第五話:不穏な足音

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「まったく! こんな血の気の多い特使なんざ見たことねえ」
 キースはブツブツと文句を言いながら、店内に散らかった皿の破片や食べ物カスの残りをほうきで掃いている。ため息をつき振り返るその視線の先には、椅子に縛り付けられたまま、ピアージュに絆創膏を貼ってもらってふてくされている金髪の青年。その周りでは、顔のあちこちに痣をこしらえた傭兵たちが彼を睨み付けている。
「先に喧嘩を売ってきたのはそっちだ。俺はそれを買っただけだからな」
 セテは椅子の背に後ろ手に縛り付けられた手をもぞもぞと動かしながら悪態をつく。そこで周りの傭兵たちがいきり立つのを、ピアージュが一生懸命なだめるハメになった。
 店の中で大立ち回りをすることになったセテは、襲いかかる傭兵たちを次々と殴り倒したものの、割って入ったキースにも殴りかかった。そこで激怒したピアージュが暴れ続けるセテを術法で壁に叩きつけ、そのまま仕方なく椅子に縛り付けて事態はやっと収拾の方向に向かったのだった。
「ピアージュの知り合いだからと思っていたが、中央のイヌだったとはな」
 傭兵のひとりに言われて、セテがにらみ返す。ピアージュがあわてて、
「だから、彼はいま休暇中で、別に組合をどうこうしに来たわけじゃないんだってば!」
「だが、中央諸世界連合の人間には間違いない。俺たちの天敵だ」
 また別の傭兵が口を開くと、周りがいっせいに頷いた。
「中央とか組合とか、セテには関係ないことだってば! 彼はあたしの命の恩人なのよ!」
「惚れたか、ピアージュ」
 そう言われてピアージュの顔が殊勝にも赤くなるので、傭兵たちがゲラゲラと笑い出した。ある程度大きな欠片を始末し終わったキースがほうきを持ってセテに近づくと、
「まあいい。ここはピアージュの顔を立ててやることにしよう。実際に先に手を出したのはルドルフ、お前だからな」
 ルドルフと呼ばれた巨漢はキースに指を指されてばつが悪そうに笑う。
「なぜ俺が特使だって分かったんだよ」
 まだ不服そうなセテが尋ねると、後ろから小柄な男が出てきてセテの顔の前に何かを差し出した。セテの顔が思わずひきつる。特使に与えられる殺人許可証だった。荷物の中に入れてあったのに、どうしてこの男が自分の許可証を持っているのか、セテはけげんそうな顔をする。
「兄ちゃん、荷物は自分の目の届くところにおいたほうがいいぜ。俺みたいな手癖の悪いヤツが立ち回りの最中に勝手にあさらないとも限らない」
 セテは鼻を鳴らして、小男を睨み付けた。男はニヤニヤしながらセテのシャツの胸ポケットにそれを返してやった。
「一応念を押しておくがな」キースはほうきの柄をセテの顎にぴたりと突きつけて厳しい表情で彼を見下ろす。
「ここに来た目的は中央とはなんの関係もないこと、それから、休暇が終わってもここのことを中央内でいっさい口外しないことを、自分の口で誓ってもらおうか。でなければ俺たちはお前さんがアジェンタシミルに帰ったあとも、どこまでも追いかけていって始末せねばならん。ピアージュが悲しむ顔は見たくないんでな」
 セテがピアージュの顔を見やると、彼女は不安そうな顔をしてセテに目で合図をしている。お願いだから誓ってよといわんばかりだ。セテは大きくため息をついた。そして、
「わかった。神々の名において誓うよ」
「よろしい。それからお前さんの処遇なんだが。また店内で暴れられたらほかの客が驚いて二度と来なくなってしまうんでな。絶対に暴れないと誓うのならいますぐに自由にしてやる。こちらも二度とお前さんにちょっかいは出さないと誓おう」
「わかったよ! もう暴れない! これでいいだろ!」
