Home > 小説『神々の黄昏』 > 第三章:死せる夢見の大地 > 第二話:旅の途中で
舗装された道に出るのは、何日ぶりかのことであった。
エルメネス大陸に肩を寄せ合って集まる巨大国家や、その周りに付属物のように点在する中央管轄下の集落を行き来するのに、もっとも厄介なのは経路である。中央に向かって寄り集まるとはいえ、国家間あるいは集落の間には気の遠くなるほどの距離があるばかりでなく、人間の足ではとうてい踏破することのかなわない荒れ地が立ちはだかる。その厳しい自然にあって、人はときたま野生のどう猛な生物や同じ人間、果ては結界の隙間からあふれ出たモンスターの毒牙にかかって命を落とすのも珍しいことではなかった。
舗装された道は集落が近づいてきたことを知らせ、旅人に安心感をもたらす。二頭の馬に引かれた、そう裕福でもなさそうな味気のない馬車は、これまでの荒野行にくたびれた身体をいたわるように、整備の行き届いた道を相手に優しい車輪の音を鳴り響かせている。御者は安心からくる鼻歌を歌い始め、中の客を気遣わしげにちらりと見やった。馬車に乗ってからのほとんどを眠って過ごし、その身体を隣の男に預けている銀髪の少女と、その肩を優しく抱きしめる黒髪の男が、この御者の客であった。
銀髪の少女はずっと眠っているばかりで、傍らの男といえばたいそうな色男であるにもかかわらず、何を言ってもぶっきらぼうで、御者はこの長旅においてほとんど口をきく機会に恵まれなかった。
「お客さん、そろそろアートハルクとの国境にきましたよ。ここから光都まではしばらく舗装された道だから、ずいぶん楽になるもんでさぁ」
御者は客に向かってそう声をかけたが、中の男は軽く頷くだけで返事はしなかった。予想していた反応だったが、御者の男は客に見えないのをいいことに大げさに肩をすくめてみせた。
自分の肩に寄りかかるようにして眠る銀髪の少女の髪にそっと手を触れたあと、フライスは場所の窓から外を眺めた。舗装された道に出たといっても、風景はいまだ荒野から変わることはなく、道の遙か向こうに、うす茶色の町並みがうっすらと見えるだけだ。
傍らのサーシェスは、馬車に乗ってからずっとほとんど眠り続けるばかりだった。フライスに抱えられるようにして集落を後にし、光都に向かう馬車に乗るときも、サーシェスの意識はないに等しかった。フライスがサーシェスと再会して二週間、彼女が眠っているときに術法が暴発するようなことはもうなくなっていたが、それにしても彼女の睡眠時間は長くなるいっぽうであった。彼女があの集落にたどり着くまでの間に遭遇した数々の緊張を考えれば、二日も眠り続けることも当たり前であったが、目が覚めてからの彼女は意識がはっきりしないことが多く、ベッドに横たわってまどろんでいる毎日を過ごしてきた。
旅立ちは彼女の口からせがまれたものであった。体力がまだ回復していないのだからと心配するフライスを押し切り、サーシェスは自分から光都に連れて行ってほしいと頼んだのであったが、まるで自分が永遠の眠りについてしまわないうちにとでもいいたげな様子が、フライスをいっそう不安にさせた。
目が覚めたとき、この腕の中の少女が自分の知っている少女でなくなるかもしれない。そんな恐ろしげな妄想がフライスの思考を捕らえて離さない。
馬車は速度を落としてアートハルクの国境付近に構える検問所に備えた。五年前の事件以来、首都も主権も失ったアートハルク帝国は中央の軍隊に包囲されており、付近を通過する者たちの検問が行われていた。アートハルク戦争終結後、雨後の竹の子のようにわいて出たダフニスの残党たちを狩り出す目的でもあったが、ロクランが新生アートハルク帝国と辺境の多国籍軍に占領されたいまでは、さらにそれも厳しくなっているようだった。フライスは後ろ暗いことは何もなかったが、御者が緊張しているのが心を読まずとも伝わってくる。面倒だというのもあったが、やはり軍隊はどこでも忌み嫌われるものなのだろう。
