第六話:嫉妬

Home > 小説『神々の黄昏』 > 第一章:黒き悪夢の呪縛 > 第六話:嫉妬

 この感情はいったいなんだ……?
 フライスはいつものように術法書をめくってはいたが、心ここにあらずといった感じで物思いに耽っていた。
 いつものように本を読んで過ごす夕べ。いつものようにすぎていく時間……。いつもと違うのは、サーシェスがここにいないということ。ただそれだけではないか。
 ふと窓を見ると、昨日の騎士大学の青年に送られて帰ってきたサーシェスが、彼の背中に大きく手を振っているのが見えた。
 ばかばかしい。
 フライスは首を振って本に目を戻した。
 彼女がここにいないからどうだというのだ? やっかいなおてんば娘がいないおかげで、静かな自分の時間が過ごせるというのに? それなのに、沸き起こるこのイライラ感はいったいなんだ?
 あんな風に誰かに微笑むサーシェスの顔なんか見たくない。あんな風に無防備に誰かに話しかけたりするサーシェスの声なんか聞きたくない。
 ……嫉妬している? あの青年に? この私が……?
 フライスは自嘲気味に鼻で笑い、本を閉じる。

 傷つくのが怖いから、誰にも心を開きたくない……
 どうせ離れてしまうなら、傷つかないうちに心を閉ざしてしまうほうがいい……

 これまでの人生で学んだことがそれだった。だから誰の心の中にも立ち入ることはしなかったし、誰にも自分の領域に立ち入らせることなどしなかった。
 それなのに、自分は今日、彼女がラインハット寺院にいないことに、否、それよりも自分の知らない誰かと一緒にいることにこんなにも動揺させられてしまっている……!
 ぱたぱたと廊下を走る音がして、サーシェスが帰ってきたことにほっと安心する。心なしか高鳴る心臓を抑え、フライスはその足音が近づいてくるのを待つ。もうすぐドアをノックする音がして、サーシェスがここへ駆け込んでくる。
「ただいま! フライス!」
「ああ……お帰り……」
 フライスはサーシェスに優しく微笑みかけて彼女を見つめる。
「どうしたの? なんか今日のフライス、優しいね」
 サーシェスは不思議そうな顔をしてフライスを見つめる。フライスは無言のまま立ち上がり、ふと、彼女の手にハンカチが巻かれているのに気がついてその手をつかむ。
「どうしたんだ」
「あ、これ……? ちょっと猛特訓してきちゃったから……」
 騎士見習いだというのに、レベル1の癒しの技も使えないなんてお粗末なものだ、とフライスは内心呆れたが、そんな感情はおくびにも出さずにサーシェスの手からハンカチを優しくはずす。まめの皮が破けて血がこびりつき、ひどく腫れあがっているその様に、フライスは眉をひそめた。
「慈悲深き癒しの神よ。血となり肉となり骨となりて、心正しき者の力となり給え」
 優しい淡いグリーンの光がサーシェスの掌を包み込み、やがて傷跡は跡形もなく消えていった。
「ありがと!」
 サーシェスは満足げに微笑むと、フライスの机の傍らにあるイスに腰掛けた。いつもの彼女の場所に。
「さすがに今日は疲れちゃった。騎士見習いともなると、やっぱ実力が違うのよねー。もうすっごいしごかれちゃった」
 サーシェスは肩や首を回して大きく伸びをする。
「ね、フライス。あの彼、セテってすごいのよ! 稽古の後、彼の親友って人にも話を聞いたんだけど、彼、中央騎士大学では一、二を争うほどの実力の持ち主なんだって。飛影《とびかげ》っていうすごくすてきな名前の立派なきれいな剣を持っていてね、それで……」
 ガタン! と乱暴な音をたててフライスは突然立ち上がり、手元にあった本を脇に抱えると、
「……悪いが、これからちょっと調べものがあるんでね」
 そう冷たく言い放つと、フライスはさっさと部屋を出て行ってしまった。わけも分からず突然部屋にひとり取り残されたサーシェスは、部屋のドアを見つめながら呆然としていたが、フライスの冷たい態度に腹が立ったらしく、思い切り舌を出してしかめ面をしてみせた。
「なによ! フライスの石頭っ!!」
 フライスは額に手を当て、壁に寄りかかっていた。夜気を含んだ風が窓から入り込んできて、黒い巻き毛をさらっていく。
 ……私は愚かだ……
 顔に髪がかかるのも気にとめず、フライスは己の愚かさを呪っていた。自分の胸に芽生えた感情がなんなのか、知ることもなく。






「セ〜〜テ〜〜君、なんだかお肌のつやがいいんじゃなぁ〜〜い?」
