Home > 小説『神々の黄昏』 > 第二章:黄昏の戦士 > 第四話:騒動
耳鳴りの向こうでかすかに聞こえる鐘の音。とても大きな鐘の音だろう。低く、ゆっくりと鳴るその音の回数を数えようと耳を懲らすのだが、しだいに耳鳴りがひどくなってくるのでセテは顔をしかめた。頭が痛い。耳鳴りが頭の内側で破鐘のように響く。
セテは頭を押さえながら目を凝らす。目の前には遙か前方に続く一本の道。鐘の音は道の向こうから聞こえてくるようだ。目を凝らすと、黒いフードをかぶった人の列。それが葬列で、鐘の音が葬送を知らせるものであると気付いたセテは思わず息を飲んだ。
どこだ、ここは。
見慣れぬ風景。見慣れぬ人々。黒いフードを目深にかぶり、マントに身を包んだ彼らは伏し目がちにうなだれ、とぼとぼと歩いていく。セテは彼らの横に並び、そしてそのうちのひとりの肩に手を触れた。フードがはだけ、そこから茶色い巻き毛が顔を出した。
……レト……!?
違う。レトは死んだのだ。他人のそら似だ。分かっていても心臓が高鳴り、しかしそれに反して体中から血の気が引いていく。レトによく似たその人物はセテに気付く素振りも見せず、そのままゆっくりと歩き続ける。
「お、おい!」
レトではないと分かっていても、セテはどうしてもそいつの口から聞きたかった。
「なあ、あんたら、いったいどこに行こうってんだよ」
強引に彼の肩を掴み、自分のほうに向かせる。その拍子にマントがふわりと舞った。その下には、アジェンタス騎士団のえんじ色の戦闘服があった。そしてその胸のあたりには、剣の刺さった傷跡とどす黒い血のしみ。セテは驚愕のあまり出そうになる悲鳴を抑え、ふらふらと列から離れた。何事もなかったように無表情のまま、レトの姿をした男は列に戻っていった。
──死者の参列だ。彼らはみな死者なのだ。向かっているのは冥府か、それとも──。
恐怖に震える手を口元に当て、セテは死者たちを見送る。なぜ俺はここにいる。なぜ──!?
突然セテは腕を掴まれ、びくりと身体を震わせた。振り返ると、やはり目深に黒いフードをかぶった男がセテをじっと見つめていた。男はセテが恐怖に青ざめているのを見て、満足そうに口元をゆがめた。
「満足したか」
男は低い声で静かに尋ねた。問われてセテは眉をひそめる。その間も男はセテの腕を掴んだままだったが、ぎりぎりと指が食い込むので思わず顔をしかめる。
「離せ……!」
拒絶をしようにもしわがれた声しか出ない。直感的な恐怖が身体を支配する。セテは男の指を引きはがそうとするが、男はしっかりとセテの腕を掴み、離そうとしない。
「見ろ。これはお前が殺してきた人間たちの葬列だ」
そう言って男は自分のフードを払った。フードの下から、元アジェンタス騎士団長候補カート・コルネリオの顔が覗く。セテは叫び、そしてコルネリオを突き飛ばして葬列の向きとは反対方向に全速力で走り出した。背後からコルネリオの笑う声が甲高く響いてきた。
「忘れるな! お前はあの日から血塗られた祝福を受けたのだ!」
「違う! 俺は人殺しなんかじゃない!!」
そう全身で叫んだつもりだったが、声は出なかった。恐怖と後悔、自己嫌悪と自己憐憫が交互に押し寄せて内臓を突き上げてくる感覚。吐き気に苛まれ、セテはむせながら走り続けた。だが、何かに足下を取られ、バランスを崩したセテの身体は大きく傾ぎ、そしてそのまま前方に倒れ込む。
激しく跳ね返る水音とともにセテは我に返る。先ほどまで乾いた道が続いていたはずなのに、彼はいま顎がつかるくらいの水たまりの中に突っ伏していた。その鉄臭い匂いに鼻をすする。水たまりではなく、それは血だまりであった。血に染まった前髪からぽたぽたと血がしたたり落ちていく。髪の間から覗くセテの目が、突き上げる恐怖に大きく見開かれた。目の前に広がるのは、血だまりにぽつぽつと浮かぶかつて人間の身体の一部であったもの。起きあがろうと力を入れた足首を、血の海からぬっと突き出る人間の手首にしっかり掴まえられていた。そこで一気にふくれあがった恐怖が、逃げ出せない絶望の叫びとなってセテの身体を突き抜けていた。
「セテ!」
極上の恐怖にさらされて声をあげたセテを揺り起こす手。セテは錯乱したように自分の肩を掴む手を振り払ったが、だが手の主は諦めずにセテの肩をもう一度揺らし、名前を呼んだ。背中を流れる汗の冷たい感覚が、ようやくセテを現実に引き戻した。目の前には、心配そうな表情で自分を覗き込むピアージュの顔があった。
またあの夢か……!
