第六話:触れ合う心

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 ベッドに潜り込んだものの、ピアージュはあまり寝付けず、何度も何度も寝返りを打った。『暁の戦士』が閉店する直前から掃除まで、ずっと大あくびをしながらセテが働いて回るのを見ていたのだが、いざ寝ようとするとなぜか目が冴えてしまっている。久しぶりの馬車で揺られる旅、昼間のセテの大立ち回り、ちっぽけなことではあるが、「仕事」よりも疲れたような気がするのに。
 ピアージュはもう一度寝返りを打って天井を見つめた。暗い部屋に慣れた目で見る天井に、雨漏りのようなしみを見つけて顔をしかめる。雨が降ってきたらこの部屋はどうなるんだろうとか、明日は天気だろうかとか、そんなどうでもいいことが次々に頭に浮かんでは消えていく。
 ピアージュは隣の部屋で寝ている青年を思い浮かべた。騎士団や特使とはまったく違う街の商売人の仕事に、彼もだいぶ疲れたのではないだろうか。セテにああいう才能があったとは驚きだった。もしかしたら、本当に剣士をやめてこういう仕事についたらうまくいくのではとも思った。ここにいればあのときみたいな思いをしなくてすむのに。ピアージュはセテがコルネリオと対決した直後を思い出した。
 宿敵を倒したあと、セテは壁にもたれて涙をぬぐっていた。あのときの彼の表情は忘れられない。あの涙の意味が、彼女には分かるような気がする。自分を嫌悪していたのだろう。人を殺してしまった事実に、堪えきれなくなって。それに比べて自分はどうだろう。もう人を殺してもなんとも思わなくなってしまった自分。物心ついたときから剣を振るい、いまでは生きるために人を殺す自分を、セテはあまり好ましく思っていないはずだ。
 もし自分がここに残ると言っても、セテは止めはしないだろう。彼は特使で、この一週間の休暇が終わればロクランに帰ってしまうと言っていた。ロクランに戻ってまた特使の任務に就いたら、セテは自分とはまったく違う世界の人間になるのだ。でも、もう少し一緒にいたい。ナルダが帰ってこなければいいのに。そんなことを考えていると余計に寝苦しくなって、ピアージュはもう一度シーツをはねのけるように足を動かし、大きな寝返りを打った。
 ふと、隣からなにか声がする。今日は宿泊率はほぼゼロだから、考えられるのはセテだ。こんな時間になんだろうと耳を澄ませると、なにかうめいているような苦しげな声が聞こえる。
 ピアージュは不安になってベッドから跳ね起きた。まさかあのルドルフがセテの部屋に? キースにきつく忠告されたとはいえ、あの見境のない男色家のことだ。無理矢理部屋に押し掛けてきて、なんてことも考えられなくはない。ピアージュはそばに立てかけていた剣を掴むと、静かに廊下に出た。
 そっとセテの部屋のドアノブを回すと、鍵はかかっていなかった。なんて不用心だろうと思い、静かにドアを開ける。部屋は暗かったが、ルドルフがいないのを確認してピアージュはほっと胸をなで下ろした。それなりにいろいろと地獄を見てきた彼女であったが、さすがに男同士のカラミだけは見たくなかった。一安心して部屋を出ようとしたとき、ベッドで寝ているセテが苦しげになにかをつぶやいたので足を止めた。ピアージュはベッドに近寄り、セテの様子を見守る。最近夢にうなさると言っていた。また悪夢に苛まれているのだろうか。
「セテ」
 小さな声でセテに呼びかける。セテからの返事などあるわけはなく、やはり苦しげにうめいているだけだ。そっとその肩に手を触れると、セテは即座に彼女の手首を掴んで首を振った。
「よせ……やめろ……」
 掴んだ手首を押し戻そうとするようにぎゅっと掴まれ、ピアージュは恐ろしくなった。人間がこんなに苦しそうな表情をするのは見たことがなかった。
「やめろ、レト……俺は……!」
「セテ、セテ!?」
 ピアージュは思い切ってセテの両肩を掴み、彼を揺り起こそうとした。何度か揺すられてセテは目を覚ましたが、目の前に立つ人影にたいへん驚いたようだった。ベッドから跳ね起きて肩に触れる手を振り払う。
「ごめん、セテ、あんまり苦しそうだったから起こしに来た」
