第二話:葬送

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 その夕方には、ロクラン全土のあらゆる通りに黒い幕が張り巡らされ、沿道には死者を送るための松明が灯された。ラインハット寺院から歴代の聖職者たちが眠る聖なる墓所までの道の両脇には、黒いリボンで縁取られた献花が並べられ、葬儀の参列を待つばかりであった。
 六十年ほど前、先のラインハット寺院大僧正が死んだときとその光景は変わることはなかった。その時点ではまだ次期大僧正候補でしかなかったリムトダールも、日記に当時の様子を克明に書いていたという。ロクランの城下町すべてが喪に服したように真っ黒に彩られたのが印象的であったと記している。まさに、町全体が深い悲しみに沈んだかのごとく、ゆらゆらと揺れる松明の光に息を潜めているのであった。
 歴代の大僧正は、守護神廟のちょうど反対側に建造された聖職者の墓所に葬られることになる。死してなお強力な霊力を持ってロクランを守護したいという、初代ラインハット寺院大僧正ウールトの強い要望により、歴代大僧正の遺体を安置するために聖職者の霊廟がロクランの南西を守護する形で建造された。ロクランにおいては、南西は魔の方角とされている。結界を突き破って実体化してくる数多くのモンスターを、聖職者の魂によって封じ込めようという意図である。そしてラインハット寺院を縦断して反対側に建造された守護神廟は、救世主の魂を祀っている。ふたつの重要な死者の魂を祀った建造物によって、魔物や死者をはじめとするすべての厄災からロクラン王国すべてを守ろうとしたのであった。
 確かにロクランを襲おうとした厄災から、大僧正リムトダールは身を挺して守り、命を落とした。そして彼もまた、王国にその生涯を捧げた聖職者としてこの墓所に祀られることになる。
 ラインハット寺院の大僧正リムトダールが死んだというニュースは瞬く間にロクランに広がり、人々を失意のどん底にたたき落とした。アートハルクの突然の占領に、追い打ちをかけるような衝撃であったことは言うまでもない。しかし、国民にはリムトダールの死因は老衰であったと発表され、誰もが疑うこともなくそれを信じた。よもやラインハット寺院で、強力な術者同士の壮絶な術法の衝突があったなど、国民は知るよしもない。
「承伏できぬ!」
 怒気を含んだ厳しい声が広間に響き、それは小さなこだまとなってあたりに反響した。いまだにアートハルクの兵士に入り口を封鎖され、その敷地全体を術者たちの結界で覆われたラインハット寺院の、二百年前から変わらない石造りの梁から、驚いて鳩が飛び立っていった。
 大僧正リムトダールに弔意を表するために黒い装束を身にまとったラインハット寺院の長老たちが、火焔帝の兵士たちに向かって今にも殴りかからんばかりの勢いで睨み付けている。大僧正に次ぐ地位であり、年長でもある長老たちは、次期大僧正候補であり年長者でもあったフライスが不在のいま、包囲されてその権限を失ってはいても威厳を失うことはなかった。アートハルク帝国火焔帝ガートルードの差し向けた美しい巫女に対し、毅然とした態度で抵抗の意志を見せつける。
「なにゆえリムトダール殿の葬儀に貴殿が出席しようというのか。それだけならまだしも、『葬送の儀』を執り行うなど!」
 長老のひとりが悠然とたたずむ少女の姿をしたアートハルクの巫女に指を突きつける。巫女はまだあどけなさの残る美しい顔に不似合いな、あのぞっとするような笑みを浮かべて指先を見つめ、それから指の持ち主の顔にゆっくりと視線を移した。
「例え占領下におかれた国の大僧正であっても、我がアートハルクが大僧正リムトダール殿に経緯を払っているということですのよ。それとも葬儀を取りやめて死者を冒涜せよとでもおっしゃるので?」
「すでに我が国を占領しておきながら、それ以上の冒涜はあるまいに。リムトダール殿は我がラインハット寺院の最後の誇り。貴殿らのような逆賊に悼んでもらうなどもってのほかだ」
「なるほど、アートハルクの巫女には儀式を任せられぬと。それではどなたが『葬送の儀』を執り行うと?」
 巫女ネフレテリは愉快そうに目を細め、長老たちの顔を見回す。
「そなたたちの希望の星でもあった次期大僧正候補フライス殿は行方不明、大僧正の一番弟子でもあった娘は牢獄へ。儀式を執り行う資格を持ち合わせた者が、軟禁状態のそなたたち長老の中にいるとでも?」
 さげすむようにネフレテリがそう言ったので、長老たちは唇を噛み、拳を握りしめる。
「……そこまでして我らラインハット寺院を無力化するつもりか。我々僧正はもう用済みというわけか」
 長老のひとりが、巫女ネフレテリの後ろに立つアートハルクの兵士たちを苦々しげに睨み付けながら言った。問われたネフレテリはうれしそうに笑うと、
「火焔帝は無益な殺し合いをお望みではない。そなたたちには何もせぬ。もっとも、抵抗するのであれば話は別であるが」
 先ほどまでの丁寧な口調とはうって変わった冷たい口調で、巫女は長老たちにそう言い、そして長いローブの袖から白い手を差し出して彼らに突きつける。長老たちは息を飲んで巫女を見つめた。
 ネフレテリは死者を扱う術法、いわゆるネクロマンシーを得意とする巫女であった。中央諸世界連合内ではほとんど成功した例のない古代の禁呪のひとつであり、その術法を成就させるにはたいへん高等な演算を必要とすることは周知の事実である。彼女の外見に油断して斬りかかった何人かの血気盛んな剣士たちは、みな彼女の毒牙にかかり、生きたまま魂を引き裂かれたのだった。その魂がはたしてどうなったのか、骸骨のような屍をさらすこととなった剣士たちを見る限りでは誰にも分からなかったが。
「そなたたちは生かしておくようにとの火焔帝からのお達しが出ておる。明日の大僧正の葬儀はわたくしが取り仕切る。すぐに式次第について打ち合わせをしたいところなのだが?」
 ネフレテリは長老たちを見回して、冷たく微笑んだ。