 レトがおかまのようなしなを作ってセテにすり寄ってきた。
 学食のテラスで、セテはのんきにコーヒーをすすっていたところだったのだが、昨日の出来事を反芻する暇も与えないほど、今朝から何人の友人に同じことを聞かれただろう。
「あ、そ〜〜んなロコツにいやぁ〜〜な顔しなくてもいいじゃなぁ〜〜い」
「レト、気持ち悪いからいい加減にその声やめてくれ」
 セテは不機嫌そうにカップを置いてレトを睨み付けた。
「もう学内中大騒ぎだったんだぜ? お前は知らないかも知れないけど」
「はぁ? 彼女のことか?」
「お前ね〜〜、ほんと分かってねーんだな、彼女も目立ってるけど、渦中の人はお前なんだよ、お・ま・え!」
「何で俺が」
 セテは不機嫌そうにもう一口コーヒーをすする。
「喧嘩っ早くて腕っぷしも強い、でも彼女いない歴二十二年の世紀の美青年セテ・トスキ君が、これまた世紀の美女を伴って学内を闊歩してたんだよ〜? 噂にならないわけねーじゃん」
「彼女いない歴二十二年は余計だ! それになんだその世紀の美青年って」
 顔のことを言われると必ずと言っていいほど機嫌の悪くなるセテだったが、レトはまあまあとなだめすかして、
「お前もいい加減その顔コンプレックス直せよ。女顔とかそんなこと言ってるわけじゃねえだろ? 俺たちは本気でほめてんの。美男美女のカップル、いやぁ、ほんと絵になってたわ〜」
「そりゃどうも」
 セテはぶっきらぼうに礼を言う。
(別にコンプレックスとかそんなんじゃないけどさ、こんな女みたいな顔立ちじゃ強そうに見えないじゃないか。俺はそれがいやなんだよ)
「で、どうだった? 彼女の抱き心地は?」
 ブ〜〜〜〜ッ!!
 セテは思い切りコーヒーを吹き出した。周りの学生たちが一斉にこちらを見ている。セテが周りの学生たちを睨み付けると、彼らははじかれたように身体を翻して視線を逸らす。だがセテは心の中で叫ぶ。さっきから聞き耳たてていたのは知ってるんだぞ、しらじらしい!
「おっおま……なっなに……言って……」
「せっかく俺が彼女にお前のいいところばっかり吹き込んでおいたのに、人の好意を無にしてくれたわけじゃないだろぉ〜ね〜?」
(そ、そりゃ、レト、お前は適度に女の子とつきあってるからそんなこと軽々しく言えるのかも知れないけど、悲しいかな、俺は彼女いない歴二十二年なんだぞっ!)
 顔を真っ赤にして黙り込むセテを見て、レトは
「まさか……あのまま送っていってほんとにさよならってわけじゃ……?」
「……悪いか……!」
「ええ〜〜〜っ セテ君てばほんっとにオクテ〜〜〜!!! 据え膳食わぬは男の恥ってことわざ知らないの〜〜???」
「うわぁぁぁ〜〜〜!! そんな大きな声で言わなくてもいいだろ!!!」
 セテはいつものごとく耳まで真っ赤にしてレトの大声を抑えようとする。そんなセテの様子をニヤニヤしながら見つめ、ほーーんと、こいつってば安心しちゃうくらいにオクテなんだよね〜と、レトは思う。
「……あんな寂しそうな顔見せられて、そういうことができる男っているのか……?」
「さぁ〜? 彼女、誘ってたんじゃないの〜? 惜しいことしちゃったね」
「サーシェスはそんな娘じゃない! 彼女は……」
 その先の言葉を、セテは飲み込んでしまった。記憶喪失……なんて言ったって、どうせレトは信じやしないだろうからな。
「ふ〜〜ん、会って間もないってのに随分じゃないか。もしかして一目惚れ……ってやつ?」
 レトの言いように、セテは言葉に詰まる。一目惚れ……そうだ! きっとそうに違いない! とセテは心の中でひとり納得した後、こくりと頷いた。
「あらら……結構素直じゃん、セテ君てば」
 からかうようなレトの声も、もはや気にならない。心の中でわだかまっていた何もかもが、「一目惚れ」のひとことで片づいてしまったのだ。そこでセテはごくりと唾を飲み込んで言葉を反芻する。不覚にも俺は恋愛の免疫がない分、はじめて会ったときから彼女に惹かれていたのは事実だ。
「がんばれよ、セテ。俺めちゃめちゃ応援してやるよ」
 親友が肩をポンポン叩いて激励してくれるのはうれしいが、周りの人間の好奇の目が痛い……。それに、もっと大きな障害があるのを忘れてはならない。
「それがさー、超強力な恋敵がいるんだよねー……」
「らしくもないこと言うなよ。お前いつだって自信たっぷりなのにさ」
 レトがセテの飲んでいたコーヒーカップを奪い、一口すする。
