Home > 小説『神々の黄昏』 > 第一章:黒き悪夢の呪縛 > 第八話:過失
午後一番からのフライスの講義を終え、中休みにラインハット寺院の中庭に出たサーシェスは、腰に剣をはいたまま小脇に分厚い本を抱えて、石段の隅に腰を下ろした。小高い丘の上に立っているラインハット寺院のこの場所からは周りの林の間からロクランの城下町がよく見下ろせるので、サーシェスのお気に入りの場所のひとつでもあった。
厚さ十センチほどにもおよぶその本は古びてはいたが、印刷された文字はくっきりと読みやすく、文書館長フライスの几帳面さがうかがえる。ぱらりと索引をめくり、サーシェスは『魔法剣士』の項を探し当てる。
世の中には剣士という職業はさしてめずらしくもなく、どこの国、地域にも必ずといっていいほどそこを守る役割を果たす「守護剣士」が駐在している。だいたいは地域の警護の任にあたっているが、上級の剣士ともなると騎士団に籍を置き、地域にまたがる紛争やさまざまな問題を解決すべく、日夜活動しているのであった。有名なものにはアジェンタス騎士団領のアジェンタス騎士団があり、アジェンタスは名前からして騎士団が中心となって国内・国際政治を執り行っているのが現状だ。
またさらにその上級の剣士ともなると、術法を扱うことのできる魔法剣士が存在する。魔法剣士は剣のレベルの高さはもちろん、術法を扱えることが条件のひとつでもある。低レベルから高レベルまで、そのレベルに関わらず術法を扱うことのできる剣士は、魔法剣士として通常の剣士とは一線を画して位置づけされている。そのトップレベルに位置するのが、かつての伝説の英雄レオンハルト率いる聖騎士であった。術法を専門に扱う術者と、剣を専門に扱う剣士のいいとこ取りをしたのが魔法剣士といえるだろう。つまり、魔法剣士は剣士の中でもエリートであるというわけだ。
レオンハルトは記録によれば聖属性の術法が得意だったと聞く。先の汎大陸戦争でもエクスカリバーと術法で、救世主(メシア)を大いに助けたというし、このあいだ大僧正を訪ねてきたあの口の悪いレイザークとかいう聖騎士も、「パラディン」という称号を持っているからには、おそらく並々ならぬ術法の腕前を持っているのだろう。顔に似合わず、と、サーシェスは思わず口に出してしまった。
サーシェスは本を傍らに置き、すくと立ち上がると、腰にはいていた剣を抜き、軽く目の前の小枝めがけて横に払ってみる。さやさやと静かな音を立てて小枝は揺らめくが、元気のいい若枝はサーシェスの剣を強く押し戻そうとする。
サーシェスはいまいましそうに鼻を鳴らし、腰のポケットの中をさぐった。ちゃらっと軽い音がして、サーシェスがセテに渡しそびれた本物の救世主の護符が顔を出した。間違いに気づいた大僧正が改めてサーシェスに渡してくれたのだったが、すでに試験が始まる直前だったので、いまさら返してもらうわけにもいかなかった。試験に落ちていたらどうしようかとも思ったが、どちらにしろ、今日のセテの試験結果が分かったら、こちらの本物の護符を彼に渡すつもりではいた。まさかこの護符で試験に落ちるなんてこともなかろうと思っているものの、なんとなく罪の意識を感じてしまう。
青銅でできた小さなメダル状の護符。サーシェスをはじめ、ほとんどの人がそこに刻まれている神聖文字を読むことができないのだから、セテがこれを安産のお守りだと気づくすべもないのだが。
「力と叡知」。以前、守護神廟の前で大僧正が言った言葉を思い出す。「剣をとって力とするか、術を身につけ叡知とするか」。剣士も術者も、並大抵のことではなれるものではないが、魔法剣士は、力と叡知の両方を兼ね備えているのだ。
それからサーシェスは剣を自分の体の正面にまっすぐ構え、深呼吸をする。
術法……か……。確かフライスはあのとき……。
サーシェスは軽く目をつぶり、剣を構えたまま、フライスが攻撃術法を発動したときの光景を思い浮かべる。ほんのわずかな間にフライスは攻撃呪文を詠唱し、術を発動させるための印を結んだ。彼はあのとき、なんと詠唱していただろうか。
