第九話:アジェンタス陥落 前編

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──アジェンタシミルがアートハルク帝国に包囲された。
 セテは最初、その男の言葉がまったく理解できなかった。この薄汚い男は何を言っているんだろう。アートハルク帝国など、もう五年も前に廃墟と化した亡霊の国ではないか。最強と謳われるアジェンタス騎士団が、亡霊を相手に戦っているとでも? セテはそんなことをぼんやりと思いながら、ナルダという薄汚れた格好をした情報屋を見つめた。
「なに言ってんだ、おい、ナルダ。ちゃんと分かるように話せ」
 キースがナルダの肩を掴み、何度か揺さぶる。ずっと走ってきたために激しく咳き込み、喉をヒューヒューと鳴らす情報屋は、再び深呼吸をしてキースをにらみ返した。その落ちくぼんだ目には恐怖の色がありありと浮かんでいた。
「だから、アートハルク帝国だよ! やつらはすでに新しい皇帝を担ぎ上げて再建をもくろんでいる。あいつら、また全世界を巻き込んで戦争をするつもりだ。その第一の目標がアジェンタシミルなんだよ!」
「ふざけんなよ! いい加減なこと言ったら殴るぞ! そんなに簡単に包囲されるわけねえだろ!」
 横からセテが飛び出してきて男の胸ぐらを掴み、ものすごい剣幕で睨み付けた。情報屋は苦しげにうめき、
「嘘だと思ったら行ってみろ! やつらはすでにアジェンタス騎士団と全面的な戦闘に突入してる! 炎をかたどったアートハルクの戦旗がそこかしこに翻ってるんだぞ!」
「ナルダ。このセテはアジェンタス騎士団にいたんだ、詳しい状況を話してやれ」
 キースに促されたナルダは懐疑的な表情でセテをじろりと見つめた。
「騎士団出身か、まあいい。とにかく、アートハルク帝国は五年前に瓦解したはずだったが、新しい女の皇帝を頭に復興の準備を進めていたらしい。ダフニスのときよりも遙かに厄介だ。なにしろ、アートハルクの残党に加えて、辺境の小さな国々から兵士が集まって多国籍軍を結成している。いまアジェンタシミルを包囲しているのは、アートハルク精鋭の剣士軍団だ。総督府を包囲してアジェンタス騎士団と全面的な戦闘に突入している。避難勧告も間に合わなかったようだ」
「避難勧告が間に合わなかったってどういうことだよ! ガラハド提督は?」
 セテがさらにナルダの首を締め上げる。それをキースとピアージュが制するのがやっとだった。
「知るかよ! 総督府は完全に戦闘状態だ! 指揮系統の乱れがあって当然だろ!」
 アジェンタシミルにはセテの故郷ヴァランタインも隣接している。戦闘区域になっているとすれば母親の身が危ぶまれる。
「やつらの狙いはなんなんだ。いまさらアジェンタスを攻撃してどうするつもりなんだ」
 キースが尋ねるとナルダはセテの腕を振り払い、ごほごほと咳き込みながら、
「分からん。先日アジェンタシミルで発見された霊子力炉の確保じゃねえのか。なんでも霊子力炉ってのはフレイムタイラントを封じる要石《かなめいし》から力を吸い上げているらしいじゃないか。世界中に散らばってる要石を解放して、フレイムタイラントを復活させるつもりなんじゃないのか。あいつを復活させれば中央なんか目じゃねえ。世界を十回破滅させるに余りあるシロモノだからな」
「要石だって? あの伝説の封印か」
 キースが舌打ちをした。二百年前の汎大陸戦争の際、暴れ回るフレイムタイラントを封じるために、救世主《メシア》と聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》が施したといわれる強力な封印だ。それを解けば封じられていたフレイムタイラントの力が活性化して、暗黒の炎の結界の力が強まる。結界の向こうに封じられていた暗黒の炎の属性を持つモンスターどもが暴れ回り、再び二百年前の悪夢が蘇ることになる。
「くそっ!」
