第三話:心のある場所

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 辺りは一面の平原。ひょろ長く頼りない木々がぽつぽつと突っ立っている以外は、草むらが無造作に広がるだけだ。初秋の優しい風が草原に申し訳なさそうに咲く小さな花々をなでていき、次の集落まで果てしなく続く道を駆け抜けていく。
 アジェンタス全土を覆う偉大なるアジェンタス連峰と大平原。セテは馬車の窓からぼんやりとその風景を眺めていた。アジェンタスの首都アジェンタシミルを出て一時間も経っていないのだろうが、この風景はちっとも変わることはない。そしてしばらくはずっとこの状態が続くのだが、殺風景だとはまったく思わなかった。まだ自分の中にある鬱屈した想いを、その風がぬぐい去ってくれるような気がするからだった。
 エルメネス大陸には、人々の住む集落の間に広大な平原が広がっている。ほとんどの大陸が沈み、残った大陸が焼け野原になった汎大陸戦争のずっと前から、それは変わったことはない。名もなき神々の時代、神々が最初にこの地に降り立った際、それぞれにいがみあっていた神々の末裔が、互いに干渉されないように距離を置いて住まいを構えたのが国家の始まりだと伝承《サガ》には伝えられている。そして、汎大陸戦争でレオンハルトをはじめとする聖騎士団らの働きかけにより新しい国家が建設されてからも、人々の集落の距離が縮まることはなかった。住みやすい地というのは、何が起こってもそうそう変わらないということなのだろう。
 国から国へわたる交通手段は馬車か早駆け馬で、人々はときには一週間もかけて長い旅路を移動する。平原の途中には必ず旅人や戦士が休息するための小さな集落があり、そこで馬や馬車を乗り継ぎ、明日の旅路のために身体を休めるのだ。そして、そこには旅人たちを相手にした賑やかな市場も立つ。あと二、三時間もすれば、総督府に最も近い最初の集落地が見えてくるだろう。セテはとりあえずそこで馬車を降り、向かいに腰掛ける厄介な少女を追い払うつもりでいた。
 セテはため息混じりに目の前の少女に目を移す。少女はセテが自分に振り向いたのがうれしいのか、満面の笑みを浮かべて首を傾げた。
「なに?」
 ピアージュの気楽な問いかけに、セテはまたため息をついてみせた。ピアージュは一瞬怒ったような顔をして、
「なによ」
「……もし見つかったらお前も俺も、どんな罪状で告訴されるのかな、とか思ってさ」
 試しにそんなことを言ってみると、少女の顔が曇る。本心ではなかったので、セテは申し訳ないような気持ちになってしまう。実際のところ、ひとりで宛のない旅に出るのは気が重かった。夜になればまた悪夢にうなされるに違いない。誰かといっしょにいることで、少しは気も楽になるかも知れないと思っていたし、この少女が自分を追いかけてきたのは悪い気がしない。うれしい、というのとはまた違うのだろうが、くすぐったいような不思議な気分だ。だが、それはそれ。『記憶調整の儀』を受けるはずだったのに、牢から逃げ出してきた彼女と行動を共にするわけにはいかない。
「……自分の罪を意識してないわけじゃないよ。あれだけ人を殺してきたわけだし……。用事が済んだら、記憶調整でも死刑でもなんでも受けて償うつもりだもの」
 ピアージュがうつむいたままそう言うのがたまらなくなり、セテは息を小さく吸い込んだ。それは自分も同じだ。怒りに我を忘れて人間を殺してしまった。相手が敵だから、自分が騎士団の人間だから許されるというだけで、やっていることはこの少女がやってきたように大量殺人に変わりはないのだ。
「その……用事って……なんだよ」
 黙っていると心が押しつぶされそうになる。セテは気のない声でピアージュに尋ねた。
「うん……人を……ね。人を捜してるんだ」
「人?」
「うん……。生き別れになった妹……なんだけどさ。どこかで生きてるはず……なんだよね。彼女を見つけるまでは、あたしまだ記憶を失いたくないんだ」
