第七話:セテの決意

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 ロクランの城下町は相変わらずにぎやかで、確かに若い女の子にとっては魅力的な遊び場だ。街道の両脇に並ぶさまざまな市では、物売りと買い物客のにぎやかな話し声が聞こえるし、売っているものも目を引くものばかりで、サーシェスはついつい立ち止まって店の中を覗こうとしてしまう。そのたびに、仏頂面のフライスに腕を掴まれ、引き戻されてしまうのだった。
 ふとサーシェスが気がつくと、街を行き交う若い女性たちがみなフライスを見つめ、ため息をついたりにこやかな笑顔を振りまいている。当のフライスはというと、相変わらずの仏頂面で、女性とすれ違っても顔色ひとつ変えるわけでもない。さすがというかなんというか、改めて大僧正がフライスについて言及していたことを思い出してしまう。
 女性にはモテるが、まったく興味がない。
 あんな仏頂面のどこがいいんだろうと首を傾げながら、サーシェスはずんずんと歩いていってしまうフライスの後を小走りについていくのだった。
 フライスはにぎやかな大通りを曲がり、薄暗い路地に入っていった。じめじめとして、不潔で不衛生な臭いが立ちこめる通りであった。
 こんなところに何の用だろうと首を傾げていると、半ば倒壊しかかったような古いアパートメント群の立ち並ぶ貧民街にさしかかった。
「あー! フライス様だー!!」
 突然、アパートの中から声がした。数人の子どもたちがわらわらと走り出してきて、フライスのまわりに集まってきた。髪はぼさぼさで、薄汚れたぼろぼろの服を身にまとい、手足はがりがり。しかし、生き生きとしたその表情やきらきらと輝く瞳は、外見はともかく、ラインハット寺院にいる幼少部の子どもたちを思い起こさせるのだった。
 フライスは腰を下ろすと、周りに集まってきた子どもたちの頭を優しくなでながら、傍らの鞄の中からいくつもの小さな包みを取り出すと、それぞれの子どもたちにひとつずつ手渡した。
「いつもありがとう! フライス様! こないだもらった甘いお菓子、とってもおいしかったよ!」
「そうか、それはよかった」
 フライスはその子どもの頭を再びなで、優しく微笑み返すのだった。
「お母さんの具合は?」
「うん、だいぶよくなってきたけど、今日はちょっと咳が出るみたいだよ」
「……そうか」
 フライスは立ち上がり、もう一度子どもたち全員の頭をなでてやると、目の前にある今にも崩れ落ちそうなアパートの階段を上り始めた。
 サーシェスが一言も口をきけずにその場で立ちつくしていると、フライスが階段の上で振り向いて、目で登ってくるように合図をしている。サーシェスは重い鞄をひきずりながら、フライスの後について階段を登り始めた。
 その役割をまっとうに果たしているのかも分からないようなドアを軽くノックすると、中からか細い声が聞こえ、フライスはそれに答えるようにドアを開けた。
 中は狭く、薄暗くて、アパートの横を流れる下水の不衛生な臭いが漂ってきて、サーシェスは思わず息を止めてしまう。部屋の奥にあるベッドの上で、誰かが半身を起こしているのが見えた。年はまだ若いだろうに、貧困と疲労と病魔に冒され、中年のような黒ずんだ肌をした女性だった。崩れかけた壁や薄汚れた室内が、病人によいわけがない。
「まあ、フライス様、今日もいらしてくださったのですね」
 先ほどの少年たちの母親なのだろう。彼女は何かお茶でも、と体を起こそうとしていたが、フライスがそれを制止し、ベッドの傍らにイスを持ってきて腰掛けた。
「おかげさまで、だいぶよくなりましたのよ。今日は少し咳が出るくらいなんです」
 少年の母親は弱々しい声で笑って見せた。
「あら、フライス様のガールフレンド? かわいいお嬢さんね」
 彼女がサーシェスを見てそう言うと、フライスは困ったような顔をして、
「そんなんじゃありません。私の弟子のひとりです。サーシェス、その鞄をこちらへ」
 フライスに言われてサーシェスはようやく我に返り、さっきまで肩に掛けていた重い鞄をフライスに手渡した。鞄の中には、何種類かの薬や食料になるものがいくつも詰め込まれていた。フライスは薬の調合用瓶を取り出し、少年の母親の容態を聞きながら二〜三種類の薬を調合した。
「本当に……フライス様のおかげですわ。こんな薄汚い貧民窟へ来てくださるお医者様なんていないもの」
 少年の母親は目を細めて、薬を調合するフライスの手元を見つめていた。サーシェスはフライスの横顔をじっと見つめていたが、フライスはサーシェスを気にとめるわけでもなく、調合の終わった薬を丁寧に一服ずつ包み、少年の母親に手渡した。
「これを毎日食後に服用してください。また一週間くらいしたら様子を見に伺います」
 母親はうれしそうに包みを手にすると、深々とフライスに頭を下げた。そのとき、ドアが開いて、恰幅のいい中年の婦人が入ってきた。
「ああ、フライス様、こちらでしたか。うちの婆さんが昨日階段から落ちちまってね、後でうちにも寄ってくださいな」
「今終わったところです。伺いましょう。骨を折ったのですか?」
「いや、骨は折れてないみたいなんだけど、打ち身がひどいらしくて、起きあがるのもやっとなのよ」
 フライスは病床の女性に軽く礼をすると、鞄を担ぎ、中年婦人の案内する後について部屋を出ていった。
 貧民窟のけが人、病人をひととおり見て回り、アパートから出てきたフライスは、やっと一息つくように肩を回し、不思議そうな顔をしているサーシェスを見やった。
「……どうして? と聞かないんだね、サーシェス」
 フライスにそう言われて、サーシェスはうつむいた。街に出られるからと浮かれていた自分が急に恥ずかしくなってきた。
