禁忌とされ封印されたはずの暗黒属性の攻撃術法では──!?
 そのとき、パシャリと水音がしたのでフライスは顔を上げた。レオンハルトの身体が闇に飲まれて消えた辺りで、何者かがうずくまっているのが見えた。
 まさか。あのすさまじい攻撃術法を食らってまだ生きているのか!?
 人影はゆっくりと立ち上がり、フライスをじっと見つめた。同じように剣を握っているが、今度は左手に、エクスカリバーよりもずっと細く長い剣を携えていた。そこで再びフライスは息を飲み、目を見開いた。
 明るいハニーブロンドの髪と印象的な青い瞳がじっと自分を見つめている。紛れもなく、それはアジェンタスへ帰っていったあの騎士見習いの青年、セテ・トスキだった。
「闇を切り裂き、暗闇の雲、追い払うべし!」
 青年はそう叫ぶと、頭上に剣を構え走り寄ってきた。細く美しい刀身が、闇の中で燦然と輝いていた。
 ああ、幻のように美しい剣だ。フライスは防御することすら忘れ、青年の持つ刀身を食い入るように見つめた。やがてその切っ先が自分の頭上に振り上げられ、まっすぐに振り下ろされるその瞬間まで。
 骨を砕かれるほどの衝撃が全身を襲う。火傷を負ったときのような鋭い熱を感じたときには、自分の目の前は真っ赤に染まっていた。ああ、私は死ぬのか。そんなことをぼんやりと思いながら青年の顔をじっと見つめる。血の色に染まった青年の顔、その口元がかすかに動き、何かの言葉を紡いだ。
 青年の声はフライスにはもう聞こえなかった。ただ、自分の身体が闇の中に溶けていく感覚と、不思議な安心感が全身を包んでいるのだけが、彼が最後に感じたすべてだった。






 悲鳴をあげたつもりはなかったのだが、自分の声で目が覚めたような気がした。闇の中ではなく、光の中で、しっかりとマントにくるまって横たわっていることを確認すると、フライスは大きく息を吐き出した。
 夢を見ていたのか──。
 気がつけば全身汗で濡れていた。額の汗を拭い、乱れていた前髪を掻き上げると、フライスは体を起こしてもう一度大きく息を吐いた。
 ロクランを出てから、こういった悪趣味な悪夢にうなされることが多くなった。ラインハット寺院へ引き取られた子どものころは、こうした悪夢を頻繁に見ていた。大僧正に習って術法を学び、自分の力を制御する術を覚えてからは見ることのなかった悪夢なのだが──。今日の夢はまた格別にひどいものだった。
「……私に何をさせようと言うのだ。黄金の髪の聖騎士よ……」
 フライスは自嘲気味に笑い、そうひとりごちた。
 光と闇。あの男と自分は、気味が悪いほど似ていながら滑稽なほど正反対だ。ならば私が闇そのものだというのか。そして私は光を遠ざけ、闇を引き寄せているのだと。
 フライスは起きあがると、岩場のくぼみのわき水で顔を洗い、乱れた髪を縛り直して身支度を整えた。そろそろ秋も終わりに近づき、こうした野営も厳しくなってくる。
 光──。その言葉でもうひとつ思い出すのは、銀の髪をしたあの少女のことだ。そう、私は彼女を見捨てた。光を遠ざけたのは確かに私自身だ。彼女の側にいてやらなければならなかったのに。
 彼女の元に戻らなければ。二度と戻れなくなってしまう前に。だがまだ早い。私にはまだやるべきことが、確かめなければならないことがあるのだ。






「あー! まったく! なにやってんだい、サーシェス!?」
 突然のマハの叫び声にサーシェスは我に返り、その拍子に鍋のふたが派手に転がり落ちた。足のつま先をふたが直撃したので、サーシェスは悲鳴をあげた。そこで周りの女たちが一斉に笑い出す。
「あ〜もう、なにぼんやりしてんだい。そんなにドボドボ塩を入れるもんじゃない。火を使っているんだから気を付けなきゃ。ほら、早く鍋を火から下ろさないと焦げちまうよ!」
 言われてサーシェスはあわてて鍋をかまどから下ろした。
「あちっ!」
 鍋の取っ手が熱くなっていたのに素手で触ったものだから、またしてもサーシェスは悲鳴をあげ、周りの女たちが再びたまらずに笑い出した。
