Home > 小説『神々の黄昏』 > 第二章:黄昏の戦士 > 第一話:有罪
真実から目を背けたのではない
真実を知られたくなくて逃げたのではない
「神々の目」である私の目が、「真理」を知りたいと望んだのだ
私の目に映るものが偽善やまやかしであるというのなら
私は喜んで真実の姿を探そう
黄昏の大地で私は思う
なぜ神々は私たちをお見捨てになったのか
なぜ人は同じことを繰り返すのか
そして──
救世主はいったい誰の「救い主」たりえるのか──
答えはすでに分かっている
──すべては「神々の黄昏」にあり──と──
神々よ、どうか忘れ給うな
あなたの愛し子たち、神々の子イーシュ・ラミナと人間たちは
この世をお見捨てになった名も知れぬあなた方を求めてやまないことを
豊かな緑の間をすり抜けるように流れていくベアトリーチェ河。その雄大な流れは、二百年前の汎大陸戦争以来変わることはない。正確には、大戦中に炎の竜フレイムタイラントの放つ灼熱の炎により、河の水が一瞬にして蒸発したと言われているが、その直後の大雨によってすぐさま元の姿を取り戻したのだという。そのときの大雨というのが、伝説に語られている「大沈下」、諸大陸を海に沈めた大洪水の一環だともいわれているが定かではない。
ロクラン王国のベアトリーチェ地方からエルメネス大陸を南北に縦断するこの長く広大な河は、人々の生活を支える重要な水源であるとともに信仰の対象でもあった。水の精霊への架け橋的存在、すなわちロクランを中心とした癒しの術法の波及に、一役買っていると言っても過言ではない。
その波及効果の中心に、水の巫女がいた。五穀豊饒を水の精霊の力を借りて名も知れぬに祈り、人々の心を癒す奇跡の代弁者として。まさかそれが征服者たるなど、人々が予測できるはずがなかった。
水の巫女としてロクランに迎えられたその女の名はガートルード。伝説の聖騎士レオンハルトの妹で、汎大陸戦争から人類を救った聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》のひとり。美しい金髪を持つ心優しい宮廷魔導師であったはずの彼女は、漆黒の髪と燃えるような赤い右目を携えて、ロクランを征服しに来たアートハルクの新しい皇帝であった。
五年前に世界中を震撼させたアートハルク戦争は、まだ人々の記憶に新しい。伝説の聖騎士レオンハルトと、その妹ガートルードのふたりの聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》がついていながら、なぜ侵略戦争が起こったのか。先陣にレオンハルトが立っていなかったとはいえ、彼は戦争中の一年もの間、何をしていたのか。その答えが分からないまま、戦争勃発の一年後、アートハルクは皇帝とレオンハルトの死とともに幕を閉じることとなる。
銀嶺王ダフニス・デラ・アートハルクが死んだことで指揮系統に乱れの生じたアートハルク帝国は、あっけないほどすぐに離散させられることとなる。ラファエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム将軍(当時はまだ中央特務執行庁副長官であった)率いる中央諸世界連合軍により、主力部隊はアートハルクの地でねじ伏せられ、即刻武装解除させられた。荒廃した国土を残してアートハルクはほぼ壊滅状態、現在は中央諸世界連合により包囲されており、何者も立ち入ることはできないはずだった。当時アートハルク軍に在籍していた戦士たちはアートハルクを追われ、あちこちで徒党を組みながら突発的なテロ行為を行っていたが、それでも彼らが一カ所に集まるようなことは二度となかったし、今後もあり得るはずはなかったのだ。
大胆不敵に中央へ反旗を翻し、ロクランを見事に制圧してみせたアートハルク帝国は、五年前と少しも劣らぬ「無敵」さを誇っているに違いなかった。いまになってなぜ、アートハルクがガートルードを皇帝に担ぎ上げて復活したのか。そもそも、彼らの、ガートルードの目的は、本当に中央諸世界連合に反旗を翻すことだけなのか。