停止した馬車の客席を中央の兵士がのぞき込み、フライスとその傍らで眠っている少女を品定めするように眺める。御者はイライライした様子で兵士たちに、客を光都まで送り届ける途中である旨を伝え、馬車の営業許可証を見せた。すぐに許可が下りて馬車が再び走り出したので、心なしかフライスもほっと一安心をしたのだった。
検問所の遙か後方に、薄い靄に包まれた塔のような建物が見える。アートハルクの首都ブライトハルクをかつて飾った、アートハルク一族の居城のなれの果てであった。当時の戦闘の激しさを物語るように、周囲のブライトハルクの町並みは、いまだに燃え尽きた炭のように無残な姿を晒している。そして、その白き壁の美しさを自慢としていた紫禁城《しきんじょう》と呼ばれた居城も、がれきに囲まれたまま復旧作業すらされず、放置されているのだ。周囲はもちろん中央の兵士に囲まれており、交代の時間なのか歩哨をしていた一団が別の一団と入れ替わるのが見えた。まるで反逆者の居城もなにもかもを許さず、ここに見せしめとして晒されているようだった。
ゆっくりと走り出し、徐々に加速している馬車の窓から、フライスは焼け落ちた紫禁城の姿を見つめた。かつてあの居城に、ダフニス・デラ・アートハルクと伝説の聖騎士レオンハルト、そしてその妹のガートルードが住んでいた。その華やかさはおそらく国民の誇りであっただろうに、三人を失ったこの場所も、いまは見る影もなくなっているのだ。
紫禁城、ダフニス、アートハルク戦争──。侵略戦争を止められず、仕えていた君主をクーデターで殺したとされるレオンハルトの、二重の罪がいまの紫禁城の姿となっているようだった。自分と同じ顔をしているにもかかわらず、髪の色も瞳の色もその生き方も対照的なあの男は、この紫禁城で何を考えていたのか。そして金髪のガートルードは、何を見たのか。
遠ざかるブライトハルクを窓から眺めながら、フライスは何か大切なことを思い出したような気がしたのだが、それがなんであるかをはっきりと認識することはできなかった。ただ、耳元で黒髪のガートルードが、なにごとかを囁いたような気がした。
──すべてが終わり、すべてが始まった場所──
馬車はただ、徐々に小さくなっていくブライトハルクを残して走り続ける。
「いやあ、本当に兵隊さんってのはどうしてあんなに横柄なんでしょうねぇ、まったく、何もしてないのに通りがかるもんはみな犯罪者だとでも言いたげな顔してやがる。腰に剣をぶらさげていりゃエライとでも思ってるんでしょうなぁ」
御者は検問所からずいぶん離れたところで肩を大げさに回し、今度も返事を期待していないのにそう言った。客が乗っていようがいまいが、おそらく彼は検問所を通り過ぎたらいつもそう口にしていらだちを発散させているのだろう。フライスは今度ばかりは適当にあいずちを打ち、御者に同意を示してやることにした。この非常事態では無理のないことだが、兵士たちが一般人にまで疑心暗鬼を募らせているのであればどちらも気の毒な話だ。
先日読んだ新聞では、光都にもきなくさい動きがあることが報道されていた。中央特務執行庁長官ラファエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム将軍が造反の疑いで身柄を拘束され、その後任となったマクスウェルは、アートハルクに占領されたロクランを救うため、ロクラン地方への派兵を検討しているのだとか。
