Home > 小説『神々の黄昏』 > 第三章:死せる夢見の大地 > 第二十七話:知識の泉
しばし、セテはテオドラキスを睨むように見つめていたが、テオドラキスのほうも腕組みをしたままセテをじっと見つめていた。それからしばらくして彼は口を開いた。
「セテ、あなたは神聖語の成績はよかったとも言ってましたね」
「えっ。……うん……まぁ……」
突然なにを言い出すのかと、セテは拍子抜けする。なにかもっと重要な秘密でももたらしてくれるのかと期待をしていたのだったが。
「でも術法はレベル1程度でも展開できなかったと」
「あんまり俺の劣等感、刺激しないでよ。聖騎士の受験資格がレベル3なのは分かってるって」
セテはバツが悪そうに頭をかいた。
「ああ、すみません。あなたがなぜ術法を使えないのか、それを考えていたんです。聖騎士の受験を目指す学生のために、必ず術法のクラスがあるはずです。そこでは精神鍛錬を行い、我々の時代にはテレパシーと呼んでいましたが、いまでいう心話、心語も訓練させられる」
「……友だちが何を考えているかくらいは顔見りゃ分かるけど……」
「心の声を聞くまでには至らない?」
「……そんな感じ。早い話が落第した」
それを聞いたテオドラキスが小さく頷いた。
「言っておくけど、奨学金をもらってたからそれ以外は上位を保ってたからな。必要な単位は落としてない」
セテはむきになってそう言い返すのだが、
「いばらない」
テオドラキスにピシャリと言われて、セテは肩を落とした。
「レイザークなら『落ち着きが足りない』とか言うのでしょうけれども、擁護するとすれば、少なくともここ数年、ロクラン王立騎士大学では聖騎士はおろか、まともな魔法剣士も満足に輩出できていない。私は根本的に中央での術の鍛錬方法に疑問を持っていたんです」
「鍛錬方法に間違いがあるってこと?」
セテが尋ねるとテオドラキスは頷き、
「ひとつは術法そのもののあり方です。実は年々、術法の威力そのものが落ちてきているように感じるのですよ。突出した術者が少なくなってきている。あなたが現役で知っている強力な術者だって少ないでしょう。たとえば、身近なところでいえばラインハット寺院でサーシェスの……」
「……フライス……か」
少しだけ、セテの気持ちがささくれ立った。
「そうですね。彼がまだ若いのに次期大僧正にと目されていたのは、その強大な呪力があったからです」
ネフレテリの策略で再び行方知れずとなったフライスがどうなったかは分からない。またしてもフライスがサーシェスを置いて姿を消したことに、多少のいらだちもある。不可抗力であったとしてもだ。
そんな彼に対してでも、セテは少なからぬ尊敬の念は抱いている。たった一度だけ、ロクランの往来で術くらべを挑んだ男と対峙したとき彼の術法を見たのがきっかけとなって、セテは中央特務執行庁の受験を決意したのだ。もちろんあのときは街中なのもあってフライスは手加減しただろう。だが、周囲を広範囲にわたって物理障壁で覆ったうえ、最小限で最大限の相手の負けを誘うやり方は、最高に「できる」やり方だと思った。余裕があるからできる振る舞いでもある。
強くなりたい。そうした自意識が、フライスへの対抗心によって燃え上がったのは確かだった。そして、異なる分野であってもいずれラインハット寺院という中央でも頂点に近い場所に立つ予定の男が、自分が好きになった少女を手に入れたことは、いまだに割りきれてはいない。
「そう……だな……。フライスは、強いんだろう。とても」
セテは力なくそう言って長い前髪をかきあげた。その沈んだ表情をテオドラキスが見逃すはずもなかった。
「そうやって、自分と人をすぐ比べて卑屈になるのは、あまりよいことではありませんよ」
「卑屈になってなんか」
むきになってセテが言い返そうとするのをテオドラキスは優しく押しとどめた。