セテは髪をくしゃくしゃと掻き上げ、ベッドに座り直す。もう見ないだろうと思ったのに、いつまであの悪夢は自分にまとわりついてくるつもりだろうか。いや、これはコルネリオがいまわの際に自分にかけた最強の呪いだ。俺はいつまで経ってもコルネリオの呪縛から離れることができない。そう思いながら、セテは自虐的なため息をついた。
「ごめん、ずいぶんうなされていから様子を見に来たんだけど……」
ピアージュはおどおどした様子で小声で話しかける。セテがまだ錯乱していると思っているのだろう。
「だいじょうぶ、なんでもない……」
セテはピアージュの顔を見ようともせずにつぶやいた。もしかしたらこれもまだ夢の続きかも知れない。そう思うとピアージュを見るのが怖かった。
「すまん、起こしてしまったな。たまにあるんだ。最近、夢にうなされる」
セテは顔を両手で覆いながら、呼吸を整えるように大きく息を吸い、はき出す。ピアージュはセテの肩を軽くさすってやりながら、遠慮がちに口を開いた。
「セテ、なにか心配ごとでもあるの? もしよかったら……」
「心配ごとなんかない。ただ……」
自分が罪悪感にまみれて見る夢が怖い。自分の罪を糾弾するその夢に、負けそうになる。そう言えたらどんなに楽になるか。
「ピアージュ。コルネリオに飲まされた薬……あれって……副作用とか、禁断症状とか、変な後遺症みたいなものって残るのかな」
セテはできるだけ平静に尋ねようと声のトーンを落とした。ふつうの人間を一瞬にして超人に変えてしまうという、偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の残した処方箋から開発された恐るべき秘薬。ピアージュも自分も、そんなものを飲まされたのだ。しかも自分が飲まされたのは完成したものだと言っていた。なにか影響が出ないはずがない。
「……セテが飲んだのはシュトロハイムが後期に開発した純度の高いものだから……それに常用もしていなかったし、問題ないと思うけど……」
ピアージュはためらいがちにそう言った。彼女は完成度の低い薬を常用することによって中毒になったのだ。
「例えば、たまに人を殺したくなる衝動だけが残るとか、そんなことは?」
「セテ、もう寝たほうがいいよ」
ピアージュに遮られてセテは力無く頷いた。あの薬のおかげで、自分が何十人ものコルネリオの配下を狂戦士《ベルセルク》のように斬り殺したのではないか、そう思いたかったのに。
「……ああ、そうだな……」
またあの夢を見るくらいなら寝ないほうがましだ。だが、
「セテ、もしひとりで寝るのがいやだったら、あたし朝までここにいるけど?」
ピアージュの言葉にセテは目を丸くした。そう言えば彼女の特技のひとつに、人の心を感じ取るというのがなかっただろうか。自分の不安を見抜かれたのだろうか。そんなことを考えながら目を丸くしているセテに、ピアージュは、
「あ、いや、そんな変な意味じゃなくてさ。枕と毛布だけ持ってきて、そこのソファで横になってるから。何かずっと話してれば落ち着くと思うし」
女の子と同室で、だなんてとんでもない。セテはあわてて首を振り、
「いや、ありがとう。だいじょうぶだよ」
「もしかして遠慮してる?」
「遠慮、とかじゃなくて……」
「女の子といっしょの部屋でどうこうってのが気になるの?」
ピアージュが意地悪そうな笑みを浮かべてそう言ったので、セテは「うん、まぁ」とあいまいな返事を返してみせた。
「セテって案外カタいんだね。いまどきそんなの気にして遠慮する男がいるとは思わなかった」
ピアージュはケラケラと笑い出した。思わずセテがムッとするのだが、
「じゃあここで何か話してようか。朝まで」