「彼女の保護者でフライスとかいう修行僧の兄ちゃんだよ」
「フライスだって? うへ!」
「知ってるのか?」
 レトは呆れたようにため息をついて、
「お前ねー、いい加減自分の興味あること以外にも関心持ったらどうだ? ニュースくらい見ろよな。ロクランのラインハット寺院が中央諸世界連合でも屈指の術者を生み出していることくらいは知ってるだろ? ラインハットのフライス様といえば、大僧正リムトダールに次ぐ強大な魔力の持ち主で、次期大僧正とも噂されている優秀な修行僧だぞ。おまけに、街中の女どもに騒がれているのに眉ひとつ動かさないほどの色男だ」
 確かにいい男だ。レオンハルトに生き写しというのが何よりの証拠。セテはがっくりと肩を落とす。おまけに優秀な術者と聞いてしまっては自信は萎える一方だ。
「……俺……めげそう……」
「まあな、気持ちは分かるよ。いきなり雷撃食らわされたりしてな」
 レトの軽口も冗談ではない。あの目つきからしてやりかねないような男だった。レオンハルトとは対照的な、すべてを拒絶するような冷たいブルーグレイの瞳が発するものすごい威圧感といったら。
「でもま、どちらもサーシェスちゃんと正式につき合っているわけじゃないんだから、逆に言えばチャンスじゃん。決めるのは彼女だけど。ま、君には若さがあるんだからがんばりたまえよ!」
 レトはといえば、セテの思惑をよそに無責任な言動で彼を祭り上げているだけだ。彼みたいに女慣れしていれば気は楽だろうけどね。
 セテはまた今日の夕方、サーシェスと会う約束をしている。






 中央騎士大学学長は廊下を小走りしながら、思い当たる節について自分の頭の中を走査していた。先日の聖騎士レイザークの急な訪問といい、最近中央諸世界連合がらみの重要人物がアポイントなしでよく訪問してくるのは、いったいどういうことだろう。めぼしい剣士見習いを下見にくるというのもおかしい。聖騎士団の入団試験や中央特務執行庁の試験は間近に控えているし、青田買いの次期はとっくに終わっている。まったく、お偉方の考えることは理解できん。
 学長は自室である学長室の前で簡単に衣服を整え、ドアのノブをひねった。
 応接テーブルに座っている人物がドアの開く音に気づいて立ち上がり、こちらに軽く会釈をした。学長は深く例をした。
「たいへんお待たせいたしました。中央特務執行庁参謀長官ラファエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム将軍」
「堅苦しい挨拶は抜きですよ、サンスム学長」
 フォリスター・イ・ワルトハイム将軍はにこやかに手を差しだし、学長に握手を求めた。
 年の頃は四十代後半から五十代前半といった感じの中年の女性であった。中央特務執行庁の象徴でもある詰め襟の黒い制服に身を包み、髪を短く刈り上げた彼女の顔には、長年の経験を刻んだようなしわがいくつも走っている。しかし、顔は生気に満ちあふれ、すらっとした体つきには体力の衰えも見えない。むしろ、まだまだみなぎる活力を、無理矢理特使の制服に閉じこめているかのようだ。背丈も学長より高く、そのためか決して低くはない学長の背丈が、ここにあってはひどく小さいものに見える。
「どうぞおかけください」
 学長がイスを勧めたので、フォリスター・イ・ワルトハイム将軍は応接イスに腰を下ろした。それを見届けてから、学長も向かいのイスに腰掛けた。
「最近は学生さんたちの様子はどう?」
「おかげさまで、試験も間近ですし、おのおの鍛錬に励んでいるようですよ」
「そうでしょうね。ここ数年、剣士見習いの学生たちの元気がなくなっていると聞いたけど、試験にもなればまた志気は上がってくるでしょうね」
 フォリスター・イ・ワルトハイム将軍は出された紅茶に口を付けながら言った。学長もお愛想程度に頷き返す。
「それはそうと、今年中央特務執行庁を志願している学生は何人くらいいるのですか?」
 学長はまたか、と思う。先日は聖騎士志望の学生の人数をレイザークに聞かれたが、今日は中央特務執行庁か。人事部に問い合わせれば、それくらいのことは分かるだろうに。
「五人です」
「五人……少ないわね」
 将軍は首をひねりながらつぶやいた。
「サンスム学長、今年度卒業予定の学生の中から成績優秀者三十人ほどのデータを今見せていただけませんか」
「少々お待ちを」
