第十二話:失意の旅立ち

Home > 小説『神々の黄昏』 > 第二章:黄昏の戦士 > 第十二話:失意の旅立ち

 薄紫色のもやを吹き払うように空が白み始める。遠慮がちに顔を出した太陽は徐々にその光の輪を強め、ロクラン王宮の薄汚れた塔を照らし出す。その塔の牢獄に閉じこめられて三日。サーシェスは固いベッドにうずくまったまま、鉄格子の外を恨めしそうに見上げた。
 一睡もせぬまま夜が明けた。このごろは夜明けにはずいぶん冷え込む。身体に毛布を巻き付け、肌寒い眠れぬ朝を迎えたのはこれが初めてであった。徐々に明るくなってくる空に反応して、鉄格子の影がじわじわと床に浮かび上がってくるのが、ぼんやりする頭にはちょうどいい知らせのようにも感じた。
 日が昇ってからしばらくすると、静かだったロクラン王宮に静かな緊張が走るのが感じられた。王宮の廊下を複数のブーツの踵がうち鳴らす音、腰につるした剣の鞘が剣帯に当たって鳴る固い音、それらが規則正しく聞こえてくる。歩哨の交代の時間か。アートハルクの兵士たちが順番に、ロクラン王宮の周りや内部を歩哨に辺り、警戒するちょうど入れ替わりの時間なのだろう。サーシェスはぼんやりとその音を聞きながら、首にはまった術法封じの首飾りを無意識のうちになでた。
 確か今日、自分は中央の本拠地に送られることになっている。危険度の高い術者を監視下に置くため、中央諸世界連合本部がある光都オレリア・ルアーノへ。ロクランを離れ、見知らぬ地へ。
 いや、元々ロクランでさえ自分の見知らぬ地ではなかったか。記憶を失い、何もかも失った自分。大やけどを負ってラインハット寺院に引き取られてきた当初は、本当に泣いてばかり過ごしていた。そんな中で、大僧正リムトダールは自分を孫娘のように慈しんでくれた。限りない知識も惜しまずに与えてくれた。ラインハット寺院で過ごしたあの何ヶ月間のほうが、夢だったのではないか。大僧正だけではない。フライス、アスターシャ、レト、そしてセテ。彼らと過ごした日々に、もう一度帰りたい。
 アジェンタスに戻ったセテはその後どうしたのだろうか。アートハルク帝国軍はヘルディヴァ公国とアジェンタス騎士団領を攻撃すると言っていた。セテの身に危険が迫っているというのに、自分はなにもできなかった。結局、私はひとりではなにもできないのだ。
 そこでサーシェスは頭を振り、ため息をついた。なにを未練がましく考えているのだろう。元々ひとりだった。それでいいではないか。だから、オレリア・ルアーノに行くのは自分で決めたことだ。オレリア・ルアーノには聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》のひとり、過去と未来を知る賢者がいるという。あの巫女の言った言葉が本当ならば、私はそこへ行って、真実に近づけるのだ。
 そんなことを考えていると、塔の階段を登る複数の兵士の足音が響いてきた。まさかこんなに早く。それともアスターシャの言っていた助けが来たのだろうか。いや、もう余計な期待はすまい。サーシェスは背筋を伸ばし、かぶっていた毛布を畳んでベッドに礼儀正しく腰掛け直した。
 意外にも扉を開けて入ってきたのはロクランの兵士であった。ふたりの兵士が用心深くサーシェスを見つめている。そして、彼女に立ち上がるように仕草で指示した。サーシェスはおとなしく彼らの言うことを聞いて立ち上がると、招かれるままに扉に向かって歩き始めた。
「眠れませなんだか」
 扉を出てすぐの階段の下では、アートハルクの巫女がサーシェスを見上げていた。気遣わしげにサーシェスを見つめるネフレテリの姿にサーシェスは驚いて目を見開いた。だが、ひとことも口を利かず、彼女を睨み付けたまま階段を下りる。
「馬車を用意いたしましたぞ。オレリア・ルアーノまでの道のりは遠い。旅のご加護を」
 そう言ってネフレテリは静かに礼をした。サーシェスは巫女を気丈に睨み付けると、
