Home > 小説『神々の黄昏』 > 挿話:遙かなる憧憬 > Act.1
中央エルメネス大陸の北方を守護する偉大なるアジェンタス山脈は、厳しい寒さをアジェンタス地方にもたらすだけではなく、高くそびえ、外敵の侵入を阻む重要な砦でもあった。
汎大陸戦争終結後およそ二百年もの間、辺境の国々の侵入をくい止め、平和を維持するのに大いに役立ってきた天然の防火壁。だがその実、ある不吉な噂が人々の足をアジェンタス山脈から遠ざけていた。いわく、入り口付近には化け物が住んでいて、侵入者をことごとく排除するのだ、と。
それを迷信と一笑に付して、果敢にもアジェンタス山に挑んだのがセテたちだった。大人たちのいいつけを守らずに無断で禁忌とされていた山の包囲網を突破し、最後まで頂上を目指したのはセテひとりであったが、大人たちはこの無謀な冒険を遂行した少年を賞賛するどころか、こっぴどく叱りつけたものだった。
だが、この山に入り込んだ少年たちをはじめ、町中の子どもたちがセテを賞賛の目で見ていたのは誰の目にも明らかだった。無鉄砲で怖いもの知らずの少年、それがセテ・トスキだった。
そしてあれから五年。
アジェンタスの夏は短い。北方に位置するだけでなく、四方のほとんどを山々で囲まれているため、常に冷たい風が吹き下ろしてくる。夏は避暑地として中央から多くの観光客が押し寄せてくるのだが、それが終われば長く厳しい冬が待ち受けている。だからこそ、アジェンタスの街は夏の間がいちばん活気にあふれる。人々が楽しく過ごせるようさまざまな催し物が行われるのだ。特にこの時期は、観光客を目当てにした祭りや音楽祭が多く開かれる。そして今日、アジェンタスの首都アジェンタシミルからさほど離れていないこのヴァランタインの街でも、大きな祭りが催されようとしていた。
街の居酒屋が、今日は振舞酒を用意していた。通りがかる人々が自由に談笑できるように店先に卓を並べ、自慢のビールや地酒を振る舞う。もちろん、観光客にこの味を試してもらい、気に入ってもらって酒を購入させるためのデモンストレーションではあるのだが。
その卓の周りには観光客だけでなく、ヴァランタインの人々も集まり、店主をからかったり自分の家の自慢料理を持ち寄って振る舞ったりとたいへんなにぎわいである。近所の主婦も手伝いに来ていて、昼間から酔っぱらっている自分の亭主と皮肉の応酬をしているおかみさんの会話に大笑いをしていた。
「ああ、まったく、男ってのは酒を飲むとどうしてこんなにだめになるんだろうねぇ。百年の恋も一気にさめちまうよ」
そんなふうに悪態をつく居酒屋のおかみに、周りの主婦が一斉に笑い出す。
「そんなこと言って、ふだんはダンナがいないと寂しいなんてこぼしてるくせにさ」
居酒屋夫婦の仲の良さはヴァランタインでも有名だ。結局はおしどり夫婦で、周りはそのあつあつぶりにあてられているようなものなのだ。
「うちのバカ亭主に比べたら、あんたんとこなんて聖人君子もいいところさ。たまの祭りくらい勘弁しておやりよ。うちのなんて見ておくれよ。このていたらく」
ひとりの婦人が呆れたように肩をすくめてそう言うと、隣で聞いていたその夫が馬鹿笑いをし、
「なに言ってやがんだ。祭に酒も飲めないような男じゃ付き合う気もしないなんて言ってたのはお前のほうだろが」
「はぁ、それももう何十年前の話って感じだよ。もうあたしにゃ馬鹿な亭主とバカ息子しか残されてないんだよねぇ」
「バカ息子で悪かったな」
不機嫌そうな声がする方向を振り返ると、茶色い巻き毛の少年が立っていた。まわりが一斉に笑ったので、少年はさらに不機嫌そうにため息をついた。
「おお、レト、いいところに来たな。まぁ飲め」