ロクランはアートハルク帝国の兵士を中心に、デリフィウス、レイアムラントなどの辺境の国々の戦士からなる連合軍によって占領されることとなった。五年前のアートハルク戦争同様に、アートハルクの軍隊は剣士と術者の割合が同等である。術者と剣士の絶妙な連携が、五年前のアートハルク戦争のときと同じように無敵の軍隊を作り上げているに違いない。術者たちは強力な集約型術法を使ってロクラン全土を覆う巨大な結界を築き上げ、内外からの人々の出入りを禁じるばかりか、結界内部にいるロクラン側の術者の術法をも封じ込めていた。さらに、ロクラン城は剣で武装した兵士にぐるりを囲まれており、当然国王をはじめとする大臣連中は王宮内に軟禁状態を余儀なくされていた。
城からだけでなく、自室からも出ることのかなわないロクラン王は、窓の外をぼんやりと眺めながら舌打ちをした。窓の下に広がるロクランはいつもどおりの姿をしてはいるが、ひっそりと静まりかえり、アートハルクの軍隊がたまに通りを歩いていく姿が見えるだけで、町中には人の姿はほとんど見えない。
火焔帝ガートルードの三つの要求は、そのどれもが無体なものであった。ひとつは中央諸世界連合の解体、ふたつ目は失われた伝説の書物「神の黙示録」の第一章、第二章いずれかの引き渡し、そして三つ目は、エルメネス大陸の地中深くに眠るフレイムタイラントを封じる要石、そのうちのひとつであるロクランの要石を解放すること。そのいずれも、中央諸世界連合を再び大混乱に陥れることのできるシロモノであることは、周知のとおりだ。絶対に飲むわけにはいかない。例え殺されても。アンドレは無精ヒゲの生えた自分のあごを触りながら、小さく呻いた。
そんなとき自室のドアがノックされ、鈴の鳴るような声が響いた。
「ご機嫌麗しゅう、アンドレ・ルパート・ロクラン。今日はお知らせを持って参りましたの」
アンドレ王は憔悴しきった顔つきで声の主を振り返る。火焔帝ガートルードの命を受けてロクラン制圧の指揮を執っているネフレテリという巫女であった。長い金髪を巫女の常であるように編み上げた彼女は十二、三歳の少女の姿をしており、愛らしいその表情は見る者の心を奪うが、外見に惑わされてはならないことをロクラン王はよく知っていた。とがった耳にエメラルドグリーンの透き通った瞳は典型的な偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の証。おそらく実際年齢は自分よりもはるかに上だろうとアンドレは踏んでいる。彼女の姿は人を惑わすためにあるのだ。油断してその術法にかかり、命を落とした兵士が何人もいたのを思い出し、アンドレは小さくため息をついた。
「知らせ? ふん、何度も同じことを尋ねるのに飽きたのか、ネフレテリ」
苦々しげにアンドレがそう言うと、ネフレテリはうれしそうに目を細めた。
何度も繰り返された儀式。彼女は毎朝のようにアンドレ王の部屋にやってきては同じ質問を繰り返す。火焔帝ガートルードがつきつけた三つの要求を飲むか否かと。
「何度も言ったであろう。私はこの国の王だが、中央諸世界連合を守る使命もある。貴様らの要求を簡単に飲むと思ったら大間違いだ」
そう答えるたびにネフレテリは高らかに笑い、要求が通るまでは何度でもこの部屋に来ようと言うのだ。
彼女は、アートハルクは何を待っているのだろうか。要求をはねのける自分を殺すわけでもなく、従わせるために人質を殺すでもない。時間稼ぎをしているのはこちらではなく、むしろアートハルクのような気がしてならない。いやな予感がしていた。
「今日はあなたにいいお知らせがあると申し上げたでしょうに」
ネフレテリはまたうれしそうに目を細め、アンドレを見つめる。ぞっとするような妖艶な笑みを浮かべる少女は、まるで大昔の童話に登場する魔女のようだとアンドレは思った。
