第十一話:神々の気まぐれ

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 アジェンタシミルの空を焦がした炎は黒煙を巻き上げ、激しい雨を呼んだ。墨を混ぜたような真っ黒い雨がアジェンタシミル周辺に、まるで天の池をひっくり返したかのような勢いで降り注ぎ、まだ炎の柱で焼かれて悲鳴をあげる建物にべっとりと黒い傷跡を残していった。
 泥まみれになりながら騎士団や街の人々が鎮火の作業に当たっていたが、質量の重い雨に打たれておよそ五時間、火はようやく治まったのだった。
 中央諸世界連合の騎士団が到着したのは、アジェンタシミル陥落から中央時間で八時間を回ったところだった。アジェンタス騎士団の生き残りと共同で、倒壊した建物の下敷きになった人々の救出や、死者の運搬にあたった。比較的被害の少なかった中央広場に緊急の天幕が張られ、そこに中央から派遣されてきた騎士団が調査のための本部を設置、さらに遺体の仮収容所と臨時の病院が仮設置され、そこでけが人の治療が行われる。次々と運ばれてくる死者を載せた担架や、天幕の中にいっぱいのけが人を見ながら、鉄の淑女ラファエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム将軍は悲しげにため息をついた。
「将軍らしからぬため息ですな」
 初老の男がラファエラに声をかける。呼ばれて将軍は振り返り、男に自嘲気味な笑みを返した。
「なぜ間に合わなかったのか、それを悔やんでいたところですよ、マクナマラ准将」
 マクナマラはラファエラの副官のひとりでもある優秀な武官であった。ふたりは親しげに互いの肩を叩きながら、担架が運ばれてくる喧噪に背を向けて歩き出した。
「らしくもない。自分を責めておいでなのですか」
 マクナマラ准将が驚いたように尋ねる。ラファエラは静かに首を振ると、
「まさか。自分の力だけでアジェンタスを救えたかもだなんて、そんなおこがましいことは思いませんよ。ただ、なぜもっと早くアートハルクの残党どもの動きに気がつかなかったのだろうかと」
 そう言って将軍はいったん言葉をつぐんだ。ラファエラたちの目の前を、アジェンタスの紋章を刺繍した旗がかけられた黒い棺が通り過ぎていった。六人のアジェンタス騎士団の騎士がそれを恭しく運んでいる。みな喪に服していることを示すために、腕に黒の喪章をしていた。雨上がりに吹き始めた風に、棺にかけた国旗がはためく。えんじ色の地に金で刺繍された双頭の鷲。アジェンタス騎士団の強さを象徴した立派な旗だ。ガラハド提督の遺体を収容しているに違いなかった。ラファエラはその棺が通り過ぎるのを目を細めて見送り、またため息をついた。
「そう言えば……。閣下はガラハド提督とも親しい間柄でしたな。心中お察し申し上げます」
 マクナマラがつぶやくようにそう言ったが、ラファエラは無言で頷くだけで視線はずっと棺が運ばれていくのを見守っていた。
 焼け落ちたアジェンタシミルの町並みは、黒一色。きな臭い匂いがまだ辺りにに立ちこめ、倒壊した建物が重なり合うてっぺんから、たまにガラガラと音をたてて破片が降り注いでくる。最強の騎士団と謳われるアジェンタス騎士団に守られてその栄華を誇っていた首都アジェンタシミルは、もはやその面影もない。
 将軍はガラハド提督の棺が見えなくなった後、いまは廃墟にも等しいアジェンタシミルを見渡し、それからマクナマラを振り返った。
「それで、アートハルクの連中の居所が分からないというのは?」
 いつもの鉄の淑女らしい厳しい表情だった。准将は小さく咳払いをすると、