 ピアージュはそう言うと、短く刈りあげた赤い巻き毛を掻き上げ、窓の外に視線を移した。
「あたしが傭兵になったのも、彼女を捜すためなんだ。傭兵って、雇い主の依頼で世界中を駆け回っていろんな事情を見られるでしょ。情報も早いしさ。たぶん商人にでもなっていればもっと効率的な探し方ができるんだろうけど、あたしは剣の道にしか進めなかったし。人を殺してお金もらいながら、生き別れになった妹を捜すなんて、なんだかずいぶん調子のいい話かもしれないけどさ。あたしにはこれしかできなかったんだもん」
 セテは彼女の横顔を見ながら言葉を探す。自分にも剣の道しかなかったのに、この生き方の違いはなんだろうと思った。自分は確かに剣の道しか歩むことができなかったが、大学にも行き、すぐに中央諸世界連合の職務に就くことができた。それに対してこの少女には、人を殺して稼ぎを得る道しかなかったのだ。この数ヶ月、すいぶんいろいろなことを経験してきたつもりだったが、まだまだ自分には知らない世界が多すぎる。
「セテは?」
 不意に問いかけられ、我に返る。何も切り出せなかった自分の気持ちを察したのか、彼女から口を開いてくれたのが幸いだと思った。
「セテはどうして旅に出るの? 仕事?」
「ああ……俺も、人を捜してるんだ」
 そう言うのが早いか、ピアージュの顔がうれしそうに輝き出す。
「奇遇だね! よかった! きっとふたりで探せばすぐ見つかるよ!」
「ふたりでって、ついてくるつもりなのかよ! 見つかったらどうするんだよ!」
「見つからないようにすればいいだけじゃない! お願い、あたしも手伝うから、アジェンタスの国境を越えるまでは一緒にいさせて!」
 そこまで懇願されて断るわけにもいかない。なんて自分はお人好しなんだろう、まったく、スナイプス統括隊長はとんでもないことをしてくれたと思いながら、セテは渋々頷いた。ピアージュは手を叩いて大喜びだ。その瞳が大きく開いて、念を押すようにセテの顔を覗き込む。
 こぼれ落ちそうなほど大きいピアージュのアーモンド形の瞳を見ると、セテはロクランにいる銀髪の少女を思い浮かべてしまう。サーシェスは元気だろうか。ずいぶん間があいてしまったが、先日、例の事件が終わった後に手紙を出したが、あれを読んだ彼女が悲しむ姿が目に浮かんできて、やるせなくなってくる。
 いけない。自分はまた、別の人間の幻影を重ねて見てしまう。そう自分を戒めながら、セテは戸惑うようにピアージュに微笑んで見せた。ピアージュはまたうれしそうに笑うと、
「あのさ、セテ。次の集落でちょっと休憩したら、寄り道しても……いいかな?」
「寄り道? 俺だって一週間しか休暇もらってないんだからな。時間を食うようだったらおいてくからな」
 できるだけ意地悪そうに言ったつもりだったが、内心この少女の寄り道というものに興味があった。厄介ごとでなければいいがとちらりと思ったが。
「だいじょうぶ。すぐ終わるから」
 ピアージュはそう言ってまた窓の外を眺めた。
「あたしのね。心のよりどころなんだ」






 次の集落に到着すると、ふたりはいったんこれまで乗ってきた馬車を降りた。セテは馬車の荷台から荷物を下ろし、御者にここまでの道のりにかかった料金と心付けを手渡した。御者は心付けの多さに少し驚いたようだが、セテの後ろで大きく伸びをしている少女をちらりと見やると、
「おっかけ女房もツライもんだね」
 そう小声で言うと、彼は同情するように肩をすくめて見せた。セテは反論しようと口を開きかけたのだったが、ピアージュに割って入られてそれもかなわなかった。
「あのさ、ドルマンの方向へ行く馬車ってここから出てないの?」
「ドルマン? ああ、そこの角を曲がったところの畜舎辺りに行ってごらん。何人かあの方面へ行くやつらが暇そうに早駆け獣の世話をしてるだろうよ」