「あなたの言ったことが本当ならば、私は光都で過去を取り戻せるのね」
「結果を知るのは失われた神々のみ」
「あなたの言っていることはいつもわけが分からない」
 サーシェスが憤ったようにそうつぶやくと、ネフレテリはうれしそうにころころと笑った。
「そう言えば、あの気丈な姫君は」
 ネフレテリはひとしきり笑ったあと、サーシェスのそばに顔を寄せてそう言った。
「あの姫君は見事ロクランから逃げおおせましたぞ」
 サーシェスの顔が輝いた。近々アスターシャが助けを連れてくるはずだ。そう思いながらサーシェスは小馬鹿にしたようにわざと大袈裟に鼻を鳴らしてみせた。それを受けてネフレテリが忌々しげに笑う。
「ただの人間のくせにやりおる」
「アスターシャを見くびらないほうがいいわよ。彼女は絶対に援軍を連れて戻ってくる。そのときが最後よ」
「父王も城も国民も、そなたも見捨ててたったひとりで出て行ったというのに? しょせんは人間。我が身のほうが大切と思うのも無理はない」
「……それ以上言ったら張り倒すわよ」
 サーシェスは気丈に言ったつもりだったが、どうしても語尾が震えてしまう。アスターシャが自分だけ逃げた? そんな馬鹿な。彼女は自分を助けに戻ってくると言ったのだ。
「そうそう、アジェンタスも焼け落ちたとのこと。先ほど報告を受け取りました」
 アジェンタス騎士団領が陥落した!? サーシェスは脳天を直撃されたかのようなめまいを覚える。
 セテが死んだ──? セテまでもが自分を置きざりにして──!?
 サーシェスは戒められたままの両手を開き、自分の左手の平に走る銀色の傷跡を見つめた。救世主の像の下で誓いをかわしたときにできた不思議な傷跡。これがあるおかげで、セテをいまでも身近に感じることができたのに。
 一年後、ラインハット寺院の守護神廟の前で、自分にない部分を支えられるパートナーとして、再び出会おうと誓った言葉。いまはそれだけが悔やまれる。約束を果たせなかったのは自分もセテも同じだ。
 絶望の涙は出なかった。その代わり、たぎるような怒りが全身を駆けめぐり、ぶるぶると身体が震え出す。
「ほほほ。世の中のことなど、光都に行くそなたには関係のないことでしたな」
 ネフレテリは笑い、そして付き添いのロクラン兵にサーシェスを連れて行くように仕草で指図した。サーシェスは両腕を抱えられたもののネフレテリを振り返り、険悪な表情でにらみ返したやった。
「私は自分の罪をつぐなうためならなんでもする。罪を償い終わるまで中央諸世界連合の監視下に置かれることになろうとも。でも過去を取り戻したとしても、私はあなたたちの元に戻るなんてこと、絶対にしない。絶対に許さない!」
 炎のような目で巫女を睨みながらそう言うと、サーシェスは兵士たちに従って歩き始めた。その背でネフレテリがまた愉快そうに笑う。
「さあ、それはどうでしょうか。火焔帝もおっしゃったように、そなたは自分で我々の元に戻ってくるでしょうから」
 馬鹿なことを。サーシェスは勝ち誇ったネフレテリの笑い声を聞くまいと固く目を閉じた。首を垂れたまま階段を歩き、そして朝日に照らされる陰鬱な塔の牢獄と、白亜のロクラン王宮を見つめて絶望したようにため息をついた。自分を守ってくれる者は、もう誰もいないのだと思い出されて、サーシェスは鼻の奥がつんと痛むのを感じた。そこでようやく涙があふれてきていたのだと思い至ったのだった。
 焼け付くような焦燥感。全身を引き裂かれるような自己嫌悪。本当はいますぐにでも大きな声で叫びたかった。泣いて誰かに赦しを請い、慰めてもらいたかった。だが、いくら泣いたところで心が満たされることはもうないのだと改めて悟るのだった。
 ──最初から最後まで、私はひとりなのだ。






 すでに昇りきった太陽が辺り一面を覆う雲に反射する。まるで雪原を眺めているような感覚に陥るほど、そこは白くまぶしい。風はゆっくりと雲を切りながら流れていき、時折合間に緑の大地を覗かせる。眼下に広がるその大地は、箱庭のように作り物めいていて滑稽だ。