「明日のリムトダール殿の葬儀は予定通り行ってかまいません。王よ、あなたにはご息女ともども、葬列に参加していただくのでお忘れなきよう」
「……本気で言っているのか? それとも私をたばかっておるのか?」
アンドレが尋ねると、巫女の少女は小さく頷き、「たばかるつもりなど毛頭ございませんよ」と微笑み返した。
先日息を引き取ったラインハット寺院大僧正リムトダールの葬儀であった。サーシェスの暴走を身を持って食い止め、そして帰らぬ人となった彼の葬儀を、アートハルクがこんなに簡単に許可するとは。
「我々は死者を冒涜するつもりはまったくありません。リムトダール殿には我々も敬意を表したいのですよ。伝説の聖騎士の盟友で、最後まで彼をかばい、そして『神の黙示録』の行方を誰にも沙汰さず死ぬとは、見上げたものです。聖職者としては最高の人物だったでしょう」
あざけっているのか、本気で尊敬しているのか、アートハルクは大僧正リムトダールの葬儀を中止させるどころか、国葬扱いにするとロクラン全土に触れ回ったのだ。予定通りに葬儀は執り行われることになっていたが、それにいまさら国王と王女を出席させるとは。
おそらくはラインハット寺院が無力化されたことを大々的にアピールするつもりなのだろう。頼みの綱の大僧正が亡くなり、支配下におかれ、敗北を認めた国の王を引きずり出すことで。国民へのその影響、衝撃は計り知れない。どこまで屈辱を与えるつもりかと、アンドレは唇を噛んだ。だが、軟禁状態にある彼にそれを拒むことは許されない。
「娘は……アスターシャは無事なのか?」
尋ねられたネフレテリの顔は、またもやぞっとするような笑みをたたえていた。
「ご安心を。あなたのように自室に軟禁しているというわけではありません。城の中を歩けるくらいの自由は与えてあります。殺すつもりもありません。なんならあとでこちらに呼びつけましょうか」
アンドレはロクランが最初に占領された日から、ほとんど娘の顔を見ることはかなわなくなっていた。だが、無事ならそれでいい。ほっと胸をなで下ろす。
「いい知らせというのは葬儀のことだけではありませんよ。アンドレ・ルパート・ロクラン」
ネフレテリが長いローブの袖から差し出した水晶玉をアンドレの鼻先につきつけ、目でそれを見るように促した。
向こう側の景色が透き通って見える美しい水晶玉は、やがてその中央からだんだんと曇り始め、なにかの影を映し出そうとする。高くそびえる山々がゆらぎながら姿を現し、その麓に広がる街を守るように取り囲んでいるのが見えた。どこの都市だろうかと目をこらすと、空に掲げられたえんじ色の国旗に目を奪われる。金糸で刺繍された双頭の鷲の紋章。アジェンタス騎士団領であった。
「アジェンタス……! なにをす……」
アンドレは呻くが、その先を言うのはなぜか戸惑われた。ネフレテリがうっすらと笑うと、
「時間稼ぎをなさっていたつもりでしょうが、本当に時間を稼がせていただいていたのはこちらですのよ。私どもの主力部隊のひとつ『真紅の竜騎兵《クリムゾン・ドラグーン》』は、いまアジェンタス騎士団領に向かっています。その途中、ヘルディヴァ公国を通過しながら。どういうことかおわかりですね」
まっすぐに自分を睨み付けるエメラルドグリーンの瞳から視線を逸らすことができないまま、アンドレは呻いた。まさかアジェンタスとヘルディヴァを攻撃するつもりなのか。
「あなたが悪いのですよ、アンドレ・ルパート。ただのこけおどしだと思って中央特使が来るまで時間を稼ごうとなさっていたでしょうけれど。私どもは冗談でこのような大がかりな芝居をするわけではない。アジェンタスとヘルディヴァが攻撃されれば、中央諸世界連合評議会は決断をせざるを得ないでしょう。おそらくラファエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム将軍を出陣させるはず。そのときが中央諸世界連合の最後だということです」
ネフレテリの言葉に、アンドレはぐっと拳を握りしめ、憎しみたっぷりの目を向けた。