 翌朝の早いうちから、リムトダールの葬儀はラインハット寺院の広間で執り行われることとなった。ラインハットを訪れる多くの人を魅了してきた石造りの、旧世界《ロイギル》風の見事な装飾をほどこされた欄干は、この日は弔意を表した黒い幕で覆われており、ただでさえ陰気な風紀の漂う寺院内をさらに重苦しく見せていた。実際に、アートハルクの術者たちの結界の力により、寺院の敷地内はからみつくような重い湿気が漂っていたのでなおさらであった。
 老若男女問わず、実に多くの人が詰めかけ、献花をしていったところから、生前の大僧正の人柄をうかがい知ることができる。人々に深く尊敬され、信頼されてきた証であった。
 人々はこの葬儀において、さらに厳しい現実を受け入れなければならなかった。本来ならこの葬儀を執り行うのは、次期大僧正と目されていた大僧正の一番弟子フライスであったはずなのに、その姿は見えず、代わりに式を取り仕切っていたのが、征服者たるアートハルクの巫女ネフレテリであった。そしてそれに従うように一段低い壇上で座ってことの次第を見つめているのがアンドレ国王と王女ほか、ロクランの重臣たち。征服者と被征服者のはっきりとした図式がそこにあった。
 ネフレテリは見事な発音の神聖語で葬送の儀を執り行い、そして水の巫女がこれまでそうしてきたように、優雅に葬儀の舞を舞った。たいへん美しい巫女ではあったが、その仕草ひとつひとつに見え隠れするまがまがしさに、人々は誰言うとなくネフレテリを「死の巫女」と噂する。彼女が死者の魂を扱うネクロマンサーと呼ばれる特殊な術者であり、その能力は中央でも見られないほどのものであることが、すでにロクランの城下町では知れ渡っていたのだ。
 葬送の儀が終わった後、リムトダールを横たえた棺は聖なる墓所まで恭しく運ばれる。そして棺が墓所に格納され、封印を施されれば、大僧正リムトダールは死してなおロクランを悪と災難から守り続ける殉職者となるのだ。征服者であるアートハルクの手で埋葬されるロクランの殉職者。占領下におかれているロクランの市民にとっては、皮肉としかいいようのない光景であった。
 墓所まで移動する間、喪服姿の人々の長い列がその後を追う。それは遙か上空の塔から見下ろすと、まるで墨で描いたような一本の長い線のように見えるのだった。
 そこはロクラン城の最奥。かつて数多くの犯罪者を幽閉してきた牢獄の塔。暗闇の中でうずくまるのはひとりの銀髪の少女。格子窓から外を覗けば、大僧正を見送る長い葬列が見えるはずであったが、冷たい石造りのその部屋で、サーシェスは膝を抱えてうずくまり、まどろんでいた。
 サーシェスは大僧正の葬儀に出席することすら許されなかった。ロクラン側からも、そしてアートハルク側からも。サーシェスはいま本当の意味で自分がひとり孤立していることを、固い床の感触とともに思い知らされているのだった。
 やがて自分の身体が暗黒の渦に巻き込まれていくような感覚とともに、サーシェスは深い眠りに落ちていた。