 流れる長い黒髪を押さえながら、火焔帝は間に見える大地を見下ろし、雲に反射して輝く太陽の光を避けるように目を細めていた。バルコニーに身体を預け、細く白い腕で手すりを掴むその出で立ちはたおやかで、とてもアートハルクを背負う女帝には見えない。つややかな長い黒髪は彼女の肌の白さを引き立てるだけでなく、優雅な仕草や繊細な顔の作りといった、彼女の容姿すべてにあふれる美しさを引き出す。
 かつて彼女をお抱えの宮廷魔導師として庇護していた者はみな、彼女を「黄金の魔導師」と呼んだ。彼女の兄を「黄金の聖騎士」と呼んだように、憧れと愛しさを込めて。彼らがすでにこの世の者ではなくなり、彼女の髪が金色でなくなったいまでも、ガートルードのまとうその厭世的な雰囲気と禁欲的な美しさは変わることはない。彼女はロクランを制圧した際に身につけていた炎の色の甲冑を脱ぎ、ゆったりとした裾の長いローブを羽織ってくつろいでいるかのように見えた。
 たまに彼女の髪を突風がいたずらに掻き上げる。覆われていた赤い右目が顔を覗かせるのだが、ガートルードはそれを面倒くさそうに掻き上げ直し、左目のエメラルドグリーンとは対照的な忌々しい炎の色を隠すのだった。
 紫禁城《しきんじょう》と名の付くアートハルクの宮殿。先代のアートハルク皇帝が古文書に残る異国の宮廷を模して付けたその居城は、五年前のアートハルク戦争終結とともに崩れ落ち、いまは跡形もない。だが、兄が、そして前皇帝ダフニスが愛したその宮殿の名前を、ガートルードは深く愛していた。三人で過ごしたあのすばらしい日々を忘れぬようにするためか、それとも最後にダフニスが、そして兄が消えたときの無念さを再び思い返すためか、ガートルードはこの新しい居城に同じ名前をつけたのだった。
「皇帝陛下。真紅の竜騎兵《クリムゾン・ドラグーン》が帰還いたしました」
 側で控えていた従者が静かに顔を上げ、ガートルードに声をかけた。ガートルードは頷き、振り返って使者を待つ。そしてほどなくして現れたのはアトラス・ド・グレナダだった。
「相変わらず勘のいいことだな」
 アトラスはそう言いながらズカズカとぶしつけに歩み寄ってきた。黒い戦闘服の裾は少し焦げており、まだ血の臭いをプンプンさせているので、火焔帝の側で控えていた従者がひそかに顔をしかめた。
「アジェンタスの要石《かなめいし》解放は成功だそうだな。ご苦労だった」
 ガートルードがにこりともせずにアトラスに言う。アトラスは鼻を鳴らすと、
「おかげでこちらは危うく丸焦げになるところだった。あそこまですごいものだとはひと言も聞かされなかったが?」
 苦々しげにアトラスが言うのでガートルードは小さくため息をついた。
「私もはじめてだ。多少の反動はあるかと思っていたが」
「ふん、あんたフレイムタイラントと戦ったことがあるだろう。それくらい分かっているものだと思っていた。世界を十回焼いても余りあるって化け物だ、寝息でもずいぶんな威力だったぞ。アジェンタスの半分は焼け野原だ」
 アトラスは文句を言うわりには楽しんでいるような表情でもあった。そこでガートルードが眉をひそめた。ため息をついて髪を掻き上げ、自分を納得させるかのように首を振る。
「……アジェンタスの半分を焼き尽くしたとはな」
「なんだ。あんたでも良心が咎めることがあるのか」
 そう言われてガートルードの表情が厳しくなる。睨み付けるようにアトラスを見つめると、
「我々の目的は中央諸世界連合を解体することだ。そのためにフレイムタイラントの要石だけを解除すればいい。アジェンタスを壊滅させるのは不本意のはずだ。忘れたのか」
「ふん、フレイムタイラントは世界を滅ぼす化け物だと分かっていてやってるんだろう。いまさらなにが無益な戦いだ。中央の連中は完全に宣戦布告と取っただろう。遅かれ早かれ、要石を巡って全面戦争に突入だ。我らが頼もしい辺境のお仲間たちも加わって、な」