「彼のような術者は、ガートルードの配下にもそうはいない。真紅の竜騎兵《クリムゾン・ドラグーン》を迎えに来たランデールとかいう男は例外ですが、アートハルクは五年前もいまも、術者が何人も術を束ねることで強力な術法を展開する戦法をとっています。これがどういうことか分かりますか?」
尋ねられ、セテは首をかしげる。
「もともと超能力、つまり術法を生まれながらにして使えた偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》が、ふつうの人間にも術法を使えるようにしたのはご存知のとおりです。術者が心話でアクセスをすると即座に認証し、呪文を音声検知で認識してその実行結果を再び心話で返すその仕組みを、一部の人間たちは〈ミーミル〉と呼んでいました」
「〈ミーミル〉?」
「旧世界《ロイギル》の時代よりもずっと古い神話の中に登場する、あらゆる知識と知恵が隠されているとされた泉の名称です。神を否定しておきながら神話に登場する名称を採用するなんて、ずいぶん馬鹿げた話だとは思いますが」
テオドラキスがいたずらっぽく笑った。
「その仕組みが、なんらかの原因によって弱体化されているのではと私は考えています。たとえば、誤解を恐れずに言うのならアートハルク戦争の前後から」
「ダフニス皇帝が?」
セテは気色ばんだ。ダフニスの名やアートハルクの話が出れば、必ず語られる伝説の剣士の姿が思い出されるからであった。アートハルクの事件においてレオンハルトは周囲の覚えがめでたいはずもなく、そしてセテにとっては、レオンハルトがダフニスの元に残って守護剣士となったことは、あまりいい気分のしない話でもある。
「分かりません。ですが、当時のアートハルクは強大な術者軍団を抱えていて、集約型攻撃術法や強固な障壁を誇っていました。単体での術法が弱体化していたからこその戦術だったと仮定することはできませんか?」
「でも、あれだけ術法を束ねたら分からないだろ? 実際に、アートハルクの術者軍団の術法はたいそうな火力だったぜ」
セテは少年時代を思い返す。目の前で学校の校舎や周囲の建物を掘削するアートハルク帝国の術法の威力は、想像を絶するものだった。セテはレトとその現場に居合わせ、爆風で飛ばされた瓦礫の破片を受けて頭を負傷したのだ。あのときはまだ総督府の霊子力砲が健在で難なく撃退できたが、それ以外の地域ではたいそうな被害を被ったものだ。
「そう、我々はアートハルクの術法をたいへん脅威に感じていた。術法は恐ろしいものだと思い込んでいたら、誰も個別の力が弱いかどうかなんて気づかないでしょう。ふつうの人間が〈ミーミル〉にアクセスしづらい状況にあったから、アートハルクは術法の弱体化を隠し火力をあげるために集約型術法の研究を行なっていたと考えてみたらどうでしょうか。もともと超能力者としての素養があった者しか能力を飛躍的に伸ばせていないこの数年の状況を見れば、当たらずとも遠からずと私は思ってるんです」
「ちょっと待ってよ、じゃあもしその〈ミーミル〉が完全に消滅したら?」
「一般の人間にとって、術法はまったく無縁のものになるでしょう」
「そんな……なんのために。それじゃ世界は大混乱じゃないか」
俺だって聖騎士になれないし、と言おうとしたが、セテはその思いを飲み込んだ。術法の恩恵はそんな小さな話ではなく、世界的に、さまざまな場面で人々の生活の基盤となっているのだ。
「そのほうがよいと考えている人間もいるかもしれませんよ。少なくとも地球にはなかった仕組みですし、なにより、人を殺せる要素がひとつこの世界から消える。世界をあるべき姿に戻すってのは、そういうことも含まれているのかも」
あるべき姿。サーシェスも、いまの世界があるべき姿ではないと言っている。そしてガートルードはまた別の方法で、あるべき姿でないものを正そうとしている。それは世界の再構築に等しい、たいへんな大手術ではないか。
セテは背筋が寒くなるのを感じ、両手を自分の身体に回してさすった。ここ最近聞く話は、すべてが大きすぎるのだ。