 セテがやけくそになってそう言ったが、ピアージュはほっと一息だ。キースは後ろの傭兵に顎で指図し、セテを縛っている縄をゆるめさせた。セテは自由になった手首の関節をコキコキと鳴らして回し、尊大な態度で前髪をかきあげながら椅子から立ち上がった。それから周りの傭兵たちを睨み付けると、
「……悪かったな。血の気がちょっとばかり多いんで売られた喧嘩はすぐに買っちまうんだ。気を付ける」
 そう言われて、周りの傭兵たちがため息をついた。憤慨していた連中もいからせていた肩から力を抜いたようだ。
「ふん、お前さんみたいな特使ははじめて見たよ。だいたい、特使ってやつはすました顔して人に近づいて、目立たないように行動するもんじゃないのか」
 キースがセテの首筋からほうきの柄を引っ込め、見せつけるようにくるくると器用に回してそう言った。
「おかげさまで。俺は特使っていってもまだ半人前だしな」
 セテが肩をすくめると、
「まったくおかしな男だな。お前さんみたいなのがいればずいぶん助かるんだがな。ここにいる連中はみなそれぞれ腕の立つ剣士なんだが、それをほとんど殴り倒すなんざたいしたもんだ。どうだ、特使の年俸の十倍は稼がせてやる。うちの組合に入らんか」
「まだ就職したばかりなんでね。クビになったら考えとくよ」
 セテは気のない素振りでそう返した。キースは大笑いだ。
「そうだな。こんなご時世だ。上級公務員の安定した収入で暮らしたほうがはるかに利口ってもんだ。だがその血の気の多さだけは直したほうがいいぞ。お前さんは見た感じ色男だから、しゃべらないで人に近づいたほうがずっと仕事がしやすくなるはずだ」
 キースに言われてセテはまた肩をすくめてみせた。
「さてと。それで、ナルダになにか聞きたいことがあるって言ったな」
 セテがピアージュの顔を振り返ったので、ピアージュは無言で頷き返してやる。
「ああ……その……。ナルダってヤツが中央に詳しいと聞いたんで、ちょっと人捜しの情報を分けてもらおうと思って」
「厄介なことか?」
 キースが片眉を上げてセテを見つめる。中央がらみの話は彼らにとってあまり好ましい依頼ではないと見えて、セテはちょっと不安になってきた。
「いや、聖騎士レイザークという男を捜している。そいつの行方を知っていれば教えてほしかっただけだ」
「それだけか?」
 キースが目を丸くしてセテを見返す。セテが頷くと、
「たったそれだけのことでこれだけ大暴れしたってことか。おかげで昼の部の稼ぎは散々だぞ!」
 キースはセテが顔をしかめるのもおかまいなしでそう言った。それから、
「残念だが、ここ二、三日ナルダは来ていない。先日まではアジェンタシミルの様子を探っていたようだからもうそろそろ戻ってくるはずだ。それまで待てるか」
 足止めか。セテが落胆したようにピアージュを振り返る。ピアージュが頷けと目で合図してくるので、セテは仕方なくキースに頷き返した。
「分かった。明日、明後日くらいにはいったん戻ってくるようなことを言っていたので、そんなに時間はかからん。戻ってきた際に紹介してやるから待っていてくれ。言っておくがやつの情報は確かだ。聖騎士の居所からワルトハイム将軍の朝食メニューまで、なんでもござれだからな。その代わりと言っちゃなんだが」
 キースはセテを値踏みするような顔でじろじろ見つめて、
「こちらも慈善事業でやってるわけじゃないんでね。情報にはそれなりの対価を支払ってもらうことになる」
 金か。セテはGパンのポケットに潜ませている銀行の照合鍵に手をやる。先日の事件で特別報酬が支払われたので、ある程度ならすぐに用意できるはずだ。だが。
「まずはここの店内をきれいに掃除してもらおうか。それから、ナルダが戻ってくるまで店を手伝ってくれ。宿代も含めてそれで帳消しだ」
 言われて、今度はセテが目を丸くした。
「それだけ?」
「ああ、それだけだ」
