第三話:遭遇

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 とにかく、レイザークの怒り具合ときたらたいそうなものだった。湯浴みを終えた王女とその隣に申し訳なさそうに腰掛けるベゼルの二人を睨みつけながら、さんざんお小言を垂れ流し、最後にベゼルにげんこつをひとつ見舞うと、ノシノシと熊のような図体を大げさに揺らしながら馬車を降りていった。もちろん、馬車を降りてテントに引っ込むまでの間、わざと聞こえよがしに悪態をつきまくって。
 大柄な聖騎士の後ろ姿を見送ったあと馬車に残ったセテとジョーイは、ふたり揃って大きなため息をついたのだった。
「あ〜あ。あんなにレイザークが怒ったの、俺、初めて見ちゃったかも」
 ジョーイはそう言って肩をすくめてみせたのだったが、その実、なんだか楽しそうに見えるのだった。ベゼルはというと、レイザークにげんこつを食らった頭を抱えながらうずくまって反省の色を見せているのかと思いきや、レイザークの姿が見えなくなったとたんに体を起こし、セテとジョーイのふたりにいたずら小僧のような笑顔を見せた。それをセテはため息で応酬する。
「チックショー。レイザークの野郎、思いっきりオレの頭ぶん殴りやがって。虐待されたって訴えてやる」
「お前なぁ……。ぜんっぜん分かってねえだろ。何のためにレイザークがお前を他人の家に預けるようなことしたと思ってるんだよ。危険な目に遭わせたくないからだって、何度も言っただろ?」
「そんなの百も承知だよ」
「いや、ぜんっぜん分かってないね。これは子どもの遊びじゃないんだ」
「な〜にが『子どもの遊びじゃない』だよ。あんただってレイザークにはさんざん子ども扱いされてるクセに」
 ベゼルの思わぬ反撃に、セテはあわててベゼルの隣にいる王女に視線を走らせる。案の定、王女は下を向いて笑いをこらえているようだった。王女のいる前でこてんぱんにやられたことは何度かあったが、面と向かって言われると厳しい。
「それとこれとは別だ!! ったく、いいか、レイザークも俺もジョーイも、それなりに戦闘の訓練は受けてるんだ。それでも有事の時に王女をお守りするのでせいいっぱいかもしれないのに、ここでお前みたいなガキんちょのお守りなんかできるかっての!!」
「ガキんちょじゃないよ。あんただって分かってんだろ?」
 ベゼルが大人びた口調で言ったので、セテは思わず面食らった。とたんに先日の夜、ベゼルに唇を奪われた一件が思い起こされてしまい、セテはあわてて隣にいるジョーイを仰ぎ見るのだったが、ジョーイは分かったような顔でにんまりしてるだけだ。
 完全に調子を狂わされている。セテはゴホンと大げさに咳払いをしてベゼルを睨みつける。
「いつこの馬車に乗り込んだんだよ」
「ごめんなさい。それは……」
 王女が割って入り、ベゼルの肩をかばうようにして抱き寄せた。
「やっぱり話し相手もほしかったし、女の身ひとりでは心細くて……ベゼルちゃんが寂しそうにしているのを見たら、ひとりにしておけないなって思って……それで、出発前にこっそり」
 だからこれまでの旅路で、あまり外に出たがらなかったのか。それに、寂しいというのは嘘も方便というやつだろう。おおかたベゼルが王女を拝み倒して潜り込んだに違いない。だが、そこまで王女に言われてしまえばもう反論のしようがない。セテはくしゃくしゃと前髪をかきながら、再び大きなため息をついた。
「まぁ、ここで下ろすわけにもいかないし、ついて来ちゃったもんはしようがないんじゃないの?」
 ジョーイが呑気にそんなことを言ったので、セテはジロリと彼を睨みつけた。アスターシャとベゼルが、視界の端で表情を明るくしたのが見えた。
「だけどさ」ジョーイはそこでベゼルを見やり、一呼吸置くように言葉を切った。
「旦那があれだけ怒ってる理由、お嬢ちゃんにもよーく分かってるよねぇ? 王女さんはともかく、レイザークの旦那はお嬢ちゃんに、自分が剣で戦ってるのを見せたくないんだってさ。とくに人を斬るようなところはね。まったく、男やもめのくせに、なんだかお父さんみたいなこと言ってて笑えるけどさぁ。自分の娘みたいに大切に思ってるんだってこと、分かってやってよ」