「は。紫禁城《しきんじょう》が廃墟なのは周知の事実ですし、首都ブライトハルク周辺は中央によって封鎖されています。アジェンタス周辺には軍隊を率いて潜伏するような場所はありませんし、ここを陥落させられるだけの兵を引き連れて行軍すればいやでも目に付くはずですが……。霞のように消えてしまったとしか考えられませんな。このエルメネス大陸のどこかに根城を構えているとすれば、〈地獄の鍋〉かあるいは辺境か……」
「門《ゲート》でどこかへ移動しているということですね」
 ラファエラの言葉にマクナマラが頷いた。
「ですがゲートは中央で確認されているだけでも無数にあります。発見されていないものも含めれば、その数はおよそ千にものぼるのではと。しらみつぶしに探しているほどの時間はないでしょう。やつらの次の目的地を探らぬことには」
 女将軍は大きなため息をついた。アートハルクの目的はいったいなんだ。アジェンタス騎士団領は五年前のアートハルク戦争までは同盟国だったはず。同時刻に襲撃されたヘルディヴァ公国もそうだ。いったいやつらはなんのために兵を集め、五年前と同じような行動を起こしているのか。
 ふとラファエラは五年前、アートハルクが兵を率いた直前のできごとを思い出した。銀嶺王ダフニスがアートハルク山脈のふもとで偶然発掘した偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の遺跡から、「神の黙示録」の一部が発見された。ダフニスはその解読に成功し、華々しく中央で発表したが、その直後、アートハルクが急激に武装を始めたのだった。まさか。
「『神の黙示録』……!?」ラファエラは呻くようにつぶやいた。
「マクナマラ」
「はっ」
「ガラハドの書斎を調べてください」
「書斎をと申されると?」
「私はたいへんな過ちを犯したかも知れません。ガラハドに『神の黙示録』の一部を託しました」
「なんですと!」マクナマラは驚きの声をあげ、女将軍を見つめる。
「まさか、そんな、あの幻の書物が」
「書物などではありません。これくらいの小さな立方体で」フォリスター・イ・ワルトハイム将軍は指で大きさを示してやる。
「先日のアジェンタスの事件で、主犯のカート・コルネリオが特使のひとりに手渡したのだそうです。それを研究のためにと思ってガラハドに託したのですが……」
 マクナマラは急いで側にいた騎士何人かに声をかけると、ガラハド公邸に向かわせる。
 ラファエラは顎に手をやり、固く瞳を閉じた。三つに分かたれたあの書物の第三章はダフニスの手に渡ったまま、五年後のいまもアートハルクの手にあるとすれば。先日セテ・トスキがコルネリオから手渡されたもうひとつの黙示録は、確かにガラハドに託した。もしやそれがアートハルクの手に渡ったのでは。
 たいへんな過ちを犯した。なぜあのとき自分が引き取って、素直に中央の研究チームに引き渡さなかったのか。三つに分かたれた「神の黙示録」のふたつがアートハルクの手に落ち、そしてアジェンタスが保有していた要石の封印が解かれた。やつらの狙いは「神の黙示録」を再びひとつに戻し、要石を解放してフレイムタイラントを復活させることに違いない。このままでは汎大陸戦争の二の舞になる。中央諸世界連合を敵に回してまで戦争を起こし、その先にはなにがあるというのだ。
「将軍閣下、聖騎士団が到着しましたぞ」
 考えにふけっていたラファエラを引き戻したのはマクナマラの声だった。女将軍は顔を上げ、到着した援軍がこちらに向かって歩いてくるのを出迎える。その中にひときわ図体の大きな男を見つけて、彼女は自然と顔をほころばせた。銀の甲冑を身につけ、背中に巨大な剣を担いだ大男は、ラファエラの顔を見つけると軽く手を挙げて挨拶を返した。
「レイザーク」
 ワルトハイム将軍は安堵のため息とともにその名を呼んだ。