 御者が指さした方角をふたりは目で追い、それから礼を言ってセテは荷物を担ぎ上げた。
「しっかしあれだね。ドルマンなんてクソ田舎に行っても退屈するだけだろ。それともそこで挙式でもするつもりかい。駆け落ちで逃げ込むには最適の土地だからな」
 御者がそうひやかすのをセテは無視して歩き出す。「毎度どうも」と御者が申し訳程度に礼を言うと、すぐに馬車が滑り出した。御者は今日の売り上げを達成した満足感からか、鼻歌交じりだった。
「ドルマンなんかに行ってどうするつもりだよ」
 アジェンタスの国境にほど近いドルマンは、騎士団領の中でももっとも辺境の田舎町だ。観光目的で訪れる者などもなく、だだっ広い草原やら林やらが広がる寂しい土地で、おまけに年寄りも多い。若い連中がアジェンタシミルやヴァランタインなどの大きな街で働き口を探しに出ていってしまうためだ。セテは幼少の頃、学校の連中と夏休みに野営をしに行ったことがあるのだが、暴れ回るには最適の土地だったということくらいしか記憶にない。
「うん、あたしのね、命の恩人が住んでいるんだよね。仕事で出てきちゃったから、元気だよってひとこと言いたいだけ」
「命の恩人?」
「うん、セテに斬られて捕まって、逃げ出した後のね」
 ああ、そういえばとセテは思い返す。ガラハド暗殺の直後、斬りつけたセテの太刀が利いて彼女は牢に繋がれた。だが、そこからまんまと逃げおおせたのだ。セテがばつの悪そうな顔をしていると、
「間違っても『俺が斬りつけた』とか『ピアージュはお尋ね者だ』とか言わないでよ。そういう物騒な話題は絶対に禁止だからね。相手はふつうの人なんだから」
 やれやれとセテは肩をすくめ、荷物を担ぎ直した。その拍子に腰から下げていた愛刀の剣帯がほどけ、飛影《とびかげ》がころりと地面に転がった。ピアージュがそれを拾ってセテに手渡してやろうとしたが、
「あれ? セテ、なにこれ。なんでこんなにがんじがらめに巻いてあるの?」
 ピアージュは飛影の鞘から柄にかけて細い紐でぐるぐる巻きにされ、剣が抜けないようになっているのを見て不思議そうに顔をしかめた。これではなにかあったときにすぐに応戦できないではないか。そう言おうと口を開いたが、
「別に。旅行中に剣を抜くようなことはないだろうから」
 あっさりとそう言われ、ピアージュは曖昧に相づちを返した。セテはそのまま何事もなかったかのように飛影を剣帯に結びつけた。
「そんなことよりピアージュ、着の身着のままって感じでいいのか。そんな格好でうろついてるのって、なんかヘンだぞ」
 そう言われて、ピアージュは自分の服装を見直す。確かに、術をかけられる直前まで着ていた服そのままで飛び出してきたのだ。サンダルに白いチュニックとパンツでは、どう見ても旅行という感じではないし、その格好に剣を下げて歩いているのもかなり変だ。そもそも動きにくい。
「うーん、そうだね。なにか買ってくる」
「買ってくるって、金は?」
「心配ご無用。銀行で下ろしてくるから」
「銀行だって? 照合鍵なんて持ち歩いてないだろ」
「バカ。女には隠すところがいろいろあんのよ」
 そう言われてセテは途端に耳まで赤くなる。まったく、平気でそういうことを言える無神経さにあきれかえる。すぐに戻るからその辺で待っていてとピアージュに言われ、セテは荷物を持って近くのベンチに腰を下ろした。
 アジェンタシミルにいちばん近いこの集落には、市場がずらりと並び、行き交う人々でごった返す。ここから先、アジェンタスの辺境に向かって行くに連れてその規模はだんだん小さくなり、人々の姿もまばらになっていくので、装飾品や武器などはここで買っていくのが賢明だ。何十年も前なら辺境では徒党を組んで悪さをする窃盗団のような類も多かったのだが、アジェンタス騎士団による国境警備が厳しくなったおかげで、最近はそういう物騒な話題もそうそう聞くことはなくなっていた。だが、辺境に進めば厄介なモンスターに出くわす確率も高くなるし、野生のどう猛な獣も増えるので、旅をする者はできるだけ都市に近いこうした集落で装備を念入りに整えていくのが常識であった。それに対してピアージュのあの格好は、丸腰であることを誇示して歩くようなものだ。さきほどの御者ではないが、着の身着のままで駆け落ちをしてきたと思われてもしかたない。