「さて、では始めましょう。私がよく術法の鍛錬に使う方法です。手を」
そう言ってテオドラキスが手を差し出したので、セテは恐る恐るその小さな手に自分の手のひらを重ねた。テオドラキスの手は温かく、外見と同じように子どものような柔らかさであった。震えがきていたセテの身体は、テオドラキスの手のひらに手を重ねたおかげか、不思議と平静を保てるようになった。〈気〉を操るというテオドラキスの術法によるものなのか、それとも長年生きてきた偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》がもたらす、賢人の安心感なのか。
セテは少し深呼吸をし、自分でも心を落ち着かせようと試みた。
「〈ミーミル〉の存在を信じて、その存在に意識を集中するんです」
「見たこともないのに?」
「見えているのだと考えるんです。〈ミーミル〉の正体は無粋な機械の群れですが、力の源泉、水の溢れ出る泉のようなものと頭の中で絵を描くんです。ここまではだいたいどんな訓練でも似たようなことを教えるはずですが」
「頭の中でってのに、限界があるんだよなあ」
セテは目を固く閉じ、口をへの字に曲げながらそう言った。
「術法ってのは、想像力から生まれるものでもあるんですよ。自分が一本の糸のようになって空に舞い上がっていくような、そんな印象を形作れますか?」
「……やってる」
「ここから少し、私が手助けしましょう」
直後、セテは自分の身体が中空に引き上げられるような感覚に陥り、小さく悲鳴を上げた。目を開けばそこはサーシェスに見せられた幻影《ヴィジョン》のときよりもずっと抽象的な光景の広がる白い空間であった。身体の上下左右は理解できるものの、空間の奥行きや高さがまるきり感じられない。周囲には目安となるようなものはなにひとつなく、ふわふわと、まるで空の上のような白く輝く空間が広がっている。そこに、セテはテオドラキスと向かい合うように立っていた。正確には、浮かんでいると言ったほうが正しいだろう。
「一時的に通常空間から精神だけを切り離したとでも思っていただければいいでしょう。精神のありようを視覚化してみました」
テオドラキスが困惑するセテにそう言ったので、セテは小さく頷いた。
「ここからさらに上昇します。この星の成層圏を抜けて、さらにその外へ」
勢いがつき、セテの身体が上空に引き上げられる。分厚い雲を何層も抜け、上空に舞い上がるうちに、空気の冷えが尋常でないことに気付く。肌に感じる冷たさは本物のようだ。青空を縦断し、その雲が切れて青から黒に切り替わるころには、ふだん夜空を彩る星々が鮮明に輝いているのが見え始めていた。
ふたりの身体はそのまま上昇を続け、やがてネオ・アースの大地と宇宙との輪郭が鮮明になってゆく。惑星を描く弧が遠く輝く太陽の光をのぞかせ、美しい金色の指輪のように煌めいた。
そしてふたりは惑星の周回軌道に乗り、滑るように巨大な浮遊物に近づいていく。音のない宇宙空間にあっても、その巨体から轟音を響かせるような無粋な鉄の固まりが迫る。汎大陸戦争におけるこの星の重要な守りのひとつでもあり、いまの世界を形作るさまざまな仕組みを載せた魔法の大地、浮遊大陸衛星である。その焼けただれた建造物の遥か向こうでは、この星にたどり着いた最初の移民たちの巨大な方舟、〈暁の白き女神《エーオス》〉が静かに浮遊大陸を見上げていた。
セテが幼い頃に見た浮遊大陸の印象を、テオドラキスが増幅しているのだろう。十年も前のことなのに、崩壊し、残骸にまみれて廃墟と化した建造物を載せ、無様な姿を晒してなお軌道上を回り続ける衛星の姿はたいそう鮮明で、崩壊の象徴でもあるのにとても神々しいものに見えた。
テオドラキスの手に力がこもる。セテはその手を強く握り返し、ふたりの身体はある一点に向けて降下を始める。むき出しになった骨組みの隙間を抜けて、地下に眠る〈ミーミル〉の本体へ向かって。