「……天統べる神々にもの申す。怒れる雷神の鉄槌を、正義のために我に貸し与え給え」
確かこんな風に両手をごにょごにょと動かしていたような気がする。サーシェスは剣を持っている右手が空かないので、左手だけで印の結びを省略してみる。それからその手を天にかざし、せいいっぱいの集中力をその指先にこめて呪文を詠唱し終える。
「雷《いかずち》よ、落ちよ!!」
何かが起きるはずはないと思っていても、その結果にはやはり落胆せざるを得ない。初夏の風が人ごとのようにさやさやと枝を揺らしていく様は、非常に腹立たしいものであった。が、突然、後ろから吹き出したような笑い声が聞こえてサーシェスはぎょっとする。ああ、なんという醜態を見せてしまったことか。後ろを振り向くと、文書館長フライスが、これ以上愉快なことはないといった様子で大笑いしていたのだった。
サーシェスは顔から火が出る思いだった。よりによってこの醜態を見ていたのがフライスであったとは一生の不覚。また皮肉のかっこうの的にされること間違いなしだ。
「今度は術者のまねごとかい、サーシェス?」
そのいつもの皮肉なものいいがまた頭にくる。こっちは恥ずかしさのあまり口も利けないというのにだ。
「そんなうわべだけマネしたんじゃ、術なんてとうてい発動できないよ」
そんな言いぐさにムッとして、サーシェスは剣を鞘に収め腕を組んでフライスを睨み付ける。
「別に術を発動させたかったわけじゃないわよ。魔法剣士がどんなものか、体験してみたかっただけ! いい加減笑うのやめたらどう?」
「魔法剣士……ね。第一、実戦でそんなノロノロと呪文を詠唱していたんでは、敵にあっというまにやられてしまうよ」
まったく、フライスといいパラディン・レイザークといい、もう少し人に自信を与えるような助言はできないものだろうか。
「通常の戦いでは、正式な呪文を最初から最後まできちんと詠唱する時間はない。特に術法戦の際にはね。魔法剣士は高速言語による圧縮呪文で瞬時に術を発動するものだ」
「だって、この間フライスは呪文を最後まで詠唱していたじゃない。それをまねてみただけよ」
「ああ、あれはね、能力が遙かに劣る術者相手に本気でやってもしかたない。こちらとしては普段あまり使わない呪文を思い出すいい時間ができて感謝したくらいだ」
つまり、あの程度なら余裕ということね、と、サーシェスは肩をすくめてみせるフライスを一瞥する。確かに、あのへっぽこ術者はフライスの敵ではなかったが。
「まさか今度は術者になりたいなんて言い出すんじゃなかろうね」
「そういうわけじゃないけど……。魔法剣士って難しいものなの?」
「剣の腕と術を発動する精神力、集中力が必要とされるからね、とにかく、今の君みたいに集中力が散漫な状態では無理だろうね」
言い返そうとするが、フライスの言い分もごもっともなのでサーシェスは諦めた。サーシェスは再び石段に腰掛け、傍らに置いてあった本を膝の上に乗せる。
「ねぇ、フライス。剣士ってどんな仕事をするものなの?」
フライスは、サーシェスが持っている職業大全に目をやり、それから軽くため息をつく。サーシェスはフライスが自分の講義をまったく聞いていなかったのかとでもいいたげな顔をしているのを見て、あわてて付け加える。
「あ、だからそういうことじゃなくて、つまりその、毎日戦争をしているわけじゃないでしょ? どうしてみんな剣士になりたいなんて思うんだろうと思って」
もちろん自分も含めてだけど、とサーシェスは心の中で付け加えた。
「通常、剣士はそのレベルに応じてランク分けされているから、下っ端の剣士は街の警護、といってもほとんどは大昔の警察みたいな役割をしている。喧嘩の仲裁とか祭の人員整理とか、そんな程度だろう。国レベルの紛争に活躍するのはその上のランクの騎士で、もちろん本物の戦争になれば剣士だけではなく術者も総動員される。当然そこで人を斬ったりすることは日常茶飯事だけど、今はそんな紛争もないから犯罪者の摘発だとか国の警護とか、そんな仕事をしているはずだ。それでも剣士にあこがれるのは、やはりレオンハルトの影響が大きいのだろうな」