戦争になるかもしれない。ロクランだけでなく、中央諸世界連合すべてを巻き込んだ、第二の汎大陸戦争に発展することも考えられる。光都はいま世論を無視していきり立っていることだろう。この数日間のうちに派兵が決定した場合、自分たちがたどり着くまでに武力衝突が起きようものなら、果たして光都にたどり着くことができるのだろうか。またたどり着けたとしても、この非常時に賢者ヴィヴァーチェに面会を取り次いでもらうことができるかどうか。いや、それよりも。
ヴィヴァーチェに会って、何かが変わるのだろうか。未来を知るという預言者の言葉で、納得できる運命が切り開けるとでも思っているのか。占いの類などフライスは少しも信じてはいなかったし、人の運命が、未来が、すでに決められたものだとも思いたくなかった。ヴィヴァーチェがサーシェスの失われた記憶を取り戻す術を知っていたとして、記憶を取り戻した彼女はどうなる。いまの〈アヴァターラ〉が記憶に封じられていた別人格を引きずり出し、まったく知らない少女に生まれ変わってしまうかもしれない。自分を愛したことも、あの金髪の特使の青年やロクランでのことをすべて忘れてしまっているかもしれない。記憶を取り戻したとたんに、彼女は火焔帝が予言したとおりにガートルードの元へ戻ろうとするかもしれない。そのとき自分はどうすればいい。彼女を救うというよりは、自分がヴィヴァーチェに救われたいだけなのではないか。
フライスは自嘲気味に笑い、眠るサーシェスの髪をなであげた。
そうだ。私は救われたいのだ。これまでのすべての罪を、誰かに赦してもらいたいのだ。そしてそれが赦されたあかつきには、甘んじて運命の輪に身をゆだねてもいい。人の運命がすでに決まっているものなのだとしても、自分の役割がすでに逃げることのできない茨道に立つことだとしても。
突然馬車が止まったので、フライスは物思いから引き戻された。窓から顔を出すと、御者が興奮した馬を必死になってなだめようとしているのが見えた。
「どうした?」
尋ねると御者は困ったようにフライスを振り返り、
「いや、なに、突然馬が足を止めやがってね、先に進もうとしないんでさあ」
フライスは遙か先の道に精神を集中させる。どんよりと湿気を含んだような、重苦しい空気が漂ってくるような気配が感じられた。術法が発動する前に感じられる波動にもよく似た、皮膚の粟立つような感覚がピリピリと全身を刺す。
「馬車をそこの大木に移動させるんだ。早く!」
フライスは御者にそう言ったが、御者はなんのことだかさっぱりという顔で首をかしげたままだ。
「死にたくなければ言われたとおりにしろ!」
怒鳴られた御者は、御者台から降りるといやがる馬をやっとのことで歩かせて、道ばたの大木の脇にまで馬車を待避させることに成功した。
「それから馬車の中に入ってこの娘を頼む。決して外に出るような真似はするな」
扉を開けてフライスは馬車を降り立ち、御者の襟首を掴んで引きずるようにして彼を馬車に押し込めた。御者はなにがなんだかさっぱりではあったが、黒髪の青年の様子にただならぬ気配を感じて身体を震わせている。
フライスは乱暴に扉を閉めてはるか前方を睨みつけた。一般の人間には、よく晴れ渡った空の下に整備された道が延々と続くようにしか見えていないはずだ。だが、少しでも術法に覚えのある者ならば見えないわけがない。ゆっくりと、大気の流れが渦を巻きながらその中心から発せられるどす黒い負の力に溶けていくのが。
何度か経験したことがあったが、これほど大規模のものを感じるのはまれなことであった。虚数空間への入り口をふさぐ結界が、広範囲にわたって張り裂けようとしている。あと数十分もすればその裂け目から、虚数空間に封じ込められた汎大陸戦争時代の魔物たちが、こぞって飛び出してくるに違いない。火焔帝の解放した炎の結界は、ロクラン大陸のあちこちで崩壊し始めているのだ。
