Home > 小説『神々の黄昏』 > 番外編:聖騎士の暁 > Prologue
南北に広がる中央エルメネス大陸のほぼ中心、眠らぬ都として知られる〈光都〉オレリア・ルアーノに来たならば、必ずその目で見るべきだと言われる古い建造物のひとつに、聖救世使教会が挙げられる。
〈翡翠の大聖堂〉と名高い聖救世使教会の外観は、その名のとおり外壁と柱に翡翠を使った、旧世界《ロイギル》時代の香りを残す豪勢なものである。オレリア・ルアーノの地下に建造されている巨大な〈発電所〉から供給される電気と、都の背後に身を横たえる旧世界の廃墟グレイブ・バリーといったふたつの奇妙な不整合さの中に、聖救世使教会の外観は存在する。二百年前に大陸全土を脅かした汎大陸戦争の、良くも悪くも遺産として形を残すものがオレリア・ルアーノのいまの姿であった。
この都には、中央諸世界連合の要となる組織の本部がすべて集約されている。中央諸世界連合の最高意志決定の場である中央評議会、その下に軍事的役割を担う中央特務執行庁や中央騎士団、そして、これら法的・軍事的役割とは無縁でありながらも同じ階層に位置する聖救世使教会だ。
国際紛争や国家間の不利益を解決するのが中央評議会や中央特務執行庁ではあるが、主に聖救世使教会は中央圏内の各寺院を束ねる役割を担っている。教会と名はつけども、厳密な意味での宗教は存在し得ないエルメネス大陸においては、騎士団の持つ「物理的な力」とは正反対の「術法」で、人々の暮らしの安全を守っているのだといえる。術法の管理・再開発・普及を行い、中央に名を連ねる各国寺院に優秀な術者への教育を奨励するのが彼らの仕事であり、存在理由でもあった。
さらにもうひとつ、聖救世使教会がその高い地位を得ている理由に、彼らが聖騎士団を抱えていることが挙げられる。中央評議会の下に置かれず、教会の管轄に聖騎士団が置かれたのは、初代聖騎士レオンハルトと時の聖救世使教会祭司長の強い要望によるものであった。すなわち、評議会が決定を下しても、聖救世使教会の承認なくしては聖騎士団を容易に派遣することができないようにすることで、かつての汎大陸戦争のような武力によって引き起こされる連鎖反応を防ぐためである。
聖救世使教会のその翡翠の廊下を、銀の甲冑をまとって歩く剣士がひとり。その数十分前には、やはり銀の甲冑をまとった大勢の剣士たちで聖堂内がごった返していたのだが、いまではその剣士ひとりを残すのみとなっていたようだった。静謐なるその聖堂の中を、甲冑のたてるガシャガシャという音が鳴り響いていた。
こんな時間までまだ残っていたのかと、すれ違う司祭たちの視線をすり抜けて、その青年剣士はまっすぐに廊下を歩き続ける。ときたま、肩まで伸びた金色の髪が顔にはりつくのをうざったげに掻き上げながら。そして彼は廊下が交差するところで少し立ち止まって、あたりを見回すような仕草をした。
「相変わらず、迷路みたいだな」
誰に言うとなく青年剣士はそう言い、小馬鹿にするように鼻を鳴らして笑った。そして次に通りかかった司祭を呼び止める。
呼び止められた司祭は、彼のまとう甲冑を見て彼が何者なのかを理解したようだった。見事に磨き上げられた銀の甲冑は、聖騎士団の正装であった。
彼は司祭に道を尋ね、司祭も丁重に道を説明してやると、青年は「ありがとよ」と軽く手を挙げて礼を返した。
次の廊下を曲がり、階段を下りると、〈翡翠の大聖堂〉自慢の庭園が開ける。翡翠にふさわしい、緑色の楽園だ。よく手入れされた芝生や、植木の放つ緑色の空気を滑いっぱいに吸い込むように深呼吸をすると、視線の先に目当ての人物を見つけ、青年は満足そうに頷いた。聖騎士の銀とは対照的な漆黒の甲冑に身を包んだその人物は、ぼんやりと庭園の木々を眺めているようだった。
「やっぱりここだったのか。式典嫌いもいい加減にしとけよ」
青年はやや大きめの声で、からかうように声をかけた。庭園を眺めていた人影が、その声にゆっくりと振り返る。長い金色の巻き毛を後ろでひとつに縛り、おなじみの黒い甲冑に長いマントといった正装の出で立ちの、初代聖騎士レオンハルトであった。
レオンハルトは青年の顔を見つめてはいるが、押し黙ったままだった。青年は業を煮やしたのか小さくため息をつくと、