ピアージュはにっこりとセテに笑いかけ、そう言った。つられてセテも思わず微笑み返す。気休めでも、誰かと話をしているほうが安心する。さっそくピアージュは自分の部屋に帰り、それから毛布と枕を難儀そうにセテの部屋に運び込んだ。
「セテは誰を捜してるの?」
ピアージュはベッドの向かいの固いソファに座り込むと、あぐらをかいた上に毛布と、あごを載せるための枕を乗せた。
「ああ、パラディン・レイザークって人」
「パラディン? 聖騎士なら中央諸世界連合のしかるべきところにいるんじゃないの? どこかの守護剣士とか、そうでなくても中央の圏内にはいるでしょ」
「それが、ずいぶんな風来坊なヤツらしいんだ。あちこち旅して回ってる、とてもひとりの君主におとなしく仕えるような男じゃないらしい。どこにいるか皆目見当が付かなくて困ってる。この一週間の休暇の間に、なんとか探し出したいんだけど」
「辺境まで探しに行くわけにいかないもんね。聖騎士なんかに会ってどうするつもりなの? 親の仇とかなんとかそんな類?」
「んーーまぁ当たらずとも遠からずっていうか……敵じゃないよ。ただ会って話がしたいだけ」
確かにレイザークに負けて挽回の機会をうかがってはいたが、それはもうセテにはどうでもいいことだった。いまはレイザークに会って彼の人間味に触れてみたいし、十七年前、彼がレオンハルトとヴァランタインを訪れたときに起きた今回の事件と酷似した事件の真相を、彼の口から聞いてみたい。
「セテは聖騎士になるつもりなの? レイザークって人に弟子入りするとか?」
久しぶりに聞いたような気がする。聖騎士になる。その夢をまだ諦めたわけではないのだが、ずいぶん遠回りしてきたような気もする。中央特務執行庁に戻り、特使の仕事をこなして経験を積めば、あるいは道が開けたりするものなのだろうか。
「聖騎士になりたいよ。本当に。実力はまだまだだけど」
ふいに訪れる懐かしさと憧れ。聖騎士レオンハルトへの思慕。
「だいじょうぶだよ。セテならきっとなれる」ピアージュがにっこりと笑いながらそう言った。
「だって、あたしの剣をかわした男はセテがはじめてだもん。セテなら絶対聖騎士になれるよ。だってセテはあたしの……」ピアージュはそこで口をつぐみ、困ったような顔をしてセテの顔を見つめた。
「セテは好きな子とかいないの?」
「へ?」
突然の話題転換にセテはとまどう。
「あ、やっぱりいるんだね」
ピアージュが意地悪そうに笑いながらそう言った。セテは諦めたように肩を落とすと、
「正確には『好きだった子』だけどね。振られた」
「うそ〜! セテが振られちゃったの? 信じられない! なんかセテってすっごくモテそうだし!」
「ヒトのレンアイなんてそんなもんでしょ。うまく行くばっかりじゃないし」
セテはため息をついてそう言った。レンアイ、なんて偉そうなことを言ってみたのだが、よく考えてみると、自分はサーシェスのことを本当に好きだったわけじゃないのかもしれない。彼女の影に、自分が十年前に見た救世主《メシア》の姿を映してしか見ていなかったのだから。
「でも……セテ、その子のこと、すっごく大切に思ってる」
言われて、セテはピアージュの顔を見つめ返した。大きな瞳でじっと自分を見つめているピアージュが、きっと自分の心の中を走査しているのだろうと思って心臓が高鳴る。
「なんとなく、分かるよ。その子、すごくきれいな子だよね。髪もきっと長くて、あたしなんかとは違ってずっと女らしくて、その子もセテのこと大切に思ってる」
まるで独り言を言うような寂しそうなピアージュが意外だった。沈黙が流れる。セテは何を言おうか頭を巡らすのだが、なかなかいい言葉が見つからない。
「……どう? 当たってる?」
先に沈黙を破ったのはピアージュのほうだった。いたずらっぽく笑いながら彼女は言ったのでセテはつられて微笑み、軽く頷いて見せたのだったが、どこか彼女が寂しそうに見えるのが不思議でならなかった。ふいに訪れる間がいやで、セテは間髪入れずに切り返す。