 セテは毒づき、そしてナルダの胸ぐらを掴んでいた手を離すと前掛けをはずして乱暴に放り投げた。それを受けたピアージュが、階段の脇に立てかけてあったセテの飛影と、自分の愛剣アサシン・ブレードを取りに走る。
「おい、総督府に戻るつもりか! 危険だぞ!」
 キースが止めようと声をかけるが、セテは部屋にとって返して荷物をまとめ始めた。ピアージュが不安そうな目で追いながら、その後をついていった。
「この目で見るまでは絶対に信じない。もし本当に戦闘状態なら、加勢しにいく」
 セテは止めようと腕を掴んだキースを振り払い、鋭い目で睨み付ける。さっきまで穏やかだった青年の表情が見る間に変わっていくのを、キースは内心驚いていた。これは根っからの剣士の目だ。キースはため息をつき、セテの腕を離してやる。戦士の血が戦いの予感に昂揚していくのを止めることなどできないことは分かっていた。彼もかつてそうであったから。
「いちばん早い馬を借りられるか」
 セテは荷物をまとめながらキースに尋ねた。
「裏に早駆け獣が何頭か繋いである。白い馬がいちばん早い。それに乗っていけ」
「すまん。恩に着る」
「待って、あたしも行く!」
 身軽な服装に着替えたピアージュが階段を駆け下りてきた。
「だめだ! ここに残れ!」
「やだよ! 足手まといになるようなことはしないから! あたしだって元傭兵だよ! それに、あたしを連れて行けばいざというときに転移して逃げられる。危なくなったらすぐに引き返してくればいい」
 ピアージュの言葉にセテはため息をつき、そしてその赤い髪をくしゃくしゃとなでた。それからキースとナルダを振り返り、
「キース、あんたはどうする。傭兵組合もひとごとじゃないだろ?」
「戦闘がアジェンタス全土に拡大するってことも考えられるからな。我々もいざという時に備えておく。こちらのことは心配するな」
 セテは頷き、キースと固い握手を交わすと、荷物と飛影をひっつかんで店を飛び出していった。『暁の戦士』の裏には、キースの言うとおりに早駆け獣が五頭繋がれていた。そのうち、白い馬と栗毛の馬を選ぶ。セテは腰の剣帯に飛影を結び、馬の脇に荷物をくくりつけると小さく勢いを付けて馬にまたがった。勢いよく踵を当てると、白馬は待っていたかのようにいななき、即座に駆けだした。その後をピアージュの乗った栗毛の馬が追いかける。
 アジェンタシミルまで早駆け獣で全速力で走っても二時間弱。道のない平原の真ん中を突っ切っていけば直線で一時間半ほど。馬が保つかどうかよりも間に合うかどうかだ。セテは無言で馬を駆りながら、総督府のガラハド提督やスナイプス統括隊長、そのほか騎士団の面々のことを思いだし、どうか無事でと神々に祈りを捧げる。
 五年も前に廃墟と化した亡霊の国が、なぜいまさら復活し、再び五年前と同じことを繰り返そうというのか。五年前、まだ自分が高校生だった頃、アジェンタスは一度アートハルクの術者軍団に包囲され、その恐るべき集約型術法の脅威にさらされることとなったが、コルネリオの妹ハルナの霊子力砲により敵を粉砕せしめた。アジェンタス騎士団領が難攻不落とされていたのは、霊子力炉があってこそ。いまはふたつの霊子力炉のどちらも中央の研究チームに解体され、使い物にならない。アジェンタスは丸裸も同然だ。
 そしてヴァランタインにいる母親の顔が頭に浮かぶ。無事でいてほしい。帰ってきたら父のことを話してくれると約束してくれた母。聞きたいことが、話したいことが山ほどあるのに。
 全速で駆ける馬に揺られ、内臓が突き上げられて吐き気がしてくる。無理もない。早朝に起きて何も食べていない空きっ腹には相当堪える。たまに生唾をぐっと飲み込むと、セテは馬の手綱を握りながら歯を食いしばった。内股が激しくこすられたためかひりひりしていたが、それがそのうちしびれるような痛みを伴い、しばらくすると痛みも何も感じなくなってしまう。こんなに長時間、しかも全速力で走る馬に乗るのは生まれて初めてだった。