「ここはね、ロクランの中でもいちばん貧しい人たちが暮らすスラム街だ。本来ならここはロクラン政府から居住禁止区域に指定されているところだけどね。彼らは貧しいが故に、この土地を出ていくことができない。ここで暮らす人たちの生活水準はひどいものだろう。下水や汚水溜の中で暮らしているようなものだから、病気は常につきもの。でも、けがや病気をしてもこんなところまで来てくれる医者はいない。何しろ、彼らは医者にかかるお金さえないのだから」
 フライスはあちこちの病人やけが人に渡して軽くなった、薬や食料の入っていた鞄をかけ直し、歩き始めた。
「さっきの子どもたちを見ただろう? 年の頃は寺院にいる幼少部の子たちとほとんど変わらない。でも、彼らは乏しい食生活で栄養失調寸前だから、うちの子どもたちよりもずっと小さく見えるだろう。それなのに、どうして彼らはあんなに生き生きとしていられるんだと思う? サーシェス?」
 突然の質問に、サーシェスは答えられない。考えていると、その先をフライスが続けた。
「彼らには今しかないからだよ。今を生きなければ、彼らは明日さえも生きることができないからだ。それがどういうことか分かるかい? 自分で生きようとしなければ、誰も助けてくれない。つまり、ロクラン政府だけじゃない、中央諸世界連合は彼らを見放してしまったも同然だということなんだよ」
 サーシェスは深くうなだれたまま、遠くで遊んでいるスラム街の子どもたちの声を聞いていた。記憶がないというだけで、自分はなんと幸福な環境にいるのだろうか。それを不幸だと思っていたなんて、なんという欺瞞……。
「私は、術法で人々の心を癒したいと思っているが、実際人の心を癒すことができるのは術法だけではない。もちろん術法で治すことのできるたぐいの病気、けがもある。でも、彼らに本当に必要なものは術法以外もの、それは食料だったり、薬だったり、話し相手だったりとさまざまだ。それで、私は時間のあるときにここへ来て、彼らを話をしたり、世話をしたりして過ごしているんだ。荒れた人々の心は、なままかなものではないからね」
 フライスはそう言うと、肩を落としているサーシェスを促して大通りへと歩き始めた。
「かつて大僧正様もお若い頃、各地の貧民窟を回って同じようなことをなさっていたときがおありだった。最初、私はそれを見習ってみただけだよ。でも、そのうちに、他人に必要とされることがどんなにすばらしいか、どれだけ自分が人に必要とされているかを実感できるようになったんだ。さっきの子どもたちの顔、見ただろう? ラインハット寺院では当たり前のように出されるお菓子だけど、彼らにとってはご馳走なんだよ。あんなにうれしそうに、あんなにおいしそうに食べている姿を見ると……」
 フライスは照れくさそうに微笑んだ。こんなにうれしそうに話すフライスは見たことがない、とサーシェスは思った。確かに、フライスはラインハット寺院でも年少の子たちの面倒見はいい。基本的に人の世話をすることは嫌いではないのだろう。でも、あんなに優しく笑いかける姿は、少なくとも寺院内では見たことがなかった。
 大通りにさしかかると、ふとフライスは足を止めた。見ると、目の前に術者のローブを身にまとった男が立ちはだかっていた。ただならぬ雰囲気が流れ、フライスはサーシェスをかばうように後ろに下がらせた。
「……ラインハット寺院のフライス様とお見受けするが?」
 男はゆっくりと尋ねた。フライスはさして驚いた様子でもなく、
「いかにも、私がフライスだが、何か?」
 男は来ているローブの裾を払うと、
「ロクラン随一といわれる腕前を見せていただきたい。お手合わせ願おう!」
「……こんな人通りの多い場所で術比べとは、穏やかではないな」
「問答無用!」
 男がローブを翻すと、無数の氷の矢がフライスめがけて放たれた。この男がただならぬ魔力を持った術者であるというのは、見てのとおりらしい。
 フライスは小声で呪文を詠唱し始め、素早く両手で印を結び始めた。迫りくる氷の矢に、サーシェスが目をつぶる。すると、ふたりの前に護りの結界が張り巡らされた。男の放った氷の矢はそ結界にはじき飛ばされ、豪快に四方に飛び散った。周囲の人々をも巻き込む大惨事となるかと思いきや、サーシェスは自分たちの周り以外にも巨大な結界が張り巡らされ、術から護られているのに気がついた。
「術を競うためには周りの人間を巻き込んでもかまわないというその根性が気に入らない。頭を冷やすんだな」
 フライスが冷酷に言い放ち、印を結んでいた手をかざすと、無数の雷撃が男を直撃した。男はとっさに結界を張ろうとしたが間に合わず、フライスの強力な雷撃を食らってしまうハメになった。
 雷撃のおかげで男の着ていた服はぼろぼろ。すんでのところで男は素っ裸を免れたが、周りにいた婦女子の悲鳴を浴びせられ、男はずり落ちそうになる下着を押さえながらフライスの足下にひれ伏した。
「た、たいへん失礼いたしました!! 私の負けでございます! どうかご無礼をお許しください!」
 男は情けない声でフライスに懇願する。サーシェスは狼狽する男の様子がおかしくて吹き出してしまっているが、フライスはあきれたように彼女の笑いを制して、うずくまる男を見下ろす。
「……往来で術を使うなんて非常識だとは思わないのか。まったく」
「は、お怒りもごもってもでございます。しかし、このロクランでもっとも強く、次期大僧正にと目されているフライス様に勝てば、私にも次期大僧正のチャンスがくるのではと……!」
 男の言い分に、フライスはため息をつきながら答える。
「……私は大僧正になどなるつもりはない。大僧正など、なりたい者がなればよかろう」