「ピアージュ……?」
 肩で息をつきながらセテはピアージュの顔を見つめ、そしてまた先日のように両手で顔をこすった。手の間から大きく息を吐き出し、それから髪をくしゃくしゃとかきむしるように頭を抱える。ピアージュがベッドサイドのランプを付けると、頭を抱えるセテの手が震えているのがよく見えた。
「……俺、いまなんか言ってた?」
 セテは髪の毛を手で梳きながらピアージュの顔を見ずに尋ねた。また夢にうなされていたところを見られて、自己嫌悪に陥っているに違いなかった。
「うん……。『やめろ、レト』って言ってた」
「……そっか……」
 セテは大きくため息をつき、また両手で顔を覆った。
「……また夢にうなされてた?」
 おそるおそる尋ねると、セテは無言で頷く。
「レトって……誰? お友達? あの……コルネリオに捕まったセテの……」
 ふと口をついて出た言葉に、セテの身体がぴくりと動いた。そしてたいそう驚いた顔をしてピアージュを振り返る。当然だ。ピアージュはコルネリオの側にいた老婆の水晶球で、セテの親友だった男が自ら命を絶つ瞬間を見ていたが、まさかあの場面を誰かに見られていたとは夢にも思わなかったのだろう。
「……知ってるのか……?」
 睨むような表情ではなかったが、厳しく固い表情でセテは尋ねた。
「うん……ごめん……。あたし、あのとき見てた。一部始終……」
「……そっか……」
 セテはまた大きなため息をついて髪を掻き上げた。昼間の大立ち回りからは想像できないほど、しおらしく、痛々しい感じが漂っているのがピアージュにはたまらなかった。尊大で自信たっぷりなセテしか見たことがなかったのに。そう思うと口の中がしびれてくるような気分だ。親友が目の前で自ら命を絶つ、そんな悲惨な場面を夢の中とはいえ何度も見せられるなんて、自分だったら堪えきれなくなると思った。
「あの……ね、セテ、もしあたしに話して楽になることがあったら話してよ。聞いてあげることしかできないけど……」
 ピアージュはおそるおそるそう言った。セテはしばらく髪の毛を掻き上げていたが、意を決したのか重い口をやっと開く。
「あいつは……俺が殺したようなもんだ」
「あいつって……その、レトって人?」
 尋ねられてセテは小さく頷いた。
「あいつだけじゃない、オラリーも……俺がいることで苦しんで苦しんで、結局自分で命を絶った。俺はそういうやつなんだよ。俺はずっとレトと一緒にいて、あいつに面倒ばかりかけてた。それでもやつはいつもにこにこしながら俺をなぐさめてたり、励ましてくれた。それなのに、俺はあいつにずっと頼ってばかりでなんにもしてあげられなかった。俺はそうやって自分の大切な友達を苦しめてばかりいるサイテーな男だ」
「違うよ、セテ。だってお友達でしょ。その、レトって人はセテのことが好きだったからそばで支えてくれたんじゃないの? そうでなきゃ、あのときセテを殺してたんじゃないの? セテのことを守りたかったから、最後の最後で自分で命を絶ったんだよ。そうでしょ?」
 セテは黙りこくったままだった。本当にそうだったのだろうか。自分の側にいるのがつらくて、どうしようもなくなって、遅かれ早かれ自分が楽になるために命を絶っていたかも知れない。あんな事件がなくたって、レトは。
 ふいに胸が痛くなる。コルネリオに見せられたあの幻覚の中で、凶悪な表情をしたレトは言った。「いっそのことお前なんか死んでしまえばいいと思ったことだってある」と。
「俺がお前を愛していたなんて本気にしていたのか?  違うね。俺はいつだってお前を自分のものにしたくてうずうずしていた。だからお前のそばにいたんだ」
 レトは歪んだ笑みを浮かべながらそう言ったのだ。幻覚だとは分かっていたが、もしレトが本当にそんなふうに考えていたとしたら、あまりに悲しい。
「セテ、だめだよ、そんなこと考えちゃ。あれはコルネリオの精神操作だったんだよ」
 ピアージュに言われてセテは我に返った。今のを口に出して言っていたのかと思って、ピアージュを心配そうに見つめる。
「あ、ごめん……。前にも話したかも知れないけど、あたしの特技、人が考えていることが読めるんだ。特にそういう……負の感情が強いときは……」