そのとき、セテの視界に──正確には脳裏に──なにかの光が見えた。見えた気がした。光を失ったはずの浮遊大陸で、遠い太陽の光を受けて反射をしたのか、それとも自ら発光しているのか。
「ちょっと待って。いま、なにか……」
そう言おうとしたが降下速度の勢いにかき消され、やがてふたりの身体は〈ミーミル〉の最深部、神々の叡智が眠る知識の泉に沈み込んでいた。
「テオドラキス様! すぐにお戻りください!!」
誰の声か。凶悪なほどの大音量で切羽詰まった様子の声がセテの頭に響く。セテは即座に跳ね起き、しかしその瞬間に襲う激しい頭痛に頭を抱えて毒づいた。
「いてェ……!」
ふと見やれば、目の前には椅子に腰掛けたテオドラキス。声の主はその場にはおらず、不思議に思って周囲を見回すと、セテは自分が小さな窓のない部屋のベッドに横たわっていたことに気づいた。
テオドラキスはセテが目を覚ましたのをチラリと横目で見るが、中空を見つめたままであった。上の空のように見えるのは、術者が心語で会話するときの常である。さきほどの声は心語であろう。受け取る側が心話を体得していなくても、送る側にはあまり関係のないことらしい。耳元で怒鳴られたようなたいそうな衝撃であった。テオドラキスはしばしの間セテに注意を払うことなく、中空を見つめて押し黙っている。心語の主との会話がまだ続いているのだろうが、その内容はセテにはもう聞こえることはなかった。最初の呼びかけのときに、よほど急いでいたのか。
船酔いのような感覚が少し残っていて、身体が上下に揺れるような気がして居心地が悪い。精神を切り離され、幻影《ヴィジョン》の中で過ごすのはあまり快適なものではないとセテは思った。
しばらくしてテオドラキスがセテに向き直った。笑顔ではあるものの、珍しく険しい表情が隠せていない。
「気が付きましたか。加減があまりできず申し訳ありませんでした。まだ痛みますか?」
テオドラキスは自分の頭に指をつけ、セテに頭痛の具合を尋ねた。
「いや、まぁ、いまはもう大丈夫」
セテは前髪をくしゃくしゃやってため息をついた。それを見て、テオドラキスも小さくため息を返す。
「すみません。たいがい、最初のときには膨大な情報量でみなぶっ倒れるもんなので」
「うん、ゆらゆらして気持ち悪いのはまだ残ってるけど……それよりさっき、大声で誰かに耳元で怒鳴られたような気がしたから」
セテは左右の耳たぶを指で引っ張りながらそう言ったのだが、そのときテオドラキスがわずかに顔をしかめたのに気付いた。聞かれてはまずいことだったのか、自分に聞こえないと思っていたのにしくじったと思ったのか。
「あ、その、俺、どれくらい寝てた?」
セテは気まずくなってテオドラキスに尋ねた。テオドラキスの表情はいつもどおりだったが、それでも険しさがにじみ出ている。
「二時間も経ってはいませんよ。そのおかげで、ヨナスの鍛冶仕事も終わったようですし、ちょうどよかった」
そう言うと、テオドラキスは小さく「よっこらしょ」と年寄り臭い掛け声をあげ、床から細長いカバンを持ち上げてセテのベッドの脇に置いた。ガチャガチャとなにやら物騒な音がする。ヨナスの持ってきたカバンであった。ジッパーを開けると、美しい飛影《とびかげ》の鞘と柄が姿を表した。そしてあと二本、飛影よりも少し短い脇差と呼ばれた蒼月《そうげつ》に、さらに短い不知火《しらぬい》も。テオドラキスはそれらをセテに差し出し、セテはまず父の形見であった飛影を掴んで目の前に掲げてみせた。
「軽い?」
掴んだ感触はまったく変わらないまま、従来よりもずっと軽く感じた。手放してわずか数時間のことだというのに。
「そうでしょうとも。〈土の一族〉の技術の結晶です。さらに言えば、あなたに最適化されているはずです」
セテは柄を掴み、わずかに鞘から引きぬいてみた。飛影の刀身は、これまでよりもずっと輝いて見えた気がした。