 いつもひょうひょうとした黒髪の青年が、珍しくまともなことを言ったので一同はずいぶん驚いた。そしてベゼルはといえば、神妙な顔をしてうつむいている。いまの言葉がずいぶん身にしみたようだった。
「ごめん……なさい……」
 ベゼルがぽつりとつぶやくように言った。ジョーイはにっこり笑うと、ベゼルの銀色の髪を乱暴なくらいにくしゃくしゃとなでてやる。その慣れた仕草は保父のようだ。
「分かればいいよ。旦那には俺からうまく言っておくから。それに、セテのおにーさんも張り切ってお嬢ちゃんを守ってくれるってさ」
 勝手なことを言う。セテはジョーイの調子のいい言葉に顔をしかめた。
「とにかく、だ! 俺たちは不測の事態のときには、王女を優先して行動するからな。いまのうちに百メートル三秒で走れるくらい、逃げ足の練習しておけよ。いざというときにお前をかばえるかどうかなんて、確約できないんだからな! 逃げ切れないなら平気で見捨ててやるから覚悟しておけよ!」
 セテは捨て台詞のようにそう言い放つとクルリと背を向けた。王女とベゼルは、その背で大喜びしている。何を言ってももう聞くまい、セテは早々に馬車を降りたのだったが。
「ジョーイってヘンなヤツだと思ってたけど、実はすっごくいいヤツだよね〜。それに比べてセテのクソガキってホントに性格悪くてやってらんない! レイザークにいびられてるからって八つ当たりばっかりでさ!」
 外からまる聞こえだ。
「……あンのクソガキィ〜〜〜!!!」
 セテは反撃しようと振り返ったのだったが、お調子者のジョーイがにこにこしながら馬車から降りてくるところで、まるで中の彼女たちをかばうように入り口をふさぐ形で立っていたのであきらめることにした。
「ま、とりあえずはよしということで。今日は勘弁してやってよ」
 肩をすくめ、ジョーイはまたにっこりと笑った。その気の抜けた態度に、セテも脱力せざるを得ない。セテは鼻を鳴らし、不本意ではあるが了解することにした。ジョーイはそんなセテの様子を見ながらいまだにこにこと笑い、安心させるためか肩をぽんぽんと叩いた。
 その間《ま》といい仕草といい、なにかとても懐かしい感じがする。思わずセテはジョーイの横顔を見ながらつぶやいていた。
「あんたってさ……」
「ん?」
 セテは振り向いたジョーイの顔を見つめ、小さく笑った。つい最近のことなのに、こんなにも懐かしく感じる気配がすぐそばにある──。
「似てるんだよ。俺の親友にさ」
「へえ、それは光栄」
 ジョーイはおどけた様子で、舞台俳優のようにおじぎをしてみせた。そう、この間《ま》だ。
「死んじまったけどな。ホントに、いいヤツだった」
 空気が読めない言葉だと自分でも思ったのだが、口に出して言っておかないといけないような気がしたのだ。さすがのジョーイも、その言葉で笑みを消し去ることしかできないようだった。
 ──レト。いま俺のそばにいて、同じような境遇だったら、やっぱりジョーイと同じことを言って、同じように俺をなだめたんだろうな。できないことを「できない」と否定するんじゃなくて、可能な限り「できること」に近づけるって、みんなを安心させるような約束をして──。
 セテは自嘲気味に笑い、前髪をかきあげた。このまま物思いにふけっていたら、また過去に引きずられっぱなしだ。セテは拳を握りしめ、テントに足早に戻ろうとしたそのときだった。
「よし! 決めた!」
 突然ジョーイが大きな声を出したので、セテは驚いて振り返った。
「とりあえず、飲もう。な? あんたも俺にいろいろ聞きたいことあるでしょ。俺もあんたの話聞いてやるからさ」
「はぁ!?」
「いいからいいから! レイザークだって今ごろはふて腐れて寝酒してるところだろうしさ。だいたい、あんた俺のこといったい何者だ!?くらいのイキオイで、あんまり信用してないでしょ。一緒に旅する仲間として、ちゃんとそこんとこハッキリさせたいしさ」
 とまどうセテの背中をぐいぐい押して、ジョーイはまくしたてる。