「よお、元気そうだな、鉄の淑女」
 レイザークがおどけて言うので、ラファエラは憤慨したように鼻を鳴らした。しかしレイザークはさして悪いと思っていないようで、同僚の聖騎士たちから抜けてラファエラに近づいてきた。
「まさか本当にあなたが派遣されてくるとは思いも寄りませんでしたよ」
 苦笑いしながらラファエラは義弟に声をかけた。レイザークは肩をすくめながら、
「ああ、中央嫌いの聖騎士をわざわざ派遣してくるなんざ、お宅の上層部にはやっぱり頭の悪い連中が多いようだな」
「私のほうからも要請していたんですよ。特にあなたを名指しでね。たまには義姉のいうこともおとなしく聞きなさい」
 そう言われてレイザークはふんと鼻を鳴らした。それから焼け落ちて見るも無惨な総督府周辺を見渡して、
「ひどいもんだな。要石が解放されると焼け野原になるってわけか。フレイムタイラントの大あくびってやつで」
「ずいぶん楽しそうに言うのね」
 ラファエラが忌々しげに鼻を鳴らして抗議をしようと口を開きかけたのだが、それをレイザークが遮る。
「だから言ったんだ。こういう不測の事態のときに、中央の軍隊じゃなにもできないってな。俺たちが派遣されたのは、アジェンタスが焼け落ちてから五時間も経った後。それから全速力で馬を飛ばしても三時間だ。評議会の承認なしには中央特務執行庁が動けないってんじゃあ、お話にならん」
「そういうあなたたち聖騎士団だって同じでしょう。もう少し聖救世使教会から距離を置いてくれれば、私のほうから簡単に動かせるようになるんですけどね」
 ぴしゃりと義姉に言われ、レイザークはしばし腕を組んだ。それから肩をすくめると、
「それもそうだな。しょせん俺たちは聖救世使教会の傀儡だからな。聖騎士団なんて名ばかりの組織を束ねた気になってる教会の老いぼれ連中が! やつらの腐れたケツの穴に、剣でも突き立ててやれれば話は簡単なんだがな」
「忌々しいのはお互い様でしょう。いまはそんなことを言い合っている場合じゃありませんよ。あなたたちを派遣してもらったのはこのあたりの混乱の鎮圧のためです。それから周辺地域の警戒。分かってるわね」
 厳しい義姉の言葉に、レイザークはまた肩をすくめてみせた。
「はいはい、分かってますって。ふん、結局尻ぬぐいは俺たちか。聖騎士団なんて考案した伝説の初代聖騎士サマも、ずいぶん罪なことしてくれたもんだ」
 そう言うと、レイザークはポリポリと頭をかきながら仲間の聖騎士たちのほうへ戻っていく。銀色の甲冑が歩くたびにガシャガシャ鳴った。
 聖騎士たちは地図を広げ、それを指で指しながら話し合いを始めたようだった。年長のレイザークは彼らにいろいろと指図しているらしく、聖騎士たちはめいめい頷くとそれぞれの持ち場へと向かうために解散した。
 レイザークは彼らの後ろ姿を見送ると、再びラファエラを振り返る。
「死傷者の数は?」
 尋ねられたラファエラは、隣にいたマクナマラを促す。マクナマラ准将は脇に抱えていた書類を取り出して、
「アジェンタス騎士団員を含んでアートハルク帝国軍に斬り殺された者、それから封印解呪の影響で吹き出した炎に巻かれて焼死した者、倒壊した建物の下敷きになった者など、ざっと合わせれば死者は二千人を超えるかと。負傷者はおよそ千人ほど。炎が吹き出したあたりはほぼ全焼、その付近にいた者は瞬時に炭と化したことでしょうな」
「たいした数だな」
 レイザークは忌々しげに唾を吐いた。
「ガラハド提督、ハンコック司令官、バーコフ司令官、スナイプス統括隊長は戦死、以下アジェンタス騎士団の約半数が」
「ちょっと待て。スナイプスが戦死だと?」
 淡々と書類を読み上げるマクナマラ准将を遮り、レイザークが声をあげた。