「ふぅ〜ん」
サーシェスは気のない返事をする。そういえば、セテもレオンハルトにあこがれていると言っていた。レオンハルトがどれだけすごい聖騎士だったかはあまりよく知らないが、そこは男と女の違いなのかもしれない。
「……剣士になったら、人を殺したりするのかなぁ」
フライスは、サーシェスがあの騎士大学の青年のことを言っているのが分かった。
「必要に迫られれば、といっても、剣士はやはりそれが仕事だからね。それに、人を斬るのが好きでたまらないといった類の剣の使い手もいる」
フライスは、中央騎士大学の学生は、確かに好きこのんで人を斬ったりするような柄ではないことは分かってはいたが、なかにはそれが目的で剣士になるという愚劣な人間がいることもほのめかしてみた。そういう輩は、騎士団などの正式な軍隊に入ることもなく、徒党を組んで悪さをしたり、要人の暗殺なども引き受け生計を立てているので、本来の意味での剣士ではない。したがって、フライスも「剣士」という言葉に多少は敬意をはらって使っているようだ。
ふと、石段の遙か下に見えるラインハット寺院正門の前で、セテの親友のレトがこちらに向かって手を振っているのが見えた。サーシェスは立ち上がるとレトに向かって大きく手を振り、身振りで会話を始めた。レトは上に掲げた両手を振るのをやめ、頭の上で大きく丸を書いて見せた。とたんに、サーシェスは飛び上がらんばかりに歓声を上げた。
「すごい! セテ、試験に合格したんですって!!!」
サーシェスは大喜びでフライスに向き直り、急いで職業大全と剣を預ける。
「これからお祝いに行ってくる! 外出許可は取ってあるし、悪いけどちょっと食事をしてくるから!」
サーシェスは弾丸のような早さでそうまくしたて、石段を駆け下りていった。
あの青年と食事にしに行くと聞かされても、フライスはもう以前ほど気分を害することはなかった。サーシェスの後ろ姿を見送りながら、フライスは独り苦笑して、小さく肩をすくめてみせたのだった。
初夏が終わり、もうすぐロクランにも夏がやってこようとしていた。
いつものように、中央騎士大学の紋章の入った黒い制服を身にまとい、セテはその店の前で立っていた。旧世界(ロイギル)風のゴテゴテした装飾の門構えをしたレストランの入り口に、セテは明らかに浮いてしまっている。
(もう少しちゃんとした格好をしてくればよかったな……)
中央騎士大学の制服は一応正装ではあるものの、店に出入りする客の服装は、どれも着飾って立派に見える。自分の服装がやけにくたびれて見えるのでセテは気後れしてしまっていた。それもそのはず、この店はロクランでも五指に入るくらいの歴史のある有名なレストランで、はっきりいってセテにはまったく縁のない世界でもあった。
(私服っていっても、俺TシャツとGパンくらいしか持っていないしなぁ)
居心地の悪さに、セテはいたたまれないような感じでそわそわし始めていた。今日はサーシェスと三人で合格祝いをしてくれるというので、レトが気を利かせてこのレストランを予約してくれていたのだが、サーシェスを迎えに行ってくれたレトはまだ来ない。
(ったく、レトのヤツ、遅いなぁ。フツー主賓をこんなところで待たせるかっつーの)
「ごめーん! お待たせ〜!」
同じように中央騎士大学の制服を身にまとったレトが手を振ってやってきたので、セテはとりあえずホッとした。が、その傍らにいる少女の姿を見て、セテははっと息を飲む。
瞳と同じグリーンのワンピースを身につけたサーシェス。いつもは質素なチュニック姿しか見たことがなかったのに、今日の彼女はそのあでやかな装いの中で、セテにとっては文字通り輝いて見えたのだった。
(す、すっげーかわいい! 俺、ホント生きててよかった……!)