 にやりと不敵に笑うアトラス。ガートルードは再び眉をひそめ、そして自嘲気味に笑う。
「そうだったな。忘れていた。いまさら何を言おうと、私はすでに血を流すことを選んだのだからな」
「……あんただけではない。俺もだ。だからあんたのところに身を寄せている。ガートルード、あんたが実現してくれると信じているからだ」
 茶化すような素振りもなく、大まじめな顔をしてアトラスがそう言った。ブルーグレイの瞳はまっすぐにガートルードを見つめ、彼女を捕らえて離さない。その瞳の奥で密かに燃える激しい憎悪をたたえながら。火焔帝は小さく微笑み、頷き返してやった。
 ガートルードはこの青年をたいへん頼りにしている。兄に匹敵するほどのその剣技も、目的のために容赦なく、戦鬼のごとく戦える意志の強さも。周りの配下の者が自分を皇帝陛下と呼び、恐れているなかで、この青年だけが臆することなく自分に接してくれる。彼女にとってアトラスは、よき理解者としての存在でもあるのだった。
 アトラスは思い出したように戦闘服のポケットから四角い立方体を取り出した。それをガートルードに向けて放ってやる。ガートルードは見事にそれを掴み、掌に載せてじっくりとその美しい外見を堪能する。ガラスよりももっと薄い半透明の面で構成された立方体は、朝日を受けて虹色に輝いて見える。
「あんたの望んでいた『神の黙示録』だ。ガラハド提督の書斎に置いてあった」
「ご苦労」
「まさかそんなに簡単に見つかるものだとは思ってもみなかった。『伝説の書物』だのなんだの、大袈裟な尾ひれがついていたからな」
「人の噂話などしょせんそんなものだ。伝説だの神話だの、聞いた話を適当におもしろおかしく脚色して大洞を吹く。二百年も経てば立派な伝承に早変わりだ」
「そういうほうが人生が楽しくなるからだろう。なんでもかんでも『旧世界の魔法』とやらで片を付けられたら興ざめだ」
 肩をすくめてそう言うアトラスに、ガートルードは笑った。この青年は口も態度も悪いのだが、こういうロマンチストなところを彼女は気に入っていた。
「十七年前に『土の一族』の巫女が入手して以来、アジェンタスに悪夢を振りまいてきたシロモノだ。確かに『伝説の書物』の名にふさわしいかもしれぬな」
 ガートルードはそう言って再びアトラスに笑いかけた。アジェンタスのあの事件を知る者は、もういない。これも伝説のひとつとなって語り継がれることだろうと、ガートルードは手の中に収まりきる小さな伝説の宝物を見つめた。
「ところで、それは『第一章』『第二章』のうちのどれになるんだ?」
 興味深そうにアトラスが尋ねる。ガートルードは小さく首を傾げ、
「私としては『第二章』であることを望みたいところだ。『入植』が始まる前のことをもっと知りたい。さっそく解読にかけよう」
 火焔帝は側に控えていた従者のひとりに立方体を手渡した。従者はそれを恭しく受け取り、廊下に下がっていった。
「あんたたち偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》ってのはたいしたもんだな。俺にはどうやってああいうものを作ったり解読したりするのか分からん」
 アトラスはガートルードの隣に並び、彼女と同じようにバルコニーの手すりに手をかけて雲一面の風景を眺めた。バルコニーに立った瞬間から赤茶色の髪が激しい風に吹かれてなびく。
「それが我々の役目であり悲劇の源だ。それさえなければ、我々は人間とさほど変わらぬというのに」
 アトラスを見ずにそう言うガートルードの目が細められる。それは悲しんでいるとも取れる仕草だった。
 それからしばらくふたりは雲が流れていくのを眺めていた。しばしの沈黙の合間にちらりと横を見やると、アトラスが満足そうに笑っているように見えたので、火焔帝は彼が思う存分に剣を振るってきたのを楽しんでいるのだと思った。ほどなくしてアトラスが口を開く。