十数本の大木が生い茂る小さな林にさしかかったあたりで馬車はようやく速度を落とした。先に斥候に出たレイザークが様子をうかがい安全であることが確認できたあと、ジョーイは大木の下まで馬の手綱を引いて馬車を寄せ、そこで馬たちの労をねぎらいながら首をなでてやり、ハーネスをはずした。
「あーー! クソ! もうまじでケツいてぇ〜〜! ったく、な〜にが楽しくて男三人で仲良く並んで御者台に座ってなきゃいけねえんだよ! しかもレイザーク、あんた場所取りすぎだっつーの!」
セテは馬車が止まるやいなや御者台から飛び降りると、腰を叩いたり背伸びをしたりしながらここぞとばかりに悪態をつきまくった。
光都へ向かうためにレイザークの住まいを馬車で出立してから数時間のことである。御者席ではセテとレイザーク、ジョーイの三人が腰掛けていたが、狭いことこのうえない格好で座り続けていたセテは最初のうちは我慢していたものの、次第に口数が減ってきたかと思うと、先ほどのような悪態ばかりをつき始めた。とにかくレイザークの巨体がセテの面積を圧迫してくるし、ジョーイはといえば馬の手綱を握っているためにセテの領空を激しく侵犯する。固い御者席の座り心地も、砂利道となれば脳天まで浸透するほどの勢いだ。セテの不満ももっともなことであった。
「いいから日が暮れちまう前に野営の準備だ」
レイザークはセテをギロリと睨みつけて一喝した。
「へいへい。ったく、人使いの荒いおっさんだよ!」
ぶつぶつ言いながらも、セテは荷台に積んであった道具袋をあさって、テントや薪、ランプなどの野営具を引っ張り出してきた。
王女の身の安全を図るために用意したこの馬車は、一見しただけではうずたかく積み上げたがらくたを積み荷とした荷馬車にしか見えないのだが、外側のがらくたの壁をどうにかして内側にくりぬいて二重壁にしたものだ。荷台の二重壁の内側には王女が長時間の旅に耐えられるようにベッドやらなんやらを運び込んでおり、もちろん外から彼女の姿は見えないし、一見がらくたに見えるゴテゴテ張り出した堅牢な壁が彼女の身の安全を保証している。当然、荷台に王女以外の男連中が入るわけにもいかず、むさ苦しい男三人は、狭い御者台に仲良く座って長時間の旅を楽しむはめになったのだった。
今夜はここで野営だ。王女を連れての旅路では、王女の身の安全の確保が最重要課題ではあったが、アートハルク帝国によるロクラン占領、加えて中央の多国籍軍による派兵の噂まであるとあっては、街の中も外もたいして危険性に変わりはない。高級な宿に滞在したとして、そこの従業員に金に目がくらんだ不遜な輩がいないとも限らない。身分の高い貴族、ましてやいま渦中のロクランから逃げおおせた王女である彼女をアートハルクに売り渡すなんてことがあったら、狭い宿での立ち回りは非常に厄介でもある。諸般の事情を考慮したうえでの最前の策が、野営を繰り返して光都にたどり着く方法であった。もちろん、レイザークのあばらやを出て数時間の距離にあるこの辺りでは、そういった高級な宿など皆無に等しいのであったが。
ポールと天幕を運び出したあと、セテは荷台の外側の壁を二回軽く叩き、もう一度今度は三回、強めに叩いた。合図めいたノックで巧妙に隠されていた出入り口の扉が少し開き、王女の不安そうな顔が覗く。
「今夜はこちらで……?」
アスターシャ王女の顔には、慣れない長旅での疲れがありありと見えた。体力は回復してきたとはいえ、こんな粗末な馬車で長時間、しかも人目につかないように閉じこめられたような状態で揺られていたのでは無理もない。
「だいぶお疲れのご様子……誠に申し訳ございません。すぐに天幕を張って準備をいたしますので、その後すぐに食事をして少しお休みになられたほうがいい」
「……そうね……」