 学長はイスから立ち上がり、自分の机の引き出しを開けて書類を探し出した。卒業式には毎年成績優秀者上位三十人が表彰され、中央騎士大学からの名誉バッジが贈呈されることになっている。
 学長はその三十人の個人情報と成績、そして剣技に関するデータを記したリストを将軍に差し出した。将軍はそれを受け取ると、ぱらぱらとめくって学生たちのデータに目を通した。
「先日も聖騎士レイザーク殿がお見えになって、同じようなことを訊ねてらっしゃいましたが?」
「レイザークもここに?」
 フォリスター・イ・ワルトハイム将軍はそう訊ね返したが、さほど驚いた風でもなかった。
「あの男もやるわね。官舎へ来たと思ったら私のチェスの相手もしないで出ていって、その後ここへ来ていたとはね」
 将軍は訳知り顔でくすくす笑い出し、それからふとリストに目を留めた。
「学長、このセテ・トスキという学生はなぜどこにも出願していないのですか? 学問の成績も優秀、剣技もスピードも他の学生に比べてずば抜けて高い数値を示しているのに。学生にはあり得ないほどの高い戦闘能力を持った将来有望な剣士に見えるのですが?」
「彼は……今年はどこにも出願するつもりはないらしいのです。本人曰く、最終的には聖騎士を目指しているのですが、彼は術法を身につけていませんので」
「なるほど」
 納得したように頷いて、将軍はさらに他の学生のデータにも目を通した。
 ひととおり見終わったところで、フォリスター・イ・ワルトハイム将軍は深呼吸をし、リストを学長に返した。
「学長、申し訳ありませんがこのリストの写しをいただけませんか」
「それは構いませんが、何にお使いになるのです?」
 フォリスター・イ・ワルトハイム将軍は傍らに置いていた巻物を取り出し、学長に差し出した。学長は封を開け、その文書に目を通すと、驚いたような顔で将軍を見つめた。
「今日私が来たのはこれが理由です。このあたりは私の管轄ですから、中央諸世界とはまったく関係ありません。中央特務執行庁の私の判断で通した特例第295号です」
 将軍は私の、というところを強調して話した。
「中央騎士大学の成績優秀者のうち有能な人物を、中央特務執行庁にて異例の追試験で選別した後、試験の結果いかんで私直轄の騎士団に入ってもらいます」
「は、はぁ……しかし、なかにはすでに進路が決定した者もおりますが……」
 サンスム学長はフォリスター・イ・ワルトハイム将軍の勢いに圧されていたが、困惑したような顔で訊ねた。将軍は意地悪そうな笑みを浮かべて学長を見つめると、
「中央特務執行庁の本来の任務をお忘れのようですね、サンスム学長。聖騎士団だろうがアジェンタス騎士団だろうが、中央特使としての任務の方が最優先されます」
「つまり……すでに属しているところがあっても、通常の任務とは別に、彼らに中央特使としての任務が与えられると」
「そういうことです。元々中央特使は隠密行動を主にしていますから。彼らに与えたい任務とはそういうことですよ」
 フォリスター・イ・ワルトハイム将軍は非常に重大なことをさも何でもないことのように言い放ち、紅茶を一口すすった。学長は開いた口がふさがらないといったように呆然と将軍を見つめた。相変わらずの官僚嫌いは直っていないようでほっとはしていたが。中央特務執行庁参謀長官ラファエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム将軍は、その政治的手腕と行動力でその名を轟かせているのだが、今回の特例はまったく寝耳に水だ。つまり早い話が、どこに属していようと、彼らは中央特務執行庁のスパイとして働かされるようなものなのだ。
「ずいぶんとその……性急なお話ですな。しかしその、すばらしい特例ではあると思うのですが近隣諸国の中では……」
 サンスム学長は遠回しに困惑の念を表明し、言葉を濁した。
「近隣諸国から私が戦争をしたがっているととられかねない?」
 学長が言いよどんだ先を将軍が簡潔な言葉で言い表してしまったので、学長はあわてて、
「調停不可能とまで言われてきた数々の紛争を、双方が勝ったと思わせるような絶妙な条件で調停してきたあなたを、ですか?」
「もう昔のことですよ。今はもう調停すべき陰惨な紛争はありません」
 フォリスター・イ・ワルトハイム将軍は、学長の歯の浮くような賛辞を肩をすくめてかわしてみせた。