「……あんたの言ってた『青き若獅子』、アジェンタスで見つけたぞ」
 ガートルードが意外そうに目を見開いたので、アトラスはわざと鼻を鳴らして笑った。
「……斬ったのか」
「殺してはいない」アトラスは風にばさばさと揺れる髪を掻き上げながら言った。
「もっと楽しめるかと思ったが……。あの程度のヤツなら掃いて捨てるほどいる。どうしてそいつがそうなのか、俺には理解できない。あの場で殺してやったほうがよほど親切だと思ったのだがな」
 アトラスはそう言い終わるとバルコニーから身体を離した。
「着替えてくる。こう血なまぐさいのではあんたの従者に嫌われるんでな。それから、悪いがしばらく休ませてもらう。作戦会議はまたにしてくれ」
 アトラスはさっさと歩いていき、ガートルードの自室を通って廊下へ続く扉の向こうに姿を消した。その後ろ姿が完全に見えなくなるまで火焔帝は見送り、それから再び雲一面の風景に目を戻した。
 これから起こることなど知っている。だが、ガートルードはその未来が不特定のさまざまな要素に翻弄されて変わろうとしていることも知っていた。
 ロクラン王宮で見かけた黒髪の修行僧が脳裏をよぎる。兄にそっくりなあの寡黙な男は、自分の運命の輪が回っていることを知っているのだろうか。もう一度、会ってみたい。






 質素な馬車であった。王族が愛用するような白木造りの、装飾も美しい馬車など用意するわけもなく、サーシェスは騎士団が行軍に使うようなものかと思うほど粗末な馬車に押し込められ、ロクラン城を後にした。
 向の席にはロクランの騎士がふたり、用心深そうに座っている。ひとりは二十代半ばくらいの若い騎士、もうひとりはもう騎士生活に十何年も身を置いているような隙のない騎士だ。御者の席には、御者とやはりロクランの兵士がふたりその脇を固めていた。窓の外から見えるロクランの城下町はとても静かで、賑やかだった通りにはいまはほとんど人影は見えない。たまに市場のあった通りには食料品を買い求める一般市民の姿が見えるのだが、その周りにはアートハルクの兵士が睨むように立っており、いつ暴動が起きても万端の構えを見せていた。
 ふと向の席の騎士に目をやると、彼らは驚いたように目を背けた。おそらくずっとサーシェスの様子を見ていたのだろうが。彼らは落ち着かないのか腰の剣帯をいじってため息をつく。恐ろしいと思っているのだ、自分を。サーシェスは目を伏せ、彼らの態度が目に入らないようにまた窓の外を眺めた。
 首にはまった術法を封じるための首飾りに加えて、馬車の中には術法封じに効果絶大と言われている香の匂いが立ちこめている。自分の力でコントロールもできないというのに、ご丁寧なことだとサーシェスは思う。だが、やはり一般人にしてみれば術法使いなどはやはり脅威の対象でしかないのだろう。特に、あれほど暴れ回ってあわやロクラン城を破壊するところまでいったからには。
 ガートルードはなぜ辺境の話を自分にしたのだろうか。辺境というところはそれほどひどい状況なのだろうか。術者がもてはやされるのは中央圏内だけの話だと、それ以外の術者たちが辺境で石持て追われているというのは本当なのだろうか。冷静なフライスが取り乱すほど、辺境の暮らしはひどいものだったのだろうか。
 フライス。いまあなたはどこにいるの。
 どうして何も言わずに出ていってしまったの。
 これからどうするつもりなの。
 黒髪のあの修行僧はアートハルク帝国に、ガートルードにひとりで立ち向かうつもりなのだろうか。大僧正様との間にいったい何があって、どうしてあれほど取り乱して飛び出していったのだろうか。
 あなたの口から、私は聞きたい。話してほしい。でも。
 私はなにも知らない。
 なにもできない。
 無力なちっぽけな存在でしかないのだ。