アスターシャは軽くため息をつき、目を閉じた。彼女にとっては信じがたい蛮行が続いていたのだ、落胆するのにも疲れてしまっていたのだろう。レイザークのあばら屋はまだ屋根もあり、風呂やトイレ、水道も問題はなかったのに、この旅では大きな街にたどり着くまでの間、まず風呂にありつけることはない。食事も乾燥したパンや干し肉、少々の野菜スープなどの簡素なものだし、加えて、身分の高い女性にとっては屈辱以外のなにものでもない野外でのトイレだ。男連中にとっては造作のないことでも、女性一人でトイレに行くのはかなり勇気のいることだ。安全確認のために、必ず誰かを伴っていかなければならないのだから。おまけに、道中は窓もない荷台の奥の隠し部屋に軟禁状態とあっては、精神的に参るのも仕方のないことであった。
「お気持ちはお察しいたします。ですが、これも姫の安全を考慮したうえでの策と思っていただければ……」
曇るアスターシャの表情に、セテは困惑しながらも根気よく説明を続けるつもりだった。だが、それは王女が話を遮るために差し出した手のひらで中断されてしまった。
「中で少し休みます。食事はいりませんから。必要があったら呼んでください」
そう言うなり、アスターシャは隠し扉を閉ざしてしまった。
セテは大きな大きなため息をつき、長い前髪をくしゃくしゃとかきあげた。せいいっぱい見せようとした誠意が、こんなふうにむげに扱われることに大いに落胆したというのもあったし、正直言えばこの王女に対してどんな態度で接していいかよく分からない。サーシェスの話をして以来、あまり込み入った話を彼女とする機会には恵まれなかったため、彼女が何を考えているのかがさっぱりだ。王女をどこか安全な寺院に預けておくという選択肢もあったはずなのに、それは王女自身が反対し、光都までの厳しい旅路についていくと主張したのだ。それなりの覚悟があったはずなのだが、やはり高貴な生まれの彼女にこの旅は過酷すぎたのではないだろうか。もっと他にいい方法があったのではないか、そんなふうにどうにもならないことをぐるぐると考え巡らせては落ち込むことばかりだ。
ポールを突き刺し、手早く天幕を張りながらため息ばかりが出てしまう。脇ではジョーイが用意してきた鍋やらに水を張ったり材料を入れたりしていたが、レイザークは呑気に水筒に入れてきた秘蔵の酒をあおり、一人で一日の疲れを癒しているところだ。
「なんだ。ため息ばかりついて。王女サンはどうした。寝てるのか」
セテの様子にレイザークが声をかける。天幕を張り終わったセテはレイザークの隣に腰掛けながら小さく肩をすくめた。
「食事はいらないってさ。中で休むから起こしてくれって」
「そうか」
レイザークは気のなさそうにもう一口酒を含み、喉を潤す。セテはそんなレイザークの様子に鼻をならし、レイザークの持っていた水筒を横取りすると、一気にそれをあおる。そんなに飲むな馬鹿モンが、と小言を言うレイザークに水筒を返すと、
「あのさぁ、レイザーク。彼女、ホントに連れてきて正解だったのかな」
「しょうがないだろう。本人が言い出したんだから、ベゼルと一緒に置いていくわけにもいくまい」
「ベゼルもそうだけど……」
セテはあの小さな銀髪の少女のことを思い出し、口ごもった。一瞬、昨日の夜の出来事を思い出して心臓が高鳴るのだが、努めて平静を装い、ベゼルのことは頭から追い出すことにした。
「相当参ってるみたいだったぜ? そりゃそうだよ。あんなとこに閉じこめられた状態で、長時間も道の悪いところを揺られてさ、熱いシャワーだってないし、むさ苦しい野郎ばっかりに囲まれてさ、俺だったらトイレに行くのにむさい男についてきてもらうなんての、我慢ならねえもん」
「何が言いたい」
ギロリと睨まれ、セテは再び小さくため息をついた。
「だからさ、彼女、やっぱり途中のどこかの中立的な寺院に預けたほうがいいんじゃないかっての。俺たちは野営には慣れてるからいいけど、若い女の子にとっちゃ酷な旅だよ。まして俺たちはロクランの騎士団でもないんだから」
