第十話:アジェンタス陥落 後編

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 階段を下りながらセテは何度も何度も悪態をつき、時に階段の手すりを足で激しく蹴りながら口汚い言葉で毒づいた。なぜ休暇とはいえアジェンタスを離れるようなマネをしたのか、それだけが悔やまれて仕方なかった。もし自分が離れずに留まっていればあるいは。そんなことを考えると、無念さで涙がこみ上げてくる。
 これからどうする。セテは腰の飛影に無意識に手をかけた。戦死したガラハド提督とスナイプスの仇を討たなければ。その前にヴァランタインに戻り、母の身の安全を確認したい。
「ピアージュ、悪いけどヴァランタインに行きたいんだ」
 やっとセテがふつうに口を利いてくれたので、ピアージュの顔が少しほころぶ。ピアージュは大きく頷くと、再び力強い表情で自分を見つめるセテに微笑んで見せた。
 提督公邸を出たセテとピアージュを出迎えたのは、炎が焦がす赤い空に翻るアートハルク帝国の軍旗だった。正門の前に高々と掲げられ、悠然と風になびく黒地に赤い炎をかたどった紋章。総督府の完全なる制圧に成功した勝者の証であった。ふたりはその軍旗を見るやいなや息を飲み、それから視線を前方に移す。正門の周りには掃討を終えたと思われるアートハルク兵たちの姿があった。
「……セテ」
 ピアージュが注意を促すためにセテの腕を引き、自分の腰の剣に手をかけた。セテも身を固くしてピアージュをかばうように後ろに追いやる。公邸から出てきたふたりの姿を見ると、アートハルク兵たちはみな示し合わせたかのように同時に剣を抜いて構えた。中でも高い地位にいるであろう男が一歩前に出てきて、セテとピアージュを交互に睨み付けた。それから男はにやりと笑う。勝利を確信した者、征服者が捕虜に対して哀れみの混じった軽蔑的な視線を投げかけるときの表情だった。
「アジェンタス騎士団の者だな。投降せよ。抵抗しなければ命までは取らん」
 辺境なまりのある中央標準語で男は言った。
「……抵抗しなければ、だと? 先に奇襲をかけたのはそっちだろ。汚ねえマネしやがって」
 セテが悪態で答えると男は愉快そうに口の端をゆがめ、
「残念だが、アジェンタス騎士団はほぼ全滅だ」
 セテは思わずピアージュの顔を振り返る。ピアージュも信じられないと言いたげな表情で首を振った。
「だが投降した者も何人かいる。我々が引き上げるまで一所でおとなしくしてもらいたいのだが」
「……ふざけるな。誰が」
 男の言葉が引き金となってセテの全身を怒りが突き抜けていく。セテは腰の飛影にかけていた手に力を込めた。血液が沸騰したかのように身体の内側がカッと熱くなる。いつも剣を振るう直前になるとやってくる激しい耳鳴りが、破鐘のようにこだましながら頭の中をかき回し始めていた。何度も経験したことのある、暗くよどんでなお甘い、戦いの前の高揚感。
 だめだ。飛影は絶対に抜かない──!