 市場の中に色とりどりの生地を飾った服飾店があるのだが、ピアージュはその店頭でしばらく飾られている服を物色し、店先に置かれた鏡に向かって当てて見せたりしていた。ずいぶん暇がかかるものだとセテは彼女の様子をぼんやりと眺めた。きっと女の子とデートをすると、こういうふうに買い物に付き合わされて待ちぼうけを食らうのだろうと思うと、心なしかため息が出てしまう。待たされるのは大嫌いであった。手持ちぶさたなのがどうにも落ち着かないので、何気なく腰の飛影に手をやってしまう。だがそこで、セテは旅に出る前に自分に誓ったことを思い出すのだった。
 もう二度と、人を斬るために飛影を抜かない。
 欠けた飛影の刃はあの事件の直後、すぐに鍛冶屋に出して修理してもらった。あっという間に元どおりの姿を取り戻したのだが、担当した鍛冶屋が本当にいい剣だ、どこで手に入れたのか、親父さんの形見というなら、さぞや立派な剣士だったことだろうと感心していた。あまり無茶な斬り方をするものではないとたしなめられたほどだ。
 無茶な斬り方だと? 例えば何十人も人を斬り殺すとか? セテは自嘲気味に笑ったのだが、鍛冶屋の前では口に出さなかった。そしてセテは自分で鞘を縛り付け、封印したのだ。ただ、この剣を置いていくという気にはなれず、どうしても肌身離さず身につけてしまうのだった。セテは愛おしそうに飛影の鞘をなで、美しいターコイズの柄や鞘に施された精巧な彫り物を指で丁寧になぞった。
「ごめん。お待たせ」
 ピアージュが声をかけたので、セテは飛影から彼女に視線を移した。少女はさきほどとは変わって、身体にぴったりした上着となめし革のパンツを身につけていた。彼女の武器、人の魂を吸い取る魔剣は、昼間はおとなしく彼女の腰にぶら下がっているようだ。何十人もの人間の血を吸った恐ろしい剣だとは、誰も夢にも思わないだろう。そしてそんな出で立ちの彼女は、こうして見るとまるで男の子のようにも見えるのでセテは少しだけ安心した。
「なによ」
「別に」
 変なの、とでも言いたげな少女だが、セテはお構いなしに自分の荷物を担いで立ち上がり、自分のパンツのほこりをぱたぱたとはたいた。






 ふたりはドルマン行きの馬車に乗り換え、再びうんざりするような平原だけの道を進む。平原とそれを取り囲むアジェンタス連峰までの距離は、アジェンタシミルを出てからもまったく変わることがない。途中、大きな林をいくつか越える際、「鹿」と呼ばれる五本の枝分かれした角と鋭利な牙を持つどう猛な野生動物の群れがこちらをじっと見ていたのには肝をつぶしたのだが、二時間もすると馬車はドルマンの町並みが見える小高い丘の上に到着した。
 まったくドルマンという街は面白味に欠けるとセテは降りた瞬間から気が滅入っていた。それでも小さい頃に野営に来たときにはもう少し遊べる街だったと記憶しているのだが、あれから十年以上経っていればずいぶん変わるものだと納得せざるを得ない。若者の流出という深刻な過疎問題を抱えていれば、街は寂れる一方だろう。
 ピアージュはセテを促し、街を縦断する道を歩き始めた。よたよたと歩道を歩く老人夫婦が目の前を通り過ぎていくのをセテはいたたまれない気持ちで見つめ、そしてまた顔を巡らせてもやはり老人だけしか見つけることができなかった。遅かれ早かれ、アジェンタス総督府の都市再計画のリストに名前を連ねる街となるだろう。二十年も前ならきっと住宅が並んでいただろうに道の両側はほとんど空き地で、おそらく土地を持っていた者がこの地を去る際に建物を取り壊して売りに出したのだろうが、いまだに買い手がつかないといった状況か。まだ秋の終わりだというのに、遙かなアジェンタス連峰から吹き下ろしてくる風が妙に冷たく感じられた。