「はぁ、あんたってばホント、見かけによらず不器用なんだねぇ、サーシェス」
「そんなこと今さら言われても。私は炊事より身体を動かすほうが得意だったんだもの」
 呆れたようにため息をつくマハに、サーシェスは口をとがらせて抗議をした。
「開き直るんじゃないよ。年頃の娘さんだってのに、男みたいに飛んだり跳ねたりしてばっかりじゃしょうがないだろ。ほら、そんなしょっぱいんじゃ誰も食べられやしないよ。水を足して味を薄めて。それからそっちの野菜、刻んだらとっとと炒める!」
「はーい」
 渋々返事をするサーシェスを、周りの女たちが励ましながら手伝ってやる。
 ある程度体力が回復してきたサーシェスは、傷が癒えるまでこの集落で女たちの手伝いをしながら過ごすことになった。傷が癒えたとき、ここを出ていってどうするかはまだ決めていなかったが、マハや村の人間たちの好意に甘えて、少なくとも完全に傷が塞がるまではここにいたいと思っていた。
 〈地獄の鍋〉を囲む岩盤をくりぬいて作ったこの洞窟では五百人以上の人間たちが生活をしている。横穴を掘り進めて作った数多くの部屋に家族単位で居住しており、洞窟の中ということさえ除けば完全にふつうの村や集落の住宅と同じような空間が提供されているのだった。ただ、食事は大広間のような部屋でいくつかの家族がまとまって取る形になっている。おそらく要石《かなめいし》を保持する前の食料不足を近隣で補ってきたことから続く習慣だろうが、そのため集まった家族の中で当番制で女たちが食事の支度をすることになっていた。そして、サーシェスはひとまず食事の支度を手伝うことになったのだった。
 ところが、ラインハット寺院で子どもたちの世話をしてきたと言っても、日中のほとんどを剣の稽古や術法の修練に費やしてきた彼女にとって、炊事は大の苦手分野であった。サーシェスは自分がこうした家事にたいそう向いていないことに、たいそう驚いていた。しかし、マハは口が悪いが手取り足取りいろいろと教えてくれるので、こういった炊事も悪くないと思い始めていたところではある。
 洞窟の長い道を光の見える方向に歩いていくと、ぽっかりと口を開けた大穴に到着する。この集落と〈地獄の鍋〉を繋ぐ、唯一の出入り口だ。ロクラン側の岩盤はたいへん脆いと言われているが、このあたりにくると比べものにならないほど頑強な岩肌に変わってくる。フライスの講義ではこうした土地ごとの土の状態を地質と呼んでおり、同じ場所であってもさまざまな要因により土の状態は著しく変わるものだと聞いていたが、本当に自然とは不思議なものだとサーシェスは思う。
 入り口から顔を出すと、眼下に広がるのは赤茶けた土ばかりの〈地獄の鍋〉。その乾いた土地が終結する東側は切り立った崖になっており、さらにその下に広大な渓谷が広がる。天まで届くような柱状の岩がいくつもそびえ立ち、まとわりつくもやにかすんで見える不思議な光景だ。〈地獄の鍋〉の赤茶けた乾燥した空気に比べると、いくらか水の気配がするのがせめてもの救いといえるかもしれない。
 〈地獄の鍋〉も汎大陸戦争の際、フレイムタイラントにえぐられてできた地形だというが、この崖の下に広がる渓谷も、やはり同じようにフレイムタイラントの炎で焦がされてこんな姿を残すことになったのだろうかと、サーシェスは漠然と思った。大地の形を変えてしまうほどの化け物を、なぜ神々は遣わそうとしたのだろうか。そんなことを考えているときだった。
 村長デニスと話しながら入り口にやってくる数人の足音に気付いて、サーシェスは振り返る。いつもは神経質そうなのに、珍しく得意げな顔をしたデニスが話をしているのは、軍服にも似た服装の男だった。その後ろに三人の兵士らしき男たちが並んで歩いている。ひと目で彼らが軍隊に従事しているのだと悟ると、サーシェスは反射的に脇の横穴に身を隠した。彼らが過ぎ去るのを隠れて見守ることにしたのだが、男たちが通り過ぎるその瞬間、サーシェスは彼らの軍服の腕章に、赤と黒の炎をかたどった紋章を見た。紛れもなく、それはロクランを制圧したアートハルク帝国軍の戦闘服だった。