「俺のことばっかりじゃないか。お前はどうなんだよ」
「あたしのことなんかなにも話すことないよ」
ピアージュがからかうように言った。
「なんだよ。俺にばっかいろんなこと聞いて。俺、思ったんだけどさ、ピアージュはずっとここで」
「あ〜あ、なんだか眠くなっちゃったからここで寝てもいい?」
セテの言葉を遮るようにピアージュは大あくびをした。あっけに取られているセテを後目に、枕を頭のほうに持ってきて毛布を頭からかぶり、その中に潜り込む。当てつけにわざといびきをかいてみせるので、続きを話せるものではない。セテは仕方なく自分もベッドに潜り込み、そしてまぶたを閉じる。彼女が同じ部屋にいることで、今度は少し楽になれそうな気がした。もう、あの悪夢は見たくない。そう思いながら心の中で神々に無言の祈りを捧げる。そうしているうちにいつか、セテは旅の疲労に負けて眠りについていた。
翌朝、ふたりは朝食を済ませ、名残惜しそうにしているイルマ院長と子どもたちに見送られながら孤児院を出た。ピアージュは彼らに、また落ち着いたら遊びに来ると約束をして。そしてセテは、ものは試しと院長に自分の尋ね人について尋ねてみた。
「聖騎士のような立派な人が、こんな辺鄙な街にくるなんてあまりないことですよ」
予想はしていたのだが、セテは内心がっくりと肩を落とした。広いエルメネス大陸をひとりで、しかも一週間で探して回るのは、さすがに無謀かも知れないと不安になってくる。
ふたりは手を振り続ける子どもたちを何度も何度も振り返りながら、元来た道を歩き出した。振り返るたびにピアージュが微笑むのが、なんだかまぶしく見えた。
「さてと、それでセテはどのあたりを探すつもり?」
孤児院が見えなくなった辺りでピアージュはセテを振り返り、興味深そうに尋ねた。
「全然あてがない。とりあえずロクランまで戻ってみようかなとか思ってるけど」
セテは肩をすくめて見せた。あの熊のような図体の聖騎士が、なにかの作戦あるいは要請を受けてロクランを訪れていれば、あの周辺にはいるはずなのだが確証はない。面倒ではあるが、もう一度中央特務執行庁のロクラン官舎を尋ねてみたほうがいいのかもしれない。
「ロクラン? うーん、それもいいと思うけど、あたしにちょっと考えがあるんだよね」
「なんだよ、考えって」
「あのさ、一緒にベルナスまで行こうよ」
「ベルナス!? また寄り道かよ! ここからまた馬車で戻るのか!?」
セテが声を張り上げたので、そばでひなたぼっこをしていた老夫婦が驚いて彼らに振り向いた。ピアージュは老夫婦の視線に気付いてセテをなだめるように、
「まぁまぁ、そんなに怒らないで。あたしも新しい『仕事』がほしいし、セテにとっても重要な情報源になると思うんだ」
そう言ってピアージュは渋るセテの腕を掴んで歩き出す。ふたりの姿がほほえましく見えるのか、ひなたぼっこをしている老夫婦が目を細めながらにこにこ彼らを見守っていた。
「情報源ってなんだよ」
セテが不服そうに尋ねる。ピアージュはずいと顔を近づけて、低い声で、そして念を押すように言った。
「いい? 絶対に自分が中央特務執行庁の特使だってこと、口に出さないって約束してよ。それから、多少の違法行為は目をつぶること。いいよね。いまは休暇中だもんね」
なんだか物騒な気がしなくもない。セテは生返事を返すのだが、あまりいい予感がしないので不服そうにピアージュを睨み付けた。それを受けてピアージュは口をへの字に曲げてみせた。どうやらセテのマネをしているらしい。
「ベルナスに傭兵組合があるの。ここらへんじゃ傭兵はみんなそこへ行って仕事をもらうんだ。ま、いわば『たまり場』ってやつ。見かけはただの居酒屋なんだけどね。そこら中から腕に自信のある傭兵がやってきて、自分に合った仕事を斡旋してもらうの。そこには中央諸世界連合専門に情報を集めてる奴もいるから、聖騎士のことならあそこで尋ねてみたほうが絶対早いって」