「強がりもいい加減にしろ。貴様ひとりで何ができる。提督のように犬死にしたいというなら別だがな」
 額を伝う冷たい汗の感触に、セテは固く目を閉じた。人を斬らないと誓った自分の意志が、突き上げてくる衝動を押さえきれない。無性に血が恋しくなる感覚に負けそうになる。心臓が激しく鼓動するのに反して呼吸は浅くなり、耳鳴り以外のいっさいの音が遮断される瞬間。
 違う人格が自分を支配するのにも似て、意識が遠のき、感覚だけが鋭くなっていく。そのわずか数秒にも満たない空白の時間は、腹の中にいるなにかが五臓六腑を食い破って来るような感覚を促した。それが膨れあがって怒りと結びついた瞬間、セテの左手は飛影の柄を思い切り引き抜いていた。
 ブツリという鈍い音とともに、鞘と柄をがんじがらめにしていた紐が見事にちぎれ、飛影の細く美しい刀身が姿を現した。光にも似た閃きが翻った直後、アートハルクの兵士は悲鳴をあげてのけぞっていた。
 セテはそのまま返した刃で反対側にいた兵士を斬りつける。周りにいた兵士たちが、辺境の言葉で何かを叫んでいるのが聞こえた。我に返った彼らが剣を振り上げるが、セテは驚くべきスピードで彼らの太刀をかわすと、続けざまに剣を振り下ろしてふたりの兵士の脳天に飛影を突き立てた。頭に直撃を受けたアートハルク兵は白目をむいたままガクガクと体を震わせた。セテが剣を引き抜くと同時に脳天から大量の鮮血が吹き出し、それは容赦なくセテの頭上に降りかかると、瞬く間に金の髪を真っ赤に染めあげていた。
 剣にこびりついた血糊をゆっくりと払い、肩で息をしながらセテはにやりと笑った。頭から血を浴びて前髪の一房からぽたぽたとしずくを垂らすその姿は、凶悪な魔物以外の何者でもない。アートハルクの兵士たちはおののき、立ちすくんでいたが、セテはかまわず鬨の声を上げて彼らに突進していく。
 突き出される敵の剣をはじき飛ばし、滑るように相手の懐に飛び込むと、セテはなんの躊躇もせずに兵士の心臓の真上に剣を突き立て、あるいは首目がけて剣をなぎ払った。その間、セテは兵士たちの反撃をいっさい許すことはなく、いくつかの兵士の首が無抵抗にも似たあっけなさで吹き飛んだ。
 そしてほとんど戦意を喪失していた最後の兵士がついにセテの刃にかかる。敵は肩から胸までをざっくりと無惨に切り裂かれ、枯れたような小さな悲鳴をあげた。セテは胸の途中で止まった剣を引き抜くために兵士を足で蹴り、そして男の身体はどさりと重苦しい音をたてたかと思うと、無造作に投げ捨てられるかのように地面にひれ伏していた。わずか十数分のできごとであった。
 セテは最後の敵が倒れてもなお剣を握ったまま構え、あたりに好敵手の姿を探し求めるかのように素早く視線を走らせた。地面には赤い血だまりのなかに突っ伏し、あるいは仰向けに倒れる赤と黒の戦闘服。そこでやっと戦闘が終了したことを認識するに至ったのだが、いまだ自分の中でくすぶり続ける好戦的な別人格が血を求めてやまない。激しく脈打つ心臓に手をやり、まるで自分の狂気を押さえるかのようにぐっと胸を押さえつけた。目を閉じ、高ぶった神経を鎮めるためにセテは大きく息を吸い、吐き出し、そしてまだ自分が正気でいるかどうか頭の中で自問する。だいじょうぶ、俺はまだ狂ったわけではない。そう認識して目を開くと、目の前で顔面蒼白になっているピアージュの視線とかち合った。
 ピアージュはまるで恐ろしい化け物でも見るかのような顔をしてセテを見つめていた。セテは急いで飛影の血糊を振り払うが、べっとりとついた粘着質の黒っぽい血液はなかなか落ちなかった。懇願するような目でピアージュをもう一度見つめると、ピアージュはいま初めてこの光景を目撃したかのように大きく目を見開き、それから弱々しくセテに頷き返してみせたのだった。
 ピアージュはセテに駆け寄ると、自分の手が汚れるのもかまわず彼の血にまみれた前髪を掻き上げてやる。だいじょうぶ、だいじょうぶだからと、まるで子どもをあやすように何度も何度も繰り返しながら。