「なんだ。お姫サン、そろそろ我慢の限界か? お前に泣き言でも言ってきたか」
レイザークがニヤニヤしながら言うので、セテとしては彼女の尊厳を守ってやらなければならない。
「何言ってんだよ、クソオヤジ。彼女は何も言わないよ。なんか、一人で耐えちゃってるっていうかさぁ。むしろヒステリーでもなんでも、文句言ってくれるくらいのほうがこっちだって気が楽だよ」
「ほほう、珍しいこともあるもんだな。あのお姫サン、本国じゃ相当なじゃじゃ馬だったんだがなぁ。ルパート・ロクラン王はずいぶん頭を悩ましていたみたいだぞ、手に負えないわがまま娘だって」
「じゃ、じゃじゃ馬……!?」
およそいまのしおらしい彼女の姿からは想像できない言葉に、セテは目を丸くした。もちろん、サーシェスの友人だからということで想像できなくはないのだが。
「なんだ、なにも言わないってのはお前に惚れてんじゃねえのか。いいねぇ、モテモテだねぇ、青春だねぇ」
「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ!」
セテは酔っぱらいの聖騎士に向かって足を蹴り上げた。料理をしているジョーイまでもがニヤニヤしている。
「で? どうすんだよ、ホントに。俺たち三人だけで彼女を守るのだって限界あんだろ? やっぱり途中で……」
「お前なぁ。光都に行く理由ってのがなんだか、全然分かっちゃいねえな」
レイザークは腕組みをするとセテを睨みつけ、威嚇するように大げさに足を組んだ。
「まずひとつ、中央の勢力圏内まで王女を連れて行き、その身柄の安全を中央の元で確保する。次に占領下にあるロクラン内部で起きた出来事を王女の口から語ってもらい、ロクラン解放のための策を練る。そして現在水面下で進んでいるロクランへの派兵を阻止する。王女が生きて民衆の前に姿を現せば中央の士気もあがるし、なにより馬鹿なことを企んでやがる連中に釘を刺すことができる。だから、何が何でもアスターシャ王女を光都まで送り届けないといけないんだよ」
「分かってるよ、そんなこと。分かってるけどさ……」
分かっていても気が重い。王女をダシにしているような、姑息で卑怯なことをしているような気になるのは否めなかった。
「それに、だ。分かってると思うが、中央に戻ってから、お前も強制的に復職させられることもあるかも知れんから覚悟しておくんだな」
「それも分かってる」
休職中の特使とはいえ、この非常事態、派兵のために招集されることにはならないまでも、何らかの形で復職を余儀なくされる可能性は極めて高い。レイザークやその他の有志による〈黄昏の戦士〉はまったくの非公式な集まりで、もちろん給料など出るわけもない。レイザークは聖騎士団に、セテは中央特務執行庁に所属している以上、命令には従わなければならないが、それこそが〈黄昏の戦士〉としての情報収集源にもなりうる。レイザークがセテに期待しているのは、聖騎士団とは別の、より中央に近い筋からの情報源の確保であった。
「そうじゃないんだ、レイザーク、俺が心配しているのは……」
「なんだ。まだあるのか」
「俺にはあんたが、戦争したがってるようにしか見えない」
傍らで、パチパチと薪がはぜる音がした。風ひとつない空はすっかり帳が下り、わずかに残るアジェンタス山脈と空との境界線が溶けていく。
「……前にも言ったがな」
レイザークは再び水筒を開けて一口酒を口にする。
「これは戦争だ。何も実際の戦闘だけが戦争じゃない。情報戦はすでに始まっているんだ。世界中がわけの分からないまま、一部の利権を守ることに終始している馬鹿どものおかげで躍らされて疲弊していく。それを最小限に抑えるのも俺たち剣士の役目だ。人をぶった斬るだけが戦争だと思ってるなら、そのおめでたい頭をフレイムタイラントにでも食わせてやれ。俺たちはまず人をぶった斬る前に、本当の敵が誰なのかを見極めるんだ」