父親は愉快そうに笑いながら息子にグラスを渡し、そこになみなみとビールを注ぐ。レトは母親の隣にどっかりと腰を下ろし、まだ未成年だというのに平気でグラスをつかみ、一気に煽った。
「無礼講だからって飲み過ぎるんじゃないよ」
「へいへい」
もう一杯とビール樽にグラスを近づけようとしたレトは母親にたしなめられ、顔をしかめながら生返事を返した。
「あのさ、セテ見なかった?」
レトが母親に尋ねると、
「おや、一緒じゃなかったのかい。まだこっちには来てないけどね。約束してたんじゃなかったのかい」
「うん、広場の脇で待ち合わせしてたんだけどさ、全然こねぇからこっちで待ってようと思って」
「ナルミが朝早かったからねぇ、起こし忘れてまだ寝てるんじゃないのかい?」
ナルミというのはセテの母親だ。セテとレトが幼なじみであったように、レトとセテの母親も幼なじみでとても仲が良かった。セテの母ナルミは看護士をしている。祭りの騒ぎが始まると、喧嘩だとか飲み過ぎて倒れる者が続出するため、診療所に早くから詰めていなければいけなかったので、今日は朝一番に家を出たらしい。
「なんで起こしてやらなかったんだい。家に寄ってやればよかったじゃないか」
「やだよ。母さんだってあいつの寝起きの悪さはよく知ってんだろ」
そう言われてレトの母親は肩をすくめた。レトはまた対岸に座っている父親にビールを注がれ、しかたなしにグラスに口をつける。すると、
「ごめん、まじ寝坊しちゃったよ!」
威勢の良い声が聞こえたので振り返ると、明るい金髪の少年が息を切らして駆け寄ってきたところだった。TシャツとGパンというラフな格好で、剣を腰に下げたその少年こそ、レトの親友セテであった。
「おせーよ!」
レトはわざと不機嫌そうにそう言うが、その実、彼はほとんど気にしていなかった。セテが彼との約束に遅れるのはいつものことだったし、半ばあきらめの境地に達していたと言ってもいいだろう。
「すまん! 起きたら十時まわってて……五分くらい途方に暮れちゃったよ。ホントごめん!」
セテは親友にめいいっぱい頭を下げて謝った。いつものパターンだ。レトはため息をひとつ小さくつくとセテの頭を指さし、
「……寝グセ」
言われてセテは頭に手をやる。なるほど、少しだけ寝グセが残ってはねている。
「ああもう!!」
セテは悪態をつき、髪を乱暴にひっぱった。髪質が柔らかいので、少し抑えればすぐ直るのだが。
「まぁいいけどさ。座れよ。なんか飲むか?」
「あ、いいよ、今日は……」
セテが首を振ると、横で見ていたレトの父親がセテの前にどっかりとグラスをおいて言った。
「まぁ景気づけにいっとけよ、セテ。それで切っ先が鈍ることもねーだろ」
レトの父親は、セテにとっては父親代わりのようなものだ。行方不明の父に代わり、なにかと相談に乗ってくれたり、レトと同じようにこっぴどくしかられることもあった。セテは観念してグラスを受け取ると、なみなみと注がれるビールの泡を見ながらため息をついた。
「何時から始まるんだっけ」
ビールに口をつけるセテを見て、レトが心配そうに尋ねた。
「十一時半」
セテは口元を拭いながらそう言った。レトが中央広場の大きな時計塔を見上げると、十一時半まではあと一時間を切っている。
「だいじょうぶかよセテ。軽く慣らしといたほうがいいんじゃねーの?」
「べっつにいいよ、してもしなくても俺は勝つからな」
相変わらずのセテの強気な発言に、レトは小さく肩をすくめた。
ヴァランタインの中央広場には、催し物のための大きなステージが設置され、そのまわりには露店が所狭しと並び、人々がごった返している。商品を値切る客と話す物売りの威勢の良い冗談交じりの声や、ビールを煽って景気のついた街の人々の笑い声が響く中、突然拍手が沸き起こる。舞台に立ったのはヴァランタインの一般市民で構成される自警団。みなそれぞれに楽器を手にしている。自警団の中でも音楽を多少たしなむ人々で構成されるこの楽師隊は、こういった街の催し物でよくアジェンタスに古くから伝わる伝統曲を演奏し、人々を楽しませるのであった。