「ちょっと待てって。寝ずの番を飲んで過ごすなんてレイザークに知れたら」
「だーいじょうぶ! ほんのちょっとだけなら手元が狂うなんてこともないしさ」
 たき火の炎がやわらかくゆらぎ、時折乾いた音を立ててはぜるのが聞こえた。ジョーイは率先して腰を下ろすと、いそいそと革袋の中から酒の瓶を取りだし、セテに放ってやる。セテは危なっかしい手つきでそれを受け取ると、少し困ったような顔をしながら口を付けた。
 炎を挟むように座り込んだふたりの青年の姿を馬車の中からこっそり覗いていたベゼルと王女は、お互いの顔を見合わせる。
「意味わかんね〜ッ! なに馴れ合ってんだっつの!」
 ベゼルはいつものように汚い言葉でつぶやいた。ところがすぐに王女に首根っこを捕まれ、馬車の中に引きずり込まれてしまう。
 ガタンと秘密の扉を後ろ手に閉めると、王女は威圧するように腕を組み、小さな銀髪の少女を見下ろした。
「さて……と」
「うへ」とベゼルが口をへの字に曲げてつぶやいたのだが、アスターシャに聞こえるわけもなかった。
「これで借りは返したわよね。いいえ、貸しができたといってもいいわね」
 アスターシャはひとり納得したように頷くと、また顎をあげてベゼルに高圧的な態度を見せる。
「レイザーク様は私のことをただの何もできない王女だと思ってるみたいだけど、私も馬鹿じゃないし? 逆にそう思われてるほうが好都合ってこともあるしね」
 ふふ、とアスターシャは意味ありげに笑う。ベゼルが少々すくみあがるのもおかまいなしのようだった。
「これから光都に行って私は保護されるわけだけれども……分かるわよね? 占領国の王女ということであちこちに引き回されて、油クサいおじさま連中のおべっかや保身のための二枚舌に蹂躙されちゃうわけよ。もちろん、身柄の保護を名目とした軟禁状態に晒されて、心を許せる人間など周りナシ。つまり、完全に孤立ってわけ。もちろん、私にはロクランやお父様を救うために援軍を連れてくるという使命があるわけだけれども」
 ベゼルにはアスターシャの真意は分からないままだったが、大げさなほどに頷いてみせた。
「というわけで……貸しを返してちょうだい。あなたは今日から私の小姓代わりになってもらうわ」
 アスターシャはベゼルの鼻先に指を突きつけ、そう言った。
「……は?」
「今日から私のこと、王女とか姫なんて呼んだり、敬語で話しかけたりしたら承知しないわよ。とりあえず、私を呼ぶときは名前で、無礼な態度を取ってもらっても全然構わないから」
 ベゼルの開いた口がふさがらないのももちろんのことであった。
「……あの……意味が分からないんですけど」
 小姓とはもちろん身分の高い人間の身の回りの世話をする少年のことであったが、ベゼルが少年ではないことをアスターシャは知っているはずだ。そういった間違いに突っ込む気にはなれなかったのだが、
「意味が分からないですってぇ!?」
 アスターシャは芝居がかった仕草で大げさに驚きの声を上げると、
「ちょっとそこに座りなさいよ」
 ベゼルの腕を掴んでベッドの脇の粗末な三脚椅子に座らせる。そしてアスターシャは女王のような仕草で、これまた粗末なベッドに腰を下ろすと、
「大昔の小姓ってのは、大将の情報戦にも大いに役立ったってなにかの本で読んだことあるのよね。まずは情報の整理と共有よ。いいから私の質問に答えるの! トスキ特使の中央特務執行庁での階級は?」
「え? え〜と……そんなのオレ知らないし……」
「休職中って聞いたけれども、直属の上司はどなたにあたるのかしら」
「ええ〜? そんなのますます分かるわけ……本人に聞けばいいじゃないですか!」
「本人に聞いたら意味がないのよ」
 アスターシャは柔らかい金糸のような髪を優雅に、そして自慢げにかきあげると、
「それじゃ、トスキ特使の誕生日と血液型。それから身長」
「……それ、ホントに情報共有ッスか……?」
 ベゼルの疑わしい視線にアスターシャはコロコロと笑う。
「もう、お馬鹿さんねぇ。情報を制する者は戦局をも制するって知らないのぉ〜? それにその堅苦しい敬語、いい加減やめてくんない?」