 ふと前方に集落が見え始める。馬の疲労もひどいので、いったん馬を替えたほうがいいかもしれない。セテは手綱をひいて徐々に馬を減速させたが、そのとき、集落を囲う塀の入り口に数人の人影が立っているのに気付いた。
「セテ」
 ピアージュが注意を促すために声をかける。集落で待ちかまえる彼らはみな剣を携える剣士で、その頭上には炎をモチーフにした赤と黒の旗が翻っていた。アートハルクの兵士たちだ。
「くそっ! 道を封鎖してやがるのか!」
 セテは毒づき、それから勢いよく馬に踵を当てた。再び馬が全速で駆け出す。塀の周りを迂回してなんとか突破しなければ。二頭の馬は踊るように方向転換し、そして左脇の集落の囲いを目指して走り出した。
「止まれ! ここから先は通行禁止だ!」
 馬に気付いた兵士が叫ぶのを舌打ちで答え、セテはそのまま馬を走らせる。ピアージュが後ろで何かを叫んでいるが、気にせずそのまま馬を駆った。後ろから数頭の馬が走ってくる蹄の音が響く。兵士たちの何人かが馬を駆って追いかけてきたのだ。
「撃て!」
 後ろから鋭いかけ声とともに、なにかが空を切る音。ふと振り返るとピアージュが叫んだ。
「セテ! やつらボウガンを持ってる! 馬を左へ!」
 あわてて手綱を引き締め、馬の腹に踵を当てる。大きく上体が揺れるのをなんとかこらえながらセテは馬を左へ迂回させる。すると、先ほどまで走っていたすぐ後ろの草むらに、するどいボウガンの矢が何本も突き刺さるのが見えた。
 通常の弓は破壊力がないためにいったん空中に向けて放ち、重力に任せて着地点にいる敵を殺傷するのだが、命中率も低く、当たり所によっては致命傷にもならない。しかし、このボウガンは飛距離と殺傷力において大幅に改良されている厄介な武器だ。弓を横にしたような形をしており、さらに弦の代わりに鉄のワイヤーとバネがついているために通常の弓よりはるかに長距離を狙うことができる。また、バネのおかげで強く太い鉄の矢を飛ばせるので、中距離で命中したときの殺傷力は相当なものだ。アジェンタス騎士団ではたまに演習の際に使ったことがあるのだが、主に辺境の地で使われることの多い武器なので、実際の戦闘で使われるのを見るのはセテも初めてだった。確かにアートハルクの正規の兵士だけではなく、辺境の兵士たちが戦闘に参加しているのだろう。
「やつら馬を狙ってる! 左右に大きく動いて!」
 ピアージュが叫んだ。その後ろからまたボウガンで放たれた鋭い矢が飛来してくる。セテは舌打ちをして馬を左に右に大きく蛇行させた。だがそのとき、馬が悲鳴をあげて暴れたのでセテは振り落とされまいと必死に馬の首にしがみついた。途端に速度が落ちたので振り返ると、馬の尻にボウガンの矢が刺さっているのが見えた。
「くそっ!」
 セテは悪態をついてもう一度馬に踵を当て、無理矢理馬を走らせようとする。馬は痛がって暴れるが、ようやく走り出そうと体勢を整えた。だがさらに二本目の矢が馬の腹に突き刺さり、馬は壮絶な悲鳴をあげてのけぞった。その瞬間にセテは振り落とされ、地面に叩きつけられていた。
「セテ!」
 ピアージュが手を差しのべ、セテを自分の馬に引き上げようとする。セテはゲホゲホと激しく咳き込みながらやっとのことで身を起こすが、だが、そのすぐ後ろからアートハルク兵の馬が迫っていた。覚悟を決めたセテは腰の飛影に手をかける。無意識の動作だった。柄を握ってそれを引き抜こうとしたが、自分で封印を施して抜けなくしたのを思い出し、舌打ちをした。馬に乗ったアートハルクの兵士が、ボウガンを構え、自分にねらいを定めているのが見えた。ここまでかと、セテは歯を食いしばる。
「セテ、しっかり掴まって!」
 セテのすぐ脇に馬を止めたピアージュが両手を差し出し、セテの手首を強く握りしめた。その直後にめまいのような感覚。ボウガンの矢がふたりに命中するその瞬間に、セテとピアージュの姿はあっという間に消え失せていた。