声も出ないほど驚くセテに、レトは、
「遅れちまってごめん。いや、彼女が着ていく服がないなんて言うからさー、ちょこっと服を調達してきたんだけど、どう?」
レトがまるで自分の彼女を自慢するような口振りでそう言うのでセテはちょっとムッとしたが、サーシェスはそれに気づかず、照れくさそうに笑っている。うわぁ、ホント、何を着てもかわいいんだなぁ。
「いや、本当に……その、よく似合ってる」
かろうじてそう言うのがやっと。サーシェスはうれしそうに笑っている。装身具ひとつ身につけていないし、ワンピースもベーシックなデザインなのに、本当によく似合っている。レトの見立てもたいしたものだ。レトがセテにこっそり耳打ちする。
「後でお前のところに請求書がいくからな。覚悟しておけよ」
そういうことか! セテはいまいましそうにため息をつく。
三人がそろったので店に入り、テーブルに着く。サーシェスもこういう店には来たことがないらしく、店内の厳かな装飾品の数々を物珍しそうにきょろきょろ見回している。そんな様子を見て、セテもホッとため息をつくのだった。
「ここはね、ワインがすっごくおいしいんで有名なんだよ。それもベアトリーチェ産の極上のワインが勢揃い!」
ウェイターが持ってきたワインを指さしながら、レトがそう言った。さすが、レトの段取りの良さといったら頭が下がる思いだ。グラスにつがれる透明な深紅の液体が、店内の照明に照らされてきらきら輝いて見える。
三人はグラスにつがれたワイングラスを掲げ、セテの中央特務執行庁合格を祝して乾杯をした。レトもサーシェスも、口々に祝いを述べた。前菜が運ばれてきて、三人は食事を始める。おいしそうな肉の焼けるいい匂いがして、豪勢な料理が次々と運ばれてくるのを、セテもサーシェスも目を丸くして眺めていたものだった。
「それにしてもすごいよな、お前。まさか本当に中央特務執行庁に受かるとは思わなかったよ。ま、お前なら軽く流す程度だとは思っていたけど」
レトは感心したようにひとり頷きながら首を振っている。
「本当にたいしたことないよ。あの程度で……」
セテは突然口をつぐんだ。そう、あの程度で。先日の現役の特使相手の実技試験のことを思い出す。あの特使。実は本当にたいしたことなかった。スピードも腕もはるかに自分の方が上だった。そのあとの実技を庁舎の中から見ていたけど、こいつはすごいと唸らせるようなヤツはひとりもいなかった。もしかしたら、「すごい剣士」なんてのはただの夢なのかもしれない。中央特務執行庁は一応上級公務員。学生たちにしてみれば、試験を受けること自体が一種のステータスでしかないのかもしれない。ステータスがほしいがために、剣士になりたがる学生たち、そして、そのステータスの高さに甘んじて生きている現役の特使。なんというばかげた現実。
「だって中央特務執行庁といえば、上級公務員だぜ? 俺たち一介の剣士見習いからすれば高嶺の花だもんな。本当にうらやましいよ、セテ」
分かっている。レトは本心でそう言っているのであって悪気があるわけじゃない。でも、自分があこがれていた聖騎士への夢が遠のいてしまったことに、セテはいらだちを隠せなかった。今日ばかりは、レトの人の良さが勘に障る。
急に黙り込んでしまったセテを、サーシェスは不安そうに見守る。ふと、座が白けてしまったことに対して、セテは申し訳なさそうに愛想笑いを返した。こんな席で自分のいらだちをさらけ出してしまうなんてどうかしていると、セテはワイングラスの残りを飲み干した。
「そういえばさ、俺、ちょっと小耳に挟んだんだけど……」
セテの心中を察したのか、レトが切り出す。
「二年くらい前だったかな、やっぱり中央特務執行庁の試験で全教科満点、トップレベルの成績を修めて合格したヤツがいたんだけど、セテ、お前知ってるか?」
トップレベルという単語に反応したセテは、グラスを置き、レトの顔を無言で見つめる。今回の試験ではセテは満点ではないものの、トップレベルの成績を修めた。全教科満点? 自分のそれを遙かに上回る成績を修めただと?