 セテは急激に縮小していく闘争本能に代わり、罪悪感と自己嫌悪が押し寄せてくる冷たい感触に身を震わせた。血まみれの手を額に当て、大きくため息をつく。押さえきれなかった。人を殺したくなる衝動を、生きた人間に剣を振るう瞬間の快感を。二度と飛影を抜かないと、自分で封印までしたのに。
「すまん、俺……」
 弱々しく首を振り、血まみれの髪を掻き上げる。まるで狂戦士《ベルセルク》のように剣を振るい、頭から血を浴びて笑っている自分がいるなんて。これこそがコルネリオが自分に課した呪いなのだと、あの超人を作り出す秘薬のせいなのだと思いたかった。だがそのとき。
「たいしたものだな。わずか十分あまりで、しかもたったひとりで十二人もの兵士を斬り殺すとはな」
 背筋がぞくりと泡立つ感覚。凍りつくようなその冷たい声に、セテとピアージュは即座に振り返る。焼け落ちていくアジェンタシミルの町並みを背景に、燃え上がるような闘気をまとった人影がひとつ。赤茶色の髪を無造作に伸ばし、丈の長い黒の戦闘服に身を包んだ青年が立っていた。その姿はまるで炎の精霊が実体化したかと思うほど、優雅で神々しいものであった。
「アジェンタス騎士団にもそれほどの腕を持つ剣士はいなかったが、楽しませてくれそうだな」
 青年は少しだけ口の端をゆがめてそう言った。冷徹な印象を与えるブルーグレイの瞳と端正なその顔立ちが、よりいっそう禍々しく見える。
「……てめえ、何者だ」
 セテは押し殺したような低い声で尋ねた。だがこの青年から発せられる気の強さに、正直言って気圧されている状態ではあった。意識せずとも剣を握る手が震えるのは、名刀にふさわしい飛影が青年の放つ闘気に反応しているからなのか。
「アートハルク帝国皇帝の精鋭部隊司令官、アトラス・ド・グレナダ。真紅の竜騎兵《クリムゾン・ドラグーン》と呼んでもらおうか」
「グレナダ? ふん、そうか、てめえが大将ってわけか」セテは掌に唾を吐き、それから飛影を握り直した。
「ちょうどいい。アジェンタス騎士団の仇を討たせてもらうぜ」
「仇? ふん、心外だな。ガラハド提督がおとなしく我々に従っていれば、こんな無駄な流血騒ぎなど起きなかったというのに?」
「ふざけんな! こんなクソみたいな奇襲攻撃をしかけやがって! ぶった斬ってやる!!」
 セテはピアージュが止めるのも聞かずに剣を振り上げ、アトラスに斬りかかった。アトラスはそれを剣も抜かずにいともたやすくかわす。セテは空中を斬った飛影をくるりと返して再びアトラスに斬りかかるのだが、それもまたかわされてしまう。速度がまるで追いつかないことにセテはいらだち、闇雲に剣を振り回す。
「さきほどの立ち回りで体力を消耗しているだろう。無駄なことはよしたほうがいい」
「ざけんな!!」
 セテは気合いを入れるかのように叫び、渾身の力を込めて剣をなぎ払った。アトラスが余裕の構えで腰の鞘から剣を抜くのが見え、一瞬セテは自分の目がおかしいのではないかという錯覚に陥る。鞘から姿を現した青年の剣は、即座に赤い炎を吹き上げたのだ。それは飛影を捕らえると、激しい炎を吹き上げてセテを押し戻す。剣を伝ってものすごい衝撃が腕に走り、セテは小さく呻いた。そしていったん身を引き、体制を整えて青年を睨み付けた。
 なんだ、あの剣は!? 炎を吹き上げる剣など聞いたことがない。それに自分の攻撃がいともたやすくかわされるなんて?
「どうした。騎士大学ではその程度しか教えなかったのか」
 あざ笑うような青年の言葉で、セテの脳裏にある記憶が頭をもたげた。あれは確か自分が中央特務執行庁の試験に合格した直後のこと。サーシェスとレトと三人で合格を祝ったレストランで、レトが言った言葉だ。二年ほど前、中央特務執行庁の試験をすべて満点という驚異的な成績で合格したひとりの男がいたという。その男の名はハイ・ファミリー出身の、アトラス・ド・グレナダ。グレナダ公国アルハーン大公の次男──!?