 驚いた兵士たちは馬を止め、辺りを見回す。だが、たったいま追いかけてしとめようとしたふたりの侵入者はどこにも見あたらず、傷ついた白い馬の死体と、その横で何事もなかったように草を食む栗毛馬の姿があるだけだった。






 大木の木陰の脇がゆらめき、虹彩色に輝くと、セテとピアージュはそこから放り出されるように空中に飛び出した。それからふたりは容赦なく地面に叩きつけられ、盛大に咳き込んだ。彼らは間一髪、ピアージュの転移術法で逃れることができたのだった。
「ごめん、とっさのことで狙いが定まらなかった」
 ピアージュはいまだにゲホゲホと激しく咳き込んでいるセテの背をさすってやりながら、申し訳なさそうにそう言った。何度か門《ゲート》をくぐって転移を経験したことはあったのだが、相変わらず転移する瞬間の吐き気がするようなめまいの感覚だけは慣れそうにないと、セテは涙目になりながら胸をさすった。
 顔を上げると、そこはアジェンタシミルの街はずれにある広い公園の中だった。小高い丘の上に立つそこからは、アジェンタシミルの総督府ばかりでなく、隣接する町並みがよく見える。あちこちで剣士同士の戦闘が繰り広げられているのが見えた。一方はアジェンタス騎士団のえんじ色の戦闘服を着ており、そしてもう一方は赤黒い戦闘服。確かにアートハルクの兵士たちと全面的に衝突している最中であった。
「くそっ! ピアージュ、もう一度転移してくれ! 今度は総督府まで!」
「む、無茶言わないでよ。ふたりいっぺんにそんなにすぐ転移なんてできない……! 簡単に言うけど、転移ってものすごく疲れるんだよ。ホントなら半日くらいは体を休ませたいくらい」
 ピアージュが息を切らせてそう言った。確かの彼女の言うとおり、相当に体力を使うものなのだろう。ピアージュの顔が少し青白い。今度はセテがピアージュの背中をさすってやる。ピアージュは大きく息を吸ったりはいたりしながら、申し訳なさそうな顔をしてセテに体をもたれさせた。その間も、セテは戦闘中の兵士たちの動きをずっと見守り続けた。
 戦況はそれほど悪くはないようだ。アジェンタス騎士団の面子は順調にアートハルクの兵士たちを切り倒しているところだ。数は多いのだが、ナルダが言ったような精鋭というほどのものではないのかもしれない。まずは総督府に戻り、ガラハドの安否を確認してから指示を仰ごう。そう思いながらセテは腰の飛影を見つめた。これを抜かなければならないかと思うと、心なしか胃の辺りがずんと重くなってくる。
「ごめん、ありがと。もうだいじょうぶだから」
 ピアージュはそう言うと、小さくかけ声をかけて勢いを付けるように立ち上がった。顔色はまだ青かったが、息が切れるのは収まったようだった。セテは彼女の手を引いてやりながら、公園の入り口へ足早に歩いていく。そのときだった。
 地面を揺るがすような轟音。セテとピアージュの体が大きく揺れた。地震にしてはかなり大きなものだ。ふたりは地面に膝を付き、あたりを見回す。地面についた掌を伝って、相当な振動が伝わってくる。公園の木々がゆさゆさと揺れ、木の葉を激しくふるい落としていくのが見えた。
「なに? 地震? すごい揺れ」
 ピアージュが不安げな表情でセテを振り返る。アジェンタスでは滅多に地震が起きないので薄気味が悪い。
「見て! セテ、あれなに!?」
 ピアージュが叫んだので彼女に振り向くと、ピアージュは総督府の方角を指さしていた。見ると、総督府の地面から赤黒い光が吹き上げており、その周りで火花が激しく明滅している。やがて赤黒い光は総督府全体を覆うドーム状に膨れあがっていき、まるで風船をふくらませるように極限まで引き延ばされていくと、そこで突然はじけた。はじけると同時に、再びすさまじい轟音がアジェンタシミルを襲った。