 フライスはそう言い残すと、わらわらと集まってくる人垣を面倒くさそうによけながらその場を後にした。残された男は不思議そうな顔をして、ポカンと口を開けてフライスの後ろ姿を見送っているのだった。
「どうしてあんなことを言ったの?」
 サーシェスは先ほどのフライスの発言について尋ねた。フライスは面倒くさそうに髪を掻き上げると、
「言ったとおりだよ。私は大僧正になるつもりなど毛頭ない。それに、そんなものになりたいがために術比べを挑まれるのはごめんだ」
 サーシェスはフライスの横顔を見つめていたが、フライスの言葉には本当に他意はないらしい。それにしても、サーシェスはフライスが攻撃術法をふるうのを、今日はじめて見たことになる。その圧倒的な強さに、サーシェスはひどく感動していた。
「でも……本当に強いのね、フライス。私、あなたが攻撃術法を発動するの、初めて見ちゃった」
 サーシェスはにっこりとフライスに微笑みかけ、スキップし始めた。フライスはとまどったような顔をしたが、やがて複雑な表情で微笑み、遠くを見つめた。
「……人を傷つけるための力なんて欲しくはない。私は人を守るための力を持つ、人に必要とされる人間でありたい……」
 ふと、サーシェスはつい先日、聖騎士レイザークが言い放った言葉を思い出した。

 剣士はいざというときに、自分や自分の大切なものを守るために戦わなければならない。
 平時には剣士なんて所詮人殺しだからな……

 どういうわけか、この喧噪にたまたま居合わせた青年がいた。セテは恋敵でもあるフライスの絶大な強さをまざまざと見せつけられて、ますます自己嫌悪に陥ってしまうのだった。
「……くっそーー! 野郎、めちゃめちゃ強いじゃねーか! サーシェスがいたってのに、声もかけられなかった……! はあ……俺ってば何やってるんだろう……」
 セテはがっくりと肩を落とし、サーシェスとフライスの後ろ姿を見送ると、ひとりさみしく人混みを後にするのであった。






 中央騎士大学学長サンスムは、提出された出願書とそれを持ってやってきた学生の顔を交互に見やりながら、確認するかのようにゆっくりと尋ねた。
「もう一度確認しますが、これでいいですね。変更はききませんよ、トスキ君」
 学長の机の前で神妙な顔をして立っていたセテが「はい」と頷いた。普段は前ボタンもろくにしめない制服を、今日のセテは襟元のホックまでぴっちり締めて着用していた。
「君のような優秀な学生が剣士になるのを諦めたのではないかと、我々教官一同、心配していたところだったのだよ。いや、しかしその気になってくれたのならこんなにうれしいことはない。がんばりなさい」
「どうも」とセテは気のない返事をしながら頭を軽く下げた。君は確かにレベル3の術法を身につけていないために聖騎士の試験資格は与えられないが、君の成績なら簡単にどんな試験でも通過するだろう、きっと君ならどこに行ってもレオンハルトのようにすばらしい業績を残せるんじゃないか……。学長はセテの気持ちはお構いなしに勝手なことばかり話し続ける。まったく、大人ってのは本当に余計なことばかり口に出してくれる。俺がどうしようと関係ないじゃないか、と、セテはいまだぺらぺらとまくしたてている学長の話もろくに聞かず、学長室の中の調度品や高級絨毯の縁を見つめていた。
「……では、本日をもって中央特務執行庁への出願書は受理されます。ぎりぎりですがね、明後日の試験は全力を尽くしてがんばるように。我々も心から応援しています。では、もう下がって結構ですよ」
 学長は書類から目を離し、丸いめがねでセテに笑いかけると、書類をファイルに綴じ込み、机にしまった。セテは一礼をして学長室から逃げるようにして去っていった。
 廊下の片隅で一息つき、襟元のホックをはずす。この日、彼はとうとう中央特務執行庁への出願書を提出したのだった。
 実際、学長がいうように、セテはつい最近までどこにも出願する気はなかった。アジェンタス騎士団も、レトに勧められて一度は考えたけれど、なんとなく乗り気になれなくて出願はしなかった。それでもアジェンタス騎士団は、騎士見習いからすれば花形職業でもあるが、セテには眼中まったくなしだったのだ。他にも、各地に私設の騎士団があったりするのだが、どれも彼の心をせき立てるものではなかった。所詮はその地域の守護剣士止まり、というのが定石だからだ。かといって、中央特務執行庁が、特別にセテの心を揺さぶったかといえば、それもそうではないのだった。
「おーーい!! 聞いたぞ! セテ!」
 廊下の向こう端から、悪友レトが大声を張り上げてこちらに手を振っている。まだレトには一言も言っていないというのにすでに知っているとは、彼の情報網はあなどれない。セテは小さく肩をすくめ、親友が駆け寄ってくるのを待った。
「この野郎! 俺に何の相談もなく! 中央特務執行庁を受けるなんて一言も言ってなかったじゃないか」
 レトの言葉には叱責の片鱗も見られず、むしろセテの下した決断を快く思っているようだ。廊下を駆けてきたために少し荒い息でレトはそう言うと、相棒の肩を勢いよくたたきつけた。
「まぁな。とりあえずは腕試しのつもりで受けてみようかなと思って」
 セテは照れくさそうに頭をかきながら、友人の肩をお返しにこづく。レトは軽く口笛を吹くようなマネをしてみせると、
「やっぱ格が違うよなぁ〜。とりあえず、なんてな。余裕じゃん。でもさ、実のところ教官連中は、お前が今年本当に出願しないのかと思ってヤキモキしてたらしいぜ。こんだけの優秀な学生が、ってな。俺だって内心気が気じゃなかったんだぜ?どういう心境の変化だよ」