「しかし、辺境の国々が中央諸世界連合を離脱したがっていることはあなたもご存じでしょう。昨日、レイアムラント、デリフィウスが中央諸世界を離反しました。いつ紛争になるか知れたものではありません。そのために、いつでもそれを調停に持ち込めるだけの軍事力をもっている必要があります。しかし、軍備を見せびらかすようなマネは向こうを刺激しかねません。だからこそ、隠密に行動できる騎士団が必要なのです」
 学長はふむふむと相づちを打ちながら将軍の話を聞いていた。所詮は外の話、程度にしか理解していないのは明らかである。
「ま、今私が話した内容をそのまま中央諸世界連合に持っていっても、中央の堅物や官僚の面々を説得するのは何年もかかりそうですからね」
 将軍はいらだたしげに苦笑して肩をすくめて見せた。
「それにしても……相変わらずでございますな、フォリスター・イ・ワルトハイム将軍。ハイファミリーからの反感も買うのではありませんか?」
 学長の懸念を将軍は一笑に付した。
「心配には及びませんよ、私に怖いものなどありませんからね。私もハイファミリーの出身ですし、だからこそ彼らを甘やかすのが許せないのです」
 それから、将軍はふと思いついたように手を叩くと、
「それで思い出しました。私の兄のところにでも行って出来の悪い甥っ子の顔でも拝んでくるとしましょうか。ファリオンときたら粋がってばかりでいい噂なんて聞いたことがない」
 身内の恥とでも言いたげに将軍は顔をしかめると、学生たちのリストの写しを握りしめて席を立った。
「それではサンスム学長、このリストは持ち帰り検討の結果、改めて候補の学生の名前をお知らせいたします。通達が行くまでくれぐれもこのことは内密に」
 将軍が席を立ったので学長も席を立ち、会釈をする。部屋を出ていく間際、将軍は思いだしたように学長に振り返り、
「あ、そうそう、サンスム学長、今度お暇ができたらチェスの相手をお願いできませんか。中央特務執行庁の官舎には、もう私の相手になるような者はいないので退屈しているのですよ」
「私めでよろしければいつでも」
 学長の返事を聞いた鋼鉄の女は無邪気に微笑み、部屋を出ていった。またもや学長は深いため息をつき、凝っている肩をほぐしながらつぶやいた。
「ふぅ……まったくあの女史は……。ハイファミリーをとっちめることとチェスの他に興味はおありなんだろうか……?」






 午後の修練を告げる鐘の音とともにドアが勢いよく開き、年若い修行僧たちが飛び出してくる。フライスはそんな彼らの姿を見送りながら軽くため息をつくと、分厚い術法書を脇に抱えて教壇を降りた。
 日が傾き始めてはいたがまだ明るく、心地よい風がラインハット寺院の回廊を吹き抜けていった。フライスは木々がざわめくのを回廊からぼうっと見つめていた。と、そのとき、
「フライス!」
 呼びかける声に振り向くと、大僧正リムトダールがいつになく深刻な顔をして、早足で回廊をやってきた。
「どうなさったんです? 大僧正様。いつになくお急ぎでらっしゃるようですが?」
「聞いたか、フライス」
 大僧正はもったいつけたように一呼吸おき、それから、
「レイアムラントとデリフィウスが中央諸世界連合から離脱しおった」
「!」
 フライスは身をこわばらせた。自分には未来を知る能力はないが、それが中央にどんな影響を与えるかくらいは分かる。「連鎖反応」だ。
「ロクラン王に呼ばれてな。わしはこれから王宮へ向かわねばならん」
「レイアムラントとデリフィウスが……。まさか『反乱』というわけでは……」
「分からん。特使にもいっさい知らされていないらしい。ほかの諸国に悪影響が出なければよいのだが……」
 大僧正は真っ白いひげをなで始める。思いを巡らせるときのいつものクセだ。ふと、フライスは思い出したように大僧正を振りかぶった。
「そういえば、両国とも五年前までアートハルク帝国の同盟国でしたね。アートハルクが落ちたときにも、最後まで中央諸世界連合への加盟を渋っていた……」
 フライスの言葉に、大僧正は顔を上げた。フライスのいわんとしていることは分かってはいたが、大僧正は再びひげをなで、沈黙している。しばらく思案した後、
「……気のもみすぎじゃよ。第一、アートハルクは5年前のあの事件であとかたもない。再建の見込みもたっていないような今の状態で、何かできるわけはなかろう」
「それもそうですね」
 腑に落ちないような顔でフライスは頷いた。だがなんだろう、この不安は?