私は夢を見る……死に至らぬまどろみの淵で
目の前を通りすぎていく、無数の光……ひかり……
触れれば消えてしまいそうなシャボン玉のように流れてゆくのは
ほんの刹那の時間なのか……
何度も何度も、走馬燈のように駆け巡る
……黒い……夢……



 ──私にはもう、お前しかいない。そしてお前には私しかいないはず。信じていたのに……。お前だけが私を理解してくれると──
 幾度となく夢に出てきた黒い炎。その中で憎しみを込めて輝く赤い瞳。身体の内まで焼き尽くす暗黒の炎の中でそう言ったのは、ガートルードだったのか。
 ──裏切り者め──! 裏切り者には死を──!
 なぜ!? 私が裏切り者だと? それなのに、なぜ私を見つけた後、あれほど悲しそうな瞳で私を見つめた?
 私は本当にガートルードの仲間だったのか。ガートルードは伝説の聖騎士レオンハルトとともに、アートハルクで死んだのではなかったのか。
 いったいどうして、どういうわけで私はここにいるのか。
 思い出せない。
 思い出したくない。でも──
 私は何者なのか、知りたい──!



「おもしろい! 人間の分際で私の術を跳ね返す自身があるとはな!!」
 天まで届くかのようにまっすぐに伸びた白い光の柱の中で、狂戦士《ベルセルク》のごとく戦いを楽しんでいたのは、まぎれもなく私、サーシェス。止めに入ろうとした何人もの術者をなぎ倒し、閃光の中で私は高らかに笑う。
 「開封の儀」の術法にかけられたとき、全身を激しい怒りが貫いた。なぜ何も知らない私をこんな目に遭わせるのか。その瞬間に、私の身体は激情に支配され、そして──
「いまいましい虫けらどもが! 灰にしてくれるわ!」
 そのときのことはほとんど覚えていない。覚えていないというのは正確ではないが、まるで自分を遠くから見つめているような感覚だった。激しい憎悪と怒りが全身を駆けめぐり、そして「私」は「私」の奥深くに閉じこめられ、内側から出ることができない。
 恐ろしかった。まるで戦鬼のような恐ろしげな表情で、私は笑いながら高度な術法を呪文の詠唱もなく次々と発動していた。あのときの狂人のような自分の笑い声が、耳の中でこだまして苛む。自分の身体でありながら、自分をコントロールすることができなかった。
 真っ逆さまに地上へ向かっていく大僧正様の姿を見て、私は我に返ったのだ。落ちていく大僧正様の腕を掴んだ瞬間、見えた伝説の聖騎士レオンハルトの幻はいったい何を意味するのか。レオンハルトは自分とどんな関係だったのか、そしてあの幻の中で見た「既視感」は、前にも同じことを経験しているということなのか。隣にたたずむ金髪のガートルードと、いまの黒髪の火焔帝ガートルードは、本当に同一人物なのか。
 わからない。わからない──!
 そしてその結果──。