 キースはそう言いながらセテにほうきとちりとりを手渡した。ピアージュが横でくすくす笑っている。傭兵連中も笑いだし、店内はさきほどの緊張した雰囲気からすぐにいつもの陽気さを取り戻したようだった。
 セテはしかたなく、まだ散らかっている破片に向かって大きなため息をつきながらほうきを動かし始めたのだが、そこでなにかを思い出したように顔を上げる。
「なあ、さっきの腸詰めの作り方も教えてほしいんだけど」






 アジェンタス騎士団領の首都アジェンタシミルにある総督府。高い塀の中に騎士団領すべてを統べる騎士団長の公邸と、騎士団の面々が寝泊まりするための宿舎や訓練場が併設されている。公邸の正門、裏門と言わず、総督府の周りは交代制で騎士が警邏《けいら》にあたり、昼間も間断なく歩哨が行われているのだった。そんな騎士たちの姿をまぶしそうに自室の窓から眺めているのが、アジェンタスの最高権力者で騎士団長を兼任するガラハド提督だ。
 辞表が受理され二ヶ月後に退任を控えたガラハドは、自室の書棚を整理している最中だった。二百年間、時の騎士団長を含め、ごく一部の人間にしか知らされなかったアジェンタス最大の守り〈霊子力炉〉は、中央諸世界連合の学者チームに完全に解体され、いまはあとかたもなくなっている。盟友だったコルネリオの事件も、霊子力に関することもすべて中央に引き取られた。関連する書類はすべて処理し、その後はうまく中央のチームが立ち回ってくれたおかげで無事、情報漏洩もなく済んだ。一般市民があの忌まわしい装置について知ることも、おそらくないだろう。そしてやっと、彼が騎士団長、提督として在任してきたこの四年間に味わってきたいいようのない罪悪感から、彼自身が解き放たれることとなったのだった。
 ガラハドは辞任した後は、セテやスナイプスに公言したとおり中央諸世界連合に関連する研究施設に入り、偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の遺跡をはじめとする旧世界《ロイギル》の遺産、遺跡の研究を続ける予定だ。研究施設からは名誉研究員として招待されており、ラファエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム将軍の計らいでずいぶん待遇もいいようだ。コルネリオが姿を消した六年前から今日に至るまで、ガラハドは霊子力炉という恐ろしい装置を編み出した旧世界を嫌悪すると同時に、その技術力に大いに魅了されていた。汎大陸戦争から二百年、いまの人類が失った遺産はあまりにも大きい。ガラハドはいまだ世界中のあちこちに残されるさまざまな遺跡を調査しながら、それをなんとか神世代のいまに蘇らせることはできないかと思っている。二ヶ月後、名誉研究員として働くことになった暁には、それも夢ではなくなるだろう。彼はロマンスグレーの髪を掻き上げながら、そんなことを考えていた。
「提督閣下。ただいまアートハルクの親善大使と名乗る者が尋ねて参りましたが」
 ドアの向こうから、あわてふためくような騎士の声が聞こえてきた。ガラハドは書棚から取り出した本をとりあえず机に置き、顎に手を当ててしばし考える。アートハルクの親善大使だと? あの国は五年も前に崩壊し、中央諸世界連合からも抹消されて大使などと名乗れる者は中央圏内には存在しない。ばかげた世迷い言を言う輩もいるものだ。
「通すがいい」
 ガラハドがノアの向こうの騎士にそう答えたが、その時、廊下からなにやら言い争う声がした。そしてぶしつけにドアが乱暴に開く。姿を現したのは、赤茶色の髪を無造作に伸ばし、黒の長い上着に身を包んだ長身の青年だった。腰に剣をはいているのを見て、ガラハドにはこの青年が有能な剣士であろうことが容易に想像できた。