 なぜアートハルクがこんなところへ!? いや、それよりもなぜ、デニスは彼らと親しげに話をしているのか。
 デニスに感じた言いしれぬ不安は、サーシェスの心の中で確信できるものに変わっていた。
「あなた方のご協力に感謝いたします。軍曹殿」
 デニスはアートハルク帝国の男に深々と礼をした。男はまんざらでもなさそうに鼻を鳴らすと、
「我が皇帝ガートルード様は、お前たちのように中央に虐げられた者たちを救うことを最優先しておられる。いずれ、お前たちがここを出て、お前たちを虐げてきた者たちに取って代わって豊かな土地で暮らせるよう、はからってくださることだろう」
「ありがたきお言葉」もう一度デニスは軍曹と呼ばれた男に頭を下げる。そして、頭を下げた状態で目だけ動かして男を見やると、
「それで、軍隊をお送りいただけるとのことですが」
「うむ、ロクランを包囲している我が軍のうち、一個中隊を三日後にはこちらに到着させよう。精鋭ではないが、やつらを制圧するには十分すぎるほどの戦力となりえるであろう。その代わり」
 男はじろりとデニスを見つめ、意味深な笑みを浮かべる。
「わかっておりますとも。要石《かなめいし》でございますね。それはもちろん。あなた方にお渡ししましょう。私たちがここを出ることがかなえば、もう魔法の石など必要ありませぬ」
 村長の言葉に、男は満足そうに笑った。そして、後ろで控えている兵士たちに顎で合図をすると、そのまま入り口まで歩いていく。その後ろ姿を、デニス村長は慇懃に礼をしたまま見送った。だが、入り口を出たアートハルクの四人の男たちの姿は、まるで霞のようにかき消えていったのだった。
 岩陰からその様子を見ていたサーシェスは息を飲む。瞬間移動。能力の高い術者でも、至難の業とされる転移の術法だ。だが、術法が発動される気配はまったく感じられなかった。それに、いま話に上った軍隊で何をやろうというのだろうか。
「立ち聞きとはあまり誉められたことではないね」
 デニスの声に、サーシェスは飛び上がらんばかりに驚いた。見ると、再び神経質そうな表情に戻った村長が、サーシェスの隠れている岩場をじっと睨み付けていたのだった。
「たまたま聞こえちゃっただけよ。別に盗み聞きしていたわけじゃないわ」
 サーシェスはデニスを睨み付け、覚悟を決めて岩陰から身体を起こす。その姿を見てデニスは忌々しげに鼻を鳴らした。
「確かに。聞こえてしまったものと聞こうとしたものはずいぶん違う。ま、こちらも密談をしていたわけではないので別段かまわない」
 そう言ってデニスは、手でサーシェスにもう行っていいという仕草をしてみせたので、サーシェスは彼を睨み付けながらもと来た道を戻る。
「その首飾りだが」
 背を向けたサーシェスを、村長の言葉が引き留める。サーシェスは立ち止まってゆっくりとデニスを振り返った。
「話に聞く、術法封じの首飾りとやらにそっくりだな。なに、私も実物を見たことがあるわけではないのだがね」
 途端にサーシェスの顔が青ざめる。村長は何を言いたいのか。いまだはずすことのできない忌々しい首飾りに手をやったまま、サーシェスは逃げるようにその場を去っていった。






 瞬間的に地面を覆った氷の粒が、地表数センチの土を盛り上げる霜のように膨れあがる。そこから凝縮された凍気が一気に上昇し始めると、鋭い刃のように研がれた氷の柱が突然姿を現した。
 その氷の刃に触れた者は一様に悲鳴をあげてのけぞるのだが、それだけでは終わらなかった。ガラス細工がはじけるような音とともに凍りついた氷柱がくだける。それと同時に、すさまじい風圧。氷の破片が赤と黒で彩られた戦闘服を引き裂きながら、極寒の地によく見られるブリザードのごとき勢いで、剣を握った男たちを次々と吹き飛ばしていた。そのブリザードの向こうで無慈悲に両手を差し出す、黒髪の青年がひとり。さきほどから続く攻撃術法の使い手であった。