自分に最適化というのがどういうことかは分からなかったが、セテはそれが無性にうれしかった。剣士にとって剣は命の次くらいに大事なものだし、セテも父の形見であった飛影を父の幻影とともに愛してきたつもりだった。だが、それでも人はこの剣を〈ダノルの形見〉としてしか認識しない。それが、今回ようやくセテ・トスキという、自分の本当の一部になったような気になったのだった。
「あなたの身を守ることでしょう。どのように強化されたかは、あとでヨナスに聞くといい」
「ありがとう。その、なんて言っていいか」
セテは礼を述べるが、そこでいったん言葉を区切り、テオドラキスの顔をまじまじと見つめた。
「なんです?」
「その……」
セテはいったんテオドラキスから視線をはずす。気後れする必要はないのだが、テオドラキスの必要以上に毅然としているような態度が気になったのだ。
「なに考えてるんだよ、あんた。なにかを託すみたいな真似して」
テオドラキスは答えない。セテは心がざわつくのを感じた。
「おい、本当に」
「あなたはこのあとジョーイたちとともに、彼の故郷にいる〈水の一族〉との接触を果たさなければなりません」
「〈水の一族〉?」
セテは身を固くした。
「そう。あなたとサーシェスがその銀の傷跡で繋がっていることは、核の封印が解かれたことで立証されています。最初は〈風の核〉、そして今回の〈土の核〉、このふたつの核に触れたことでサーシェスは力を取り戻しているんですよ、本来の力を。他の人格《アヴァターラ》が出てきやすくなってるのも、最初の封印に触れたあとのようですし」
何人かサーシェスの中に存在するアヴァターラ、彼女の話ではロクランでも風の一族のときでもたいへん好戦的で凶暴な者が何度か暴れまわったようだし、これはネフレテリによるものだが、いまの冷静沈着な者に交代してからはあまり出てきていないものの、他にも何人も存在するのだということは、いまは一行全員が知るところだ。
「そして、あなたにもその影響が大きく出てきている。封印をどうこうするほどにね」
テオドラキスにそう言われたが、セテは自信なさげに顔をそむけた。
「それは俺自身の力ではないし、俺にだってどうこうできるものじゃない」
「そう、そこなんですよ。何かがおかしいんです。サーシェスが復活する以前、つまり二百年前には、あなたのような〈青き若獅子〉と呼ばれる存在はサーシェスの周りに存在しなかった。レオンハルトがその代わりを担っていたのかもしれませんが、彼に銀色の傷痕はなかったし、サーシェスを通じて力が噴出するようなことも彼にはなかった。まあ、彼は十分な戦闘能力を持っていたからかもしれませんが」
セテの表情は暗くなる。やはり心が震える。嫉妬だ。レオンハルトの聖騎士としての能力に対する嫉妬。自分がなにもできない劣等感に、鼓動が速くなる。
「そんな顔しない」
テオドラキスがセテの腕を軽く、ぽんぽんとはたいた。肩の力が少しだけ抜けたような気がして、セテは小さくため息をついて頷き返した。
「四大元素の力が揃うことで救世主の完全な復活がもたらされ、力の逆流の原因と解決法も分かるかも。知ってのとおり、サーシェスは記憶がないことを除いても心身ともにたいへん不安定です。そもそも、サーシェスが一度でもあのような死よりも深い眠りにつくことは、これまで一度もなかった。四大元素の封印が関係してるってことは考えられませんか?」
セテは顎に手を当て、唸るように考えた。
確かに、サーシェスの記憶がないことはどうやら本人が望んだことであるにしろ、サーシェスの術者としての能力は非常に不安定だ。フライスからも、覚醒したあとのサーシェスは眠ってばかりという話は聞いていた。黙示録のヴィジョンで見たようにサーシェスたちは四大元素の力の源を司っていて、それが術法の元となっているのだから、それが封印されたり突然解放されることで不調になるのは当然のことなのかもしれない。