 ──私は大僧正様を殺したのだ。

 フライス。
 いまあなたにそばにいてほしい。
 もし生きているのなら、戻ってきて私を抱きしめてほしい。



「それがお前の本当の姿か!」
 すでに聞き覚えのある声が闇の中から呼びかける。あたりは再び暗闇の中で、私は再び身を焦がす熱い炎の感触に身を震わせる。
 闇がまるで霧のように晴れていくと、炎の甲冑を身につけた火焔帝ガートルードが姿を現した。
 ああ、これは夢だ。あの悪夢に違いない。
 彼女は法印を結んだ両手を差し出しているが、すさまじい圧力が彼女を襲っているところだった。対術法戦の真っ最中に違いなかった。空気中のあらゆる元素が、身を切るような勢いで融和と分裂を繰り返しながら渦巻いている。ガートルードは魔法障壁で攻撃を防いでいるようだが、彼女ほどの術者が押されるとはいったい相手は何者なのか。
「それがお前の本当の姿か! サーシェス! さすがは×××だ! 二百年の長きにわたる封印から目覚めた気分はどうだ!?」
 いまなんと? さすがになんだと?
 ああ、そして彼女と対峙する私はまたもやあの恐ろしい笑みを顔に浮かべ、渦巻く炎の中で片手を差し出している。私はガートルードと戦っているのだ! しかも互角どころか、私の力が彼女を押し戻そうとしているなんて!?
「ガートルード、この私に挑むとは愚かな女よ。レオンハルトの妹ということで勘弁してやりたいところだが、あいにく私は慈悲の心など持ち合わせぬのでな。身の程を知るがいい!」
 なんて恐ろしい台詞。本当に私がしゃべっているのか。炎が渦巻き、私の顔を照らす。またしても私は遠くから自分の姿を見つめることとなる。
 違う! 確かに私の顔をしているけれども──! 年は私よりもずっと上。たぶん私が二十五、六歳になったらこんなふうになるんだろう。「今の私」じゃない!
 服はボロボロ。まるでサイズの小さな服を無理矢理着込んで破けてしまったような、そんな感じ。窮屈そうな両肩は破け、中途半端な寸足らずの袖口が腕に張り付いている。胴回りから破けたチュニックから見事な白い足が惜しげもなくさらされ、大地を踏みしめている。
「私を手に入れたつもりだったろうが、残念だな。私は誰の支配も受けない! 私は私だ! 邪魔だてするな!」
 私の姿をした彼女は叫び、そして闘気が一気にふくれあがる。ガートルードも次なる術法の準備に入った。圧縮された高速呪文をすばやく詠唱し、ガートルードは渾身の力を込めて術法を発動する。ふたりの体から吹き出た炎は渦を巻き、そしてそれは巨大な炎の竜となってお互いの魔法障壁を食い破ろうとものすごい勢いで襲いかかる。ふたつの炎の竜はふたりの間で叫び声をあげながら衝突、そして。
 一瞬の閃光。ひと呼吸遅れて、耳をつんざくばかりの大爆音。激しい衝撃波とともに、私の体は炎に包まれた。腕を、顔を、足を、体全体を焦がし、焼き尽くす熱い炎に、私は狂ったような悲鳴をあげた。