「見えた。あそこだよ」
 ピアージュがうれしそうに指を指す方向を見やると、そこは牧場と一緒になった小さな寄宿舎のような建物がたたずんでいた。学校か、あるいは裕福な畜産家か。敷地を囲む低い囲いが途切れる入り口には小さな看板が立っているようだが、かすれてよく読めない。それがようやく判別できるくらいの距離にまで近づいてくると、セテはそこで足を止めた。『イルマの家』。私設の孤児院だ。
 うれしさを隠しきれないピアージュは、足取りも軽く先に立ってドアの前に立ち、大きな呼び鈴にぶら下がる紐を引っ張った。さびかけた呼び鈴の尻切れトンボな音が派手に鳴り響くと、しばらくしてから遠慮がちにドアが開いた。中から出てきたのは初老の婦人。
「ただいま。院長」
 ピアージュが照れくさそうに声をかけるまでもなく、院長と呼ばれた婦人は驚きのあまりに目を見開き、口を両手で覆った。その目がみるみるうちに潤んでくるのがセテにもよく見える。彼女は信じられないと言いたげに何度も首を小さく振り、それから目の前に立つピアージュを強く抱きしめるのだった。
「お帰りなさい。よく無事で」
 婦人は小さな彼女の背中を優しく何度も何度もなで、再会の喜びを表現する。ふたりの関係を知らなくても、セテは彼らがどれほど親しい間柄なのかくらいは理解できた。そして、ふいに鼻の奥がつんとする感覚に見舞われる。ああ、自分は再会を喜ぶこのふたりの姿に感動しているのだと気付き、気付かれないように鼻をすすった。
「あ! ピアージュ! ピアージュが帰ってきた!!」
 ドアの奥から小さなこどもの叫ぶ声が聞こえた。やがてぱたぱたと小さないくつもの足が廊下を駆けてくる音がして、十五人ほどの子どもたちがいっせいにドアから飛び出してきた。
「ピアージュ! ピアージュだぁ!! お帰り!!」
 子どもたちは口々にそう叫び、まるで犬が大喜びで飼い主の足の周りを飛び跳ねるようにピアージュの足下にまとわりつき、彼女の差し出す手を握る。そのときのピアージュの表情は、とても穏やかで優しいものだった。
 そうだ。彼女のあんな顔を見るのは初めてかも知れない。セテはそう思った。いや、確か一度だけ、ロクランで酔っぱらいにからまれた楽師たちを救った後、彼女はああいった表情をしたではないか。慈愛に満ちた茶色い瞳で、幸せそうに微笑んでいたのではなかったか。
「誰? あのお兄ちゃん。ピアージュの彼氏?」
 その声でセテは我に返る。ピアージュの周りにいた子どもたちが、そして院長と呼ばれた婦人までもが、いっせいに自分を見つめているのに気付いたセテは、あわてて彼らに会釈をした。なんだかばつが悪い。
「彼氏って、バカ、そんなんじゃないよ」
 ピアージュは照れくさそうに否定するのだが、まんざらでもなさそうだった。それからピアージュはセテを手招きし、院長の手を取りながらセテの顔をにこにこしながら見つめた。
「セテ、彼女が私の命の恩人。この孤児院の院長よ。そして周りにいるのがあたしの義弟や義妹たち」
 紹介されて子どもたちはにこにことセテに笑いかけてきた。院長はセテに手を差しのべると、
「はじめまして。ようこそ『イルマの家』へ。院長のマデライン・ウスカ・デラ・イルマです」
「セテ・トスキです。お会いできて光栄です」
 セテは院長の手を取り、軽く握り返してやった。院長の顔を見る限りでは五十の半ばを過ぎたくらいだろう。だが、年齢以上にしわしわでゴツゴツした手が不憫だ。そして彼女の名前は。セテは顔には出さないが急にやるせない気分になった。複数のファミリーネームが組み合わさった長い苗字。間違いなく彼女はハイ・ファミリーの出身だ。それなのにこんな辺鄙な街で、たったひとりで孤児院を経営しているとは。
「あらいやだ、こんな玄関先でお客様を立たせておくなんて。どうぞお入りになって。すぐにお茶をご用意するわ」