「くそっ! 化けモンか、あいつは!」
 悲鳴にも近い叫びを上げて、ひとりの男が剣を握り直し、頭上に振りかぶった。その気配を察知した黒髪が振り向きざまに舞う。差し出した掌から、圧縮呪文による水属性最上級攻撃術法がほとばしる瞬間。空気中に放たれた水しぶきは即座に氷の結晶となり、剣を振りかざした男の皮膚にかまいたちにも似た傷を見舞う。やがて男は自分を傷つける氷の結晶に悲鳴をあげてのけぞるハメになった。
 剣を失って地面に膝を付いた男の手の甲を、黒髪の青年は無表情に足で踏みつけた。黒と赤、アートハルクの紋章を着けた戦闘服の男は、手を踏みにじられた拍子に醜いうめき声を上げた。そして足の持ち主を懇願するような瞳で見やった。
 端正な顔立ちに恐ろしいほど無慈悲な色をたたえたブルーグレイの瞳が、自分を見下ろしているのを見て男は言葉を失う。顔を縁取る黒髪の巻き毛が与える柔らかな曲線とは裏腹に、この青年の表情は硬く険しい。彼がさきほどから連続で発動する、氷の攻撃術法そのものだと男は思った。
「た、助けてくれ……っ!」
 アートハルクの兵士は絞り出すような声で青年に懇願する。青年の眉がぴくりと動き、引き結んだ唇から心外だと言わんばかりにため息が漏れた。
「殺すつもりなど毛頭ない。それに最初に襲ってきたのはお前たちのほうだ」
 青年は低く落ち着いた声でそう言い放った。男は青年のひとことに密かにほっとため息を漏らすのだが、まだ青年が自分の足を踏みつけているので身動きがとれない。わずかに手を動かそうとすると青年が足の裏に力を入れたので、男は再び呻いた。
「お前たちに聞きたいことがある」
 黒髪の青年は男を見下ろし、冷たい表情のままそう言った。
「き、聞きたいこと!?」
 男は声を上擦らせておうむ返しに尋ねた。
「アートハルク帝国の首都ブライトハルクは五年も前から中央の監視下にある。何者も立ち入ることはできないし、出ていく者もいない荒野のはずだ。ところがお前たちアートハルク帝国軍はどこからか現れて見事にロクランを制圧し、こうしてロクランの国境周辺までの道のりを封鎖している。どこを根城としているのか教えてもらおうか」
 青年は低い声で、だが静かな怒りを含んだ様子で兵士に尋ねた。
「ど、どこを根城にしてるって言われても……俺たちはアートハルクの人間じゃない。少なくとも俺は辺境からかり出されただけだ」
 男の答えに青年は忌々しげに鼻を鳴らすと、
「そうだった。アートハルクは辺境の小国を従えていたのだったな。では聞きかたを変えよう。火焔帝はどこにいる?」
「か、火焔帝!? ガートルード様のことか!?」
 青年は無言で頷いた。
「俺は知らない、知らねえよ!」
「ではお前の脳みそから直接情報を引き出すまでだ」
 青年は兵士の足を踏んだまま腰をかがめ、長い指を兵士の額に突きつけた。途端に男は泣き声に近い悲鳴をあげる。
「ま、待ってくれ! 本当に知らないんだ! あんたも軍隊がどんなふうに構成されてるかくらいは知ってるだろ? 俺たち国境付近で待機しているのは、本当に末端連中で、本陣とは指揮系統がまったく違う。俺たちはただ準備された門《ゲート》を通って指示された場所に移動するだけなんだ!」
 その答えを聞いて、青年の口元が冷徹な笑みを浮かべる。
「……門《ゲート》か、やはりな。ではいちばん近いゲートの場所を教えてもらおうか」
「ま、待ってくれ、それを教えたら俺は……!」
「死にたくなければ口を割ることだ!」
 いらだった青年は兵士の胸ぐらを掴み、声を荒げた。だがそのとき。パシンと軽い音がしたかと思うと、アートハルクの兵士の頭ががくりと傾いだ。見れば、男の口からは血がしたたり落ち、目は焦点を失って恨めしそうに上を向いている。すでに絶命しているのは明かであった。
「おやおや、話に聞いていた文書館長はずいぶん穏やかな人物だということでしたけど、なかなか情熱的なもんですね」