「ご存じで?」
 マクナマラが気の毒そうに声をかける。レイザークは静かに頷き、
「……ああ、ロクランの中央騎士大学で同期だった」
「お気の毒です。立派な騎士でした」
 マクナマラは弔意を表すために胸に手を当て、頭を下げた。
「けが人を見舞ってやりたいのだが」
 レイザークが思いを断ち切るようにそう言ったので、ラファエラは中央広場に張られた天幕を指してやる。レイザークは背中を向けてからラファエラとマクナマラに手を振り、救護用の天幕目指してブラブラと歩き始めた。
 スナイプスとは特に親しいわけではなかったが、学生時代には成績を争いあったものだった。レイザーク自身、スナイプスとよく比較されることがあったが、それは向こうも同じようなものだったようだ。彼らを知っている人間が必ず口にするのだったが、スナイプスと自分がよく似ているのだということだった。これには驚いたが、実際にスナイプスと話す機会があったときにレイザークはそれを実感した。
 確か卒業前のパーティー会場だったと記憶している。いい機会だからとレイザークが彼に話しかけたのがきっかけだった。話してみれば、スナイプスはとても饒舌で、考えていることや価値観すべてが自分に似ているとレイザークは思ったのだった。彼はアジェンタス騎士団へ、そしてレイザークは聖騎士団へ入団することが決定していたので彼と話すのはそれっきりではあったが、そのときスナイプスが言った言葉はいまでも忘れられない。
「最強の騎士団を作るにはどうしたらいいと思う?」
 強い酒を勧めながらスナイプスはレイザークに尋ねたのだった。レイザークはしばし考え、自分の考えを言葉にしてみた。
「優秀な指揮官と優秀な剣士、つまるところ『人材』の確保しかないだろう」
 レイザークのまともな答えにスナイプスは笑い、そして強い酒がなみなみと注がれたグラスを煽ったのだ。
「違うな、レイザーク。いい人材だけじゃない。『渇望』だよ。何かを求める激しい飢えが、人間を駆り立てていくんだ。そういう渇望のない剣士がいくら集まったところで、強い騎士団になるとは限らない」
 スナイプスの言うことは正しかった。あれから十年近く経ったが、実戦で剣を振るうたびにそう思う。剣士など所詮人殺しだ。血を渇望するような激しい衝動に突き動かされ、剣を振るうだけが取り柄なのだからと。
 ふと、すすで黒くなった煉瓦造りの壁に目がいく。壁には剣で突いたような跡と血糊が残っており、アジェンタス騎士団とアートハルク兵のすさまじい戦闘を彷彿させた。壁の脇に、まっぷたつに折れた剣が無造作に放り出されている。レイザークは何の気無しに近づき、折れたそれを拾い上げた。
 柄に黒と金の糸がきつく細やかに巻かれ、ターコイズで象眼された鍔が美しい細身の剣。これを持っていた剣士は死んだのだろうか。だがしかし、レイザークはそれを眺めているうちにひとりの剣士の姿を思い浮かべた。
「まさか……」
 あの男が持っていた剣によく似ている。十七年前のあの日まで、あの男はまるで自分の分身のように大切に扱っていた。異国風の不思議な名前がついていたはずだ。陽光に輝く美しい刀身を持つその剣の名前は、「飛影」ではなかったか。
 馬鹿なことを。
 レイザークは自嘲気味に鼻を鳴らし、脳裏をよぎる剣士の面影を振り払った。おおかた量産されたレプリカのひとつだろう。こんな剣の一本や二本くらいでなにを動揺しているのだ。そう自分を戒めるのだったが、レイザークはそれを捨て置く気にはならず、剣帯の間に挟んだ。なぜかそれを鍛冶屋に持っていって、復元した姿を見てみたいと思った。






 暗闇の中にぼんやりと灯る光。ろうそくの火だろうか。それはあまりにもか細く見えて俺を不安にさせる。やがて視界が広がっていくような感覚。ああ、違う。あれは暖炉の火だ。