「そうか、てめえかよ、中央特務執行庁を全教科満点で合格した貴族サマってのは。その貴族サマがいまじゃアートハルクの飼い犬ってわけか」
 セテが苦々しげに言うとアトラスは満足そうに鼻を鳴らし、
「俺を知っているとは光栄だな。だが飼い犬というのはどうかな。俺は自分の意志でアートハルクに身を寄せている。貴様ら騎士団のようなチャチな理想のもとではなく、もっと崇高な使命をまっとうするためにな」
「崇高だって? へっ! 笑わせるな。アジェンタシミルを攻撃するのが崇高な使命だなんて、オツムの程度が知れるぜ」
「吼えるのは俺を楽しませてからにするんだな」
 アトラスは炎を吹き上げる魔剣を振り上げると、セテの頭上に勢いよく振り下ろした。セテはそれを両手で受けるのだが、その瞬間の衝撃の大きさに再びうめき声を上げる。剣を包む炎が食い込んできて、そのまま飛影を折ってしまうような勢いだった。アトラスはそれを知ってか知らずしてか、間髪入れずに剣を繰り出してくる。それを受け流すのが精一杯だ。素早さと剣技にかけては自信のあったセテであったが、これほどまでに自分が受け太刀になる相手に遭遇するのは初めてだった。
 ほんの少しの隙を狙い、セテの胸をアトラスの剣がかする。炎がシャツの裾をかすり、あやうく引火しそうになるのでセテは身を引き、ぱたぱたと手ではたいた。アトラスは不敵な笑みを浮かべると、涼しい顔で剣を振り下ろす。それをまた受け太刀で防ぎながら、セテはどうにか勝機が見つからないか脳をフル回転させるのだが、相手の攻撃が考える隙を与えまいと連続で繰り出されるので押されるいっぽうだった。
 このままずっと受け太刀で流すわけにもいかない。確かにアトラスの言うとおり、さきほどの立ち回りで体力が相当に消耗している。長引けば長引くほど不利になり、体力が尽きたときが最後だ。とすれば渾身の力を込め、最後の一撃のつもりで勝負に出るか。
 セテはそんなことを考えながら掴まらない程度に受け流し、その瞬間を待つ。相手の動きを読みながら、アトラスが剣を振りかぶる瞬間にかけようと思った。そしてその勝機はすぐに訪れた。セテは受けた飛影の柄を両手ですばやく握り直し、ぐっと力を込めて柄を回転させる。遠心力に乗って速度を増した飛影の刃は、まっすぐにアトラスの腹を狙った。アトラスが剣をなぎ払ったほんのわずかな隙をついたつもりだった。
 だがしかし、青年はそれすらも読んでいたのか、信じられないような速度で剣を戻した。その瞬間にアトラスの闘気を反映するかのように剣から炎が勢いよく吹き出した。飛影の刃はアトラスの剣とまっこうから衝突し、激しく甲高い悲鳴をあげた。アトラスの剣が飛影に接触したそのとき、すさまじい衝撃が腕に伝わったかと思うとセテを押し返し、そして信じられないことには飛影の刀身は真ん中からまっぷたつに折れていた。
 セテは反動で後ろに倒れ込むと、左手に握っている折れた飛影と、地面に落ちた刃を交互に見やる。信じられなかった。これまでいろいろな相手と対戦してきたが、超硬質の剣が折れるなんてことは絶対にあり得なかったのだ。
 アトラスは余裕を見せつけるかのようにゆっくりと歩み寄り、剣の切っ先をセテの首筋に当てた。刀身にまとわりつく炎がちりりと髪を焦がすので、覚悟を決めたのかセテが息を飲んだ。
「その程度か、小僧。つまらん。もっと俺を楽しませろ」
 アトラスは冷徹な表情のままセテを見下ろして言った。熱い炎の感触にセテの顔が歪む。立ち上がろうにも腕や足に力が入らず、地面をかきむしるだけだった。
「根性だけは認めてやる、小僧。異世《ことよ》に送ってやる前に、貴様の名前を聞いておこうか」
 セテの口がわずかに動いたので、アトラスは最後の言葉を聞いてやるつもりで腰をかがめる。
「なに?」
「……小僧、小僧言ってんじゃねえよ。俺とたいして年も違わないくせになめるな!」
 セテはそう叫ぶと左足で蹴りを繰り出した。アトラスの足を引っかけるのに成功したセテはすぐさまはじかれたように立ち上がる。アトラスの身体が大きく揺れたが、彼は見事に立ち直り、剣を振りかぶった。切っ先はセテの脇腹をかすり、剣圧で肉が裂かれて血が噴き出した。セテは痛みに叫び、そのまま倒れ込む。
「ここまでだ!」
 アトラスは叫び、セテの頭上目がけて剣を振り下ろした。セテは折れた飛影を頭上で構え、最後の抵抗を試みる。そのとき、
「セテ!」