「本当の敵?」
セテはおうむ返しに尋ねた。レイザークはにやりと笑うと、
「まさかアートハルクだけが敵だと思ってやしないだろうな。本当の敵は味方陣営の中だ。アートハルク帝国のロクラン占領をいい機会に、利権にしがみつこうと躍起になってる連中、つまり俺たちの頭の上のほうが敵としてはたちが悪いってことだ」
「おーい、メシできたぞー」
間の抜けたジョーイの声が聞こえたので、レイザークとの会話はここで終わりだ。レイザークが立ち上がったので、セテも渋々その後をついて、たき火の前でニコニコしているジョーイのほうへ向かった。
本当の敵。確かにそうかも知れない。アートハルク帝国は、わかりやすい全民衆の敵だ。それを隠れ蓑に、いいように持って行こうと暗躍している連中は山ほどいる。ラファエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム将軍の身柄拘束がいい例だ。彼女を拘束しておけば、ロクランへの派兵をごり押しすることは容易だ。全面戦争にでもなったときの経済的打撃は大きいが、それにも増した経済効果で利益を上げられる軍需産業、そしてそれらを束ねる圧力団体による横やり、さらには大義名分のおかげで、中央でいくらでも英雄を生み出せるわけだ。
特使として必要な知識や行動規範をたたき込まれてはいたが、セテにとっては、世界中が牙をむいて自分に襲いかかってくるようなそんな恐ろしげな不安に胸を圧迫される。その大きな流れの中に囚われ、自分を見失わずにいられるかどうか、そんな自信は露ほどもない。セテはそう思った。
食事の最中は、気を利かせてくれたのかジョーイがたわいもないふざけた話ばかりをしてくれたので、先ほどまでの不安はずいぶん和らいだ。簡素な食事ではあったが、料理の腕前もまあまあのジョーイのおかげでずいぶん腹も膨れた。
セテは早々に食事を済ませた後、スープと固いパンを盆に載せ、馬車の隠し部屋で休んでいる王女のために持って行ってやることにした。そっと扉を開ければ、かすかな寝息が聞こえる。すっかり疲れて眠り込んでしまっているのだろう。セテは内心ほっと胸をなで下ろした。起きていないのであれば、彼女の憔悴しきった顔を見なくて済む。
隠し部屋の中は本当に真っ暗で、室内を照らすランプをひとつぶらさげてはいるものの、王女は早々に休むために灯りすら点けなかったのだろう。物音を立てずにそっと足を踏み入れ、ベッドの傍らにある小さなサイドテーブルがわりの木箱の上に盆を静かに置いた。
背を向け、頭から布団をかぶっている王女の背中は、本当に小さく見えた。サーシェスよりもずっと小柄で華奢ではあったが、改めて見るとまるで子どものようだ。相当に疲れているに違いない。
セテは食事のことを知らせようと声をかけるつもりであったが、そのまま彼女を眠らせておくことにし、この囚われの部屋から逃げるように出ようとした。そのときだった。
つんざくような悲鳴が夜の静寂《しじま》に響き渡る。外だ。
セテは腰の飛影に手を掛けて馬車を飛び降りた。同様に、レイザークとジョーイも悲鳴を聞きつけたのか、剣を片手に馬車まで走り寄ってくるところだった。
「なんだ!? お姫サンの声じゃねえか!? 外に出てたのか!?」
レイザークは険しい顔でセテに詰め寄る。
「え!? いま食事運んできたけど、中で寝て……」
「後にしろ! 声は林のほうだ! ジョーイ、ここを頼む!」
レイザークはセテの襟首を掴んで林に向き直らせ、ふたりは馬車の裏手の林まで駆ける。
闇に浮かび上がる白っぽい影がすぐに目についたが、それが王女のものだと認識できるまでに時間はそう必要なかった。セテとレイザークは一気に足を速めたのだったが。