 アスターシャは少女のように顔を輝かせると、ベゼルに向かって身を乗り出した。ベゼルはというとあわてて身を引くのだったが、アスターシャはそれを逃がさず、彼女の小さな肩をがっしりと捕らえた。
「んふふふ〜。私ね、好きになっちゃったかも」
「は? ちょっと待って。オレにはそういう趣味は」
「バッカじゃないの!? ここであなたを口説いてどうしろってのよ! もう、ホントに子どもなんだから」
 アスターシャに子ども扱いされたことで、ベゼルは少し憤りの色を見せるのだったが、
「だからトスキ特使のことよ! ちょっと気に入っちゃったのよねぇ〜。元気な青少年って感じなところとか、特使のわりに案外オクテですれてないところとか〜。レイザーク様にこてんぱんにされてたけれども剣の腕前もそこそこで、顔がきれいなのはもちろんなんだけど。ほら、私って面食いだから〜」
 ひとりで盛り上がり、まくしたてるアスターシャをよそに、ベゼルの口はあんぐりと開いたままだ。予想はしていたことだが、ここまではっきりと宣言されるといっそのことすがすがしい。それに、これまでおとなしかった王女の豹変ぶりには舌を巻く。要するに猫をかぶっていただけで、これが本来の彼女だということだ。お高く止まったハイファミリーの娘だとタカをくくっていたが、どうやら頭は鈍くないようだし、こんなふうに恋した相手のことではしゃぐなんて。ベゼルにとっては厄介な宣戦布告ではあったが、なぜだか急に姉ができたような、不思議な気分になるのだった。
 彼女が言うように、光都にたどり着いてから王女を待ち受ける孤独やさまざまな陰謀を思うといても立ってもいられない気になる。戦闘以外に能のない、あの色黒の大男や黒髪の山師や金髪のヒステリー男に代わって、ここはひとつ彼女の力になってあげようとまで思わせるほどに。
「わかった! 小姓でも掃除当番でも臨床心理士でも、このベゼル様になんでもまかせてよ!」
「そうこなくっちゃ!!」
 アスターシャは少年のように指をパチンと鳴らした。それからふたりは互いの手を差し出し、固い握手を交わす。正式なものではないが、簡易な誓いの仕草だ。
「いいわね。私が必要とするとき、あんたは必ず私のそばにいるのよ。あんたが必要とするときは、できるだけ私もそばにいるようにするわ」
「ぜんっぜん公平じゃないけど、うんって言うしかないわけだよな」
「当たり前でしょ。あんた私のこと誰だと思ってるの?」
「はいはいはいはい、分かってますって」
 とにかく、王女はとてつもなくわがままで自分第一なのだけはベゼルにも理解できた。
「はぁ〜、すっきり! そうと決まったらなんだか気分がすっきりしたわ〜。そうだ、トスキ特使とジョーイに混じって、ちょっとワインでもいただこうかしら。うん、そうだわ、それがいい。トスキ特使を間近で観察するいい機会だし。ほら、あんたもきなさいよ」
 アスターシャはまたひとり勝手にまくしたてると、ベゼルの腕を引っ張って馬車を降りた。
 王女やジョーイたちの声が混ざってにわかにたき火の周りがにぎやかになる。当然、別のテントでひとりでふて腐れていたレイザークの耳にも、彼らの楽しげな会話は届くのだったが。
「……ふん。オヤジは村八分かよ」
 自前のきつい酒をちびちびとなめながら、レイザークがテントの中でひとりごちたが、外の若者たちに聞こえるはずなどなかった。





 翌朝は晴れ渡った空がまぶしい、すがすがしい一日の幕開けとなった。冬に近づいていたのと、ここしばらくは曇り空でどんよりとした天候だったのだが、久しぶりの太陽はずいぶん朗らかな心持ちにさせる。中央の管理地区の整備された道に載っていたので、安心して進めるというのも大きい。相変わらず周囲は荒野に囲まれてはいたものの、舗装された道路と道なき道に等しい荒野の一本道とは乗り心地も雲泥の差だ。石畳と馬車の車輪がぶつかりあう音で、厄介な野生のどう猛な生物も近寄ってはこない。