 ピアージュが叫ぶと同時に、アトラスを衝撃波が襲う。不意を付かれたもののアトラスはすぐさま身体を翻してそれを物理障壁で跳ね返し、新たな敵の姿を睨み付けた。ピアージュがアサシン・ブレードを構え、セテをかばうように立ちはだかっていた。
「セテには指一本触れさせない! あたしが相手だ!」
 気丈に剣を構える少女の姿を見て、青年は鼻を鳴らした。
「ふん、戦場に女連れとはな。アジェンタスの剣士はずいぶんおさかんなことだ」
「よせ! ピアージュ、逃げろ!」
 脇腹からあふれる血を押さえながらセテが叫ぶが、ピアージュは剣を構えたまま動かない。そのままピアージュは剣を振りかぶるとアトラスに突進していき、アサシン・ブレードをなぎ払う。剣と剣がぶつかりあう甲高い音に混じって、アトラスの魔剣が炎を吹き上げる音とピアージュのアサシン・ブレードが放つ闇の闘気が膨れあがる。
「なるほど。『土の一族』の者か。アサシン・ブレード、確かそんな名前のとんでもない剣があったな」
 アトラスはいったん剣を引き、くるりと掌で回転させた。炎がきれいな円を描いて見る者を魅了する。
「たいしたもんだね。このアサシン・ブレードに接触して平気な顔していられる男がいたなんて」
 今度はピアージュが鼻を鳴らしてそう言ったのだが、アトラスの能力に敬意を払っているかのようにも聞こえた。
「人の魂を糧とする魔剣か。『土の一族』はよほどイーシュ・ラミナのお気に入りだったと見える」
「ふん、あんたのその剣だってそうじゃないの? あたしたち『土の一族』はイーシュ・ラミナの従属一族の末裔。だけど、自分たちの身を守るためにしか剣は作らない。どこでその剣を奪った? 返答によっては生かしておけない」
 セテにはふたりの会話がまったく理解できなかった。「土の一族」とはいったい何を意味する言葉なのか。剣を作るのを生業としているのが会話の端から伺えるのだが、こんな魔剣を生み出すことができるなんて。しかもピアージュがその一族の出であるとは初耳だった。
「そんなことはどうでもいい。お前はそこの小僧よりも楽しませてくれそうだな。アサシン・ブレードの威力とやらをとくと拝見させていただこうか」
 アトラスはそう言い、再び魔剣を振り上げた。ピアージュはそれを受けると下から剣を突き上げるように差し出す。アトラスがそれを防ぎ、またすさまじい突きを繰り出してきた。ピアージュは剣で受け流しながら小声で呪文を詠唱している。それが完結したときには、ピアージュは自らの剣に術法を乗せ、勢いを付けて振りかぶった。衝撃波を伴った一撃がアトラスを襲う。見事青年の身体に直撃するかと思われたそのとき、アトラスはそれを平然と剣ではじき返したのだった。
 はじき返された衝撃波は後ろの建物の壁に激突し、噴煙をあげた。渾身の一撃のつもりだった攻撃がはじき返され、ピアージュの瞳が大きく見開かれた。
「無駄だ! 我が憎しみの炎を断ち切ることなどお前にはできん!」
 アトラスがそう叫ぶと、魔剣の炎がさきほどにも増して激しく吹き上げた。そのまま彼はピアージュの頭上に剣を振り上げ、勢いを付けて振り下ろした。ピアージュは両手で剣の柄を握りしめ、その攻撃を防ぐべく正眼に構えた。ふたりの剣が接触するときに、周囲に空気を震わせるかのような衝撃波が走る。セテは脇腹を抑えながらピアージュの名を呼んだ。だがその声も衝撃波にかき消され届くことはない。次の瞬間にはアトラスの剣はピアージュの刃をすり抜け、彼女の肩を斜めから捕らえていた。
「ピアージュ!!」
 セテが立ち上がりふたりに近寄ろうと駆け出すが、ピアージュの結界によりはじき返されてしまう。剣を肩に食らったまま歯を食いしばって堪える彼女は、後ろのセテを振り返ると信じられないことに微笑み返したのだった。
「ごめん、セテ。あたし、もう一緒に旅できない」
 ピアージュがそう言って笑った。ピアージュは思う。もし自分がいなくなったら、セテは悲しんでくれるだろうかと。
 アトラスが柄を握る手に力を込めると、少女の利き腕の肩に食い込んだ魔剣の刃は炎を吹き上げ、ピアージュが苦痛に悲鳴をあげた。アトラスが剣を抜くと肩口から盛大に血が噴き出し、ピアージュの手からアサシン・ブレードが転がり落ちる。ピアージュは肩から流れ出る血を押さえながら二、三歩よろめいたが、彼女は決して敵から目を逸らすことはしなかった。
「よせ! 殺すな!!」