セテは思わずため息をついた。いやな予感は的中したのだ。
「分かったよね。絶対、中央特使だなんて言わないこと。やつら中央を目の敵にしているから、そんなこと言ったら最後、囲まれてボコボコよ」
ピアージュは不機嫌なままのセテを引き連れてベルナス行きの馬車に乗り込み、ドルマンからアジェンタシミル側へ戻ることおよそ一時間。ふたりを乗せた馬車はベルナスの街に到着した。ベルナスはアジェンタス騎士団が携行用に使う発光エッグにも使われている発光塗料の産出地としても有名で、汎大陸戦争前に使われていた製造方法をそのまま引き継いだ工場があるおかげで、ずいぶん裕福な街でもある。町並みのあちこちにわざわざ発光塗料を使った看板が見られる。特に繁華街では看板がひしめきあっているので、夜ともなれば蛍のように輝き出すのがいっそうきらびやかで毒々しいことでも有名だ。
ピアージュがやってきたのは、そんな華やかな看板を掲げた立派な門構えの居酒屋だった。『暁の戦士』と看板には中央標準語と、辺境で見られるいくつかの言語で丁寧に書かれている。ロイギル時代の影響を受けているのか、アジェンタスではあまり見られない大きな木の扉が左右から内側に向かって開く形になっており、扉を開けると家畜の首に備え付けるような大きな鈴がいっしょに揺れて、派手な音をたてた。まだ日も高いというのに、カウンター席テーブル席と言わず、数多くの男たちが座って談笑していた。彼らがすべて傭兵なのかと思うと、セテの頭はくらくらする。物騒な組合もあったもんだと、セテは自分の無知さ加減にため息をついた。
「いらっしゃい」
カウンターの内側で皿を磨きながら客と談笑していた男が声をかける。入ってきた客の品定めをするかのように鋭い視線でこちらを一瞥するのだが、先頭に立っているピアージュの姿を見るなり、彼の目が大きく見開かれた。
「ピアージュか?」
男は彼女をじっと見つめたまま尋ねた。
「久しぶり。元気そうでなにより。ずいぶん儲かっているみたいじゃない」
ピアージュが笑い返すと、男はカウンターの内側から飛び出してきてピアージュを抱きしめた。あっけにとられるセテの目の前で男はピアージュの両頬に軽くキスをし、ピアージュもうれしそうに返した。セテはなんとなくそれが気に入らなくて、思わず顔をしかめた。
「なんだよ、おい、例の仕事が厄介だなんて聞いてたから、ずいぶん心配したんだぞ」
「うん、まぁ確かに厄介だったけど、雇い主が死んだから仕事も終わり。次の仕事がほしくてね」
コルネリオの依頼か。セテは改めて彼女が傭兵稼業に身を置いていることを認識した。ここで彼女を見つけだしたコルネリオの情報網も侮れない。
「そっちのお兄さんは?」
男がセテに気付いて尋ねた。
「ああ、ごめん。あたしの恩人なんだ。彼もちょっと情報がほしいってんで連れてきたの。セテ、こいつがここの店主のキース。ずいぶん昔から世話になってるんだ。キース、彼はセテっていって、その、まぁちょっといろいろアジェンタシミルで仕事してるんだ」
「へえ、アジェンタシミルかい。あそこは騎士団がうるさくて仕事がやりにくいだろ」
キースと呼ばれた男はセテに手を差し出し、セテも軽くその手を握り返し、曖昧に返事を返した。確かに、こんなところで自分が中央特使でアジェンタス騎士団に出向して任務をこなしてきた、なんて言おうものなら、何が起こるか分かったもんじゃないとセテは内心冷や冷やだ。
「ところでキース、仕事の話の前にあいつ来てる? ナルダ。セテが聞きたいことがあるらしいんだけど」