「五年前のアートハルク戦争でアジェンタスを陥落させることもできなかったお前たちが、またもや同じ轍を踏むのは目に見えているのだがな」
できるだけ険悪に聞こえるように言ったつもりだったが、落ち着き払った少女の前でその言葉は意味をなさなかった。彼女は高らかに笑うと、
「五年前に我々を苦しめた霊子力炉はもうない。アジェンタスは丸裸同然。いまだにアジェンタスが難攻不落だと信じていらっしゃるとは、なんとけなげな」
「霊子……なに?」
「知らぬなら知る必要もあるまい」
ぴしゃりと言われ、アンドレは押し黙る。この少女がこんなに悠然としていられるその自信のほどはどこから来るのだろうか。さきほど話しに上った霊子力なんとかというのは、いったいなんだろうと考えていると、ネフレテリは水晶玉をローブの袖にしまい、背を向けた。
「明日の葬列が、リムトダール殿だけでなく、アジェンタスとヘルディヴァ、そして中央諸世界連合の葬送にもなるというわけですね。よき日になることを神々に感謝なさるように」
「ふざけるな!!」
アンドレはネフレテリにつかみかかろうとするが、彼女の身体に触れる前に激しくはじき飛ばされ、壁に激突する。
「己の無力さを思い知ることです。なんのためにあなたを生かしておくのか、よくよくお考えになるように」
そう言い捨てると、ネフレテリは大きく偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の紋章を指で描き、黙礼する。巫女が祈祷の際に使う儀礼の一部だ。そのまま彼女は身を翻し、アンドレの部屋から即座に姿を消した。転移の術法だ。ロクランの術者の中でも、転移の術を軽々と扱えるのはそう多くはない。
「くそ!」
アンドレは激しく毒づくと、手近にあった花瓶をネフレテリのいた場所目がけて投げつける。当然、花瓶はドアに当たって砕け散るだけだった。
「なんとかして中央に連絡を取らねば……! アジェンタス騎士団領とヘルディヴァ公国、ふたつとも要石を抱える大国だ。このままでは汎大陸戦争の二の舞になる……!」
ロクラン王国騎士団をはじめ、軍部のすべてを統率する地位にあるアーノルド・メリフィスは、足早にロクラン城の廊下を歩きながら今日この日までの数日間を思い返していた。ものの見事に火焔帝ガートルード率いるアートハルク軍に制圧された母国を憂いているものの、その背景にあるさまざまな事象すべてにいらだっていた。
兼ねてから王にはアートハルクの残党の動きについて進言し、有事に備えて兵力を増強せよと主張してきたのに、司法長官のスプリングフィールドをはじめとする腰抜けにことごとく却下されてきた。その結果がこのざまだ。あきれるにもほどがある。ロクラン騎士団は面目丸つぶれ、騎士団長の身柄も拘束されたいまでは、メリフィスといえども抵抗するすべはない。
火焔帝ガートルードは紫禁《しきん》城に帰るといって去っていったが、しかしいまとあっては、中央諸世界連合によってアートハルク帝国すべてが包囲され、監視状態にある。先々代の皇帝サーディックが築き上げた居城である紫禁城は、五年前の事件後はあとかたもなく、そこに住むことはおろかアートハルクの領内に立ち入ることもかなわないというのに、火焔帝は、そしてアートハルク帝国軍はいったいどこを根城にしているというのか。
ロクラン城の中にしつらえられた簡易裁判所への廊下を歩きながら、そこかしこでアートハルク帝国の戦士を見るにつけ、メリフィスはいまいましげに舌打ちをした。火焔帝がロクランを去ったいまでは、あのイーシュ・ラミナの巫女が指揮を執っている。王は軟禁状態、自分をはじめとする閣僚たちは、アートハルク兵士の監視なくしては城の中も歩けない状態だ。だが、火焔帝のいないいまこそなにか勝機が見つかるはず。なんとかしてきやつらに一矢報い、中央への連絡を取らねば。
メリフィスは目的地である大扉の前で衣服をただし、部屋の前で剣を構えて睨み付けるアートハルク兵士に自分の名を告げる。兵士はメリフィス本人であることを確認すると、芝居がかった大袈裟なそぶりで剣を下ろし、扉を開けた。