「なんだよ。俺のことなんか覚えてない、とでも言いたげだな」
「いや、忘れてなど。少し驚いただけだ、お前が──」
そう言ってレオンハルトは、青年が身につけている銀の甲冑をまじまじと見つめた。そして、その腰に下がっている細身の美しい剣も。青年はレオンハルトが驚いた理由に気付いて満足そうに笑い、肩をすくめてみせた。
「約束どおり、俺は聖騎士になったよ。さっき式典が終わったところだ」
あんたはいなかったけどな、と、青年は小さく付け加えた。
「そのようだな。おめでとう。ダノル」
「よせって。子どもじゃあるまいし」
ダノルと呼ばれた青年は照れくさそうに顔をしかめると、レオンハルトの脇に歩み寄って手を差し出した。レオンハルトは静かにその手を握り返した。この青年も長身ではあるが、並べばそれでもレオンハルトのほうが背が高い。その差が居心地悪いのかダノルは再び顔をしかめると、早々に手を引っ込めてレオンハルトを見つめた。あまりにまじまじと見つめるので、レオンハルトが眉をひそめて困惑をあらわにする。
「偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》ってのは、ホントに年取らないんだな。あんた、全然変わってない」
「お前は少し大人になったようだな。いくつになった」
「いつまでも子ども扱いするのもイーシュ・ラミナの悪い癖だよな。二十六だよ」
「そうか」
レオンハルトはダノルには聞こえないようにため息をこぼした。
長命種である彼らイーシュ・ラミナの末裔にとっては、時間の流れとともに肉体が衰えていくその感覚はなきに等しい。本来あるべき時間の流れから隔離されてしまったような、そんな寂しさが訪れるのは、かつて出会った人間と時を隔てて再会するその瞬間にほかならないのだと、レオンハルトはいつも思う。
青年の髪は出会ったときよりずいぶん伸びていた。前は耳にかぶるくらいだったのに、いまでは銀の甲冑のショルダーパッドに触れている。もともと幼く見える顔立ちをしてはいたが、いまでは現場での経験をこなしてきた剣士らしい顔つきになっていた。だがその明るい金の髪の色もアイスブルーの瞳も、よく表情の変わるその顔も、以前出会ったときと変わりないことに、レオンハルトは少しだけうれしく思うのだった。
「せっかくまたあんたと戦う機会が巡ってきたところだけど、それもままならないかも」
青年が殊勝にも寂しげな口調で言ったので、レオンハルトは首を傾げた。
「俺さ、さっそくアジェンタス騎士団領への出向が決まっちゃったわけよ」
ダノルは肩をすくめ、おどけてそう言った。
「アジェンタス……か。転勤の手続きもいらないだろうし、古巣ということもあって勝手も分かっているだろう」
「あんなクソ田舎の騎士団に戻ったっていいことなさそうだけどな。アジェンタス騎士団の客員講師っつーか、そんな感じ。ついでにグレイン提督からは守護剣士にもお誘いいただいちゃってさ。さっき聖騎士団のおエラいさんから正式に通達を受けた」
「ほう、たいしたものだな。もちろん受けるつもりなのだろう?」
「さあね」
「どうしてだ。あれほど『最強の聖騎士』とやらになりたがっていたのに」
問われて、ダノルは困ったようにため息をついた。
「あんたがどこの国の守護剣士にならないってのと同じ理由だよ。あんたは自分が仕えるべき理想の君主を捜してる。そして俺は……」
ダノルは言葉をつぐみ、目にかかる長い前髪をかきあげた。アイスブルーの瞳が、自分の力でどうにもならないできごとに対する憤りを物語っている。レオンハルトはその瞳が、いつかの戦役を自分に思い出させようとしているのを感じて瞳を閉じた。叱責と後悔が入り交じった深い憤りから逃れるためだとは思いたくなかったが。
青年は剣士を辞めてしまうのだろうと思った。剣士に向いていない典型的なこの青年の性格を知ってしまった以上、それ以外に彼の選択肢はないのだと思っていた。それが今日この日、本当に聖騎士になってしまうなんて。
そう、あれはいつのことだったか。この青年が、そのアイスブルーの瞳いっぱいに怒りと涙をたたえて、激しく自分を罵倒したのは。大輪の花のごとく広がる血だまりの中で息絶えた、幼い少女の身体をかき抱き戦を呪ったのは──。