「ああ、ナルダか、二、三日見かけないな。最近はもっぱらアジェンタス騎士団の動向を探るのに忙しかったみたいだけどな。なんでもアジェンタシミルじゃあとんでもない事件があったんだってな。俺にはよくわかんなかったんだが、霊子力炉とかなんとか、そんなのが二百年ぶりに発見されただのなんだの」
キースの言葉に、セテとピアージュは互いの顔を見合わせて顔をしかめた。アジェンタス騎士団の、しかも一部の人間にしか知らされていないことまで掴んでいるとは。
「ああ、すまん。客をこんな店先で立たせておくなんてな。まぁかけてくれ」
キースに促されて、ふたりはそばの席に腰掛けた。店主は形ばかりに店のメニューを差し出し、にこやかに笑いながらセテに言った。
「ここにないものでも注文してくれてだいじょうぶだ。好きなもん頼んでくれ。俺もずいぶんピアージュには世話になってるから、お代はけっこうだ」
「だってさ。セテは何飲む?」
「……ビール」
「意外に堅実なのね。じゃ、キース、ビール二杯。泡たっぷりでね。それからなにか適当に見繕って」
ピアージュの注文にキースは快く返事をし、厨房に戻っていった。
セテは椅子に深く腰掛けて大きなため息をつくと、店内をぐるりと見渡した。一部はふつうの旅行者や街の人間も混ざっているようなのだが、それ以外のほとんどが腰に剣を下げている。アジェンタス騎士団では腰に剣を下げて街に飲みに出ることは禁止されていたので、なんだか落ち着かない。
「なに緊張してるのよ」
ピアージュがからかうようにそう言った。セテは困ったような顔をして、
「なんか周りの人間全部が敵に見えて落ち着かないよ」
ピアージュがまたまた笑った。
「勉強になったでしょ。傭兵組合なんてここだけじゃなくてあちこちにあるんだよ。中には頭のいいやつもいて、傭兵相手の保険契約なんて商売もあったりして」
「保険ねぇ」
セテはまたため息をついた。
「あたしたちはここで仕事を斡旋してもらったら、報酬の一割を組合に上納することになってる。仕事はけっこう頻繁にあるもんでさ、大きな声では言えないけど、やんごとなきご身分の方からの暗殺要請もあったり、なにか内乱とか紛争とかあった場合には大勢が組合から派遣されるからね。組合側は儲かる儲かる」
「違法どころか、倫理に反してないか」
「セテってばまじめなのねぇ。傭兵組合はきちんと自治で成り立っているのよ。人殺しが大好きでしかたない、みたいなキチガイは絶対に組合には加入できないし、組合に加入している者で規約に反したら、追い出されるか、もしくは」
ピアージュはそこで首を切るマネをして見せた。
「ちゃんとした規律があるから、あたしたちは安心して仕事ができるってわけ。まぁセテは信じたくないでしょうけど、アジェンタス騎士団だってずいぶん組合がお世話してるのよ」
「……俺、なんか人間不信に陥りそう」
騎士団が傭兵組合とつながっているなんて、セテにはまったくもって信じられない事実だ。世の中の裏側を彼はまだ知らないのだと、ピアージュにとってはほほえましいことではある。
キースがふたりにビールを注いだ大きなジョッキと、腸詰めを盛りつけた皿を持ってやってきた。ふたりはジョッキをカチリとならして乾杯をし、一口目を乾いた喉に流し込んだ。が、それを見届けたキースが口を挟む。
「すまんな、ピアージュ、ちょっと来てくれ」
キースは裏口を指す仕草をしてピアージュを促した。ピアージュはわかったと小さく頷くと、
「ごめん、ちょっと裏で話をしてくる。すぐ終わるからここでおとなしく待ってるのよ。周りは酒が入って、しかも血の気の多い連中ばかりだから、なにか聞かれても滅多なこと口に出しちゃだめよ」
ピアージュはまるで子どもに念を押すようにそう言って立ち上がった。セテは自分が子ども扱いされたのが気に入らなかったのか、生返事を返してジョッキを煽ってみせた。