簡易裁判所の中にもアートハルクの兵士たちがずらりと並び、メリフィスが入ってくるのをじっと見つめている。すでに数人のロクラン官僚がそこにおり、メリフィスが入ってくると立ち上がって一礼し、再び腰掛けた。スプリングフィールド司法長官がメリフィスを認めると、勝ち誇ったような笑みを浮かべ、壇上に上がる。メリフィスは本来なら陪審員が座る席に腰掛け、ことの成り行きを見守る。
スプリングフィールドは壇上に立ち、手に抱えていた書類を広げ、両脇をロクランの兵士に固められて被告人席に座る少女を見下ろした。サーシェスであった。女囚の着るような簡素な衣服を身につけ、これから自分の身に起こるであろうことを想像して青ざめてはいても、少女の顔はたいへん美しかった。
司法長官は自分の背に掲げられているイーシュ・ラミナの紋章と、月桂樹の葉と水のしずくを模したロクランの国旗に敬意を払うよう少女に冷たく言い放った。サーシェスはおそるおそる胸に手を当て、一礼する。彼女の首には術法を封じる首飾りがはめられている。いかなる強力な術を使う人間も、これをはめられれば術法を使うことはおろか抵抗することもできなくなる。術者の犯罪人に必ず適用されるシロモノであった。
「姿を隠した神々と精霊の御名において、真実のみを語ることを誓え」
法を遵守するだけのカタブツでしかないスプリングフィールドの声は、独特の冷たさを放つ。怯えるような少女が哀れに思えて、メリフィスは小さくため息をついた。
「誓います」
サーシェスはうつむいたまま小声でそう返した。いまにも泣き出しそうな少女の顔を見ていると、さすがのメリフィスも心が少しだけ痛んだ。だが、例え直接ではないにしろ、大僧正リムトダールを死に至らしめ、攻撃術法で破壊活動をしようとしたのだと自分に言い聞かせる。
「それでは、君にいくつか聞きたいことがあるので答えてもらおう」
「その前に……!」
スプリングフィールドを遮り、サーシェスが叫んだ。
「その前に、フライスは……フライスは無事なのですか」
スプリングフィールドはうなり、少女を冷たく見下ろす。
「フライス殿は行方不明だ。先日アートハルクの包囲網を突破してロクランを出た模様だが、国境付近ではアートハルクの兵士たちの死体しか見あたらなかった。おそらくは生き延びておられるとは思うのだが……。だが、いずれにせよ、次期大僧正の身分にありながらこの国を見捨てた罪は重い」
冷たく言い放つスプリングフィールドの言葉に、サーシェスは再びうなだれる。なぜフライスが自分を、この国を見捨てて出ていってしまったのか、なぜあれほど取り乱していたのか、大僧正が死んだいまとなっては知る術はない。そしてその大僧正を死に至らしめたのは自分なのだと思い知ると、罪悪感が全身を刺すような痛みとなって駆けめぐる。
「では答えてもらおう」
司法長官の声にサーシェスは顔を上げる。
「名前は?」
「サーシェスです」
「それは本名ではあるまい。君の本当の名だ」
「知りません。私は本当にこの名前しか知らないのです。何度も申し上げたように」
「そんなはずはあるまい。『開封の儀』で記憶の封印は解けたはず。だからこそ、あれほど恐ろしい術法で暴れ回ったのではあるまいか」
「『開封の儀』で術にかけられたのは確かに覚えています。でも……そのあとのことは何も覚えていません。まして、大僧正様を死なせてしまうなんて!」
スプリングフィールドは鼻を鳴らすと、
「ふむ、ものはいいようだ。私は君が本当は火焔帝の送り込んだ刺客ではないかと思っているのだがね。私だけではない、この城の者すべてがそう思っているといってもいいだろう」
「違います! 本当に何も覚えていないのです!」
「君はイーシュ・ラミナの血を引く娘だ。先日の『開封の儀』でそれは確かに証明された。あれほど強力な術法をやすやすと扱えるのは、中央にもそう何人もいない。そして火焔帝ガートルードとも顔見知りであるというのは偶然の一致か。ガートルードに暗示をかけられ、ロクランを内側から壊滅させるために送り込まれたのではないのか」