 そう考えると目頭が熱くなって、また涙がこぼれてきてしまう。自分だけがつらい思いをしているのだと思いたくもなかったし、泣いているのを誰かに見られたくはなかった。だから向の騎士に気付かれないように涙を拭うつもりだったのだが。
 ふと目の前に手ぬぐいを差し出されて、サーシェスは目を見開いた。左側に座っている若い騎士が、サーシェスの目の前にきれいに折り畳まれた白い手ぬぐいを差し出していたのだった。
「使いなさい。気にしなくていいから」
 若い騎士はためらいがちにそう言ってサーシェスの手に手ぬぐいを渡す。サーシェスは驚いて首を振るのだったが、彼は無理矢理その手に手ぬぐいを握らせた。サーシェスはそれをそっと目に当て、あふれてくる涙を拭った。
「……ありがとう……」
 そう言って濡れた手ぬぐいをひっくり返して畳み直そうとしたが、
「これから先、光都への道のりは長い。持っていなさい。返さなくていいから」
 騎士はそう言って子どもをなだめるように頷いてくれた。思いがけない思いやりに遭遇して、サーシェスは胸が熱くなる。そして、さきほど拭ったばかりの瞳から涙が次々とあふれてくるのが止められなくなっていた。
「……不憫だと思うが、これも我々の仕事だ。君のような少女をこのように扱うことを悪く思わないでほしい」
 声を殺して泣くサーシェスに、騎士は優しく声をかけた。サーシェスは手ぬぐいで顔を覆ったまま、頷き返した。
「君を光都に送り届ける役目を我々は勝機と思っている。光都にたどり着くまでに我々は途中の集落で中央と連絡を取り合いながら進むつもりだ。バカなやつらだ。ロクランの騎士を外に出すとは、あの巫女もずいぶん間抜けなことをする」
 右側に座っていた年長の騎士がそう言った。そこでサーシェスはふと気がつく。そうだ。なぜ自分を送り届ける役目をロクランの騎士に任せたのだろうか。途中で援軍を連れて来られたり、逃げられたりした場合はどうするつもりなのだろう。なぜアートハルクの人間をこの馬車につけなかったのか。本当になんの危機感も感じないでやっているのか、それとも。
「だが光都までの間、〈地獄の鍋〉の迂回路が厄介だ。気温も上がるから覚悟しておけ」
 年長の騎士はそう言い、隣に座る若い騎士に地図を渡した。
「六日はかかるでしょうか。私も〈地獄の鍋〉の近くを通るのは初めてです」
 若い騎士がため息混じりにそう言ったので、年長の騎士もつられてため息をついた。
 サーシェスはロクランの地理にはあまり詳しくなかったが、ロクランの南西、国境をまたがる辺境に広がる〈地獄の鍋〉と呼ばれる広大な砂漠のことは聞いたことがあった。不安が募る。どれだけ過酷な旅になるのだろう。ロクランから出たことのないサーシェスにとっては、旅というものがいったいどういうものなのかは想像できなかった。
 エルメネス大陸には人々の住む集落が点在しており、それぞれにたいへんな隔たりがあるために、人々は移動するために何時間も、あるいは何日、何週間もかけるのだということを大僧正やフライスから聞かされていた。最近は国境警備がきちんとしているためにそれほど多くはないようだが、それでもどう猛な野生生物やモンスターのような化け物に出くわして、その旅路の途中で死に至ることもまれにあるのだという。外に出たことがないサーシェスはそれが恐ろしくもあったが、密かに心のはやる思いがする。外の世界を、もっと見てみたい。自分の知らないことを、もっともっと知りたい。
 馬車は途中休憩しながら進み、やがて八時間も進んだ辺りでは緑色の風景が完全に姿を消し、広大な赤茶けた土ばかりの平野が視界に入ってくる。このあたりにくれば空気はずいぶん乾燥しだし、喉も渇く。馬車の中で騎士はサーシェスに水袋を渡し、飲んでおくように告げた。いよいよ〈地獄の鍋〉に近づいてきたのだ。