 セテはうなだれ、ピアージュが握り返してくれた自分の手を見つめた。急にレトに会いたいという感情がわき出てきて、鼻の奥がつんとしてくる。あいつは今、俺になんて言って声をかけてくれるだろう。いいから飲めと言って、強い酒を引っ張り出してきて、くどくど話し続ける俺を一晩中慰めてくれるに違いない。そう思った瞬間に、我慢していた感情がセテの中ではじけていた。
「……すまん、ちょっと」
 セテは顔を手で覆い、あふれてきた涙を見られまいと顔を背けた。だが、止めようにも後から後から涙が出てきてどうしようもなくなってしまう。
 レトが死んだ後、ずっと感情を押し殺してきた。泣いているヒマがあったら早くコルネリオをぶった切って、レトの仇を討ちたかったから。でもその結果、何十人ものコルネリオの配下の返り血を浴び、そしてこうして罪悪感にまみれてひとりで泣いていることしかできないとはお笑いだ。
「セテ、いいよ、泣いちゃいなよ。全部出しちゃいなよ」
 ピアージュがセテの耳元で囁くと、セテはそれに甘えるようにピアージュの肩に頭をもたれさせた。声を殺して泣き、震えるセテの肩を抱えるように、ピアージュは彼を優しく抱きしめた。
 ピアージュにとっては大の男が、しかも剣士がこんなふうに泣くのを見るのははじめてのことだった。当たり前のことではあるが、人が死んだからと言ってこんなふうに泣いていては勤まらないのだ。だから余計に不安になってくる。セテは聖騎士になりたいと言っていた。剣士は非情にならなければ勤まらないし、仕事と割り切って自分を納得させなければならないのに。セテはもしかしたら剣士に向いていないのではないだろうかと、その優しさが、いつか彼を苦しめるのではないだろうかと彼女は思った。しかしその不安とは裏腹に、ピアージュの中にセテへの想いが急激にふくれあがっていく。誰にも言えずにひとりで苦しんでいるセテが、とても愛しい。
「……ごめん。俺、バカみたいだな。すまなかった」
 セテはひとしきり泣いた後、ピアージュから身体を離して鼻をすすった。ちらりと見えたセテのうるんだ青い瞳に、ピアージュは胸が高鳴るのを覚えた。セテの罪悪感をぬぐい去り、罪を赦してやりたいと思った。
「慰めてあげようか」
 ピアージュはセテの手を握り、そう囁いた。セテが息を飲むのがはっきりと聞こえた。
「いいよ、あたしを抱いても。慰めてあげるよ」
 ピアージュはセテの耳元で再び囁き、その手を自分の背に回させ、自らもセテの背中に手を回した。だが。
「よせよ」
 セテはピアージュの身体を押しのけ、厳しい声でそう言った。ピアージュが驚いて目を見開いていると、
「いや、ごめん、そういうわけじゃないんだ。でも俺はそういうの、あんまり好きじゃない。もっと自分を大切にしろよ」
 意外な言葉に、ピアージュはますます驚いた。
「大切って、あたしは自分を大切にしてるよ」
「違うよ、そうじゃない。なんでもかんでも投げ出せばいいってもんじゃないだろ。生きるために人を殺したりとか、戦場を走ったり、こんなふうに俺を慰めるために抱かれようとしたり、そういうの、大切にしてるなんて言わない」
 言った後にセテはしまったと思う。彼女にはそれしか生きる道がなかったはずだ。それを真っ向から否定するなんて。ピアージュを見ると、彼女はうなだれたまま黙りこくっている。怒っているのかと思うと、きゅっと胃の辺りが重く痛んでくる。
「ごめん、言い過ぎた」
 セテがピアージュの肩に触れようとしたとき、ピアージュが顔を上げた。その表情はこれまでセテが見たことのない、悲しそうな、それでいてうれしそうな表情だった。
「……セテは優しいね……」
 ピアージュがぽつりとつぶやく。その目が少しうるんでいるのが見えた。彼女が泣いてしまったらどうしようとセテは不安になる。
「ホントに……優しすぎるよ。こんな男、見たことない」
 ピアージュは笑った。その拍子に、目尻からぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「男なんてさ、みんな同じだと思ってた。女を犯して、自分だけいい思いをしたあとは『女のくせに』なんて見下してさ」