「私はね、セテ。汎大陸戦争は、彼女も、世界中をも変質させてしまったような気がするんです。死よりも深い眠りについているのは、この星の大地なのかもしれません」
テオドラキスはそう、静かにゆっくりとつぶやくように言った。
──死よりも深い眠り。セテはその言葉を心の中で反芻する。そういえば浮遊大陸で最初にレオンハルトと出会い、眠るサーシェスを見たときに、レオンハルトが同じことを言っていた。二百年にもわたる深い眠りは、不老不死に近い存在であった偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の始祖たる娘になにを及ぼし、世界をどう変えてしまったのだろうか。
「そしてセテ、あなたの役割というものを私はずっと考えていたんです。〈青き若獅子〉というのはそうした不安定な状態に陥った救世主の力を補強する器で、その器は最初から空でなくてはならなかったのかも……とね。あなたが術法にまったく縁がないのは、そうした理由だったのかもしれません」
セテはしばし目をぱちくりやって、それから頭をかいた。
「言いたいことは分かるけど、そりゃ仮説中の仮説で、おまけにやたら運命論じみてる気がするよ。あんたがそんな運命論者だとは知らなかった」
言われて、テオドラキスは少し驚いたような顔をした。
「運命……ね。そう表現するのは案外、正しいのかもしれません。私たちの運命は決まっていて、みな役割は決まっている。あなたが術法から遠ざけられていたのも、実は必要なことなのかもしれませんね」
そう言うと、テオドラキスは中空を眺めた。その先の風景に隠されたものを満足そうに眺めている、そんな仕草に似ていた。
「地球では大昔、〈因果律〉という考え方が提唱されました。ある出来事が別の出来事の起こる原因であるとするもので、実際には物事の結果が別の出来事の直接のきっかけとなることは少ないことから、この考え方には否定的な意見が多かった。私は逆に、ある出来事を完成させるための要素が過去に散らばっていて、それらがある一定の法則でひとつの流れに組み込まれたとき、未来が形作られるのだと思っています。それを、人は奇跡と呼ぶのだと思います」
テオドラキスはそう言って微笑んだ。
「〈水の核〉は〈水の一族〉の末裔が守っています。〈火の核〉を守っていた火の一族はいまは事実上、フレイムタイラントそのものですからアクセスすることはかないません。しかし、アスターシャ姫のいうように同盟を目的に〈水の一族〉と接触するのは有用なことです。ガートルードが世界を変えようとするなら、私たちはいまある変わらぬ勢力を味方につけてそれを阻むしかありません。それに……」
テオドラキスはいったん言葉を切り、セテの顔をまじまじと眺めた。
「な、なんだよ」
「本当に変わるかもしれませんよ。四大元素の力がサーシェスに戻ったら、あなたも、サーシェスも、この世界も。私はそれが見てみたい」
少年の顔をした不死に近い男の、これまで変えることのできなかった過去を捨て、変わるかもしれない未来への期待に紅潮した頬が印象的であった。
「よせやい。核の力に振り回されて破滅だなんだって言ってたくせに」
セテは照れくさそうにそう悪態をついたが、歯の浮いた台詞であっても、テオドラキスの言葉を否定する気にはなれなかった。何か大きな力が作用していて、それが一定の法則で結ばれていく。そういうことがあるのかもしれないと、セテも思いたかった。
そこでテオドラキスは大きなため息を吐き出し、そろそろと椅子から立ち上がった。立ち上がる際にはやっぱり「よっこらしょ」と、小さく年寄り臭い掛け声をかけて。
「セテ。あなたがたはこの船ですぐに出港して、さらに辺境の〈水の一族〉のもとへ」
「どういうことだよ、この船でって……ふ、船!?」
セテは飛び上がるようにしてあたりを見回す。ゆらゆらしていたのは幻影《ヴィジョン》によるものではなく、船が波間を漂う物理的なものであったとは。