「誰なんだ、そいつは?」
「アトラス、アトラス・ド・グレナダ。グレナダ公国、アルハーン大公の次男坊だよ」
「アルハーン大公の? なんでハイファミリーが中央特務執行庁に?」
「さぁ? どちらにしろ中央特務執行庁には勤務しなかったというんだから、よく分からないところだけどな。きっとお前と同じような考えを持っていたんだよ」
レトはセテの心の中を見透かしたような笑みを浮かべていた。レトはセテの心が手に取るように分かるんだろう。セテが今どんな気持ちでいるのかも。
アトラス・ド・グレナダ。ハイファミリーに生まれ、権力者の血筋に生まれたのに、なぜ中央特務執行庁などの試験に臨む必要があったのか。しかも、前代未聞の成績を修めておきながら、彼はなぜ中央特務執行庁に勤務しなかったのか。ただの腕試しなのか、それとも……。
セテはその青年に強く興味を引かれ、会ってみたいと思った。願わくば手合わせしてみたい。自分と同じような考えを、その青年が持っていたというならば。
食事を終えて店を出ると、レトは一足先に帰るなどと言い出した。セテがあわてて彼を引き留めようとすると、レトはいたずらっぽい笑みを浮かべながら、「気を利かせてやったんだぞ! このチャンスを逃すなよ」と言い残し、とっとと宿舎に帰ってしまったのだった。
とりあえず夜も遅いし、彼女を無事ラインハット寺院にまで送り届けなければならない。が、その前に、セテは勇気を振り絞って自分の気持ちをサーシェスに打ち明けるつもりでいた。
街灯がサーシェスの銀の髪を照らして、七色に輝いて見える。思わずごくりとツバを飲み込む音が聞こえてしまいそうだ。サーシェスが無防備な顔をしてこちらを見つめているのを見て、セテの心は勝手に高鳴り、気持ちはどんどん高まっていく。落ち着け、自分!
「ねぇセテ?」
「は、はいっ?」
声が上擦る。うわっ、またやっちまった、俺ってホントにバカみたいだよな。
「あのね、セテに謝らなければいけないことがあるの」
彼女の言うことなら俺はなんだって許しちゃうよ、ホント。
「このあいだ渡した護符、あれね、実は大僧正様が渡し間違えて、まったくとんでもないものを渡してしまったの。ホントにごめんなさい」
セテは自分の制服の下に掛けている護符の感触を確かめる。とんでもないもの? もしかして死の護符とかなんとか?