「急いでいるもので、勝手に通らせていただいた」
 青年は固い口調でそう言い、ガラハド提督の顔をじっと見つめたまま横柄な態度でズカズカと部屋に入ってきた。ドアの向こうの廊下に、さきほど報告に来たらしい騎士が倒れているのを見てガラハドは眉をひそめ、それから入ってきた青年に視線を移した。気品のある端正な顔立ちがハイ・ファミリーを思わせるのだが、鋭いブルーグレイの瞳が傭兵のような殺気をまとっている。
「アートハルクの親善大使とはずいぶんな肩書きだな」
 ガラハドは目の前の青年から目を逸らさず、静かにそう言った。青年は小馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、
「勧告を携えてきたのだ。大使の役割であろう」
 そう言って青年は見晴らしのいい提督の自室の窓に目をやり、外の風景をまぶしそうに見つめた。
「勧告、とはおだやかではないな。聞こうか」
 ガラハドが促すと青年は窓から視線をはずし、ゆっくりとガラハドに歩み寄ってきた。
「アジェンタス騎士団領が抱える要石《かなめいし》。それを我々アートハルクに明け渡していただきたい」
 それを聞いたガラハドは思わず笑いをこぼす。
「馬鹿なことを。アートハルク帝国の、いまはなき亡霊の国の使者というわけか」
「アートハルク帝国は新たな皇帝を担いで完全に復興を果たしている。わが皇帝、火焔帝ガートルードの要求はすでに中央にも打診されていることであろう。まずひとつは中央諸世界連合の解体、ふたつ目は失われた『神の黙示録』の第一章、第二章いずれかの受け渡し、そして三つ目はフレイムタイラントを封じる要石の解放だ。アジェンタス騎士団領が要石によって封じられたフレイムタイラントから放出される霊子力の恩恵を受けていること、そしてそれを利用して作られた霊子力炉によって鉄壁の防御を保っていられたのは周知の事実だからな」
「なるほど。勧告というよりは警告に近いとんでもない要求だな」依然として冷たい口調のままの青年を見つめ、ガラハドは鼻を鳴らした。
「それで我々に要石への通路を開けろというわけか。第二の汎大陸戦争でも起こすつもりか、復興したアートハルク帝国とやらは。その要求が通らなかった場合はもちろん戦闘になると言いたいわけだな」
「閣下はなかなかの執政者であったと諸外国からも高く評価されている。騎士団領の民からもずいぶん評判がいい。聞き分けのないことを言ってごねるどこかの国王とは格が違うのではと思いましてね」
 ここではじめて、青年は肩をすくめて笑った。だが、人を小馬鹿にしたような目だけはいまだ鋭く、どんなときにも笑うことはないようだ。
「それで、私にどうしろと」
 ガラハドが静かに尋ねる。尋ねられた青年は小さく鼻を鳴らし、そして赤茶色の長い髪をめんどうくさそうに掻き上げた。
「おわかりのはずだろう。ガラハド提督」
「私は辞任を表明している。提督と呼ばれるのは不本意だが」
「しかし、後任が決まるまでの間は、あなたはアジェンタスの最高権力者だ」
 沈黙が流れる。ふたりはしばし見つめ合い、お互いの視線を逸らすことはない。ガラハドは青年の腰に下げられた剣の鞘に目をやり、その剣が鞘に入った状態でも禍々しい気を放っているのに密かに眉をひそめた。大使だなんてとんでもない。この男は戦う気でここへやってきたのだ。
「貴公の名前を聞いておこうか」
 ガラハドはいたって冷静な表情を崩さぬまま、青年を見つめてそう言った。
「……アトラス・ド・グレナダ。もっとも、グレナダ公国はとうに壊滅状態だ。真紅の竜騎兵《クリムゾン・ドラグーン》とでも呼んでもらおうか」
 その名を聞いて、ガラハドの眉がぴくりと動いた。
「アトラス・ド・グレナダ……。グレナダ公国、アルハーン大公のご子息か。それがなぜアートハルク帝国の手先になどなり果てている?」