 懐かしい。実家にも立派な暖炉があって、子どもの頃は夏になればレトたちといっしょにその中に隠れて遊んだ。冬になって灯が灯れば、母さんが暖炉の前で編み物をしたり、本を読んでくれたりした。このにじみ出るような暖かさが心地いい。
 外は雪が降っている。アジェンタスでは珍しいことではない。アジェンタス連峰に囲まれたこの地域は、真冬には相当な量の雪が降るし、春先までもちらつく。寝る前に冷えた足や指の先を温めるために、暖炉の側で膝を抱えて座っていて、そのまま寝てしまうこともあったっけ。
 突然激しく言い争うような声が聞こえた。女の声と男の声。女の声は母さんだろうか。こんな時間になにを言い争っているんだろう。それから激しくもみ合うような音。ガチャンとなにかが割れる音がしたと思うとドアが激しく開く音がしたので、俺は驚いて振り返った。
 剣を握った男がドアの前に立っていた。廊下の明かりに照らされているせいか、男の顔は見えない。だが、俺はその姿を見た瞬間に全身を駆け抜ける恐怖に見舞われる。
「見つけたぞ、売女の息子が」
 男は押し殺すような声でそう言うと、にやりと笑った。顔が見えないのに、どうしてだか笑ったというのが分かった。後ろから母さんが泣きながら男にすがりつく。それを突き飛ばして男は再び剣を握り直す。
「母さんをいじめるな!」
 俺は叫んだ。俺はどうやら小さな子どものようだ。その証拠に、男の姿が天を突くかのように見える。
 剣を握った男は舌打ちをすると、
「生意気な口を利く。さすが売女の腹から生まれただけはある」
「やめて! ×××!」
 母さんが男の足にすがりついて男の名前を呼ぶのだが、よく聞こえなかった。いらついた男はさらに彼女を蹴りつけ、
「うるさい! 親子して俺を小馬鹿にしていたんだろう!? 俺の息子と偽って、お前はいつまでもあの男に未練がましく思いを寄せてたんだろう!?」
「違う! 違うわ!」
「俺がその妄執を断ち切ってやる! お前の愛したあの男の忘れ形見をな!」
 男はそう言うと俺の襟首を掴んで床に引き倒した。
 そこから先は断片的なイメージだけが頭の中を駆けめぐる。
 恐怖のあまりに叫ぶ俺の、少年の甲高い泣き声。悲鳴をあげる母。全身を引き裂かれるようなすさまじい痛み。それから、暗闇に光る細長い刀身。
 男はそれを振り上げ、そして。
 ──いやだ! 俺を殺さないで──!
 俺は声の限りに叫んだつもりだった。だが、おそらく声は出ていなかったのだろうと思う。剣の切っ先はまっすぐに俺の胸に振り下ろされ、俺は自分の胸に食い込んだ刀身を、まるで人ごとのように見つめた。そのうちに血があふれてきて、俺は火がついたように泣き叫んだ。痛くて痛くて涙があふれてきて、そのうちに息もできなくなって、だんだんと意識が遠のいていく。
「ははははは! どうだ! 殺してやったぞ! あいつの息子を! 俺はあいつのすべてを奪ってやった!」
 男が血まみれの剣を振り上げながらそう言うのと、母親が泣き叫ぶのが聞こえた。狂ったような笑い声が響く中、そのまま俺は意識を失って──。
 たぶん死んだのだと思う。もう何も聞こえない。何も見えない。あたりはただの真っ暗闇だった。
 恐ろしかった。闇の中からなにか得体の知れないものが俺を掴まえようと手を伸ばしてくるのが分かった。俺は抵抗する術も持たず、ただ暗闇に飲み込まれていく。
 それからしばらくして、俺の意識は唐突に呼び戻された。頬に冷たい感触。それが誰かの手だと気付くと、俺はうっすらと目を開けた。金色の柔らかな髪が鼻をくすぐる。もう片方の頬には、誰かの頬が当たる感触がした。俺が小さく呻くと、俺に覆い被さるようにしていたその人の身体がぴくりと動いた。耳元で安心したようにため息をつくのが聞こえ、それからその人は難儀そうに体を起こした。