「新手が迫っています。おそらくはサーシェスの奪還と〈土の核〉への干渉が目的でしょう」
「アートハルク!? あの野郎か!」
アトラスを回収し、体勢を整えたランデールとかいう男の部隊だろう。
「分かった、俺たちもすぐ」
「いえ、ここは私に任せて、あなたはもう行ってください。レイザークたちには先に準備を急がせていました。あなたが目を覚ましたら、直接言っておきたかったんです」
「勝手に決めるなよ!」
セテは憤慨してテオドラキスの腕を掴もうとするが、テオドラキスがひらりとかわす。
「私はここで〈土の核〉を守らなければなりません。封印は多少は持ちこたえるでしょうが、相手は私の索敵にもかからない結界の持ち主です。一筋縄ではいかない。あなたはヨナスを連れ、レイザークたちと一刻も早くこの地を離脱し、〈水の一族〉の末裔へ」
「ふざけんな! あんたなに考えてんだ! 英雄にでもなったつもりかよ!!」
セテが怒鳴るので、テオドラキスは困ったようにため息をついて見せた。
「だからあなたには内緒にしてたんですよ。追手がくるのはわかっていた。レイザークも承知のうえです。私は封印を、あなたはサーシェスを、それぞれ守るべきものがあるのは理解できますよね。彼らがくる前に、あなたにはいろいろと託しておきたいものがあった。そのすべてを伝えきることはできませんでしたが、あなたならきっと、なにかを掴んでくれたはず」
テオドラキスはあどけない少年の姿で笑う。
「変えてください。未来を」
「テオドラキス!」
セテの腕はテオドラキスの腕を掴むこともかなわなかった。テオドラキスの姿は、セテが腕を差し出すよりも早くかき消えていた。
セテは部屋を飛び出した。なるほど、この狭い部屋は確かに船室の一室で、狭い廊下をセテは転げるように走り、階段を見つけると駆け上がった。すぐに視界が開けて甲板が広がり、船のへりには港を見下ろしているであろうレイザークたち一行の後ろ姿があった。何人かの船員たちが、鬼の形相で駆け上がってきたセテの姿を見つけて後退りする。
「ちくしょう!!」
セテはレイザークに駆け寄ってその胸ぐらを掴む。拳を振り上げたが、後ろからジョーイに羽交い絞めにされ、それもかなわなかった。
「放せ! 俺に内緒で勝手に決めやがって!!」
「よせセテ! たまには旦那の気持ちだって考えてやれっての!!」
珍しくジョーイが声を荒げたので、セテは驚いて力を抜いた。セテに胸ぐらを掴まれたら、いつもならその腕力で弾き飛ばしていたレイザークが、セテにはなんの注意も払うことなく港を見下ろしたままであった。その視線の先には、アラナとテオドラキスの姿があった。
「行きなさい。これは私たちの戦い。あなたたちには別の戦いが待っている」
アラナは船上のセテにそうなだめすかすように言った。スラリとした長身に戦闘用の甲冑を身にまとった女戦士の姿は、戦乙女のように神々しく見えた。褐色がかった肌が鈍色の甲冑によく似合う。
それから女戦士はレイザークに視線を移した。
「レイザーク。テオドラキス様のことは心配ない。私たちがついている。あんたともう一度、決闘をしてみたかったけど」
アラナはよく通る声でそう呼びかけた。
「ああ。少しおあずけだな。帰ってきたら続きを楽しむとしよう」
レイザークがそう返した。アラナは俯き加減で寂しげに笑う。
「あんたって……本当に」
そうつぶやくように言うと、アラナは顔を上げた。戦士の顔《かんばせ》であった。ジョーイとベゼルが港に立つアラナとテオドラキスに向かって大きな手を降ったが、アラナはそれを甘んじて受けるだけで、手を振り返そうとはしなかった。威勢のよい船員たちの掛け声とともに乗船口が閉じられ、船は滑りだすように港を離れていく。
「アラナ! テオドラキス!」
セテは叫んだ。セテはかじりつくように船のへりに手をかけ、海に飛び込まんとするような勢いで身を乗り出すのだが、船は次第に大きくなる波に揺られ、セレンゲティの沖合に到達しようとしていた。