「手先とは心外だ。俺はこれでも火焔帝ガートルードの片腕なのだが。いや、能書きはいい。答えはイエスかノーかどちらかだ」
 青年は腕を組み、椅子に座ったまま冷静に自分を見据える提督を見つめ返した。しばし沈黙が流れる。やがてガラハドはその沈黙を破り、不敵に微笑んで見せた。
「……アジェンタスを見くびってもらっては困る。アジェンタス騎士団は、決してアートハルクのいいなりにはならぬ!」
 ガラハドの答えを聞くと、青年が小さくため息をついた。そして、その腰に下げられた剣に手をかけ、ゆっくりと抜きはらう。鞘から抜いた瞬間、その剣は暗黒の炎を吹き上げ、さきほどから放っていた禍々しい気がよりいっそう強くなった。
「……残念だな。あなたのような優秀な指揮官を失うとは」
 ガラハドも静かにそばに立てかけてあった剣に手をかけた。鞘なりの音とともにガラハドの愛剣が姿を現し、ガラハドは心を落ち着けるために目を閉じた。そして小さく息を吐き出すと、剣の柄に軽く口づけをし、構えた。
「閣下! アジェンタシミルが何者かに包囲されていると報告を受けましたがいったい……!」
 廊下を走ってくるスナイプスの声。ガラハドは剣を構えたまま顔をしかめた。
「……なるほど、最初からアジェンタシミルを攻撃するつもりで兵を率いてきたとはな……!」
 苦々しげに言うガラハドに、アトラスは不敵に微笑んで見せた。同時に剣から吹き上げられる炎がよりいっそう輝きを放つ。この青年が持つ剣はふつうの剣士が手に取れるシロモノではない。魔剣。おそらく悪魔に魂を売ったもののみが手にすることのできる邪悪な剣に違いない。そしてそんな輩を右腕に据える火焔帝は中央を敵に回して、本気で戦争をはじめる狂人に違いない。ガラハドは相手の動きを見逃すまいとじっと青年を見つめるが、冷静に相手を分析していた。向こうもこちらの動きを待っているはずだ。あの剣に捕まらないように受け流していけば、あるいは。
「閣下!」
 スナイプスが駆け込んできた。そこで彼は睨み合うふたりの剣士の姿を見て息を飲む。それを合図にしたか、アトラスは振りかぶり、ガラハド目がけて炎を吹き上げる魔剣を力一杯振り下ろした。






 結局セテはナルダという中央に詳しい情報屋の帰りを待ちながら、『暁の戦士』で二、三日の間ただ働きをすることになった。店主であり、傭兵組合の頭でもあるキースは人使いが荒く、昼間の傭兵連中との立ち回りのあとはセテに店内をきれいになるまで掃除させ、夜の部が始まる夕方からは厨房と店内の注文聞きを任せた。しかし、何度かキースに怒鳴られながらもセテは見事に店内を切り盛りしてみせたので、ピアージュもキースも、もちろん常連客と見せかけた傭兵連中もずいぶん彼を気に入ったようだった。
「まったく。まさかこんなところで働かされることになるとはな」
 閉店後、片づけが終わったセテはやっと一息つけるとばかりに大きく伸びをしてみせた。前掛けをつけさせられてくるくる店内を走り回る姿は、それはそれは見物だった。ピアージュはくすくす笑いながらセテをつついた。
「でもセテにこういう才能があるとは思わなかったよ」
 言われて、セテは照れくさそうに前髪を掻き上げて笑った。
「まぁ学生時代は自分で料理もやったし、それに、こういう店をやってみたいと思ったこともあるからな」
「ヘンなの。剣士じゃないセテってすっごい不思議。違和感ある〜」
 ピアージュがいまだにくすくす笑いので、セテは怒ったような素振りで彼女を見つめ、大きなため息をついた。