 天候の良さに免じて、今日はアスターシャとベゼルが乗る後方の隠し部屋の窓も全開だった。女同士ということもあり、彼女たちは朝から元気いっぱい、なにやら会話に花を咲かせているようだったし、前方の狭い御者席で肩を寄せ合う男たちも、今日は軽口ばかりだ。
「それにしてもジョーイはだらしねえなぁ。こんなボンボンに酒量で負けてるようじゃ、人生やり直したほうがいいぞ?」
 レイザークに言われてジョーイは反論しようと口を開くのだったが、頭を動かした際に激しい頭痛に見舞われ、こめかみに手をやる。空いた手には、水のたっぷり入った革袋。典型的な二日酔いの図だ。対してジョーイの隣に腰掛けているセテはといえば、ケロッとした顔で座っている。
「いや、違うって。飲み慣れないこっちの酒なんか飲むもんじゃないって。旦那はよくあんなまずい酒を毎日飲んでられるよなぁ」
「言い訳すんなよな」
 セテが隣でニヤニヤしながらそう言った。
「あーうるさい! セテには俺のふるさとの古酒を死ぬほど飲ませてやる。それなら絶対負けない」
 あいたたた……と、ジョーイはまたこめかみを押さえながら負け惜しみを口にした。レイザークが呆れたように肩をすくめる。
「そういえばさ、昨日聞いたかも知れないけど……ジョーイのふるさとってどこだっけ。俺、昨日自分のことばっかり話してたような気がするんだけど」
 セテの悪い癖のひとつである。
「出た……やっぱり何も覚えてないのかよ」
 相変わらずジョーイは頭を抱えたままだったが、忌々しげにため息をついた。
「やめとけ。こいつは酔っぱらって寝ちまった後は、たいがいのことはきれいさっぱり忘れてやがる。いつだったかも壮絶に俺様語りをしたあと、泣き上戸になったかと思ったらこれまた壮絶に家の中で吐きまくりやがった。翌朝ケロッとしてるのはいいが、自分がしゃべったことの二割も覚えてやがらない」
 そうレイザークが横やりを入れると、セテは憤慨したように前髪を尊大にかきあげた。
「失敬だな。俺は前日の酒もしがらみも翌日には持ち込まない体質なの!」
 それを聞いたジョーイは浅黒い顔に意地悪そうな笑みを浮かべると、
「へぇ〜それじゃ全然覚えてないんだ。昨日なんかすごかったよ〜。さすがの王女さんもひいてたもんな〜。あれはないよなぁ〜女性の前で〜」
「……うそ、俺、なんか言ってた?」
「なんつーの? 学生時代の武勇伝っつーの? 女の子とどこでどうしてどうなっちゃったかとかさぁ」
「うわぁああああああ! よせ! まじか! まじなのか!? 俺そんなことしてないって! つーかサーシェスにはちゃんと彼氏いるし俺は振られてナニもできなかったんだぞ!!」
「……だろうな」
「はぁ!?」
 狼狽しまくるセテを見て満足したかのように、ジョーイは御者席の後ろを親指で指さした。見れば、隠し部屋の窓から、興味津々な顔を覗かせているアスターシャとベゼルの顔があった。
「おもしろいから女の話題でいじってやれってさ」
「はぁ!?」
 セテは大げさなくらいに体を乗りだし、顔を出しているふたりの少女を睨みつけた。途端に彼女たちが頭を引っ込めたので、セテは怒りをぶつける相手を失ってしまう。
「ま、いいとこ素人童貞だろうから、こいつに女の話を振ってもおもしろくないぞ。ただ、いじられぶりだけは世界一なことだけは認めるけどな」
「うるせーよ、エロオヤジ。剣が恋人のあんたにゃ言われたくないね。ってゆーか、あんた昨日ひとりハブにされてたけど、本当は一緒に混ざりたかっただけなんだろ?」
「一生ほざいてろ」
「あんたもな」
「あーはいはい、兄弟げんかもそろそろここらへんで」
「兄弟!? こいつが!?」
 止めに入ったジョーイに向かって、レイザークとセテは同時に声を荒げた。どちらも心外だといわんばかりの表情だ。
「……台詞のかぶり具合もいい感じなことで」
 にらみ合うふたりをよそに、ジョーイはクスクスと笑った。セテはふてくされたそうにそっぽを向くが、対するレイザークはまんざらでもなさそうにニヤニヤしている。これは早々に別の話題を振ったほうがいいと、ジョーイはあわてて頭を巡らせた。