セテの不安そうな顔を見て、サーシェスがすまなそうな顔をして頭を下げる。
「ごめんなさい! あれね、安産のお守りだったの! 大僧正様が渡し間違いに気づいたときにはもう試験の直前だったからどうにもならなかったし!」
「あ、安産……?」
こくりと頷くサーシェスの顔を見ているうち、セテは全身が脱力感に見舞われていくのを感じていた。ということは、この護符を本当に救世主のお守りだと思って後生大事に持ってたってこと? そのうちに、セテはおかしくて吹き出してしまい、その様子を見ているサーシェスもつられて笑い出し、ふたりは大笑いを始めたのだった。
「だから、はい、これ。これが本物の救世主の護符よ」
サーシェスはセテの目の前に持ってきた護符を差し出した。チェーンの先で小さな円盤状の護符がくるくると回る。セテは自分の首に掛かっていた安産の護符をはずし、照れくさそうに首を傾げながらサーシェスに手渡した。
「……私は……セテに人を斬ったりしてほしくないな……」
サーシェスがぽつりとそんなことを言うので、セテは驚いて彼女の顔を見やる。一瞬だけ彼女がつらそうな顔をしたのがかいま見えたが、すぐにサーシェスは笑顔を取り戻し、セテの首にこの護符を掛けようと背伸びをする。
「だから、道を過たぬように。救世主があなたに正しい道を導かんことを」
彼女の腕がすっと伸びて、セテの首周りに触れる。チェーンの金属の質感がヒヤリとしたのも確かだが、彼女の顔がこんな近くにあって、セテは全身の毛が逆立つような気にさせられる。言うなら今しかない。
「サーシェス、聞いてほしいことがある」
セテはサーシェスを向き直らせ、背筋を伸ばす。深呼吸をして気持ちを落ち着けてから、自分が伝えたい言葉を瞬時にまとめてみる。
「俺は……この夏、あともう何日もしたら中央騎士大学を卒業する。これまでの何週間か、君と過ごせて本当に楽しかった。中央特務執行庁に勤務するようになったら、もう君に剣を教えることはできないけど……君さえよかったら、これからもときどき会ってほしいんだ。もちろん、剣を教えるためだけじゃなくて、その……友達として」
最後まで言えた。あとは野となれ山となれだ。たとえ彼女に拒絶されたとしても、とりあえず自分の気持ちを伝えることは伝えた。
ふと、サーシェスの表情が寂しそうにゆがみ、でもすぐに笑顔を作る。ひと目で作り笑いだと分かってしまうが。
「もちろんよ。あなたの気持ち、とてもうれしい。でも私もあなたに聞いてほしいことがあるの」 サーシェスはセテの目を覗き込むような仕草で首を傾げて見せた。
「王立博物館で初めて会ったときのこと、覚えてる? あなた、私の顔を見てとても驚いた顔をしていた」
忘れもしない、彼女と初めてエクスカリバーのレプリカの前で出会ったあの瞬間。口から心臓が飛び出るくらいに驚いたものだ。救世主が復活したのかと思ったくらいに。
「最初、セテがあんまり驚くから、もしかしたら私のことを知っている人が現れたのかと思ったくらい。でもそうじゃなかった。剣を教えてもらうようになって、そのうちに思ったの。セテは私のことを見ているわけじゃないんだなって」
何だ? 彼女はいったい何を言っている?