 心境の変化。確かにそうかもしれない。聖騎士の試験を受ける資格が取れるまでは、つまり、苦手な術法が身に付くまでは、本当はいくらでも留年するつもりでいた。そのためにセテは超難関といわれるロクラン王立中央騎士大学に、母親の反対を押し切ってまで入学したのだから。学費は奨学金でまかなえるため、ほとんど困らない。それに、成績優秀者にはさらに特別補助金が支払われ、セテもその恩恵にあずかっているので、じっくりと腰を落ち着けていられる。
 だが、それも数日前までのこと。先日ロクラン城下町で偶然見かけた、ラインハット寺院文書館長フライスの圧倒的なまでの強さを見せつけられるまでは。
 子どもっぽいとは思ったが、恋敵に対する敵対心とでもいうのか。
 剣と術法。異種格闘技ではあるが、自分にはない強さを見せつけられたことで、セテは自分の行動基準を全部否定されたような気になってしまっていた。
 その日は漠然とした不安が胸をしめつけて、柄にもなく寝付けなかった。フライスが攻撃術法をふるう様と、十年前浮遊大陸で見たレオンハルトの超絶的な剣技とが、交互に頭の中にフラッシュバックしてしまうのだった。そういえばレオンハルトも、最初からあんなに強かったのだろうかとふと思ったとき、セテの頭にかかっていた霧のようなものが突然晴れたのだ。
 それならば経験を積んで強くなればいい。
 翌日には、中央特務執行庁に関するデータを読みあさり、大学の総務部を通じて出願書を取り寄せていたのだった。中央特務執行庁でなくとも、騎士団を持っている法人であれば、正直どこでもよかったのだ。試験日に間に合えさえすれば。
「実務経験を積んで強くなりたかっただけだよ。諦めたわけじゃない」
 セテが聖騎士になることを諦めたわけじゃないことは、レトも十分承知していたので、もうそれ以上はなにも聞かないことにした。レト自身は、先週、故郷アジェンタスでアジェンタス騎士団領の試験を終え、もうすでに入団が内定しているところであった。試験をこれから控える人間の神経を高ぶらせるようなマネはできない。
「お前なら絶対受かるよ! なんてったって成績は五指に入ってるんだからな。卒業式で表彰されることは間違いなし! おまけに中央特務執行庁の特使だなんて、お袋さんも鼻高々だぜ」
「よせよ、まだ決まったわけじゃない」
 レトはいつもこうして自分を勇気づけてくれる。だめなものはダメとはっきり言ってくれるし、落ち込んでいるときには黙って愚痴を聞いてくれたり慰めてくれる。卒業して社会人になっても、こんな友人に巡り会うことはもうないのではないかと思ってしまう。卒業しても、レトとは一生の喜怒哀楽を分かち合う友人でありたい。セテはふとそんなことを考えながら、レトの顔をまじまじと見つめる。
 決して美男子というわけではないが、一度会ったらすぐに心を許してしまいそうな人なつこい笑顔。茶色いくるくるした巻き毛に、鼻のあたりに散らばるそばかすが、彼の人の良さを強調しているようだ。彼なら卒業しても、きっと誰とでもうち解けてしまうのだろう。アジェンタスの封鎖された山に探検しに行った子どもの頃は、ちょっとだけ臆病ないたずら小僧だったのに、今では自分の方がよほど臆病な子どもだ。
「なに人の顔ジロジロ見てんだよ、気持ち悪いな」
 レトがセテの視線に気づいて肩をこづいた。セテは照れ隠しにレトの脇腹に軽くパンチを当てた。レトは笑いながらそれをかわして、ふたりは子犬のようにじゃれ合いながら廊下を歩きだした。
 中央特務執行庁の試験は明後日に控えている。それまでは、サーシェスに剣の稽古をつけるのはおあずけだ。





 中央騎士大学の資料館でひととおり中央特務執行庁の歴史や特使についてのおさらいをしたあとには、構内には人影もまばらな状態であった。初夏で日が長くなっているとはいえ、正門前の時計台を見上げると、すでに中央時間で七時をまわっていた。
 いつもなら、夕方5時過ぎくらいにはサーシェスがこの正門の前に立って自分を待っている。華奢な体に似合わない剣を携えて。
 王立博物館で初めて出会ったときから妙に意気投合して、いつの間にか彼女のペースに乗せられて剣を教えることになってから二週間。毎日のようにしごいてしまったけれど、彼女は弱音を吐くこともなく自分の特訓に懸命についてきた。でも、本当に彼女は純粋に剣を習いたいだけであって、実は誰でもよかったのかもしれないなんてふと思う。昨日の稽古のあとに、中央特務執行庁の試験を受けるために、とりあえず明後日までは稽古を一時中止する旨を伝えたときには、少し残念そうな顔をしただけだったように感じる。結局、自分ひとりが勝手に盛り上がっているだけで、彼女にとっての自分は、専門的に剣を教えてくれる教官のひとりにすぎないのかもしれない。
(そういえば、あれから個人的な話をしたことなんてほとんどなかったもんなぁ……)
 最初の稽古の時、サーシェスが自分が記憶喪失であることを打ち明けたあの日以来。馬鹿な教官の話や友人との交友、普段の生活についてとか、彼女の生活するラインハット寺院内で子どもたちが引き起こす愉快な事件だとか、稽古の合間に話すのは本当に差し障りのないところばかり。セテもセテで、彼女に一目惚れをしているということを自ら認めてしまってからは、かわいそうなくらいに恐縮してしまい、彼女と交わす言葉のひとつひとつに意識しすぎてしまうのだった。
(こんなんじゃ愛想つかされるのも時間の問題だよな。もっとちゃんとしゃべっておくんだった)