「あー、まぁ、そうねぇ……俺の故郷の話なんかしてもあんまりおもしろくないから昨日は話さなかったけどさ。辺境も辺境、大陸の一部が沈んだ影響で周囲を海に囲まれたド田舎だし、貧乏臭くてしみったれてるし。でもやっぱり、こうして遠く故郷を離れてみると懐かしく感じるものだなぁと思うわけよ。ドブ臭い古酒だってさ、あんなまずいモンないと思ったけど、いま思えばそれだって懐かしいもんなんだよね」
「なんだよ。やっぱりその古酒ってヤツだってまずいんじゃねえかよ」
 セテは軽口で応酬しジョーイを横目で見やるが、ジョーイは青空の広がる天のそのまた向こうに広がる、彼だけに見える故郷の姿を思い描くように中空をじっと見つめていた。
 遠く離れた故郷。セテにとっての故郷であるアジェンタスは、先日の真紅の竜騎兵《クリムゾン・ドラグーン》による奇襲や要石の解放によって壊滅状態だ。友人たちや母親、ピアージュまでも失い、留まることすらはばかられた忌まわしい街だと思ったこともあったが、こうして離れて暮らし、そしてさらに遠く離れて光都への道をたどるいまでは、子どものころの楽しい思い出ばかりが思い出されて無性に帰りたくなってくる。故郷を、心の底から愛していたのだといまなら思えた。
「……そうだな。いつかその海ってやつを見に、ジョーイ、あんたの故郷にも連れてってくれよ。そうだ。光都について一段落したら、みんなで休暇を気取ってみようぜ。ジョーイの生まれ故郷でさ。レイザーク、あんたもいいだろ?」
 セテがそう言ったので、レイザークは珍しく強面の顔に軽い笑みを浮かべた。
「なんだ、ずいぶん前向きなこと言うようになったな」
「何言ってんだ。俺はいつも前向きだって。ま、あんただったら『無理だ』で一蹴するだろうけどさ。やっぱ無理そうなことを『できない』でつっぱねるだけじゃなくて、できるだけ『やろう』に近づけたいじゃないか」
 なんとなく、ジョーイの言動に感じた前向きな姿勢を、セテは見習ってみたいと思ったのだ。ジョーイも、もちろんいつの間にか再び隠し部屋の窓から顔を出していたアスターシャやベゼルも、その言葉を少しだけうれしく感じたようだった。一段落するかも分からず、一段落したとしても行く機会などないにしても、いまこの青空の下で、戦争の気配を感じることなく、ただの旅の一団としての奇妙な連帯感を心地よく感じているのかもしれなかった。
「その前向きさをもうちょっとサーシェスちゃんに向けてあげられれば、今頃いい感じになってたかもしれないのにねぇ」
 ジョーイが底意地の悪い冗談を言うと、セテはすぐにふてくされたように、
「くそ! 俺がどこまで何を話したか覚えてないのをいいことに好き勝手言いやがって! もういいだろその話は! ほら見ろよ。なんだか雲行きが怪しくなってきたぞ。もう少ししたら一雨くるかもな」
 悔し紛れに話をごまかしただけかもしれないのだが、実際に見れば、すぐ真上の空はいまだ青空が広がってはいるが、遙か前方の空は暗くよどみ始めており、確かに雨雲のようなどんよりした雲が空を覆い尽くそうとしている。五キロも先だろうか、別方面から光都へ向かう道路がセテたちを乗せた馬車の走る道と合流するあたりでは、もしかしたらもうすでに降り始めているのかもしれない。午前中の空にしては暗すぎる色でゆらゆらとゆらめいて見える。
「降り始めたのかもな。どうやら雨宿りでもするつもりだろう、あいつら」
 お気の毒に、とでも言わんばかりに、レイザークは合流地点から少し離れたところで道の脇の大木の陰に馬車を寄せる一行を見つけてそう言った。
「どうする旦那。次の宿場までは少しあるから、馬の体力を温存したほうがいいかも」
 ジョーイが尋ねる。
「そうだな。合流まで行って、ちょいと同席させていただくとするか。雨水も少し補給したほうがいいだろう」
 レイザークは手綱を軽く馬に叩きつけて合図を出し、速度を速めた。だが。
「ちょ、ちょっと待ったーーー!!」
 隠し部屋の窓からベゼルが必死な声で叫んだので、レイザークが怪訝そうな顔で振り向いた。ベゼルは少し恥ずかしそうに顔をしかめると、
「ご、ごめん。ちょっと、トイレ休憩……!」