 頭上からの声に、青年は頭を上げ、舌打ちをした。こときれた兵士から手を放し、いつでも攻撃術法を放てるように身構える。数メートル上の岩場に、赤と黒のアートハルクの戦闘服に似た、術者風の丈の長いローブを着た男が立っているのが見えた。
「……口封じに仲間を手にかけるとはな。火焔帝はずいぶん慈悲深いことだ」
 黒髪の青年──フライスは頭上の男にそう声をかけた。男はクスクスと愉快そうに笑い、岩場から飛び降りた。
「あなたのような優秀な術者に殴り込みをかけられたときのことを考えたまでですよ。いまのあなたは復讐に燃えてなにをしでかすか分からない」
 男はそう言って肩をすくめた。年の頃は三十半ばくらいだろうか。ひょうひょうとした態度はとても軍人には見えないのだが、かなりの食わせ物ではないかとフライスは踏んでいた。
「なるほど。ではここで私を消しておこうというわけだな」
 フライスは握っていた拳を開き、小さく印を結ぼうとした。男はあわてて片手を差し出し、
「おっと待った! ここであなたと戦う気は毛頭ありません。私はあなたに助言をしにやってきたまでですよ」
「助言だと?」
「そう、私はいずれあなたと行動をともにする者ですからね」
 男の言葉にフライスは眉をひそめた。
「……私と……? どういうことだ。お前はアートハルクの人間ではないのか。裏切るつもりなのか?」
「さぁ? 分かりません。そう火焔帝に予言されたまでですから詳しいことは私にも」
 あくまで男はおどけたふうにそう言い放つ。
「そうか、お前は火焔帝に近しい人間のひとりなのだな。では彼女に伝えておけ。お前がどこにいようとも、私は必ず探し出してお前を殺すとな」
 フライスはそう言うとクルリと男に背を向けた。
「おやおや、意外に気が短いのですね、あなたという人は」
 フライスの背に男は声をかけた。フライスはそれを無視して歩き始めたのだが、
「助言と言ったでしょう。あなたの愛する少女は〈光都〉オレリア・ルアーノへ向かいましたよ」
 その言葉でフライスの足が止まる。
「あなたがロクランを飛び出したあとのことは何も知らないでしょう。彼女は危険な術者という烙印を押されて〈光都〉の中央施設に護送されました」
 フライスはゆっくりと男を振り返り、その顔をじっと睨み付けた。
「そんな怖い顔しなくても。どうします? 彼女を愛しているなら、あなたも〈光都〉へ向かったほうがいいのでは?」
「それが助言か? 私を惑わせて時間稼ぎをしたいだけではないのか?」
 フライスは鼻をならすが、
「さぁ? ただ、手遅れにならないうちに会ったほうがいいのではと思いますがね。それに、火焔帝は逃げも隠れもしない。ずっとお待ちですよ。あなたと、あの少女がやってくるのをね」
 フライスは無言で男を睨み付けたまま動かない。〈光都〉へ護送された後の話は十分知っている。自分もラインハット寺院に引き取られなければ中央に引き渡され、〈記憶調整の儀〉を受けさせられるところだったのだ。
「さて、確かにお伝えしましたよ。私はこれで」
 男は両手をブラブラと振ってにっこりと笑った。
「待て! お前は何者だ? 火焔帝の狙いはなんだ?」
「私のことはまたいずれお会いしたときにでも。火焔帝は遙か未来を憂いている、それだけは確かです。私たちがあるべき姿を取り戻すための方策を練っておられるんですよ」
「詭弁もいい加減にしろ。世界を救うつもりかどうか知らぬが、少なくとも私は確実にガートルードを殺す。覚えておけ」
「はいはい。ああ、本当にあなたはかたくなな人ですねぇ。ま、そこがあなたのあなたたる所以なのでしょうけど」
 男は大袈裟にため息をつきながら肩をすくめた。それからまるで舞台俳優がそうするように優雅に礼をしてみせると、その姿は一瞬にしてかき消えた。
 転移の術。あの男がそれほどの術者だったとは気がつかなかった。フライスは誰もいなくなった岩場に向かって舌打ちをし、小さく悪態をついた。

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