「世の中そんなヤツばっかりじゃないよ。俺は、女の子には優しくしてきたつもりだけど」
 セテは返事に困ってそんなことしか言えなかった。ピアージュはまたくすくす自虐的に笑うと、
「あたしが最初に人を殺したのはね、十一のとき。母さんはとっくに死んでいて、父さんもいなくなったすぐあと。あたしと妹は仕方なく親戚の家に引き取られていったんだ」
 ピアージュはぼんやりと天井を見つめながら、独り言のように話を続ける。
「どうなったと思う? そこのおじさんってヤツ、あたしを犯したんだよ。十一の、しかも自分の肉親の娘をだよ。信じられなかった。自分がどんなことされてるか、まだよく分からなかったけど、とても怖かったのを覚えてる。それで、父さんにもらった剣でそいつを殺してやった」
 ピアージュはそこでいったん話を区切り、セテの反応を確かめるように彼を見つめた。もちろん、セテは返す言葉もなく、動くこともできないようだった。
「正当防衛だったってことでおとがめはなし。でもあたしは、妹を連れてその家を飛び出した。それからは生きるためになんでもやったよ。盗みもやったし、身体も売った。子どもも堕ろしたことだってある。そのあとは、父さんに教えてもらった剣を頼りに傭兵稼業へ。どう? とんでもない女でしょ」
 セテは無言で首を振り、否定してやる。ピアージュの目がまた悲しそうに笑うのがたまらなかった。
「優しいんだね、セテ。ふつうの男だったら、あばずれのくせにとかなんとか言って汚いものでも見るような顔するのに」
「俺はそうは思わない。これからどうやって生きていくかってほうが重要だろ」
「うん……」
 ピアージュは力無く頷いた。彼女がかたくなに性別にこだわった理由がやっと分かった。それは十代の女の子の口から出てくるような楽しい話題では決してない。彼女が送らなければいけなかったその過去を、そこまで追いつめた原因を、セテは憎み、いいようのない怒りが駆けめぐるのを押さえるのがやっとだった。
「ピアージュ、もう傭兵をやめろよ。孤児院で、イルマ院長といっしょに暮らせばいい。そのほうがずっと幸せだろ?」
 セテはピアージュの手を握り返して力強くそう言った。彼女の生き方を否定するわけではなかった。だがイルマ院長の、ピアージュが孤児院を出るときの名残惜しそうな、寂しそうな表情が忘れられなかった。
「ありがとう。でも、妹を捜すまではやめない。セテだって、聖騎士になるの諦めろって言われても、諦められないでしょ?」
 ピアージュの答えはもちろん力強いものだった。彼女はそれでも、自分の生き方に誇りを持っているのだ。そう思うと、セテはピアージュの顔をまっすぐに見ることができなかった。
「……妹とはどうして生き別れになったんだ」
 自信を持てない自分がいやで、セテは彼女のことをもっと知りたいと思った。もっと彼女のことを知ったら、もしかしたら自分も変われるかも知れないといった幻想を抱きながら尋ねてみる。ピアージュはそんなセテの気持ちが手に取るように分かったのか、先日のように話を打ち切って寝たふりをするようなことはしなかった。
「レザレアって街、知ってる?」
「レザレアだって?」
 即座にセテの脳がフル回転し始める。それは今年の春の終わり頃のことだ。ロクラン辺境にある、工業で成り立つ小さな街。それが突然起きた爆発によって跡形もなく消失したのだった。街の中心部には大きくえぐられたクレーターができあがり、それが事故によるものなのか、天災によるものなのか原因は分からぬまま、中央諸世界連合の未処理事件として騒がれたのだ。
「つい最近までは、妹と一緒に暮らしていたんだよ。妹はね、占い師をやっていたの。と言っても、結局は人生相談みたいなものだけどね。妹は占いで、私は要人の護衛をやって稼ぎながらあちこち転々としていたんだけど、最後に落ち着こうと思ったのがレザレアだったの。あそこはとても過ごしやすい街だった」
 ピアージュはセテの手を軽く握り返してそう言った。そこで妹と暮らした日々を思い出しているのだろう。彼女の表情がみるみる幸せにほころんでいくのが分かった。