 轟音とともに、アジェンタシミルのあちこちから赤い柱が姿を現した。それが柱などではなく、すさまじい勢いで地面から吹き上げられていく炎だということに気付くには、そう時間は必要なかった。炎の柱は天まで届き、吹き上げるたびに大地を揺るがす。吹き上げられながら炎は何本にも枝分かれしていき、アジェンタシミルの街を縦横無尽に駆けめぐっている。まるで意志を持っているかのごとく、街の上空をうごめいているのだ。
「なんだ!? 噴火!? そんなバカな!」
 セテは揺れ動く地面を蹴り、二、三歩前に進みながら目の前の惨状を見つめる。信じられない光景であった。炎が動くそのたびに建物が音をたてて崩れ始め、街はやがて火の海に包まれていく。まるで伝説に聞くフレイムタイラントが復活したような勢いだった。ナルダという情報屋が言った言葉をそのときふとセテは思い出す。フレイムタイラントを封じる要石のひとつがアジェンタスにあるのだと。アートハルクの連中はそれを解放しに来た。そしてやつらはまんまと要石の解除に成功したのではないだろうか。
 セテはしばし言葉を失って炎が暴れ回る様を見つめた。フレイムタイラントが復活したのか。いや、たったひとつの要石を取り除いただけで復活するなどあり得ない。それではこれはいったいなんだ。
「セテ! 炎があちこちに飛び火してる! このままだとアジェンタスが焼け野原になっちゃうよ!」
 ピアージュの声で我に返ったセテの目に、炎の柱が近隣の街を襲う瞬間が飛び込んできた。アジェンタシミルに隣接する故郷の街、ヴァランタインの方角で炎が暴れ回るのがはっきり見えた。
「ヴァランタインが! 母さん!」
 叫ぶのが早いか、セテは揺れる地面をものともせずに走り出していた。セテは公園の柵を跳び越え、転げ落ちるように坂を下っていく。その後を、ふらふらと危なっかしい足取りでピアージュも追った。
 騒然とその光景を見つめ、しばし休戦状態にあったアジェンタス騎士団とアートハルクの兵士が徐々に我に返り、再び戦闘が開始されていた。轟音にかき消されることなく、剣がぶつかり合う激しい音が建物の壁に反響する。セテは戦闘中の彼らの間をうまくすり抜けながら、ヴァランタインへの道をひた走る。セテは途中一般市民が泣き叫びながら逃げていくのに出くわして、アートハルクの兵士たちが一般市民には目もくれないという事実に胸をなで下ろしたのだった。彼らにさきほどの公園まで逃げるように指示すると、戦闘を避けて路地裏に入り、根をあげそうになる心臓にムチを打って走り出した。
「トスキ!」
 聞き覚えのある声に振り返ると、アジェンタス騎士団で仲のよかったジャドウィックという先輩の騎士が、セテの姿に驚いて目を見張っているところだった。
「どうした! 休暇中だってのに戻ってきたのか! 馬鹿野郎が!」
 ジャドウィックは剣を携えたままセテに走り寄ってくる。その剣に着いた血糊を見て、セテが息を飲んだ。彼が先ほどまでアートハルクの兵士と斬り合っていたという、まぎれもない証拠であった。
「隊長は!? ガラハド提督はどこに!?」
 セテが尋ねると、ジャドウィックは肩をすくめ、
「分からん。総督府にいるはずだ。なにしろ、俺たちは攻め込んできた帝国の連中どもとすぐに戦闘に入ったのでな、指揮系統がすっかり乱れていて手こずっている。あの炎が街に引火し始めているんで、いったん退却してきたところだ。すまんが総督府に戻ってくれんか。俺らは帝国のやつらを殲滅せねばならん」
 そこでジャドウィックはいったん言葉を切り、剣を振り上げた。セテの後ろから斬りかかってきたアートハルクの兵士が、正面からジャドウィックの強烈な一撃を受けて派手に悲鳴をあげた。返り血が飛び散ってジャドウィックのえんじ色の制服がますますどす黒くなったのを見て、セテは思わず口元を抑える。吐き気ではなかった。なにか自分の体の奥からなにかが飛び出してきそうな妙な感覚が沸き起こる。それがなんなのか、セテには身に覚えがあった。剣を抜き、めちゃくちゃに振り回したくなる衝動。剣での決闘を目前にしたときの、高揚感に似ていた。