 フライスの浮かない顔を見て大僧正は、さも今思い出したかのように話題を切り替えた。
「最近、サーシェスはどうじゃ? あれはまだ剣士になる夢を諦めてはおらぬのか?」
 サーシェスの名を聞くだけで、フライスの顔はさらに曇る。このごろは午前中の講義でも、ほとんどおしゃべりをすることがなくなっていた。自分から彼女を遠ざけてしまっているのか。それとも彼女が自分から遠ざかっているのか。夕方には、彼女はあの中央騎士大学の青年のところへ行ってしまう。本当のところ、彼女がどうしているかなんて、フライスはほとんど知らないのだった。
「……ああ……ええ、まぁ……」
 フライスは気のない返事を返した。
「なんじゃ、サーシェスの教育係としてちゃんと彼女と話をしておるか? まるで、実は彼女の考えていることを知らないんですとでも言いたげな顔じゃな」
 本当に、大僧正はなんと人の心を的確に察知するのだろう。そのとおり、とも言えず、フライスはふてくされたような素振りで風にもてあそばれる黒髪を掻き上げた。
「あの娘も寂しがっておったぞ。やきもちもいいが、あの娘が本当に頼りにしておるのはお前じゃということも忘れんようにな」
「わ、私は……!」
 突然いきり立つフライスをなだめながら、大僧正は愉快そうに笑い、後ろ手に手を振りながら回廊を去っていった。その後ろ姿に、フライスはため息をつき、自虐的な含み笑いでひとりごちてみる。
「やきもち……か……」






  正門の前で我が子を引き取る両親と、うれしそうにはしゃぐ子どもの姿を見ながら、サーシェスはため息をついた。この日は修行期間を終え、寺院を後にする修行僧の少年を両親が迎えにきており、サーシェスはその少年の身の回りの片づけを手伝ってやったのだった。良家の中には、我が子を社会勉強のためにラインハット寺院に預けるところもあり、その少年もそんな裕福な家庭に生まれついたのだった。
 サーシェスに手を振り、母親に抱きつきながら少年は寺院を去っていった。その後ろ姿が見えなくなるまで、サーシェスは少年を見送っていた。短い期間だったとはいえ、やはり情が移っていたので、サーシェスとしても寂しさを隠せずにいられなかった。
 ふと振り返ると、茂みの向こうですすり泣きが聞こえてきた。不思議に思って近づいてみると、いつもは元気な少年マールが膝を抱えて座り込み、肩を震わせているのだった。
「……マール? マールなの? いったいどうし……」
 サーシェスが声をかけると、マールは驚いて顔を上げた。すぐに涙を拭って立ち去ろうとするのを、サーシェスは腕をつかんで引き留め、自分の方に体を向けさせた。
「どうしたっていうの? けんかでもしたの?」
 サーシェスが優しく尋ねてもマールはしばらく黙り込んだままだった。泣きはらした両の目が腫れていたが、それでも泣いていたことを悟られまいと必死で我慢をしているようだった。
  「どこか痛いの?」
「……そんなんじゃないよ……」
 やっと口を開いたが、まだサーシェスの顔を見ようとしない。サーシェスは諦めたようにため息をつき、マールの隣に腰を下ろした。マールはサーシェスに背を向けるような格好で座った。普段、よほどのことがあっても決して涙を見せないマールなので、泣き顔をみられるのが恥ずかしいのだろうと思い、サーシェスもそれ以上何もいわずにそっとしておいてあげようと思った。しばらくサーシェスはマールの隣でじっと座り、中庭の向こうに見えるロクランの城下町の風景を眺めていた。が、
「……ねえサーシェス……お母さんってどんなもの……?」
 マールがたまりかねたように口を開いた。彼はもう泣きやんでいたが、後ろ姿が震えているのが見て取れた。鼻をすすり、もう一度サーシェスに問いかける。
「……お母さん……って、どんな感じなの?」