「いいえ。断じて違います」
「かつてイーシュ・ラミナはその美しい容姿を利用して人を欺き、信じさせた人間をいとも簡単に殺してきたという。大僧正を欺き、フライス殿やアスターシャ王女をたぶらかし、いいように利用してロクランを破滅に追い込もうとしたのであろう」
「いいえ!」
「そうして我々中央諸世界連合を破滅に追い込むつもりなのであろう! この魔女め!」
「いいえ! 違います!」
サーシェスは叫んだ。その場に崩れるようにしゃがみ込み、涙があふれてきたので両手で顔を覆いながら声を殺して泣いた。
「どうして信じてくれないの。私、なにも知らないのに……!」
だが、スプリングフィールド司法長官は容赦なく少女を責め立てる。
「しらじらしい演技はたくさんだ。記憶がなくとも君がしたことは十分な犯罪行為だよ。よく聞くがいい。君の罪状はこうだ。ロクランに弓引き、その恐るべき術法で我が国を攻撃しようとした。そしてそれを阻止しようとした大僧正殿を死に至らしめた。これを立派な反逆罪であると言わずしてなんとする」
サーシェスはうずくまったまま泣き続け、弱々しく首を振った。まだ厳しく尋問するつもりだったスプリングフィールドは、少女が泣き続けるために切り上げねばならないことに対して舌打ちをする。
「その娘を牢へ。幽閉して王の判断を仰ぐとしよう。術法封じの香をたいておくのを忘れぬように」
司法長官の命令で、サーシェスの両脇をふたりの官僚が抱えて無理矢理彼女を立ち上がらせた。彼女はまだ弱々しく泣きながらうつむいている。そのまま彼女は両脇を抱えられ、簡易裁判所から引きずられるように引き立てられていく。大扉が無慈悲に閉まり、メリフィスはその一部始終を見終わった後には大きなため息をついていた。
あの娘、確かに何も知らないのであろう。彼女の失われた記憶にはおそらくたいへんな秘密が隠されているに違いない。二重人格か、それとも本当に暗示をかけられているのか。いずれにしろ、彼女の無意識下で術法が暴発するような状態では、彼女は中央諸世界連合でもかなりの危険度を持つ術者である。その記憶が蘇ったときに、彼女がまた暴れ回るという危険もなくはない。だが──。
メリフィスは、忌々しげに書類をかたづけているスプリングフィールドをぼんやりと見つめながら思った。
諸刃の剣ではあるが、あの娘、火焔帝に対抗する切り札になりはしないだろうか。アートハルクに包囲されているいま、中央への連絡はどんな形でも取ることは不可能。本来「危険度五」以上の術者は中央に送られ、監視下におかれるのだが……。彼女を中央に送るのをアートハルクが許可するはずもない。なんとかして彼女を中央に送り込むか、あるいはこちらに有利なように、彼女の術法を解放することはできないだろうか。
メリフィスは少女が連れて行かれる先を思い浮かべ、静かに席を立った。何も言わずに席を立つメリフィス司令官に気付き、司法長官がこれみよがしに忌々しそうに舌打ちをしたのが聞こえたが、彼はそれを聞こえていないかのように無視して廊下に出る。
しんと静まりかえった廊下には、一定間隔でアートハルクの兵士が並び、そして一定の時間になると歩哨が始まる。メリフィスが簡易裁判所を出たのを見たふたりのアートハルク兵士が、彼を護衛するかのようにぴったりとくっつき、その後ろを付いてくるのにうんざりしながら、メリフィスはもと来た廊下を歩き始めた。
窓の外には、ロクラン城の北にそびえる古い塔。塔の上階は、五十年くらい前まで、犯罪者、特に政治がらみの犯罪を犯した者や国家の転覆を謀ろうとした者が幽閉された牢獄となっている。いまとなっては使われることもなくなった前近代的な施設であった。あの美しい少女が冷たく暗い牢獄につながれることになるのだと思うと、心なしか胸が痛むが、メリフィスはそれを打ち消し、なんとかしてあの塔に近づく術はないものかと頭を巡らせた。