「妹はね、とても優しくて、外見もあたしとは正反対の女らしいかわいい子。それからあたしみたいに人を傷つける力じゃなくて、人を幸せにできる力を持っていた。人の未来が分かるんだって。彼女の占いはとても評判だったんだ。その傍らであたしは要人の護衛だとか暗殺を引き受けて稼いだ。妹はあたしが人を殺してきたのがすぐ分かるみたいで、いつも悲しそうな顔をしていたっけ。だからあたしは、もう剣を振るう仕事は辞めようと思ったんだよね。あの日までは」
 ピアージュがいったん話を区切ってセテを見つめ返した。セテは無言で相づちを打ってやり、彼女に先を促した。
「レザレアで起きたあの爆発事故、中央でもすごいニュースになったよね。あのときあたし、その現場に居合わせたんだ」
「なんだって!?」
 セテは思わず身を乗り出し、ピアージュの顔を覗き込んだ。原因不明の爆発事故で消失したあの街の生存者がいるなんて。
「セテ、あたしが生存者だってこと、中央にはナイショにしてほしいの。だって、ね?」
 もちろん、彼女が証言者として中央に行くことはかなわない。セテはとりあえず頷き、そしてまた彼女に先を続けるように促した。
「あの爆発はね、強力な術法の衝突によって起きたんだよ。すごかった。あんな術者、見たことない」
「術者? 衝突ってことは、戦闘で?」
「そう。ひとりは黒髪の背の高い女。髪の毛も長くてね、すごい美人だった」
 黒髪の女? 中央の術者だろうか。
「それからもうひとり。七歳くらいの小さな女の子。銀髪のかわいらしい子だったけど、子どものくせにすごい力だったよ」
「子ども? その子どもと黒髪の女がレザレアで戦ったってことか?」
 セテはついつい仕事のくせで尋問めいた口調になってしまうのを感じながら、ピアージュに尋ねた。ピアージュは頷き、それから額に手を当ててそのときの様子を思い出そうと努力する。
「うん、えーと……なんて言ったかな……。あ、そうだ。その黒髪の女がね、『裏切り者め!』とかすごい剣幕で叫んでた。小さな子ども相手になに? とか思ったし、ホントにあたしたちの目の前で言い争っていたから覚えてたんだけど……。そうだ、サーシェス。その小さな女の子、サーシェスって呼ばれてた!」
 サーシェスだと? セテは即座にロクランにいる銀髪の少女を思いだした。彼女は記憶がないと言っていた。だが、
「ピアージュ、その、サーシェスって名前、よくある名前なのかな。辺境とかでは」
 我ながらばかばかしい質問だとは思ったが、ぽりぽりと頭をかきながらセテは尋ねてみる。
「うーん、そんなに当たり前の名前ではないと思うよ。でも救世主《メシア》と同じ名前でしょ。親が救世主にあやかって付けるってことはあると思うけど」
「そうか、そうだよな」
 なぜか心が騒ぐが、セテはとりあえず自分を納得させる。ピアージュの話の中の少女は、七歳くらいの小さな女の子だ。自分の知っているサーシェスは、十八くらい。同一人物だと思うほうがおかしい。
「そのうち、黒髪の女が子どもに向かって術法を発動したのよ。街のど真ん中でよ。そのとき子どもが身を守るために放った術法と正面からぶつかって、大爆発。あとは中央でも知られているように、跡形もなく街は吹き飛んでしまったってわけ。たったふたりの術法でよ」
 術法の反動で周囲に多大なる被害を与えることは、中央でも知られている。だが、アートハルク戦争のときの集約型術法でもあるまいに、たったふたりの術者の衝突で街がひとつ消えるとは、にわかに信じがたい。やはり中央に報告するのはやめたほうがよさそうだ。
「あの爆発の際、あたしは妹の手を握って命からがら転移したつもりだったの。妹とはそのときはぐれて……。たぶんどこか別の場所に飛ばしてしまったかと思うんだけど、そのとき以来、あたしはキースを通じて傭兵組合に加入して、彼女を捜しながらあちこちで傭兵の仕事をして回ってる」
 ピアージュの話でセテはやっと我に返る。余計なことを考えていたことを彼女に見抜かれていたらどうしようと不安になりながら、彼女の手を握り返し、聞いているよと身振りで示してやった。ピアージュは安心したように頷き、そしてセテの顔をじっと見つめた。