 俺はその瞬間、凍りついた。床に倒れたままの俺を気遣わしそうに見下ろす黄金の巻き毛。エメラルドグリーンの瞳をしたその男は紛れもなく──。
「……レオンハルト……」
 俺はそうつぶやいたつもりだった。もう痛みはなかった。ただ涙があふれてきてどうしようもなかった。
 レオンハルトは満足そうに目を細め、俺の頬を愛おしげになでた。俺は彼に手を伸ばそうとしたが、もう俺の手は子どもの手ではなかった。
 いまなら掴まえられる。彼に手が届く。そう思って思い切り手を差し出したつもりだったがそのとき、急に暗闇が襲ってきて俺とレオンハルトの距離を引き離したのだった。
「レオンハルト!」
 俺は声の限りに叫んだ。レオンハルトの姿は暗闇に飲まれてどんどん見えなくなっていく。俺は力の限りに手を伸ばし、暗闇にあらがう。
 いやだ。やっとあなたに会えたのに。
 手を伸ばしても黄金の巻き毛にかするだけで、俺は必死になってレオンハルトの名を呼んだ。まるで子どもが泣き叫ぶように、年甲斐もなく。
「忘れるなセテ」
 暗闇にかすんでいく黄金の聖騎士が俺に手を差しのべた。俺は最後の力を振り絞ってその手を掴もうと身体を踊らせた。やっと掴まえたレオンハルトの手は剣士に似合わず、とても柔らかくて暖かかった。
「私は……お前の……」
 レオンハルト。いまなんと? 暗闇が轟音をたてながら周囲の空気を巻き上げていく中、レオンハルトの声がかき消されて聞こえない。
「忘れるな。お前は……のだ。……に」
 そう言い終わると、レオンハルトの手がゆっくりと俺の手を握り返し、離れていく。そしてレオンハルトの姿は闇に完全に飲み込まれ、見えなくなっていった。






 冷たい感触で目が覚めた。それが自分の涙だと気がついて、セテはそれを拭おうと手を動かしたつもりだった。だが、全身を走る痛みのおかげでそれはかなわなかった。
 俺は死んだのか。
 セテは夢うつつのまま黄土色の不潔な天井を見つめた。よく見るとそれは建物の天井などではなく、布製の天幕であった。そして自分はいま簡易ベッドに寝かされているのだということにようやく気がついた。
 腕が動かない。痛みよりも何よりも、力が入らないのだ。
「気がつきましたか」
 頭の上から誰かが声をかけたので、セテは目だけ動かして声の主を見やった。黒い中央特使の戦闘服に身を包んだ、中央特務執行庁長官ラファエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム将軍が気遣わしげに見下ろしているのが見えた。
「将軍……」
 セテはつぶやくようにそう言った。女将軍はにっこりと笑うと、
「無事で何よりです。休暇だというのにアジェンタシミルにまた戻ったと聞いて、まさかと思いましたが」
 そこでようやくセテははっきりと意識を取り戻した。戻った? 休暇? そうだ。俺はアジェンタシミルに戻ってそして。
「火傷と裂傷、多少の打撲、あちこち剣の切り傷があったそうですが応急処置で問題ないとのことです。ただ人手が足りなくて、完治するまで治療できなかったそうですが」
 では夢ではなかったのか。俺は真紅の竜騎兵《クリムゾン・ドラグーン》のあの男と斬り合って、それからピアージュは。
「ピアージュ……ピアージュはどこに……?」
 尋ねられたラファエラが眉をひそめた。首を傾げてセテの顔を覗き込むように身をかがめると、
「ピアージュとは?」
「ピアージュだよ。俺と一緒にいた赤毛の。俺をかばって、俺を」
 動揺するような声でセテはつぶやき、そして動かぬ体に力を込めて起きあがろうとする。