 イルマ院長はあわててピアージュとセテを中に招き入れ、そそくさと廊下を先導して歩き始めた。その後ろから、子どもたちがきゃいきゃい騒ぎながらついてくる。
 ふたりは長いテーブルの置かれた殺風景な部屋に通された。子どもたちが食事をする食堂なのだという。勧められて椅子に腰掛けるのだが、子供用で脚がとても短く、自分の足がとてもテーブルの下に収まるわけもなかったので、ついついセテは浅く腰掛け、大股開きになってしまう。隣に腰掛けたピアージュの膝には、もう子どもがひとり陣取っており、そして興味津々といった様子でセテの隣にも子どもが腰掛け、彼のひざにいつ座れるようになるか狙っているのだった。
「あなたが出ていってから、私はずっと神々に祈りを捧げていたんですよ」
 院長はティーカップに紅茶を注ぎながら話を切りだした。ティーポットもカップもおそろいで、ところどころ欠けてはいるのだがおそらくはたいへん値打ちの高いものだろうということはセテにも推測できた。
「……心配かけてごめん」
 ピアージュは差し出された紅茶にミルクをたっぷり注ぎながらそう返した。
「子どもたちはあの翌日からたいへんでした。散々泣いてわめいて、ピアージュのところに行くと言って聞きませんでしたからね」
 そう言われて、ピアージュの膝に乗っていた子どもが照れくさそうに笑った。
「だめだよ。院長にめんどうをかけちゃ。聞き分けのない子にはもう剣を教えてあげないよ」
 ピアージュがそう言うと、膝の上の子はごめんなさいと小さく謝った。ピアージュはすかさずその子の頭を乱暴なくらいになでまわしてやった。
「ごめんね、院長。心配かけてごめん。でももう仕事は無事終わったから」
 それからピアージュは隣のセテに振り返ると、
「あたしがね、例の『仕事』に着手するまで、院長にはとても世話になったんだ。ケガしたあたしを看病してくれたのも彼女だし、ケガが完治するまでしばらくここで子どもたちの世話をして暮らせるよう、いろいろ取りはからってくれたんだ」
 セテは黙って頷いてやった。多くは語られないが、セテには彼女がここで暮らしていたときの様子がとてもよく理解できた。子どもにこれだけなつかれているのだ。それに、まるで自分の娘を心配するかのような院長の気遣いが、どれだけここで彼女を必要としていたのかが分かる。
「それで、トスキさんはあなたの恋人なの?」
 院長が尋ねるので、思わずセテは紅茶をふきこぼしそうになった。ピアージュも同時にふきこぼしそうになる。
「ちが……違うって。セテはあたしの……」
 ピアージュはそう言いかけて隣にいるセテをちらりと見やった。
「セテはあたしの恩人なの。お友達。ちょうど休暇が取れるようになったし、あたしと同じく人捜しをするってんで、途中まで一緒にやってきただけ」
「あらそう。こんなすてきな人があなたの恋人だったらもっとよかったのに」
 院長は残念そうに眉をひそめ、そして小さくため息をつきながら紅茶をすすった。セテもピアージュも示し合わせたかのように無言で紅茶に口をつけた。
 セテは脇腹をつんつんとつつかれ、隣を振り返る。セテの隣に腰掛けていた小さな栗毛の女の子が、セテの顔を物珍しそうに見つめていた。セテが愛想よく少女に笑いかけると、彼女はうれしそうに顔を輝かせた。
「それじゃお兄ちゃん、フリーなの?」
「は?」
「大きくなったらあたしをお兄ちゃんのお嫁さんにしてもらってもいい?」
「はぁ?」
「だってお兄ちゃん、とってもかっこいい。すごくあたしの好みだもん」
「ズルイよ、パンドラ。あんたなんかよりあたしのほうがよっぽどお兄ちゃんにふさわしい女よ」
 横からもうひとり女の子が顔を出す。栗毛の少女と対照的な、ウェーブのかかった明るい金髪の少女だ。
「ね、お兄ちゃん、あたしとパンドラとどっちが好み?」
「いい加減になさい、アウラ、パンドラ。はしたない」