「彼女はどこかで絶対生きてるって信じてる。だって、転移した直後まで、あたしは彼女の手をしっかり握っていたんだもん」
 そう言って、ピアージュはにっこりと笑った。彼女の笑顔がセテの心を躍らせる。やっぱり彼女にはいつも笑っていてほしい。セテは心なしかピアージュの手を握る自分の掌に力を込めた。
「……見つかるといいな。絶対、妹さんは生きてるって」
「ありがとう。セテ。なんかセテにそう言われるとホントにそんな気になってきた」
「そんな気になってきた、じゃなくて、そう思うんだよ。そう信じてるんだろ?」
「うん」
 ピアージュがまた笑った。セテもつられて微笑んで見せた。セテが笑ったのを見て、ピアージュはセテの顔を指さし、うれしそうに言った。
「ほら、セテだって笑ってるほうがいいよ。黙ってればいい男とか言われるでしょ?」
 そうしてピアージュはセテの顔を覗き込むように顔を近づけた。セテはちょっと驚いて後ずさりをする。
「これからはあたしがセテの笑顔を守ってあげる。いいでしょ?」
 ピアージュはセテの目の前でにっこり笑ったかと思うと、いきなりセテの唇に自分の唇を押しつけた。セテは驚きのあまりに情けない声をあげ、そのままベッドに倒れ込む。ピアージュが覆い被さるようにしてその上に乗っかったままだが、セテは大いに狼狽し、ピアージュを押し戻そうと必死になって抵抗する。
「バカッ! やめ、やめろって!」
「なんでよ! そんなにあたしのこと嫌いなわけ!?」
 ピアージュはセテを押し倒したまま彼を睨み付ける。
「違うって! そうじゃなくて!」
セテは首を振り、必死で体勢を元に戻そうとあがく。だが、聞き分けのない少女に抑えつけられてそれもままならない。
「だって、セテのこと好きになっちゃったんだから仕方ないじゃない」
 セテは驚いて力が抜けたのか、そのままベッドに倒れたままピアージュと向かい合う形になる。目と鼻のすぐ先で、ピアージュが照れくさそうに笑った。
「好きなんだもん。ずっと、セテといっしょにいたいよ。ロクランに帰っても、そばにいたいんだもん」
「俺は」
「知ってるよ。セテに好きな子がいるって。でもいいよ。あたし、ずっとセテを見守ってあげるから」
 真剣な表情でそんなことを言うピアージュ。セテはピアージュの髪に手をやり、遠慮がちにその短く刈りあげた頭をなでてやった。
「ピアージュ、俺は、その、俺も」
 こういうときに限って舌がもつれ、言葉がうまく出ないのをセテは呪った。そして気を落ち着けるために大きく咳払いをする。
「違うよ。俺も……お前のそばにいたい。なんかよくわかんないけど、お前がそばにいるとすごく落ち着くんだ。だから」
 セテが言い終わらないうちに、ピアージュは髪をなでるセテの手に自分の手を添え、それをそっと頬に当てた。気持ちよさそうに目を閉じるピアージュの顔がいつもの男勝りな表情ではなく、恋をする年相応の少女のものであることに気付いて、セテは思わずごくりと喉を鳴らした。心臓が高鳴るのを知られるのは恥ずかしかったが、かまわずセテは彼女を引き寄せて抱きしめ、彼女の身体を入れ替えて自分が上になる。
 白いシーツの上にピアージュの赤い髪がよく映えてとてもきれいだった。彼女の大きなアーモンド型の瞳がじっとセテを見つめる。その唇が小さく動き、自分の名前を呼んだのを確認すると、セテはピアージュに優しく口づけた。小さな吐息に混ざって鼻にかかったような甘い声が漏れる。何度も何度も角度を変えて唇をついばむと、ピアージュの指が愛おしげにセテの金の髪にからみついてきた。
 遠慮がちな吐息はやがてうわごとのようにセテの名前を呼び始める。それが熱をねだるような甘い香りがして、セテはたまにそれに答えてやりながら、優しく激しく、少女の全身を慈しんでやった。
 例えひとときの安らぎだったとしてもかまわなかった。一週間の休暇が終わるぎりぎりまで、一緒にいられればそれでいい。一緒にいることで、自分の帰る場所があるのだと、まだ自分が必要とされているのだということを実感したかったから。

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