港に残ったテオドラキスは、船が遠ざかるのを見つめながら大きなため息をついた。そのため息が終わる頃には、テオドラキスの口元には思い出し笑いが浮かんでいた。
「英雄にでもなったつもりかよ……か。セテ、あなたにはときどきびっくりさせられます。実際あの戦争以降、英雄なんてのは存在しなかったし、英雄に祭り上げられてずいぶんと嫌な顔をしていた男もいたくらいですから」
ふふっと、テオドラキスは笑った。アラナが横で同じように笑った。
「あんなに直情的なら、レイザークも退屈しないでしょうね」
アラナの言葉にテオドラキスが頷いた。
「若者ってのは、常に生き急いでますからね。そうした焦りとか熱さみたいなものは、レイザークだって我々だってかつては持っていたんですが。いまはそれが眩しくてくすぐったくて直視することができない。世界中の悩みはすべて自分のものと言わんばかりに欲張りすぎるのも若者の特徴です。そうして、自分より年上で功績を遺したとおぼしき人間を羨んで苦しみ続ける」
テオドラキスはそう言うと、ふと空を見上げた。
「英雄も運命も、大嫌いだと公言していた男でしたけどね。知識の泉に触れたからといって万能ではない。彼もまた、常になにかを模索し苦しんでいたことを、セテ、あなたは知らないのでしょうけれども」
そうしてテオドラキスは目を細めた。彼の脳裏には、セテが羨み、敬愛してやまない男の姿が思い出されていた。
「……そういえば、あなたは術法をも憎んでいましたね、レオンハルト」
風が舞った。木々をざわめかせ、テオドラキスの幼い顔の輪郭をあらわにする。柔らかい笑みを浮かべたその表情が、すぐに険しく歪んだ。見つめるその視線の先に、確かな悪意を感じ取ったからであった。
まさかこんなに早いとは。テオドラキスは珍しく舌打ちをする。アラナもそれを感じており、腰に下げた剣を抜いて構えた。
わずかに、術者でなければ気が付かないほどに空気が揺れた。その瞬間、空間がたわみ、衣擦れの音がした。テオドラキスの尖った左右の耳がぴくりと動き、空間を歪めて現れた漆黒の長衣が目の前で揺れると、テオドラキスはさらに苛立ちを覚えた。
目の前に立つ、闇よりも深い黒衣をまとった長身の男。その姿を認めたテオドラキスの目は、相手が気付かぬほどの間に大きく見開かれ、その瞳に驚愕を色濃く映した。だがそれも常人にとってはほんのわずかなことで、すぐにテオドラキスは不敵な笑みをその幼い顔に浮かべたのだった。高い戦闘能力を誇る、偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の本性が発露したとでもいうべきか。
「驚きました。こんなに驚いたのは十数年ぶりのことです」
テオドラキスはひとりごとのようにそう言い、侮蔑のこもった含み笑いを返す。男は答えない。
「彼を見逃したのは温情のつもりですか? それとも、自身の裏切りをまだ知られたくないとでも? 元ロクラン文書館長フライス」
周囲の空気が急激に温度を失い、真冬の氷の刃を思わせるほどの鋭さで風を巻き起こした。闇の長衣と同じ漆黒の長い巻き毛が風に吹き上げられて宙を舞い、テオドラキスはその風の中に含まれる術法の気配を感じ取って身を固くした。すでに術法の射程内にあることも分かっていた。
呼びかけられた侵入者──ロクランに天才的な術者ありと言われたその男──フライスは、無表情のまま立っている。その彫りの深い氷の彫像のような硬い表情と同じ顔の男をテオドラキスはもうひとり知っていたが、これほどに冷たさを感じたことはなかった。盲目の瞳は閉じられたままだったが、彼の心の目が自分を間違いなく見つめていることをテオドラキスは理解していた。フライスの、術法を蓄えるために閉じられていたブルーグレイの瞳がいまゆっくりと開いてテオドラキスを射るように見つめ、そしてテオドラキスは術法を発動すべく、自身の身体の前に両腕を大きく差し出した。