 見かねた院長がたしなめるのだが、ふたりの少女はお互いにいがみあいながらセテの腕に抱きついている。セテは大袈裟にため息をつくと、
「どっちもお兄ちゃんの好みだけど、ふたりとももう少し大きくならないとお兄ちゃんとは結婚できないのが残念だなぁ。大きくなったらお兄ちゃんなんかよりずっとかっこいい、王子様みたいなお婿さんが迎えに来てくれるかもしんないよ」
 どうせ子どもだとタカをくくってそう言ったのだが、ふたりの少女は即座に顔をしかめ、
「お兄ちゃん、いまどき王子様なんて流行らないわよ。女はもっとゲンジツ的なのよ。やっぱりあたしは剣士のダンナがいいな」
 セテは思わず院長を振り返り、助けを求める。だが、頼みの院長はくすくす笑っているだけなので、今度は隣にいるピアージュを見やるのだが、
「セテって小さな女の子にもモテモテなのね。感心しちゃうわ」
 ピアージュはそっぽを向いたままとげのある声でそう言った。まったく、女はこれだから苦手なんだとセテは深いため息をついた。
「それで、トスキさんは何をやってらっしゃる方?」
 院長の助け船でセテはほっと一安心だ。
「中央特務執行庁に勤務しています」
「まぁすごい。とても優秀なのね。そんな人と知り合いだったなんて、ピアージュはひとことも言いませんのよ」
 院長はころころと笑った。本当に、彼女はピアージュを自分の娘のように愛しているのだろう。彼女がまた旅立つのだと聞いたら彼女はとても寂しがるに違いないと思うと、セテは不憫でならなかった。
 おそらく院長は没落したハイ・ファミリーのご婦人だったのだろう。結婚指輪をしているところから見ると、一度は結婚したものの夫に先立たれたか、あるいは捨てられたかのどちらかだ。もしかしたら身分違いの恋をして駆け落ちし、一族から勘当されてしまったのかも知れない。そして女手ひとつでこの孤児院の経営に乗り出し、何人もの身よりのない子どもたちを世話してきたのだ。話し相手は子どもたちばかり。きっとピアージュがここで世話になっていたときは、彼女は新しい家族にできてとても幸せだったに違いない。そしてピアージュも。
 ピアージュはどうなのだろう。傭兵稼業をやめてここで落ち着こうという気にはならなかったのだろうか。子どもたちもよくなついているようだし、ここを根城にして、たまに行方不明の妹を捜すために旅に出る。そのほうがよほど彼女のためにはならないだろうか。
「あら、もうこんな時間。そろそろ夕食の準備をしなければ」
 院長は時計を見やると、ポンと手を打ってそう言った。
「ピアージュ?」
 セテはピアージュに声をかける。ピアージュは無言で頷き、そして院長にいとまの言葉をかけようとした。しかし、
「ピアージュ、食事をしていってくれない? もう遅いわ。トスキさんもご一緒に、ベッドは空いていますから」
 ピアージュは驚いてセテの顔を振り返った。院長の言わんとしていることはふたりはよく分かっていた。セテは無言のまま首を縦に振ってやり、院長に返事をするように目で合図をした。
「また……旅に出るんでしょう? 妹さんを探して」院長はティーカップを盆に載せながらつぶやくように言った。
「明日の朝まで、少しの間家族のまねごとをさせてほしいのよ」
 マデライン・ウスカ・デラ・イルマは、自分が夫や子どもたちに囲まれて暮らしていたときの幸せな夢の続きを見たがっているのだ。それが例えひとときのものであっても。
「……わかったよ」
 ピアージュは膝の上の子どもを抱き上げながら席を立った。そして子どもたちの顔をぐるりと見回して言った。
「さあ、みんな。ご飯の支度をするよ。今日はみんなでセテのお兄ちゃんのためにふるってご馳走を作ろう!」
 子どもたちは一斉に歓声を上げ、そして率先して台所に向かうピアージュの後を子犬のように追いかけていった。

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