 考えてみればロクランでの王立騎士大学在学中の四年間は、セテにとっては剣一辺倒で過ごしたといってもいいくらいだった。入学する際に給付が決まった奨学金のおかげで、ほかの同期の連中と違って小遣い稼ぎをする必要もなかった。そのせいでずいぶん経験できなかったことも多かったが、レトをはじめとする同期の連中と自宅で飲む際には、いつも手料理を振る舞ってやったくらいの腕の持ち主でもある。故郷を離れて暮らすために仕方なく始めた料理が、いつしか剣以外の取り柄といえるほどになっていたくらいだ。元来宴会好きであるという性格も手伝ってか、案外自分はこういう商売を始めたらうまくいくのではないかと、セテは内心満足していた。
「ああ、セテ、お疲れだったな。お前さん、こういう仕事も割と得意なんだな」
 厨房からキースが出てきてセテをねぎらう。とても傭兵組合を束ねるとは思えない前掛け姿が、ある意味異様だ。
「あんただって、とても剣を握るような人には見えないよ」
 セテが返すので、キースは大笑いをした。
「お互い様だろ。生きていくためにいろんな特技を身につけておくのが賢明ってもんだ。特使をクビになったら、冗談抜きでうちに来いよ。三食付きの住み込みで働かせてやる」
「ご丁寧にどうも」
 セテは慇懃に礼をしながら前掛けをはずした。
「お、そうだ。上に部屋があるから適当に休んでくれていいぞ。今日は宿泊率ほぼゼロだから好きな部屋を使ってくれてかまわん。ルドルフにはきつーく言っておいたし、寝込みを襲われることはないだろうから安心してくれ。ちなみにあいつは二階に部屋を取っているんでな、三階あたりを使えばいい」
「つまり、過去にあいつに寝込みを襲われたやつがいるってことね」
 セテは昼間にちょっかいを出された男色の巨漢を思いだし、身震いした。キースはああ言ってくれたものの、念のために飛影をつっかえ棒にして防御しておくほうがいいかもしれない。
「明日は六時にたたき起こすからそのつもりでさっさと寝ておけよ」
 キースはセテにそう言い、厨房に引っ込んでいった。セテは曖昧に返事をして階段を登る。
 街にあるこうした居酒屋の上はたいがい宿屋になっており、大昔の簡易ホテルのように料理屋と宿屋を兼業している場合が多い。こういった小規模な宿屋のほかにも、立派なたたずまいの旧世界《ロイギル》風の贅沢なホテルはもちろんあるのだが、旅慣れた旅行者には小さなところの家庭的なもてなしがとても受けているのだった。
「六時だって。そんなに早く起きるの久しぶりだわ」
 セテの後ろからついてくるピアージュが漏らした。傭兵や殺し屋をやっていると夜型に慣れてしまうのだろう。対して騎士団での寄宿舎生活を耐え抜いたセテは早起きは得意中の得意だ。
「お前はそんなに早く起きる必要ないんじゃないの? 働かされるのは俺だし」
「うーん、でも、ひとりで寝てると悪いじゃない。そもそもここに連れてきたのはあたしなわけだし、こんなことになったのもあたしの責任でもあるわけでしょ」
 そう言ってみせるのだが、ピアージュが本気で悪いと思っているようにも見えないので、思わずセテは悪態をついた。
「悪いけど、俺はものすげー早起きだからな。朝一番でたたき起こしてやるよ」
「サイアク。あんたが特使だったっての忘れてたわ」
 ピアージュは顔をしかめて毒づいた。
 階段を登ると二階はすべて客室になっており、こじんまりとした部屋が十室程度並んでいる。三階には六部屋程度、そして最上階の四階はキースの部屋と、そして傭兵組合の会合が開かれる広間があるのだという。男色の巨漢ルドルフが二階に部屋を取っているということで、ふたりは三階の部屋で休むことにしたのだった。
 そう言えば、ピアージュとキースの関係を詳しく聞けなかったな。セテはふと思い、野暮だと思ったがどうしても彼女の口から聞いてみたいと思った。ピアージュを見たときのキースの喜びようはただごとではなかったし、昼間の立ち回りで勢い余って止めに入ったキースを殴り飛ばしたときのピアージュの激怒具合といったらなかった。もしかしたら彼女にはあの孤児院以外に、帰るところがあるのかもしれない。