「セテ。あなたは私に誰の影を見ているの?」
サーシェスのグリーンの瞳が、また魔法のようにセテをつかんで離さない。彼女の言っている意味がセテには理解できなかった。
──私に誰を見ているか──? 誰でもない、君は十年前、浮遊大陸で見た救世主そのまま──
その瞬間、セテはすべてを悟ったのだった。
ちょっとした仕草とかに、ああ、きっと救世主が生きていたらこんな感じなんだろうと思っていた。彼女が汚い言葉を口にしたときには、ひどくショックを受けた。たぶんそれも、救世主がそんな言葉を口にするはずがないなんて、ひどい妄想と偏見が入り交じったものだったに違いない。自分は愚かにも、サーシェスというこの少女の人格を見ずにいたというわけだ。でも彼女は救世主じゃない。救世主はもういないし、彼女は救世主とは別の、人格を持った一個の、ひとりの人間だ。それなのに、自分は十年前の浮遊大陸の残骸の中で見た救世主《メシア》の姿を、今目の前にいるこの少女の姿に重ね合わせてしか見ていなかったのだ。
それは拒絶よりもさらに冷たい、存在理由の否定。
「でも……もし本当の意味で私に会いたいと言ってくれているなら、とてもうれしい……」
この記憶のない少女に対して無意識に自分がとってきた態度は、ひどく彼女を傷つけていたに違いない。サーシェスは目の端に涙をためていた。自然に腕が伸び、彼女の体に回る。自分には資格はないと分かっていても、セテはサーシェスを抱きしめることしかできなかった。
たとえ世界を救うはずの救世主が復活しなくても、今目の前にいる彼女こそが、自分にとっての唯一の救世主であるのだと、気づくのが遅かったのかもしれない。でも、今からでもサーシェスを守りたい。彼女の記憶が戻るまで、彼女のそばにいてやりたい。
ファリオン・ワルトハイムはいまいましそうに街灯の柱を足で蹴った。鈍い音がして街灯が揺れたが、気持ちが収まることはない。彼は少し酔っていたが、酒ですら彼のいらだちを抑えることはできなかったようだ。
あのできすぎた叔母、鉄の淑女ラファエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム将軍がロクランに来ていたとはなんと間の悪いことだったか。ハイファミリー、特に身内には手厳しいラファエラ。先日のラインハット寺院での立ち回りの話をどこからか聞きつけていたらしく、こっぴどく叱責された。いまいましい。僕はワルトハイム家の当主になる男だ。出戻りの後家になんか大きな顔をされてたまるか。
それにしても、とファリオンは思い出し笑いを隠せない。あの、なんといったか、ラインハット寺院の少女。かわいい顔をしているくせに気が強くて、野生の山猫のようだった。どうせ叱責されるなら本当にいただいてしまえばよかったんだ。まったく惜しいことをした。
ふと、ファリオンは大通りにさしかかる手前の脇道で、一組のカップルが抱き合っているのを見かけた。おもしろくなさげに鼻を鳴らすが、よく見ると女の方は先日の大立ち回りで世話になったラインハット寺院の少女であることに気づき、ファリオンは驚きを隠せない。
「ふん……かわいい顔してやることはやってるってことか……!」
ファリオンはサーシェスたちの様子を見ながらいまいましげにひとりごちた。さらに見ていると、少女を抱き寄せていた青年ははじかれたように彼女から手を離し、あわてたような様子で何かを少女に話すと急いでその場を離れていった。少女はその青年の後ろ姿を見ながら、そばの街灯に身をもたれさせていた。
ファリオンの心の中の残虐な部分が首をもたげ始めていた。
「あ、ご、ごめん! 俺、そんなつもりじゃ……!」
セテは突然、サーシェスを抱きしめていた腕をふりほどき、彼女を引き剥がした。サーシェスは驚いたような顔をしてセテを見つめている。うひゃー、なんて無防備な顔してるんだ、この娘。
「送ってくよ。今、馬車を呼んでくるからここで待ってて」
セテはあわててそう言い残し、流しの馬車を拾いに近くの大通りまで駆けていった。