「我慢しろ。降ってきたら小便どころじゃないだろう」
「絶対無理! 漏れちゃう! って、レディになんてこと言わせんだよクソバカ!!」
「なんだ、デカいほうか」
 レイザークは手綱を引き、馬車を止めた。
「おいセテ、お前つきあってやれ」
「はぁ!? あんたナニ言ってんの!?」
 真っ赤な顔でベゼルは大反論を試みる。満足に草むらもないような荒野でいたすのに、護衛で男についてきてもらうなんてとんでもないことだった。
「それなら私が」
 王女が名乗り出たことでベゼルは一安心だ。天幕の代わりになるような敷布とトイレットペーパーを握りしめると、ベゼルは転げるように馬車を飛び降り、アスターシャを伴って早足で数十メートル先の荒野へ向かった。途中、レイザークが「大事なところを虫に食われないようにしろよ」などという下品な注意を喚起したのだが、すでに聞こえないようだった。確かに、こうした荒野では地中に潜むどう猛な昆虫の類がいないこともないが、下品も度が過ぎると突っ込む気にもなれないものだ。
 しばしの暇に、レイザークはたばこに火を点け、ジョーイは体内のアルコールを早く分解できるよう、ガブガブと水を飲んでいる。セテは前方の雨雲をぼんやりと見ながら、無意識に右手のひらにある銀色の傷に指を這わせた。心なしか、かの傷が少しだけ熱を持っているような感じがして先ほどから気にはなっていたのだが、そのうちにそれが鋭い痛みを発してきたのでセテは顔をしかめた。
 ふと、遙か先の合流地点付近で馬車を寄せた一行を見やる。いつの間にか凝視するような形になってしまっていたが、なぜだかしっかりと見ておいたほうがいい気になったのだった。アリのように小さくではあるのだが、馬車を大木に寄せて止めたあと、御者らしき男が御者席からあわてて飛び降り、客席に乗り込んでいくのが見えた。
「なあレイザーク、なんかあいつら、雨宿りにしてはおかしくないか? 強盗かな。御者っぽい男があわてて……」
 セテは隣で一服している大男の肩を軽く叩き、前方の光景に注意を促す。レイザークは呑気に煙を吐き出し、目をこらした。レイザークは案外目があまりよくないのか、まぶたを何度も閉じたり開いたりして調整をしているのだが、セテにはこの距離でもはっきりと見えるようだった。
「雨……違う。なんか……ドームみたいなのが馬車の周りに……」
「結界か!?」
 セテがうわごとのようにつぶやくのが終わらないうちに、レイザークは乱暴に立ち上がって叫んだ。
「くそっ! まさか封印がほころんでる場所にぶち当たるとはな! 封印の裂け目からモンスターが実質化してきやがるぞ。しかもあの雨雲だと思ってたのが全部封印がほころびてできる空間のねじれだとしたら……」
 レイザークは御者席の背面の隙間に隠しておいた大剣に手を掛け、舌打ちをした。空間のゆがみの範囲がこれだけ広いとすると、大気の流れで瞬間的に酸素の薄められたところから我先にとモンスターが飛び出してくるはずだ。ここも例外ではない。
 それからレイザークは用を足している少女のほうに向き直ると、大声で叫んだ。
「ベゼル! 早く戻ってこい!」
 天幕を掲げて隠してやってるアスターシャがこちらを振り向き、しかめ面をしている。そのうちに、用足しが済んで立ち上がったベゼルの頭が天幕の切れ目から見えたので、レイザークは少しだけため息をついたようだった。
「なにやってんだ! とっとと済ませて走ってこい!」
「そんなに怒鳴らなくてもいいじゃないかよ!!」
 ベゼルは口に両手を当て、レイザークにまで声が届くように大声で反論した。怒鳴られてもアスターシャとベゼルは急ごうという気などまったくないようで、呑気になにかふたりでしゃべりあっているようだった。
「いい加減に……!」
 堪忍袋の緒が切れたレイザークの怒鳴り声は、息を飲むかのようにそこで止まった。ベゼルとアスターシャの背後に、生物のようにねじれ揺らめく巨大な大気の渦が広がっていくのがはっきりと見えたのだった。

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