「頼む! ここは俺たちがやるから貴様は総督府に行ってくれ! こいつらの主力部隊が総督府を包囲していたんだ!」
 ジャドウィックはそう叫ぶと、襲いかかるアートハルクの兵士目がけて剣を振り下ろした。肉を断つ音を聞きたくなくて、セテはそのままはじかれるように総督府への道を走り出した。
 走りながらセテは腰の飛影に手をかけていた。抜けないように紐で頑丈に鞘と柄をしばりつけておいたが、どうしても飛影を手で押さえておきたかった。走るたびに高揚感が突き上げてきて心臓が激しく脈打つ。それが膨れあがって人を斬りたくなる衝動に変わりそうで恐ろしかった。
 炎の柱で焼かれ、街の中のあちこちから火の手が上がっているので、それを器用によけながらセテは走る。その後をピアージュも無言で走り続けた。ふたりは崩れてくる建物の屋根などをかわしながら走り、途中騎士団の連中とアートハルク兵士たちとの戦闘をうまくすり抜けていく。やがて総督府の正門が見えてきたので、ふたりはそろって安堵のため息をついた。だがそこで、セテの表情は驚きに変わる。
 正門前はえんじ色の戦闘服を着たアジェンタス騎士団員の死体がいくつも転がっていた。いくつかアートハルクの赤黒い戦闘服を着た死体もあったのだが、そこに生きたアートハルクの兵士たちの姿はない。もちろんアジェンタス騎士団の騎士たちも。いやな予感が胃の辺りを刺激して、セテは思わず生唾を飲み込んだ。
「隊長! どこです!」
 セテは中庭を走りながら叫んだ。返事はなく、建物にはセテの声と炎の柱が暴れ回る轟音が反響するだけだった。セテはガラハド公邸の入り口まで走り、そして中に敵の姿がないことを慎重に確認する。生きた人間の姿もないことに、セテもピアージュも突き上げてくる不安と焦りを押さえきれなくなっている。剣で斬りつけられて倒れている死体から目を背けながら、ふたりはガラハド提督の書斎へ続く階段を駆け上がった。
 ガラハドの書斎の扉は大きく開かれていた。大慌てで誰かが飛び出していき、そのままになったというような扉が、地響きに揺られてキイキイと甲高いいやな音をたてる。セテは肩で息をしながら慎重に歩みを進め、書斎に足を踏み入れた。人の気配はしなかったが、入った瞬間に漂ってくる生臭い血の臭いに、セテは思わず身を固くした。書斎を入って正面の机の横で、血の海に倒れている人影。えんじ色のアジェンタス騎士団の制服に金のボタンのついた立派な服装。まさか。
「提督……?」
 セテはつぶやくようにそう言うと、おそるおそるその死体に近づく。そこで彼は息を飲んだ。首のない死体だった。部屋の隅に目をやると、ロマンスグレーの髪をした首が、体から切り離されて無造作に落ちているのが見えた。ガラハド提督に違いなかった。ピアージュも思わず口元を押さえ、大きく息を飲み込んでいるようだった。
「ちくしょう! あいつら!!」
 セテは机を蹴り上げ、廊下に飛び出した。アートハルク軍は最初に総督府を包囲し、すでに陥落させた直後だったのだ。間に合わなかった無念さと怒りが全身を駆けめぐる。セテが他の部屋を除いて生存者を確認しようとしたそのときだった。
「……トスキか?」
 扉の影から呼び止める声。死者の声かと思うほど弱々しいもので、セテとピアージュは同時にはじかれるように振り返った。大きく開いたガラハドの書斎の扉の裏側に、かすかだが生きている人間の気配がする。声の主を確認しようとセテは扉に駆け寄り、そして再び大きく息を飲み込むこととなる。
「隊長!!」
 扉の影で壁にもたれるように座り込んでいるスナイプスの姿を見つけて、セテが叫んだ。だが、彼の身体の下には大きな血だまりができており、彼は血の気を失った青白い顔でセテの顔を見るなり自嘲気味に笑いかけた。
「馬鹿が、なぜ戻ってきた。そんなお人好しじゃ長生きできんぞ」