 そういえば、先ほど修行期間を終えた少年の両親が迎えにきていたが、もしかしたらマールはその光景を羨望のまなざしで見送っていたのかもしれない。このラインハット寺院にいる修行僧の大半が、孤児、もしくは、何らかの理由により、両親の手元から引き離されてしまっているのだった。そして、マールもそんな不幸な少年のひとりでもあった。
「ネルリが言ってたよ。お母さんってとっても優しいんだって。優しくて暖かくて、自分のことをとても愛してくれているって。お母さんってみんなそうなの?」
 サーシェスは返答に困り、じっとマールの目を見つめた。みるみるうちにマールの大きな瞳から大粒の涙があふれ、こぼれ落ちてくる。
「おいらね……生まれてすぐにここに来たからお母さんなんて知らないんだ。大僧正様がおっしゃるには、ある雪の降る寒い朝、ラインハット寺院の勝手口の前に置き去りにされていたんだって。そんなのってある? お母さんは自分の子どもを捨てたんだよ。お母さんはおいらのこと愛していなかったんだよ」
「そんなこと言うものじゃないわ、マール。お母さんにはお母さんなりに、あなたを育てられない理由があったのよ。自分の子どもを愛していない親なんてどこにもいないわ。きっと今でもあなたのことをどこかで愛しているに違いないわ」
 サーシェスはなだめるようにマールに優しく語りかけ、その頭をなでてやるが、マールは大粒の涙をぼろぼろ流しながら首を振る。
「じゃあなんでおいらを迎えに来てくれないの? 愛しているなら、どうしておいらを連れに来て、一緒に暮らそうって言ってくれないの?」
 そう言って、マールはサーシェスに抱きつき、泣きじゃくり始めるのだった。

 ……愛しているならなぜ自分を迎えに来てくれないの……?

 ふとサーシェスは、顔も知らない肉親を思う。記憶もなく、けがをしてラインハット寺院にかつぎ込まれた自分。もし自分に肉親がいるのなら、必死で自分を捜してくれているのではないかと考える。しかし、ここへ来てから三ヶ月が経過した今でも、自分を引き取りに来てくれるどころか、自分を捜している人間がいるという噂も聞かない。

 ……本当に愛しているなら、行方不明の娘を血眼になって捜すのが肉親ではないのだろうか。なぜ、誰も自分を捜しに来てくれないのだろうか……。

「……サーシェス……? サーシェス、なぜ泣くの? 泣かないで」
 気がつくと、サーシェスはマールを抱きしめながら自分も涙を流しているのに気がついた。ここへきた当初は毎晩泣いてばかりいた。それでも、寺院の子どもたちや修行僧たちと過ごしていたので、それから今までは忘れていた涙であった。マールの小さな手が、濡れた自分の頬に添えられていた。
「ごめんね……おいらのせいだね、悲しいのはおいらだけじゃないのに……。サーシェスもひとりぼっちなのに……」
 サーシェスは涙をぬぐい、再びマールの頭を優しくなでてやった。そうだ、自分だけじゃない。マールも、そしてフライスも……。
「ありがとう、マール。もう大丈夫。私にはあなたやたくさんの子どもたちがいるんだもの。あなたたちと接しているだけで私は十分幸せ、本当よ。生きていくってそういうことじゃない? もう泣かないわ。だからあなたももう泣かないって約束して?」
 サーシェスはそうほほえんで、マールを抱きしめた。
「うん、ごめんね、サーシェス。おいらももう泣かない。だっておいらにとってのお母さんってサーシェスだもの」
「え? お母さんはひどいじゃない。私はまだ結婚前よ」
「じゃあフライス様と結婚すればおいらたちのお母さんになれるじゃない」
「はぁ?」
 まったく、さっきまで泣いていたのにもう人をからかい始める。いや、やっぱりマール少年には笑顔やいたずらがよく似合う。サーシェスはあきれたように、でもマールが元気になったことにうれしくて小さくため息をついた。ふと、マールはサーシェスの肩越しに向こうを覗くような仕草をして、
「あ、ほら、噂をすればなんとやらだ。フライス様がこっちにくるよ」
 サーシェスも振り返ると、フライスが気まずそうにゆっくりと歩いてくるのが見えた。マールはひじでサーシェスをつつくと、