 セテは親友のレトの交友範囲をうらやむときがある。セテ自身は人付き合いがいいのだが、女の子の友人はまったくいない。学内に女の子がほとんどいないからと言ってしまえばそれまでではあるのだが、それに比べて、レトは適度に女の子とも付き合っているし、学外にも何人も女友達がいる。いったいどうやってかは分からないが、彼はよく女の子を学内に連れてきてセテにも紹介してくれてもいた。また、セテは彼の知り合いの女の子たちとの飲み会にも誘われたことはあるのだが、適当にしゃべっているうちにつまらなくなってしまい、帰ってしまうこともしばしばだったのだ。だいたいにおいて、飲み会で女の子たちがセテに対して「かっわいーー!」とかなんとかの禁句を口にしてしまい、セテがむっつりと黙りこくってしまうのだった。
 彼女が自分を必要としなくなるのは、きっとそう遠くないだろう。彼女の剣の腕前は確実に磨きが掛かっていて、騎士大学の入門生としては十分すぎるほどの実力はついてきている。そして、この夏自分が中央騎士大学を卒業してしまえば、そして中央特務執行庁への勤務が決まれば、否応なしに彼女から遠ざかってしまうのだから。
 ふと、こんなことを考えている場合ではないとセテは自分を戒め、下宿先へと足を進めようとしたそのとき、正門前にある噴水の脇でひざを抱えていた人影が体を起こし、こちらを見つめていた。
 セテは心臓が飛び出るくらい驚き、そして涙が出るくらいの衝撃を覚えた。その人影は長い銀髪を揺らし、こちらに向かって手を振りながら駆け寄ってきた。
「……サーシェス……!」
 実際に、セテは涙が出そうになるのをこらえるのに必死だった。約束もしていないのに、今自分が会いたいと思っていた少女が、セテの姿を見てうれしそうに駆け寄ってくるのだから。
「もう帰っちゃったかと思って心配したんだけど、ここでずっと待っててよかった!」
 サーシェスはその大きな瞳でセテに微笑みかけた。
「……もしかして……ここでずっと……?」
 声が上擦ってしまいそうになるのを抑えながら、セテはどうにか言葉を吐き出す。サーシェスはにっこり笑って、片手に持っていた包みを差し出した。
「明後日、試験なんでしょ?」
 差し出された包みを受け取り、そっと開いてみると、青銅製の薄くて小さな丸い円盤にチェーンのついたアクセサリーのようなものが姿を現した。
「お守りよ」
 サーシェスはいたずらっぽく笑う。円盤の表面には、術者が術法に使う魔法陣と、そのまわりに神聖文字が刻まれている。
「大僧正様にお願いして、力と知恵の源を封じ込めてもらったの。試験とかに効果てきめんなんですって!」
 セテにはもう彼女の言葉がほとんど聞こえない。サーシェスが自分のために護符を持ってきてくれた、ただそれだけのことにひどく動揺して、そしてひどくうれしくて。
「なんでも、汎大陸戦争で倒れた救世主《メシア》の名前にちなんだ強力な護符らしいの。『力と叡知』を表す言葉が刻んであるんですって。ほら、私、あなたには教えてもらうことばかりでなんにもお礼できないから、せめてこのくらいのことと思って。……セテ?」
 サーシェスは不安そうにセテの顔を見つめる。セテは護符を見つめたまま動かない。
「……もしかして……余計なお世話だった……?」
 サーシェスはセテが怒っているのではないかと思い、声のトーンを少し落とす。セテは突然はじかれたように背筋を伸ばし、大げさなくらいに首を横に振って見せた。
「そんなことあるもんか! 本当に……うれしくてその……」
 信じられるか? 彼女が俺に護符を持ってきてくれたなんて? 約束もしていないのに、俺がとっくに帰ってしまったかもしれないのに、ここでひとりずっと俺が出てくるのを待って。お礼だなんてとんでもない!
「ありがとう、サーシェス。大切にするよ」
 セテが礼を言うと、サーシェスはいっそううれしそうに笑った。本当に美人なのに、その笑顔にすら媚びるところがないのが彼女のいいところだ。
「試験、がんばってね」
 セテは頷き、その小さな護符を見つめた。救世主(メシア)の名前を刻んだ護符だって? 本当に効き目がありそうで、首に掛けるのも恐ろしいくらいだ。救世主の名前……? そういえば、レオンハルトは彼女の名前すら口に出さなかったな。
 すると、サーシェスはセテの考えていることが手に取るように分かるのか、ちょっとためらいがちに口を開いた。
「あのね、言うのも恥ずかしいくらいなんだけど、驚かないでね。救世主って、私と同じ名前なんですって。『サーシェス』。サーシェスって、偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の言葉で『力と叡知』を意味するそうよ」
 その瞬間、セテは十年前の空中楼閣での記憶が鮮明によみがえる。灰色にくすんだがれきの山の中でただひとり輝いていた、水晶の色の女神。ああ、そうだったな。黄金の剣士が『古い言葉』だと言っていた。見知らぬ言葉で歌われた鎮魂歌も、自分の名前も、そして、彼女の名前も。
「力と……叡知……」
 セテは噛み締めるように彼女の言葉を繰り返した。まるで役者になりたての新人が、一言一句台詞を覚えるかのように。そしてその言葉の意味が、砂漠の海に突如降り注ぐ恵みの雨のように、ゆっくりと心にしみこんでいくにまかせてみる。
 彼女に対する生身の感情は、すでに消え失せてしまっていた。好きだとか嫌いだとか、隣にいたらきっと見栄えがするとか、もうそんな下世話なレベルじゃないんだ。彼女は俺のために何かお礼ができないか、なんて考えていたんだぞ。死んでもいいなんて大げさなことはいわないが……でもやっぱり死んでもいいくらいうれしい。いや、試験が終わるまでは死ねないな。俺はもう千人力だ。明後日の試合も負ける気がしない。だって俺のバックには救世主がついているようなもんだぞ? 救世主と同じ顔をして同じ名前を持っている少女が、俺のために救世主の力の源を封じ込めた護符を持ってきてくれたんだから!