「ああーーーー! もうっ! サイアク!! なによこれぇ〜〜〜っ! ひっどぉーーーーいっ!!」
なにやらひどく悪態をつく声が聞こえてきた。無事、なのだろうか。
「いやーーっ!!! 信じられないっ!! これってもしかして!? うっそーー!! もういやーーー!!!」
「姫! ご無事ですか! いったい……!」
駆けつけたふたりの声に、飛び上がらんばかりの声の主。花のかんばせを嫌悪感に歪ませたまま、穴に半分足を突っ込んだ状態で仰向けに倒れているアスターシャ王女の姿があった。
「いやーーーっ! こっち来ないでーーっ!! ホントにホントに信じられない!!! こんなところに肥だめ掘ってあるなんて誰も言わなかったじゃないのよーっ!!!」
怒りと羞恥で王女は泣き叫ばんばかりに怒鳴った。見れば、確かに王女の足は、到着してまもなく見つけた前の野営主たちが残していった肥だめに、見事に浸かっているのだった。用を足しに来たのだろうが、足を滑らせて落ちたに違いない。
「姫……」
レイザークとセテは同時に口を揃えたのだったが、安堵のため息の代わりに出てきたのはどうにも抑えきれない笑いであった。まずはレイザークが吹き出し、次いでセテが吹き出した後、レイザークもセテも笑いをこらえることができなかった。
「ちょっと! 笑ってる場合じゃないでしょ!? どうしてくれるのよ! どうしてここに肥だめがあるって教えておかないのよ!」
アスターシャ王女はたいそうな剣幕で怒鳴る。レイザークはヒイヒイ言いながらセテを指さし、
「お前……ほ、ホントにもう……なんでランプをここにおいとかないんだって……! 落ちて怪我でもしたら……ぶふっ!」
確かにセテの落ち度ではあるが、注意をしながらも笑い続けるレイザークのほうがたちが悪い。
「いや、ホント、これはこいつの落ち度ですから後できつく言っておきますよ。ほら、なにぼさっとしてやがんだ。姫を引き上げて差し上げろ」
セテはレイザークの脇腹に肘を当てて聖騎士をうずくまらせてから、申し訳なさそうにアスターシャに手を差し出した。アスターシャはたいそうむくれていたが、悪臭を放つ肥だめから脱出するのにセテの力が必要なので、ここはおとなしくすることにしたようだった。
「もう!! いいから向こう向いてて!」
アスターシャは脱出後にはセテの手を乱暴に振り払い、見事に汚れたドレスの裾を恨めしげに眺めた。セテとレイザークも、王女の身に起きたのが小さな不幸でよかったとほっと一息だったのだが。
「あれ? ねえ、じゃあいま馬車で寝てるのって誰?」
後ろからジョーイが不思議そうな顔で尋ねる。王女の顔がひきつったことに、セテもレイザークも気づくはずがなかった。
再びセテ、レイザークのふたりは剣を構え、馬車に静かに近づく。音がしないようにそっと隠し扉を開け、後ろからジョーイはランプを持っていつでも飛び込めるように身構えた。ベッドには確かに人の寝ている気配があり、その証拠に布団がこんもりと盛り上がっている。規則的な寝息も聞こえていた。レイザークが先にベッドに近寄り、セテに手のひらで合図を送る。セテはごくりと唾を飲み込み、飛影の柄を握りしめた。
「動くな! 両手を頭に当てろ!」
レイザークが布団をはぎ、同時にジョーイがランプを差し出した。
「うわあああああああ!!!」
ベッドの中の人影は悲鳴を上げて飛び起き、無条件降伏を示すように両手を頭の上に掲げる。だが、その場にいた三人がランプで照らされたその人物の顔を見て固まったのはいうまでもない。
「お、お、お前……」
ようやく声が出たそのときには、件の人物は詫びるように、ばつの悪そうな笑みを浮かべて頭をかいた。
「ベゼル!? なんでお前がここにいるんだよ!!」