「あああああああ!!!!」

 その途端にサーシェスは自分の悲鳴で目を覚ました。急いで跳ね起き、顔や腕に手をやり、やけどのあとがないかを確かめる。
 また眠っていたのか。またあの悪夢を見ていたのか。
 サーシェスはいやな汗の噴き出た額をぬぐい、肩で大きく息を吸い込んだ。だいじょうぶ、私はまだ狂ってはいない。そう認識するまでに、およそ数十秒を要したのだが。
 ふと牢の中に自分以外の人間の気配を感じ、サーシェスは顔を上げた。すでに暗闇に慣れた目がその人物を判別するのに時間はかからなかった。アートハルクの巫女ネフレテリが座り込んでいるサーシェスを見下ろしていた。
「若い身空でこのような牢に閉じこめられて、泣きもしないとは」
 巫女はその姿に似つかわしくない大人びた口調で、ささやくようにサーシェスに声をかけた。サーシェスは身を固くする。なぜこんなところにアートハルクの指揮を執る人間がいるのか、理解できなかった。
「そうおびえることもあるまい。そなたと話がしたくてまいっただけのこと」
 ネフレテリはうれしそうに笑った。外見だけならば本当に十二、三歳くらいの少女があどけなく笑うようにしか見えなかった。
「私を覚えておいでか」
 ネフレテリはサーシェスの顔をじっと見つめ、たずねた。問われたサーシェスはおそるおそる首を振りながら、
「……アートハルクの……」
 そう答えると、ネフレテリは静かに首を振り、
「やはり何も覚えてはいらっしゃらないのか。火焔帝の片腕となり、アートハルクに仕えるようになったのはアートハルク戦争の後のこと。その前は私は辺境にいた。辺境は本当にひどいところだった。思い出したくもない。それを救ってくださったのが火焔帝ガートルード様だ。そしてそなたも」
「私が……? あなたを救った?」
「それすらも覚えていらっしゃらないとは……悲しいことよ。ガートルード様もさぞ悲しまれたことであろう」
 ネフレテリは目を細め、小さくため息をついた。
「私は……あなたと会ったことがあるの? ガートルードと私は……仲間、だったの?」
 サーシェスは身を乗り出してネフレテリに問いつめる。「……私が何者か、あなたは知っているのね?」
「レオンハルト殿が、そしてガートルード様が血眼になって探していたのがそなた。そのときも何もかも忘れてしまっていたそなたに、惜しげもなく愛情を注いできたというのに、それすらも忘れてしまったとは。恐るべきは封印の力。その身に余るほどの力を持っておきながら、すべて封じられてしまったというわけか。忌々しい汎大陸戦争めが」
 憤っているのではなく、ネフレテリは本当に寂しそうな表情でサーシェスを見つめ返した。その表情は、まさに先日ガートルードがサーシェスを見つけた後と同じく、悲しんでいるようであった。ネフレテリは鉄格子のはまった窓の外を見つめ、その外に鳩が群れて飛んでいくのを長い間ながめている。
「封印ってなんのこと!? 私はいったい誰なの!?」
「それは私が答えるべきことではない」
 ネフレテリは再び毅然とした態度でサーシェスを見つめる。
「火焔帝がおっしゃったように、そなたはこのあといやでも自分の過去を思い出すであろう。そしてそのとき、自らそなたはガートルード様の元に戻ってくるはず」
「いやよ。ガートルードは侵略者だわ。再び世界を大混乱に追い込み、第二の汎大陸戦争を起こそうとする犯罪者じゃない。フレイムタイラントの封印を解き、『神の黙示録』を集めて世界を滅ぼそうとするなんて、狂っているとしか思えないわ。私は絶対に行かない! 例え私がかつてガートルードの仲間だったとしても、あなたたちの思い通りになど絶対ならない!」
「侵略者……か。ふふ、そうであろう、人間にとっては、な」
 そう言ってネフレテリはサーシェスの長い銀の髪に手を触れる。サーシェスは驚いて後ずさりし、そのはずみにネフレテリの手から銀糸がこぼれ落ちるかのように髪の房が落ちていく。
「その髪も、瞳の色も、その耳も、すべて完璧なまでに偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の血を受け継いだ証拠。かつてイーシュ・ラミナはこの世界の栄華を担い、数々の奇跡を生み出してきた。いまはなき神々の寵愛を一身に受けていたものを。我々を苦しめたあげくに四散させたのは、まぎれもなく人間であったはず。真の侵略者とは自分たち人間にほかならないのに、人間たちはそれすらも知らない」
「待って……! 私は、イーシュ・ラミナなのね、本当に!」
「それこそ愚問というものだ。そなたは哀れな我らの同胞を導き、すべてを統べる指導者であるべきなのに、よもやこのようなところで人間に与する立場にあるとはなんと皮肉な!」
「指導者……? 私が……? あなたの言っていることはさっぱりわからない」
「いまはそれでいい。だからこそ、火焔帝が我々の救世主《メシア》として立ち上がったのだということを忘れずにいるだけでいい」
「救世主《メシア》ですって……? この侵略行為が世界を救うとでも?」
 サーシェスが苦々しげに言うと、ネフレテリは冷たい笑みを浮かべてサーシェスの顔を覗き込むように見つめた。それは勝利者が浮かべるような絶対的な自信に満ちあふれているものだった。
「思い出すがいい。『救世主』と呼ばれた娘が、いったい誰のための救世主であったか。そして真の救世主とはいったい何を意味するのか」
 ネフレテリは最後に少女らしくにっこりと笑い、背中を向ける。
「待って! あなたにもっと聞きたいことがあるの! もう少し……!」
 サーシェスが叫ぶとネフレテリは足を止め、ゆっくりと振り向いた。
「真実は自分の目で確かめるがいい。そなたの運命の輪はすでに回っている。それを止めることなど、私にはできない。すべては『神々の黄昏』に帰るのだ」
 それからネフレテリは思い出したようにローブの袖から白い封筒を差し出す。
「そなた宛の手紙が届いておる。消印は一週間前のアジェンタスからじゃ」
 アジェンタス! もしかしてセテかもしれない。サーシェスはそう思うのが早いか、ネフレテリの手から引ったくるように手紙を受け取った。封を開けようとサーシェスは再び床に座り込み、中の手紙を取り出す。おそるおそるネフレテリの顔色をうかがうが、彼女は微笑んだままサーシェスに手紙を読むように促す。
 小さくため息をついて手紙を広げると、見慣れた文字が目に飛び込んできた。
「親愛なるサーシェスへ」
 セテからの手紙であった。