「あのさピアージュ、野暮なこと聞くようだけど、お前ってもしかして……」
 言いかけてセテは口をつぐんだ。なんだかあまりにも馬鹿なことをしていないか。しかし、ピアージュがけげんそうな顔をして自分を見つめているので、セテは言いかけてやめるのもヘンだと思い、先を続けることにした。
「いや、あの、キースって、お前とどういう関係なの? なんかすごい親しそうだし、もしかして付き合ってたりしたことあるのかなーとか思ってさ」
 なんて自分は間の抜けたことを言っているんだろうと思いながら、セテは前髪を掻き上げた。ピアージュが驚いて目を丸くしているので、セテはばつが悪くなり、話を切り上げて部屋に入ろうとしたそのとき。ピアージュが大爆笑したのだった。
「なにを言い出すかと思ったら、セテってばそういうふうに見てたんだ。おっかしい〜!」
「なんだよ、そんなに笑うことないだろ」
 やはり自分はおかしなことを言ったのだろうか。セテが対応に困っていると、
「キースはね、最初にあたしを傭兵組合に誘ってくれた恩人だよ。アジェンタスにきたとき、宿も仕事もなくてうろうろしていたときに声をかけてくれたんだ。ぜんっぜん恋人とかそんなんじゃないって。だって二十も年が離れてるから兄貴みたいなもんだし、キースにはちゃんと奥さんがいたんだもん。病気で死んじゃったらしいんだけどね。いまでも奥さん一筋のかたーい男だから、女っ気はぜんぜんなし。これで満足した?」
 ピアージュの説明でほっとしている自分がいることに、セテはたいへん驚いていた。なんなんだろう。なんだかくすぐったい。そんなふうに思いながら、セテは大きく頷き返してやった。ピアージュがまたおかしくてたまらないといった様子で笑い出すので、セテは強引に話を打ち切り、とっとと部屋に入って寝ることにしたのだった。
 ベッドに座り、ブーツの紐をゆるめる。騎士団での遠征とはまったく違った立ち仕事のせいか、めずらしく足がむくんで痛い。靴下を脱いで足の裏をぱたぱたと動かしてやると、涼しい風がむくんだ足に心地が良かった。足の裏を指で押したり首を回してコキコキと関節を鳴らしているうちに慣れない仕事で思ったよりも疲れていることに気付き、セテは早々にふとんに潜り込んだ。
 明日もまた厨房と店内をくるくる動き回らなければならない。不本意ではあったが、意外にいやだと思わない自分がいて、今日はとても新鮮な気分だった。
 隣の部屋のピアージュは、階段を登っている間も大あくびをしていたのでもう寝てしまったかも知れない。ピアージュといると心が和むような気になってくるのはとても不思議だった。つい先日まで、自分を仇と追いかけ回し、殺そうとしていたなどというのが夢のようだ。セテは自分が彼女を気に入り始めているのだという事実に気付いて、こそばゆいような不思議な感覚を覚えた。彼女も自分を気に入ってくれているようだし、悪い気がしない。むしろこれはうれしいという感じだろう。ナルダという情報屋がずっと帰ってこなかった場合は、ずっと彼女と一緒にいられるのだろうか。
 馬鹿なことを。自分は特使で、この一週間の休暇が終わればロクランへ戻らなければならない。そのときには彼女との別れが訪れる。でも、もしかして彼女がロクランにまで着いてきたら? そんなことを考えていると、心がはやり、暖かくなってくる。こういう感覚は本当に久しぶりだった。
 だが目を閉じるとふと思う。もしかしたら……。
 自分はまだ許されていないかも知れない。許される? 誰に? 自分に? それとも自分が殺してきた人間に?
 眠るのが怖い。セテは枕に突っ伏し、そして独り言のようにつぶやいた。
 またあの悪夢にうなされるのが怖い、と。

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