「いるんだろ!? どこにいる!? ピアージュは!?」
 困ったラファエラがなだめるようにセテを押し戻そうとするのだが、彼はそれを振り払ってさらに声を荒げた。
「どこだよ! ピアージュをどこにやった!?」
「いい加減に落ち着け! 小僧!」
 力強い手に押し戻され、セテの身体がベッドに押しつけられる。驚いて枕元を見上げると、熊のような男が自分を見下ろしているのが見えてセテは息を飲んだ。
「よう、元気そうだな、小僧」
 レイザークがにやりと笑った。セテはその姿を見て目を見張った。言葉が出ない。
「なんだよ。そんな驚くことかよ。また会えてうれしいぞ。確かに生きてたな」
「パラディン・レイザーク……!」
 一週間の休暇で探せるとは思わなかったが、まさかこんなところで、こんな形で聖騎士レイザークに再び相まみえることになるとは。神々はまたしてもこうした気まぐれな奇跡を起こして楽しんでいるのだろうか。
「あんまり義姉さんを困らせるんじゃねえよ。ガキじゃあるまいしな」
「……俺はガキでも小僧でもねえよ。セテ・トスキって立派な名前がある」
 言われてセテがレイザークを睨み付けた。レイザークはおどけて
「ああ、悪い、悪い、あんまりガキみたいに取り乱すんでな」
「レイザーク、けが人を興奮させるようなこと言うのはおやめなさい」
 ラファエラにたしなめられ、聖騎士は肩をすくめて見せた。
「あなたの連れのことは分かりません。後でほかの天幕を見て回りますか。けが人なら臨時に設置された救護室で手当を受けています。そうでない場合は……」
 ラファエラは言葉を濁した。遺体である可能性はないわけではない。
「……ヴァランタインはどうなったんですか」
 セテが無表情に尋ねるのでラファエラはため息をつき、
「……残念ですが炎の柱の直撃を受けたらしく、街のほとんどが全滅です」
 セテは固く目を閉じた。ピアージュも母さんも、ガラハド提督もスナイプス統括隊長も、アジェンタシミルのすべてを救えなかった。
「……俺のせいだ……」
 セテが呻くように言った。ラファエラが心配そうにまたその顔を覗き込む。
「……俺がアジェンタシミルを離れなければ……」
「自分を責めるのはおよしなさい。あなたのせいなわけがないでしょう」
「俺のせいだ! 俺が休暇なんて取らずにここに残っていれば誰も死なずにすんだかもしれない!!」
「ふざけんなクソガキが!」
 突然レイザークに胸ぐらを掴まれ、セテは息を飲んだ。ぐいと寝間着の襟首を締め上げられ、セテが苦しげに呻いた。
「自分のせいだと!? お前みたいな半人前ひとりの力で何ができたってんだ! 俺たち聖騎士団が何もできなかったってのに、自分ひとりでアジェンタスを救えたかもしれないみてえな寝ぼけたこと言ってんじゃねえ!」
「レイザーク! およしなさい!」
 義姉に仲裁に入られ、レイザークがセテの胸ぐらから手を離した。
「すまん。言い過ぎた。だがな、自分を買いかぶるのもたいがいにしろ。俺だってもう少し早く到着できたらあるいはどうにかなっていたかもしれないと思ってるんだ。悔しい思いをしているのはお前だけじゃねえ」
 そう言われて、セテは背を向けてシーツを頭からかぶった。涙があふれてきたのをこのふたりに見られたくなかった。そういえば最初の任務で同じようなことをスナイプスに言われたことがあった。結局、自分はひとりではなにもできない無力な存在だということが思いやられて、悔しさと自己嫌悪で押しつぶされそうになる。
「ほかの天幕を見て回っていいですか。アジェンタシミルの街を見せてください」