親愛なるサーシェスへ

 サーシェス、お元気ですか。
 以前に手紙をもらってから、もうずいぶん返事を出していなかったので、とても心配しているだろうと思います。俺は大丈夫、なんとか無事に過ごしています。
 アジェンタスに来てから、俺は生き方も考え方も変わった。それくらい、いろいろなことがあって、サーシェスに話したいことが……聞いてもらいたいことがたくさんあるんだ。



 アジェンタスに帰ったセテとレトのふたりは元気にやっているに違いないと、サーシェスはふたりの友人のことを思い出す。セテが中央特務執行庁の試験に合格した日の晩に、三人でロクラン料理の老舗のレストランで楽しく食事をしたときのことを思い返すと、いま自分が牢に繋がれているなんて夢のようだ。
 だが、手紙を読み進めるうちにサーシェスは手が震えてくるのを隠すことができなかった。



 レトが死んだ。俺のせいで。
 初めて人を殺した。人の血が、こんなに嫌な臭いがして洗っても落ちないものだなんて知らなかった。
 人を殺したとき、一瞬その快感に身を任せた自分がいた。



 レトが死んだ? どうして? どうして?
 この手紙を書きながら、セテが懺悔と自己嫌悪にまみれながら苦しんでいる姿が目に見えるようで、サーシェスは胸がいっぱいになる。まるでセテをなだめるかのように読み終えた手紙を抱きしめると、こらえていた涙があふれてきた。
 セテに会いたい。
 会って話をしたい。
 それは自分が彼を慰めたいのか、それとも自分があの金髪の青年に癒されたいのかはわからなかったが、いまセテに会わなければもうずっと会えないような気がしたのだ。
「言い忘れていたが……」
 手紙を抱きしめたまま泣くサーシェスを、ネフレテリの冷たい声が現実に引き戻した。
「我々の主力部隊のひとつ、『真紅の竜騎兵《クリムゾン・ドラグーン》』は、いまヘルディヴァ公国を通過し、アジェンタス騎士団領へと向かっている。そなたらの国王が煮え切らないおかげで、ヘルディヴァもアジェンタスも火の海となるであろう」
 その言葉に、サーシェスは驚いて顔を上げ、ネフレテリを睨み付ける。
「まさか……アジェンタスを……!?」
 ネフレテリは冷たく笑う。
「いまごろはもうアジェンタス騎士団領を包囲していることであろう」
「ふ、ふざけるのもいい加減にしなさいよ! なんだってこんな……!」
 サーシェスはネフレテリにつかみかかろうとするが、その姿は霞のように消え失せ、彼女は冷たい床に思い切り倒れ込むこととなった。
 アートハルク帝国軍がアジェンタス騎士団領を攻撃する予定でいる。なんとかしてそれを伝えなければ! サーシェスは倒れたときにすりむいた膝を気にすることなく、牢の扉を叩きつけた。
「誰か! 誰かいるの! 私をここから出して! 大事な話があるのよ!!」
 力一杯扉を叩くが、少女の力でそれがびくとするはずもなく、そして扉の外には監視兵がいるはずなのに誰もサーシェスの叫びに答えることはなかった。セテからの手紙の日付は一週間前のものだ。もしかしたらもう手遅れかも知れない。
「ここから出して! 出してよ!!」
 サーシェスは扉に寄りかかるようにしてずるずると崩れ落ち、そして顔を覆って泣いた。自分の無力さと無知さに打ちひしがれながら。
 鉄格子のはまった窓の外からは、大僧正の埋葬が完了したことをロクランに知らせる鐘の音が、重苦しく響き渡っていた。

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