ピアージュが席を立ったことで、店内の様子が一変したのをセテは肌で感じ取っていた。さきほどまでは興味がなさそうだった店内の連中が、ちらちらと自分を見ながら相方と何かをつぶやいている。なんだかいやな気分だ。セテは自分が品定めをされているようなのが気に入らず、だが努めて平静を装って皿の上に豪勢に盛られた腸詰めをフォークで突き刺した。
腸詰めは香辛料がほどよく利いてとてもうまい。傭兵組合の隠れ蓑ではあっても、料理店としての腕はなかなかのものだとセテは満足だ。ぱりぱりした歯ごたえが心地よい。テーブルに並べられた調味料のなかから食卓塩を掴み、腸詰めに添えられた野菜にひとふりして、フォークでくるくる器用に腸詰めに巻き付けて口の中に放り込んだ。できればこの腸詰めの作り方も教わりたいと、密かにセテは思った。
「よう、兄ちゃん。あんたピアージュの情夫《いろ》なのかい」
声をかけられて振り返ると、真後ろに立っていたのは天を突くかのような大男。しかも横にも広い。筋肉の上に余計な脂肪をのせて無理矢理作り上げたような不細工でぶよぶよした肉体に、ちょこんと脳の足りなそうな頭が乗っかっているのが印象的な男だ。セテのいちばん苦手なタイプで、生理的嫌悪感が走る。アジェンタス騎士団にはこうした巨漢はひとりもいない。余計な脂肪は自己管理能力の欠如と見なされるので、みな必死になって脂肪をこそげ落とすのだが。強そうに見えるが、頭の中はきっと空っぽで、腕力だけでわたってきた類の男だろう。
「いや、俺はただの友達だよ」
嫌悪の表情を出すまいと、セテは相手を見ないようにあわててジョッキに口を付ける。
「そうか、友達か。いや、ピアージュの男だったらどうしようかと思っていたところだ」
こんな不細工な男にピアージュが惚れられているのだとすれば哀れだ。セテは密かに眉をひそめた。男は無遠慮にさきほどまでピアージュが座っていた向かいの席に腰掛け、ピアージュが飲み残したジョッキを拝借する。男はうまそうにピアージュのビールを飲んでジョッキを置くが、その際に盛大なげっぷをしてみせた。
「あんたも仕事をもらいに来たクチかい」
男が尋ねるので、セテはまた男の顔を見ないように腸詰めにフォークを突き立てた。
「いや、俺は人を捜してるだけだ」
「へえ、人捜しかい。誰かの依頼ってわけだな。人捜しは割に合わねえ仕事だよな。歩き回るばっかりで時間もかかるし、自慢の剣も振るえやしねえ」
そうだな、とセテはあいまいに相づちを打った。頼むから早くあっちに行ってくれ、俺はぶよぶよしたヤツがいちばん嫌いなんだと心の中でつぶやき、自分をほっぽりだしたピアージュを呪う。
「しっかしあんた、間近で見るとホントにきれいな顔してるなぁ。さっき入ってきたときから気になってたんだけどよ」
男のひとことにセテは凍りつく。そうきたか。この男の興味の対象がピアージュではなく、自分だったとは。即座に全身が泡立つ。この手の輩が次に言う言葉は目に見えていた。
「俺、上に部屋ァ取ってあるんだけどさ。金は払うからどうだ、一晩」
セテはジョッキを口に付けながら男を睨み付けた。こめかみの血管がぴくぴくいって、眉間のしわがますます深くなる。いつもならこの瞬間に殴りかかっているところだが、ピアージュにおとなしくしろと言われた手前もあり、ここは音便に追い払いたい。
「悪いけど、俺、ブヨブヨしてるヤツはあんまり好みじゃないから」
そこで目の前の男が盛大に笑い声を上げた。セテもつられて笑ってやった。早くいけ、このクソ野郎と心の中で罵りながら。だが、男は諦めるどころか、今度はセテの手の上に自分の手を重ねてきた。驚いてセテが身を引こうとしたので、ガタンと椅子が大きな音をたてた。そこで周りの視線がいっせいにセテに注がれる。
「見かけによらず口が悪いなぁ、兄ちゃん。でもそういうのもいいなァ。じゃあ八百、八百でどうだよ。悪くないだろ。俺ァあんたみたいなの、すっげー好みなんだよ」