サーシェスは複雑な表情でため息をつき、そばの街灯に身をもたれさせる。とそのとき、後ろから腕を掴まれ、サーシェスはあっという間に脇の路地に引きずり込まれていた。
「よぉ、お嬢さん」
ファリオンは不適な笑みを浮かべてサーシェスに挨拶する。口の端にはさも愉快でたまらないといった笑い皺をよせて。
「あなた……!」
この青年があのとんでもなく非常識なハイファミリーのお坊ちゃんであることに気づくのに、ものの数秒も必要なかった。
「いつぞやはお世話様。おかげさまで僕の面目はまるつぶれだ。お礼をして差し上げたいと思ってね」
突然サーシェスは押し倒され、悲鳴を上げようとする口を手のひらで塞がれた。
「騒ぐなよ! どうせ初めてってわけじゃないんだろ!?」
乱暴に両手をひねり上げられ、サーシェスは痛さのあまり顔をしかめた。路地裏の砂利が背中を擦るのを感じる。サーシェスは自分の口を押さえているファリオンの手のひらにかみついた。ファリオンはうめき声をあげて手を離したが、すぐに舌打ちして平手で何発も彼女の頬をたたきつけた。サーシェスが一瞬ぐったりとなったその隙を見てファリオンは彼女に馬乗りになり、グリーンのワンピースの胸元に手を掛けた。
「いやっ なにするのよっ バカッ! やめてッ!!!」
布の引き裂かれる音がして、サーシェスは恐怖のあまり体がこわばる。目の前には、下卑た薄笑いを浮かべるハイファミリーの青年の顔。
「やだっ 助けてセテ! セテ!!! フライス!!!」
サーシェスのせいいっぱい張り上げた声に舌打ちしたファリオンは、もう一度彼女を殴りつける。サーシェスは意識が遠のく中、金髪の青年が路地に駆け込んでくるのを見たような気がした。
「この下司野郎!!」
セテのタイミングのいい蹴りがファリオンの後頭部を直撃し、ファリオンはサーシェスの体を飛び越えて前のめりに倒れ込んだ。セテはファリオンの胸ぐらをつかんで無理矢理立たせ、続けざまに顔面に左ストレートをたたき込んでやった。ファリオンは鼻から血を流しながら二、三歩ふらつき、やっとのことで体勢を整え、腰に下げていたサーベルを抜いてセテに突きつけた。
「……素人がそんなもん振り回すとケガするぜ」
セテはからかうように肩をすくめて見せる。ファリオンは狂ったように突きを繰り出してくるが、セテはそれをひょいひょいとかわす。狭い路地では確かに振り回すよりも突く方が有利ではあるが、セテの敵ではない。セテは相手の懐に入り込み、その鼻面に心地よいくらいのパンチをお見舞いしてやった。ファリオンは焦点の合わない目で空を睨むと、そのままずるずると崩れ落ちた。
この騒ぎを聞きつけて、まわりからバラバラと路地に人が集まってきた。セテは倒れているサーシェスに駆け寄ると、制服の上着を脱いで彼女にかけてやり、そっと抱え起こす。意識を取り戻したサーシェスはやおらセテにしがみつき、震えている。
「……大丈夫、もう大丈夫だ。心配ない」
セテはサーシェスの頭を優しくなでてやり、彼女を抱きしめてやる。
「……フライス……フライス……!」
うわごとのようにフライスの名を呼ぶサーシェスに、セテは愕然とする。錯乱しているにしても、よりによってあの修行僧の名を呼ぶなんて。ショックよりも何よりも、セテは彼女が呼ぶのが自分の名でないことに嫉妬にも似た思いを感じざるを得なかった。彼女の肩を揺すり、何度かサーシェスの名を呼ぶ。ふと、サーシェスが今意識を取り戻したかのように呆然とセテを見つめていた。
「……セテ……?」
突然、周りの人間が悲鳴をあげる。正気を取り戻したファリオンが、サーベルを再び構えてセテに斬りかかろうとしていた。反射的にセテは腰の飛影を抜き、迫りくる暴漢をなぎ払った。ハイファミリーの若者は悲鳴をあげて腹を抱え込み、転げ回る。セテの飛影から血が滴っていた。
セテは血糊のついた自分の愛剣を呆然と見つめる。周囲の野次馬が誰言うとなくささやいたのを、耳鳴りの中で聞いていた。
「あの男、ワルトハイム家のファリオン坊ちゃんじゃないか?」