 セテはしばらくシーツの中で泣いた後、ふたりに頼んで抱え起こしてもらった。応急処置で癒しの術法で治してもらったとはいえ、アトラスに貫かれた右肩がずいぶん痛む。包帯でぐるぐる巻きにされた不自由な両手で靴を履くと、セテは中央広場に張られたいくつものけが人を収容する天幕を見て回り、そして遺体を安置した天幕も覗いた。そこには母親の姿はもちろん、ピアージュの姿すら見あたらなかった。
 救護に当たっていた担当の騎士に尋ねると、ヴァランタイン周辺の住民はほとんど炭化してしまったという。それから赤い髪をした少女の姿を見なかったか尋ねるのだったが、誰も見かけなかったと答えた。悪いがおそらく炎に巻かれて焼け死んだのではというのが、おおかたの答えだった。
 辛抱強く天幕を見て回るセテの後ろ姿を見ながら、ラファエラが大きなため息をついた。その横でレイザークがため息をつく。
「なんだ。あの坊やが生きていて何よりだったんじゃないのか」
「もちろん無事でよかったと思っていますよ。ですが……」
 ラファエラが言葉をつぐみ、レイザークを恨めしそうに見つめた。
「あの坊やにまた任務に戻るように伝えるつもりだったんだろ」
「ええ。でもあの状態では……。しばらく休暇を与えたほうがよさそうですね」
「当然だろう。あれじゃ当分使い物にならん」
「レイザーク!」
 たしなめるようにラファエラが言った。レイザークは分かった分かったと手を振って弁解する。
「義姉さんはこれからどうするんだ。オレリア・ルアーノに戻る予定だったんだろ。途中で引き返してずいぶん予定が狂ったんじゃないのか」
「ええ。ガラハドを荼毘に付したらすぐに光都に戻ります。ガラハドに託した『神の黙示録』の一部がアートハルク帝国の連中に奪われました。中央諸世界連合評議会に承認を得なければならないことが山ほどありますから」
 せいぜいがんばれよとでも言わんばかりにレイザークは頷いてやる。
「そういうあなたは? 私もずいぶんあなたを探していましたけど、彼、トスキもあなたのことを探すと言っていたんですよ」
「ほう。それはそれは光栄なことで。仇討ちでもするつもりだったのかね」
「なんですか。仇討ちって」
 けげんそうな顔でラファエラが尋ねるので、レイザークが方眉だけあげてもったいぶった素振りをしてみせた。
「なあに。だいぶ前、あの坊やをロクランでこてんぱんにしてやったことがあったんでね。まだ俺を恨んでるのかと思うとうれしくて涙が出そうになるねえ」
 それを聞いたラファエラが呆れたように肩をすくめた。
「ところで、アジェンタスがこんな状態じゃしばらく離れる気にはならないだろうし、あの坊や、俺が預かってもいいかい?」
 その言葉を聞いて、女将軍はまるで目が飛び出さんばかりに瞳を大きく見開いた。
「あなたが? なに言ってるの、彼は特使ですよ。脳みそまで筋肉でできてる馬鹿な聖騎士と一緒にいさせるわけにはいかないわ。それにあなた、いまどこを根城にしているのよ」
 憤慨するようなラファエラをなだめながら銀の甲冑の聖騎士は笑った。
「神々が気まぐれで起こした奇跡ってヤツで、あの坊やは俺と再び会えることになったわけだ。気まぐれついでに面倒見てやるくらい、罰はあたんないだろ」
「でもあの子はまだ中央特務執行庁の特使です。守秘義務のことはお忘れ? 余計な入れ知恵して、あなたの考えている私設の騎士団に引き込もうったってそうはいきませんよ」
 食ってかかるような義姉の言葉に、またまたレイザークは大笑いする。ラファエラは諦めたように手を腰にあて、大きなため息をついてみせるのだったが。
「ま、ご心配なく。しばらく手元に置いて、いっぱしの特使として使い物になるようだったら、リボンをかけて中央特務執行庁にお届けにあがりますって」

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