デブでバカで男色の三重苦だな。セテはこめかみがますますピクピクするのをこらえるが、男はかまわずにセテの手をなでる。ヒルのように湿った手が吸い付いて気色悪い。つま先まで悪寒が走る。
「……さわんじゃねえよ、ブタ野郎」
セテは低い声でそうつぶやいた。途端に男の表情が凍りつく。それが見る見るうちに赤くなっていったかと思うと、男はのっそりと立ち上がり、セテを見下ろした。そのまま早くどっかに行ってしまえと思いながら、セテは平然を装ってビールを煽った。だが、次の瞬間に胸ぐらを掴まれ、セテはあっという間にテーブルの上にひっくり返されていた。一般の客が驚いて立ち上がり、そそくさと会計を済ませて出ていくのが視界の端に見えた。
「気の強いのも好みなんだが、ちょっと口が悪過ぎやしねえかい」
男はテーブルの上にセテを抑えつけ、にたりと口をゆがめて笑った。頭が悪いとお決まりの行動にしか出られないんだなと、セテは悠長に思いながら男を睨み付けるのだが、ぐいと胸ぐらを締め付けられ、苦しさに顔をしかめた。とっさに腰の剣帯に結びつけた飛影に手をやるが、そこでいったん舌打ちして手を引っ込める。
「てめえみたいなブタにカマ掘られるくらいなら、死んだほうがマシってことだよ!」
セテは自由の利く足で男の腹を蹴り上げた。予想もしていなかった反撃に男の身体は大きく揺れ、そして後ろのテーブルに当たって派手に転がった。店内で見ていた傭兵連中が歓声を上げ、ふたりの立ち回りに野次を飛ばし始めた。
逆上した男は即座に立ち上がり、そして自由になったセテに拳を振り上げる。セテは男の拳を器用によけながら後退し、掴んだ皿を男の頭に投げつける。見事に命中するのだが、怒り狂った男には通用しない。そのうちに男はセテのシャツの裾を捕らえた。ぐいと引っ張られ、セテの身体がバランスを崩して大きく揺れた。それを勝機と取った男はそのままセテに足をかける。セテが派手に床に倒れ込んだその上から男は馬乗りになり、髪を掴んで動きを封じた。獲物の捕獲に成功した男の背後から、再び歓声が巻き起こった。
「はっはあ〜! 掴まえたぞ! 往生際の悪い小僧はこの場でいただいちまおうか!」
男が背後の傭兵たちに自慢げにそう叫ぶと、周りの連中が腹を抱えて笑い出した。男は満足げな顔で周囲を見回し、そしてついに捕らえることに成功したセテを振り返ろうとするが、
「ぐえっ!!」
カエルの鳴くような声とともに男はのけぞり、そして白目をむいて後ろに揺れる。男の股間にはセテの飛影の鞘が押し当てられていた。セテが剣帯からはずれた飛影をぐいとさらに突き上げると、男はそのまま仰向けに倒れ、自分の股間を大事そうに押さえたままピクピクと痙攣を起こして沈黙した。
「ふん、てめえのお粗末なイチモツだけが弱点だったようだな」
セテは起きあがって剣帯に飛影を結びつけると、倒れている男に嫌悪もあらわに唾を吐いた。店内からどよめきが起こり、またまた野次が飛んだ。と、そのとき。
「気を付けろ! そいつは中央特使のイヌだ!」
店内の誰かが叫ぶ声。そして周りで見ていた傭兵連中が再び騒然とする。セテは舌打ちをし、そして構えた。席で見ていた周りの傭兵たちがそれを合図にでもしたかのように、一斉に立ち上げってセテを睨み付けた。セテが忌々しげにため息をつくと、男たちは奇声を上げ、こぞって拳を突き出して殴りかかってきた。
奥のほうからピアージュがあわてて飛び出してくる。そしてその騒然とした店内を見てあんぐりと口を開けた。後ろのキースも呆れたように肩をすくめ、そして大きなため息をついたのだった。
「ちょっと! セテ! おとなしくしてろって言ったでしょ!!」
ピアージュがそう叫ぶと、店の連中のほとんどを殴り倒したセテが肩で息を切りながら、ものすごい顔で睨み付けるように振り向いたのだった。