「最近サーシェスが知らない男の人と仲良くしてるから、フライス様ったら心中穏やかじゃないみたいだよ。たまにはフライス様も相手をしてあげてよ」
「仲良くしてるってわけじゃないわよ。私は剣を教えてもらってるだけだもの」
「なんでもいいよ。じゃ、おいら、もう行くね」
 マールはそう言うなり走り出し、フライスとすれ違いざまにウインクをしてみせると、そのまま宿舎の方へ走り去っていった。フライスはめんどうくさそうに、しかしどことなくうれしがっているかのように、中庭の芝生に座り込んで自分を見つめているサーシェスを見下ろしていた。
 フライスは、サーシェスの頬にわずかに残る涙の後を見つけ、
「……マールが何か悪さでもしたのか?」
 とぶっきらぼうに尋ねた。その色気のない質問の仕方に、ああ、いつものフライスだとサーシェスは安心する。
 ここ最近、サーシェスはフライスとまともに顔を合わせて話をしたことがなかった。自分が剣の稽古に忙しかったからというのもあるが、どちらかというとフライスの方が自分を避けているように感じていた。といっても、サーシェスのほうはまったく心当たりがなく、なんとなく心の中に残るわだかまりを消化しきれずにいたのだった。
「違うの。マールが泣いていたからなぐさめてあげていたところなの」
 サーシェスはあわてて涙の後をごしごしと拳でこすり、フライスに向き直った。
「マールが? あの子が泣くなんてめったにないことだが」
「私もびっくり。だから私も思わずもらい泣きしちゃった」
 サーシェスはふふっと笑ってフライスの顔をじっと見つめた。上から自分を見下ろすフライスの顔が、少し和らいで見えた。
「……なんか……すっごく久しぶり……。こうしてフライスと面と向かってお話するのって」
 サーシェスは照れくさそうにそう言った。フライスも同感だった。自分がサーシェスから遠ざかっていたこの2週間が、ものすごく長く感じられた。本当に、彼女と一緒にいるとどうしてこんなに安らぎを覚えるのだろう。
「剣の稽古の方はどうだ? ずいぶん腕を上げたという話を聞くが……?」
「まだまだよ。無駄な動きが多いっていつも怒られるの。あれだったらフライスの講義で怒られるほうがまだましだわ」
 サーシェスがおどけたように肩をすくめて見せた。フライスはそんな彼女の軽口に優しく笑って答えた。
「そうか……。ならばもう少し私も厳しくいったほうがよさそうだな」
「どうしてそうなるの! あれ以上厳しく教育されたら脳味噌パンクしちゃうわ!」
 フライスは意地悪そうに含み笑いをし、
「これでも人格者で通っているのだがね」
「二重人格の間違いでしょ」
 サーシェスの鋭いつっこみに、フライスは舌を巻く。
「それじゃ、私はこれから外出してくるよ。大僧正様も王宮にお出かけなのだがその間……」
「外出って、街に行くの?」
「ああ、ちょっと寄るところがあってね」
「ついていってもいい?」
 めずらしくサーシェスが自分についてくるなんて言うのでフライスは驚いたが、
「ああ、かまわないよ。遊びに行くわけじゃないがね」
 街にいる間もおとなしくしているという条件付きで、サーシェスはフライスの用件に同行することが許された。
 実のところ、フライスはサーシェスが街に行くことをあまり快く思っていない。最近彼女に剣を教えている中央騎士大学の青年といい、街にはサーシェスを浮つかせる要因が多すぎるというのが彼の(大僧正への)主張だ。そんなわけで、サーシェスはセテに剣の稽古をつけてもらうとき以外は、ほとんど街に降りていくことはなかった。が、今日は小うるさい保護者の監督下にあるということで、おおっぴらに街に行けるのでサーシェスは大いに喜んだ。が、出発時にはなにやら大きな包みの入った大きな鞄を持たされてしまい、これではとうていいろんなところを見て回る気にはなれないなと後悔するのだった。

全話一覧

このページのトップへ