 懇願するようにセテが叫ぶ。アトラスはそれを聞き届けたものの、冷たい視線をセテに投げかけるだけで再び魔剣を振りかざした。利き腕をやられ、もはや満身創痍を悟った彼女は高速言語で呪文を詠唱し始める。それを成就させまいとアトラスが剣をなぎ払うその瞬間、ふたりの間で目もくらむような閃光が炸裂した。ピアージュの放った最後の攻撃術法とアトラスの魔剣の剣圧がまっこうから衝突したのだった。
「ピアージュ!!」
 爆煙があがり、衝撃波が再び辺りを襲う。ピアージュの身体が大きく弾かれたかと思うとすぐさま爆発が起こり、彼女の姿は周囲の建物が音をたてて崩れていくその向こうに吹き飛ばされて見えなくなっていった。
「ちくしょう!!!」
 セテは立ち上がって折れた飛影を構え直し、無謀にもアトラスに立ち向かう。当然丸腰にも近いその姿勢はアトラスの剣をまともに受け流すこともできずに、まともに魔剣を食らうことになる。下からなぎ払われてセテのシャツが裂かれ、腰から肩まで縦一文字に血が噴き出した。続けて脇腹を斬りつけられ、セテの身体がよろめいて壁に倒れ込む。壁際に獲物を追い込むことに成功したアトラスの剣は見事にセテの右肩を貫き、その身体を壁に縫い止める形となった。吹き上げる炎に肩を焼かれる激痛は、セテの口から悲鳴とも絶叫ともつかない叫びをあげさせていた。
「ふん、いい格好だな、小僧。自慢の剣も折られ、肩をやられたのではもう何もできまい」
 アトラスがセテの肩に剣を刺したままにやりと笑う。
「うるせえ……っ! 俺は左利きだ、右肩くらいなんともねえからな……!」
 セテの強がりにアトラスが愉快そうに鼻を鳴らした。
「ほう、左利きか、それはよかった。だがどの道そのザマじゃ、二度と剣は振れないだろうがな」
 ぐいと剣をねじられ、セテがまた苦痛に耐えられずに叫び声を上げる。
「色男に似合いのいい表情(かお)をする。残念だがここまでだ、アジェンタスの剣士殿」
「ふざけんなテメェ……っ! 絶対、ぶっ殺してやる……!」
 痛みにあえぎながらセテがつぶやくように言うのだが、もはや強がり以外のなにものでもない。アトラスは呆れたようにため息をつくと、セテの肩を壁に縫いつけていた魔剣を一気に引き抜き、片方の手でセテの首筋に手をかけた。そして首に狙いを定めるように剣を振り上げたそのとき。
 アトラスは剣を止め、セテの右手の平を凝視する。その掌の真ん中に光る銀色の筋を見て、アトラスは驚いたように目を見開いた。
「まさか」
 アトラスは独り言のようにつぶやくと、剣を鞘に収める。セテの首からアトラスがふいに手を離したので、セテは壁にもたれたままずるずると座り込むように崩れ落ちた。
「そうか、貴様がそうだったのか。『青き若獅子』」
 アトラスは意外そうな声でそう言い、そして何事もなかったかのように平然とセテを見下ろした。
「……なにやってんだ。とっとととどめを刺せよ。クソ野郎……!」
 激痛に意識が朦朧としていく中、セテがはき出すようにそう言った。それを聞いたアトラスが不愉快そうに鼻を鳴らした。
「ふん、貴様の運命の輪を止めるなど、俺にはできん。せいぜい生き延びるんだな」
「……なにわけのわかんねえこと言ってやがる。とっととやれって言ってんだろ……!」
 そのとき、再び大地を揺るがすような轟音がして建物が大きく揺れた。バラバラと屋根から破片が落ちてきて、壁から火の勢いが増したような熱が伝わってくる。
「要石の撤去が完全に終わった合図か。残念だがお楽しみはここまでだ。我々は撤収する。生きていずれまた会えるその時を楽しみにしているぞ、『青き若獅子』。本当は貴様をここで殺しておくべきなんだろうがな」
 そう言い残すとアトラスは背を向けて歩き始めた。燃え上がる炎の中に消えていく後ろ姿を遠のく意識で追いながら、セテは斬られた脇腹や胸から流れ落ちる生ぬるい血の感触を実感する。そしてまた激しい爆発音とともに炎が舞い上がり、周りの建物を飲み込んでいくのが感じられた。セテは小さくため息をこぼすように息を吐き出すと、迫り来る炎を前にそのまま意識を失った。
 アジェンタスの町並みを、容赦ない炎が焦がしていく。まもなく夕刻を迎えようとしていた薄暗い空は、敗者の血をぶちまけたかのように赤く染まっていた。その色は夜のとばりが降りたアジェンタシミルを、征服者の勝利を祝うようにいつまでも照らし続けていた。

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