 サーシェスの笑い声でセテはふと我に返った。もしかして俺、今のを口に出して言ってた?
「だって、今いろんなことを考えているんだぞって顔してるんだもん。セテってすぐ顔に出るから……!」
 まったくそのとおり。自分でもいやになるくらい顔に出るんだ。ポーカーフェイスなんて俺にできるわけがない。でも、とりあえずは取り乱すことなく彼女にお礼を言えてよかった。もう一度、セテはサーシェスに心からの礼を述べた。そうだ、いっそのこと、受かる受からないは別にして、試験が終わったら彼女を食事にでも誘ったらどうだろう。そうだ、それがいい。がんばれ! 俺!
「あ、あのさ、サーシェス?」
「はい?」
「試験が終わったら、しょ、食事でも一緒にどうかなと思って……」
 どもるなって、俺のバカ!
 サーシェスは一瞬びっくりしたような顔をしたが、すぐににっこりとあのかわいらしい笑みを浮かべて答えた。
「いいわよ。試験が終わったら、レトも呼んで三人で打ち上げしましょ!」
 ああ、俺がバカだった。彼女は彼女なりに、「最善の策」ってヤツを考えてくれていたんだな。






 中央特務執行庁の試験は、ロクランの城下町一番街にある、中央特務執行庁支部庁舎内で行われた。
 中央諸世界連合の一機関である中央特務執行庁は、各国に官舎を持っており、特使も大勢派遣されてはいるが、ここロクラン王国の官舎はいちばん古く、そしてどこよりも立派であった。朝の八時頃から、試験を受ける学生たちが次々に、ロイギル《旧世界》風の装飾が施された贅沢な官舎の門をくぐっていくのが見えた。
 汎大陸戦争の混乱が聖騎士《パラディン》レオンハルトやそのほかの勇士たちによって鎮圧され、新しい国々が誕生した後、レオンハルト自身の提案によって生み出されたのが中央諸世界連合であった。その理想は、列強の国々と辺境の小さな部族の、利益共存と和平の存続であった。しかし、現実には中央諸世界連合が実効力を持たないため、その高貴なる理想の実現にはほど遠いといわれている。現に、先日のニュースでは辺境の国、デリフィウスとレイアムラントが中央諸世界連合を離脱したため、中央諸世界連合の弱点をつらつらとあげつらう批判家たちにかっこうの材料を与えてしまっていた。
 それでも中央特務執行庁は、中央諸世界連合のなかではもっとも実効性のある組織であった。数々の武勇と信頼を勝ち取る鉄の淑女、ラファエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム将軍を頭に抱き、軍事専門家や剣士をはじめとする、いわば戦争のスペシャリストがここに籍を置いている。ロクラン地方はフォリスター・イ・ワルトハイム将軍の直轄地でもあり、優秀な剣士の青田買いも積極的に行われているようだった。また、頭目のワルトハイム将軍は、デスクワークを嫌い、今でも現場で指揮を執っているというのだから、セテにとっては中央特務執行庁の選択もあながち悪いものではない。セテの言うところの「楽しませてくれる上司」というわけだ。
 午前中いっぱいの頭が痛くなるような筆記試験、口述試験が行われた後、午後は実技試験が行われる。昼食を終えたあと自分の番がくるまでは、剣士見習いの学生たちは腹ごなしに中庭に出て、思い思いに素振りを始めたりしていた。セテも自慢の愛刀「飛影(とびかげ)」を携え、広々とした中庭へ続く階段を下りて行くところであった。
 セテは制服の胸のあたりを抑え、護符の感触が肌を刺すのを確かめる。救世主《メシア》の名である「力と叡知」を意味する神聖文字を刻んだ、青銅の小さな丸いペンダント。サーシェスが彼のために持ってきてくれたものだ。
 先日のやりとりを思い出し、セテは忍び笑いをする。本当に今日は負ける気がしない。なんと言っても、救世主とサーシェスという幸運の女神がふたりも自分についているのだから。
 ぐるりと中庭を見渡す。屈強そうな筋肉だるまのような青年から、どうしてこの場にいるのかも理解できないような見るからに貧弱そうな者もいる。だが、人は見かけだけで判断できない。特に剣士の場合は、その外見にどんな能力を隠しているか分からない。弱そうに見えるヤツほど強かったり、中には卑怯な手を使って勝利を奪い取る者もいるかもしれない。
 久しぶりにセテは心地よい緊張感を味わっていた。武者震いがする。何か月か前に聖騎士レイザークに負けた以外は負け知らずのセテであったが、それも中央騎士大学の中でのこと。今日の相手は現役の特使だ。自分より強いヤツに勝負を挑み、勝利を勝ち取ることほど、セテにとって喜ばしいことはない。