それが終われば、ステージでは剣士たちによる腕試しが行われることになっている。少しでも腕に覚えのある人々が内外から集まり、それぞれ剣技を競うのだ。セテはその腕試しに参加することになっていた。十六歳になったばかりのセテは最年少ではないが、出場者の中では低い年齢層に相当する。しかし、セテの腕は決してほかの剣士に劣るものではないことを、レトもレトの両親も理解していた。
優勝者の賞金は二千セルテス。当然、レトの両親とセテの母親はセテに発破をかけたわけだ。
「あらセテ、やっと起きたのね」
接客にはまっていたレトの母親がセテに気付き、にこやかに笑いかけた。「今日はがんばってね。おばさん、いちばん前で応援するから!」
セテはにこやかに礼を言うが、内心困ってもいた。レトの母親は自他ともに認めるセテびいきで、今日セテが腕試しに参加するのを知って、ステージのいちばん前を強引に席取りまでしていたのだ。セテがなにか目立つことをするたびにレトの母親がきゃいきゃい騒ぐのが苦手だったが、今日みたいな日には、彼女は近所のオバサンたちと黄色い声援を送ってくるに違いなかった。
セテの困惑を承知しているのか、レトはセテにそっと耳打ちする。
「わりぃな。少しだけかっこいいとこ見せればお袋も満足するからさ」
それに対し、セテは困ったような顔をして見せると、
「勘弁してくれよ。まじであの声援には参ってるんだって。こないだの球技大会のときだってさぁ、お前んとこの母ちゃんたちの嬌声のおかげで調子狂って……そんで点取られたみたいなもんだぜ」
「母ちゃんたちはお前みたいなのがかわいくてしかたねーんだよ。いいじゃねぇかよ、人妻殺し」
脇腹をレトにこづかれて、セテは大きなため息をついた。
「……どうせならもっと若いほうがいいよ」
「わがまま言うなって。お前はそういう星の下に生まれてんだよ。ま、まんざらでもないだろ?」
レトに言われて、セテは少し怒ったような顔で睨み付けてやるが、レトはまったく気にしない。
「ところでさ、お前、優勝したらおごってくれるって約束したよな」
レトはニヤニヤしながらセテにすり寄り、そう言った。セテがため息をつくのもお構いなしだ。
「約束してない」
「なんだよ、なにいきなり機嫌悪くなってんだよ。ごちそうするって言ったよな、な?」
セテはもう一度大袈裟にため息をついてみせた。二千セルテスの賞金に目がくらんだ今のレトに、本気で怒ってもしかたない。
「……わかってるよ。ノーヴェスタのロクラン料理フルコースだろ。俺とお前と、うちのお袋とお前んとこの親御さんとみんなで楽しくフルコースって、あっという間に半分は使い切っちゃうじゃねーかよ」
「母ちゃんの前では大見栄きったくせによ。いーじゃねぇか、こんな機会じゃなきゃ、ノーヴェスタなんて入れないんだからさ。こないだ雑誌で特集やってたけど、まじであそこの料理ってゲロうまだってさ。味が値段に比例してる最高の店って書いてあった」
「ふーん。ま、いいけどな。でもあとの半分は俺の小遣いだからな。わかってるとは思うけど、戦うのは俺なんだからな!」
「はいはい、わかってますって!」
セテが念を押すように言うと、それを受けたレトが調子よくそう答えた。セテはあきれたように肩をすくめ、そしてグラスに半分以上残っているビールを一気に煽った。それを見たレトの父親は我が子同然のセテの男気に満足したらしく、セテの手から空いたグラスを奪って樽からビールをなみなみと注いでやるのだった。