 スナイプスが相変わらずの口調で言うが、セテはかまわずに彼の身体を抱きかかえようと身をかがめた。しかし、スナイプスは斬られた腹から出る血を手で押さえるのでせいいっぱいだ。傷は相当に深い。そしてさらに最悪なことには、彼の足は膝から下をすっぱりと切り落とされていたのだった。
「俺としたことがな……。足を持っていかれた」
「しゃべらないで! すぐに病院へ!」
「時間の無駄だ。どうせ助からん」
 スナイプスはまた自嘲気味に鼻を鳴らして笑った。膝を付いているセテのGパンが、みるみるスナイプスの血を吸って赤く染まっていった。
「やつら、最初から総督府を、アジェンタシミルを陥落させる気で軍隊を率いて来やがった。気を付けろ、やつらは要石を解放しやがった。しばらくは炎の化け物の大あくびで街は火の海と化す。いいからかまわず逃げろ」
「あんたを置いていけるかよ! 引きずってでも連れて行く! そしたらあんたとガラハド提督の仇を討ってやるからな! 誰なんだ! アートハルクの指揮を執ってるヤツは!?」
「そんなことを知ってどうなる。ヤツは炎を吹き上げる魔剣を持ってやがる。ガラハド提督も俺も一瞬だった」
「ふざけんなよ! あんたがそんな弱気でどうするんだ! いいから俺に掴まれよ!」
 セテは悪態をつきながらスナイプスの腕を自分の肩に回す。ピアージュもそれを手伝ってスナイプスの身体を持ち上げようとするのだが、スナイプスは大きなため息をつくと、
「そういうところまで親父さんそっくりなんだな。いいから最後くらいは俺の命令を聞け。丸焦げになる前にとっととここから逃げろ。それから仇討ちとか馬鹿なことは考えるな。貴様じゃグレナダとかいうあの男には絶対勝てん」
 グレナダと聞いて、セテはしばしその名をどこで聞いたか思い出す。グレナダ、確かつい最近瓦解したグレナダ公国を治めていた大公、アルハーン・ド・グレナダというハイファミリーがいたはずだ。
「グレナダ……。アルハーン大公か。そいつが指揮を執ってる?」
「違う。その次男坊だ。アトラス・ド・グレナダとかいうとんでもない腕の持ち主だ。貴様じゃ一打ちであの世行きだがな」
「つべこべ言わずにここから出るんだ! 絶対にあんたを死なせやしない!」
 鼻の奥がつんとして涙があふれそうになるのをこらえながらセテは叫ぶ。スナイプスはまた鼻で笑うと、
「なんだか貴様が戻ってくるような気がしていたんだ。アジェンタス騎士団とはもう関係のない、特使に戻ったっていうのにな。俺もヤキが回ったらしい。俺は貴様のような部下を持てたことを誇りに思っている。親父さんにそっくりの、聞き分けのないとんでもない部下だったが」
 そこでスナイプスは激しく咳き込み、その口元から肺にたまっていた血がゴボゴボと吹き上げてきた。
「なぜかわからんがな、弟みたいな息子みたいな、不思議な気分だった。礼を言う」
 そこでセテは自分のシャツの裾を引きちぎってスナイプスの口元をぬぐってやり、それから血に染まったその切れ端を腹の傷に当てた。スナイプスの言うとおり、もう無駄だと分かっていても。
「よせって。死んじまうヤツみたいなこと言うなよ。あんた鬼の統括隊長だろ」
 我慢しきれずにセテの目尻から涙があふれてきた。鼻をすすりながら首を振り、悪態を突き返す。スナイプスは傍らに立つピアージュの姿を弱々しく見つめると、
「お嬢ちゃん。すまんがこいつを外まで連れて行ってくれんか。最後の最後に、部下に格好悪いところは見せたくないんでな」
 ピアージュは無言で頷くと、セテの腕を掴んで彼を立たせてやる。セテは涙をぬぐい、ピアージュに促されるまま立ち上がると、スナイプスを振り返ることなく公邸の建物を後にした。
 さきほどまでアジェンタシミル周辺を蹂躙していた炎の柱はもうやんでおり、轟音も途絶えていた。だがその代わり飛び火した炎が、街のあちこちを焼き尽くそうとしているところだった。

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