 名前と受験番号が呼ばれた。セテは飛影の鞘を軽く引き抜き、その刀身に軽く口づけをする。スパーリングパートナーは、なんだかへんてこな名前の現役特使だったが、セテには相手の名前とか地位とかいった余計なものは聞くに値しない。セテは試験場内に入った。いつものように、頭のどこかでガンガンと鐘を鳴らすような音が響き渡る。剣を交えるときの一種の昂揚状態とでもいうのだろうか。体内に血液が駆けめぐっていくのがはっきりと分かる。
 セテは相手に軽く礼をすると愛刀の鞘をゆっくりと払い、もういちど魔除けに飛影の柄に口づけをして剣を構えた。






「あら、あの子、本当に来ているのね」
 中央特務執行庁長官、ラファエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム将軍は、臨時執務室の窓から中庭を見下ろしながらそう言った。中庭ではちょうどセテが、彼女の部下でもある特使と儀式的に剣を交差しているところであった。
「聖騎士ではなくて中央特務執行庁に志願するなんて、自分の役どころをしっかりとわきまえているようじゃなくて?」
 ラファエラは皮肉な笑みを浮かべて部屋の中のソファに腰掛けている大男を振り返った。
「ふん」
 レイザークはおもしろくなさそうに鼻を鳴らした。その様子を見て、ラファエラはますます愉快そうに微笑み、白髪の混じった短い巻き毛をなでる。ソファに沈み込むように座っているレイザークの表情は硬い。だが、攻撃的な感情が支配しているのではなく、半分は面白がっているようだ。
「あの坊主が自分のところにくるように仕向けたんじゃないのか? ラファエラ?」
「まさか! 人の心の中まで操作できるほど、中央特務執行庁は全能じゃありませんよ。偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》じゃあるまいし」
 仏頂面で鷹揚に足を組み、腕を組んで睨み付けているレイザークに、ワルトハイム将軍は手のひらをひらひらさせて笑いかける。
「それにあの子は『坊主』じゃありませんよ。貴重な『戦士』ですからね、口に気をつけてほしいわ」
「ふん、義姉さんにかかれば誰でも戦士になっちまうんだろうな。そのうち、市場で値切るオバさんまで戦士に格上げされちまうんだろうよ」
 レイザークの軽口をラファエラは無視し、窓の下のふたりの剣士の様子を見守る。






 ……五分でカタをつけてやる!
 男は剣を構えたまま、心の中で舌なめずりをした。
 目の前の学生は、彼にとっては本日四人目の対戦相手でもあった。現役特使の役割のひとつとはいえ、生っちろい学生相手に剣を振るうことは、彼にとっては少々屈辱的なものであった。先の三人とも、ときには花を持たせてはやったものの、結局は猛攻撃で追い込んだのだった。
 はじめの十秒間は、相手の出方を待つためにふたりとも剣を交差させたまま動かなかった。男はその間に、目の前にいる中央特務執行庁志望の青年を値踏みする。
 金髪に青い目なんて絵に描いたような容姿を持つこの青年。女みたいな顔をしているくせに、よくもまぁ中央特務執行庁に志願するなんて大志が抱けたものだと男は思う。どれ、今回も一丁軽くあしらってやるか。
 男が攻撃の体勢に入るよりも数秒早く、セテは攻撃に出た。スラリと長い細身の刀身が、特使の体に迫る。特使は体を引きその攻撃を交わすと、自らの剣を握り直し、セテに斬りかかった。
 鐘の鳴るような音がして、刃と刃がぶつかり合う。二、三度切り結び、ふたりの剣士は身を離して相手の攻撃を待つ。セテは再び剣を振り上げ、激しく男に打ちかかった。
 青年の激しい攻撃に、特使は防戦一方となった。攻撃する隙さえ与えないセテの攻撃に、男はいささか驚愕しているようだった。それでもプロの勘が青年の動きのわずかな隙を捉え、反撃の体勢に出る。しかし、目の前の青年はそれをひらりと身軽にかわすと一歩後ろに下がり、長い刀身を手のひらの中でくるりと回した。セテが相手を挑発するときのいつものポーズだ。
(ふん、鈍いな。スピードなら俺の方がはるかに上だ)
 セテは心の内で嘲笑をかみ殺した。
 それから今度は、特使がセテに猛攻撃を仕掛けてきた。激しく打ち合う金属音が中庭に響き渡り、まわりにいる者たちはみな息を潜めてこの試合の成り行きを見守っている。しかし、セテは剣の切っ先だけでそれを交わし、男の隙をついては剣を繰り出してくる。
 こいつ、なんてすばしっこいんだ!