〈地獄の鍋〉は深くえぐれたクレーター状の地形に灼熱の砂漠が広がる奇妙な土地だ。傾斜の緩い崖に囲まれているためにそこに太陽光が反射して、中の砂漠地帯の温度は、日中は実に摂氏四十度を軽く超すのだそうだ。遠くから見るとフライパンや鍋のようにも見えるために、〈地獄の鍋〉というとんでもない地名がつけられたのだという。
 もともと豊かな土地だったのが、フレイムタイラントのはき出した炎で干上がり、瞬時にして砂と化した都市のなれの果てだとも言われている。真偽のほどは定かではないのだが、その高温では生き物の姿など見えるわけもなく、水のわき出る場所もない。また、傾斜が緩いといえどもとても脆い岩盤でできているため、興味本位で降りたら昇るのもたいへん困難であるという。入ったら最後、生きては出られないというわけではないものの、まさに地獄の名にふさわしい恐ろしい未開の土地であることには変わりない。
 光都オレリア・ルアーノへはこの広大な砂漠を迂回する長い道のりを行く。ちょうど〈地獄の鍋〉はクレーター状にくぼんでいるために、その崖っぷちには砂漠全体を囲むように迂回路ができあがっていた。一行はその迂回路を用心深く進んでいくこととなる。
 赤土と砂だらけの道を進む馬車の中がほこりっぽくなってくる。たまにぱたぱたと服をはたかなくては、あっという間に砂埃で白くなってしまう。サーシェスは若い騎士から渡された水袋に口を付けながら、気の遠くなるほど巨大なクレーターと、崖に囲まれて眼下に広がる黄土色の砂漠地帯を窓から見つめる。ロクランの水と緑の柔らかい優しい色遣いとはまるで正反対の、茶系で味も素っ気もない色が果てしなく続くのだが、サーシェスはその風景をひとつも逃すまいと目に焼き付けるのだった。
 こういった険しい地形は、ラインハット寺院の文書館に治められている古い書物で見かけたことがあった。二十年くらい前まではあった写真という技術のおかげで、こういった地形の数々を克明に記すことができた奇跡の書物であったが、実際に見て感じるこの風景とは印象がまるで違う。壮絶を通り越してある意味感動を覚えるのだった。
 迂回路の右側、すぐ下は崖だが、左側には不思議な形をした木が所狭しと並んでいる。背丈は大人の男性より少し大きいくらいで緑色をしているのだが、全身に鋭いとげを生やした、実に奇妙な植物だ。その向こうにたまに粗末な造りの小さな家々が見えるのだが、こんなところにも人は住んでいるのだろうかとサーシェスは不安になってくる。住んでいるとしたらどういう人が住んでいるのだろうか。もう少し北東に行けば、ロクランのような緑と水の豊かな土地があるというのに、なぜわざわざこんな場所を選んで住んでいるのだろうか。
 そのとき、馬車が急に加速しだしたので中にいたサーシェスたちの身体が大きく傾いだ。蹄の音も激しく馬が全力疾走し始めたので、馬車が派手に揺れ出す。
「どうした!」
 年長の騎士が窓から顔を出し、御者席に座っている同僚に声をかけた。
「追われている!! 振り切るから掴まっていてくれ! 舌を噛まないように気を付けろ!」
 振り返ると、はるか後方から十頭ほどの馬が全力でこちらに向かっているのが見えた。またがっている人間たちは手に何かを持っており、それが剣やボウガンであることに気付いて、御者席に座っていた騎士たちは腰の剣帯から剣を抜いた。
「くそ! 盗賊団か!?」
 年長の騎士が忌々しげに舌打ちすると、隣にいた若い騎士は素っ頓狂な声をあげた。
「なんですって? 盗賊?」
 それを年長の騎士が鼻で笑う。
「若い貴様は知らんだろうがな。昔は旅人を狙ってそういうとんでもないやつらがよく現れたもんだ。いまじゃ珍しいが、最近はアートハルクのおかげで警備はずたぼろだったからな」
「そんな、だってこんな馬車を襲っても金目のもんはないでしょうに」
「武勲がほしいだけのただのキチガイさ。ロクランの紋章を付けた騎士団の馬車だと分かっていればなおさらだ」
 分かり切ったことを聞く、とばかりに年長の騎士は答えた。

全話一覧

このページのトップへ