 男の顔に焦りともとれる表情が浮かび始めるのを、セテは見逃さなかった。長引く試合に疲れが出てきたのか、無駄な動きや大きな隙が目立つようになってきた。セテは剣を握り直し、特使の次の動きへ移る隙──普通の人間の目にはほとんど分からないほどのわずかな隙──を狙い定め、男が剣を振り上げるその瞬間を見計らっていた。
 通常これくらいの接近戦においては、剣は振り上げるものではない。両手を掲げたその瞬間、自分の両脇に隙が生まれるからである。しかし、疲れている腕のせいか、男はその瞬間に剣を頭上に振り上げたのだった。
 セテはその一瞬に間合いを詰め、男の左脇に踏み込みと、渾身の力を込めて男の腕に握られた剣めがけて自慢の愛刀をなぎ払った。
 火花が散るほどのするどい金属音。特使の手に握られていた剣は空を切り、くるくると回転しながら弧を描いて落下していくところであった。
 男は驚愕に目を見開くのと同時に、自分の首筋にひやりと冷たい感触を感じた。顎の下に見えるのは、きらりと光る細身の刀身。目の前の青年が喉元に剣の切っ先をつきつけ、動きを封じていた。
 なんという試合であったことか。剣士見習いである青年が、現役の特使であるプロの剣士をうち負かすとは。
 セテは剣を引き、ほこりを払うかのように刀身を一度だけ振り払って鞘に収め、軽く特使に礼をすると試験場内から早足に立ち去っていった。






「お見事!」
 ワルトハイム将軍は、四階の臨時執務室の窓際で感嘆の声を漏らした。その後ろからレイザークも中庭の様子をのぞいていたが、結果に満足したのか軽くため息をもらす。
「さすがね。騎士大学のデータどおりの実力だわ。あの素早さもこの目で見るまでは信用できなかったけれど」
 セテは実技試験の試験場を後にするところであった。これから試合を控えている者、あるいはすでに終えた者がセテを目で追っているが、彼はめんどうくさそうに足早に歩いていく。特使をうち負かしたというのに、セテの表情には喜びはなく、かわりに落胆と憤慨が入り交じったような硬い表情が見える。ラファエラは興味深くセテを見つめていたが、その瞬間にセテはふと足を止め、4階の執務室の窓を見上げた。興味の対象と目が合った将軍はたいへん驚いたが、セテはすぐに目をはずすとそのまま官舎の中へ入っていってしまい、四階からは見えなくなった。
「……勘も鋭いのね。生まれながらにして戦士の素質を持ち合わせているといったところだわ」
 ラファエラは納得したようにひとり頷く。
「どうだかな。血の気は多いし、まだまだ無駄な動きが多い。いい気になっているそのうちにあっという間にまっぷたつだ」
 レイザークが相変わらずの口の悪さでそう言い、肩をすくめる。ラファエラはいまいましそうに鼻を鳴らすと、
「これだから戦争にしか興味のない筋肉だるまはいやなのよね。デリカシーに欠けるというか」
「戦争にデリカシーもクソもあったもんじゃないからな。デリカシーがあったら聖騎士なんぞやってるもんか。ま、どちらにしろ俺には剣で生きていくしか能がないもんでね、どこかの誰かさんみたいにあちこち策謀してまわるほどの脳味噌は持ち合わせていないもんで」
 こうしたふたりのやりとりはいつものこと。義姉弟は皮肉の応酬でお互いの存在を確かめ合っているようなものだ。いわば、これが親愛の情の表れでもあった。
「それはそうと、あの子はうちがいただくわ。あなたがなんと言おうとね」
 ラファエラは窓際から身を離し、ソファに腰掛けた。レイザークも女将軍の向かいに腰掛け、常人の太股くらいの太さはありそうな腕を掲げてみせた。
「ご随意に。ただ、あの暴れ馬を義姉さんが乗りこなせるかどうか見物だな」
「ふん、あなたが何を考えているか、私が知らないとでも思っているようね」
 ラファエラはそう言うと、応接用テーブルの横に据えたキャストのふたを開き、チェス盤を取り出した。チェス盤の上にはコマがすでに配置されており、しかもやむなく途中で中断したような中途半端なかたちでコマが進軍している。
「三年前だったかしら? あなたがロクランを尋ねてきたときのままにしてあるわよ。確か次はあなたの手だったはずよ」
 ラファエラはチェス盤を前に顔を輝かせている。レイザークはうんざりしたような顔をして肩をすくめ、チェス盤を覗き込んだ。
 攻勢はラファエラが圧倒的に有利なようだ。レイザーク側の前衛はすでに一掃されており、ナイトの後ろにパラディンが控え、かろうじてキングとクイーンを守っている。レイザークはパラディンのコマを動かし、ラファエラのナイトが守っている陣地に進軍する。と、ラファエラは自分のナイトを進軍させ、レイザークのパラディンを陥とす。レイザークのしかめ面を見て、鉄の淑女は愉快そうに笑った。
「あなたが何を考えているかなんてとうの昔にお見通しよ」






 夕食の後、サーシェスは大僧正リムトダールが申し訳なさそうに近寄ってくるのを怪訝そうな顔で迎えた。何かやっかいなことが起きたのでなければいいがとサーシェスは思った。
「すまん、サーシェス。そなたに謝らなければいけないことがある」
 すっかり恐縮したような大僧正の口振りに、サーシェスはきょとんとした顔をする。
「一昨日頼まれた護符のことなんじゃが……」
 大僧正は声のトーンを落として、
「いや、実はな。あの日にフライスからも護符を頼まれておってな。ふたつともとりあえずは祈祷して力を封じ込めたものの、渡すときに取り違えてしまったのじゃよ」
 サーシェスはその場に固まる。なんてことだ。セテに渡してしまったあとだというのに。
「本当にすまん。ふたつとも首に掛けるタイプだったのでな、わしも気がつかなんだのじゃが、今朝フライスに言われてやっと気づいたのじゃよ。いやなに、どちらにせよ力が封じ込めてあるのは事実なんで、間違えたからといって特に困ったことになるというわけではないのじゃが……」
「あの……それじゃあ私が持っていった護符って、どんな効力があるものなんですか?」
 力と叡知なんてたいそうなことを言ってセテを信用させてしまったので、サーシェスは少しだけ罪悪感を感じてしまう。
「ただの安産のお守りじゃよ。産気づいた妊婦によく使う神聖文字を刻んだ護符じゃ。なんじゃサーシェス、何をそんなに笑っておるのだ?」

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